雨上がりの午後

Chapter 354 「娘」の帰省(3日目:前編)

written by Moonstone

「−これで良し、と。」

 翌朝。朝飯を済ませて少し早い出発の準備。何故かと言うと、自由工作をめぐみちゃんの家まで運べるようにするため。工作のしやすさと箱庭にする範囲から、台座になる段ボールがひと抱えある広さになった。これだとこのまま車で持って行けないし、何よりめぐみちゃんが学校まで運べない。
 考えた結果、道のところで4分割することにした。道も多少カーブしたりしてるから、それに沿って慎重にカッターを入れる。大きさは当然違うが、大体同じくらいに4等分出来た。接着する部分が分かるように台座の裏側に矢印を書いて、各々プチプチのシートで包めば完了。

「プチプチだー!」
「まさかこういうところで役に立つとはな。」

 プチプチのシートは、引っ越しの時に使った。割れ物とかを梱包するのに使うから、と押し入れに仕舞っておいたものだ。なければ帰りに買いに行けば良かったし、このまま押し入れの隅で眠り続けるより、めぐみちゃんの役に立てた方がずっと良い。

「これならトランクに詰めても壊れたりしませんね。」
「1個1個はやっぱりそれなりに大きいから、学校に持って行く時はちょっと大変かもな。」
「頑張って持ってくから大丈夫。」

 めぐみちゃんは元気良く宣言する。場合によっては前編・後編みたいに2個ずつ持って行くとか、色々手段は考えられる、否、考えるだろう。この先はめぐみちゃんが京都の家に帰ってから進めるが、まったく心配は要らない。きっと素晴らしい、彩り豊かなミニチュアの町が出来るだろう。
 お出かけから俺と晶子を送り届けるために一度この家に戻るから、途中で万一にも壊れたりしないよう、4つに分割した箱庭は寝室に置いておく。その後、お出かけ準備を始める。とは言っても服は既に着てるから、晶子がキッチンからあるものを持ってくれば完了だ。

「お弁当は出来てるよ。」
「わーい!お母さんのお弁当だー!」

 めぐみちゃんは早くもテンション最高潮。晶子手製の弁当をめぐみちゃんが食べるのは今回が初。意外な気もするが、今まではどちらかの家で食べるか外出先の飲食店で食べるかのどちらかだった。今回お出かけに合わせて晶子が準備しておいたものだ。これも思い出作りの一環。

「お弁当を食べるのはお出かけした先だからね。」
「早く食べたいなー。」
「普段どおり元気に過ごしてたら、あっという間に昼ご飯の時間が来るぞ。」

 めぐみちゃんは、弁当を持つ晶子にべったりだ。弁当を持たなくてもそうか。戸締りと火の元を確認して家を出て、玄関に鍵をかけてから駐車場に。まだ朝と言える時間帯だから車の中は暑くなっていない。高島さんが運転席。俺は助手席。晶子とめぐみちゃんは後部座席。昨日と同じだ。
 車は大通りに入る。夏休みだからか車は多い。土日になると大型量販店の方向が頻繁に渋滞を起こすが、今日行くのはそれとは反対。大通りを暫く走ってインターチェンジにを通り、高速道路に入る。車は合流して軽快にスピードを上げる。

「この車はETC搭載なんですね。」
「仕事柄高速道路を使って移動することもありますから、ETCを付けてあるんです。」

 普段の生活だとインターチェンジどころか、そこへ続く道にも縁がない。料金所はETC専用のところもある。見たところETCの方が明らかに通過できるのが速かった。必ず停車しないといけない一般のゲートと違って、ETCはスピードを落とすものの停車する必要がない。時間差は当然出る。

「まだ車すらない生活ですから、ETCは何だか驚きますね。」
「ETCのカードは大抵クレジットカードに追加できます。…御主人はもしお持ちでないなら、早めに作っておくと良いですね。」
「クレジットカードは持ってないですが、どうしてですか?」
「信用情報の蓄積が、今後の生活を左右する確率が高いからです。」

 高島さんが解説する。現在、家賃やローン−携帯端末の分割払いを含む−の支払いをクレジットカード払いにすることが広まっている。クレジットカードの支払状況は信用情報として、CIC=信用保証協会など信用情報を蓄積する機関のデータベースに蓄積される。
 信用情報は、「幾ら使うか」ではなく「長く確実に」が重視される。信用情報がクリーン、つまり家賃やローンなどクレジットカードでの支払いを毎月延滞なく払い続けていることで、安定的且つ継続的な収入がある、つまりは社会的信用が高いとされる。実情との相関関係は高い。
 延滞は逆に信用情報には致命的。金を貸してもなかなか返さないとか焦げ付かせるとか、通常認識でもよろしくない傾向と見なされ、延滞回数が増えると信用情報ではブラックリストとして扱われる。こうなると、一定期間−主に数年−ローンを組んだりクレジットカードを新規に作れないなど支障をきたす。
 一方、現金払いのみで信用情報の蓄積が全くないのも、これまでの金融経歴が疑われる。履歴がない過去は何をしていたか分からないから、容易に金を貸せない、つまりローンを組んだりクレジットカードを作ったりするには金融機関が躊躇する。貸し倒れを防ぐため、今後はそういう傾向が強まると考えて良い。

「−今から信用を蓄積しておくわけですか。」
「そうです。クレジットカードの使用が躊躇されるなら、家賃など毎月の支払いのみをクレジットカード払いするようにして、カードは厳重に保管しておくのでも全く構いません。要は継続的且つ定期的に支払える能力があることを履歴として蓄積することが重要です。額はそれこそ10円100円でも良いんです。」
「いきなりクレジットカードを作れるんですか?」
「一番早いのは、銀行でローンを組むことですね。大抵銀行側が年会費無料若しくは1000円程度のクレジットカードを用意します。」
「ローンですか…。他には?」
「クレジットカード会社に直接申し込む方法もあります。最近はクレジットカード会社も新規顧客の勧誘に積極的ですから、年会費無料若しくは安価なクレジットカードが多数用意されています。無理にローンを組まなくても、それで全く構いませんよ。」
「今まで意識したことがなかったです。クレジットカードを作るのは私の方が良いですか?」
「御主人は堅実な企業にお勤めの正社員ですから、クレジットカード会社の審査にパスする確率が高いですね。」

 高島さんの解説を聞く。クレジットカード自体金を貸すこと−クレジットとは金銭ではなく与信のこと−だから、社会的に安定していると見なせる職業の方が審査を通りやすい。公務員、大企業の正社員がその例だ。また、正社員でも勤続年数が長い方がより確実。「安定的かつ継続的に支払いできる」という観点が重視されている証拠だ。
 20代の若年層をターゲットにしたクレジットカードは、これより審査基準が緩め。だが、正社員の方が有利なのは違いない。何度も申し込んでいると、複数のカードで金を引き出して逃亡すると見なされるなど、逆に審査が通り難くなる。確実にクレジットカードを作るなら、晶子より俺の方が有利だ。

「−このように、奥様には失礼に聞こえると思いますが、堅実な企業の正社員であるご主人にクレジットカードを作ってもらい、その家族カードを使うのが確実です。」
「いえ。夫の方が社会的信用が高いのは間違いないのは分かっています。その辺りは夫にお願いします。」
「今後、お子さんが出来て車を買ったり自宅を買ったりする可能性があります。その際大抵ローンを組むことになりますが、信用情報が長くクリーンである方が有利です。今の中から着実に信用情報を蓄積していけば十分です。」

 今後のために、というわけか。晶子の親族がらみで900万もの大金を得たが、車の額と比べると高級車1台分+α、住宅と比べると相当狭隘で古い物件とかでないと及ばない。新京市、特に鷹田入では戸建てだと中古でも半額にも満たないし、新築だと安くてどうにか1/3といったところだ。
 無論貯金はそれだけじゃないから、全部合わせれば安めの中古分譲マンションくらいならどうにか一括で買える。だが、その時点で現金はなくなる。再び溜まるまでの間、急な出費−それこそ晶子の妊娠や出産とかに対応できない。ローンは紛れもなく借金だが、借金を嫌って現金を枯渇させるのは本末転倒気味だ。
 家はまだしも、車は割と近い時期に必要になるかもしれない。晶子が妊娠したら万一のことを考えて通院はタクシーを使うのが良いらしいが、子どもが産まれたら診察や送り迎えの度にタクシーを使うのは割高だし、直ぐには行けない。予想しない発熱や事故に見舞われるのが乳幼児だ。

「不明な点があれば、遠慮なく私に聞いてください。」
「ありがとうございます。」

 恐らく俺1人ならクレジットカードを持つことは考えなかったし、頭の隅にも思い浮かばなかっただろう。それこそ気が変わって車を買おうとでもしない限り。だが、晶子が妻になって子どもも作る予定だから、現金の使い方も熟慮したり、私的所有の移動手段としての車を持つことも考える必要がある。
 家計は今も晶子と共通の口座に所定の額を振り込み、それ以外は貯蓄用の口座に入れて、臨時の出費時に相手に伝えてそこから出すようにしている。今の家に引っ越してから大きな出費と言えば、キッチンボードと今回用意した2組の布団くらい。あの900万は貯蓄用の口座で眠っている。
 子どもが出来て生まれるまでには主に医療、生まれてからは医療に加えて服や食品−何しろあっという間に大きくなる−など、何かと物入りだ。金銭面では今のところ問題なく対応できるが、この先車を買ったり家を買ったりするには、やはりどう考えても不十分。現金をある程度手元に残しつつ生活を続けて子どもを育てるには、ローンが現実的だ。
 そのローンを確実に組むには、今から準備しておくのが良いわけか。晶子が子どもを望む姿勢は変わらないどころか、めぐみちゃんと会う度に強まっている。出来てからでは遅い。別に常時使う義務はないそうだから、今の携帯の支払いをクレジットカード払いにすれば良いかな。
 車は順調に北上…するかと思いきや、小宮栄に入る前に渋滞に巻き込まれる。この時期なら仕方ない、むしろこの程度の渋滞ならましと思うべき、奈良島ワールドパークに入ろうとする車が引き起こす渋滞だ。

「あらら、渋滞ですか。」
「この近くの奈良島インターは、土日や夏休み冬休みの時期に必ずと言って良いほど渋滞を起こすんです。こちらに来る時にも巻き込まれませんでしたか?」
「行きはこのルートを通ってないですね。新京市の南側から来ましたから。」
「京都からだと、そちらの方が早そうですね。」

 渋滞に入ると当然ながらなかなか進まない。少し進んでは停まり、を繰り返す。だが、俺が憶えている限り、渋滞と言っても全く動かないほど酷いものは少なくなったように思う。少しずつだが着実に動いている。電光掲示板の「泊−奈良島 渋滞5km」の表記を見るとまだまだ先のように思えるが。

「高島さん、祐司さん。これ、どうぞ。」

 晶子が後ろから透明プラスチックのコップを差し出す。手に取るとひんやりした心地良い感触が伝わってくる。晶子が淹れて持ってきたスポーツドリンクだ。

「ありがとうございます。」
「ありがとう。晶子とめぐみちゃんは?」
「今準備中です。めぐみちゃん、もう少し待っててね。」
「はーい。」

 晶子は丁度コップにスポーツドリンクを注いでいるところ。コップはめぐみちゃんに手渡す。晶子は最後に自分の分を注ぐ。ただめぐみちゃんを甘やかすんじゃなく、優先順位があることを示せるあたり、晶子は母親になる心構えを進めているのを感じる。
 奈良島インターに近づくにつれて、問題の奈良島ワールドパークの様子が見えて来る。駐車場には車が犇めき、広大なプールにも人が詰まっているのが見える。これだとインターを降りても行き場がなさそうな気がするが、少しずつでも進んでいるところからして、駐車場はまだ余裕があるんだろうか。

「インターから先は凄い混雑のようですね。」
「車が入る余地があるのか疑問です。」
「動いているところからして、誘導されて多少遠いところにある駐車場に誘導されているんでしょう。インターを過ぎるまでもう少しですね。」

 車は少しずつ動き続ける。大半の車が左端の車線−この高速道路は3車線ある−に移動していくが、ここでなかなか入れないことが渋滞の要因の1つのようだ。どのみち車が多いんだから交互に入れれば結果的にスムーズに移動できると思うんだが、そうもいかないようだ。
 インター出口を過ぎる辺りから、車の移動スピードが再び上昇を始める。やがて車は軽快に走り始める。夜景のスポットでもあるらしい大橋を渡ると、港と隣接する工場地帯に入る。小宮栄に入った。目的地まではもう少しだ。
 高速から分岐して都心高速に入る。此処から市街地の上を走って一旦北上し、再び港に向けて走る。するとインターが見えて来る。車は此処で降りて一般道に入る。やや混雑してはいるが、渋滞やノロノロ運転というレベルじゃない。移動を続けて駐車場に入る。

「到着ですね。降りましょう。此処からは近そうですね。」
「此処からだと、歩いて5分くらいですね。」

 車を降りて、目的地まで俺が先導する。その後ろを晶子とめぐみちゃん−無論しっかり手を繋いでいる−、高島さんの順で歩く。弁当は俺が持つ。この駐車場からだとほぼ南に一直線。視界が開けて潮の匂いが漂ってくる。目的地の1つ、小宮栄ポートガーデンだ。

「わー!海だー!」
「めぐみちゃんは、海は初めて?」
「去年行ったけど、遠いから連れてってもらわないと行けない。」
「京都から海に行くには、大阪に出るのが一番行きやすいですが、そうそう機会がないもので…。」
「ちょっと泳ぐのは無理だけど、海は直ぐ近くまで見えるぞ。」
「見たい見たい!」

 京都は舞鶴あたり以外は内陸だし、めぐみちゃんの行動範囲はまだまだ小学校を含めたごく限られた範囲。決して透き通るような綺麗さとは言えないが、芝生が整備された臨海公園から見渡す海は、工場や港湾施設が織りなす複雑な形状と、行き来する大小の船が、泳ぎに行く海とは違う面白さを醸し出している。
 めぐみちゃんは、晶子の手を引っ張るように海との境界線である手摺のところまで行く。海特有の潮風が心地良い。かつてより水質浄化が進んでいて、悪臭とかはない。タグボートが彼方此方行き来していて、その合間をタンカーがゆっくり移動していく。工業地帯の港ならではだ。

「お弁当は、海を見ながらゆっくり食べようね。」
「楽しみー!」

 晶子が弁当を用意したのは、此処で食べるため。振り返ってみると意外なことにこれまで晶子の弁当を食べたことがないめぐみちゃんには、なかなか見られない景色を眺めながら晶子手製の弁当を晶子と一緒に食べる、これ以上ない機会だ。夏休みの思い出として最高の形だろう。
 公園を後にして、最初の目的地に改めて移動。ポートガーデンから西に少し移動すると直ぐ見えて来る。小宮栄市が誇る有数の規模の水族館、小宮栄水族館だ。港に隣接した巨大なドームがトレードマーク。入口では、巨大なシャチの風船(?)がお出迎えだ。

「シャチだー!」
「今日は本物のシャチを見られるよ。」

 めぐみちゃんの興奮が一気に高まる。今回のお泊りの打ち合わせで、めぐみちゃんが水族館に行きたいと言っていることが話題に上り、それならと紹介したのが小宮栄水族館。高島さんがPCで調べてめぐみちゃんに見せたら、絶対行きたいとの答えが返って来て、今回の予定に組み込んだ。
 京都にも近年水族館が出来たそうだし、大阪まで出ればこれまた有数の規模の水族館、海遊館がある。だが、まだ行動範囲がごく限られているから、遠足とかでないと行けない。小宮栄水族館は、このシャチがマスコットで見るところが多い。これもめぐみちゃんの夏休みの思い出には絶好の材料だろう。
 入管に必要なチケットは高島さんが買ってくれる。大人3枚と子ども1枚。シャチの写真とイラストが印刷されていて、シャチを前面に押し出しているのが良く分かる。入館口は混み合っているが、場所柄か子どもがチケットを持っている場合が多い。めぐみちゃんにも持たせてもぎってもらおう。

「めぐみちゃんが先頭になって、チケットをもぎってもらおうな。」
「はーい!」

 めぐみちゃんを先頭に、晶子、俺、高島さんの順で列に並ぶ。流石に入館者が多いのを見越しているらしく、列は事前に赤色のコーンで4つに分割される。俺達の列は入館口向かって左から2番目の列になる。列はのんびり歩く程度のスピードで前に進み、めぐみちゃんの順番が訪れる。

「おはようございまーす。」
「はい、おはようございます。チケットをどうぞ。」
「ありがとーございます。」

 ややたどたどしいながらも、めぐみちゃんはきちんと挨拶して、もぎられたチケットを受け取る。チケットはもぎられてもシャチの写真とイラストが全部残るようになっている。記念も兼ねているんだろう。裏側にはスタンプの欄もある。何処かにスタンプを押すところがあるな。
 再び晶子がめぐみちゃんの手を取って、水族館の見物を開始。まずは太平洋をイメージしたというエリア。見上げるほどの高さのガラスの壁の向こうで、マグロやイワシといったおなじみの魚が、群れをなして悠然と泳いでいる。

「お魚でいっぱいだ…。」
「小さい魚はああやってたくさん集まることで、大きな魚のように見せかけて、食べられないようにしてるのよ。」
「ずっと泳いでなきゃ駄目なんだ…。寝られないの?」
「魚は泳ぎながら寝られる。身体の半分ずつ交互に寝るってことが出来るんだ。岩の間とか砂の中とかに隠れて寝る魚も居る。」
「お魚って凄い…。」

 一生を水の中で過ごす魚は、全てが水に特化されている。呼吸もえらを介して水から酸素を取り込むし、睡眠も水の中でする。人間から見れば溺れそうなことでも難なくこなすが、魚からすれば、えらを介して呼吸も出来ない水の外で生きられる人間の方が異常だろう。
 同じ水槽の深いところを、ゆったりと泳ぐのがサメ。説明を見るとホオジロザメらしい。その腹にはお約束のようにコバンザメが張り付いている。より大きなホオジロザメには2匹のコバンザメが争うように張り付いている。

「サメは凄くゆっくり泳いでる。」
「大きくなると、他の魚とかに襲われる危険が少ないから、常に速く泳ぐ必要はないんだ。」
「小さい時は危ないの?」
「それは勿論。小さい時はサメも弱いから、他の魚の餌になり得る。」

 サメは体内で卵を孵化させて子どもを水中に送り出すが、小さい時はやはり他の魚に襲われる。サメの子どもが常に成長していたら、魚の多くが食べ尽くされてしまうかもしれない。大きくなったサメは、何体もの子どもの生き残り。他の魚と同じだ。
 別の水槽では、複雑な岩場で蟹が動き、ウツボが底に鎮座している。蟹の複数の脚が動いて岩場を移動する様子は、何だかロボットみたいだ。ウツボがじっと動かないから、その身体の色や模様も相俟って、岩の一部になったようだ。これも擬態の一種だろうか。

「蟹の動き方って面白い。」
「ロボットみたいだね。」

 やっぱりイメージすることは同じだな。蟹の脚の不思議なところは、先端が尖っているのに不思議とバランスを崩す個体を見ないところ。浮力は勿論あるだろうが、そればかりだと浮いてしまう。尖った先端の脚を器用に岩場や底に着けて移動するのは、実際のロボットでも難しいだろう。
 次は熱帯をイメージした巨大な水槽。中央がゲートのようになっていて、両側の水槽がそこで繋がっている。かなり水深があるらしく、上から差し込む光の中で、色鮮やかな魚がどちらかの水槽で優雅に泳いでいたり、ゲートの部分を滑らかに移動したりしている。

「熱帯魚だ!」
「熱帯魚は色が鮮やかで綺麗なものが多いよね。」
「他の魚に見つかったりしないのかな?」
「あそこにいるお魚みたいに、イソギンチャクやサンゴに隠れたりするから、そう簡単にはつかまったりしないと思うよ。」

 片方の水槽には、かなり大きなサンゴやイソギンチャクがある。そこにクマノミらしい魚が身を隠したりしている。イソギンチャクは触手に毒があるし、サンゴは入り組んでいるからある程度大きい魚は隙間に入れない。天然のシェルターってところだ。
 熱帯魚と言えば、今年の連休に晶子と石垣旅行に行った時、刺身で出て来たのを思い出す。刺身に青い皮の魚が出て来てかなり違和感を覚えた。青は普通の食事では出て来ない色だから、食べられるのかと一瞬疑問に思ったくらいだ。食べてみると何ら問題なかったが、初めて食べた人の勇気に感服する。
 見た感じだが、熱帯の魚は全体的に動きがのんびりゆったりしている。自然界には当然弱肉強食の不文律があるだろうが、それを感じさせない。環境が厳しくないからそうなるんだろうか?上からの光も穏やかに感じるし、無用な争いは野暮だと魚も感じるんだろうか?

「熱帯に住んでる人って、熱帯魚を食べるのかな?」
「んー。食べられるものだったら食べるんじゃないかな。」
「お母さんの言うとおりだろうな。日本で金魚を食べないのと同じと思えば良い。」

 日本は島国だからか、魚介類に関してはかなり貪欲な面がある。一見食べられるとは思えないナマコやウニも希少価値が高い食材だし、イクラや白子のように内蔵や卵も漏れなく食材になる。回転ずしの代替品では深海魚も使われているそうだ。問題なく食べられれば見た目がごつくても気にしないある種の寛容さがある。
 一見食べられそうにない、食用じゃなくてペットにするものだと思う動物でも、国や地域が変われば食用になる。この辺は食文化だし、取り過ぎたり稚魚まで根こそぎ取るような出鱈目な漁や飼育じゃなければ、他国や他人が干渉すべきじゃない。欧米の鯨批判なんてその最たる例だ。
 次の水槽は、浜辺や川や湖のエリア。ハゼや小さい蟹、金魚など小さめの魚が多い。砂岸にはハゼがのんびり甲羅干しをしている。石垣でもこういう風景を見たのを思い出す。敵が居ない場所だと、魚ものんびりするようだ。

「お魚が日向ぼっこしてる。」
「のんびりしてて可愛いね。」
「最初の水槽に居たお魚より小さいけど、こっちのお魚はのんびりしてる。」
「そうだね。生活する場所が違うと、生活の様子も変わって来るみたいだね。」

 常に移動する魚より観察しやすいのもあってか、めぐみちゃんはじっくり水槽を眺めている。時折ハゼがもそもそ動いたり、逆に砂岸に上がってきたり。やはり甲羅干しをしていた蟹が、そそくさと移動を始めて岩場の向こうに消えたり。魚ののんびりした生活が垣間見られる箱庭みたいだ。
 のんびりしたエリアだが、人はそれほど多くない。さっきの熱帯エリアの方がずっと多かった。見栄えとしては熱帯魚の方が色鮮やかな分良いし、次が深海、ジャングル、そして極限−北極と南極と有名どころを揃えたエリアがあるからだろうか。
 晶子とめぐみちゃんが特に見入った後、深海、ジャングルのエリアへと渡る。深海は先ほどとは一転して、暗く音のしないお化け屋敷のような世界。極端に口が大きいものや、宇宙からやって来たんじゃないかと思うような奇怪な形をしたものと、これまたお化けそのものの魚が出て来る。
 晶子はやや遠慮気味だが−極端な怖がり方はしないがお化けの類はあまり得意じゃないそうだ−、めぐみちゃんは興味深げに観察している。本もそうだったが、やっぱりめぐみちゃんはホラーものやお化け、サスペンスやミステリーといったものにかなり耐性があるようだ。ちょっと意外ではある。

「どうして深海のお魚は変わった形をしてるのが多いのかな?」
「相手を威嚇するためじゃないかな。自分は食べられるものじゃないぞ、って意味も込めて。」
「深くて暗いから見えないと思うけど。」
「深海って言っても全く光が届かないばかりじゃない。本当にごく僅かだけど光が届く深さなら、何とか見えるんだろう。少しでも光を多く取り入れるために目を大きくするか、いっそ目は必要ないと割り切ってしまうかは魚次第だけど。」

 お馴染みのチョウチンアンコウのように、身体の一部を光らせるものもいる。ただ、光が絶対必要という環境じゃない。光が全く届かない深さだと、もう目で見る必要はなくなるから、目が退化したものが目立つ。その代わり、僅かな食糧を確実に大量に手に入れるためか、口が極端に大きいものが出て来る。

「真っ暗で見えなくても、音は伝わる。それで獲物や敵の居場所を感じ取ってるお魚も多い。」
「音かぁ。どっちから聞こえて来たとか、分かるよね。」
「そうだな。音だと直接見えないから、敵に見つかり難い。真っ暗な世界だと光を出すより有利かもしれない。」
「暗いところでかくれんぼし続けてるみたいだね。」

 なかなか面白いたとえだ。かくれんぼをするには身を隠すのは勿論、音を出すのも発見されやすい。それから考えると、動かないものが多いのも理解できる。動いたらどうしても音が出やすい。暗くて見えない分、耳が発達しているものが多いから、音を出したら見つかってしまうリスクが高い。
 動かない方がエネルギーの消費が少ないのは勿論だ。元々深海は餌が少ないところ。だったら動かずに偶に上から降ってくる別の死骸や近づいてきた餌を食べた方が安全だし、獲物や敵に見つかるリスクが減る。これも環境に適応した結果だと考えるべきだろう。

「本もそうだけど、めぐみちゃんは怖いものが結構平気だな。怖いとか思わない?」
「本とかお魚とかは、怖いカッコをしてても叩いたりしないもん。」

 そう言われればそうだ。本の中に登場する人形の住民は本から飛び出してきたりしないし、目の前にいる奇妙な出で立ちの魚も分厚い強化ガラスを破って来ることはない。見た目は怖くても危害を加えられないという絶対的な安心感があることを、めぐみちゃんは分かっている。
 それは同時に、以前の辛い時期の記憶が今尚残っているということでもあるだろう。本の中の不気味な人形や奇妙なしきたりがある町の住人よりも、目の前にいる奇怪な形の魚より、まともに相手をせずに気分で詰ったり叩いたりする実際の人間の方が、よっぽど怖い。しかもそれが実の両親ときたもんだ。
 小さい時期のことなんてすっかり忘れてる、という向きもあるが、あまりにも人間の記憶を舐めくさっている。実は、幼児はしっかり記憶している。ただ、語彙が少ないから上手く表現できないだけ。それを度外視するから、幼児が大きくなってから手酷い復讐を食らう親が居る。

「それはそうだな。この先にもいっぱいお魚は居るぞ。」
「シャチも居る?」
「ああ。シャチもイルカもペンギンも居る。」
「それも見たい。」
「時間はあるから、此処もじっくり見て良いぞ。」
「んー。じゃあ、あっちのお魚も見る。」

 めぐみちゃんは深海魚の中でも馴染み深い、リュウグウノツカイやチョウチンアンコウを見る。リュウグウノツカイは体長の関係もあってか標本だが、めぐみちゃんは真剣に見入る。光が及ばない暗闇の世界でどう生きているのか、何をしているのか、色々想像を巡らせているんだろう。
 チョウチンアンコウも同様。こちらはそこにべったり張り付いてはいるが、口が時折動くから生きていると分かる。こちらもめぐみちゃんは興味津々。先端が淡く光っている、その名にある提灯のような部分が特に興味を引かれるらしい。魚が光るのって、意外にないことだな。

「ペンギンがいっぱいだー!」

 深海エリアからジャングルエリアを抜けて、到達した先でめぐみちゃんが歓声を上げる。広大な氷河を模した場所とプールに、ペンギンが多数居る。やっぱりこのエリアは人気らしく、人が多い。大きなものから小さなものまで様々なペンギンが、氷河の場所で佇んだりプールで泳いだりしている。
 客が多くなることを考えてか、このエリアはスタジアムとかの座席と同じ、見せる場所を中心にすり鉢状になった構造をしている。だから、めぐみちゃんの身長でも十分見える。ペンギンが身体を揺すりながら歩き、プールに飛び込むと一転して華麗に泳ぐ様子に、めぐみちゃんは目を見張る。

「泳ぐ時は凄くカッコいい!」
「泳ぎに適した身体の作りになってるからね。」
「ペンギンはお魚を自分で摂るんだよね?」
「そうよ。」
「泳いでる間、息が苦しくなったりしないのかな?」
「勿論、苦しくなって来る。ただ、それまでの時間は人間よりずっと長い。泳ぎに適した身体ってことは、身体の形だけじゃなくて、長い間水に潜ったり、寒いところでも大丈夫なようになっていることもある。」

 雀や燕といった飛ぶ鳥が、骨を中空にしたり極度に胸筋だけ鍛えられた形になっていたりして、空を飛びやすいように特化された身体をしているように、ペンギンは泳げるように特化されている。あの翼が飛ぶ鳥と同じだったら、まずあんなに速くスムーズには泳げないだろう。
 ペンギンも個性があって、忙しなく動き回るもの、泳いでいる時間が長いもの、ずっと佇んでいるものなど色々だ。ふと歓声が強まる。右の方に佇む大きなコウテイペンギンの腹の下から、小さい子どものペンギンが顔を覗かせたのが見える。それに一気に注目が集まったようだ。

「ちっちゃいペンギンだー!」
「可愛いねー。」

 まだ生まれて間もないようで、親と比べて相当小さい。何とか親の腹の下から出て来た−親が大きいらしい−子どもペンギンは、親のすぐ前に立つ。まだ足元がおぼつかなくて、しっかり踏みしめて立っている子どもペンギンを、親ペンギンが何かと気にかけている。
 動物園で飼われている動物が育児をしないことがよく言われる。水族館でもペンギンとかで起こり得るそうだが、あのペンギンはどうやらそんなことはないようだ。歩き出そうとした子どもペンギンを、親ペンギンが羽で覆うように引き戻し、そのまま抱きかかえる。「まだ一人でお散歩は早いよ」と言っているようだ。

「あの親子のペンギン、めぐみとお母さんみたい。めぐみを優しく抱っこしてくれる。」
「以前は抱っこして歩いたよね。振り返ってみると、あの頃よりずっと大きくなったね。」
「めぐみは大きくなったけど、お母さんはめぐみのお母さんだよ。」
「そう言ってくれると嬉しいな。」

 京都市内を回った時、晶子は頻繁にめぐみちゃんを抱っこしていた。あの頃から比べるとめぐみちゃんは見違えるほど大きくなって、晶子もそろそろ抱っこが厳しいかもしれなくなってきた。だが、まだまだめぐみちゃんは晶子に甘える。あの親子ペンギンになぞらえると、「もっと抱っこして」と子どもの方が甘えている格好か。
 めぐみちゃんは、甘える時期を逸した。偶然というか不幸中の幸いというか、そんな形で晶子と出逢ったことで、ようやく甘えられるようになった。何せめぐみちゃんが晶子と会えるのは年に3回程度で日数は1週間を超えるかどうか。甘えられなかった分を取り戻すにはあまりにも少ない。
 着実に心身は成長しているとは言え、甘えたいと言う潜在的な強い欲求を満たすことは出来ないでいる。めぐみちゃんがこのまま成長すると共に割り切るか、晶子と居る時はとことん甘えるかの何れかだろうか。それは…めぐみちゃん次第とすべきだろうな。
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