雨上がりの午後

Chapter 353 「娘」の帰省(1日目:後編〜2日目)

written by Moonstone

 9時を過ぎたことで、寝る準備に取り掛かる。俺と晶子からすれば早過ぎるくらいの時間だが、小学生のめぐみちゃんが居る。夜ふかし自体あまり良いもんじゃないし、一度生活リズムがずれるとめぐみちゃんが戻ってから苦労することになる。
 めぐみちゃんはお泊り出来ること自体が嬉しいようで、晶子にそろそろ寝る準備をしようと言われて、それまで没頭していた工作の手を直ぐに止めて、リュックから着替えを取り出す。先に高島さんに入ってもらっていて、その間に俺がリビングの机を片付けて2人分の布団を敷く。

「めぐみは、此処で寝るの?」
「そう。今回は高島さん−めぐみちゃんのおばあちゃんとめぐみちゃんに布団を用意した。」
「…お父さんとお母さんと一緒に寝たい。」

 やっぱりそう来たか。声は殺しても音は必ずするだろうから営みはしないが、今回は高島さんが居るし、どうしたもんか…。高島さんが風呂から出たら聞いてみるか。

「それじゃあ、お父さんとお母さんの御布団もこっちに持って来て一緒に寝よっか。」
「うん!そうしたい!」

 高島さんに確認するより前に晶子が提案してしまった。晶子に言ってもらうか。

「一度、晶子の方から高島さんに全員で布団を並べて寝るよう伝えてくれないか?」
「はい。」

 高島さんは、めぐみちゃんもそろそろ晶子と一緒でも1人で寝るようにすべきと思っているかもしれない。あくまで俺と晶子はめぐみちゃんの親代わりであって、親そのものじゃない。躾や方向性の根幹は高島さんの範疇で、俺と晶子はそれを踏み越えちゃならない。そういう一線は明確にしておくべきだろう。
 高島さんが風呂から出てリビングに来る。髪を降ろしてパジャマ姿に上着を羽織ったところは、とても孫が居るとは思えない。旧態の考え方だと、こんな若い女性が弁護士と聞いても信用しないだろう。信用しなければしないで、相応に痛めつけられる事態もあり得るわけだが。

「良いお風呂でした。ありがとうございます。」
「いえ。唐突ですけど、今回布団を此処に並べて一緒に寝たいんですけど、問題ないでしょうか?」
「ええ、構いませんよ。」

 あっさり承諾を得られた。となれば、俺がすることは1つ。俺と晶子の寝室にある布団を抱えて持って来ること。寝る場所は…俺が高島さんの隣だと晶子が内心気になるだろうから、壁に近い方から俺、晶子とめぐみちゃん、高島さんの順で良いか。

「一緒に寝るー!」
「その前にお風呂だね。着替えは出した?」
「うん!」
「お父さんに先に入っていてもらおうね。」
「はーい!」

 俺から入るのは、一緒に風呂に入る時の恒例。多分、初めて一緒に入った、俺と晶子の京都旅行の手順を無意識に踏襲してるんだろう。それは、めぐみちゃんが俺と晶子との思い出を本当に大切に心に留めている表れかもしれない。
 明日は午前中の涼しい時間は宿題を主に、午後は出かける予定だ。あの調子だと、俺と晶子は必要なら助言や手伝いをしたり、危険なことになれば止めるくらいでめぐみちゃんの集中力に任せれば良さそうだ。試行錯誤は確かにしていたが、めぐみちゃんは結構器用な方だ。工作は全く問題ないだろう。
 服を脱いで浴室に入る。俺が洗うのは大して時間はかからないのは何時もどおり。晶子とめぐみちゃんを必要以上に待たせたくないから、手早く洗って湯船に入る。少しして、ドアの向こうにうっすらと大小のシルエットが映る。頃合いを見計らって脱衣場に入ってきたようだ。

「祐司さん。もう入っても良いですか?」
「ああ、大丈夫。」
「分かりました。」

 短いやり取りだが、普段だと同時に入るのが常だからこれすら発生しない。先に俺が洗って−時々晶子に洗われる−湯船に入ってから晶子が洗うのは、晶子が特に髪を洗うのに時間がかかるから定型化している。冬場は待っている感に冷えるから、俺が湯船に入ってからにしてもらっている。

「失礼します。」

 ドアが開き、髪を纏めた晶子がめぐみちゃんを伴って入って来る。前をタオルで隠してはいるが、豊満な肢体は隠しきれない。晶子はめぐみちゃんを座らせて、背中を流して髪を洗ってやる。めぐみちゃんはこの時点で満足気。めぐみちゃんが他を洗って湯船に入って、晶子が洗い始める。

「お母さんは、何時もそうやって髪の毛を洗ってるの?」
「そうよ。お母さんは料理を作るお仕事をしてるから、毎日洗わないと油とかでベタベタするし、臭いもするから。」
「大変だね。」
「洗って綺麗になると、今日も1日頑張ったなとか思える面もあるよ。」
「そっかぁ…。」

 シャンプーで洗ってトリートメントを付けてすすぐのは変わりないが、晶子は髪が長いから丁寧にしないと絡まってしまう。絡まると髪を痛めるし、解こうとすると余計に絡まってしまう悪循環にもなりやすい。洗うにしても、シャンプーを髪に塗り込んで少しずつ洗うという手間のかかる作業が必要だ。
 冬場は湯船に浸かっていないと直ぐ冷えるから、時々湯をかける作業も加わる。俺が手を出せる範疇のものじゃないから、俺は季節を問わず見ているだけ。晶子は流石に慣れたものなのか、一連の作業をスムーズに進めていく。それでも時間がかかるのは当然。

「お母さんは、髪の毛切ったりする?」
「勿論よ。ひと月に1回美容院ってところに行って、長さを揃えてもらってるよ。」
「大変なんだね。」
「何でも今の状態を保つには、地道な努力や手間暇をかけることが大事なんだよ。」

 何気ない会話だが、晶子は大事なことを言う。現状維持は簡単なようだが、そのレベルによっては向上させるより難しい。周囲の環境が変わりゆく中で現状を維持するには環境への順応も必要だし、今の維持の方法を改善する必要だってある。晶子の髪も体形も、この家の快適さも、全て不断の努力の賜物だ。

「めぐみちゃん。お母さんも入るから、ちょっと下がっててね。」
「はーい。」

 めぐみちゃんが俺の向かい側に移動して、湯船の中央部分にスペースを開ける。そこに晶子が入る。俺から見て後ろ向きにゆっくりと。見えるものを全部見せて俺の前に後ろ向きに身体を沈める。湯船から湯が少し溢れ出る。晶子が俺に凭れかかり、めぐみちゃんが晶子に凭れかかる。めぐみちゃんの勢いで湯が勢いよく溢れ出る。

「わーい!」
「めぐみちゃんは元気だね。」
「一緒にお風呂が凄く嬉しい!」

 俺からは見えないが、めぐみちゃんはご機嫌な様子。少々手狭だが、晶子に背中と髪を洗ってもらい、湯船で後ろから抱きかかえられる体勢になれれば、めぐみちゃんは大満足だろう。俺はやや蚊帳の外だが、気分で晶子の身体を撫でていられるから、これはこれで良い。

「お母さんは、今もお父さんと一緒にお風呂入ってるの?」
「勿論よ。今日も1日お疲れ様って出来る大事な時間だから。」
「お父さんとお母さんは、今でも本当に仲良しなんだね。」
「そうね。それは一緒にお風呂に入ったり、ちょっとしたことでも話し合ったりすることを続けてるからよ。」

 晶子は「今」を保つために情熱を注いでいる。その結果向上したことは勿論良いとして、必ずしも向上を目標にはしていない。「今」を十分に維持できないのに向上は出来ない。俺との間に築いた夫婦という関係やこの家という環境を保つために、晶子は最大限の努力をしている。
 晶子と初めて一緒に風呂に入ったのは、奇遇にもめぐみちゃんと出逢った日の夜。それまでは遠慮のような躊躇のような、そんな思考が二の足を踏ませていた。それからはずっと一緒に風呂に入っているし、石垣では「これは超えない」と思っていたハードルも超えるに至った。
 晶子はスキンシップを重視するから、俺が誘ったり自分の入浴中に入ってこないことにやきもきしていたのかもしれない。その点で、晶子はある意味めぐみちゃんを預かったことを利用したと言える。結構したたかだと思うが、それで不満がない俺は晶子のしたたかさを嫌に思うことはない。
 ある意味めぐみちゃんを利用していると言えば、こうしてめぐみちゃんと過ごすことで、子どもを育てることの練習をしていることもそうだ。最初の別れ−こういうと大袈裟かもしれないが−の時は悲壮感に溢れていたのに、以降は「次を楽しみに」という感じになっているのは、晶子の中でめぐみちゃんに対する心境の整理が出来たためだろう。
 子どもが欲しいが自分の状況が整っていないことと、めぐみちゃんのあまりの境遇に接し、めぐみちゃんの母親になれるならなりたいとも思っただろう。だが、めぐみちゃんの境遇が大きく改善し、めぐみちゃんが笑顔に溢れるようになって成長も著しくなり、こういう機会に親代わりとしてめぐみちゃんの成長に触れておきたいとある意味割り切れるようになった。
 その分、めぐみちゃんとの触れ合いで得られる経験を、自分の子どもを育てる際に活かそうと考えている。十分な語彙がない分齟齬が生じやすいコミュニケーションをどうするか、子どもの理解を助けつつ自主性を養うにはどうすれば良いか、色々なことを学んでいる。
 晶子は元々子どもが好きだが、好きだけでは子どもはまっとうに成長できない。一方的に「好き」を押しつけていたら、それは過干渉に繋がる。子どもの側も親に甘えられる時は甘えたい子と、自分の好きなことに熱中したい子など色々ある。子どもの特徴を把握して適切に接することが肝要だ。
 子育ては本当に難しい。一方で子どもの成長の過程を見られるのは感慨深い。何時か晶子との子どもが出来たら、本来の親になるべく模索する日々になるだろう。その中で子どもが成長していく過程を見られれば、それで十分だと思う。それ以上を子どもに望むと碌なことにならないもんだ…。

「そろそろ寝よっか。」
「はーい!」

 晶子から読書感想文の題材として借りた「謎町紀行」を、晶子から借りた辞書を片手に一心不乱に読んでいためぐみちゃんが、本に栞を挟んで閉じる。読むスピードは遅いが、まだ小学3年生には読めない漢字も多いからやむを得ない。むしろ、辞書を片手に熱心に読めることに感心している。

「この本、出て来る町や人は変わっててちょっと怖いけど、面白い。」
「たとえば、どんなところ?」
「んと…。町に行った人がその町の人に会うと、必ず大声でロボットみたいに『規律の町にようこそ』って答えるところ。」
「これから色んな町や人が出て来るからね。これからどうなるかは、めぐみちゃんが読んでいくと分かるよ。」
「凄く楽しみ。」

 全員が布団に入る。並びは壁に近い方から俺、晶子とめぐみちゃん、高島さん。普段俺と晶子が使う布団は俺が使い、晶子は今回用意した布団でめぐみちゃんと一緒に寝る。めぐみちゃんの動きは素早く、晶子が掛け布団を開けて促した直後に潜りこんで横になった。

「おやすみなさーい。」
「はい、おやすみ。」

 俺が部屋の電気を消す前に、めぐみちゃんは寝息を立て始める。晶子にくっついて寝ているところは、まだまだ甘えたい盛りだと思わせる。これも、めぐみちゃんにとって日々の糧になっているんだろう。今日も宿題を頑張ってその締めくくりに晶子と一緒に寝る、と。

「もう寝たんですか。めぐみの寝つきが凄く良いですね。」
「今日1日頑張ってましたし、長時間車に乗っていた疲れも重なったんだと思います。」
「明日も朝から賑やかだと思いますが、めぐみをよろしくお願いしますね。」
「はい。勿論です。」

 やはりやや緊張気味ながらも明快に晶子は答える。会う時はまっしぐらに駆け寄って抱きつき、機会があれば膝の上に乗り、風呂と寝るのは必ず一緒。こんなに甘える様子は自宅では見られないという。本当の両親との関係は修復されているとは言え、幼少時の辛い記憶を解消するには至らないことも分かる。
 めぐみちゃんの眠りを阻害しないために、俺は部屋の電気を消す。晶子はめぐみちゃんを軽く抱き寄せている。親代わりと区切りをつけているとは言え、晶子にとって今のめぐみちゃんは間違いなく可愛い盛りの愛娘そのもの。自分の傍でぐっすり寝るめぐみちゃんを見て感無量だろう。
 俺はサポート役に徹する。これは以前から変わらない。もしかすると、否、多分、子どもが出来ても子どもに対しては晶子が主で俺が従になるだろう。その方が子どもにも良いだろう。特に乳児期は子どもと接する機会が多いのは母親だし、母親が手が回らないところを父親がフォローするのが良いと思う。
 明日もめぐみちゃんを中心にした1日になる。小学生の頃は長く感じた夏休みのうち3日間を、この家を拠点にして過ごす。多分、否、きっとこの3日間を楽しみに頑張って来ためぐみちゃんが、夢のような時間を過ごせれば良い。今、めぐみちゃんはどんな夢を見てるんだろうな…。
 普段の倍の人数が食べる朝飯が終わる。普段の倍の食器が並ぶ机はちょっと手狭だったが、めぐみちゃんは朝から元気いっぱい。ご飯もおかわりして大満足。ぐっすり寝てたくさん食べてやる気満々だ。この溢れるようなパワーはまだ小さい身体からは想像もつかない。

「御馳走様でしたー!」
「ありがと。全部綺麗に食べたね。」
「凄く美味しかったから!宿題頑張る!」
「じゃあ、机を片付けないとな。」

 食器を片づけて洗うのは俺の役目。この間、晶子はめぐみちゃんを力いっぱい甘えさせる。これも様式美の1つだろう。晶子は今日も朝起きて普段の倍の料理を準備したから、食器の片付けを終えるまでの時間、めぐみちゃんを膝の上に乗せて母親気分にどっぷり浸って疲れを癒すのが良い。
 食器を終えてリビングに戻る。めぐみちゃんは晶子の膝の上に乗ったまま、俺が淹れた茶を飲む。小学校3年だからジュースが良いかと思いきや、食後は茶を飲むようにしているという。高島さんが実質的な保護者になっていることで、かなりしっかりした躾をされているのが分かる。

「何をする?」
「工作がしたい。本を読むのは1人で出来るけど、工作は出来ないところを手伝ってほしい。それは今しか出来ない。」
「分かった。皆見てるから頑張ってね。」
「うん!頑張って綺麗に作る!」

 めぐみちゃんは、リビングの片隅に置いておいた工作を持って来て、机の上に置く。画用紙やカッター、糊や地図も続々持って来る。下敷きの段ボールに画用紙を広げて画用紙にカッターを入れる。その表情はすっかり真剣なものに様変わりしている。大人は怪我をしたりしないように見守っていれば良い。
 町は少しずつ、しかし着実に広がっていく。昨日の感覚をしっかり憶えていたようで、写真を見て画用紙を選び、慎重にカッターを入れて壁と屋根を作り、糊で貼り合わせて形を作り、段ボールの敷地に貼り付けていく。遠目で見るとステンドグラスのようにモザイク状に彩られた様子が綺麗だ。

「お母さん。絵の具使って良い?」
「勿論良いわよ。お水、汲んで来ようか?」
「ううん。自分で汲む。」
「じゃあ、入れものを持ってついて来て。」
「うん。」

 席を立った晶子に続いて、めぐみちゃんは立ち上がって昨日買った小さい水入れを持つ。洗面所で十分汲める大きさだが、洗面台はめぐみちゃんにはちょっと高さがある。万が一にも怪我をしたりしないように晶子が付き添う。やや過保護かもしれないが、万が一の事態は可能な限り未然に回避するに限る。
 程なくめぐみちゃんは水入れを持って戻ってくる。元々水彩絵の具は学校で買ったそうだから、必要最小限のものだけ今回購入した。水入れと絵の具を溶くための小さい皿、そして筆と2種類の緑の絵の具。1色だとちょっと少ないが複数あると建物と比べて五月蠅くなる。濃い色と明るい色の2種類に絞った。
 めぐみちゃんは木や森を作り始める。綿を適当な大きさに千切って水彩絵の具で色を付けて、糊で所定の場所に貼り付ける。ただそれだけだが、絵の具を水で薄め過ぎても濃過ぎても色はうまく乗らない。大きさにも依存するから、なかなか難しい。めぐみちゃんは何度も試行錯誤する。

「めぐみちゃん。木を乗せるのは完全に乾いてからの方が良いよ。」
「あ、うん。」

 ようやく色づいた木を乗せようとしたところで、晶子がやんわり止める。水を吸っているから乾かさないと台座の段ボールに染み込んで色が広がる。どうしてもそういう部分は斑になってしまう。完全に乾いてからの方が作業もしやすいし、折角の綺麗な町に色斑が出来なくて済む。
 めぐみちゃんは木や森を幾つか作って−写真を見ると彼方此方に点在している−、乾かす間に家を作る。白い大きな建物は…小学校だ。正月にめぐみちゃんに案内してもらった記憶が蘇る。出番を待っている木や森は、途中の公園に貼る、否、植えるんだろうか。
 暫く町づくりを続けた後、めぐみちゃんは乾かしていた木や森を触って確認する。湿り気がないのを確認して、糊を付けて慎重に貼り付ける。小さいものは家の木として。大きいものは公園とかにある森として。彼方此方にあって大きさが異なるから、色を付ける分家と同等以上に手がかかる作業だ。
 画用紙と明らかに質感が異なる綿が加わったことで、町がより見栄え良くなる。画用紙の緑はあまりないし−マンションらしいところが緑なのは緑化だろうか−、絵具の色とは全く違う。それが彼方此方にちりばめられたことで、良いアクセントになっている。

「ちょっと休憩する。」
「よく頑張ったね。」

 2時間ほど続けたところで、めぐみちゃんが作業を中断する。目を見張るような集中力だ。小学校の授業は45分とかだから、3時限分近くを連続で乗り切った計算だ。これだけの集中力は、俺が同じくらいの年代ではなかったように思う。

「飲み物持って来たよ。」
「わーい!」

 キッチンに行っていた晶子は、4人分の飲み物を持って来る。バナナと牛乳をミキサーで混ぜて冷やした、晶子手製のジュース。めぐみちゃんは晶子から受け取ると、早速ストローでぐっと吸い込んで飲む。

「バナナミルクだね!美味しい!」
「ありがと。ずっと頑張ってたから喉乾いたでしょ?」
「疲れたな、って思うまであんまり感じなかった。」
「凄く集中してたから、何時休憩にしようかな、って思ってたよ。」

 めぐみちゃんの作業の間、大人は晶子が水を汲むのを監督して木を乗せるタイミングについて助言しただけ。1人黙々と作業を続けた。休憩も約3時限分続けたことによる疲労を感じてのことだろうから、ごく自然なもの。休憩なしで出来る方がむしろ異常と思うべきだ。

「木を綿で表現するのは、思ったより自然な感じになるものね。よく思いついたわね、めぐみ。」
「昨日買い物に行った時、もこもこした感じを出すにはどうしたら良いかな、ってお母さんと相談したら、綿を使ってみたら、って言われた。」
「そうだったの。奥様はデザインや造形のセンスもありますね。」
「私は提案しただけですから。」

 晶子は恐縮した様子で答える。だが、晶子には俺が到底及ばないセンスというものを持っているのは事実だ。木も、俺なら緑の画用紙を軽くくしゃくしゃにしてみたらどうか、となっていたところだ。町のステンドグラス的な雰囲気は壊さず、木らしさとアクセントを同時に加える要素として綿を思いつくのは、センスあってこそのものだ。
 町は1/3くらい出来た。どんどん町らしくなって来ている。小学校も「らしく」出来ているし、小学生の自由工作の域を超えている感すらある。今は出来栄えについてどうこう言うより、まずはめぐみちゃんが1人で工夫してやり遂げたことを褒めるべきだろう。出来栄えの評価が先に来るようじゃ、介入したがる親と変わらない。

「御馳走様ー!美味しかったー!」

 冷やし中華をメインにした昼飯もめぐみちゃんは元気良く平らげた。元気良く食べる様子は見ていて気持ちが良い。

「お母さんの料理、凄く美味しいね。」
「ありがと。全部食べてくれて嬉しいよ。」
「お店でも冷やし中華はメニューに入っているんですか?」
「はい。違和感があるかもしれませんが、意外と年代問わず注文が多いです。」

 冷やし中華と聞いてイメージするのは中華料理店。実際、会社近くの中華料理店にも「冷やし中華始めました」の張り紙が出ている。喫茶店である晶子が働く店と冷やし中華はミスマッチのようにも思うが、冷やし中華は意外と作るのが大変だし、他の料理が美味いから此処でという要求があったそうだ。
 冷やし中華は好評で、塾通いの中高生もかなり注文するらしい。ボリュームは定食ものに比べると劣るから腹が減らないかとも思うが、何しろ暑い季節だから食欲が湧かない、だけど腹に何か入れておきたいというような場合にピッタリらしい。色々な事情があるもんだ。
 俺が食器を片づけて、食休みがてら午後からの相談。丁度気温が高くなってくる頃。温度を測るために外出するのは必要だが、無暗に歩くと熱中症の危険がある。今日も今日とて気温は35℃超えの予報。雲1つない快晴という空は、こういう時は手強いハードルだ。
 略図を描いて回るところを決める。屋外で測定する場所は、まず徒歩圏内にある公園の砂場と木陰。少し南に行ったところにある川を拠点に、直射日光が当たるアスファルトと川岸。その近くにある城址公園の森。そして大型ショッピングセンターの屋外駐車場。行動範囲はかなり広いが今回は車がある。その点はクリアできる。

「木が多いところと少ないところ。直射日光が当たる場所と当たらない場所。こういう区別がはっきり出来る場所が良いな。」
「緑のカーテンの効果を調べるには、そのような比較が必要ですね。良い案です。」
「比較対象が簡潔で明瞭ですね。」
「お父さん、凄い。」

 川縁(かわべり)も含めたのは、水が近くにあることの効果を調べて比較対象に含めるため。プールや海でも良いが、ちょっと距離があるし、こういう展開を考えてなかったから、プールや海の誘惑にめぐみちゃんが屈した時の対策が出来ない。川は増水してなければ広場になるから、散策しながら測るには丁度良い。

「温度を測る他に何をすれば良い?」
「ノートとかに記録しておくのは、今日の日付と天候と測った時間だな。あと、測る時の条件は同じにしておくこと。」

 理由は記録の捏造がないことを証明するためと、比較の際に必要なため。測定日の環境の記録は、検証の際に必要になる。その記録が本当かどうかは天候の推移を調べれば分かるし、その記録が実際の推移と合わないと、測定結果自体が存在しなかったとされても仕方がない場合がある。
 測定条件を同じにするのも、測定におけるイロハだ。温度の測定の仕方を決めておいて、それで統一して全ての個所を測定しないと、異なる測定手法での結果は比較対象にならない。今回は緑のカーテンの効果を調べるのが目的だから、何故緑のカーテンが有効かを説明出来る材料に不備があってはならない。

「温度を測るのって、どうしたら良い?」
「たとえば、アスファルトの温度を測るなら、めぐみちゃんがしゃがんだ姿勢で温度計をアスファルトの上に翳して、次に温度計をアスファルトに当てて測るって流れだな。測り方をきちんと決めてそれを守れば良い。」
「測るのって大変なんだね。」
「単に彼方此方測るんじゃなくて、測った結果を基に考えて結論を出すのが大事だから、その基準になるものがあれとこれで違うってことは駄目なんだ。」

 こういったことはなかなか学校では習わない。俺もようやく大学の学生実験で分かったくらいだ。しかもあまり説明がない状態からいきなり求められるから、長時間かかった測定が最初からやり直しってことにもなった。今考えると当然だが、当時は愕然としたもんだ。
 審査や成績云々じゃなく、測るのはいい加減じゃ駄目で、測定自体が非常に重要な基準になることだと感覚で良いから理解しておくことが重要だ。その手順は俺が適時教えて、めぐみちゃんは測定そのものに専念出来るようにする。全て自分で考えて実行するのはもっと後で良い。

「測るのも大事だけど、帽子と水筒は忘れないようにな。今日も相当暑くなりそうだし。」
「お母さんに用意してもらうから、絶対忘れない。」
「水筒は準備してるけど、帽子はめぐみちゃんが被らなきゃ駄目だよ。」
「はーい。」

 今日も朝からエアコンがフル稼働している。間違いなく35℃超えの猛暑日だ。測ることに熱中するあまり熱中症にでもなったら、今回の思い出が台無しになる。めぐみちゃんは家から水筒と帽子を持って来ていて、水筒には晶子が特製のドリンクを入れて冷やしている。あとはめぐみちゃんが帽子を被るだけだ。

「終わった!」

 ノートに測定結果を記録し終えためぐみちゃんが、顔を上げる。最後の測定地点、大型ショッピングセンターの屋外駐車場での測定と記録が終わった。直射日光の影響を避けるために陰になる場所を選んだが、アスファルトは触れると「熱い」と感じて手を引っ込めるレベルだった。
 場所による温度差は明瞭に出た。体感温度でも城址公園の森の中は涼しく、アスファルトの上は鉄板の上に乗せられているようだった。めぐみちゃんは、移動こそ車だったが、測定は全て自分で実行した。汗を拭き拭き水筒の特製ドリンクを飲み飲み、最初から最後までやり遂げた。

「よく頑張ったな。あとはこれを纏めたりすれば良い。」
「遠足みたいで面白かった。暑かったけど。」
「暑かったよね。いっぱい汗かいたから、お家に帰ったら着替えようね。」
「はーい。」

 屋外駐車場は店舗に割と近いせいか、常時満車状態。場所を探すのもひと苦労した。駐車場でもスピードを出す車が居るから、事故を避けるため場所が決まるまで晶子が手を繋いでいた。小さい子から目と手を離さないのは、万一の事故を防ぐためにも必要だと痛感した。
 車で移動したとはいえ、それぞれの測定場所で測定に適した地点を選ぶために結構歩いた。同じ移動距離でも、大人と歩幅が違うめぐみちゃんにとっては、倍以上の距離を歩いたに等しい。だが、めぐみちゃんは終始元気そのもの。エネルギーに溢れているという表現がぴったりだ。

「駐車場って、凄く暑いよね。だけど、おばあちゃんのもそうだけど、車は壊れたりしないね。」

 車に乗って動き始めて程なく、めぐみちゃんが言う。

「車もお日様に照らされて熱くなってる。此処も入った時暑かった。車に小さい子どもを残さないようにって放送もあった。だけど、車は熱くても壊れたりしないのが不思議。」
「車を動かしたりするところは、人間より暑さや寒さに耐えられる温度の範囲が広いからな。」

 今の車はマイコンなくしてエンジンも掛けられないし、キーレスタイプだと鍵すら開けられない。マイコンをはじめとするICは下はマイナス、上は80℃あたりまで動作が保障されている。勿論、それだけで全ての動作が保障されるわけじゃない。温度差があっても動作するよう細心の注意が払われている。
 人間は勿論、生物は何の対策もしていない状態で問題なく居られる温度範囲は意外と狭い。暑かったら飲み物を飲んだりエアコンを付けたり、ドアを開けて車から出たりといったことが出来ない乳幼児が炎天下の駐車場で犠牲になる。だが、どうもその辺が想像すらできない輩がいる。

「めぐみくらい大きくて自分で考えて行動出来るなら良いけど、赤ちゃんや保育園幼稚園だとそれが出来ないの。だから暑いところに駐車している車にそういう小さい子どもを置いていくと大変なことになるわけ。」
「そっかぁ。」

 高島さんからすれば、過去の娘夫婦、すなわちめぐみちゃんの本当の両親がよくめぐみちゃんをパチンコの駐車場に放置しなかったものだと内心冷や汗ものだったかもしれない。その時は多分高島さんに預けたりしていたんだろうが、預けるという知恵が働くだけましとも言えるか。
 めぐみちゃんが言ったように放送で車内放置への注意喚起が何度もなされていたし、広大な駐車場も警備員が巡回していた。夏場に車のダッシュボードに何か置いておくと高温で変形したりするくらいなのに、車内に乳幼児を放置したらどうなるか分からないんだろうか。その程度の頭でも子どもを作れば親になれるってことか?
 案外、それくらい何も考えない方が簡単に子どもを作れるのかもしれない。子どもが出来ることと親になることは別の話。それは…めぐみちゃんと出逢った時にめぐみちゃんが陥っていた境遇に始まる一部始終に接して痛いほど分かっているつもりだ。
 何の考えもなしに子どもを作るだけならまだ良いが−子どものことはこの際度外視−、この手の輩は自分に都合の良い知識を更に自分に都合よく解釈して適用する。「地域の子育て」とか賠償とかそういうことだ。概ね石垣で晶子を付け狙った連中と行動や思考が重なるのは偶然じゃない。
 「悪貨は良貨を駆逐する」という格言は、通貨より人間や社会の方が適用されやすい。大声で先に自分の正当性を叫んだり、ごり押しした方が勝ちやすい。それが冤罪でも知らんぷりなり逆切れなりでやり過ごせるのが実情だ。結局そういう輩が蔓延るようになる。
 親になることは勿論、親を自称するその手の輩が居る中で子どもを育てられるんだろうか?俺は晶子と子どもを守れるんだろうか?守らなきゃならないが、自分の都合で解釈した知識をごり押しされたら、それが優先されることすらあるのが実情だ。痴漢やDVの冤罪なんてその最たるものだし、今も通勤が一番神経を使う。
 今の家は子ども家庭OKとある。それはつまり、子どもが居る家庭の入居は断る賃貸住宅もあるということだ。めぐみちゃんの一件に触れたりするうちに、そうなるに値する出来事があったからだと推測するようになった。居直りごり押しの連続じゃ、管理業者や大家も貸したくなくなる。
 子どもを育てるには、周辺の環境も入念に調べた方が良さそうだ。子どもが小さいうちは主に晶子の負担が増えるし、学校に通うようになったら通学の問題があるからそう簡単に引っ越し出来ない。子どもを育てるのは金の問題だけじゃない難しい問題に取り組む必要があるんだな…。

「御馳走様ー!美味しかったー!」
「ありがと。綺麗に食べたね。」
「お母さんは、本当にご飯作るの上手だね!」
「美味しいって言われて全部食べてもらうのが励みになってるからね。」

 早くも今回のお泊りでは最後の夕飯。晶子はハンバーグをメインにして、コーンポタージュスープやツナサラダなど豪華なメニューを用意した。勿論めぐみちゃんは大喜び。ソースも晶子手製のハンバーグは、めぐみちゃんだけ大きめだったが、綺麗さっぱりなくなってしまった。
 ハンバーグはスーパーで形が出来た状態でパックされたものが肉のコーナーにあるし、冷凍食品にもある。だが、晶子はそれらを一切使わず、牛と豚の合挽き肉に炒めたみじん切りの玉ねぎをベースにタネを作るところから始める。当然時間はかかるが、不味かった試しはない。
 晶子が働く店でも、ハンバーグ定食がある。それも晶子か潤子さんがタネから作る。塾通いの中高生の間ではもはや定番。「迷ったらこれ」という選び方もあるそうだ。味とサイズに対して値段が手頃なのも大きいんだろう。一気に数個のオーダーが入ることも珍しくない。
 ソースもウスターソースとトマトケチャップをベースに作る。ケチャップだけでも十分かもしれないが、このソースが本物らしさというか高級感というか、そういうものを高める。じゃ芋と人参を甘めに茹でたものと軽く茹でたほうれん草の添え野菜も、レストランで出される料理の雰囲気を醸し出す。
 それにしても、めぐみちゃんはすこぶる元気だ。大人の歩幅の半分ほどだから歩く距離は同じでも体力は単純計算で倍は消費する。しかも猛暑日。めぐみちゃんは疲れらしいものを全く感じさせず、晶子が料理をしている間、机を片付けやすいようにと読書感想文に使う本を読んでいた。

「お母さんと一緒に本読むー。」

 食器をキッチンに運び終えると、めぐみちゃんは早速晶子の膝に飛び乗る。今回は食器が多いから洗うのに多少時間がかかる。めぐみちゃんが甘える時間が伸びる。以前は俺と晶子が読み聞かせたりしていたが、今は見守るのが基本。時々読みが分からないところを聞いて来るから、その時答えれば良い。
 子どもは何時までも幼いままじゃない。着実に成長して、自分で出来る範囲が広がっていく。当然、判断ミスや分からないことがあるから、その時適切に正したり教えたりするように、大人の側が気持ちを切り替えていかないといけない。子どもが何時までも子どもという認識だとどうしても軋轢が起こる。
 晶子はその点弁えている。勿論内心では寂しさとかを感じているだろうが、自分の膝の上で本を読むめぐみちゃんを見守り、読みが分からないところを聞かれたら教えるに留めている。せめてこうして甘えて来る間、甘えられる立場を堪能しておこうと思っているんだろうか。
 明日は朝からとある場所にお出かけ。それを終えてからめぐみちゃんは高島さんと京都に戻り、俺と晶子は普段の生活に戻る。限られた時間を存分に楽しんで、めぐみちゃんの夏の思い出作りに協力することで、俺と晶子の思い出がまた1つ増える。それが成長を見守ることの醍醐味だと知るべきだな…。
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