雨上がりの午後

Chapter 355 「娘」の帰省(3日目:後編)

written by Moonstone

 いよいよ最後のエリア。港の一角を丸ごと使ったような広大なプールと、そこからすり鉢状に広がる半円状の観客席。イルカとシャチのショーが楽しめる。勿論、ぶっ通しじゃなくて時間入れ替え制。丁度入れ替えの時間帯だ。出来るだけ前の方に座る。
 流石にチケットでも前面に押し出されるだけあって、観客席は続々埋まっていく。客席は見たところ数百、もしかすると千を越えるくらいあるようだが、半分以上埋まっている。俺たち一行が座った場所は、中ほどやや前、ステージがほぼ中央に見える位置。見やすい位置だ。

「シャチって、大きいのかな?」
「此処のシャチは凄く大きいぞ。イルカより一回りくらい大きい。」
「めぐみちゃんは、シャチを見るのは初めて?」
「初めて。」
「シャチを飼っている水族館は少数ですからね。私も楽しみにしてたんです。」

 席は、通路側に俺、その左隣に晶子とめぐみちゃん、一番奥が高島さん。晶子はめぐみちゃんを膝の上に載せている。混雑への対処もあるが、めぐみちゃんは最高の環境で楽しみにしていたショーが見られるとあって目が輝いている。
 席が満席になったか時間が来たかで、間もなく開演のアナウンスが流れる。客席は子どもが多いせいか随分賑やか。だが、此処はこういうもんだ。こういう場が開演前から静まり返っていたら逆に気味が悪い。めぐみちゃんもいかにも待ちきれないといった様子でそわそわしている。
 ステージに若い女性が数人出て来る。1人はマイクを持っているから司会進行だろう。他はダイビングとかで見るような服−ウェットスーツを着ている。イルカやシャチに指示をするんだろう。餌が入っているらしいバケツも持っている。

「みなさーん、こんにちはー!」

 司会が快活な挨拶で切りだす。会場から元気な返事が山彦のように返される。その中には、めぐみちゃんも含まれる。

「今日もたくさんのお客さんに来ていただきましたー。私達スタッフは勿論のこと、イルカもシャチも、大変喜んでおりまーす。」

 ウェットスーツ姿の人達−調教師がホイッスルを吹くと、一斉にイルカとシャチがプールから顔を出して岸に顔を乗せる。突然の、しかも人間を大きく超える巨体が一斉に行動したことで、プールの海水が大きく波打ち、岸で跳ねて白い飛沫を捲き上げる。
 勿論、客席は大盛り上がり。どよめきに続いて大きな拍手が沸き起こる。こういう登場の仕方をするとは思わなかった。めぐみちゃんは拍手喝采。イルカとシャチは、調教師から餌−やはり魚だ−をもらって、一旦プールに引っ込む。

「今日も凄く暑いですが、イルカとシャチの爽快なショーで気分爽快になっていってくださーい!」

 調教師がホイッスルを吹くと、イルカとシャチが再び水面から顔を出す。顔だけだが大きいから良く分かる。調教師が更にホイッスルを吹くと、イルカとシャチは一旦潜って、イルカは左右から4匹ずつ交差するようにジャンプして、シャチがその後で後方からジャンプする。早速見せてくれる。

「凄い凄い!あんなにジャンプするんだ!」
「皆揃ってたのが凄いね。」

 冒頭から華麗にシンクロしたジャンプを見せたイルカとシャチに、めぐみちゃんは歓声を上げる。イルカは8匹、シャチは1匹。それぞれ専任の調教師が居るようだ。ホイッスルの音は聞いた感じ同じに聞こえたが、イルカやシャチにしか分からない周波数成分が入っているんだろうか?

「では、イルカとシャチに準備運動をしてもらおうと思いまーす。」

 クレーンのようなもので大きな輪がプールの上にぶら下げられる。調教師が一か所に固まって一列に並ぶ。先頭の人がホイッスルを吹くと、1匹のイルカがプールから飛び出して輪を通ってプールに飛び込む。そのイルカが餌の魚を貰って潜ると、同じことがテンポ良く繰り返される。
 シャチが最後にジャンプする。身体が一回り大きいからどうだ?綺麗に輪を通過してプールにダイブ。客席から大きな拍手が起こる。身体の大きさに対して輪の直径がかなりギリギリだったが、少し輪が揺れただけで綺麗に通ってのけた。凄いもんだ。
 調教師が急いで逆サイドに移動して、殆ど同じことをする。違うのはシャチが先頭になること。きちんと1匹ずつホイッスルの指示の後で行動する。人間でもなかなかこうはいかない。水族館の目玉として前面に押し出されるだけのことはあるな。どうやって訓練してるんだろう?

「イルカとシャチの準備運動が終わりましたー。では、ここから皆様に日頃の訓練の成果をお見せしようと思いまーす。」

 準備運動と言うが、ここまでの時点でショーとしての体裁を成していた。これから何をするんだろう?ジャンプの他に何をするか、と考えた方が良いか。
 調教師のうち2人が大きめのビーチボールを持って来る。ボール遊びか?だったら2つも要らないと思うが。その間、別の調教師がプールの短辺に、向かい合うようにサッカーのゴールを置く。浮かべると言った方が良いか。
 調教師が一斉にホイッスルを吹く。イルカとシャチが一斉に顔を出し、イルカは4匹ずつ左右に分かれ、シャチは中央に移動する。ボールの投げ合いか?

「小宮栄ゴールデンアローズへの入団を目指して、皆日々練習に励んでいまーす。」

 小宮栄ゴールデンアローズは、小宮栄に本拠地を置くサッカーチーム。それに見立ててサッカーをするようだ。ビーチボールを持った調教師が左右に分かれたイルカに、ビーチボールを軽く投げて渡す。イルカの1匹がそれを鼻先で器用に受け取り、左右でそれぞれパスの練習をする。偶に落とすこともあるが、すぐさま拾って戻す。人間でもスムーズにいかないものなのに、上手いもんだなぁ。

「イルカがボール遊びしてる!」
「凄く上手いね。」

 少しの間パスの練習が続き、調教師が一斉にホイッスルを吹く。ボールがその時持っていたイルカから調教師にパスで返され、イルカは散開する。向かって右側の調教師が、受け取ったボールをシャチに投げる。シャチは少し移動してきちんと鼻先で受け取る。

「では、練習試合を始めまーす!時間は3分!審判のシャチさん、お願いしまーす!」

 なるほど、シャチは審判役か。調教師のホイッスルで、シャチはボールをプールの中央に投げる。軽く弧を描いてボールが中央に落ちると、チームに分かれたイルカが一斉にボールに向かう。プールが激しく波打つ。野生の面を垣間見ているようだ。
 イルカの2チームは、巧みにパスを回したり、それをカットしたりする。プール全体を所狭しと移動する。偶にボールがプールの外に出たりすると、調教師がホイッスルを吹いてから拾って、シャチに渡す。そうするとイルカは一旦それぞれのゴール前に移動して、シャチがボールを投げるまで待機する。
 イルカは、ボールを持って移動する時、必ず鼻先に乗せる。これがドリブルに相当するようだ。殆ど落とさないのが凄い。激しい攻防が続いた後、向かって左側のチームのイルカの1匹が、隙をついてボールを相手ゴールに投げ込む。見事ゴール。大きな拍手と歓声の中、調教師がホイッスルを吹いてシャチにボールを取るよう促す。

「凄い!凄い!イルカがゴールにボール入れた!」
「本当にサッカーしてるね。凄く上手い。」

 本当に練習試合なのか、こういう展開になるように訓練されているのかは、これだけでは分からない。どちらにせよ、イルカがプール内を縦横無尽に泳ぎ回り、巧みにボールをパスし合ったり、時にカットして試合の流れを変える様子は、イルカのサッカーそのものだ。
 ホイッスルが吹かれる。試合時間の3分はあっという間に過ぎ去った。スコアは向かって1-0。1回のゴールがそのまま決勝点になった。盛大な拍手と歓声の中、イルカはチームで分かれて中央に向かい合い、ホイッスルで一斉に潮を吹く。礼の代わりか。

「皆さんに練習の成果をご覧いただきましたー!もう一度盛大な拍手をー!」

 司会に応えて客席から惜しみない拍手が送られる。イルカとシャチはプールの岸に向かい、それぞれの調教師から餌を多めに貰う。イルカは特に激しい運動だったから腹も減っただろう。シャチも地味ではあるが、審判として結構移動していたし。

「それでは、イルカには暫く休憩してもらって、その間シャチに頑張ってもらいまーす!」

 白熱した試合の余韻が残る中、イルカがプールに潜り、シャチが前に出て来て岸に乗り上げる。プールから結構距離はあるのに、かなり大きく見える。白と黒のツートンカラーがよく映える。

「おやおや、シャチは皆さんと遊びたくて仕方がないそうでーす。」

 司会の言葉で、シャチが鳴く。拍手と歓声が湧く。

「では、皆さんのお力を拝借したいと思いまーす!皆さん、お持ちのチケットをご覧くださーい!」

 唐突にチケットが出て来た。晶子が一律に持っていた−バッグを持っているから−チケットを広げる。チケットには岸に乗り上げているシャチの写真とイラストの他、5けたの番号が書かれている。チケットのシリアル番号かと思っていたが、それ以外に抽選番号でもあるのか?

「今からお姉さん達が1回ずつ、くじを引きまーす。そのくじの番号を順番に前に並べまーす。その番号に一致した方に、シャチと遊んでいただきまーす!」

 なるほど、こういう仕掛けか。これだと改竄のしようがない。客が多くても完全入れ替え制だから番号が重複することはない。さてさて、この中で1人でも当たれば、めぐみちゃんが出て行ってシャチと遊べる。持ってきたカメラを使う時が来るだろうか。

「最初は…、3でーす!」

 歓声半分、悲鳴と落胆が残り半分。最初がいきなり3で、それでも該当する人がいるってことは、チケットの番号は連番じゃないのか?兎も角4人のチケットをチェック。3枚が該当。全部バラバラの番号になっている。ということは、当たる確率は10!だから…1/3628800か。これは難しいな…。
 くじが順に引かれていく。「4」「3」「8」と続く。2番目で1枚、3番目で1枚が脱落。1枚だけ残った。さて次は…。「7」だと当たりだ。ここまで当たっただけでも凄いんだが。それにしても、辺りが出なかったらどうするんだろう?こういうイベントだと「当たりなし」は物凄いブーイングや反感を呼び起こすもんだが。

「最後は…7でーす!」
「当たったー!」

 くじの番号の宣言に続いて、めぐみちゃんが歓声を上げる。周囲からどよめきが起こる。4枚の中最後まで残った1枚が、1/3628800の確率の1枚になった。

「5つの番号すべてが当たったお客さんが出たようですねー!どちらにいらっしゃいますかー?」
「はーい!」

 めぐみちゃんが手を上げる。晶子の膝の上に乗っているから、何とか司会の位置からでも見えるだろう。後方に行くほど高い位置になっていく席は、司会の位置からだと後方が意外とよく見えるもんだ。

「真ん中ほどのお席の女の子ですねー。チケットをしっかり持って前に出て来てくださーい!」
「さ、行ってらっしゃい。」
「行ってきまーす!」

 めぐみちゃんは、晶子からチケットを受け取り、大事に両手で持って通路を駆け下りていく。1000人は居るであろう観客の視線が、一斉にめぐみちゃんに集中したようだ。めぐみちゃんはステージに出て、チケットを司会に渡す。当然確認はあるよな。

「確かに34387番のチケットですね。これは少しの間、お姉さんが預かっておきますね。じゃあ、この台に上ってもらおうかな。」

 表彰台のようなステージに、めぐみちゃんは案内される。カメラ、カメラと。小学校の全校生徒を集めたくらい、否、それより多いかもしれない人を前にして、めぐみちゃんはかなり緊張している様子だ。

「お嬢ちゃん。お名前と年齢を教えてください。」
「え、えっと、た、高島めぐみです。は、8歳です。」
「めぐみちゃんは、今日は誰と来ましたか?」
「お、お父さんと、お母さんと、おばあちゃんと、来ました。」

 やや詰まり気味だが、それでかえって聞きとりやすいペースになっている。適時写真を取りつつ、様子を見守る。シャチも含めるように撮っておくのも良いな。シャチは岸辺に乗り出したまま、大人しく待っている。

「分かりました。じゃあ、めぐみちゃんにシャチと遊んでもらいましょう!シャチのお姉さんの説明をよーく聞いてくださいね。」
「は、はいっ!」

 まだめぐみちゃんの緊張は解けないようだ。場合が場合だけに無理はない。俺も卒研の夏で学会発表をしたが、登壇した瞬間に頭の中が一気に真っ白になった。何とか発表したものの、棒立ちしたまま気絶するんじゃないかと思ったくらいだ。冒頭から会話が成立しているめぐみちゃんの方が肝が据わっている。
 調教師の1人がめぐみちゃんに近づく。台に乗っているめぐみちゃんと、ほぼ同じくらいの目線。晶子と同じくらいの身長かな。

「めぐみちゃんには、まず1,2,3とゆっくり数えてもらいます。シャチに分かるように大きな声で言ってくださいね。」
「は、はいっ!」
「ちゃんと数えると、シャチは一旦プールに潜ります。そうしたら、シャチが大きくジャンプするので、このボールをプールに向かって投げてくださいね。」
「はいっ!」

 司会が再びめぐみちゃんにマイクを向ける。めぐみちゃんは岸に乗り上げて待っているシャチに、ゆっくり言う。

「いーち!にーい!さーん!」

 めぐみちゃんがゆっくりカウントすると、シャチが巨体に見合わない俊敏な動きでプールに潜る。そして中央付近から大きな水柱を伴って大きくジャンプする。めぐみちゃんは調教師からビーチボールを受け取り、両手でプールに向かって投げる。ボールは大きな弧を描いて、飛び出した時とは逆に頭からプールに戻るシャチに向かって飛んでいく。
 シャチはプールに戻る。ボールは水柱に翻弄されて奥に跳ねていく。シャチが水面から顔を出し、ボールを拾いに行く。一旦潜って鼻先で持ち上げる形で水面から再び顔を出す。きちんとボールを探すのも凄いが、鼻先に乗せたまま待機しているのもまた凄い。

「めぐみちゃん。お姉さんが笛を吹くとシャチがボールを投げるから、上手に取って、投げ返してあげてね。」
「はいっ!」

 シャチとキャッチボールか。ボールは十分大きいが、シャチがきちんと投げられるか。めぐみちゃんがキャッチできるか。写真を撮りつつ俺も緊張してしまう。調教師がホイッスルを吹くと、シャチがボールを飛ばす。大きな弧を描いたボールは、岸辺で二度弾んで、めぐみちゃんに届く。
 めぐみちゃんは、おっかなびっくりながら両手でしっかり受け止める。拍手が沸き起こる。めぐみちゃんは最初に投げた時のように両手でボールを持って大きく振りかぶり、シャチに投げる。ちょっと力んだせいか、岸辺に投げつけるような形になって、そこで大きく跳ねてシャチに向かう。
 ボールが着水すると、シャチはすぐさま取りに行く。そこで調教師が再びホイッスルを吹く。シャチとめぐみちゃんのキャッチボールが3回繰り返される。3回目のボールがシャチからめぐみちゃんに渡ると、調教師がホイッスルをピッ、ピッ、ピーと吹く。終了の合図だろう。

「凄いねー!めぐみちゃん!シャチとしっかりキャッチボール出来ましたねー!」
「シャチがちゃんとボールを返してくれて、取りやすかったです!」
「じゃあ、シャチと遊んでくれためぐみちゃんから、シャチに御褒美の餌を上げて上げてくださーい!」

 餌を上げるところまであるのか。シャチは既に岸に乗り上げている。めぐみちゃんは司会と調教師に連れられて、シャチの間近に歩み寄る。大きくなったとはいえ、まだ小学校3年生のめぐみちゃん。シャチと比べると大きさの違いが一目瞭然だ。

「お魚は持てますか?」
「はい、持てます!」
「じゃあ、お姉さんの言うとおりに御褒美をあげてねー。」

 シャチの正面にめぐみちゃん、その隣に調教師が立ち、司会は脇に退く。調教師は持っているバケツから1匹魚を取り出す。これまでよりかなり大きめだ。シャチも分かっているようで、口を開けて調教師の方を向く。何となく嬉しそうな表情に見えるのが不思議だ。

「お魚の尻尾の部分を両手でしっかり持って、シャチに差し出してくださいね。こんなふうにあげます。」

 調教師が見本を見せる。調教師だと片手でも問題ないだろうが、めぐみちゃんに見せるには説明どおりにするのが良い。実際、御褒美用の餌はマグロかカツオらしく、めぐみちゃんだと片手じゃ持ちきれない。シャチはご褒美の餌を即座に食べてしまう。

「シャチは今以上に身を乗り出したりしないので、お魚をしっかり持ってシャチにあげてくださいね。」
「はいっ、頑張ります!」

 緊張か興奮かで意気込みを示しためぐみちゃんに、客席から笑いが起こる。俺はファインダー越しにシャッターチャンスを窺う。めぐみちゃんは調教師に手伝ってもらって、大きな魚を両手で持つ。シャチはもう1匹もらえることに敏感に反応して、口を開けてめぐみちゃんの方を向く。

「こ、これ、あげる!」

 めぐみちゃんが宣言して、その手に持て余すほどの大きな魚をシャチの口に入れる。シャチは一気に食べて「ありがとう」と言うように鳴く。

「シャチも喜んでいますねー。めぐみちゃん、今日はありがとうございましたー!」
「あ、ありがとーございました!」

 司会と調教師の間にめぐみちゃんが立って、大きな拍手と歓声に応える。司会と調教師は周囲に手を振って応えるが、めぐみちゃんは棒立ち。だが、ファインダー越しに見えるめぐみちゃんの顔は、緊張が解けないものの、感動と充実感に満ちている。きっと良い思い出になるだろう…。

「わーっ!凄ーい!美味しそう!」

 水族館を出てポートガーデンへ。至るところに屋根や木陰があるから、夏場でも割と涼しい。その1つにビニールシートを敷いて晶子の弁当を広げる。開口一番、めぐみちゃんの歓声が上がるのも無理はない。重箱に詰まったおかず類は彩り鮮やかで早速食べたくなるものばかりだ。

「これだけ作るのは大変だったでしょう。」
「いえ。お弁当は夫の出勤に合わせて作っていますし、振り返ってみたらめぐみちゃんはまだ私のお弁当を食べたことがないことに気がついたので。」
「お母さん!食べて良い?」
「まず、ちゃんと手を拭いてからね。」

 晶子はおしぼりを全員に配布する。手を拭いたところで箸と取り皿を配布。めぐみちゃんには、少しずつ取り皿に取って食べるように言う。きちんと段取りを踏ませるあたり、ただ猫可愛がりするんじゃないことが分かる。全員で「いただきます」してからめいめいに食べ始める。

「この唐揚げ、美味しい!」

 めぐみちゃんが歓声を上げる。店でもハンバーグと並んで中高生の客の人気を争う定番メニュー。晶子が鶏肉を一晩下味に漬け込むことで出来る芳醇な味と、カリカリの衣とジューシーな肉という最高の組み合わせが楽しめる一品だ。

「他にもたくさん作ったから、安心していっぱい食べてね。」
「はーい!」
「これは全て奥様の手作りですか?」
「はい。冷凍食品は非常食という位置づけですので、普段は使いません。」
「流石に飲食店の興亡の決め手と言える料理を任されているだけのことはありますね。素晴らしいです。」
「ありがとうございます。」

 高島さんの称賛に対しては、やっぱり晶子は緊張気味に応える。完全に義母に褒められる息子の嫁だ。晶子もそういう立ち位置と認識している感はあるし、高島さんもある程度分かっているかもしれない。めぐみちゃんの晶子への懐き具合は実の母親以上だと言うし。
 夏場の暑い盛りだけに、料理は加熱調理したものが基本。更に、保冷剤を重箱の上に敷き詰めて−冷気は下に向かうから冷やす場合はこうするのが正解−、ドレッシングなども酸味や辛みを強めている。弁当は余計に食中毒に気を配る。
 めぐみちゃんの好物ツナサンドも、しっかり対策されている。その分めぐみちゃんにはちょっと刺激が強くなっている。晶子は事前に酸味や辛みが強くなっていることを説明し、落ち着いてゆっくり食べるよう言う。
 だが、めぐみちゃんも大きくなったことで、酸味や辛みへの対応の幅が広くなっている。マスタード由来の「ちょっとピリッとする」を感じるくらいで、飲み物片手に問題なく食する。こういうところにも成長が窺える。

「お父さんは、お母さんが作るお弁当を持ってお仕事に行ってるの?」
「あ、ああ。そうだよ。」

 唐突に話を振られてちょっとびっくり。食べてる途中だったから思わず喉に詰まらせそうになる。

「お母さんのお弁当で何が一番好き?」
「そうだな…。まずはやっぱり鳥の唐揚げだな。午前の仕事が忙しかった時に弁当に入っていると、元気が戻る。」
「お父さんが好きだから、お母さんはお弁当に入れるんだね。」
「そうよ。朝詰めて渡したお弁当箱が綺麗になって帰ってくると、作って良かったって思うよ。」

 何となくだが、めぐみちゃんが言った「お父さんが好き」は2つの意味を持っているように思う。そういうことまで考えて言えるようになったとすると、めぐみちゃんの成長は知識や語彙の部分にも着実に及んでいるということだ。

「お弁当を作るのって、早起きしないといけないんでしょ?」
「少しはね。でも、少しの工夫で朝ご飯を作るのと同じくらいに作れるよ。」

 晶子が効率化のコツを挙げる。夕飯を作る時に下味に漬け込んだり、野菜を刻んだりしておく。今日の唐揚げなどもそうしている。付け合わせの煮物はある程度日持ちするから、料理の時間が十分取れる時に作っておく。2,3作っておけばそこから選べるし、料理のアクセントになる。
 特に有効なのは、夕飯を作る時に大量に作って冷凍しておくこと。揚げ物のように使えないものもあるが、1から作ると時間がかかるハンバーグなどは、これで比較的簡単に弁当に入れられる。弁当を意識して大きいものと小さいものを2つ作っておくと更に便利。

「−こんなところかな。味を付けたり盛りつけたりする、料理でしっかりしないといけないところ以外は、こういう風にすると効率的に出来るよ。」
「お母さんは、料理の天才だね!」
「めぐみちゃんも、少しずつでも練習すれば出来るようになるよ。」
「ホント?!」
「ホントよ。お母さんだって、めぐみちゃんと同じくらいの頃には大して出来なかったんだから。」
「じゃあ、これからおばあちゃんのお手伝いして、お母さんみたいに料理上手になる!」

 めぐみちゃんは力強く宣言する。目標があるとそれに向かって精進する。それに実の母以上に慕う晶子が目標だ。小中学校くらいだと目標はほぼ人だし、その人への好感度が高いほど意気込みが高まる。めぐみちゃんの料理の腕が高まるのは間違いないだろう。
 同時にめぐみちゃんの言葉で、めぐみちゃんの家庭生活の一端が分かった。料理は主に高島さんがするようだ。高島さんが仕事で不在の時などは恐らく森崎さんが作るんだろう。めぐみちゃんの実の両親、特に高島さんの娘であるめぐみちゃんの実母は何をしてるんだろう?
 やや複雑な家庭環境ながらも、めぐみちゃんが真っ直ぐ育っているのは感慨深い。氏より育ちとも言うし、家庭環境に1つの「あるべき姿」を挙げて、全ての家庭に一律に適用しようとすると歪が起こる。家庭環境がどうでも真っ直ぐ健やかに育てば十分だ…。

「もう1日お泊り。もう1日お泊り。」

 帰宅しためぐみちゃんはすこぶるご機嫌。語尾に音符が付いているという表現がぴったりだ。俺は朝に仕舞った布団を2組取り出して敷く。晶子はキッチンで急ごしらえしたデザートの後片付けをしている。
 帰宅した先は俺と晶子の家。本来小宮栄水族館の後、小宮栄城を見物してから新京市に戻り、夕飯を近場で食べてから高島さんが俺と晶子を送り届けて帰路に就く筈だったが、小宮栄城の帰りで流石に体力の限界に達したのか、俺がおんぶしためぐみちゃんが寝てしまった。
 夕飯は2人ならそれこそ近場でどうにかなるから、めぐみちゃんを寝かしたまま高島さんが京都に戻ることも出来たが、目覚めたら俺と晶子から離れたことを知って落胆すると感じた晶子が、高島さんに頼んで宿泊を延長してもらった。
 高島さんは、俺と晶子の休暇が1日削られることを懸念して遠慮していたが、晶子の頼みと俺の後押しで承諾してくれた。めぐみちゃんが眠ったまま俺と晶子の家に戻り、めぐみちゃんを起こしてから夕飯を食べに行き、再度戻った。こんな流れだ。

「めぐみちゃん。もう少し夏休みの宿題する?」

 晶子がエプロンを取りながらキッチンから出て来る。

「本読みたい。」
「じゃあ、先にお風呂入ってから一緒に読もっか。」
「うん。歯磨きもする。」
「歯磨きが先ね。歯磨きセットを持って来て。」
「はーい。」

 めぐみちゃんは、自分のリュックから歯磨きセット−歯ブラシと歯磨き粉がセットになったものを出して、晶子のところへ向かう。洗面所はそれほど広くないから、歯磨きの監督は晶子に任せれば良い。俺はその後で歯を磨いて風呂に入ることになっている。

「奥様の考えは当たっていたようですね。」

 晶子が淹れた茶を飲んでいた高島さんがしみじみと言う。

「めぐみを寝かせたまま帰ったら、めぐみは夢から覚めたように感じて少なからず気落ちしていたでしょう。めぐみなりに今回の出来事を楽しかった記憶に切り替えて、また次にお二人に会えるまでの糧にするために、もう1泊するのが最適だったとめぐみを見て思います。」
「大人でも仕事とプライベートを綺麗に切り離せる人はそうそう居ないですからね。」
「お二人にはもう1日御面倒をおかけすることになりましたが、めぐみは京都に戻ったらまた頑張ろうと思えるでしょう。ありがとうございます。」
「私は妻の後押しをしただけです。妻も、めぐみちゃんときちんと区切りをつけられるお別れをしたかった筈ですし、面倒だとは少しも思いません。」

 お別れと言うと悲壮感が出るが、俺と晶子はそれぞれ仕事を持っていて今の家庭の運営がある。めぐみちゃんも京都の生活があって友達も居る。だから会える機会は夏休みや年末年始、それと5月の連休くらい。それに加えて、晶子とめぐみちゃんは実の母娘以上に想い慕っている。
 双方が落胆するような、尻切れトンボのような別れ方より、これまでのように「次に会う機会まで元気で」という抱擁を交わして、明確な区切りがある方が良い。俺もそう思ったから、晶子の願いを後押しした。思い出は出来ごとの締めくくりで良くも悪くもなるもんだ。

「お父さーん。お母さんがお風呂入って、って。」

 めぐみちゃんが洗面所と地続きのキッチンから出て来る。そうそう、俺が先に入ってから晶子とめぐみちゃんが入るんだったな。

「もう歯は磨いた?」
「うん。お母さんにも見てもらった。」
「じゃあ、少しの間、お母さんと一緒に本を読んでて。」
「はーい。」

 俺は席を立って、めぐみちゃんと、続いて洗面所から出て来た晶子と入れ替わる。晶子からは着替えやタオルを準備しておいたことを伝えられる。もう1日増えためぐみちゃんの夏の思い出作りに、やっぱり風呂は欠かせないよな。恐らく俺は後1年くらいで外れることになるだろうが。

 全員が風呂から上がって、いよいよ寝る時間。めぐみちゃんは一度昼寝したとは言え、まだ疲れは残っている筈。それに夜更かしをするのは2学期からの生活に支障をきたす恐れがある。こういうところは、幾ら楽しい時間でもしっかり区切りをつけないといけない。
 もっとも、めぐみちゃんに敢えて言うまでもなく、風呂から上がったら寝るものと分かっている。晶子の布団でくっついて寝られるから、寝るにしてもめぐみちゃんには至福の時間。敢えて夜更かしをする必要がないとも言える。

「お母さん。お財布持って来て良い?」
「良いわよ。きちんとお口は閉じるタイプよね?」
「うん。」

 めぐみちゃんは、リビングの隅に置いてある自分のリュックから財布を持って来る。そこには、この春の連休で晶子と訪れた石垣で買った土産のキーホルダーがぶら下がっている。暗くなると分かる仕掛けを見せるためだろう。
 晶子がめぐみちゃんを自分の布団に招き入れ、俺が部屋の電気を消す。その直後、めぐみちゃんが小さい歓声を上げる。暗くなると早速仕掛けが効果を表す。俺もこれを知った時はびっくりしたもんだ。

「光ってる、光ってる。」
「ホントだね。綺麗だね。」
「お父さんも、おばあちゃんも見て。」

 めぐみちゃんが身体を起こしてキーホルダーを見せる。ほんのり緑色に光ることが、このキーホルダーの仕掛け。明るいところでは水晶の中に模様が封入されたようなもので、これはこれで飽きの来ないデザイン。晶子が手に取って偶然、暗闇で蛍のような色合いで光ることを見つけた。
 普通にぶら下げておくだけだと、まず気付くことはない。だから晶子はめぐみちゃんに渡す時に、「付けるものをなくさないようにしていれば不思議なものが見られるよ」と言った。めぐみちゃんは財布に付けてその時を待っていた。こういう仕掛けがあるとは思わなかったようだ。

「蛍みたいな光り方だな。」
「良いものをいただいて良かったわね。」
「うん。これが光ってるのを見ると、お父さんとお母さんが傍にいるように思う。元気で頑張れって言ってるように思う。」

 めぐみちゃんは、左右を交互に見ながら言う。

「宿題見てもらって、皆でお出かけして、水族館やお城にも行けた。凄く凄く楽しかった。たくさん日記に書けた。お父さん、お母さん、おばあちゃん、ありがとう。」
「どういたしまして。」
「めぐみちゃんが楽しめたら、それで十分よ。」
「良かったわね。」
「またお父さんとお母さんの家でお泊りしたいから、頑張る。だから、次もいっぱい遊んでね。」
「ああ、勿論だ。」
「次にめぐみちゃんが来るのを楽しみにしてるよ。」
「今までのように、次の目標に向かって頑張りなさい。」

 3人から言葉を貰って安心したのか、めぐみちゃんは再び布団に横になる。程なく、晶子が小声でめぐみちゃんが寝入ったことを伝える。昼間の楽しい時間が夢じゃなかったことを改めて確認できて、1日延びた明日の帰還に向けて心の準備は十分出来たようだ。
 あっという間の3泊4日で、めぐみちゃんの楽しい思い出が更に増えた。今、こうして布団を並べて寝ているリビングにある茶箪笥に並ぶ写真立てに、数日中にもう1つ写真が加わる。水族館前で高島さんに撮ってもらった、俺と晶子とめぐみちゃんの写真だ。
 あんなに小さく弱々しかっためぐみちゃんも、早小学校3年生。すっかり大きく元気になった。次に会えるのは年末年始あたりだろうか。その時、めぐみちゃんが笑顔で駆け寄ってこられるように、2人に戻る俺と晶子の家庭を営んでいこう。もしかしたらその時には…。
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