雨上がりの午後

Chapter 345 石垣への夫婦旅行(2日目:前編)

written by Moonstone

 翌朝。ビュッフェ形式の朝飯を済ませた俺と晶子は、早速ホテルを出る。エントランス前にはレンタカー会社の車が待機している。

「おはようございます。予約してある安藤です。」
「おはようございます。お待ちしておりました。どうぞご乗車ください。」

 レンタカー会社のロゴが側面にプリントされた車の後部座席に乗り込むと、待機していた男性−レンタカー会社の社員が車に乗車して運転を始める。今回予約したレンタカー会社は、ホテルから車で10分くらいのところにある。送迎ありということで、今日来てもらうようにしてある。
 10分だから直ぐだ。車はレンタカー会社の敷地に入って、駐車場の一角で停車して俺と晶子を降ろす。社員も車から降りて、俺と晶子を事務所に案内する。レンタカーだから乗る前に手続きが必要なのは、新京市でも石垣でも変わらない。
 手続きをするのは運転する俺。免許証を出して、書類に住所氏名などを記載する。事故関係の保険は自動的に入るから、免責補償を付けておく。料金は少しだし、万一の場合の支払いが少しでも少なくなるなら、その方が絶対に良い。

「−確認しました。お車にご案内します。」

 免責補償を付けた代金を支払い、改めて社員に駐車場の一角に案内される。今回乗車するのは小型の普通車。このレンタカー会社の車のラインナップでは一番安いものの1つだ。2人だし、荷物もないからこれで十分だ。

「御返却の際、ガソリンは満タンにしていただきますよう、お願いいたします。」
「分かりました。」
「お気をつけていってらっしゃいませ。」

 バックミラーを調整してシートベルトを締め、エンジンをかける。社員の見送りを受けて少しアクセルを踏んで運転を始める。…大丈夫だな。公道に出る前に一旦停車して左右確認。慣らしを優先するため、まず左折する。此処からアクセルを踏む力を段々強める。
 レンタカー会社がある辺りはやや東寄りだが市街地の中。車もそれなりに多い。保険には自動的に入っているが事故を起こさないに越したことはない。約2年半ぶりくらいの運転に、まずは身体を順応させるのが優先。スピードを出すのは条件が揃ってからで良い。

「運転、上手いですね。」
「結構必死…。このまま基本国道沿いに運転で良いか?」
「はい。南十字星を見るスポット探しは、祐司さんが運転に慣れてからで十分です。」

 ナビは標準装備だが、まだ見ながら運転する余裕は少ないし、何しろ土地勘がない。晶子はそれを見越して石垣市の地図を広げている。此処から先、島を左回りに一周するような形になりそうだ。どちら周りでも未知の世界を見ながら運転するのは変わらない。

「このまま道沿いに進んでください。空港からタクシーで移動してきた国道390号線が続きます。」
「分かった。」

 景色は市街地が続く。暫くして見覚えのある風景が出て来る。空港からホテルへの道のりを逆に辿っているのが分かる。往路はタクシーの後部座席だったが、今は運転席。同じ景色を逆方向から見ているだけなのに、全然違うように感じるのは、それだけ余裕が少ないってことか。
 市街地が次第に郊外、そして田園風景へと移り変わる。郊外に出ると大型量販店が目立つのは、新京市と同じ。日本だと何処に行ってもこのパターンは変わらないんだろうか。田園風景が田んぼよりサトウキビ畑と思しきものなのは目新しい。
 ふと右側に視線を向けると、海が見える。穏やかな海は空の青と異なる青色でくっきりと水平線を描いている。少し余裕が出てきたかな。だが、迂闊なことをすると事故に繋がる。ナビを余裕で見られるようになるまで、ハンドルとアクセルとブレーキに身体を馴染ませるのが先だ。

「もう直ぐ、空港が見えてきますよ。右手の方向です。」

 田園地帯の中に広大な敷地が見えて来る。確かに石垣に降り立った時の空港だ。国道は、空港の南側に沿う形でカーブを描いている。この配置は、空港から市街地へのアクセスも考えた結果だろうか。周囲は完全に田園地帯で、家らしいものは殆ど見えない。
 空港を右手後方に見送って、そのまま北上する。次第に起伏が多く、全体的に上り坂になって来る。ナビでは地形までは分からないが、アクセルを強く踏まないと簡単に減速するから、結構傾斜があるようだ。後ろから煽って来る車が居ないのが幸いだ。
 景色は、右手にギリギリの高さで見える水平線、左手に原野が広がるものになった。国道が市街地、すなわち物資や人の出入り口と、島に点在する集落を繋ぐ大動脈だと感じる。道路と並行して点々と佇む電柱が、電気を集落に伝えていると実感する。

「景色がダイナミックに変化しますね。」
「人が住んだり畑にしたりしてる部分は、島全体から見るとまだ少ないんだろうな。」
「新京市では見られない風景ですね。もう少し進んだところで、右手に売店が見えてきますから、そこで休憩しましょう。」

 原生林と遠くに海、偶に畑か家という風景が延々と続く。ナビでは偶に飲食店か何かの名前が表示されるが、今は道が海岸沿いにあるだけの殺風景なもの。晶子の案内どおり、もう暫く車を走らせることにする。

 10分くらい走らせた先にあった売店に車を止めて外に出て一休み。晶子が袋をぶら下げて売店から出て来る。中にはペットボトルの飲み物の他、カップ麺…?

「何だ?これ。」
「売店で選んでいたら、お店の人が教えてくれたんです。八重山蕎麦の即席麺なんですって。」
「面白いな。でも、湯はどうするんだ?」
「お店の中にありますよ。此処で食べていきましょうよ。」
「そうだな。休憩だしちょっと腹も減ってたし、丁度良い。」

 晶子と一緒に店に向かう。店は本当に売店といった趣だ。立地からして、地域の物資を支える小さいながらも重要な拠点だろう。店内の商品は沖縄・八重山諸島の食品を基にした冷凍品や晶子が買ったようなインスタントもの、缶詰が大半で、米もある。日用品などは若干ある程度だ。

「いらっしゃい。」
「ポットのお湯を使っても良いですか?」
「ああ、どうぞどうぞ。」

 ポットの隣には割り箸もある。簡易食堂も兼ねているようだ。カップ麺にあるスープと薬味を取り出して湯を注ぎ、スープと薬味を投入して暫く蒸らす。カップ麺なんて何時以来かだが、それだけ日頃の食事が潤沢ということでもあるか。

「結構美味い。」
「美味しいですね。」

 どんな出来かと思いきや、思いの他美味い。どうやって製造しているのか分からないが−一般的なカップ麺が製造できそうな工場は少なくとも近辺にはなさそうだ−、本来の意味での保存食として作りだされたものなんだろうか。

「御馳走様でした。」
「ありがとう。ゆっくりしていって。」

 店主の初老の男性は、口調もゆったりしている。防犯カメラが照明の数より多いかもしれないと思うくらいぶら下がっている光景が当たり前の普段の店内−晶子が働く店には1つもない−とは違い、店が客を監視したり動線を記録してビッグデータを云々とかいう感じが全くしない。記憶にある「地域の店」そのものだ。

「お客さんは何処から来られた?」
「M県の新京市というところからです。」
「随分遠いところから来られましたね。珍しいところですと…、黒糖ですかね。」
「黒糖…。これですか?」
「ええ。黒糖は南国ならではの砂糖。サトウキビから作るものですから。」
「サトウキビから作る砂糖がこの黒糖なら…、普通の砂糖はどうやって作るんですか?」
「詳しくは知らないが、普通の砂糖はサトウキビの汁を何度も精製して作る。黒糖はサトウキビの搾り汁を煮詰めて固めたものだ。黒糖の方がサトウキビそのものと言えるな。」

 化学は専門じゃないし、受験でも使わなかったから−大学受験の理科選択も物理一本だった−あまり覚えてないが、白砂糖やグラニュー糖ともいわれる一般的な白い砂糖も、晶子が手に取っている黒糖も、メインの成分はグルコースとフルクトースが結合したスクロース。色や味−味は比べられるほど知らない−の違いは純度、言い換えれば不純物の含有量で生じる。
 不純物と言っても、食べるのが難しい灰汁のような不純物は最初の段階で沈殿させて除去する。砂糖で言う不純物は、不要なものを除去して煮詰めた際に結晶になるもの以外を指す。一般に見る白い砂糖は、結晶になる部分の純度を高めたものだ。
 結晶にならない部分は不味いのかと言うと、もしそうだったら黒糖が主に南国で定着してないない。他の食品との相性や用途によって色々な砂糖が求められ、その需要に応じて色々な砂糖が作られ使われる。砂糖としての純度が低いから、黒糖は一般的な砂糖と違う味がする。それが求められる用途に使われる。

「−何に使われるとかは、料理が出来る晶子の方が知ってると思う。」
「あ…。そういえば…、餡蜜とかの色が濃くて甘い、とろっとした液は、黒砂糖を溶かしたものだったと思います。」
「よく知ってますねぇ。この辺だとちんすこうにも使われてますよ。」
「ちんすこうって、沖縄や八重山諸島の有名なお土産の。」
「ええ。折角黒糖がありますからね。」

 ちんすこうも黒糖が材料なのは知らなかったが、至極当然ではある。黒糖って言うと馴染みがないが、黒砂糖って言うと多少聞き覚えがある。色が褐色の菓子には結構使われていそうな気がする。晶子が挙げた餡蜜の液もその1つだし。

「此処の黒糖は本物の黒糖ですよ。地元のサトウキビを使った、ね。」
「言葉は悪いですけど、偽物ってあるんですか?」
「黒砂糖に混ぜものをしたものがあるんですよ。今ではそういうのは別の名前を使うようにはなってますけどね。」

 店主の顔が此処で初めて曇る。黒糖に限らず、名品や特産品は模造品や偽物が出やすい。黒糖のように「その地域ならでは」の色合いが濃い特産品だと、安価でそれらしく作って高く売るという、商売の手法としては正当だが倫理的には邪道なものが必ずと言って良いほど出て来る。
 基本飛行機でないと行けない南国は、冬の寒さや雪に苦しめられる本州から見れば典型的な楽園のイメージに重なる。それに便乗した偽物や粗悪品が出て、本来の黒糖のイメージが損なわれたり、ダンピングされて本来の黒糖の値段が下がったりしただろう。迷惑極まりないが、商売が先行するとこうなる。

「偽物を見分ける方法はあるんですか?」
「混ぜ物をしたようなものは、加工黒糖と表記することになっています。黒糖と表記されたものが、サトウキビから作られた本来のものです。」
「他で買う時があっても、表記は必ず見るようにします。」
「そうしてください。せっかく買ったものが偽物だと分かったら、土地のイメージも悪くなるでしょうし。」

 特産品は「○○産」とか、その土地の名前を持っている。言わば看板を背負ってるわけで、その看板が汚されれば土地のイメージ自体も失墜する恐れがある。商売優先の風潮が強い中、名産や特産という看板=ブランドをどう維持していくかも課題だ。
 晶子が黒糖の特徴を聞く。精製した普通の砂糖と違って、サトウキビが含む色々な成分が潤沢に含まれているのが最大の特徴。特に最近はミネラル分が豊富で近年は健康食品としても注目されている。それが偽物や粗悪品の登場にも繋がっているのは悩ましい問題だ。
 ミネラル分が多いから栄養面では普通の砂糖に勝るが、それが味に癖を齎す。その癖を活かすような料理−それこそ餡蜜の蜜とか、一部のコーヒーに使ったりするのが良い。普通の料理に使うのは試してからにした方が良い。飴とかのように直接食べるのも1つ。

「食材と思った方が良さそうですね。」
「良い考え方ですね。そうしてみてください。」

 食材をどう使うかは、俺は晶子の足元にも及ばない。思いもよらない、だが食べて率直に美味いと思う料理に変貌するだろう。買う量は晶子に一任する。晶子は快諾して黒糖を吟味する。どれも形は不揃いだが、そのまま食べるにしても口にするのを躊躇うようなもんじゃない。

 店主に見送られて車に乗って出発。晶子が買った黒糖は5袋。「店で使ってみたいのもある」というのが大量買いの理由。店主に出された黒糖を試食して、使い方を幾つか思いついたそうだ。1つは各テーブルに置かれている砂糖。ご多分に漏れず普通の砂糖だが、これに黒糖を加えるのも面白そうだと。
 店でよく出る飲み物は、塾通いの中高生の比率が高いのもあってか、ジュースも多い。コーヒーと紅茶は6:4くらい。紅茶は晶子の影響を受けて潤子さんが買って揃えているが、紅茶はコーヒーより味や匂いに特徴が顕著で、普通の砂糖だと物足りないと思う場合もあるそうだ。
 コーヒーも紅茶からすると癖が強い。それを黒糖で打ち消したり、まろやかにしたり出来ないか試してみたいというのが晶子の考え。確かに匂いも砂糖より分かりやすいし、コーヒーの匂いや味が駄目という人も居る。紅茶でもそうだが、それを緩和することは出来るかもしれない。
 買った黒糖は、晶子が持ってきた布の袋に入って後部座席に鎮座している。こういう運び方は普段は絶対出来ない。今は荷物らしい荷物がないし、買いあさるために来たわけでもないが、考える必要がないほど十分置き場所があるのは便利だ。

「途中でもこういう発見があるのが面白いですね。」
「その場所に行かないと分からないことだからな。良いものが見つかって良かった。」
「旅行先では地元の御店で地元の商品を買うのは、思ったより大切なことかもしれないですね。」
「大事だと思う。その地域で収入が得られる、つまりはその土地で生活できるってことだからな。」

 過疎の原因の1つは、やっぱりその地域で生活できないことだろう。老人は潤沢な年金もあるし、貯金もある。現に貯金の比率は老人が圧倒的だ。一方で、若い人は年金も怪しいし、貯金も大変だ。俺と晶子は希有で幸運な事例と言って良い。生活できないとなれば、生活できそうな場所に出て行くしかない。
 生活出来る出来ないは仕事のあるなし、厳密に言えば生活できるだけの収入が定期的に得られるかどうかで決まる。衣食住は勿論だし、子どもを持つなら学校に通わせ小遣いを与え、場合によっては塾に通わせたりといった支出を賄えるだけの収入がなければ、生活は成り立たないし、生死に関わる。
 工場を建てれば良い、起業すれば良い、と評論家や政治家が言うが、そう簡単に建てたり起業したり出来るもんじゃないことくらい、俺でも分かる。土地の買収は勿論、幾つもの基準をクリアしたり、登記をしたりと前段階だけでも煩雑なことが多い。
 作るだけじゃなく、売って利益を出して維持発展させないと無意味どころか、多額の負債を抱え込むことになる。詳しくは知らないが、アメリカで起業が盛んなのはエンジェルという投資家から資金を集めやすいのもあるが、倒産しても抱える負債が割と少なくて済むこともある。根本的に企業の条件が日本と違うことを知らないなら、よっぽどの無知無能だ。
 工場の誘致や企業でも他のインフラが整備されていないと運べないし、運べないことには売れない。ガラクタを作る羽目になってしまう。離島は大量や高速の輸送にはかなり不利だ。船は時間がかかるし、飛行機は飛行場がないと無理。石垣の新空港でも相当もめたんだから、小さい島で飛行場を作るのは至難の業だろう。
 工場や企業が駄目なら農業となるが、農業は産業になり難い。生産量が安定しないのが最大の要因だ。気象とか色々な条件が絡み合い、簡単に不作になる。豊作でも買い叩かれれば価格が急落して儲けが少なくなる。農家が何千万の収入だから農業に保護は不要、という寝言を言う評論家や政治家が居るが、農業に必要なコストと収入をただ金額でしか見ていない馬鹿な証拠だ。
 平地が少なくて台風もあれば大雪もある日本は、基本的に大規模農業に向いていない。大規模化の代わりが集団化、つまりは農協なんだが、この農協が文字通りの協同組合としての機能より、金貸しや選挙の集票マシンに重きを置いている体たらく。農家もそれに粛々と従う体たらく。
 農業の衰退は自業自得の面もあるが、必須の産業であることには変わりない。人間は食べなければ生きていけないんだから。産業化の模索の1つがブランド。特産品もブランドの一種だ。これを商品にして継続的な収入が得られれば、その土地で生活できるし、商品生産の継続=農業の継続という道も開ける。

「黒糖をよく使われるものに使えると、凄く産業になりそうですけど。」
「それが一番難しいんだよな。言われてもアイデアは簡単に出せない。」

 工業品にしろ飲食物にしろ、特産物や名産として長く使われたり買われたりするのが、その地域や生産者が長く生活できる重要な条件だが、数多くある商品の中、どれだけのものがそうなっているだろう?特産品や名産と言われて直ぐ挙げられるものは少ない。そこに新規に食い込むのはもっと難しい。
 アイデアが出ても、それが使えるものになるかは不透明。むしろ使えないものである場合の方が多い。砂浜の中の1粒の金を見つけるようなもんだ。ごく少量のアイデアをさらに厳選して、更に多くの人に共感されるものだけが、ヒット作やロングセラーとして残っていく。
 晶子は今回黒糖を買い込んだが、幾つか浮かんだアイデアがそれで試される。どれだけが残って続くかは分からない。だが、それを無駄なことだとは思わない。思いがけないことで発明や有名な製品が出来たりする。晶子の技術と経験と勘の賜物に期待している。
 車で国道沿いに北上を続ける。さっきの売店の店主が色々なことを教えてくれた。此処から北上していくと牧場が多くなって来ること。特に、島が細くくびれたところを超えると、広大な牧場があること。山が増えて来るから国道から外れて山道を走ってみると見晴らしが良いこと。
 この島1周のドライブは、南十字星をより見やすい高さでよりはっきり見られる場所を探す旅でもある。見晴らしが良い場所の情報は大歓迎。他にも、夕暮れの景色が素晴らしいという場所も教えてもらったし、石垣ならではの風景を徹底的に探そう。

「この辺で停まってくれますか?」
「分かった。後ろは…居ないな。」

 前と後ろに整備された道が原野を貫く景色が続く中、晶子が停車を求める。駐停車禁止の標識がないから、出来る限り左に寄って車を停め、ハザードを出す。これまで車とは2台対向車線ですれ違っただけで、混雑や渋滞とは無縁。今も前後から車が近づいて来る気配すらない。

「この辺りが国道の終点で、この先…、真っ直ぐ行くと島の北部で、左の緩やかなカーブの方を進むと、海沿いを走って島の中南部を反時計回りに一周することになります。」
「分岐点か。」
「はい。時間は気にしなくて良いのは分かってますけど、ある程度行き先を決めた方が良いかな、と思って。」
「北部に行くかひとまず島の半分ほどを一周するかくらいは決めた方が良いな。食事やトイレの問題もあるし。」

 晶子が広げている地図にも車のナビにも、商店や飲食店の名前がまったく出て来なくなった。偶に出て来る名前は、人里離れた隠れ宿というかそんなところ。あとは小中学校や公民館。この先1回は食事をしたいところだが、正直怪しい。
 食事なら最悪抜いても、朝飯をしっかり食べたから何とかなる。問題はトイレだ。何しろ普段は道路沿いに必ずあると言って良いコンビニが1つもない。黒糖を買い込んだ売店にりんせつしていたトイレで用を足してきたのは正解だったが、それ1回で宿に戻るまで持つとは思わない方が良い。
 飲食店があればトイレも大抵あるだろうが、それが怪しいから、目の前にある分岐点でどちらに行くかを見極めないと、俺は兎も角晶子が大変なことになる。無暗に走り回るとガソリンの残量も気になる。島1周くらいと見ていた部分があったが、予想外に難しい。

「食事が八重山蕎麦の連続とかになっても気にしないか?」
「それは全く問題ないです。唯一…お手洗いがあるかどうかだけです。」
「太い道…、県道沿いに行けば、コンビニはないにしても売店とか飲食店はある可能性はある。特に集落のあたりは。」
「黒糖を買った売店もそうでしたよね。単に観光客相手にお土産を売る店じゃなくて、地域の生活の拠点になっているような。」
「ああ。出て来たところに立ち寄るくらいの感覚で行けば、それほど悲観する必要はないかもしれない。」
「ガソリンはどうですか?」
「まだ2/3くらいある。これも半分くらいになった辺りで、視界に入ったガソリンスタンドで給油する感覚だな。」

 普段車に乗らないからガソリンの存在に疎いが、ガソリンがないと動くものも動かないのは当然。これも、石垣島に鉄道がなくてバス路線も潤沢とは言えない交通事情からして、何処かにガソリンスタンドはあると見るのが自然。出来るだけ太い道を通れば意外と直ぐ見つかりそうではある。
 電気もなく、水は井戸で、煮炊きは薪で、という典型的な原始生活しかないジャングルの奥深くならまだしも、ここは日本の一部。道が整備されているところに飲食店やガソリンスタンドがまったくないとは考えられない。慎重に越したことはないが、度が過ぎると引き返すしかなくなる。

「この際だから、行ける所まで行ってみるか?」
「はい。文字どおり島を一周できれば良いですね。」

 こういう時、晶子の基本的に見栄を張らない、欲深くない性格がプラスに働く。必要なことが出来れば無暗に場所や質や雰囲気に拘らない。設備や施設が十分そろっていることに期待しない方が良いこういう場面で進むのは、晶子のような性格でないと無理だ。
 晶子の考えの根幹は、俺と一緒に居ること。そのために結婚まで漕ぎ着け、料理の腕から夜のスタイルまで常に磨きをかけている。俺はその願いを叶えることだけ考えれば良い。簡単そうに見えることが実は難しいってことは、学生時代を経て社会人1年を過ぎた今、感じることが多い。

 島北部への道、県道206号線を北上している。上手い具合に進む時は進むもんで、ガソリンスタンドは分岐点から少し進んだところで発見出来た。この先のことを考えて満タンまで給油しておいた。景色は林か野原、偶に家というのは変わらない。家があるところはほぼ集落と見て間違いない。

「海は地図で見ると結構近いところにあるんですけど…。」
「多分、歩いてしか行けないようになってるんだろう。一般に思い浮かべるような海水浴場とかを考えない方が良いみたいだ。」

 県道206号線をひた走り、ナビでは道が多い場所に出た。一見したところ浜辺まで直ぐ行けそうだが、道は浜辺から分断されている。海水浴場として整備されていない、言い換えれば自然のままの浜辺を保持しているためだろう。何処かで車を置いて歩いた方が良い。

「車を何処に置くか…。あそこが良いか。」

 暫く集落と思しきエリアを走っていると、平屋建ての建物がある広い場所が見えて来る。そこには車が何台か停まっている。近づいてみると、公民館と売店が一緒になったような建物だ。標識らしい標識も殆どなくて、利用者以外云々の看板とかもない。邪魔にならなければ良い。そんな大らかな雰囲気だ。
 俺は広場−駐車場と言うべきか−の一角に車を止める。車を降りると、南天近い太陽が強い日差しを浴びせて来る。晶子が帽子を渡して来る。車に乗っていると屋外に出た時の感覚が変わってしまうような気がする。ガラスも多いが、遮蔽物が多いし空調も効かせられるからだろう。
 降りて見て周囲を見ると、兎に角広く感じる。家が塀に囲まれて屋根だけ覗かせているような独特の作りなのもあるが、家が密集してないのが大きい。平原や畑の真ん中を道がまっすぐ貫いている。遠くに見える林や山がなければ、映画か何かのような地平線のある風景が出来るだろう。

「島とは思えない広さですね。」
「地図で見ると小さい島の筈なんだがな。」

 電車や飛行機を使って自由に移動できるのに、移動範囲は大学と大して変わってない。電車に乗る方向が往復で逆になって、乗り継ぎが1つ出来ただけ。基本的に寄り道をしないし−これまでの会社での飲み会は俺が入った時の歓迎会と忘年会だけ−買い物は土日のどちらかに晶子と一緒に行くし、行き先も変わってない。
 距離が多少伸びただけで世界は大して広がってない俺に対して、晶子は大学への方向がなくなり、家と店の往復になった。店は鷹田入の今でも十分徒歩圏内だし、俺以上に寄り道をしないから、学生時代より世界は狭くなった。
 社会人でも、意識的に行動しないと世界は広がらないどころか狭くなることすらある。今回、3年ぶりかに車に乗って島一周なんてことを試みている途中だが、この大地と空と道だけのシンプルな風景を目の当たりにして、本来、新京市ももっと広くて大きくて、それを知らないだけなんだと実感する。

「海は…どっちだ?」
「こっちの方です。」

 地図を持っているのは晶子。俺は晶子が広げる地図を覗きこむように見る。晶子が指さすところと周囲を見比べると、近くの公民館と売店が一緒になった建物や広場の位置と形、道の方向が一致する。晶子の方向感覚はしっかりしてるから安心だ。
 地平線へと伸びるような道と正反対の方向に、晶子が進む方向とした道がある。こちらはややこじんまりとしていて、奥に踏み入るような感がある。考えていても始まらないから行ってみる。建物はやはり塀から屋根だけ覗かせているような独特の作りだが、雰囲気は長閑な田舎という感じだ。
 家と家の間隔が広い。新京市、特に鷹田入ではなかなか見られない情景だ。この広さを小宮栄や鷹田入で得ようとすると土地だけで数千万、場所によっては億に達する。あと、家がほぼ白一色。屋根が偶に赤とかの場合があるが、壁は例外なく白だ。春でこの日差しという暑さ対策だろう。

「この道をまっすぐ行けば良いみたいです。」

 暫く道沿いに進むと、晶子が前方の道を指さす。道と言っても特段案内があるわけじゃない。獣道に毛が生えたような道。林に向かって伸びているのが、唯一他の道と違うところだ。方角は合っているから、行ってみるしかない。行き止まりなら戻れば良いだけだ。

「行こうか。」
「はい。」

 晶子は地図を閉じる。俺は晶子の手を取る。地図にもこの先の道は書かれていない。私道や公的な管理や整備の対象じゃない道は地図にはきちんと出ないんだろうか。それでも前に道はあるから、地図に頼らずに行ってみる。この場合、晶子を先導するのが俺にとっても晶子にとっても良い。

「これは…。」
「綺麗…。」

 林を抜けた先は、楽園だった。一気に開けた視界を埋めるのは、千切れたような雲が点在するだけの青い空と、穏やかに寄せては返す青い海、そして広大な白い砂浜と緑で覆われた山をはじめとする陸地。建物は何もない。ただ、南国の空と海と陸があるだけの、しかし美しく見たことがない世界。
 こんな風景は、ハワイやグアムといった有名どころに行かないと見られないものだと思っていた。海外に行く予定もないしその気もないから、知識の範疇を出ないと思っていた。それが、否、それを凌駕するものが今、目の前にある。ただ、波の音だけが続く楽園が此処にある。

「こんな景色…、本当にあったんですね。」
「来て良かったって思える景色だな。」

 この感動を上手く表現できない自分の語彙力が口惜しい。海の青が今までの記憶や印象と全く違う。コバルトブルーという表現しか思いつかない。その海からは底が鮮明に見える。これだけ綺麗な景色なのに、周囲を見回しても人影がないのが不思議でならない。
 砂浜を歩いてみる。砂は少し大粒で、海との境界線に近いところはもっと粒が大きい。潮の満ち引きの間隔で打ち上げられたり引き戻されたりしているんだろうか。海の一部が白くなって浜に広がる光景が、長い年月でこの風景を形作ったことを物語っているようだ。

「プライベートビーチ…だったか?高級ホテルにある浜辺はこんな感じなんだろうな。」
「こんなに広大で他に人も居ないプライベートビーチって、まずないと思いますよ。」
「しかも、移動時間を除けば実質無料っていうのが凄い贅沢だ。」
「島の南側に繁華街が固まっているから、こういう景色が残れたんでしょうね。」

 人が増えればどうしてもゴミが増えるし、生活排水も出て汚れて来る。車でしか近くに行けなくて、そこから歩く必要があるような辺鄙な場所で、店の選択肢が限られるかないかのどちらかという環境だからこそ、この景色が存在しうる。皮肉な話だ。
 この景色が続いて欲しい、残って欲しいと思うのは勿論だが、この地域の人達はそれで良いんだろうか?そう思うのは、日々混雑する通勤電車で1時間移動して、常に頭と手を動かす仕事をしているが故の「大きなお世話」みたいなものだろうか?やっぱり、この地域のことはそこに住む人たちで決めることなんだろうな。

「何だか…、泳ぎたくなってきますね。」
「他の海やプールじゃあり得ない広さだからそれは山々だが…、何しろ綺麗だから、ちょっと申し訳ない気がする。」
「掃除して綺麗にした後の気分に近いですね。」
「遊泳禁止とかはないから、入ることは出来そうだな。ただ…、この浅さだと泳ぐのはちょっときついか。」

 よく見える海底は、屈折を差し引いてもかなり浅い。かなり遠くの方まで浅い海底が続いている。遠浅というやつだ。泳ぐより海に入って水遊びをしたりする方が適している。それに、この綺麗な海に何も考えずに入るのは、この海を汚してしまうような気がする。
 浜辺は南北に延々と続いている。ふと後ろを振り向いて見る。濃淡のある緑色に染まる峰の上に、凸凹とグレースケールのグラデーションが明瞭な雲が浮かんでいる。夏の風景、遠い記憶にある田舎の夏の風景そのものだ。

「夏の空ですよね。」

 同じく振り向いていた晶子が言う。

「新京市はようやくコートが要らなくなったくらいなのに、此処で見える空は夏そのもの。こんな遠いところに2人きりで来られたんですね。」
「一足早い夏、って言うだけじゃ終わらない景色だな。」
「今見える景色の全て、こうして居る記憶の全てが、今祐司さんと一緒に居ることの証。幸せに包まれている感じです。」
「独りだったらこの時期此処に来ようとは思わなかっただろうな。」

 きっかけはある意味逃避だ。だが、気分転換や逃避が出来ないと精神を蝕まれ、やがて破壊される。逃げられるなら出来るだけ遠くに行きたいと思うのは、自然な考えだろう。近場だと逃げたいものに捕まるリスクが完全に消去できない。
 きっかけはどうであれ、新京市から遠く離れた沖縄、しかも地図で見ると台湾の方が沖縄本島より近い石垣島に来た。その結果、新京市では、否、日頃の生活では見られない南十字星に始まり、開発の手が及んでいない自然の浜辺に立っている。逃避がなければ出来なかったことばかりだ。
 その逃避も、元を辿れば晶子と結婚したからだ。晶子と結婚しなければその親族からの干渉を受けることはなかった。だが、その分得られるものは大きい。日頃の生活の充実や快適さ。家に居れば相手が居るか帰って来ると分かる安心感。共働きで揃って堅実な経済感覚故に年代からすれば潤沢な家計。どれも晶子と結婚したことで得られるものだ。
 晶子の親族の干渉も、2人で協力して対処できたことでより絆は強固になったし、強力な弁護がついたことで、共通の預金口座は結婚1年半ではあり得ない額になった。何かの時の保険として、これからも地道に積み上げて使うべき時に使う方針なのは変わらない。その方針で即合意できたのも相手が晶子だからだ。
 隣に居るのが晶子じゃなかったら、こんな人気のない、設備もない浜辺を散策してみようとか、空と海と島の自然しかない風景に感動することもなかったかもしれない。否、なかっただろう。生憎、ない方の確率が高いと見た方が良いのが、もてなされることを当たり前とする多数派の女の傾向だ。

「雲が少しずつ形を変えていってますね。」
「どれ?」
「あの雲ですよ。前より全体的に太くなってます。空は風が少し強いみたいですね。」

 入道雲のような雲を指さして声を弾ませる晶子。大抵「ふーん」で流されれば良い方の景色や変化に、晶子は目を輝かせる。まだ島一周の旅は道半ば。他にも初めて見る、感動できる景色はある筈だ。それを探すことそのものも楽しい。そう思わせるのも晶子の純朴さがなせる業か。
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