雨上がりの午後

Chapter 344 石垣への夫婦旅行(1日目)

written by Moonstone

「何だか緊張しますね。」

 こういう時でもないと見られない、カーディガンとフレアスカートの組み合わせが映える晶子が、やや緊張した面持ちで言う。時は流れて4月下旬。社会人になって1年が過ぎた俺と晶子は、俺の連休に合わせて晶子が休みを取って旅行に出かけることにした。
 行き先は石垣。沖縄本島より更に西にある八重山諸島最大の島であり、日本最南端・最西端の市。これまで新幹線すら年に片手で数えるほどしか使わない生活をしている俺と晶子には飛躍的な「進歩」だ。日頃決まった範囲を往復する生活だから、偶の休みに思いっきり羽根を伸ばしてはどうか、とマスターと潤子さんに言われたのが発端だ。
 じゃあ何処に行くかとなった時、飛行機の距離に行ってみては、と言われた。思いついたのは北海道と沖縄。海外は言葉の問題よりいざという時の対処が大変だからパス。北海道か沖縄かという選択になって、晶子が南十字星を見たいと言ったことが決め手になった。
 調べてみると、天候を除くと−これが絶対条件ではある−12月から6月に見えるそうだ。てっきりオーストラリアでも行かないと見えないと思っていたが、新京市からでは見えない星を見るため、というのは非日常を体験しに行く旅行らしい。
 少し決まるのが遅かったことで、ホテルと往復の飛行機を押さえるのが大変だったが、無事4泊分のホテルと往復の飛行機を確保。俺が金曜に仕事から帰って、早番の晶子と共に夕飯を済ませた後荷造り開始。京都新婚旅行以来の荷物を抱えて早朝に出発した。
 当然ながら飛行機で行くわけだが−船だとどれだけ時間と費用がかかるか分からない−、飛行機は小宮栄から30分くらい南に出た埋立地の一角にある。小宮栄で別の私鉄の空港線に乗り換えることで行ける。毎日小宮栄で乗り換える通勤をしているが、この路線は乗ったことがない。
 電車は終点まで乗って行けば良く、ホームは空港ビルの中にある。改札を出てエスカレータに乗れば、国際線と国内線の各航空会社のカウンターが並ぶエリアに出る。そこで、今回使う航空会社のカウンターに行き、預ける手荷物を預けて引き換えに番号が印刷された紙を受け取る。今は此処まで完了したところだ。

「空港には初めて来ますから、見るものが全部目新しいです。この先の保安検査が何となく怖いですし…。」
「俺も初めてだ。保安検査は武器とか麻薬とか、本来持っている筈がないものを持ってなければ良いんだから、大丈夫。」

 実際、カウンターで手荷物は全て預けた。PCとかを持っているとそうはいかないだろうが、そんなわけで俺と晶子は、財布や保険証や携帯といったポケットやハンドバッグに入るような貴重品を除いて手ぶらだ。これで保安検査に引っ掛かるとは思えない。
 航空会社からの案内に従って、空港には早めに来ている。今でも出発時刻まで1時間ほど余裕がある。折角来たことだし、晶子の緊張や不安を和らげるのも兼ねて空港ビルの中を少し見て回ってみる。
 保安検査場もあるエリアからエスカレータで上ると、飲食店がズラリと並ぶ。「レンガ横丁」と名が付いていて、店の看板には「レンガ横丁北○条東△丁目」という感じで住所が記載されている。マップを見ると、完全に碁盤の目状に区画整理されていて、中央の十字路を基準に東西に延びる通路が北(若しくは南)○条、南北に延びる通りが東(若しくは西)△丁目と決まっている。
 レンガ横丁と言うだけあって、テナントと言うか店舗の外壁は全てレンガ模様。朝飯には少し遅い時間帯だが通りは結構混み合っている。荷物を持った人も結構居るから、帰省や旅行の前に腹ごしらえしていくんだろう。和洋中華全てあるし、テイクアウト出来る店も多いから、店には困らない。
 更にエスカレータで上に行くと、広大な展望エリアに出る。360度全てがガラス張りで、南側には滑走路と太平洋、北側には小宮栄の高層ビル群がうっすら見える。滑走路に出入りする飛行機、離陸着陸する飛行機がよく見える。あと1時間ほどでああいう乗り物に乗るんだよな。

「良い眺めですね。」
「こんな海辺で360度の景色が見えるなんてな。」

 晶子は俺を引っ張って近くの窓際に駆け寄る。俺はすっかり見慣れたとは言え、景色が住宅街から田園、高層ビルや工場地帯と色々変わる。晶子は住宅街だから数年のスケールでないと変化はない。少し曇ってはいるが見晴らしの良さを遮るほどじゃないから、晶子には楽しくてならないようだ。
 場所柄かカップルと家族連れが多いが、その中で晶子は目立つ。チラチラと視線を向けているのが分かる。晶子もそれが分かるのか−本人だから俺より分かるか−、指輪が輝く左手を出す頻度が高い。さっき俺を引っ張ったのも左手だった。
 暫く景色を眺めた後、保安検査場へ向かう。結構混雑するらしいし、保安検査をパスしないと飛行機に乗れない。1階に降りると、各航空会社のカウンターが並ぶ場所から程近い場所にある保安検査場は近い。やっぱり結構混雑している。複数の路線が動いているし、この連休に旅行や帰省で飛行機を使う人は多いようだ。
 置かれているトレイに手持ちのものを出す。とは言え、殆どは手荷物としてカウンターで預けたから、此処で出すのは財布と携帯くらいのもの。家の鍵は俺の鞄の内側のファスナー付きポケットに入れてある。帰宅まで使う筈がないから容易に取り出せないところに封じ込むのが一番良い。
 晶子を先に保安検査に行かせる。直前にあるチケット確認の場所で、チケットのQRコードを当てる、そもそも飛行機に乗らないのに保安検査を受ける筈はない。それをパスしたら、少し物々しい恰好のゲートを通る。それと同時に、トレイに出したものが検査される。
 無論、晶子は問題なくパス。安堵した様子の晶子を追って俺もチケットを翳してゲートを通る。同じく問題なくパス。ベルトコンベアーに乗って流れて来たトレイから、自分の手荷物を取ってポケットに入れる。あとは飛行機に乗るだけだ。

「緊張しました…。」
「俺も少し。もしゲートで警報が鳴ったらどうしよう、って。」

 仮にゲートで警報が鳴っても即逮捕にはならないだろうが、まず確実に飛行機には乗れなくなるだろう。振り切って逃走しようにも彼方此方に警官が居る。海外だと射殺もあり得る。そんなリスクを冒してまで凶器や爆発物を持ち込もうとする気持ちが知れない。
 チケットに書かれた搭乗ゲートに向かう。今回は17番。保安検査場から出て左側にあるようだ。ゲートは右側が1〜15番、左側が16番から30番。国内線だけでもこんなにあるのか。複数の航空会社が複数の便を就航させているそうだから、これでも過密かもしれない。
 保安検査場の向こう側、搭乗ゲートがあるエリアは、空港ビルの賑わいから隔絶されている。混雑はしているが、搭乗ゲート付近で静かに待っている。売店はテイクアウトのみの軽食と飲料品を扱う店、土産物を扱う店が数個の搭乗ゲート毎にある程度で閑散としているのが大きいようだ。
 客層は家族連れ、カップル、友人同士、単身と空港ビルの展望エリアより幅広い。空港ビルは飛行機に乗らなくても利用できるが、この搭乗ゲートのエリアは飛行機に乗る人しか存在しない。景色を見に来たりする人とでは客層が違うのは当然と言えばそうか。
 搭乗ゲートの電光掲示板には、出発時刻と行き先が2つ表示されている。俺と晶子が乗る便は上にある。電車でも似たような表示があるが、もっと時刻は接近している。通勤時だと電車の種類を別として2,3分とかだ。飛行機だと時間の単位で開いているから、ちょっと違和感を覚える。

「石垣空港行きAAL251便、ご登場のお客さまにご案内いたします。」

 少しして、俺と晶子が乗る航空会社の便がアナウンスされる。電車と違って車両ごとにそれぞれ搭乗じゃなく、優先順位があるようだ。まずは…老人や妊婦、乳児連れなど補助が必要な人。今回は…居ないようだ。
 続いては…優待の人。飛行機に乗る頻度が高いとか、ビジネスクラスの客とか、そういう人達だ。これはそこそこの数がある。チケットを買う際に料金表を見たが、ビジネスクラスは一気に高くなる。この点も電車と違うところだ。この便にはないようだが。
 続いて…一般搭乗。座席番号の15番から29番から搭乗するよう案内される。俺と晶子も含まれる。周囲に座っていた人達が一斉に立ち上がる。保安検査場と同じ要領で、チケットのQRコード部分を認証機器に翳して、搭乗券を受け取る。これが電車で言う改札だな。

「電車と違うところが多いですね。」
「幾つも入口がないところは特にそうだな。これを通勤電車でしたら大変なことになる。」
「通勤は大変ですよね。」
「流石にもう慣れた。窮屈なのは否定できないけど。」

 最初の頃、6月あたりまではなかなかきつかったが、それを過ぎると慣れた。行きは終点まで行くから車両の中心部に行く。地下鉄の乗り継ぎで1本遅れても、2,3分待てば次の電車が来るから十分間に合う。帰りは行きよりは人がばらつくから、楽に降りられる。
 通路を歩いて行く。飛行機の出入り口まで結構距離がある。空港ビルに通路を横付けして飛行機に渡しているからこうなるんだな。流石に飛行機を直接横づけ出来ないし、致し方ない。出入り口では、空港スタッフと客室乗務員−CAが出迎えてくれる。
 俺と晶子の座席は27番。後ろから3番目だ。晶子には窓際のA、俺はその隣のBにしている。一応、隣に誰が来るか分からない飛行機で晶子を良からぬ輩から遠ざけるための策だ。展望エリアでもあれだけ目立っていたから、乗る際に目を付けられないとは言い切れない。
 手荷物がないから、チケットで確認してから座席に座れば良い。最初にシートベルトを締めておく。どのみち締めないといけないし、石垣に着陸するまで席を立たないなら、このままで居れば良い。晶子にも教えておく。早速シートベルトを締めた晶子は、窓の外を見る。

「此処から車や人と比べると、飛行機や空港ビルの大きさが分かりますね。」

 晶子が窓の外を指さす。その先には空港ビルの他、通路を支えている車や空港スタッフが見える。確かに車や人と比べると、隣の飛行機の車輪はそれらより大きい。座席のせいかどうも手狭に感じる飛行機だが、巨大な物体の中に居ることを改めて感じる。

「こんな大きな飛行機が空を飛ぶなんて、ジェットエンジンがあると分かってはいても不思議です。」
「空を飛ぶってのは、想像以上に一大事業なんだろうな。」

 燃料がどのくらい必要かは知らないが、ガソリンが今だとリットル160円くらい。車は大体30リットルくらい入れるそうだから、4800円。4人か5人乗せる程度でも、そのくらい必要になる。100人くらいを載せて空を飛ぶなら、燃料も馬鹿にならない。
 搭乗口のドアが閉まり、離陸に向けて移動が始まったという機内アナウンスが流れる。前方上から液晶ディスプレイが出てきて、非常設備や装備についての説明が始まる。日本語に続いて英語が流れるのは、普段通勤に使っている電車と同じだ。
 やっぱり、座席に居る間はシートベルト着用が基本のようだ。道路は渋滞や事故があるし、電車も遅れや運休がある。飛行機は飛行の最中に気流が乱れて揺れたりする。電車と違うのは吊革がないこと。立つ客は存在しないから当然だが、それは常時立ち続けられないということでもあるだろう。
 飛行機はゆっくり滑走路に移動していく。ゆっくりと言っても、飛行機が飛ぶスピードからすればのことで、かなり速い。滑走路を移動する段階でもこれだけスピードが出るんだから、ジェットエンジンの推進力の凄さが分かる。
 晶子が窓の外に向かって小さく手を振っている。数名の空港スタッフがこちらに向かって手や帽子を振っているのが垣間見える。何だか両者が微笑ましい。やがて飛行機は大きく左に曲がり、一旦停止する。離陸は間もなくのようだ。
 飛行機が再び走り始める。今度は加速もしていく。身体が座席に押しつけられるような感覚が襲う。Gってやつを此処で体験するとは思わなかった。ジェットエンジンの音らしい鋭い音が続く中、飛行機は加速を続ける。ついに外の風景と期待が空に向かって傾き始める。
 機体は上に傾き続け、外の景色は急速に下がっていく。だだっ広い滑走路から空港周辺の工業用の分譲地、そしてミニチュアみたいな市街地と小宮栄の港へとスケールが広がっていく。空を飛んで高度をどんどん上げているのが分かる。

「雲が下になりましたよ。」

 窓の外には、様々な形の雲が浮かんでいる。雲なら普段も見られるが、今は視線より下だ。雲より高いところに達し、これまでよりは少し緩やかになったがまだ上昇を続けている飛行機の中に居る。飛行機に乗らないと見られない光景が、非日常を実感させる。
 少しして、シートベルトのサインが消える。一定の高度に達して南に向けて飛行を続ける体勢になったようだ。機内アナウンスでは、着席中のシートベルト着用が促される。ひとまずある程度の行動の自由が出来たことで、やや張り詰めていた機内の雰囲気が和らぐ。早速席を立ってトイレに向かう人も居る。
 CAから飲み物が配られる。一律じゃなくて幾つかの選択肢から選べるタイプだ。生憎紅茶はないから、俺は緑茶にする。通路から見て一番奥になる晶子は、俺が注文と受け取りをする。晶子が頼んだのも緑茶。俺と同じく茶という共通項が選択の決め手になったのか、単に俺と同じにしたかったか。

「大体…2時間くらいですよね。飛行時間って。」
「ああ。丁度昼前あたり。」
「2時間後に家からずっと離れたところに着くなんて、普段の生活ではないですから、凄く楽しみです。」
「初めての飛行機、それも南の果ての島に行くからな。俺も楽しみだ。」

 何が待っているかはまさしく神のみぞ知るってやつだが、天気は幸いにも旅行期間中晴れの予報。何処に行くにしても空模様を気にしなくて良いのは、不慣れな土地では助かるもんだ。そしてこの旅行を実行する決め手になった、南十字星を見る前提条件が整っているということでもある。
 暑い。そう感じる気温だ。荷物を受け取って空港の外に出ると、雲1つない青空に孤高に輝く太陽から降り注ぐ日差しは、明らかに夏のものだ。蒸し暑くはないが、日差しが強い。南国の夏はこんなもんなんだろうか。

「マスターと潤子さんの言っていたことがよく分かりますね。」
「外に居る時は長袖を着ろ、ってことか。聞いた時は半信半疑だったが。」

 晶子が休暇を取るのも兼ねて、石垣行きを決めたことをマスターと潤子さんに伝えた際、外では長袖を着るように、と言われたそうだ。理由はこの日差し。典型的な日本の夏、つまり湿度が高くて気温もそこそこ高い蒸し暑さじゃなく、蒸し暑くはないが日差しが強烈な異質の夏で、日焼けの危険があると。
 日焼けの危険、と言われてもピンとこないが、日差しの強さは普段のものとは異なり、紫外線が強いということ。紫外線の強さなんて人間には分からないから、何時の間にか日焼けどころか火傷のようになって、下手をすると動けなくなって病院送りもままあるそうだ。
 併せて、日焼け止めも持って行くように言われた。これは現地でも調達できるが、肌に合わない場合もあるから家から持って行くのが確実で良い、とも。旅行の準備で新規に購入したのは日焼け止めというのがちょっと不思議な気分だが、この日差しに直面してマスターと潤子さんの忠告が実感できる。

「まずチェックインしよう。タクシーは…居るな。」

 空港前のロータリーにはタクシーがズラリと並んでいる。空港からたくさん人が出て来たし、石垣から帰省なり旅行なりで出発する人もいるだろうから、それらの送迎だろう。少しタクシーは入れ替わり立ち替わり来るから、さほど待たなくても乗れる。

「オーシャンビュー石垣までお願いします。」
「はい。お荷物はトランクにお運びします。」

 運転手が車を降りて、俺と晶子の荷物をトランクに入れてくれる。改めて乗車して出発。空港から今回の宿、オーシャンビュー石垣までは車しか移動手段がない。レンタカーを使う手段もあるが、宿までは安全確実に移動したいからタクシーを使うのが無難だ。

「お客さんは新婚旅行ですか?」
「今回は休みを取っての旅行です。結婚して1年半になります。」
「そうですか。石垣は初めてですか?」
「はい。飛行機に乗るのも揃って初めてでした。」

 運転手の質問に答えるのは晶子。こういう時の晶子は生き生きしている。最初の新婚旅行かという問いで、夫婦と見られたことが余程嬉しいんだろう。

「飛行機が初めてだと、前の空港は知らないんですね。」
「前の空港?」
「今の空港は、最近出来たばかりなんですよ。」

 運転手の説明を聞く。以前の空港はもっと南の方−俺と晶子が降りた空港は島の東側にあるそうだ−にあったが、旧海軍の飛行場を流用したため狭くて、大きい飛行機が離着陸できない、那覇で乗り継ぎをしないといけなくて効率が悪い、市街地の拡張で騒音問題が出るなど色々な問題を抱えていた。
 新空港はかなり前から構想が浮上していたが、環境問題や地権者・漁協への補償問題などで二転三転し、ようやく現在の地に出来たのが去年のこと。内地−分からなかったが沖縄から見た本州などを指すそうだ−の大きな空港からの直行便が就航して、旅行等には便利になった。

「今の道−国道390号線を走っていくと、少しですけど前の空港だったところが見えてきますよ。」
「距離だけ見ると、市街地からは遠くなったんですね。」
「倍以上にはなりましたね。」
「私達が飛行機に乗った空港も、市街地から離れた場所にあるんです。」
「遠出するには必要だが、騒音は困るから遠くに作られるってのは何だか皮肉な話ですね。」
「こればかりは仕方ないですよ。空港がないと生活が不便ですし、此処のように観光で成り立つ土地は人が来ないと話になりませんから。」

 空港は朝は早くて夜は遅い。新石垣空港はどうかは知らないが、俺と晶子が飛行機に乗った空港−新小宮栄国際空港とやはり「新」が付く名前−は国際空港だから、便数も多い。飛行機が次々離陸して次々着陸するから、騒音は1日中起こっていると考えて良い。
 一方で、市街地は大都市や中枢の町、その近隣の町ほど拡張する。小宮栄のように近隣地域の工業・商業の一大拠点の都市は勿論、新京市のようにベッドタウンとして住宅地に特化した形で、市街地拡張は進む。それまで山か田んぼしかなかったところが、一気に分譲地になったりマンションになったりするのは新京市でもよく見る。
 日付が変わる頃には収まるし、朝早いのは健康に良い、と思うのは所詮他人事だからだ。そうでなかったら、騒音問題が大なり小なり彼方此方で起こっていない。音ってのは厄介な面もあって、騒音と認識される音量や音声は人によって違う。人によっては何でもない音でも、別の人にとっては騒音だったりする場合もある。

「そろそろ見えてきますよ。右手の方向です。」

 道路の向かって右側に、工事中の場所が見える。その奥に広大な敷地がある。此処が前の空港か。時間が倍以上になったというのが理解できる。

「此処に空港があったんですね。」
「はい。今は更地にしているところですね。」

 狭かったとは言え、飛行機が離着陸していた場所だから結構な広さだ。更地にした後は住宅地になるか市民病院や役所が移転して来るかするだろう。病院は入院や手術が出来る規模になると建物は勿論、駐車場も必要だから、この広さは総合病院が良さそうだ。もっとも俺が判断することじゃないが。
 風景は最初の山と畑−恐らくサトウキビ畑−から郊外、そして市街地へと移り変わっていく。俺と晶子が拠点にするホテルは市街地の一角にある。タクシーはホテルの敷地に入り、エントランス前で止まる。代金を支払うと運転手は荷物を下ろしてくれる。礼を言ってホテルに入る。
 ホテルは南国をイメージした木目調で、ソファなども統一されている。壁の間接照明が松明を模したもので、天井の複数の蝋燭を連ねたものを模した照明と共に、良い雰囲気で縁とロビー全域を照らしている。

「いらっしゃいませ。」
「予約してある安藤です。」
「ご予約いたきありがとうございます。」

 フロントの女性は、俺が出した旅行サイトの予約票を照合して、俺に返す。確認が取れたようだ。事前清算制だから、ここで代金を払う。

「お部屋は8階801号室です。こちらのカードキーをお使いください。チェックアウトの際にお返しください。」
「はい。」
「朝食はあちらのレストランにて、朝7時から9時までとなっております。こちらのチケットを係の者に提示願います。」
「2人で1枚ですか?」
「はい。」
「分かりました。」
「お部屋へはあちらのエレベーターをお使いください。ごゆっくりどうぞ。」

 俺は朝飯のチケット4枚が同梱されたカードキーのホルダーを受け取り、晶子と一緒に部屋へ向かう。エレベーターは2基あって、どちらも丁度1階で止まっている。中に入って8階のボタンを押す。…ん?動かない。…ああ、ここでもカードキーを使うんだな。カードキーをゆっくり抜き差しすると、ドアが閉まって上へ移動し始める。

「エレベーターでカードキーが必要なんですね。」
「不審者対策じゃないかな。不特定多数が出入りすると盗難とかで責任問題になるし。」

 ホテルも大規模になると何十もの客室があるし、そこに泊まる人はそれより多い。スタッフも同じ人が常駐するわけじゃないから、どの階に誰が泊まっているか直ぐには分からない。調べても顔写真まで撮ってないから名前や住所が分かる程度だし、それと人物を結び付けるのは難しい。
 泥棒は人気のないところは勿論だが、不特定多数が居る建物の方が入りやすい面がある。毎回出入りの度に宿泊客かどうかチェックするなんて出来ないから、何らかの歯止めを設けるなら、客しか持っていないものを使うことでのみ移動できるようにするのが得策だ。
 カードキーは客しか持たないものだし、扱いは簡単だから、彼方此方の鍵にすることが出来る。勿論初期費用はかかるが、客室に盗みに入られてホテルの責任問題になったら、最悪客が来なくなる。初期投資を惜しむか万が一の事態の収拾費用を惜しむかの二択だ。
 エレベーターが減速して8階に到着。途中一度も停まらなかったのはちょっと意外。エレベーターがある場所から左に2回曲がると、丁度廊下の突き当たりの位置に801号室がある。俺がカードキーを使って鍵を外し、ドアを開ける。

「良いお部屋ですねー。」

 部屋の中に入ってぐるりと見回した晶子が晴れやかな顔で言う。窓から見える景色は、水平線に区切られた青い空と青い海。南国調のソファとテーブル、TVが乗っている棚、そしてダブルベッド。俺と晶子の家のリビングと寝室とキッチンを合わせたくらいはあるだろうか。

「部屋全体が明るくて眺めが良いな。」
「別世界に来た感じがします。」

 晶子は窓際に行き、青が主体の景色に見入る。その横顔は心地良い春風や穏やかな潮風を体感しているかのようだ。旅行に来てこれまでのストレスから解放されるなら何よりだ。
 晶子の親族との対決に決着がつき、俺と晶子の生活は守られた。だが、どうにも諦めが悪いというかメンツにこだわるというか…。晶子の親族の本家当主は、事実上のクーデターで晶子の従兄が実権を掌握し、前の本家当主を強制的に隠居させたことで収束したが、新しい本家当主に面従腹背の輩が出て来た。晶子の両親と兄だ。
 彼らに言わせれば、晶子は本家当主を警察沙汰にして−無論本人の責任だし直接の被害者は俺−、それだけでは飽き足らず本家から600万もの大金を毟り取った極悪娘だ。聞いて馬鹿馬鹿しいとしか思えない言い分だが、新しい本家当主の意向に反して、高島さんに頻りに謝罪と帰郷を求めて来ている。
 高島さんが幾ら言い聞かせても聞く耳を持たない、否、理解できないらしい。兎に角晶子は速やかに離婚して帰郷しろ、親族に謝罪行客をしろ、の1点張り。「必ず私に連絡して来るだけ知恵が付いたと言えますね」と高島さんは笑って言うが、事態の完全解決は何時になるか分からない。
 高島さんには、晶子の両親と兄からの要求は全面拒否、連絡などは俺が窓口になることを伝えてある。高島さんの話では、本家でのクーデターは最初から和解を提唱していた元当主の姉家族以外は内心承諾していない。ただ、本家だから口を出せない。たかだか20代後半の若造が本家当主とは、という年功序列的な妬みもあるようだ。
 徹底抗戦を主張していた元当主の弟家族は、本家の財産にダメージを与え、更に危うく差し押さえされるところまで事態が悪化したことを、他の親族から一斉に責められた。しかも、そのうち1人が晶子の父親だから、向こうから見れば今回の騒動の元凶の父。針のむしろ状態だと想像するのは容易だ。
 それゆえ、これほど執拗に晶子に求めて来ているんだろうが、高島さんが機械的に憲法と民法の条文を出して、それらの要求は無効であり、まかり間違えても俺と晶子に直接要求するな、と警告している。その繰り返しでも理解できない、しようとしない頭の構造を知りたい。
 こうして晶子はストレスから遠ざけているが、その経緯自体は知っている。自分の両親と兄が自分の幸せを壊そうとしていることに、表には出さないものの晶子が心を痛めていることは俺でも分かる。両親と兄が無理解であることは、業を煮やして拉致してでも連れ戻しにかかる不安が常に付き纏うことでもある。
 マスターと潤子さんが連休中の旅行を進めたのは、晶子の不安を察したからだろう。店は変わらず順調だし、晶子の休暇中は他のスタッフが入る。1年経って他のスタッフも随分手慣れた様子だし、晶子が主に指導していた青木さんも料理を担当するようになった。後顧の憂いはない。

「散策や食事に行くか?」
「はい。」

 着いて早々だが、もう少しするとチェックアウトの時間。昼を挟んで4時間は基本的に外に出る時間だ。折角遠い南の地に来たんだし、日頃見られない世界を存分に感じたい。

 ホテルから外に出る。地図を見ると、俺と晶子が滞在するホテルは、国道390号線沿いにある。空港からタクシーに乗って来た道の終点、市街地内でループする場所の一角だ。この辺りは石垣市の中心街らしく、住宅は勿論、複数のビルがある。町の規模をビルの数や高さで判断するなら、家の周辺よりずっと都会だ。

「鷹田入より都会的ですね。」
「南国の都市だな。外国だとシンガポールとか。」
「市街地を離れると違った世界があるんでしょうね。」
「空港からの道もそんな感じだったな。」

 地図を見ると、島の南側、国道390号線沿いの沿岸部に市街地は集中していて、それ以外は小規模な集落が点在する形のようだ。歩いて回る分には、この市街地だけでも結構な広さ。爽やかな潮風が強い日差しを和らげるように感じる。
 少し南に歩くと、直ぐ海が見えてくる。此処から少し西に行くと離島ターミナルがある。此処から八重山諸島の各島を結ぶ高速船が出入りするとある。飛行機では短すぎるが橋を架けるには遠過ぎる。海を結ぶのはやはり船だ。

「海が穏やかですね。」
「海を見るのも久しぶりだから、気分が良いな。」
「鷹田入も小宮栄も、今生活に関わるところは全部内陸ですからね。…あ、祐司さん。見てください。岸壁の海が凄く綺麗ですよ。」
「底が見えるのか。岸壁近くでこんなに海が綺麗なのは、小宮栄の港じゃ無理だ。」

 有数の工場地帯でもある小宮栄の港の規模は大きい。一方で、海はコールタールみたいに黒い。これでも昔よりはずっとましになったそうだが、汚染が完全に除去されるには気が遠くなる時間が必要だし、港はずっと動き続けているから除去に専念できない。
 石垣の港は工場地帯に伴う原材料の輸送や生産拠点ではなく、人と荷物の往来に使われるためにあるようだ。それが、岸壁に打ち寄せる波の下に大小の石で作られた浅い底を見せる透明度を保てるんだろう。
 岸壁に沿うように道がある。俺と晶子はそこを東に向かって歩く。一部は国道380号線だが、そこから海側に近づくと殆ど歩行者天国だ。海を隣に見ながらの散歩はまさに非日常。潮風と潮の匂いを感じながら燦々と輝く太陽の下を歩く。

「結構アパートやマンションが多いな。」
「本当ですね。胡桃町と似た感じです。」

 歩いていて気付いたのは、予想以上にアパートやマンションといった集合住宅が多いこと。小宮栄や鷹田入に戸建てを持つのは想像も出来ないレベルだが、大都市とは言えない石垣はもっと戸建てが多いイメージだった。
 市街地やそれに近いところに住む方が暮らすためには有利なのは、何処でも変わらない。商店や病院も近いし幾つかあるし、将来的なことでは学校も近い。石垣も地図を見ると、今居る市街地に学校や病院、量販店が集中している。より集中に拍車がかかるんだろう。
 適当な交差点で北に向かう。市街地の奥深くに入り込んでいく格好だ。更に住宅が多くなる。都市国家っていうのはこんな感じなんだろうか。ところどころに飲食店が混じっている。住宅街の中に佇む飲食店は、晶子が今も働く店もそうだが、此処ではより住宅街に溶け込んでいる。
 良い時間だから、そろそろ昼飯にしたい。もう少し歩くと、幾分広い通りに出る。この通りは飲食店や商店が目立つ。この辺りで見繕うのが良さそうだ。

「晶子は何が食べたい?」
「八重山蕎麦…でしたっけ。そういうのが食べてみたいです。」
「やっぱりそうだよな。」

 どの店に何があるとかこれが美味いとか調べてないが、その土地の特産や名産と言われるものを食してみたい。そうそう来られる所でもないし−飛行機代がかなり大きい−、折角非日常の世界に来たんだから、非日常の食べ物を食べるに限る。
 昼飯を終えて散策を続ける。店頭の御品書で選んだ店は、「地域に根付いた飲食店」という風貌で、八重山蕎麦も美味かった。ピークより少し前だったが昼飯時だったから店にはそこそこ人が居た。その中でも晶子は相当目立つらしく、他の客が頻りに視線を向けていた。
 麺類を女性が食べると割と目立つもんだが、元々人目を引く晶子が食べると余計に目立つ。それを知ってか、晶子は頻繁に左手を周囲に見せるように動かしていた。既婚者アピールは、晶子にとって虫除けに必要で、その際効果が高いのが指輪ってわけだ。
 同時に、晶子は俺から視線を逸らさなかった。「夫以外の男性は眼中にありません」という意志表示だろう。彼方此方色眼を使われるよりずっと安心だ。もっとも、そんなことをされたら、怒鳴りつけるか見切りをつけて帰宅の準備をしに宿に戻るかのどれかだろうが。

「その土地の食べ物って、その土地の歴史や文化を感じさせますね。」

 店を出て少ししたところで、晶子が言う。

「サンゴ礁の島ですから稲作は不適。大きな川がないですから水は潤沢とは言えない。南国ってイメージより生活し難いんですよね。昔は伝染病もありましたし。」
「確かに。」
「そんな中で家畜を育てて農地を作って、その結果生まれたのが八重山蕎麦ですから、この島で生きて来た人達の歴史や努力、苦悩といったものが凝縮されているとも言えますね。」

 晶子の言うとおり、南国の暮らしは予想より楽じゃない。台風は当たり前のように直撃するし、それだと作物は全滅の憂き目にあう。今は品種改良が進んで強靭になっているが、昔なら台風の後は全滅した作物をただ茫然と見つめるしかなかっただろう。
 疫病の脅威は深刻だ。南国の伝染病というイメージのマラリアの他、高温で雨が多い−水溜りが蚊や鼠など伝染病を媒介する害虫害獣の温床になるようだ−環境は伝染病にとっては天国で、人間にとっては過酷。周囲を海に囲まれているから、昔はそう簡単に脱出出来なかった。
 豚やゴーヤといった南国諸島の名産や特産は、過酷な環境と暮らしから少しずつ積み重ねられていったこの地域の生活の糧だ。それを思えば、安易に残すなんて所業は到底出来ない。常にそういったことに思いを馳せる必要はないが、ただガイドブックのとおりに食べて飲んで遊ぶのが旅行というのはちょっと違う気がする。

「サトウキビも砂糖を取るためっていう理由だけじゃないだろうな。」
「食糧源でしょうね。甘いものは非常食になりますし。」
「食料がないとどうにも生きていけないから、その土地で育つ作物を選ぶと必然的にサトウキビになったんだろうな。」
「稲作が当たり前のようにあった地域からすると、どうして稲にしないのかって疑問が出るでしょうけどね。」

 今は飛行機も船もあるが、昔は船しかなかったし、構造も今よりずっと貧弱で規模も小さいから、外部からの物資は期待できない。自生する植物の中から栽培できるものを探し、整地して作物として、水も引けるように灌漑工事をする。想像も及ばない苦労が無数にあっただろう。
 生活を便利に快適にするのと、自然を残すのは相容れないものかもしれない。家を建てるには森を切って山を崩さないと場所が足りなくなるし、灌漑用水を蓄えるには川の形や流れを変えることも必要になる。何処まで自然を残すか、何処まで住みやすくするかはせめぎ合いで決まるもんだと思う。
 西の方向に歩いて行くと、ホテルの前を再び取って大きな交差点に出る。ホテルや商店、飲食店がひしめき、交通量も多い。此処が市街地の中心部なんだろうか。

「730記念碑、か。」
「交通方法の変更の記念なんですね。」
「アメリカ占領から日本に復帰したことの記念碑でもあるかな。」

 歴史や日本史ではあっさり流されてしまうが、日本で唯一本土決戦が行われたのが沖縄。甚大な犠牲者を出して終戦後も約30年アメリカの占領下におかれた。その影響は当然交通にも及んだ。車は右で人は左。日本と逆の流れだ。
 沖縄の日本復帰で一気に解決とはならない。交通は24時間動き続けているから、一斉に切り替えないと事故が続発する。1978年7月30日、石垣ではそれが行われた。僅か8時間の間を挟んで−緊急車両は例外だったようだ−一気に日本の交通方法に切り替えられた。それを記念したものがこの730記念碑だ。
 730記念碑も、それが築かれた歴史的背景も、此処で初めて知った。遠い場所と思っていたばかりか、行くことは想像もしなかった沖縄より更に南にあるこの場所で、沖縄の苦難の時代の1つとそれが終わった切り替わりに接することが出来た。

「車と人が逆だと、私なら直ぐ事故を起こしてしまいそうな気がします。」
「俺も自信はない。ペーパードライバーだからな。」

 運転したのは…付き合って1年少し経った時に「別れずの展望台」に行った時だけか。あの時の願掛けは結婚と夫婦関係へと発展して今に至る。かなり緊張した覚えがあるが、それで得られたものと比較すれば苦労と言えるもんじゃないな。
 車と言えば…今回、実は運転の予定がある。島とは言え結構な広さがあるから、巡るにしても徒歩は無理。どうも公共交通機関はバスとタクシーしかないらしい。地図を見ても鉄道の路線が1つも見当たらない。移動の自由度を増すためにはやはり車しかないという結論に達した。
 バスの路線や本数に期待は出来そうにない。晶子は俺以上にペーパードライバーだし、そもそも運転の自信はないと言う。タクシーを貸し切るには財布が心許ないから、レンタカーがベストだろう。今から緊張してしまうが、スピードを出さなければどうにかなるだろう。
 交差点を横断して、港の方に向かう。このあたりはホテルが多い。海に近いからだろう。西側が海だと夕日が見どころだから、ホテルを建てるには絶好の立地の1つだ。海に近い通りを歩いて行くと、次第に港の雰囲気が強くなって来る。

「あれって、コンテナですよね?」
「ああ。間違いない。物資の輸送は此処が拠点なんだろうな。」

 南の海沿いにコンテナが並ぶ。道とは高いフェンスで仕切られている敷地にある。最初に出た港は高速船が出入りする人の輸送のためで、こっちが物資の出入りのためにあるようだ。人と物資が混在すると事故の恐れもあるし、密入国もあり得る。大規模な港は人手と設備で対処できるだろうが、小規模な港や地方はそうはいかない。

「こっちは…ボートですか?」
「漁船っぽいが…、多分個人のボートだろうな。」

 逆の北側には、小型の船がひしめき合っている。個人用ボートが一時の眠りについているようだ。南側の物資のエリアは有刺鉄線を伴う高いフェンスで仕切られていて物々しいが、北側のボートのエリアは駐車場との区切りも明確じゃなく、かなりオープン。道を挟んで対照的な港の顔だ。
 このまま真っ直ぐ進み、岸壁の端に出る。穏やかに寄せては返す波の下に、やっぱり海の底が見える。魚が時折気ままに横切っていく。こんな綺麗な海と隣り合う港は、小宮栄だけじゃなくて大半の港ではお目にかかれないだろう。これを見ただけでも遠く石垣に来た価値はある。

「凄く穏やかでのんびりした雰囲気ですね。港全体が。」
「街中を歩いた時も感じたけど、全体的にゆったりしてるな。」

 通勤時に通過する小宮栄は、兎に角忙しない。電車は入れ替わり立ち替わり来るし−そうでなかったら通勤通学が大変なことになるが−、ホームを行き交う人は常に早足。ぼやぼやしてると人波に流されるか、迷惑そうな顔を向けられる。車は常にひしめき、少しでもスタートが遅れるとクラクションが鳴らされる。
 対して此処は、のんびりゆったりした時間が流れている。人が時間を気にしながら移動したり、車が一刻も早く走ろうとする様子もない。偶に見かけるスピードを出す車は、ナンバーを見るとレンタカーだ。時間に束縛されない生活が此処にある。
 過酷な自然と格闘して生活圏を確保・拡充してきた筈なのに、この緩やかな雰囲気はそれを感じさせない。島唄…だったか?緩やかな音楽が似合う。もしかすると、自然と格闘してきた歴史は此処の人々にとって勝利への軌跡ではなく、自然と何度も交渉して融和していった軌跡なのかもしれない。

「これだけ違うと、違う世界にきたみたいですね。」
「一番近い外国と言えるかもな。元々琉球王国っていう独立した国だったし。」

 まだボートで海に繰り出すには早い時期だからか、見える範囲に動いているボートはない。駐車場にポツポツ停まっている車と共に佇んでいるボートも、心なしか主が来るまでの期間日向ぼっこをしているように思う。
 忙しなく、まだ干渉問題が完全解決に至らないストレスを抱える日常から一時的にも脱却するために、初めての飛行機を使ってまで石垣に来た。新京市から遠く南に離れたこの場所には、確かに非日常の世界と時間がある。俺は来て良かったし、晶子もそう感じているだろう。
 石垣初の夜。食事を近くの飲食店で済ませてホテルに戻り、部屋で寛ぐ。港のボートが係留されているところで潮風を浴びながら時間が過ぎるのを待ち、夕日が水平線に沈んでいくのをリアルタイムで見届けた。普段じゃ絶対出来ない、もの凄く贅沢な時間の使い方だ。
 水平線自体、普段の生活で見る機会がない。鷹田入は新京市の内陸部だし、高低差が大きい地域。水平線より先に家とマンションが作る凸凹の地平線がある。俺が帰りの電車に乗っている時に凸凹の地平線に沈む夕陽を見る機会が若干ある程度だ。
 殆ど船も通らない、穏やかに揺れ続ける海が作る真っ直ぐな水平線に、夕日が赤く染まりながら沈んでいくのは、圧巻で綺麗だった。夕日が沈む時にあんなに大きく見えるとは思わなかった。夕日が沈むのが意外に早いのにも驚いた。ずっと前から存在を知って見たこともある筈の夕日には、新鮮な発見が幾つもあった。

「夕日は思わぬ収穫でしたね。」
「水平線に沈む夕日なんて、TVとかでしか見られないもんだと思ってた。」
「海辺に行けば本州でも見られるとは思いますけど、時間の流れ方が違うから、見え方も違うように感じます。」

 ベッドに横になり、晶子は俺の胸に上半身を乗り出す形で居る。横幅が広いベッドだから出来ることだ。

「少し…日焼けしたか?」
「日焼け止めは塗ったんですけど。…そう言う祐司さんも少し。」
「4月下旬で日焼けなんて、流石は南国だな。」

 晶子の顔はほんの少し赤くなっている。照れや興奮から来る色とは違う。俺も少しばかり頬が火照っているのを感じる。やっぱり照れや興奮に起因するものじゃない。となれば、日焼けだろう。あの日差しだけでこうなるんだから、長袖じゃなかったら腕もやられていただろう。
 一応帽子も買って持ってきたが、正直長袖も空港から出るまで半信半疑だったから鞄の中。だが、今日の午後外に居ただけで、日焼け止めを塗ってもこうだから、帽子を被った方が良さそうだ。頭を日焼けすると、剥けた皮がフケみたいになって見た目汚いんだよな。

「南十字星を見るのは何時にする?涼むのも兼ねて風呂に入ってからにするか?」
「うーん…。難しいところです…。」
「そう悩まなくても良いところだと思うが。」
「お風呂に入ってからも、お風呂に入る前も、どちらも捨て難いんです。」
「星は逃げないし、天気も当面問題ないから、今日はこっち、って思った方にすれば良い。」

 変わったところで拘るな…。納得できるまで考えて選べば良い。今は時間を気にしなくて良いんだから。その間、俺は胸に重力で押しつけられる晶子の胸の感触を堪能できるし。

 結局、風呂の前に星を見ることになった。強烈な日差しが消えた夜は、潮風が涼しい。新京市だとまだ夜は肌寒いこともあるこの時期、夜風が涼しいと感じるのは南国ならではだろう。宿の屋上にあるテラスに出る。宿泊客限定で夜間開放されるこの場所は、高さもあって星を見るには良い。

「星がよく見えますね。」
「こんなに星が多かったんだな。」

 大小様々な星は、犇めき合うように空を満たしている。新京市から見る星空は、冬の寒い時期にオリオンや北極星といった有名どころがはっきり見えるくらい。それに対して、此処では空を星が満たしているという表現が相応しい。
 初めて見るような小さな星も見えるのは、周囲の光が少ないからだろう。街灯、家、工場、繁華街、エトセトラエトセトラ。それらが集まると夜景として持て囃されるが、空にある天然の夜景は覆い隠される。光害とも言われる人工の光の邪魔は、天体観測には最大の障害だ。
 緯度の問題もさることながら、たとえ緯度的には見える位置だとしても、下界に光が溢れていたら覆い隠されてしまう。人工の光は勿論、立ち並ぶ家やビルも星を隠す。南が海で水平線が綺麗に見える位置だから、天然の夜景がその全容を現したんだろう。

「これなら見える…か?」
「えっと…。」

 晶子は星座早見盤と星空を見比べる。この星座早見盤は、晶子が旅行前に探して買って来たものだ。星座の位置を調べるには、今はスマホのアプリでも出来るそうだが、生憎俺と晶子は結婚前に契約して今も使っているガラケーと言われる旧式の携帯。そんな上等なものは使えない。
 晶子とて南十字星を見たいのは勿論だが、そのために思い出深い携帯を変えるつもりはさらさらない。そこで星座早見盤を探して手に入れた。スマホのアプリのせいで需要が減っているのか入手できたのは旅行に行く1週間前。俺の前で両手で提示した時の顔は、正月にめぐみちゃんがアトラクションでぬいぐるみを獲得した時の顔と重なった。

「ケンタウロス座が…あれだから…。」
「方向は合ってるか?」
「多分…。」

 星座早見盤と言えど、読み取るのはあくまで人間。それが正しいかどうかを識別するのは、日頃天体観測に縁がない生活では難しい。晶子は真剣に星座早見盤と星空を何度も見比べて、南十字星を探している。俺は晶子に話しかけるのを止めて、横から星座早見盤を見て南十字星を探す。

「あれ…。あそこ…。」

 暫く頻繁に顔を上げ下げしていた晶子が、星空の一点を指さす。

「水平線に近いあのあたり…。4つの星があるところ…。」
「確か、ニセ十字っていうよく似た並びの星があるんだよな。それはどうだ?」
「それとは違います。星の明るさが不均等な方が本物なんです。あそこにあるのは…本物…!」

 晶子が指さす方向と星座早見盤を照合して位置を見る。水平線に近い位置に輝く、十字を描く4つの星。下と左が特に明るく輝いている。星座早見盤にある特徴と一致する。南半球に行かないと見られないと思っていた南十字星に間違いなさそうだ。

「間違いなさそうだな。」
「見えましたね!晴れて良かったです!」

 晶子は声を弾ませ、小さくその場で跳ねる。晶子がこれほどはしゃぐなんて珍しい。石垣行きを決めたのは晶子が南十字星を見たいと言ったからだし、それが現地入り初日の夜に無事達成されて嬉しさひとしおってところだろう。

「星座早見盤でよく探せたな。晶子が探せなかったら分からなかった。」
「それこそ、星座早見盤があったからですよ。星が多いですし、見たこともない並びばかりですから。」
「普段見慣れている星空や星座が、北側のものばかりってことか。」

 星座早見盤にある星座は、オリオンや北斗七星−正確には小熊座−といった有名どころはなく、名前は聞いたことがある竜骨座やケンタウロス座、それ以外ははえ座やらぼうえんきょう座やら。こんな星座があったのかと思うようなものばかりだ。
 有名どころはギリシャ神話や星占いで関連付けられているのもあるが、それらはどれも北半球で生まれたもの。南の星空にも明るい星はそこそこあるが、知名度とそれを基礎にした長年の歴史がある北の星空の方が有利だ。4大文明の多くが低緯度地帯だから、それらが続いていたら南の星空が星座の主体になっていただろう。

「此処からでもこれだけはっきり見えるんだから、周囲の光がもっと少なかったらもっとよく見えそうだな。」
「少し街灯とかがありますけど、これでも天体観測には邪魔になってるんですね。」
「街灯を消すのはそれこそ街灯の存在意義を否定するようなもんだから無理だとして、周囲の明かりがもっと少ない場所を探してみるか。」
「あるでしょうか?」
「市街地が固まってるから、そこを離れて高台に行けば良い筈。明日からレンタカーを使うし、そんな場所を探すのも兼ねられる。」
「そうか。そうですよね。」

 レンタカーを使うのは島巡りが目的だが、それは当然果たせるし、単に運転して景色を見て回るより明確な目的が出来た。土地勘がないから右往左往するだろうが、晶子はそれをむしろ良しとするだろう。俺と何かをすることが晶子の最大の楽しみだから。

 闇の中で深い溜息。晶子は隣で仰向けになってぐったり横たわっている。星空を暫し堪能して、部屋に戻って晶子を堪能…したが、その分俺も体力をごっそり持って行かれた。
 例の件以来、晶子はより子どもが欲しくなったようだ。正月にめぐみちゃんと会い、2泊3日で遊んだりしたこともその願望に拍車をかけた。元々子どもが欲しくて、その際のリスクが少ないと判断して俺との結婚まで漕ぎ着けたくらいだが、めぐみちゃんが会う度に成長著しいこともある。
 今はまだ「お父さん」「お母さん」と呼んでくれるが、やがては俺と晶子との関係を理解して「お兄さん」「お姉さん」とか呼び方が変わる。晶子はめぐみちゃんで母親気分、否、母親代わりの環境と心境に居たが、それがやがて消滅することは、晶子自身よく分かっている。
 ならば、いよいよ本当の自分の子ども、つまりは俺との子どもが欲しいという熱が強まる。だが、ただ子どもを作るために夜を営む気にはなれない。俺ととことん愛し合い、その結果生まれる文字どおりの愛の結晶として宿すことを理想としている。
 理想論が過ぎるという見方もあるだろう。だが、めぐみちゃんのかつての不幸な境遇に接したことが、理想を叶える形で子どもを宿して産みたいという願いに繋がっている。親は子どもを選べても、子どもは親を選べない。めぐみちゃんを通じて俺も痛感したことだ。

「う…ん。」

 隣の晶子がくぐもった声を上げる。そのまま身体全体をゆっくり回転させて、俺に密着する。身体を起こす体力も残ってないようだ。そうなったのは半分は晶子本人のせいでもあるんだが。

「凄かった…。」
「晶子もな…。」

 昼間に視線の数々を指輪を翳して一蹴し、上も下も下着が透けることすら頑強にガードしていたことからすると、信じられないくらい豹変する。どんなことでもするし言うが、特に上になる時が凄い。それを2回連続ですれば、身体を起こせなくなるほど体力を失って当然だろう。

「天井知らずと言うか…、此処まで変わるんだな…。」
「この時だけは…特別ですから…。」

 晶子は俺の胸に手を載せる。

「私が女になる時…。」
「昼間のガードの固さはその反映か…。」
「はい…。女である時だけ…、全てを晒して欲求のままに口を開いて動きます…。私が女である時を知るのは…祐司さんだけ…。」

 独占欲をくすぐることを言う。昼間と改めて比較してみれば、その言葉が真実であることが分かる。裸体を隅々まで晒し、声が出るままに喘ぎ、求めるがままに動く。それは俺だけが見て聞いて感じることが出来る。だから俺も力の限り動いて放出する。

「それは、子どもを産むためのことか?」
「それも勿論あります…。けど…、それだけが目的じゃない…。祐司さんの全てを私に釘付けにしたいから…。」
「もうとっくにそうなってる…。」
「もっと欲しい…。」

 偶に晶子の欲求が勝り、俺は魂ごと吸い取られるような錯覚を覚えることがある。その時は、最後の一滴まで自分の体内に取り込むべく俺の上で激しく動く。欲求は自分だけに向けて欲しいと晶子は以前から言っている。常にその対象であるには、他では見せない自分を見せるに限るという回答に行きついた結果だろう。
 体力を根こそぎ奪われることもしばしばだが、晶子の考えはむしろ嬉しいしありがたい。何せ晶子はあらゆる面で良い女。その良い女を独占出来て、俺しか知らないことを見たり聞いたりしたりされたり出来るのは、この上ない満足感を生む。晶子は俺の喜ぶつぼをよく分かっている。
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