雨上がりの午後

Chapter 338 「娘」との時間1

written by Moonstone

「祐司さん。準備出来ました?」
「ああ。ネクタイをしなけりゃ早い。」

 年が明けて2日。京都に向けて出発する日だ。出発前に火の元を確認して、俺はリビングで、晶子は寝室で着替える。ネクタイがないと季節に合わせて服を重ね着する程度。今回はコートの下にブレザーを着ているのが普段の外出と違うくらいだ。こういう時、男は楽で良い。
 晶子は寝室とリビングの仕切りである襖から顔を出している。俺の着替えが終わったことを確認して、襖の隙間を広げて全容を現す。上はハーフコートに包んでいるが、下は久しぶりのフレアスカート。仕事だとスカートは邪魔になるからどうしても遠ざかる。こういう外出時とかに見られる新鮮な出で立ちだ。
 昨日の夜に纏めた荷物が入ったバッグをそれぞれ持って、家を出る。全ての鍵を確認するのはお約束と言うべきか。駅まで歩いて電車で小宮栄まで出て、そこから京都まで新幹線。晶子と一緒に電車に乗るのは久しぶりだ。これだけ多くの荷物を持っての移動となると、新婚旅行と銘打った京都旅行以来だ。
 その実質初日に、最初に訪れた京都御苑でめぐみちゃんと出会った。あの時は怯えと諦めが混在していた小さな女の子だった。あれから早1年半が経過して、何ヶ月かに1回会う度に元気に大きくなっている。昨日届いた高島さんとの連名で届いた年賀状には「お正月に会えるのを楽しみにしています」という趣旨の文面がしたためられていた。

「めぐみちゃん、また大きくなってるかな。」
「私だと、そろそろ抱っこするのがきつくなってくるかもしれませんね。」

 去年の夏に、高島さんが弁護活動に際しての面談と併せてめぐみちゃんを連れて来た時も、めぐみちゃんは随分大きくなっていた。最初の印象が本当に小さくか細かったし、会う頻度はどうしてもかなり限られるから、余計に一気に大きくなっているように感じる。成長が著しいのは間違いない。
 成長著しいのは身体だけじゃない。年賀状の文面を見ると、明らかに知性が向上してきている。たどたどしい平仮名だけの文章から、漢字交じりの整った文体に変貌している。小学生だから当たり前というのは早計過ぎる。小学生どころか大学生でも碌に漢字が書けない輩は居る。
 めぐみちゃんは、俺や晶子のようになって俺や晶子に褒められたいなら本を読んで勉強するように、と高島さんに言われているそうだ。以前高島さんの家を訪問してめぐみちゃんの部屋を見せてもらった時も、たくさんの本があった。本を読むにしても俺と晶子に読んでもらうことから、一緒に読み、更には自分で本を探して読むようになっている。
 会える機会が限られている分、次に会う時にはもっと成長した自分を見てもらおう、そして褒めてもらおうとめぐみちゃんが意気込んでいる証だ。今日会ったらたくさん褒めてやろう。きっとそれ以上のものを見せてくれる筈だ。

 京都駅のホームに滑り込んだ新幹線から降りる。車内に暖房が効いていたのもあってか、随分寒く感じる。京都は盆地にあるから夏暑くて冬寒いという。だからこそ「雪の金閣寺」とか名勝名跡が映える構図が出来るんだろうが、コートに身を包んでいても冷気が染み込んで来るようだ。厚着をしてきたつもりなんだが。
 改札から京都駅構内を通って、バス乗り場に出る。高島さんの家の最寄りのバス停は…あそこだ。1つ間違うと明後日の方向に飛ばされて、しかも一方通行で戻れないこともあるのが京都のバス路線の恐ろしいところ。地元の人には当たり前だろうが、年に1回来るか来ないかのペースでは慣れようがない。
 バスは10分ほど待っていると入って来る。乗客の数はまずまず。奥の2人席に並んで腰かけ、最寄りのバス停までバスに揺られる。めぐみちゃんに会えるのはもうすぐだ。どんな様子で待っているのか楽しみだ。

 バス停で降りる。京都駅前の賑わいから打って変って静まり返っている。時期柄帰省している人も居るだろうが、元々この界隈は閑静な住宅街。去年晶子の両親の家に行った時のように会う人、否、見かける人が怪しいものでも見たかのようにヒソヒソするよりずっとましだ。
 少し歩いて行くと、見覚えのある門構えが見えて来る。高島さんの自宅兼事務所だ。表札で念のため確認してインターホンを押す。少しして応答が来る。

「はい。どちらさまでしょうか?」
「あけましておめでとうございます。安藤です。」
「ようこそお越しくださいました。ドアを開けますのでどうぞお入りください。」

 ドアのロックが外れてゆっくり開く。俺と晶子が入るとドアは逆の動きをする。そのまま道に沿って歩いていくと、記憶の一部にある風景が今見える風景と重なって来る。やがて玄関が見えて来る。その前には3人の人影が見える。

「お父さーん!お母さーん!」

 人影の1つが勢い良く走って来る。晶子がしゃがんで受け入れる体勢をして間もなく、人影−めぐみちゃんが飛び込んで来る。晶子は感慨溢れる表情でめぐみちゃんを抱き締める。晶子とめぐみちゃんの繋がりは数カ月の期間と隔たりで脆くなったりしない。

「安藤さん。遠いところをようこそお越しくださいました。」

 近づいて来たのは、森崎さんと高島さん。今まで森崎さんが出迎えて屋内に居る高島さんのところに案内する形だったが、今回は高島さんも出て来たか。

「あけましておめでとうございます。」
「おめでとうございます。寒い屋外で立ち話も何ですので、中にお入りください。」

 俺は晶子の分の荷物を持つ。2泊分の荷物はそれなりに重いが、距離は大したことないし、片手でぶら下げられない重さじゃない。晶子はしっかり抱きついているめぐみちゃんを抱っこしていくのが良い。

「ありがとうございます。」
「荷物は俺に任せて、めぐみちゃんをしっかり抱っこしてやってくれ。」
「はい。」

 高島さんと森崎さんに先導されて中に入る。建物の中は良い具合に暖かい。寒い筈の玄関や廊下もコートを脱いで差し支えないくらいだ。全館空調完備なんだろうか?2LDKの今の家でエアコンがあるのはリビングのみ。ドアや襖を開けることで寝室とキッチン、脱衣場までは何とかカバーできる程度だ。

「荷物がありますから、先にお部屋に御案内してください。私はリビングでお茶の用意をします。」
「分かりました。どうぞこちらへ。」

 廊下の途中で分岐して、森崎さんに先導される。めぐみちゃんの部屋の廊下を挟んで向かい側のドアを、森崎さんが開ける。

「こちらのお部屋をお使いください。鍵をお渡しします。」

 中は6畳ほどの押し入れがある和室で、布団が2組敷かれてある。普段使われない部屋だろうが、綺麗にされている。俺は部屋の隅に荷物を置き、森崎さんから鍵を受け取る。

「念のため、貴重品は常時携帯してください。」
「分かりました。」
「では、リビングにご案内します。」

 部屋を出て鍵を閉め、森崎さんの案内でリビングに向かう。この家の中で最も馴染みのある場所では、高島さんが茶を淹れていた。

「ご案内しました。」
「ありがとう。以降は私がします。」
「では、失礼します。」

 森崎さんが退室し、俺と晶子は高島さんの向かいに座る。めぐみちゃんは相変わらず晶子に抱っこされたまま、しっかり晶子にしがみついている。この様子は全然変わっていない。俺は持参した手土産を渡す。晶子がめぐみちゃんの抱っこで手が塞がっているし、これくらいは俺でも出来る。

「わざわざご丁寧にありがとうございます。」
「こちらこそ、昨年は大変お世話になりました。」
「めぐみの依頼もありますし、大恩あるお二人の御力になれれば幸いです。」

 茶と茶菓子をいただきながら、高島さんから現状の報告を受ける。
 晶子の親族−高島さんは「問題の一族」と表現する−は相変わらず内輪もめを続けている。その中でも根本の原因は晶子にあるとして断続的に高島さんに要求が出される。要求と言うと聞こえは良いが、要は「一族を混乱させたことを謝罪しろ」「男を紹介するから速やかに旦那と離婚して実家に戻れ」という、前回の「訴状」の焼き直しばかり。
 高島さんは「そんなローカルルールが通用しないのは本家当主とやらの醜態で分かった筈」「分からないなら裁判で白黒つけても良い。必ず貴方がたが負ける」「間違っても安藤夫妻に直接接触すれば、一族郎党が路頭に迷う金銭の支払いを強いられることになる」と一蹴。ついでに「今回の賠償金支払い期限は来年1月末。耳を揃えて支払うように」「払えないなら強制執行するのみ」と事務的に通告している。
 晶子の親族は内輪もめを続けているが、警察沙汰になった本家当主は自宅に引きこもっている。本家当主から見て実弟2人−その1人が晶子の実父−の一族が強硬派、姉1人の一族が和解派で、その他の親族はあちらに付いたりこちらに付いたりしている。肝心の本家当主は息子夫婦、つまり晶子の従兄夫婦に一族のメンツを押しつけている。
 一族の争いは収拾がつく見込みはないが、どちらにせよ今月末に600万を即金で払わせる。払わなければ強制執行あるのみという方針は変わらない。この辺の処理は全て行うから、念のため身辺に注意して欲しい。万が一直接接触してきたら即警察と自分に連絡して欲しい。
 これらが高島さんからの報告。情勢は何も変わっていない。ただ1月末へのカウントダウンが進行しているだけ。600万の支払いは公正証書に明記されていることだし、期日が来ればより世間体が悪い事態が待っているだけなのに、それを放置して延々とメンツを保とうと争っている様は、あまりにも無様だ。

「金銭が絡んだ争いは、親族の方が醜悪なものになりやすいものです。相手ももはや脅しやハッタリではないことが分かったようですから、600万という大金の支払いをめぐって更に激しく醜悪な争いが続くでしょう。」
「みっともない話ですね。」
「親族や会社での地位は、その世界でのものでしかありません。そこを外れればただの人であり、法律も適用されます。狭い社会の中で生き続け、それを受け継いでいくことが当然とする人には、それが理解出来なかった。親族の方はようやく理解出来て来たようですが、もはや手遅れです。」
「年末年始も挟んでしまいましたが、引き続きよろしくお願いします。」
「全てお任せください。お二人は此処に御滞在の間、めぐみと目いっぱい遊ぶことだけ考えてください。」

 正直顔も見たくないレベルだし、向こうは数で勝るから直接会って交渉は難しい。そもそも本題である賠償金の支払いに入れるかどうかも怪しい。ここは高島さんに引き続き任せるのが賢明だ。弁護士という肩書の前には流石に手出しすることは憚られるようだし、これ以上警察沙汰になったらもうあの土地では生きていけないだろう。

「気分を変えて、お昼にしましょう。」

 時間は丁度昼飯時。何処かに食べに行くんだろうか?京都の地理は、寺社仏閣の名前は知っていても地図やガイドブックを見ないと行き方は分からないレベルだし、飲食店となるとガイドブックか勘に頼るしかない。京都在住の高島さんならその辺問題ないだろうが。

「場所をダイニングに移動しましょう。用意は出来ています。」
「どなたが料理されたんですか?」
「私ですよ。」

 晶子の問いに対する高島さんの回答は少々意外だ。てっきり料理はしないで、森崎さんあたりに作ってもらっているかと思った。

「おばあちゃんの料理も、凄く美味しいんだよ。」

 晶子に抱きついたままのめぐみちゃんが、顔だけ上げて言う。めぐみちゃんが嘘をつくとは思えないし、イメージだけで判断しちゃいけないってことか。高島さんの案内でリビングからダイニングに移動する。

「私の場合、普段は休日の作り置きがメインですね。その分、休日に作り込むタイプです。」
「お仕事の関係ですか?」
「ええ。一応カレンダーどおりにしてはいますが、クライアントとの打ち合わせや会合などで出かけることもあって、ともするとどうしても外食ですませてしまいがちになります。めぐみの教育の面でも外食任せは好ましくありませんし、良い気分転換にもなるんです。」
「気分転換、ですか。」
「仕事と全く異なるのと、成果が目に見えて分かるので、気分転換にはもってこいです。」

 なるほど。気分転換という観点もあるのか。晶子の場合、料理は生活の一部であり、仕事でもあり、趣味でもある。1日の中で料理をしない時は、今回のように泊りがけで外出する時以外はないと言って良い。いかに手持ちや簡単に買える食材を使って美味い料理を作るか、いかに複数の料理を効率的に美味く作るか、など常に探求してその成果や経験を次回に反映させている。
 晶子は料理に関してはかなりストイックだ。キッチンの掃除を含めてすべて自分で管理しているのは、その表れだろう。その晶子から見て、料理を気分転換とすることはどう映るんだろう?基本的に食べる側を堅持する俺は、理由はどうであれ美味ければ良いという安直な考えだ。
 ダイニングはリビングと壁を挟んで隣にある。当然というか、キッチンも隣接している。庭が一望できる東西に広い一室には、テーブルと椅子が4つ、2脚ずつ組になって向かい合うように並んでいる。普段座るのは高島さんとめぐみちゃん、そしてめぐみちゃんの実の両親といったところか。

「お二人はこちら側に座ってください。めぐみ。ご飯にするからそろそろ離れなさい。」
「はーい。」

 此処でようやくめぐみちゃんは晶子から離れる。それでも、晶子がしゃがんでからようやくだ。コアラだったか?子どもが母親の背中にずっとしがみついているのを写真か何かで見た覚えがあるが、それと似ている。
 高島さんは隣接するキッチンに向かい、何度か往復して料理を出して来る。複数のおにぎりと漬物、味噌汁、鶏の唐揚げ、野菜サラダが、味噌汁以外すべて大皿に乗って出て来る。これだけ作るのも結構な手間だろう。

「パーティーみたいですね。」
「お二人はお若いですし、こういう場では色々な料理を選んで食べる方が楽しいかと思いまして。」

 馴染み深い料理が並んでいるだけで興味や食欲をそそられるし、おにぎりは見た目だけでは何が入っているか分からないから−変なものはまず入っていないだろう−、具が出て来るまで期待しながら食す楽しみなどもある。弁当に近いせいか、余所の家にお邪魔した感覚が薄れる気がする。
 高島さんが茶を淹れて、全員座って「いただきます」。全員図ったようにおにぎりに手を伸ばす。やっぱり何が具に入っているか考えてしまうんだろう。作った高島さんも全ての具の配置を覚えているとは考え難い。安全なルーレットだ。

「…おかかだな。」
「私は梅干しです。」
「めぐみは鮭だよ。」
「私は昆布ですね。」

 全員違う具のおにぎりを引き当てた。おかかに梅干しに鮭に昆布。どれもオーソドックスなものだ。俺と晶子は多少味がきついものでも何とか対応できるが、めぐみちゃんには無理だ。何よりこういう場では安心して食べられる方が良い。
 おにぎりを1個食べた後は、めいめいに料理を選んで食べる。京都在住の家の料理だから京料理とかその味付けとかになるのかと思っていたし、そもそも京料理はどんなものかもよく知らない。オーソドックスな料理の数々は、そういった不安を完全に解消してくれた。
 料理自体も美味い。普段晶子の料理を食べているから、晶子の味付けとは違う部分もある。だが、「この家の味付け」の範疇だ。全部が全部同じ味付けになるわけはない。学んだ方法や受け継いだ先は異なるから、細かい部分で異なる。何の抵抗もなく食べられて「美味い」と直感出来るなら問題ない。

「美味しいです。」
「めぐみちゃんの言うとおりでしたね。」
「良かったです。お二人は普段奥様の料理を食べておられるようですから、余所の家で食事をするのはあまりないことなのでは?」
「はい。外食自体殆どないですね。」
「お母さんのご飯、凄く美味しいから、お父さんは喜んで食べてそうだね。」
「そうだな。食べ過ぎないように気をつけないといけないかもな。」

 美味い料理はたくさん食べたくなるし、腹が減っているとその欲求が最大限に達する。朝昼晩と3食かなり食べる。今は代謝が良いから太らないが、気をつけるようにした方が良いかもしれない。だが、それだと美味い料理を食べたいという欲求を満たせず、ストレスになりそうな気もする。贅沢な悩みだろう。
 食事は普段、晶子と向かい合って食べるか、俺1人。晶子の勤務体制と休日の関係で、俺1人になることもあるのは十分理解している。こうして大勢で食事をすると、今2人か1人の我が家の食卓が賑わうことを想像してしまう。幼いうちはすったもんだしそうだが、それも数年のことだ。
 めぐみちゃんはきちんと椅子に座って行儀よく元気に食べている。めぐみちゃんは偏食とは無縁なようだ。最初の頃は食べこぼしが出て晶子に拭いてもらったりしていたが、もうその必要はないようだ。夏に来た時もそうだったが、めぐみちゃんの成長ぶりは目を見張る。

「めぐみちゃんの学校は、お昼は給食?」
「うん。色んなメニューがあるよ。」
「小学校は給食が楽しみなんだよな。カレーやデザートが楽しみだったり、休んだ子のデザートを争奪したり。」
「何処でもそうなんですね。」
「お父さんとお母さんのお昼ご飯はどうしてるの?お父さんはお母さんのお弁当なんだよね?」
「そうよ。お母さんはお仕事がある時はお店で食べて、お父さんとお休みが合う時はこんな感じで一緒に食べてるよ。」

 シフトで昼間に勤務がある場合、店では昼飯が出る。それはシフトの状況によって晶子が作ったり潤子さんが作ったりする。昼飯時の飲食店は混雑するのが常だから、時間をずらして食べる。きちんとした料理が出るから新しく入ったスタッフにも好評だ。
 昼飯時は空腹を満たす時でもあるし、休憩や娯楽の時でもある。会社では弁当を食べた後晶子から借りた本を読んだり、敷地を散歩したりしている。翻って高校までだと友達と給食や弁当を食べながら話をしたりして、何だかんだと楽しかった記憶がある。
 めぐみちゃんに聞いてみる。給食の光景は俺と晶子の小学校の給食の光景と同じようだ。好きなメニューはカレーやハンバーグといった馴染み深いもので、デザートはある時とない時があるが、ある時はプリンや夏場だとアイスクリームなど。休みの子が居てその日がデザートありだと、必ずじゃんけんの勝ち抜き戦が起こる。
 めぐみちゃんが席を外して給食の献立表を持って来る。俺が小学生の時よりご飯の頻度が多いような気がする。献立表自体も曜日毎に色分けされていて、文字も大きめで、カロリーも記載されていて見やすく分かりやすくなっている。カロリーは記載の必要があるのか少々疑問だが、食事制限がある子も居るんだろう。
 最も目を引くのはアレルギー品目の記載だ。アレルギー品目は曜日毎に別項目として全て記載されている。色分けも赤で警告の意味を持たせているんだろう。卵や乳製品、小麦といったアレルギーの有名どころは、見たところ全ての曜日に存在する。料理に疎い俺でも、これらの食材を使わずに料理をするのは相当難しいことくらい分かる。

「アレルギー品目の記載があるのが、今時というか。」
「私の時もなかったですね。」
「近年食物アレルギーが認知されてきて、同時に子どもたちの間で食物アレルギーが増えて来ているので、学校側も対策が必要になって来たんでしょう。」
「これらのアレルギー品目に該当して給食が食べられない場合は、どうしてるんですか?」
「その場合、親御さんが弁当を持たせています。食物アレルギーは服薬では抑えられませんし、生命に直結するものですから。」

 食物アレルギーは食道などが腫れて呼吸困難になったりして、最悪死亡する。ある意味猛毒を食べさせられるようなもんだ。アレルギーというと4月あたりの花粉症くらいしかイメージがなかったが、食物アレルギーは給食の分野にも及ぶ社会問題と見るべき段階にあるようだ。
 会社の食堂には日頃行かないが、班の人達との会食を兼ねて弁当を持って行った時、メニューにアレルギー品目の記載があったのを見た。食堂で死亡事故が出るのは食中毒が出るのと同じくらい致命的だ。会社としても安全対策として必要なんだろう。
 幸い、今のところめぐみちゃんには食物アレルギーはないそうだ。だが、俺と晶子もそうだが食物アレルギーは何時発症するか分からない。決して他人事じゃないし、アレルギーを抑える薬とかが出来るのを期待してやまない。皆が給食を食べているのに自分だけ食べられないという疎外感はかなり重いだろうし。
 アレルギーに始まり、めぐみちゃんから学校での様子や友達との遊び方を聞いたり、俺と晶子が自分の頃の話をしたりしているうちに、食卓の料理はすっかりなくなった。4人いることを含めても結構な量だったと思うが、それらが綺麗さっぱりなくなると清々しく思う。

「御馳走様でした。」
「美味しかったです。」
「ありがとうございます。めぐみもきちんと食べたわね。」
「美味しかったもん。」

 めぐみちゃんは満足そうで、少し得意げだ。少なくともあれ嫌いこれ嫌いと言って残すより、綺麗に食べた方が見ていて気持ちが良い。給食もきちんと食べているそうだし、食べ盛り伸び盛りの今はきちんと食べるものを食べた方が良い。
 食後の一服で、高島さんが淹れてくれた茶を飲む。濃いめの茶が不思議と清涼感を醸し出す。昼は居室で1人で食べているし−食堂が安くて美味いらしい−、茶は一応淹れるがさっさと飲んでしまう。こうして多人数で賑やかに食べた後、ゆったり茶を飲むのは気分が落ち着く。

「さて、おなかいっぱいになったから、これから夕飯まで自由行動だな。」
「宿題見て欲しい。」

 遊びに行きたいと言うかと思ったが、宿題か。時期柄休みのところが多いし−小売店は別のようだが−、時期的に宿題を大方済ませていないと休み明けに大変なことになるだろう。めぐみちゃんにとっては切実な問題だろう。

「宿題ってどんなものがあるの?」
「国語と算数の問題集と、習字と日記帳。国語と算数の問題集で分からないところがあるから、お父さんとお母さんに見て欲しい。」
「めぐみちゃんの3学期は、月曜日から?」
「うん。」
「宿題を終わらせるのが最優先だな。」

 学生の最大の敵は、宿題とテストだと思う。分からないところはどうしても出て来るし、それを教え合ったり誰かに見てもらったりするのは何も悪いことじゃない。写すだけだと自分が覚えられないし、長期的に自分のためにならないからしない方が良いだけ。
 片づけは高島さんがすると言うから、お言葉に甘えてめぐみちゃんの部屋に向かう。めぐみちゃんの部屋は、前回と同じようにベッドと机と本棚がある以外、遊び道具らしいものはない。勉強や寝るための場所と遊ぶための場所を分ける態勢は今でも続いているようだ。

「他の宿題は?」
「日記は毎日書いてる。習字は終わらせたよ。問題集も分からないところ以外は全部やった。」
「頑張ったのね。」

 晶子がめぐみちゃんの頭を撫でると、めぐみちゃんは嬉しそうに笑う。分からないところは俺と晶子の到着を待っていたが、それ以外自分で済ませたのは良いことだ。この辺からおざなりにしていたり、他人の宿題を写すだけになると、それが勉強の仕方だと身体に染み付いてしまう。

「どれから見ようか?」
「えっと…、お父さんはどっちが得意?」
「算数だな。」
「じゃあ、お父さんに算数を見て欲しい。」
「分かった。その間、国語の問題集の分からないところを広げて、お母さんに見てもらおう。」

 時間がどれくらいかかるか分からないが、国語は多分ある程度の文章を読んでから問題にかかるパターンだろう。待ち時間の間に文章を読んで問題の解決や説明を考えてもらうと効率が良い。算数は計算問題が並ぶか、文章問題でも国語よりはずっと短い。基本的に計算の手法を教えて問題の読み取り方を教えるのがメインだろう。
 めぐみちゃんが机に向かい、俺はその横で問題集を見る。まずは時間の問題。分からないところが空白になっているが、半分くらいある。10進数じゃないから分かり難いところだろう。

「時間の問題が分からないんだな。」
「うん。どう計算して良いのか分からないことが多い。」

 小学2年生に変数を使って説明するのは、余計に混乱させるだけだ。まずは時間の数え方の概念、決まり事を教える。算数だから身構えてしまうが、時間は毎日普通に接しているものだ。今の時刻−午後1時30分過ぎを例にして、時分の数え方を教える。
 1分が60回重なると、1時間となる。分だけだと0時0分から数えて桁が多くなって分かり辛いから、60分をひとまとめにした時間という大きな枠に入れて数える。時間は60分ちょうどしか入らない枠と思えば良い。1時間30分なら、1時間、つまり60分と残りの30分を足した90分と数えることが出来る。時間の足し算や引き算はこの基本が分かっていれば楽に出来る。
 問題の1つに視点を移す。1時間10分は○分というものだ。1時間が60分が入った枠で、残りの10分を足せば良い。そうなると…。

「…70分。」
「正解。他も同じように解いてみて。」

 めぐみちゃんは考え考えしながら空白を埋めて行く。スピードはお世辞にも早いとは言えないが、空白を埋めて行く解答は全て正解だ。概念が分かれば後は計算速度を上げればテストにも十分対応できる。それはある程度修練が必要だが、今回の目的から外れるから今は言わないでおく。

「お父さん、どう?」
「うん、全部正解だ。凄いな。」

 俺が頭を撫でると、めぐみちゃんは嬉しそうで少し得意げな笑顔を浮かべる。普段の勉強がどうかは知らないが、以前を思うとめぐみちゃんは褒められることに飢えていると感じる。ちゃんと出来たら褒める。叱咤激励はその後で良い。まず今見せた成果を褒めることが大切だ。
 めぐみちゃんは時間に関する他の問題を解いていく。空白を埋める解答と共に計算経過を見る。速度は今は置いておいて、計算自体はきちんと出来ている。足し算引き算、掛け算が必須だが、ここで間違うとどうしようもない。計算は勉強の過程で何度となくするものだから、このままスピードアップを見込めば良いだろう。

「お父さん、どう?」
「…全部正解だ。時間の計算の仕方がしっかり分かったみたいだな。」
「お父さんの教え方が分かりやすかった。」
「それを聞き取って理解するのは、めぐみちゃんだからな。」

 めぐみちゃんの理解力は十分なものだ。訓練して向上させるものは、その旨を後で言えば良い。今は分からないところを概念から教えて、単なる丸暗記じゃないレベルで回答を出せるようにすることだ。
 時間の問題は全て終わり、めぐみちゃんは次に分からないところを広げる。長さの問題、cmやmmの換算や長さを計算する単元か。時間の問題もそうだったが、どうやら複数の単位が混じる問題が苦手らしい。単位の意味が分からないと計算しようがないし、丸暗記では対応できる場合が限られる。

「考え方は、さっきの時間の計算と似てる。」

 前置きしてから、mmが10集まるとcmになり、cmが100集まるとmになる。cmにはmmは10個丁度しか入らないし、mはcmが100個丁度しか入らない決まりになっている。さっきの時間や分と考え方は同じで、ある程度まとまった数値を入れる枠の呼び方を単位と言う。
 そこで俺の身長、170cmを例にする。cmが100あるから、これをmの枠に入れる。そうすると1m70cmと言い換えることが出来る。此処で問題の1つ、700mmに注目する。mmが10集まるとcmになるのは前述のとおり。ということは…。

「…70cm。」
「正解。単位−数字の枠が幾つか出て来ても、決まりごとを覚えておけば簡単に計算できるってわけだ。」

 めぐみちゃんは驚いたか感動したか、目を見開いて何度も頷く。今まで概念をきちんと理解出来ないまま、計算のパターンだけ覚えて来たようだから、単位の本来の意味や使い方、換算方法を理解した上で解くと、一見無関係な他の内容と関連付けて解くことが出来る。
 学校での授業の理解は、本人の取り組み方や意欲も重要な要素だが、教え方も同じくらい重要だ。単位が全て孤立したもので、それぞれ計算方法を覚える必要がある、という感じの教え方が多いだろう。算数嫌いやもう少し進んでからの数学嫌いは、関連性を教えられない状況に問題があるように思う。

「お父さん。単位って他にもあるの?」

 今まで知らなかった関連性を理解してやる気が増したのか、一気に長さの問題を解き終えた後、めぐみちゃんが言う。

「あるぞ。身近なところでは…重さが分かりやすいかな。人間は大抵kgを使うけど、小動物や食べ物はgを使う。これも、gを1000集めた枠がkgっていう決まりごとがある。」

 めぐみちゃんの関心に応えるため、出来るだけ分かりやすくなるように意識して話す。単位は測る対象があれば作られる。時間や長さ、さっき話した重さ、他にも速さや明るさなど、色々なものに単位がある。それらはより大きなもの、重いもの、速いものを測ったり、逆により小さいもの、軽いものを測るためにある。
 長さで言えば、今はmとcmとmmの3種類だが、もっと長いもの−例えば京都と新京市の間を測るような時は、mだと桁が増えて分かり辛いから、mを1000集めて作るkmという単位がある。そして、cmやmm、そしてkmの前に着くセンチやミリ、キロという単位は、枠を作る際の決まりごとを表している。
 それは小学2年生にはまだ難し過ぎるから今は言わないでおくが、単位の使い方は決して孤立したものじゃなくて規則性があることを覚えておけば、これから色んな単位が出て来ても十分対応できる。今はその準備運動も兼ねていると思って、計算ミスをしないように気をつけたり、計算速度を上げるよう繰り返し練習しておくと良い。

「−今の算数は、実際の生活に役立つことも多いから、気が付いた時に試しに計算してみるのも良いな。例えば今は2時45分だから、それを2時間45分と見て、分に直すと何分か、とか。」
「クイズ問題みたいだね。面白そう。」

 めぐみちゃんは目を輝かせる。勉強に限らず、きっかけは大事だと思う。きっかけが良いものや関心をひくものだったら、プラスの印象を持って取り組む。逆だと±0まで持って行くのも結構大変だ。勉強を教えるのは単に答えを教えるんじゃなくて、自分で意欲的に取り組むきっかけ作りになれればと思う。

「算数はこれで終わり?」
「うん、全部出来たよ。」
「他の問題は自分でしっかり解いてるな。よし、お母さんに代わろう。」

 めぐみちゃんが広げて見せる問題集は、全て埋まった。○×は先生が付けるだろうし、全部正解にすることが目的じゃない。俺の担当の算数が終わったから、国語担当の晶子に代わる。晶子は後ろのベッドに腰掛けていた。

「私が聞いていても分かりやすい説明でしたよ。」
「国語だとああはいかないだろうな。」
「予習はしましたから多分大丈夫です。ゆっくり休んでいてください。」

 晶子がめぐみちゃんの隣に着く。後ろから見えるめぐみちゃんの横顔が、最初からテンションが高いことを示している。晶子に勉強を見てもらえるだけで幸福の絶頂なんだろう。晶子はめぐみちゃんにとって絶望のどん底から救い出してくれた天使か女神だから、そうなるのは当然か。

「あのねお母さん。国語は此処が分からない。」
「まずは…、漢字の書き取りと読みね。」

 漢字の読みは決まり切ったものだが、どれが文章で適用できるものかは分からない。どう教えるんだろう?

「めぐみちゃんは、辞書って持ってる?」
「うん。えっと…、これ。」
「国語辞典ね。他の辞典はない?」
「これだけ。」
「まだ漢和辞典は使わないんだね。それじゃ、まずお母さんが読みを教えるから、それを国語辞典で引いてみようね。」

 漢和辞典を使うと漢字の読みまで書いてあるが、国語辞典はある単語の意味しか書かれていない。読みを教えて国語辞書を引かせて覚える方法に切り替えたようだ。

「まず、『牛』っていう漢字。『うし』っていう読みは分かる?」
「うん。」
「もう1つの読みは『ぎゅう』。だとすると、この文章はどう読める?」
「えっと…、『ぎゅうにゅうをのむ』。」
「正解。別に特別な読みじゃないよね。『牛乳』を辞書で引いてみて。」
「うん。」

 めぐみちゃんは辞書を引いているようだが、なかなか行きつかないようだ。恐らく辞書の側面の色が変わるところから、1ページずつ捲っているからだろう。晶子は根気強く待っている。此処で待ちくたびれて晶子が引いたら無意味。子どもに教えることは根気強さが必要な時が多い。

「…あった。ここだよね?」
「そうよ。めぐみちゃんはあまり辞書を使わないんじゃない?」
「うん。どうして分かるの?」
「おおよその位置から探すんじゃなくて、か行の最初から順番に探してたから。それは、『牛乳』の『ぎ』がか行にあるから、『か』の先頭から探そうとしてて、『牛乳』全体を見てないってこと。それは辞書を使いなれてない人によく見られる行動なのよ。」

 辞書の効率的な使い方を教える方向にシフトしたか。それは勿論重要なことだ。まだ小学2年だと辞書を使う機会は少ないだろうが、この先辞書を使うことを迫られる。PCや携帯に変換機能はあるが、意味までは出て来ないし、変換結果はよく使われるものが優先。正しいものが出てくる保証は全くない。
 どうしてもこの先PCや携帯を使う機会が増えて来るだろう。高島さんの方針次第だが−恐らく実の両親に権限はない−、一度使い始めたらまず止めることは出来ない。簡単に連絡が取れて−公衆電話を探した時代が懐かしい−メールを伝言が割に使うことも出来る便利さもあるし、子どもにも付き合いってものがある。
 俺自身、PCや携帯を悪とは思わない。意図的に他人を殺傷するために作られた武器以外、道具に元々善悪はない。ただ、道具を正しく使う教育がなされているかと言えば、正直完全に立ち遅れている。道具の使い方自体は教えるが−PCが近年加わった−正しい使い方とは違う話だ。
 高々60年程度前のことでも、立場によって見解が分かれて論争が続いている社会は別として−あれは学者の程度も問題−、国語や算数は教科書に沿って覚えたり理解するのが正当だと思う。教科書に出て来る文章や問題を通じて概念を理解したり、辞書や参考書の使い方を覚える練習をすれば、相応の学力は付くだろう。

「ただ読み方を覚えるだけじゃつまらないから、辞書を引いて詳しい意味を読んでから書くようにしていくと良いわね。学校だと時間の関係で難しい時もあるけど、今は家でじっくり出来るから、辞書の引き方から練習しておこうね。」
「うん。やってみる。」

 めぐみちゃんは晶子から読みを聞いて、それを辞書で引く。晶子のアドバイスを受けて、「一家」ならあ行の前の方にある目星をつけてページを開き、数ページ捲って「いっ」あたりまで探してから1ページずつ捲って探すようにする。言われて直ぐ出来るもんじゃないことくらいは、晶子は十分承知だ。

「お母さん。『いっか』って読み方をする言葉が他にもあるけど、どれを使えば良いとか考えるのはどうしたら良い?」
「良いところに気が付いたわね。」

 晶子はめぐみちゃんからこの質問が出ることを期待していたようだ。晶子は辞書を指さしながら丁寧に教える。同じ読み方が複数ある言葉は、日本語ではかなり多い。食べる時に使う「箸」と川などに架けられて渡るためにある「橋」、物事の隅っこの方を指す「端」などが典型的な例だ。違いは使われ方に尽きる。
 「箸」を「〜を渡る」には使わないし、「〜を折り曲げる」に「橋」を使わないように、平仮名にするとどちらを使えば良いか分からない場合でも、漢字にすると一目瞭然になる。それは漢字がそれぞれ意味を持っているからで、漢字を覚えることは平仮名だと混同しやすい日本語を明確にする意味もある。
 幸い、辞書には短文の例が載っている。今回辞書で引いた「一家」なら「一家団欒」とか。この「家」は家族を指すから、台風や災難が通り過ぎた後に使う「一過」は使わないことが分かる。辞書を引いたらその言葉だけ書き取ったりするんじゃなくて、同じ読みをする言葉、せめて両隣くらいは見ておくと良い。

「辞書を単に調べるためじゃなくて、読みものみたいに扱うことも良いってことね。そうすると、いざ自分で文章を書くときに色々な言葉を使いこなせるようになるわよ。」
「文章を書くって、読書感想文とか?」
「それもあるわね。めぐみちゃんが他人の読書感想文を読んで、『〜が良かった』とか『〜だと思った』だけじゃ、つまらなくない?」
「そう思う。もっとこんな風に思ったとか、どんな風に良かったのか知りたい。」
「それを他人に伝えるには、色々な表現を知っておいた方が良い。だけど、それは直ぐに身に付くものじゃないの。本を読んだり分からない言葉を辞書で調べたりを繰り返すうちに、使えるようになって来るものなの。」
「お母さんも、そうして国語が出来るようになったの?」
「そうよ。本も色々な本を読むと良いわね。ジャンルによって色々な表現があるし、作者によって使う表現が似通ってくることもあるから。」

 国語は日本に居る以上誰でも学んで誰でも使うものなのに、何故か他の教科のように得意不得意が出て来る。恐らくその要因の1つは、本を読むかどうかだろう。言葉の使い方や数は、日常会話だけでは顕著な増加は見込めない。日常会話に聞き慣れない言葉を使っても良い反応を期待出来ないから、平易な言葉が使われやすい。
 会話と文章では使う言葉が違ってくる。古典ほど極端じゃないが、会話で使う言葉をそのまま文章にするとどうも締まらないし、場合によっては失礼になったりする。逆に文章で使う言葉を会話で使うと、意味が伝わり難かったり格式ばっていて硬い印象を与えたりする。
 そういった使い分けやTPOに応じた使い方を知るには、日常会話だけでは足りない。本を読むこと、そしてジャンルにこだわらずに読むことが一番確実な習得方法だと思う。本は無数と言えるほどあるし、学校には図書室もある。もう少し大きくなったら図書館に行くのも良い。少しの手間で本が溢れる環境がある。
 小学2年生で図書室を超えて図書館に行き、あらゆる本を読めというのはハードルが高すぎる。まだ読める感じが少ないようだし、本を読むより言葉の読みを調べることが本題になってしまう。そうなると、本を読む楽しみが薄れてしまう。言葉の意味を調べるだけなら辞書を読んでいた方が良い。

「他にも漢字の問題があるから、今までと同じように頑張って調べてみて。」
「うん。」

 読みが分からないものは、晶子が読みを言ってそれをめぐみちゃんが調べる。漢字の書き取りは晶子が辞書を引いて例文を出し、こういう場合に使う漢字だと教えてから書き取りをさせる。必ず自分で調べたり覚えたりする手順を踏ませて、単調にならないようにしている。
 めぐみちゃんは晶子の指導を熱心に聞いている。思えば一昨年の春−もうそんなに経つのかと改めて驚く−、一晩預かっためぐみちゃんに、絵本を読み聞かせた。その時もめぐみちゃんは熱心に聞いていた。読み聞かせられる側から自分で読める側にシフトし、それを強化しようとしているんだろうか。
 国語は算数より分からない個所が多いようなのと、辞書を引くコツがまだ掴みきれてないから、かなり時間がかかる。晶子はめぐみちゃんが辞書を引いたり問題集に書き込んでいくのを黙って見ている。口を開くのは漢字の読みを教える時と、めぐみちゃんからの質問に答える時だけ。本当に根気強く見守っている。

「−出来た。」
「よく頑張ったわね。」

 問題集から顔を上げためぐみちゃんの頭を晶子が撫でる。めぐみちゃんは心底嬉しそうな笑顔を浮かべる。分からなかった問題を解けた達成感と晶子に褒められたことが同時だから、自然と笑顔になるだろう。

「他はどう?」
「読めない漢字があって出来なかった問題が幾つかあるけど、辞書を引けば分かると思う。」
「分からない読みは教えるから、頑張って解いてみよっか。」
「うん。頑張る。」

 国語は漢字の読みが分からないときちんと読めないし、問題を解くのもおぼつかなくなる。推測で読むにも限度があるし、やはり地道に意味を覚えながら言葉の数を増やしていくしかない。問題集は格好の材料だ。晶子が見るのを利用して分からないところは遠慮なく聞いて覚えた方が良い。
 めぐみちゃんの質問は、漢字の読みから問題の解き方の比重が増える。どうやら「それ」とか「その」とかが指すものや文節を答える問題が苦手らしい。確かにあの手の問題は問題というか文章によって分かり辛いこともある。俺は何度か読んでいるうちに感覚で分かるタイプだが、教えるにはあまり相応しくない。

「こういう問題は、少なくとも前の方に答えがあるものなの。何かを一言で纏めて置き換えてるものだから、『それ』とか『これ』が来る前に本当の言葉や文章が来てないと、使いようがないのは分かる?」
「うん。何となくだけど。」
「例えば…、『私はお父さんとお母さんにぬいぐるみを買ってもらいました。それは今でも私の部屋にあります』。聞いただけだと分かり辛いかもしれないから、ちょっとこの辺に書いてみるね。」

 晶子はめぐみちゃんから鉛筆を借りて書く。さっきの例文はめぐみちゃんと俺と晶子の思い出の1つだ。それを持ち出したのは、めぐみちゃんがイメージしやすいようにと考えてのことだろうか。

「この文章で、まず最初の文を読んで誰が何をしたかは分かる?頭の中で思い浮かべられる、と言った方が良いかな?」
「うん、分かる。お父さんとお母さんが動物園でキリンのぬいぐるみを買ってくれた時と同じ。」
「覚えてたのね。その上でこの文章に戻ると、最初の文を読んで頭の中で思い浮かべた状態で、次の文章を読んでみて。」
「うん。読んだ。」
「じゃあ、『それ』っていうのは何のことか分かる?」
「ぬいぐるみ。もっとちゃんと言うなら、お父さんとお母さんが買ってくれたぬいぐるみ。」
「完璧な答えね。こういう問題はこの文章と同じように解けば良いの。」

 めぐみちゃんは驚いたような表情で何度も頷く。晶子はキリンのぬいぐるみをプレゼントした時のことを意識して出して、それがめぐみちゃんの関心をより高めた。事前の説明と組み合わさって、問題の解き方を感覚的に掴むきっかけになったようだ。

「先生に、国語の問題は文章をよく読みなさいって言われない?」
「うん、言われる。」
「文章をしっかり読むと登場人物が何をしてるのか、どう思っているのか頭の中で思い浮かべることで問題の答えが出て来ることが多いし、それをよりはっきり思い浮かべられるように、よく読むように、って言うのよ。」
「頭の中で思い浮かべやすくするのも、やっぱり色んな本を読むと良い?」
「そう。物語がどういう展開で進んでいるのかが頭の中で思い浮かべるようにするには、色々な文章を読んで練習するのが一番だから。」

 国語は普段生活していれば必ず使うものだが、その分特効薬的な上達方法が見出しにくい。本を読んで訓練するにしても、直ぐに効果が出るものじゃない。早くから本を読む習慣を付けて、本を読むこと、ひいては文章を読むことにアレルギーを起こさないようにしておいた方が良い。
 日本語の読み書きなんて出来て当たり前と思う節もある。それが意外とそうでもない。自分の思うこと、伝えたいことを文章にして表現して、それが相手に正しく伝わるかどうかは、やってみると結構難しい。専門分野になればなるほどそれが強まる傾向すらあると学生時代を経て感じている。
 めぐみちゃんが将来どんな道に進むかは分からないし、めぐみちゃんの志向もこの先変遷するだろう。ただ、日本で生きる以上日本語での意思疎通は必要不可欠だし、文章でも言葉でも正しく伝えられないと重大な支障をきたす恐れもある。国語は日常生活だけでは意外と足りない部分の訓練の場だと最近思う。

「−出来たっ!」
「うん、きちんと解けるようになったね。」

 どうやら国語の問題集を完成させたようだ。顔を上げためぐみちゃんの頭を晶子が撫でる。めぐみちゃんが問題に取り組む間、読みが分からない漢字の読みを教える時以外は晶子はじっと待っていた。正解かどうかまでは指導の範囲外としてチェックしていないのは変わらない。自分で解く姿勢と根気を体得させれば良い。

「他に分からないところはないの?」
「うん。他は全部自分でやったから。」
「問題集が返ってきたら、何処を間違ったか見て、そこを直すことも忘れないでね。」
「うん。今度はもっと自分で出来るように言葉と読みを覚える。」
「直ぐには増えたって分からないと思うけど、根気強く続けて行けば必ず読めて書けるようになるから、心配要らないよ。」

 国語と算数の問題集以外は全部自力で完成させたと言っていたから、これで宿題を見るのは終わりか。国語が予想以上に長引いたが、内容を考えれば妥当だ。単に答えを教えるんじゃなくて、この先興味を持って意欲的に取り組むことや、ちょっとしたコツを教えたつもりだ。こういう教え方が良いかどうかは分からないが。
 ドアがノックされる。めぐみちゃんが応答すると、ドアが開いて高島さんが顔を覗かせる。

「どんな具合?」
「お父さんとお母さんが凄く分かりやすく教えてくれた。分からないところは全部出来たよ。」
「良かったわね。丁度良い時間だからおやつにしましょう。お二人もリビングでどうぞ。」

 携帯の時計を見ると3時過ぎ。2時間以上かかったのか。国語で割と時間がかかった感はあったが、そんなに時間が経っていたとは思わなかったな。
 高島さんの先導でリビングに向かう。最初に入った時と同じ位置に座る。唯一違うのは、めぐみちゃんが俺と晶子の間に座っていることだ。洒落たデザインのケーキが4人分並び、俺と晶子と高島さんは紅茶、めぐみちゃんはオレンジジュースだ。まだめぐみちゃんの年齢で紅茶は厳しいか。

「お父さんとお母さんに教えてもらえて良かった。凄く分かりやすかったし、もっと出来るようになりたいと思った。」
「良いことね。興味を持って取り組むことは上達のスピードを速めるから。」
「辞書の使い方とか、単位が数字の枠と思うこととか、色んな事を教えてもらった。」
「解き方以外に良いことを教わったのね。それを忘れないように勉強していけば、お父さんとお母さんみたいになれるわよ。」

 興奮気味に勉強のことを話すめぐみちゃんに、高島さんは満足げに応じる。知ること、分かることそのものが楽しいし面白いことは多々ある。俺と晶子の教え方は、めぐみちゃんの知的好奇心を喚起するものになったようだ。

「めぐみは冬休みに入る前から、語弊があるかもしれませんが、分からないところをお二人に見てもらうことを楽しみにしていたんです。それが無事叶った上に、お二人が単に答えを教えるのではなく、勉強することが楽しいと思える指導をしていただいたようで、ありがたいことです。」
「楽しく勉強出来たみたいで、何よりです。」
「お父さんとお母さんが、悪い人達に嫌がらせされて、お母さんが具合悪くなったっておばあちゃんから聞いて、凄く不安になった。お正月に来てくれないんじゃないかって。そんな悪い人達を絶対許せなかった。だから、お父さんと一緒に悪い人達をやっつけに行くおばあちゃんに、二度とお父さんとお母さんに嫌がらせ出来ないようにしてきて、って頼んだ。」
「お父さんから聞いてはいたけど、めぐみちゃんから頼んでくれたのね。お母さんはもう大丈夫よ。」

 晶子はめぐみちゃんの頭を撫でる。めぐみちゃんはちょっと得意げで随分嬉しそうな顔をする。冬休みの宿題を見てもらったり遊んでもらったりと夢が膨らんでいたところに、高島さん経由で雲行きが怪しくなって来たと知ったら、めぐみちゃんの動揺や怒りは相当なものだろう。
 孫娘であるめぐみちゃんの依頼も受けたことで、高島さんは晶子の親族の地元を管轄するS県警察本部まで抱き込んで、用意周到に刑事犯罪へと誘導した。本家の当主である晶子の伯父がものの見事に引っ掛かったことで、晶子の親族は内部分裂も孕んだ争いが続いている。そしてこの月末には600万の支払い期限が控えている。
 高島さんは一切追い込みの手を緩める気はない。600万の支払いを拒否したり支払いが遅延すれば強制執行へ踏み出すし、相手方の要求を受け入れるどころか耳を傾ける気もない。本当に事務的、機械的に処理する意向に変わりはない。
 晶子の親族の誤算は、今までどおりの手法で晶子を呼びつけたり離婚させたりできると踏んでいたこともあるが、晶子を実の母以上に慕うめぐみちゃんの怒りを買ったことも大きい。しかも、正月に色々な計画を立てて楽しみにしていたところを台無しにされるかもしれないと知ったから、最大級の怒りだろう。

「一連の問題については、引き続き私にお任せください。」
「よろしくお願いします。」

 折角高島さんが一切の面倒を見てくれるんだ。今尚来るらしい要求の拒絶や法的な手続きを含めて高島さんに任せるのが一番良い。それは近々晶子の本家に引導を渡すことになるだろうが、いっそ先祖代々とやらの土地に住めなくなる方が良いだろう。その土地を離れれば通用しないローカルルールを抱えて何処まで生きていけるか試してみれば良い。
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