雨上がりの午後

Chapter 358 新しい家族を迎える夫婦

written by Moonstone

 いよいよ臨月を迎えた。子どもの性別も予定日も判明した。予定日は子どもを迎える準備に重要だが、性別は産まれてからこの目で確認したいから参考材料に留めている。ベビーカーとベビーベッドは購入済みで、そこに収まる子どもを待っている。おむつも地道に買い溜めて押し入れのかなりの部分を占拠している。
 晶子はすこぶる順調だが、大事を取って入院した。何だかんだ言っても初めての出産だし、平日の昼間は俺がいないから、その時産気づいて手配が遅れて重大な事態に陥ることも十分考えられる。入院費は問題ないし、そもそも晶子と子どもの安全を考えれば四の五の言う余地はない。
 当然俺は独り暮らしになるが、晶子の指導で1週間くらいローテーション出来る食事の用意が出来るようになった。休日にスープなどを多めに作って、平日に小出しする。これで結構食卓が映えるものになる。洗濯は1人だと1週間に1回で良いし、掃除はそのついでに出来る。
 ただ…、独りがこんなに寂しいものだとは思わなかった。食事にしても風呂にしても寝る時にしても、その場所があまりにもだだっ広く感じる。だから、仕事帰りや買い物の後で必ず晶子に会いに行く。つまりは毎日だが、全く負担には思わない。晶子も「入院生活は退屈で寂しいから来て欲しい」と言っている。

「もうすぐだね。」
「はい。待ち遠しくて不安でもある、不思議な気分です。」

 土曜日の午後、買い物帰りに俺がかつて働いていた店Dandelion Hillに立ち寄って一息。代替わりも見据えて4月から新たに男子2名、女子1名がバイトで加わり、総勢8名のスタッフがシフト勤務している。晶子が抜けたキッチンは、今も変わらず潤子さんと、晶子に指導を受けた青木さんが担い、新しい女子バイトの1名がそこに加わっている。
 店は相変わらず繁盛している。この時間帯は塾通いの中高生が塾の前後に休憩や談笑をし、近隣の住民が連れ立ってのティータイムや気分転換。有名なチェーン店が量販店近くや新京市の中心部にあったり出来たりしているが、口コミと常連による賑わいが衰える要因にはならないようだ。

「晶子ちゃんは元気?」
「はい。おかげさまで。」

 マスターが淹れたコーヒーと共に、最近の新メニューであるマカロンを付けて、潤子さんが出してくれる。晶子に付き合ってコーヒーや紅茶を飲まない生活が続いているから、こういうところで飲む。晶子にちょっと悪い気はするが、入院中の生活は自由にしてほしいと晶子も言っているし、偶には良いだろう。
 店内を巡って注文を取ったり料理を運んだりするスタッフを見て、ほんの2年半ほど前まで自分があの立場だったことが、遠い昔のことのように思える。俺が卒業すると同時に加わった5名のスタッフも全員3年生。増崎君と勝田君は実験やレポートが忙しくなって、勤務を半分程度に減らしたがバイトそのものは続けている。
 あと1年もすれば、5名のスタッフも卒業を迎えるだろう。それと前後してまた新しいスタッフが加わるだろう。俺が4年間の大学生活の多くを過ごし、晶子と出逢ったこの店は、こうして受け継がれていく。マスターと潤子さんはそのままで。
 晶子の勤務復帰時期は未定。恐らく出産後も1年は育児に専念することになるだろう、とは潤子さん。初めての出産で退院時期も未定。退院しても授乳や夜泣きの対処などすることは多い。俺が協力してもやはり平日の昼間は目を離せない。となれば、やはり晶子は育児に専念することになる、というわけだ。
 1年あまりのブランクで料理の腕が鈍るとは思えない。何しろ入院前まで普通に家のキッチンに立っていたし、身体に染み込んだ料理の腕はそうそう鈍るもんじゃない。それより、1年あまりのブランクの後の復帰が他のスタッフにどう映るか、晶子が順応できるかが気になる。
 晶子が産休に入る日、俺も仕事を終えてから急行し、開催された慰労会に出席した。明らかに妊娠と分かる体形だから、何れはという気持ちが客にも他のスタッフにもあっただろう。マスターから晶子の産休の発表があり、俺は店を卒業して以来となるステージでの演奏と、晶子への花束贈呈をした。
 慰労会の席上、スタッフから晶子の復帰時期について尋ねられ、晶子も潤子さんも「出産後の体調や子どもの状況次第」という時期を明言しないものになった。明言のしようがない性質のものだと晶子と潤子さんが説明して理解した様子だったが、納得したかどうかは分からない。
 これから1年あまりで、俺の卒業と入れ替わる形で加わった5名のスタッフが卒業する。当然それを見越して新規のスタッフ募集も行われるだろう。復帰の時期によっては、晶子を知らないスタッフも出てくる確率が十分ある。そこに産休・育休からの復帰で順応できるかどうか。

「これから晶子ちゃんが大変な時だろうから、祐司君がしっかり支えてあげてね。」
「はい。それは勿論です。」

 晶子は間もなく生まれる子どもを抱くことを楽しみにしているが、出産はまさに命がけ。医療の進歩と医療スタッフの尽力で安全に出産できる確率が高くなっている。それが着実に迫っていることに、晶子も内心不安があってもおかしくない。
 出産後は授乳を中心に子どもにかかりっきりになる。授乳は数時間おきだというから、長時間のまとまった、一定の時間帯の睡眠を取るのが難しくなる。幾ら体力があって健康でも、十分寝られないと心身のバランスが崩れて来る。そういう時、俺が代わって子どもの面倒を見て晶子を休ませることが出来ないといけない。
 幸いなことに、会社は殆ど残業がないし、有給もしっかり取れる。その環境を最大限活用して積極的に子どもの面倒を見るつもりだ。子育てに協力するんじゃなくて、一緒に子育てをするという意識が肝要だ。環境が整ってないと難しいことだが、今の俺はそれが出来る筈だ。

「晶子さんって、幸せですよね。」

 料理を作ってカウンター越しにスタッフに渡した青木さんが言う。

「奥さんが入院しても自分で家のことを切り盛りできるし、奥さんを毎日見舞いに行くし、こんなに大事にしてくれる旦那さんが居るんですから。」
「料理とかは入院までに晶子に教わって、ようやくだからね。」
「それでも外食ばっかりとかになりますよ。晶子さんの男性を見る目は確かですね。」

 こうして持ち上げられると何だか違和感すら覚えてしまう。俺自身はそれほど大層なことはしていないつもりで、ただ晶子がいない間に堕落したり、せいぜい頑張って産んでおいてとか放置する気になれないから今の生活をしている。それにやっぱり独りが寂しくてたまらないのが大きい。
 男性を見る目という点では、俺が晶子にとって最適の選択であるようにしたいと考えている。そのために何をすべきかを考えて実行する。それを出来る男性を見定めることを見る目というなら、確かに見る目がない女性が多いとは思う。残念ながら。
 通勤で人が多い小宮栄を経由するから色々な人を見る。全国有数の人口の都市の通勤通学時の光景だから、それほど極端なサンプルじゃないだろう。駅を行き交うカップルを見ると、チンピラまがいの男が女を伴っている確率が高い。女の方は派手なタイプから地味なタイプまで色々。女はこういう男が好きなのが多いと思わざるを得ない。
 恐らく「男らしさ」に惹かれるんだろうが、その手の男が持つ「男らしさ」は単に強引で人の意見を聞かないことが多い。DVをされた後に優しくされたり謝られたりすると「実は優しいところもある」という似非ギャップと似たようなところがある。本質はDVをするところなのに、見事に騙されている。
 若い時分は特にその傾向が強いと、過去を振り返って思う。中学高校で運動系の部活の男がもてやすいのはその典型だ。「本能レベルで強引さや引っ張ってくれるタイプに惹かれる」というが、大脳皮質が発達した人間という生物には相応しくない。自分は本能しか機能していないと言っているようなもんだ。
 その本能レベルで惹かれる男は、強引だし自己中心的なのが多いし、そういう男はかなりの確率で暴力で言うことを聞かせる。結婚していたらDVだが、その時点で本能レベルの駄目っぷりに気づいても、「本当は優しい人」と騙され続けても、自業自得としか思えない。自分の本能とやらの怪しさを恨むべきだ。
 こういう考えになるのは、通勤途中で女子中高生や若い女性会社員の会話を聞いたりすると、そういう男が好きなのと同時に、それに合致しない男性を貶したりすらする底意地の悪さを感じるからだ。少数とか偶にならまだ良いが、結構な確率で遭遇する。
 「本能レベルで惹かれる」男も、大抵の場合自分のグループに属さない男性を見下し、貶したり暴力をふるったりする。だから、底意地の悪さが同じ者同士共鳴すると見ている。その結果、DVなりギャンブルに狂って借金漬けになったりしても、似た者同士潰し合ってくださいとしか思えなくなっている。
 渉はこの辺もっと極論で、下積み時代の自分と時間を共有していない女は要らない、そういう女が苦しんでも死んでも助ける謂れはない、とまで言い切る。血液型診断で嫌な思いをさせられ続けた上に、口数が少ないから陰気と見られやすい。無駄口を叩く前に手を動かす性分だが、それを見抜ける女性は非常に少ない。
 その渉は、無事修士課程を修了してこの4月に大手化学系企業に就職した。それも志望の研究職。給料も福利厚生も充実していて、休日は旅行をしたりしているそうだ。専業主婦で優雅にランチという生活に一番近いと思うが、当の渉の見る目が厳しいから、籠絡は相当難しいだろう。

「晶子さんに男性を見る目をどう培ったか聞いたことがあるんですけど、一般に人気があるタイプの男性を避けることと、女性のグループから離れることを言われたんです。安藤さんから見て当たってます?」
「言い得て妙かな。晶子の行動に反映されてる。」
「うーん…。女子の情報網を使うには、女子グループは必要だと思うんですけど…、違うんですかね。」
「恐らく。」

 晶子は女性の同調圧力を嫌い、グループから意図的に距離を置いて来た。それ故に大学入学当初は孤独に苛まれることもあったが、女性グループに加わっていたら俺と結婚に至ることはなかっただろうと以前言ったことがある。同調圧力の下ではどうしても目立つ男、社交的な男に向かいやすい。俺はそこから外れたところに居た。
 元々晶子は田舎の親族というより強力な同調圧力に反発して出奔した経緯がある。出奔して行き着いた先でわざわざ同調圧力に屈する理由はない。経緯は辛い記憶を伴うが、晶子なりに昇華したし、それが結局夢への前進と実現に結実した。何だかんだ言っても過去があるから現在と未来があるもんだと思う。
 受付で記名。引き換えにIDカードを兼用する許可証を受け取る。これがないと病室がある2階以上には入れない。これが晶子が入院して出産の時を待つ松岡産婦人科が誇るセキュリティシステムだ。許可証には顔写真もあるから、なり替わりも不可能。許可証を受付に返さないと病院から出られないという徹底ぶりだ。
 少子化の影響か、夫婦の両親、生まれる子どもから見て祖父母が暴走して、子どもを真っ先に抱っこしたり、跡取りを育てると称して連れ出そうと躍起になったりする例があるそうだ。結局自分の欲望を満たしたいだけだが、出産という一大事を終えた母親や、待っていた父親をないがしろにするものでしかない。
 そこで、松岡産婦人科は夫婦のみに面会を許可したい人を聞いて、その人が夫婦どちらかに連れられて来院した場合に限って、許可証を作成することになっている。こうすることで、子どもの祖父母などが暴走しても、夫婦から−片方だけでは駄目なのも強み−面会が許可されていなければ門前払いと相成る。強行突破を試みた時点で警察が呼ばれる。
 時折受付に抗議している老夫婦を見ることがあるが、耳に入るやり取りからして母親や子どもへの面会を求めるものの、許可されていない人物のため一切受け付けられないという内容が全て。何があったのかはそれぞれの夫婦の問題だし、俺と晶子も同じようなもんだ。
 俺と晶子の場合、面会の許可対象者として渡辺夫妻、そして高島さんとめぐみちゃんを挙げている。それぞれ俺から伝えてある。渡辺夫妻は店の営業とスタッフの監督があるからまだ来れていないが、高島さんとめぐみちゃんは盆休みの時期に見舞いに来てくれた。
 産まれたら渡辺夫妻と高島さんとめぐみちゃんには連絡することを伝えてある。めぐみちゃんは以前自分が読んでもらったりした絵本を引っ張りだして読み聞かせる練習をしているそうだ。血のつながりはないが、まぎれもなくめぐみちゃんは子どもの姉だ。
 病室がある2階に繋がる全面ガラスの自動ドアの脇に、IDカードの読み取り機がある。これに許可証を当てると開く。ただし、開く時間は一般の許可証ではわずか10秒。この間に入らないと閉じてしまう。病院のスタッフが持つIDカードは急患などに備えてかもっと開く時間が長いようだが、詳しいことは分からない。
 念のため、後ろに人がいないことを確認して、開いた自動ドアの間を抜ける。後ろで自動ドアが閉じた後、事務室の脇にある−これも部外者対策だろう−階段を上る。許可証は首に下げられるようになっていて、病院に居る間はそうしておくことが義務付けられている。本当に徹底している。
 この病院は横に広い構造になっていて、建物自体は3階建て。階段でも普通は十分上り下りできる。晶子がいる病室は2階にある。2階に出て直ぐのところにナースセンターがある。この脇を通ってピアノ音楽が流れるホールを歩くと、203号室。晶子はこの4人部屋に居る。ネームプレートに「安藤晶子様」の記載がある。

「晶子。」
「祐司さん。」

 窓の方に2つ、廊下の方に2つベッドがあって、脚が向かい合う形で並んでいる。晶子は入口向かって右側のベッド。一般的な4人部屋の病室と同じスタイルだが、1人あたりのスペースが広い。ベッドの脇に壁から簡易ソファが出せるようになっていて、座り心地も良い。第2子以降の出産時に子どもが楽に座っていられるように、とのことだ。
 テーブルも広くて、ノート2冊くらいは十分広げられる。TVはDVDやブルーレイの再生も可能。金庫や小さい戸棚もあって、小さい洗面台もある。そこには家から運んだ歯磨きセットがある。俺は簡易ソファを出して−ボタン1つで出し入れ可能−晶子の横に座る。

「具合はどうだ?」
「至って良好ですよ。…あ、子どもが動いてます。」

 晶子が掛け布団を捲る。大きな腹に手を当てると、内側からの動きがよく分かる。俺が見舞いに来ると必ずよく動く。腹の中に居ても俺が分かるんだろうか?子どもは晶子を介して外の世界が見えているのかもしれない、と頓(とみ)に思う。

「元気だな。」
「お腹の中から『お父さんが来てくれた』って言ってるんですよ。」

 子どもとの一体感は母親ならではだ。俺が呼びかけた時と晶子が呼びかけた時、呼びかけた時と音楽を聞かせた時、それぞれで動きが違うことは分かる。だが、子どもの意志までは窺い知れない。へその緒で子どもと繋がっている母親だから分かるものがあるんだと思う。
 今日は土曜日なせいか、他のベッドにも見舞い客が来ている。週1回か2回は顔を合わせるが、大抵仕切りになるカーテンを閉めているから、耳を澄まして隣のベッドから声が聞こえる程度。他の家族の会話より出産間近の晶子と産まれる時を待つ子どもの方がずっと大事だ。
 出産予定日まで1週間。あくまで予定日だから何時陣痛が始まるか分からない。不安じゃないかと思うが、晶子からはそんな雰囲気を微塵も感じない。「いよいよ産む時が来る」と待ち遠しく思っている感すらある。子どもを欲しがったのは単に可愛がるだけじゃなく、妊娠から出産までの過程全てを楽しみたいからだと分かる。

「祐司さんは、問題なく暮らせていますか?」
「問題はない。ただ、料理はどうしても単調になる。晶子のようにバリエーション豊富には出来ない。」
「それは仕方ないですよ。むしろ、私が入院している間に祐司さんの腕が上がり過ぎないかと思ってます。」

 晶子に1週間か10日程度ローテーションできる程度の料理を教わったが、所詮は付け焼刃のレベル。憶えたとおりのことを憶えたとおりにしか出来ない。並行して料理器具を片づけたり、別の仕込みをしたりといったことは殆ど出来ない。おかげで仕事より数段疲れる。
 断絶している実家も絡むから詳しく聞いていないが、晶子の料理は年単位で修練した蓄積があるのは間違いない。それをせいぜい半年未満で全て吸収できる筈がないし、凌駕するなんて夢のまた夢。独り暮らしになって羽を伸ばすなんて気は微塵も起こらず、早く晶子の料理を食べたいと思えてならない。

「それはない。晶子の家事能力の高さを痛感するばかりだ。」
「子どもを産んで退院したら、少なくとも料理は元に戻しますから。」
「楽しみだ。今は出産のことだけ考えてくれ。」
「はい。」

 男の俺が出産で出来ることなんてない。せめて、晶子が戻る家とそこでの生活を維持して、晶子が子どもを抱っこして帰宅した時、「帰って来た」と安心できるようにしておこう。俺と晶子、そして生まれる子どもを加えて3人の生活は、あの家から始まる。間もなく…。
 予定日を2日過ぎた日の午後。職場に電話が入った。晶子が入院する病院からだ。晶子の陣痛が始まり、分娩室に運び込まれたというもの。俺は仕事を早退して電車に飛び乗る。何時もと同じ地下鉄の路線が妙に遅く感じる。乗り換えの小宮栄駅をひた走り、急行電車に乗り込む。この時点ですでに汗だくだが、汗が出るなら勝手に出ろと思う。
 停車駅は胡桃町駅を含めて4つだが、この停車がこれまた長く感じる。まさかさっさと出発しろとか駅を通り過ぎろとか言う訳にもいかず、時間帯のせいか空いている席に座ってただただ胡桃町駅に到着するのを待つしかない。この間にも晶子は出産で全力を出している。一刻も早く駆けつけたい。
 胡桃町駅に到着。普段なら駐輪場に自転車を取りに行くところだが、今日は駅前ロータリーに屯しているタクシーに乗る。自転車は置きっぱなしになるが超過料金はないし、仮に超過料金になっても構わない。自転車では遠いし、何より一刻も早く駆けつけるにはタクシーしかない。

「新京市城下(しろもと:新京市の地名。鷹田入の南方にある)町の松岡産婦人科へお願いします!」
「お急ぎのようですね。」
「妻の出産が始まったと連絡があったんです!」
「それは一大事ですね。では可能な限り。」

 タクシーは急加速して走り始める。急いでシートベルトをして−後部座席のシートベルトはいまいちし辛い−、前後左右のGに備える。タクシーだと10分くらい。今はこれすらももどかしくてならない。信号待ちが何度かあるが、俺が運転していたら無視していそうだ。

「奥さんの出産は初めてですか?」
「はい。」
「出産までに男が出来ることは待つだけですよ。無事出産したらまず感謝を伝えてあげてください。」
「そうします。」

 もどかしさの根本は、俺には何も出来ないこと。痛みを吸収することも、子どもを引っ張りだすことも出来ない。運転手の言うとおり、出産が終わるまではただ待つしか出来ない。俺と晶子の子どもなのに…。だから、せめて分娩室の前で待って、出産を終えた晶子と産まれた子どもを迎えたい。
 タクシーは松岡産婦人科の駐車場に入って停まる。俺は代金を払って礼を言ってタクシーを飛び出し、受付に駆け込む。

「安藤です!電話を受けてきました!許可証をお願いします!」
「かしこまりました。お待ちください。」

 許可証の貸与には記名をするだけだが、これすらも今日は時間が惜しく感じる。分娩室の場所を聞き、許可証を受け取ると直ちに自動ドアを抜け、その先にある分娩室前の控室に入る。この病院はよくある廊下に長椅子じゃない。妊婦やスタッフの邪魔にならず、長時間の待機も出来るようにとのことらしい。
 横にもなれるソファに雑誌が並ぶ棚、TVや自動販売機もある。だが、座るソファ以外使う気になれない。職場に連絡が入ってから1時間ほど経過しているが、中の様子は分からない。晶子は、そして子どもは今どうしているのか、やっぱり俺は待つしか出来ない。本当にもどかしい。
 控室には時計がない。時間の経過を気にしないようにとのことらしい。時刻が知りたければ携帯を見る手もある…が、今は見る気になれない。何だか、時間の経過どころじゃない晶子に悪い気がするからだ。晶子はひたすら産みの苦しみに耐えているのに、まだかまだかと急かすような気もする。
 子どもの発育はすこぶる順調で、先天的な障害もないことが分かっている。だが、出産に100%安全はない。何が起こるか分からない。そんな不安も、晶子が直面している痛みや苦しみに比べれば微々たるもの。本当に出産で男が出来ることはないと思い知らされる。
 出産にかかる時間は本当に個人差が大きいと聞く。更に、初産は時間がかかる傾向が強いとも。俺は部屋にある自動販売機を使ったり、病院内の食堂で食事を摂ることも出来る。晶子はそれが出来ない。子どもを産むまでずっと痛みや苦しみに耐えないといけない。俺だけ呑気に寛ぐ気にはなれない。

…。

 かなりの時間が過ぎたようだ。トイレに行った時、外はすっかり真っ暗だった。この時期外が暗くなるのは6時過ぎ。それからずっと控室に居るから、電話を受けてから8時間くらいは過ぎたと思う。座っているだけというのも体力を削られるものらしく、かなりの疲れを感じる。
 なるほど、ただの椅子じゃなくて毛布もあるソファなのがよく分かる。特に初産を待つ時間に男は耐えきれないと見られているんだろう。座っているだけでもこれだけ疲れが溜まるのに、晶子の体力消耗はいかほどか。気絶するまで横になる気にはなれない。
 何事も体力勝負、と以前マスターが言ったことを思い出す。仕事をしているとそれを痛感することが多い。回路基板の製作も特性評価実験も、仕様書の作成も、兎に角体力を使う。出産は最大の体力勝負かもしれない。晶子が産休に入ってからも日々家事に勤しんでいたのは、それを意識してのことだったのかもしれない。否、多分そうだろう。
 この日のために、晶子は様々な努力を重ねて来た。俺と結婚すること。安全で快適な新居を探すこと。そして…結婚記念日の周辺でより確実に妊娠できる日を狙って俺に徹底的に抱かれたこと。その甲斐あって晶子は妊娠。そしてその集大成の瞬間を迎えようとしている。
 晶子は今、どんな心境なんだろう?痛みに耐える中で何を思ってるんだろう?この痛みを乗り越えた先に自分の子どもを、俺との子どもを抱っこできる瞬間が来るとか。それが痛みに耐える糧になっているんだろうか?そういったことは、出産を終えてから聞けば良いか。

…。

 流石に眠くなってきた。控室に分娩する妊婦の見舞いが出来る人が入ったことは、分娩室に居るスタッフに通達されるという。だから、子どもが生まれれば控室にスタッフが来る。それがないということは、まだ分娩中。相当時間がかかるもんなんだな…。初産だからこれが普通と言われればそれまでだが。
 時計を見ないようにしているからあくまで感覚だが、恐らく午後10時を過ぎただろう。空腹もピークを過ぎると感じなくなるというのは本当だと分かったのが、思わぬ副産物。明日は職場に電話をして休むと伝えれば良い。元々職場に事情は知れているし、こういうところ、民間企業とは思えないほど融通が利くから良い。
 ドアがノックされる。もしやと思って立ち上がってドアを開ける。マスクをした看護師が顔を出す。

「御主人、おめでとうございます。無事お子様が生まれましたよ。」
「妻は?!子どもは?!」
「こちらです。どうぞ。」

 一気に眠気が吹っ飛んだ俺は、看護師を押し退ける勢いで部屋を出る。固く閉ざされていた分娩室のドアが開き、中からベッドに乗った晶子と…、看護師が抱っこした子どもが出て来る。担当医がマスクを取って言う。

「おめでとうございます。元気な男の子です。母子共に健康です。」
「ありがとうございます!」
「さ、お子様を抱っこしてあげてください。」

 看護師から子どもを受け取る。両腕に収まるサイズ。目も開いていない真っ赤な顔。確かな重み。無事に生まれた俺と晶子の子どもを、俺は今確かに抱っこしている。待ち時間で蓄積された疲れが安堵と幸福に替わって全身を満たしていく。

「晶子。お疲れ様。ありがとう。よく頑張ってくれたな。」
「無事…産まれてくれました。私…、ついに母親になれたんですね…。」
「ああ、俺と晶子は親になったんだ。この子のな。」

 8月29日。予定日より2日遅れて俺と晶子は親になった。役所関係の手続き、渡辺夫妻と高島さんとめぐみちゃんへの連絡、職場への報告と届け出など、俺はこれからすることがある。だが、大きな山場を越えたのは間違いない。この瞬間を忘れないように…。
 俺と晶子が親になった日の週末。早速高島さんとめぐみちゃんが駆けつけてくれた。病室を移動した−子どもが生まれた人と同室だとプレッシャーやストレスになる人もいるということで−晶子が丁度授乳時間。新生児室に移動して授乳する晶子を、ガラス越しに見つめる。

「おっぱい飲んでる。」
「奥様もお元気そうで何よりです。」
「はい。本当に良かったです。」

 感染症や事故のリスクがあるから、子どもはまだ新生児室の中。晶子は授乳時刻になると新生児室に案内されてこうして授乳する。俺もクリーンルームのような服装をすれば入室できるが、見舞客の高島さんとめぐみちゃんが居るから、案内を兼ねて今回はこうして外から見守る。
 新生児室以外で子どもを抱っこできるのは、退院してからだ。今はその準備段階と思えば分かりやすい。これまで母親である晶子の腹の中で守られていた子どもが、その庇護がない外気で問題なく生きるにはそれなりの準備が必要だ。それが授乳。栄養と共に免疫も母親である晶子から受け取るわけだ。
 母子共に健康で、母乳の出も問題なし。子どもはかなり旺盛に母乳を飲む。晶子の腹の中に居た時もそうだったが、かなり活発なタイプらしい。まだ生まれたてに近い赤ん坊の段階で性格が出ることには驚きだ。赤ん坊は全くの無地白色じゃなくて、何らかの基礎を持って生れて来るもんなんだろう。
 暫くして、晶子は授乳を終える。看護師が子どもを受け取ってタグが付いたベッドに寝かせる。勿論子どももタグが付いている。このタグは専門のスタッフしか着脱できないようになっていて、取り違えを防いでいる。更にGPSも内蔵していて親族などの連れ去りでも即座に発見できるそうだ。
 晶子が車椅子に乗って新生児室から出て来る。産後間もない晶子はまだ自分で歩けない。俺も初めて知ったが、それだけ体力を削る大仕事だったことが分かる。車椅子は俺が居る時は俺が押す。看護師から交代した時点でようやく高島さんとめぐみちゃんとの出産後初の対面と相成る。

「お母さん、おめでとー!」
「このたびのご出産、おめでとうございます。」
「早速来ていただいてありがとうございます。」

 病室だと騒がしくなるかもしれないから、談話室に移動。日当たりも良いしキッズエリアも完備している。スタッフも複数常駐しているし、飲食や携帯の使用もOK。

「一昨日、御主人からご連絡を受けて、めぐみが新学期に入った初の週末に馳せ参じた次第です。」
「まだおもてなしなど出来ないので、ご了承ください。」
「その点はご心配無用です。私も経験者ですから、事情は分かるつもりです。」

 晶子と高島さんがくすくす笑う。めぐみちゃんから見て「おばあちゃん」の高島さんは、めぐみちゃんの実母の母親。当然出産は経験済み。出産直後の自分を思い起こせば、晶子が到底もてなしなど出来ないことは分かる。車椅子に座るような身体でもてなせと言うこと自体無謀だ。

「お母さんは、何時退院できるの?」
「個人差があるから必ずこの日、とは言えないけど、ひと月くらい後かな。」
「じゃあ、赤ちゃんが生まれる前後1カ月入院するんだ。お父さん、ご飯大丈夫?」
「何とか食べるものには困らないレベルにはなってる。」
「お母さんのご飯、早く食べたい?」
「それは山々だが…、子どもを抱っこして退院できるようにならないとな。それまでは我慢だ。」

 今の晶子はもう1人分の命を預かっている。自分では動くことも喋ることも食べることも出来ない子どもの命。まだ目も開かない小さな命を預かりながら、晶子は元の身体に戻る準備を急ピッチで進めている。その間、俺に出来ることはやっぱり待つこと。晶子と子どもが帰る家で。
 出産前後を通じて、こういう場面で男は本当に無力だと思い知らされた。俺が出来ることは出産や授乳以外で出来ることをする。今は、晶子と子どもが帰る場所を保っておくこと。晶子が子どもに加えて俺の世話で翻弄されて、心身ともに疲れ果てないように生活面での自立を確立すること。
 晶子に支えられていた生活が続いて来たから、なかなか大変な部分もある。だが、晶子はこれから暫くの間、子どもの授乳やおむつの交換など、子どもの世話にかかりっきりになる。幾ら晶子が子ども好きでも、意志の疎通が出来ない赤ん坊相手に、しかも十分な睡眠が取れるか疑問な状況で何も問題が起こらないとは思えない。
 産後うつだの産後クライシスだの、女の我儘を代弁するかのようにメディアが作った造語に乗る気はない。だが、昼夜問わず何時間かおきに授乳しなければならないことくらいは俺でも知っている。熟睡している途中で起こされるのはかなりのストレス。それが積み重なれば心身に悪影響が出るのは容易に予想できる。
 幸い、俺は有給が取りやすい環境にある。晶子が1日休んだ方が良い時は、俺が子どもの世話に専念する。授乳は予め母乳を絞っておけば良いそうだし、おむつの替え方は病院のセミナー−両親や親族を対象にした色々なセミナーがある−で体験したし、家でも訓練している。代役にはなれるだろうし、なれないといけない。

「赤ちゃんの名前は何?」

 めぐみちゃんが重要なことを尋ねる。あの頃よりすっかり大きくなったが、こういう唐突に核心を突くことは変わらない。

「退院しないと名前つけられないの?」
「否、そんなことはない。もう名前は付けてあるし、市役所に届も出してある。」

 子どもの腕とベッドにはGPS内蔵のタグが付いているが、此処には子どもの名前を書く欄がある。だから事前に決めておかないといけない。出生届には名前が不可欠だ。無論、妊娠が分かった時から晶子と考えて来て選んだ名前を付けた。その名前は…。

「秀一(しゅういち)っていうんだ。優秀の秀に一番の一って書く。」
「かっこいい名前だね!」
「書きやすくて読みやすく、しかも憶えやすい良い名前ですね。」
「ありがとうございます。」

 名前を考える際に気を付けたのは、高島さんが言ったように書きやすさと読みやすさと憶えやすさ。憶えやすさは概ね前2つが満たされれば実現される。問題はその前2つ。平仮名を使うのもありだが、漢字を使う場合、読みは勿論書きやすさは本人のために重要だ。
 難しい漢字もそうだが、「どう考えてもこの漢字を使ってこの読み方はないだろう」という名前は、後で子どもが苦労する。考えてみれば良い。毎回名乗る度に聞き返されたり、名前が分かる書類を出した時に相手が沈黙したり読み方を聞いたりする様子を。子どもの名前はクイズ問題じゃない。
 相手に名前を覚えてもらうのは、相手に代名詞に含まれる「他人の1人」ではなく、「個人」として認識されることだ。そこに読めない文字や目を疑うような文字の羅列があったら、悪い印象と共に認識されてしまう。それは子どもにとって不幸でしかない。個性は個人の人格や性格などが融合したものであって、名前で表現するもんじゃない。
 画数やそれに纏わる占いは度外視している。元々その手のものは信じていないし、高島さんに聞いたところ「印相や墓相と同じ」と一蹴。画数を気にするより、躾を気にした方がずっと良い。声がでかい輩の方が優先される−押し切られたとしても結果は同じ−嫌な時代だが、ああはなりたくないし、子どもをそうしたくない。
 高校以来の書道道具を買い求め、家で練習した。書いてみて思ったのは、書きやすい名前にして良かったということ。この先子どもは数えられないくらい自分の名前を書く機会がある。練習で書いただけの俺でもそうなんだから、子ども本人にしてみればややこしい漢字をあてがわれたらうんざりするのは間違いない。

「お母さんが退院したら秀一君を抱っこさせてね。」
「ええ。勿論よ。」
「めぐみはすっかりお姉ちゃんね。」
「お父さんとお母さんにはたくさん絵本読んでもらったり、遊んでもらった。今度はめぐみが赤ちゃん、秀一君に絵本読んであげたりする。」
「ありがとう、めぐみちゃん。たくさん可愛がってあげてね。」

 晶子がめぐみちゃんの頭を撫でる。ちょっと得意気なところは変わらないが、これまでより落ち着きというか、姉としての責任感を感じる。めぐみちゃんは学校があるから思うように来られないだろうが、自分の体験を姉の立場で還元しようという強い意気込みは、必ず子どもに伝わる筈だ。
 正月あたりの再会を約束して、高島さんとめぐみちゃんは病院を後にする。とんぼ返りに等しいが、まだ晶子は入院中だし、家で俺が出来ることは多くない。「赤ちゃんに会いに来た」という目的が達成されたから、晶子の負担にならないようにと早々に帰路に就いた。
 晶子を病室に連れていく。車椅子で問題なのは、ベッドからの移動とベッドへの帰還。普通に抱きかかえる時は軽いと感じるくらいなのに、こうした移動の時はかなり重く感じる。介護士が腰痛で悩まされる理由がよく分かる。幸い、この病院のベッドはフットスイッチで簡単に上下できるから、腰の負担は少ない。

「秀一は順調そうだな。」
「ええ。とても元気で食欲旺盛ですよ。」
「乳児はミルクを飲むのと寝るのと泣くのが仕事みたいなもんだって言うけど、仕事熱心だな。」
「パパに似たんですよ。」
「俺はママに似たんだと思ってるが。」

 パパと言われることにまだ慣れない。晶子はママと呼ばれることが嬉しくてならないそうだが、ずっとママになることを夢見て努力を重ねて来たことからすれば当然か。パパになりたくなかったわけじゃないが、ずっと一体になっていた女性と男性の感性の違いだろうか。
 子ども、秀一が新生児室から出られる時が晶子の退院の目安になると言われている。最初の健診−これも初めて知った−で病気など異常はなく、順調に推移すればひと月足らずで母子揃って退院できるだろうと言われている。油断は禁物だが、晶子と秀一の顔色や肌の艶を見ると楽観的とは思えない。

「早く家に帰りたいです。」
「迎える準備は万端のつもり。ベッドもベビーカーその他諸々を何時でも使えるようにしてある。」
「きちんとご飯食べてますか?」
「ああ。晶子が作ってくれたレシピを見ながらだけどな。」
「レシピを見るのは恥ずかしいことじゃないですよ。結婚してからこんなに長い時間一緒に居られないのが、寂しくて堪らないです…。」
「俺もだよ。あの家に独りは広過ぎる。」

 晶子が入院してひと月くらい。独り暮らしは維持するのが精一杯だ。しかし、献立を考えるよりも後片付けをするよりも、あの家で独りは広過ぎる。空間的な広さよりも、心理的な広さというか…。何をするにしても自分しか居ない。隣や真正面に居るべき存在が居ない。これが物凄く寂寥感を増幅する。
 独りに慣れている人からするとあまりにも脆いかもしれない。だが、学生時代の当初半年ほどを除いて全てが、晶子との生活や記憶に重なっている。生活がより密接なものになったのは3年ほど前だが、思えば俺の隣には常に晶子が居た。紆余曲折を経てカップルから同棲、そして夫婦になる過程が脳裏に刻まれている。
 家での生活は、俺と晶子が婚姻届を提出してからの生活と一致する。歴然とした夫婦としての生活と記憶は、全てあの家と重なる。その家に常に晶子が居ないことで、一気に孤独になったような気がしてならない。俺が新人研修で1週間ほど不在だった時、きっと晶子はこんな気分だったんだろうと痛感する。

「秀一と一緒にあの家に帰ろう。それまで俺は待ってるから、じっくり養生してくれ。」
「はい。」

 俺は晶子にキスをする。こういう時、カーテンで簡単ながらも閉鎖空間が出来るのはありがたい。秀一が加わった家は秀一中心で回るだろう。言葉で意思疎通が出来ない乳児相手ならなおさらそういうもんだし、それよりも折角憶えたおしめの交換や沐浴をしたくてならない。
 役所関係と職場への届け出は全て済ませた。だが、生活は届け出で完了しない。俺と晶子が協力して秀一を育てる。子どもは親を選べないことは、今日見舞いに来てくれためぐみちゃんの一件で嫌というほど思い知らされた。めぐみちゃんに嗤われないためには、その教訓を誠実に生かすだけだ…。
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