雨上がりの午後

Chapter 357 間もなく来たる新しい家族のために

written by Moonstone

「お母さん、触って良い?」
「良いわよ。」

 めぐみちゃんが晶子の腹に手を置く。徐に手の位置を何度か変える。

「動いてるー。」
「今日は特に元気ね。」

 時は流れて5月。連休を利用してめぐみちゃんが高島さんに連れられて遊びに来ている。穏やかな日差しが差し込むリビング。その茶箪笥の上に並ぶ写真立てには、この冬に撮った雪だるまと共に写った写真が加わって、約4カ月ぶりの義理の親子の語らいを見つめている。
 高島さんが打った手は相当インパクトがあったらしく、双方の親族から「頼むから警察や訴訟は勘弁してくれ」との泣き落としが相次いだ。商売をしていたり、地域の密着性が強かったりするから、警察や訴訟を非常に恐れる。どちらも表沙汰になったらその地域では生きて行けないに等しい状況に陥りかねない。
 相次ぐ泣き落としに高島さんは、「こちらがOKというまで直接間接問わず一切関わるな」「関わったらその時点で即警察に連絡し、同時に民事訴訟を起こす」「半年1年と執拗に電話や手紙をよこし、法的にも問題ない夫婦の健全な生活に干渉しようとした証拠は山ほどあることを忘れるな」と冷徹に釘を刺した。
 泣き落としに徹したのは、高島さんが内容証明を送付した先が、双方の両親だけでなく俺や晶子も知らないような遠縁にも及んだからだ。脅迫かと思ったある親族が警察に問い合わせたら、実在の弁護士による正式な内容証明だと判明。警告と思ってそのとおりにした方が無難、というアドバイスも得たらしい。
 それを発端に親族間で大騒動になり、もう俺と晶子に関わらない方が良い、という判断に至ったのか、あれほど執拗に着ていた電話や手紙はある時期からぷっつり途絶えた。「顧問弁護士と添えたのが良かったかもしれないですね」と高島さんは笑って言うが、まさにその実力を発揮したわけだ。
 おかげで晶子は無事安定期を迎え、子どもはすくすく育っている。定期健診でも全く問題なく、晶子は先月まで店で働いていた。店が連休に合わせた休暇に入ると同時に、晶子は産休となって家に居る。一般的な産休より早いが、安定期に入ったとはいえ転倒などの危険はあるし、初めての出産だから安静にした方が良いという判断だ。
 店としては、幸い青木さんが料理を出せるレベルになっているから、代役として十分。人員の減少は近づく世代交代も見据えて募集することにした。かなりの応募があって、数か月程度の短期と年単位の長期に分けて採用する方針らしい。
 手持無沙汰になった晶子は、胎教と称して家事の他、音楽を聞いたり本を読んだりしている。腹が大きくなったことで屈むことが少々やり辛いようだから、風呂掃除や収納などは俺が全面的に担っている。料理は相変わらず晶子が担っているが、俺も晶子に教わって少しずつ出来る料理を増やしている。
 臨月辺りになると、晶子は出産のため入院する。出産後の退院時期は分からないから−必ず同じように安定して退院できるとは限らないし、子どもも同じ−、その間俺は独り暮らしになる。俺の純粋な独り暮らしの時期はかなり短く、特に食事面は不安要素が大きい。晶子がいるうちに教わって1週間か10日くらいローテーション出来るようにしておきたい。そう考えて、帰宅してから晶子に教わり、何らかの料理を作るようにしている。

「順調で何よりですね。」
「はい。呼びかけや読み聞かせにもそれぞれ違う反応を見せるんです。」
「乳児も表現の手段が少ないだけで、きちんと識別できていますからね。」
「はい。自分とは違う命が自分の中にあるという実感を日々感じています。」

 晶子が淹れた茶−晶子は最近お気に入りのブルーベリー入りの豆乳−を飲みながら、晶子と晶子の腹を撫でて子どもに話しかけているめぐみちゃんを見る高島さんの眼差しは暖かい。同時に、晶子との関係に息子の妻と義母という図式がより強く重なる。晶子がそういう図式を強く意識しているのもあるか。
 双方の親族からの干渉がひとまず止んだことで、高島さんは新京市の子育て支援策を調べて、手続きなどを教えることに主眼を置いている。健康診査は妊娠中は月1回分、乳児期は3回分無料。歯科健康診査は2回分無料。出産時に一時金が出る。医療費は中学校卒業まで無料。それらは申請しないと得られないと言って良い。
 それは母子健康手帳が交付されることから始まった。晶子が病院で妊娠届出書なるものを貰って来て、それを使って市役所に届け出ることで母子健康手帳が交付される。それすらよく分からなくて高島さんに問い合わせて教えてもらい、タクシーを呼んで市役所に走った。
 母子健康手帳に各種健康診査の受診票が同梱されていて、それを健診時に病院に提出することで初めて無料になる。この母子健康手帳は晶子が母親になる予定である証明であり、色々な女性を得られるパスポートのようなものだと痛感した。分からないこと、知らないことは本当に多い。
 双方の親族の干渉を退けたことは、同時に援助を受ける手を跳ね除けたことでもある。援助が必ずあるとは思えないが、母子健康手帳を得たり助成を申請したりといったことは、経験者なら何らかの知恵を持っている。高島さんが尽力してくれるおかげで、晶子と子どもは安全に暮らせている。

「そろそろ性別が分かる頃ではないですか?」
「はい。今度の健診で確定する見込みです。」
「服などを買うのは性別が確定してからでも十分間に合いますからね。」
「ベッドなど性別問わず使うものは、順次買い揃えておこうと思っています。一気に買うのは運ぶのが大変なので。」

 服は事実上使い捨てに近いものだろうし、極端な話産まれてからでも十分。それ以外のベッドや布団など乳幼児なら必ず使うものは、少しずつ買い揃えておいた方が良い。特に運搬と搬入の問題がある。今は店に依頼すれば1000円程度で配送してくれるが、全て同じ店で買えるわけじゃない。
 置き場所も考えておかないといけない。ベッドは俺と晶子の寝室に置くが、今後子ども関係のものが増えるし、服を中心に入れ替えも増える。収納場所がいい加減だと大混乱して、同じものを買ったりして無駄になる。金は無限じゃないから慎重さが求められる。

「当面はタクシーで良いでしょうけど、お子様が産まれたら車の購入を考えた方が良いですね。」
「やっぱりそうなりますか。」

 車を買う条件はそこそこ揃っている。頭金と駐車場は問題なし。勤続年数が短いからローン審査がやや気になる。問題は主にガソリン代の維持費と保険料。若いと保険料が高いことは知っている。これから子どもが生まれるのに、ローンで月2、3万と年間数万の金銭負担はどうしても重く感じる。

「新京市には24時間営業のタクシー会社がありますが、特に乳幼児は急に発熱したりするものです。おむつなどの運搬も増えますし。」
「それこそ現金な話ですけど、保険料と維持費が引っ掛かるんです。毎月定常的な支出になるので減らしようがないのもあります。」
「非常に堅実なお考えですね。」

 高島さんの話を聞く。維持費については、今隆盛中のハイブリッド車にすればかなりガソリン代は減らせる。車の燃費向上は目覚ましく、ガソリン車でもコンパクトタイプならかなりガソリンを効率的に使える。そういったタイプに車種を絞るのが良い。電気自動車でも良いが、現状では自宅で充電出来ないのがネックになる。
 保険料は、年齢が年齢だけにどうしても高くなりやすいのは否めない。こればかりは複数の損害保険会社から見積もりを取って安いところを探すのみ。ただ、免許がゴールドでインターネット経由での申し込みだと幾分安くなる。見積を取る際もこの点を基本に据えてじっくり考えれば良い。

「御主人も奥様も車を買ったことはないんですか?」
「はい。車の運転も、レンタカーを数えるほどです。」
「車関係は全て夫任せです。」
「勿論、購入は今すぐでなくて全然構いません。奥様が出産して退院してから販売会社を回ってじっくり検討すれば良いですよ。」
「そうします。かなり高価な買い物ですから。」

 去年石垣に行った際に−もう去年の出来事−レンタカーを運転して何ら問題なかったから、運転そのものは恐らく大丈夫。だが、少し郊外に行けば信号がめっきり減るし、集落以外は道が少なくて分かりやすい石垣と違って、新京市は家がみっちり詰まっていてその合間を道が走るような格好。環境はかなり違う。
 しかも、土地柄なのかかなりスピードを出す傾向がある。道が狭くてもその傾向は大して緩和されない。日常的にそんな環境で車を運転するのはやっぱり不安がある。教習所でペーパードライバー講習なるものがあるそうだし、車を買うことが決まったら教習所に行くのもありか。

「車を買ったら、運転するのはお父さん?お母さん?」
「え?うーん…。お父さんがいる時はお父さんかな。」

 晶子の腹の子どもに話しかけていためぐみちゃんが、不意に俺に話を向ける。

「お母さんは、お父さんが車運転するのを見たことある?」
「あるよ。乗せてもらったし。運転は上手いよ。」
「へえー。じゃあ、赤ちゃんが生まれても安心だね。」
「そうね。でも、お父さんがお仕事で居ない時に備えて、お母さんが運転できるようにしておいた方が良いかなって思う。」

 流石に晶子は自分も運転する必要性を感じている。当面晶子は専業主婦生活になるが、健診などは平日にある。俺がいる会社は有給を取りやすいから−むしろ取得を奨励されている−都度取って晶子と子どもも運んでも良いが、晶子も運転できるようにしておくに越したことはない。
 今はまさに身重だから控えるとして、出産・退院後にペーパードライバー講習に通うのが良いだろう。幸い、自宅まで送迎可能なようだし、いきなり運転席に乗っていざ出発となるより、事前に第3者が乗っている状態で運転技術をおさらいしておくのが安全の面でも良い。
 そう言えば、晶子はどんな車が良いと思ってるんだろう?どちらも車は不要というスタンスで来たから、車について話した記憶はない。まさかスポーツカーを希望しているとは思えないが、何を優先するか合意しておけば車を選ぶにしても決めやすい。

「お母さんは、お出かけするの?」
「まだお仕事お休みして間もないのもあるけど、お買いものに行く時くらいかな。その時はお父さんと一緒。」
「歩くの、大変じゃない?坂道多いし。」
「荷物はお父さんが持ってくれるから、それほどでもないよ。」

 まだ車を買わなくて良いという考えは、晶子に負担を強いることになっているかもしれない。何キロかの錘を常時腹に抱えていると同じ。自分が蓄積した脂肪ならまだしも、俺と晶子が保護するしか身を守れない子ども。それを抱え続ける晶子の負担を考えれば、車の購入に踏み切るべきなんじゃないか?
 出産しても、歩けるようになるまでは実質妊娠中と同じようなもの。ベビーカーは用意するとしても、折り畳みの手間やそれ自身の重さも無視できない。散歩がてらベビーカーを押して買い物というのもありだが、それが毎回というのはどうか。

「奥様は、買い物は徒歩なんですか?」
「はい。ずっと通っているところなのと、徒歩で行ける範囲なので。」
「胎教や健康の面では良いですが、荷物の量が増えた場合や悪天候時の行動のことも今後考えた方が良いですね。」
「夫とよく相談します。」

 そうだ、悪天候時のこともある。2人なら傘を差せば良いし、濡れてしまっても急いで帰ろうとなるし、とんだ目に遭ったなと笑っていられる。だが、子ども、特に乳児は笑っていられない。直ぐ熱を出すしそれは時を選ばないという。そんな乳児を不用意に雨に濡れさせるなんて狂気の沙汰だ。
 雨の時は傘を差すが、それで手が1本塞がれる。ベビーカーを片手で押すのは不安定だし、荷物を持ったら不安定さは更に増す。買い物は俺にとっては荷物持ちや晶子に絡もうとする輩からの防衛−妊婦自体を快く思わないのはまだしも危害を加えようとする輩もいる−の役割と運動不足解消の機会だが、子どもはそんなことを言ってられない。

「…高島さん。物凄く初歩的な馬鹿馬鹿しい質問ですが…、車って何処で買えば良いんですか?」
「メーカー系列の販売店が随所にありますから、あとは何を優先するかです。これは車に限ったことではないですが。」

 高島さんの話を聞く。家と並んで大きな買い物だから、「これだけは絶対譲れない」点を3点ほどに絞って、それに合致するものを選ぶ。その1点は予算。頭金次第で月々の支払いは安く出来るし、繰り上げ返済を使って早期完済も出来る。ローンを組むなら月の返済額を手取り収入の2割程度に抑えるのが無難。
 家族の送迎と買い物が主体なら、コンパクトカーあたりで十分。その中古にすれば元々安価な部類の価格はさらに下がるから、支払いも非常に楽になる。新車だと余計に神経を使うから、慣らしがてら中古から始めるのが良い。勿論新車でも構わない。

「予算は絶対条件として、優先順位は…燃費と積載スペースですかね。」
「家族がいると大体そうなりますね。」
「メーカーは何処にすれば良いでしょう?」
「それは何とも言えません。優先順位に合致する車を扱っている販売店で買うのが良いでしょう。」

 メーカーはこだわりがなかったり、高値で売ることを考えなければメーカーに拘る必要はないのか。どうも実感が湧かないと言うか…。販売店が何処にあるかすらよく分からないレベルだから、買うことを想定するとどうすれば良いか分からないというのが正直なところだ。

「考えるべきことが相当多いですね…。」
「御主人も奥様も車を購入した経験がないとのことですから、まず車の販売店がどういうところか見るのが良さそうですね。」
「そうですね。入ったこともないですし、そもそも何処にあるのかも碌に知らないですし。」
「奥様、今日はお身体の調子はいかがですか?」
「私は至って健康です。」
「では、お昼ご飯を済ませてから、新京市内の車の販売店を幾つか回ってみましょうか。」

 販売店が何処にあるか分からないと選ぼうにも選べない。どうにか探し当てても車を探していることを利用されて本来求めていないタイプの車を買わされるかもしれない。車を買った経験がある人が同行してくれるのが安心だ。販売店の店員にごり押しされても高島さんに退ける手助けをしてもらえるだろう。

「それはありがたいんですが、店の場所は分かるんですか?」
「カーナビで検索すれば良いことですよ。」

 そうか、カーナビっていう手も使えるのか…。勿論買わないといけないだろうが、行動範囲が俺でようやく通勤だけ広がった程度の俺と晶子にとって、一気に広げる契機になるかもしれない。行く場所が決まってしまったらそこで固定化されそうな気がしないでもないが…。
 晶子手製の昼飯を終えてから出発。食事の合間に絶対的な項目を挙げて、更に優先順位を付けた。やはりというか、燃費と価格、それと積載スペースに絞られた。燃費と価格が最高の優先順位で、積載スペースはそれに続く。買い物は複数回や複数日に分ける手も使えるからだ。
 ベビーカーやベビーベッド、子どもの衣類などを収納する箪笥といった大物はどのみち配送を依頼するから、こういうものを乗せるスペースは考慮しない。それよりも、同率首位の優先順位を踏まえたうえで、今後増えるのが間違いない食料品や生活用品、特に子ども関係のものをいかに多く積めるかが重要だ。
 今後絶対的に購入量が増えるのは、ほぼ間違いなく紙おむつ。おむつが要らない年齢の子どもや大人と違って、使用枚数を1日1枚と決めようがない。ドラッグストアで見る紙おむつ−晶子の妊娠発覚以降無意識に目がいく−はそこそこの大きさ。それを最低でも1週間はもつくらい買いたい。
 買い物は週間予定のようなもんだが、今後も毎週土曜日に行けるとは限らない。晶子が授乳や睡眠−乳児期の母親の睡眠は困難で貴重だという−だったり、俺が出張などで不在の場合も考えられる。悪天候が重なることは今でもあるんだから、雨に濡れて大量の紙おむつを運ぶ羽目になる。あまりにも非現実的だ。
 販売店の方は、高島さんが検索したら市内で何店も見つかった。その中で、価格的に有利な中古の購入も想定して、中古も同一店舗で扱っている販売店に絞って、順に回ることにした。市内とは言え、市町村合併の結果、移動距離はかなりある。こういう時も車は圧倒的に有利だ。
 子どもが生まれることが現実的になって、ようやく車の必要性が理解できて来た。車を持つことで、俺も晶子も予想しなかった展開があるかもしれない。晶子はどうか知らないが、俺はほんの数年前までこの年齢で子どもを持つことになるとは予想してなかったし。

「めぐみちゃんも、少し前までチャイルドシートを使ってたよね。」
「うん。4月からはシートベルトを着けなさいっておばあちゃんに言われた。」

 後部座席に居る晶子とめぐみちゃんは、揃ってシートベルトを装着。腹に沿って大きく湾曲する晶子のシートベルトと、身体全体を座席に抑えつけられているようにも見えるめぐみちゃんとの対比が面白い。シートベルト着用で、めぐみちゃんは大人の仲間入りを感じているのか、ちょっと得意気だ。
 そう言えばチャイルドシートも重要。高島さんの話では、チャイルドシートは後部座席に設置するものらしい。そう言えば、助手席に設置されているのを見たことはない。となると、子どもの出入りの観点から4ドアタイプは事実上必須項目。それで価格と燃費を大前提として、どれだけ荷物を乗せられるかだ。

「子どもが出来ると考えることが増えますね。」
「単純に1人増えるだけではないですからね。全て大人が考えて行動しないと始まりません。」

 そうだ。産まれてくる子どもは何も知らないし何も出来ない。当たり前だが、その子どもをきちんと生活させるためには、出迎えた大人がすべてお膳立てしないといけない。その精神的・金銭的準備がままならないところに子どもだけ先に出来ると、行き詰る確率が高くなる。
 出来婚の離婚率が高いのはそのためだが、最大の被害を被るのは子どもだ。その典型的な例に遭遇したのが3年前。後部座席で晶子の腹を撫でて話しかけているめぐみちゃんだ。あの時は晶子の子ども好きと面倒見の良さ、そしてめぐみちゃんの聞き分けの良さで今に至るが、これは希少な例だろう。
 子どもを作る金銭的条件は整ったが、子どもを何時作るかについては多少の温度差があった。断続的な相談の結果、晶子の熱望と結婚記念日という条件が重なり、無事妊娠と相成った。こういう相談や条件の擦り合わせは、面倒だが重要なこと。これを怠ると何処かで軋轢が生じてしまう。

「今回、下見や見積を取るために販売店を順番に回るわけですが、それもお子さんが出来たことで考えた結果の行動です。そういうことの積み重ねです。」
「子どもの成長に合わせて考えることも変わって来るんでしょうね。」
「勿論です。次第に子どもの意志も加わってきますから、更にお二人の意志の疎通が重要になって来るでしょうね。」

 確かにそうだ。全て親が用意しないといけない状況から、子どもが成長して他人と接触したり学校に通うようになると、子どもの意志が加わり始める。進学や進路はその最たる例だろう。子どもの意志と親である俺と晶子の意志を突き合わせ、落とし所を探る必要も出てくるだろう。
 子どもの意志をただ「子どもだから」と阻害したり、親の意向に従わせるために干渉するのは、俺と晶子が受けて来たことだ。一方で、明らかに誤った道に進もうとしているのを、子どもの意志だからと丸飲みするのは、単なる放置でしかない。どうして駄目なのか、どうしたら良いのか、きちんと説明できることが肝要だ。
 それはやはり、子どもの意志を汲み取ろうとすること、すなわち意志の疎通が絶対条件だ。今喧伝される「コミュ力」とやらは、単に無能面接官とのとんち合戦か無能面接官のピエロになるかのどちらかでしかなくなっている。本来のコミュニケーションに立ち戻らないといけない。

「車の販売店と言っても、扱うものが食品や日用品よりずっと高価であること以外、特殊なところではありません。」
「それが凄く特殊なことに感じるんです。」
「想像し難ければ、家具や冷蔵庫など、少し高価なものに切り替えてみると良いですね。それらを買う時、店員の勧めに押し切られて言われるがままに買いますか?お二人のことですから、そうではないでしょう。」
「なるほど…。」

 金額に惑わされがちだが、確かにキッチンボードとか数万のものを買う時、店員と話をしてお勧めなどは聞いたが、そのまま言いなりになることはしなかった。必ず価格を見て一旦引いて、他に良いものがないか調べた上で購入を決めた。あの時は結婚して初めて買うもので数万の単位だったから自然とそうなったが、車も同じと言えば同じだ。
 俺の通勤は電車以外にないし、車を買うまで都度タクシーを呼ぶ金くらいはある。おむつは先んじて少しずつ買い溜めておくのも良い。直ちに車を買わないと支障をきたすというレベルじゃなく、やがて生まれる子どもを加えた生活を見込んでのこと。慌てて高価な買い物をする必要はない。

「そもそも、店を訪れたら必ず商品を購入しなければならないことはありません。それはむしろ悪徳商法と称される性質のものです。」
「何処かでそういう店があると聞いたことがありますね。」
「今回は元々下調べのためですし、念のため、私が同席しますからご安心ください。」
「お願いします。」

 晶子と結婚して2年が経ったが、学生時代の実質的な同棲の場所が俺の前の家から今の家に映ったことくらいで、学生から社会人という肩書以外に大きな変化はなかった。それが晶子の妊娠発覚から間もなく出産となって、様々なことが大きく変わり始めたし、まだまだ知らないことや未経験のことが多いことも痛感している。
 無関係なままだと思っていた車にしたって、購入を視野に入れて販売店を巡ろうとしている。ベビーカーやベビーベッド、更にはおむつや子ども服、ついでに箪笥と子ども用品を買いに走ることも決まっているが、それらもほんの2、3年前は晶子の願望としてはあったが、俺にはまだ先の話だった。
 これから子どもが成長するにつれて、まだまだ知らないことに直面するだろう。それを最善の方法で乗り越えるには、やっぱり晶子と、やがては子どもも加えての意志疎通だ。「言わなくても通じる」は絶対避ける。自分以外という意味での他人と一つ屋根の下で生活を続けるには、他人が何を考えているかを知ることが肝要だからな…。

「いらっしゃいませ。」

 スーツ姿の男性の出迎えを受ける。最初に入ったのは、NAWACHI(註:作中におけるシェア1位の自動車企業)系列の販売店。実は定例の買い物ルートから直ぐ近くのところにあった。スーパーだと途中の交差点で真っ直ぐ行くところを、この販売店は左折する。同じルートを歩くから気付かなかったわけだ。
 店内は全面ガラス張りの道路に面した壁と白を基調にした内側の壁が、かなり明るい印象を抱かせる。店内に本物らしい車が複数並んでいるのはちょっと驚き。出入り口から少し奥の方にガラスのテーブルとパステルカラーの椅子が幾つもあって、その半分ほどが埋まっている。

「どのような御用件でしょうか?」
「車を買うことを検討していまして、御社にどんな車があるか見せてもらいたいと思って。」
「では、どうぞこちらのお席へ。」

 テーブル席の1つに案内される。テーブル席の近くには、周囲がクッションで囲まれた場所がある。キッズエリアとあって、幼児は此処で遊んでいられるようだ。大人の会話は子どもには退屈なことこの上ないもんだし、話がどのくらい続くか分からないから、こういう場所があると良い。
 キッズエリアは、キッチンボードを買った家具店にもあった。家具も選ぶのに時間がかかるし、子どもが関心を持ちそうなものが少ない。量販店には結構キッズエリアが増えて来ているが、そのうち俺と晶子も世話になるだろう。さて、今回はどうしようか?

「祐司さん。商談はお任せして良いですか?」
「ああ。それは構わないが、好みとかは良いのか?」
「優先順位については合意できていますから、それを基にお話してもらえば大丈夫です。」
「分かった。」

 妊娠6カ月になる晶子には、商談の席は厳しいかもしれない。晶子の言うとおり優先順位は合意できているし、念のため高島さんが同席してくれるから、押し切られないように注意しながら当初の目的どおり優先順位に出来るだけ合致する車を探せば良い。

「あそこで遊んでよっか。」
「うん。」

 晶子はめぐみちゃんの手を引いてキッズエリアに向かう。本棚や背の低いクッションの遊具もあるし、女性店員が常時張り付いている。複数の幼児が先客として居るが、任せて大丈夫だろう。お姉ちゃんになるべく子どもにつきっきりのめぐみちゃんも居るし。
 2脚ずつペアで向かい合う形のテーブル席に、俺と高島さんが並んで、俺の向かいに男性が着席する。程なく、女性店員がメニューを出して来る。

「お好きなお飲物をお選びください。」
「紅茶お願いします。ホットで。」
「私はホットコーヒーをお願いします。」
「かしこまりました。」

 早速商談に入ると思いきや、ちょっと肩透かしを食らった気分だ。3人分の飲み物が運ばれて来たところで、仕切り直し。俺は優先順位を列挙して、これに最も合致する車を探していることを伝える。男性店員はタブレットを取り出して何やら操作する。

「お客様のご要望ですと、このような車種がございます。」

 タブレットを俺に見せる。見たところコンパクトカーらしい車が複数表示されている。複数の検索条件から車種を絞り込めるようになっているのか。てっきりパンフレットを選んで持って来るか、俺の話を聞いてからパンフレットを探しに行くかと思っていた。タブレットだとパンフレット印刷のコストも減らせるのもあるか。
 男性店員が順に概要を説明する。多くはガソリン車で一部ハイブリッドで4ドアタイプのコンパクトカー。主な違いは積載量と燃費。それも極端な違いはない。殆ど好みの問題になってしまう。となると、決め手は価格か。これも車種によって極端な違いはない。同一の車種ではグレードによって価格差がかなり出る場合がある。

「安めのものは…ガソリン車ですね。同一車種の価格差が出る要因は何ですか?」
「オプションの有る無しの他、インテリアやエクステリアの違い、安全装備の搭載内容などが挙げられます。」

 候補の車種の1つを例にした説明を受ける。上位のグレードだと標準装備の安全装備が、下位のグレードではオプション扱いかそもそも使用できない場合もある。インテリアやエクステリアも似たようなものだが、オーディオなどが上質なものになったりするものが多い。そういったものに興味がないなら無視しても構わない領域だ。
 オプションは、安全装備と似た部分がある。上位グレードしか使用できないオプションがあったり、全グレードで使えるオプションもある。これも興味がなければあまり気にしなくて良い領域。カラーではグレードによっては選べないもの、有料になるものがある場合がある。

「−お客様ですと、安全装備を重視されるのがお勧めです。安全装備は基本的に後付け出来ませんし、グレードによっては使用できないものもありますので。」
「分かりました。次に、ハイブリッド車についてですが、ガソリン車と比較してどのくらいガソリン代の節約になるでしょうか?」
「運転の仕方や走行距離によって大きく変わりますので、一概には言えませんが、ある程度条件を設けてシミュレーションできます。」

 条件は、通勤・買い物のみに使うかレジャーにも使うか、1回の走行距離、高速道路を使うか、の3点。実際の使用を想定して通勤・通学のみ、1回10km、高速道路は使わないを選ぶ。結果、1年で15,000円ほどの差が出来る。無論、ハイブリッド車の方が安く上がる。

「1か月の任意保険分くらいは変わってきますね。」
「…ガソリン車との価格差はそう簡単には埋められないですね。」

 ふと思ったことを口にする。1年15,000円は大きな額ではあるが、車両価格はそれより一桁多い。概ね20万〜40万くらいガソリン車より高い。20万の差をガソリン代の差15,000円で解消するには、10年以上乗り続ける必要がある。10年乗り続けられるだろうか?10年乗ると車はかなりガタが来ると聞く。
 子どもが産まれたら、当面泊まりがけを伴う遠出は避けるべきだろう。ホテルは対応できるところがあるが、出向くところは必ずしもそうじゃない。乳児を連れての遠出は、病気のリスクを考えても避けるべきだ。となると、それこそ買い物や通院くらいしか使うことはない。
 そこに、年間15,000円の差が出来ても、正直焼け石に水だ。最初に出来た20万以上の差を頑張って埋めようとするより、最初の購入を安く上げる方が良い。ハイブリッド車ならではの特質はやはりモータ駆動による静寂性だが、それを求めるなら電気自動車の方が良いだろう。

「価格差を出されますと、ハイブリッド車のメリットは正直薄くなります。通勤に使われるご予定ですか?」
「いえ、その予定はないです。」
「ですと、ガソリン車のうち…、この3車種がお勧めですね。」

 検索画面に表示される車種が3種類に絞られる。価格は100万プラス少々〜120万程度。車では手頃と言える価格帯だろう。最近買ったものと比べて桁が1桁2桁違うから、これでもかなり高価と感じてしまう。その方がこういう場面では安全装置になるとは思う。

「検討したいので、その車種のカタログをいただけますか?」
「かしこまりました。お持ちしますので少々お待ちください。」

 他にも何店か回るが、奇抜な車は候補に含まれないだろう。家族がいると、どうしてもスピードや機能より、燃費や積載スペースを重視する選び方に傾きやすい。子ども、特に乳児を保護したり運搬したりを考えるには、車を実用面で検討する視点を強くする方向になる。
 男性店員が持ってきたカタログを受け取る。オプションやそれに密接に関係するグレードは後で検討するとして、保険やローンのことが気になる。それは高島さんに聞く方が良いか。多分だが、販売店だと系列の保険やローンの話になるだろうし。
 礼を言って席を立ち、キッズエリアの晶子とめぐみちゃんに声をかけて、連れ立って店を出る。めぐみちゃんはこの間、晶子の腹の子どもに絵本を読み聞かせていたそうだ。ほんの2,3年前はめぐみちゃんが絵本を読んでほしいと言っていた立場だったのに、めぐみちゃんの成長には驚かされる。
 めぐみちゃんが姉になる心構えは着実に出来て来ている。そのめぐみちゃんが親として慕う俺と晶子は、親になる心構えが出来ているだろうか?自分ではそれなりに準備が出来て来ているつもりではあるが、めぐみちゃんや子どもから見てどうだろう?こういうのは聞くんじゃなくて態度が鏡だと見るべきだろう。

 帰宅。これだけのパンフレットを手にする機会はなかなかないだろう。計5店を全て巡った頃には日が暮れかけていた。

「車って、ガソリン車という範疇であれば、これ以外にあり得ないと思わせるような極端な差はないようですね。」
「どのメーカーも売れ筋を作りますからね。知られていないだけでメーカーが相互にOEMで提携しているのもあります。」

 4ドアのコンパクトカーでガソリン車という括りだと、値段も性能も似たようなものだ。異なるのは燃費−ハイブリッド車がないメーカーもあった−と売却時の値段の付き方。後者は下取りに出す際に影響するが、元々が100万レベルの金銭だから、値段がつかないこと以外は重大な問題にはならない。
 車自体の違いはそれくらいだし、保険の保険料や維持費は車を買う以上絶対に付き纏うものだからメーカーや車種を決定づける要素にはならない。こうなると、自分の決断だけだ。何時買うか、どのメーカーのどの車種を買うか、それだけだ。

「保険については、購入を決めた時点でご相談ください。複数社から見積もりを取って資料をお送りします。」
「ありがとうございます。」
「概してインターネット経由の方が割安になる傾向がありますから、可能ならインターネットの準備をしておいてください。」
「それは今の家が光インターネット対応で使える環境にあるので、大丈夫です。」

 こんな時点で晶子の判断が奏功することになるとは…。新居を探す際、光インターネット対応を希望したのは晶子だ。俺の今後の出張で宿や交通機関の手配をしたり、銀行の手続きをしたりするのに優遇措置があるから、というのが理由だが、早速それが実証される可能性が高まって来た。
 結婚と新居探しで晶子の大きな夢の1つが叶うとあって、浮かれるばかりと思いきや、きちんと先を見ていた。夢を叶えるにはそれなりの準備や努力が必要だと晶子は分かっている。それだけでなく、夢を叶えたら後は野となれ山となれにならないところも嬉しいしありがたい。

「車の色は何色にするの?」

 めぐみちゃんが唐突に、しかし重要なことを尋ねて来る。車の色も考えておかないといけない。客層の影響なのか、コンパクトカーは選べる色の数が多い車種が幾つもある。

「色までは考えてなかったな…。」
「同じ車種でも、色によって売却時の値段が変わってきます。」
「やっぱり無難な色の方が高めで売れるんですか?」
「はい。黒、白、銀の3色がオーソドックスな色で、どの車種でもこの3色はある筈です。」

 パンフレットを徐に見てみると、確かにその3色は必ずある。それだけオーソドックスな色=売れ筋の色ということだ。カラフルな車種だと10色程度バリエーションがあるが、その中で黒、白、銀は地味に映る。

「黒は夜間の視認性が低いことと夏場に車内の温度がより高くなること、白は汚れが目立つことが言われます。3色では銀が最も無難ですね。」
「特に色の好みやこだわりがなければ、その3色から選ぶのが良さそうですね。」

 車を買うってのは、意外と難しい。金額が通常の買い物より1桁2桁高いし、メーカーごとの違いは結構微妙。そのくせメーカーや色によって売却時の価格に差が出る。あまり深く考えずに、「これ」と思ったものを買うのが一番良いのかもしれない。車を周囲に誇示するのが目的じゃないんだし。
 考えてみれば、洗車ってことも必要なんだな。あとタイヤのチェックも。一気にこれまで無縁だったことが日常に入って来る。これから子どもも産まれるし、その上で車関係の面倒も見るなんて、俺のキャパシティを超えそうだ。俺とて晶子に任せきりにするつもりはない。晶子としっかりコミュニケーションを取っておかないといけないな…。

「晩御飯にしましょうか。」

 エプロンを着けた晶子がキッチンから出てくる。6か月になってエプロンを着けた際の腹の膨らみがよく分かるようになった。

「お母さん。めぐみも手伝う。」
「ご飯が出来たら、運んでくれる?」
「うん!運ぶ。」
「嬉しいな。それまではおばあちゃんと待ってて。」
「はーい!」

 めぐみちゃんの代わりに、俺がキッチンに入る。料理を学ぶためだ。収納は晶子が使いやすいように決められているから、何処に何があるかを把握することも必要。ただレシピのとおりに作る以外に、食材や調味料を出し入れしたり並行で別の処理をすることも覚える。そのためにキッチンに入る。
 味噌汁の出汁を取る。昆布を布巾で拭いてから鍋に入れ、水を必要分入れる。それを脇に置いて食器を出してサラダを作る。野菜を洗って水気を切り、サイズを揃えて切り、器に盛り付ける。単純だが料理の基本が詰まっていると晶子がこれを担当させている。キャベツをきちんと千切りにするだけでも結構難しい。

「もう少し包丁を立てた方が、スムーズに切れますよ。」
「こう…か。」
「そうです。包丁は先端を挿し込んでから刃の部分で切るんです。」

 包丁の扱い1つ取っても、まだまだ学ぶことは多い。野菜と肉とでは包丁の扱いが違うことも碌に知らなかった。「野菜は押すように、肉は引くように切る」も、言うは易し行うは難しというやつ。もう少し技術家庭科の家庭科の方をしっかりやっておくんだった。
 技術家庭科や音楽美術は、進学校では余暇か邪魔ものという認識が強い。部活だと音楽美術と言った文科系が運動系より強豪なことも多いが、授業としてはそういうもの。家庭科は平均的に出来る女子か、突然変異的に得意な男子に任せて、片づけをするのが普通だった。
 独身にせよ結婚するにせよ、生活は寝るだけじゃない。掃除をしないと埃だらけゴミだらけになって最悪病気になるし、アレルギーの原因になることすらある。料理をしないと外食やコンビニ食ばかりになって、食べるものが限られる。特に野菜は不足しがちになる。それらが体調を崩す要因にもなる。
 厄介なことに、掃除や料理は暗記や問題集の反復で覚えられる性質じゃない。自分で手を動かさないとなかなか覚えられない。車の運転もそうだが、実技を伴うものは自分の手足を動かして文字どおり身体に覚えさせないといけないらしい。

「キャベツは早く切ろうと思わないで、細く切ることを重視してください。」
「遅くなるのは良いのか?」
「慣れてくれば自然と速くなりますよ。慣れないうちはきちんと切ることを覚えておかないと、そのままスピードだけ速くなるんです。」

 千切りは特に難しい。細く切ろうとすると包丁を慎重に合わせないといけないし、速く切ろうとすると絶対短冊みたいになる。これが見栄え良くかつ素早く出来るようになったら、包丁の使い方はマスターしたと言えるんじゃないだろうか。それくらい俺には難しい。
 晶子は俺を指導しながら、唐揚げの下味を付けたり付け合わせの野菜の下ごしらえをしている。何だか魔法でも見るかのように次から次へと出来ていく。その動きに躊躇いや迷いは全くない。修練の差としか言いようがない。俺は晶子のレシピや指示どおりにちまちま進めるのが精一杯だ。

「サラダ1つ作るにしても、難しいもんだな…。」
「最初から何もかも完璧にしようと思わない方が良いです。家庭料理はスピードが勝負じゃないですから。」
「きちんと作ることが大事か。」
「それも大事ですけど、一番大事なのは愛情ですよ。」

 晶子は下味を付けた鶏肉が入ったボウルにラップを被せて言う。

「家庭料理は自分以外の誰かに食べてもらうことが最大の目的。料理を食べる人にとっては生活の一部なんです。忙しい最中にほっと一息吐けたり、次も頑張ろうと思えたりする、大切な時間になるように、自分以外の人が美味しく食べられる料理を作るのが、一番大切なことです。そのためには、美味しく食べてもらいたいと思う気持ち、つまりは愛情が大切なんです。」
「なるほど…。」
「それは、祐司さんが今まで感じてくれていることだと思いますけど。」
「確かに。」

 晶子は腹が大きくなった今もキッチンに立ち、日々の料理と俺の弁当を作り続けている。それは愛情があるからこそのもの。自分の料理を食べて欲しい、食事の時間がより良いものとなってほしいという思いが込められている。
 何でも気持ち次第でどうにかなる、とかいう精神論は好きじゃない。だが、気持ち次第で色々変わることがあるのは確かだ。気持ちだけではやっていけないが、気持ちが伴わないと出来ないこともある。毎日料理を作ったり掃除をしたりと、単に手持無沙汰になっただけでは出来ないことを、晶子が続けていられるのは気持ち、すなわち愛情があるからだ。
 腹の中で日に日に育っていく子どもを常時抱えながら、俺に愛情を向け続ける晶子に俺は何が出来るか?晶子が入院しても問題なく暮らせるくらいの家事能力を身につけること。それもそうだが、それは一部であり愛情の表れ。愛情を向け返す。「晶子のために何かしたい」と思うことをすることだ。
 今の生活の源泉を辿れば、晶子と結婚して自分が楽できるとか、晶子と付き合うことで高校時代の彼女と別れた後で美人の彼女が出来て鼻が高いとか、そういう計算はなかった。そもそも、晶子と付き合うまで俺の方がかなり懐疑的だったし、結婚までの過程は晶子に徐々に下地を整えられていった感が強い。
 晶子にしても、俺との付き合いを決めたのは、将来の妊娠出産を安心して出来るように浮気や浪費のリスクが低い条件を満たしたからだというが、それは後で生じたこと。それより前にあったのは、破壊された過去の関係の影を俺に重ねたこと。それは感性のレベルであって計算はない。
 第一、きっかけはそうでもそれだけじゃ今に至らない。きっかけは変遷や紆余曲折を経て愛情に代わり、結婚して夫婦という1つの共同体を営み、程なくそこにもう1人加わることになるのは、愛情が続いていてそれを維持しようと努めているからだ。
 愛情があることや維持していることも、日頃意識していない。晶子もそうだが「相手が喜ぶ顔を見たい」「そのために何が出来るか」を日々考えて何かをしている。それで十分だと思う。愛情があることや維持することを意識し過ぎると、「愛情があるんだから」と見返りを求める気持ちが先行してしまう。
 子どもが生まれるまであと3カ月余り。此処まででもこれまで考えなかったことがどんどん迫ってきている。生まれた後はもっと増えるだろう。子どもが生まれてからも安心して育つような環境づくりは、俺と晶子がすることだ。愛情を基盤に愛情を育んでいけば、自ずと結果はついて来る筈だ…。
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