謎町紀行 第130章

継体天皇の出自と古代日本史の謎

written by Moonstone

 その日の昼過ぎ、I県ヤマ市に入った。雪は残っているけど、規制は冬用タイヤ装着レベル。難なく高速道路を走ってヤマインターチェンジで新オオクス自動車道を降りて、旧ヤシロ町、現在はヤマ市ヤシロ町に入る。此処もやっぱり雪が残っている。これまでと違うのは木。山間にしては割と広い平地が森に囲まれているけど、こういう木はあまり見ない。

「ヤマ市は通称『山の町』。全体的に高所に位置して、なだらかな斜面と冷涼な気候を活かして、夏は避暑地、冬はスキーで賑わう観光地です。温泉も豊富です。」
「高原ってことは、見慣れない木は白樺かな。」
「はい。高原らしい植生ですね。」

 HUDとナビの案内で国道181号線を北に走って、途中で左折。遠めに見えていた高原に入る。

「拠点となるホテルを手配しておきました。まずチェックインしましょう。」
「此処?」

 HUDとナビが指し示したのは、高原の中に佇む、三角屋根と明暗の異なるベージュの配色が印象的な、大きな洋館が幾つか並んでいる。広大な駐車場の一角にシャル本体を止めて、シャルの案内で洋館の中で最も大きい建物に入る。広大なロビーは天井が高くて、細部に上品な装飾がある。その奥にフロントがある。いかにも高級ホテルといった佇まいに、どうしても緊張してしまう。

「いらっしゃいませ。」
「…予約した富原です。」

 僕は、事前にシャルに言われたとおりにスマートフォンのWebブラウザで予約情報のページを開いて提示する。そこには宿泊人数と宿泊期間、プランといった予約時の情報が文字で記載されていると同時に、QRコードがある。フロントの人はQRコードにリーダーをかざす。ピッと短い電子音がする。僕には見えない角度のディスプレイに、予約情報が表示されたようだ。

「確認いたしました。富原ヒロキ様でご予約、2名様禁煙スイートルーム、朝夕食事つきで5泊。以上でよろしいでしょうか?」
「はい。」
「ご予約ありがとうございます。では、こちらにご署名をお願いいたします。」

 差し出されたペンで、こちらに向けられたタブレットの緑枠の部分に署名する。「確定」のボタンをペン先で押すと、再びピッという短い電子音がして、フロントの人がカードを差し出す。僕の決して綺麗とは言えない字で署名がされたカードで、QRコードも記載されている。カードの形ではあるけど、液晶のようなディスプレイに見える。変わったカードだな。

「こちら、お部屋のカードキーでございます。ドアのカードリーダーに翳すと開錠できます。深夜は出入口が施錠されますが、このカードで開錠できます。万一の紛失の際は、直ちにフロントへご連絡ください。」
「分かりました。」

 ひととおり説明を聞く。部屋は最上階の7階。最近の主流なのかエレベーターにもカードリーダーがついているから、それにカードをかざして認証しないと動かない。5階の大浴場や1階のレストラン、更にはチェックアウトの時も出入口などでカードをかざす仕組み。なんにせよカードがないとロビーで手詰まりになるわけだ。

「ごゆっくりどうぞ。」

 説明が終わり、シャルと一緒にエレベーターに乗る。おっと、カードをかざさないと。ピッと電子音がして、エレベーターの階数ボタンが淡く光る。7を押すとボタン全体が光る。アナウンスと共にゆっくり閉じて、動き始める。程なく最上階の7階に到着。僕とシャルの部屋は701。見取り図を見ると、この階には5部屋しかない。しかもどれも分譲マンションくらいの広さがある。泊まるどころか生活も出来そうだ。
 実際中に入ってみると、部屋というよりマンションそのもの。出入口から奥が見えない構造。十分な広さのバストイレ洗面所。ソファが向かい合わせで並び、大画面TVも備えるリビング。2口の十分な出力のIHヒータや冷凍庫が分離された2ドアの冷蔵庫を備えるキッチン。屋根付きのバルコニーに面したベッドルーム。どう見てもホテルというよりマンションだ。

「随分張り込んだね。」
「1日の約1/3以上を過ごす場所ですから、快適に過ごせた方が良いです。」
「ごもっとも。それにしても、このカード、変わってるね。小型のフラットディスプレイみたいだけど電池の蓋は見当たらないし。」
「電子ペーパーですね。」

 僕も聞いたことはあるけど見るのは初めてだ。電源を切っても表示を長時間維持できて圧倒的な低消費電力だから、電子書籍などに使われる電子リーダーや学術学会のネームプレートなどに利用されている。一方、一般的な液晶や有機ELみたいな速さで表示を更新できないから、そういう用途には不向き。ホテルのカードのように、チェックアウトまで書き換える必要がないものには適している。

「立派な拠点は確保できたから、早速岩杖神社に向かう?」
「今日はやめておきましょう。今までより短時間とはいえ、土地勘のない場所での長距離移動もありましたし、岩杖神社の警備状況は万全です。」
「シャルがそう言うなら。」

 岩杖神社が、村ごと破滅した七輪神社と、警察と自衛隊の交戦に巻き込まれた三岳神社と祖先を同じくする神社というのは、恐らく神社本庁あたりは知っているだろう。七輪神社は村役場の職員も兼任していた宮司が逮捕監禁や大麻取締法違反などの容疑で回復次第送検・起訴だろうけど、三岳神社は無傷。警察と自衛隊が何も得られずに撤収するはめになった状況で、三岳神社と岩杖神社がXやその配下に狙われる恐れがある。
 そこで、シャルに依頼して岩杖神社にもSMSAを派遣して警備してもらっている。三岳神社は早々に情報保全隊が狙ったが、SMSAが全員捕縛して尋問の上、記憶を消去して強制送還。自衛隊のスパイ組織だから何かXに関する情報を期待していたけど、シャル曰く「所詮使い捨ての駒」とのこと。今のところ、岩杖神社は襲撃されてはいないけど、何時襲撃されるか分からない。位置と現状くらいは知っておくべきか。

「それならすぐ出せますよ。」

 大画面TVにマップと情報が表示される。折角だからソファに腰かけてゆったり見ることにする。岩杖神社はヤマインターから国道181号線で西に10kmほど走ったミチノカミ集落にある。国道181号線から1本脇道に入ったところにあって、まず迷うことはない。ミチノカミ集落は、ヤマ市の最西端に位置していて、3kmほど西に走るとA県に入る。大半が山林で、その谷間に集落と田んぼがある、典型的な山間の集落だ。

「このヤマ市も、かなり移動距離があるね。電車もあるみたいだけど。」
「朝夕で1時間に1本、それ以外は2,3時間に1本ですから、格段に車での移動が便利です。」
「よくある交通事情だね。雪は大丈夫かな?」
「天気予報でも晴れが続きますし、余程の急変がなければ、雪が降る条件はありません。」
「それなら移動は問題ないか。」
「はい。岩杖神社そのものとは関係ありませんが、1つ気になっていることがあります。」

 マップに青いマーカーが現れる。

「此処に、長者屋敷跡があります。この長者屋敷が歴史面で曰くつきです。」
「歴史面で曰く付きってどういうこと?」
「この長者の一人娘が、現代の天皇家に明確に繋がる継体天皇の后になったとされています。言い換えれば、天皇家の血統における影のキーパーソンです。」
「継体天皇との繋がりが此処に?」

 継体天皇と言えば、暴君と言われる武烈天皇亡き後、越後から招聘されて都に入って皇位を継承した、応神天皇の子孫とされる人物。その后が、越前や都から遠く離れたこの地の出身だとは全くの初耳だ。歴史がどこでどんな形で繋がっているか分からないものだ。
 歴史講義になってしまいますが、と前置きしたシャルの説明を聞く。天皇の家系は少なくとも3回の断絶や交代があったと見られる。1回目は第15代の応神天皇。2回目は今回浮上した第26代の継体天皇。そして3回目は、天鵬上人とも間接的に関係がある第40代天武天皇。今回は2回目の継体天皇に絞って見ていく。
 先代の第25代武烈天皇は、もう少し遡って実在がほぼ確実な第21代雄略天皇、ひいては、第15代応神天皇から始まり仁徳天皇へと続いてきた家系の最後の天皇。雄略天皇以降頻繁な崩御と即位を繰り返した末に即位したこの武烈天皇は、僕も知るように暴虐の限りを尽くし、8年の在位で崩御したけど、子どもが1人もいなかった。そこで大伴金村などが、越前にいた応神天皇の5世孫の大迹王(をほどのきみ)に即位を要請し、大迹王がこれを受け入れ、第26代継体天皇となった。
 このくだりは、信憑性がかなり疑問視されている。まず武烈天皇の暴虐ぶりは「夏桀殷紂(かけついんちゅう)」と呼ばれて暴君の代名詞とされている、古代中国の夏の桀(けつ)王や殷の紂(ちゅう)王の逸話に酷似している。桀王が末喜(ばっき)に、紂王が妲己(だっき)と、それぞれ美女に溺れ、桀王には酒の池に船を浮かべ、山のように盛った肉を食らった「肉山脯林(にくざんほりん)」の逸話が、紂王には肉を天井から吊るして林に見立て、酒を溜めて池に見立て、欲しいがままに飲み食いした「酒池肉林」の逸話があり、諫言した家臣を殺害するなど、コピー&ペーストのような様相を呈している。
 どちらも、「暴虐の限りを尽くして国力が衰え、蜂起した次代の王に倒される」ための、言わばラスボスとして描かれていることが共通している。だけど、最近の考古学調査研究では、夏の実在と共に、実は殷が夏を武力で滅ぼし、住民を虐殺したことが有力視されている(夏の都市遺跡の1つ、望京楼遺跡の調査結果)。また、殷は漢字の原型として有名な象形文字を使用したが、それは占いのために生贄として他の部族-殷の時代は複数の部族による集団統治だったが、やがて王を輩出する部族の一党支配になった-から献上された人身御供の上に成り立つものだった。それが部族の恨みや反感を買い、紂王が東夷征伐に乗り出した隙をついて部族が蜂起して(牧野の戦い)、滅亡に追いやったというのが真相。政権打倒を易姓革命として正当化し、大義名分を得るために、前王が暴虐の限りを尽くしたという前提条件が必要だった、というわけだ。
 翻って、武烈天皇は暴虐のエピソードが桀王や紂王に酷似していると同時に、存在自体が疑問視されている。1つは古事記と日本書紀の記述が全く異なること。古事記では、長谷之列木宮で8年間統治したこと、嫡子がいなかったため御子代(みこしろ:大化改新前の皇室の私有民。天皇に嫡子がいない場合に天皇の名を残すために設置したとみられる)に小長谷部を定め、御陵は片岡の石坏岡にあること、応神天皇の5世孫である袁本杼命(継体天皇)を近江から招聘し、皇后として手白髮命(手白香皇女:武烈天皇の姉)を娶ったことが記されるのみだ。
 有名な暴虐の数々は日本書紀に詳細に記されている。だが、その日本書紀でも、法令に精通し、日が暮れるまで政治を行い、無実の罪を見抜いて汚名を晴らすなど、訴訟の審理は的確だった、と冷静沈着な法律家としての一面が記載されている。この矛盾は、武烈天皇の暴虐エピソードが後付けのもので、応神天皇から続いた直系の断絶は武烈天皇の暴虐と失政による因果応報である一方、武烈天皇の姉を皇后としたことと併せて継体天皇の継承の正当性を構築するためのものだと考えられる。
 ここまでは前置きで、焦点を継体天皇に絞る。継体天皇は前掲のとおり応神天皇の5世孫とされているが、この5世孫というのがそもそも作為的ではないかと考えられる。というのも、「5世の孫」の原則というものがあるからだ。これは古代の皇室において、皇室の直系から遠い皇族は5世以内に皇室から出て民間人になる(臣籍降下)という原則で、継体天皇は民間人になる直前の皇族の血統からギリギリ継承に間に合った格好だ。しかし、戸籍もなければ-古代戸籍の成立は継体天皇の次代である欽明天皇の時代-DNA鑑定など概念すらない時代、5世孫という確証は薄い。
 実は「5世孫」というのは、あの平将門も主張したことだ(註:平将門は桓武天皇の5世孫という立ち位置から平安京の天皇に対して新皇を主張した)。「直系からは遠いが血統には違いない」「自分が継承しなければ血統が途絶える」と主張する有力な材料というわけだ。5世孫の概念を持ち出すことで、仁徳から続いた直系は途絶えたが、傍系の血統が続いていたことで天皇家の血筋は維持された、という筋書きに仕立て上げたと考えられる。
 そして、この継体天皇の后、つまり皇后は、古事記や日本書紀では手白香皇女、つまり先代武烈天皇の姉とされている。しかし、武烈天皇の実在自体がかなり疑問視される状況で、姉だけが-武烈天皇の兄弟姉妹は手白香皇女のみ-実在とするには疑問がある。手白香皇女の陵墓は存在するが(奈良県天理市の衾田陵(ふくまだのみささぎ))、発掘調査では3世紀後半とされ、継体天皇の即位507年より100年ほど昔のもの。こちらも実在が疑わしい。
 古事記や日本書紀などによると、継体天皇は生涯で8人の后がいたとされる。しかし、それとは別に、ここオオクス地方にある長者屋敷に住み、あらゆる病を治す霊酒によって巨万の富を築いた夫婦の一人娘である桂子姫-後の吉祥姫がいるとされる。吉祥姫は、夫婦が長者号を拝領するため(長者は朝廷の許可がないと名乗れなかった)上京した際、吉祥姫の美しさに惹かれた継体天皇に娶られたが、継体天皇17年(524年)に夫婦が逝去して程なく後を追うように亡くなった。夫婦が崇拝した大日神の社が今のA県カシカ市ヤシロ町にある大日堂で、吉祥姫は遺言に従って大日道のそばに埋葬され、吉祥院という寺が建てられた。
 記紀に登場する継体天皇の8名の后の出身地は、近江や近隣の大和、河内が殆どを占めている。このことから、継体天皇は近江を勢力圏とする豪族だったとする説もある。一方、都に近い記紀の8名の后とは違い、遠く離れたオオクス地方に継体天皇の后とされる存在があることは、注目に値する。
 天鵬上人が史実と異なるルートで唐から早期に帰還したり、更に都から遠く離れたオオクス地方を秘密裏に行脚していた確率が高いが、それらは中国方面から日本海を抜ける海流、対馬海流の存在を考えれば不可能ではない。特に、船と言えば帆船だった時代では海流の存在なくして航路は語れない。船に動力機関がついて海流に逆らって航行することが割と容易になったのは、日本ではまだ200年に満たない。言い換えれば、航行は風か海流を使うのが普通だった時代の方が圧倒的に長い。
 継体天皇は、古事記だと近淡海国(滋賀県)に、日本書紀によると越前国三国(福井県坂井市三国町付近)にいたとされる。近淡海国と越前国と徒歩でつなぐー現在の道路網を前提に考えるとおかしなことになる-ルートは概ね3つあり、そのうちの1つは三国に通じている。越前国の海側に出れば、越前海岸から船を出して対馬海流に乗れる。徒歩よりも運搬量や移動速度の面で優れる船での移動でオオクス地方にも足を延ばせることは、継体天皇の勢力範囲が史実より広く、実は北側に広かった可能性を見いだせる。そしてこの地理的条件は、天鵬上人の不可解なオオクス地方への行脚にも繋がる。
 後に日本全国を行脚して精密な日本地図を作り上げた伊能忠敬と違って、天鵬上人は若く、目的地がオオクス地方に絞られていて、目的がオオクス地方、特に金鉱脈の調査だったことは、行脚の期間を大幅に減らす要因になる。しかし、移動手段がほぼ徒歩のみで地図もなければGPSなどもない時代に、「空白の7年間」に絞られる短期間で広大なオオクス地方を行脚し、さらに朝廷から棟梁の一団を呼び寄せて巨大建造物であるトライ岳の造営を指揮するなど、相当の計画性は勿論、移動時間の大幅な短縮が必要。その有力な回答になるのが対馬海流で、継体天皇とオオクス地方を繋ぐ根拠にもなる。
 そして同時に、継体天皇の出自が何処なのかという、根幹的な問題が改めて浮上する。古事記と日本書紀の記述が食い違うのは、別人と言って良いほど人物像が異なる日本武尊などと比べれば、継体天皇に関してはまだ誤差の範囲と言える。そもそも古事記は、天皇家の断絶・交代の3回目である天武天皇の時代に、その前の政変である乙巳の変で焼失した「天皇記」や現存しない「国記」に代わる国史の編纂が目的で、日本書紀は続日本記で、「舎人親王(註:読みは「とねりしんのう」で、天武天皇の第3皇子)が天皇の命で日本紀を編纂し、完成した30巻と系図1巻(註:系図は現存しない)を撰上した」と簡潔に書かれているだけで、成立した時代はその続日本記の記述から720年とされるくらいだ。さらに言えば、日本記と日本書紀が同一なのかという疑惑すら生じる。
 古事記と日本書紀が、どちらも天武天皇の時代に編纂が始まったことから、天武天皇が自らの正当性、つまり神武天皇から続く万世一系の血統であることを示すために編纂を命じた、国史を装ったプロパガンダという見方も十分可能だ。その2つの書籍が近江と越前という所在の食い違いはあっても、概ね即位までの筋書きが一致しているのは、継体天皇が近江や越前を勢力範囲とする豪族だったという有力な見解に達する。では、継体天皇の出自はどうか?
 古事記と日本書紀より古い日本の歴史書は現存しない。古事記の源泉とされる帝紀や旧辞も同様だ。日本で文字が齎されたのは5世紀後半から6世紀に史(「ふみひと」もしくは「ふひと」と読む、書記官)という官職が出来たあたりと見られるが、継体天皇の時代には日本で使用された言語を文字として記録することがなかった。だから有名な魏志倭人伝など、主に中国の歴史書から研究するしかないが、中国における匈奴の侵入や五胡十六国~南北朝時代の混乱で、魏志倭人伝から宋書の「倭の五王」(註:讃・珍・済・興・武と記載されている5代の王。稲荷山古墳から出土した鉄剣などから「武」が雄略天皇である可能性が高い)までの記録がない。
 文字や史も渡来人、すなわち流入した外国人によって齎されたが、これは当時の国際情勢-中国と朝鮮の状況が絡んでいる。当時の朝鮮半島は、日本と友好関係にあった百済、後に唐と連合して百済を滅ぼす新羅、そして高句麗に加え、実質的に日本の植民地だった任那が存在した(三国時代)。一方の中国は、五胡十六国~南北朝時代の王朝乱立の時期。これらを嫌ったあるいは迫害された中国人や朝鮮人が流入した。ここに重大な疑問が生じる。

滅ぼされた王国の関係者が、日本を舞台に王家再興を企てたことは考えられないか?
日本の混乱を知って、優位な技術力と人員を背景に、天皇家を乗っ取ったことは考えられないか?

 当時の天皇家は、雄略天皇が粛清を繰り返したのもあって、武烈天皇の代で後継者が途絶えた。当時の天皇家は有力な豪族の1つという立ち位置で、実際、他の豪族が明に暗に活動した。そんな不安定な政情に加え、技術的・文化的に遅れた国を制圧するのは、さほど困難じゃなかっただろう。
 実際、継体天皇の即位後、百済の要請にこたえて軍事支援を行っている。これは問題の日本書紀にも記されている。さらに問題の日本書紀には百済から任那4県の割譲を求める使者が訪れ、大伴金村の意見で決定したとある(513年(継体6年))。この大伴金村は、武烈天皇の先代の仁賢天皇崩御後に、側近(大臣)である平群真鳥(へぐりのまとり)・鮪(しび)親子を滅ぼして武烈天皇を即位させ、自身は側近(大連)に就任したうえ、武烈天皇崩御後は継体天皇を次期天皇に推挙した人物でもある。
 大伴氏の系譜自体はっきりしないし、同じく継体天皇を推挙した物部麁鹿火(もののべのあらかひ)など物部氏も同様だ。いずれも武烈天皇の時代に側近となり、継体天皇を推挙して引き続き側近として君臨した。記紀の記述どおり、天皇家の血統を守るために奔走したのだろうか?実は彼らは渡来人で、継体天皇を推して当時の日本、倭国を制圧し、天皇の継承と血統の正当性を主張するために武烈天皇なる架空の人物を作り上げたのではないか?
 遺跡にもこの時期に重大な変化が見られる。古墳の副葬品は、魏志倭人伝の時代には「倭国には牛や馬はいない」とされていたのに、「倭の五王」以降は馬具が多く出土するようになる。銅剣銅矛祭祀や銅鐸祭祀も衰退・消滅し、代わりに鉄器が中心になった。所謂大和朝廷という王権が成立したと見られ、権力者の墓、すなわち古墳が巨大化し、方墳や円墳が前方後円墳など複雑な形状に変化した。人間の体形は、背が低く武骨な縄文人タイプが、背が高く細身の弥生人タイプに代わり、入れ墨の風習が駆逐された。「空白の4世紀」を挟んで、日本の国家体制や風俗・文化に大きな変化があったのは間違いなく、それが渡来人によるものである確率が高い。
 鉄器が中心になったことは、日本海側、つまり中国や朝鮮に近い地理的要因の場所から伝搬したと見られること、そして日本海側に強力な勢力が存在したことを示唆している。鉄と銅を比較すれば、強度の面で圧倒的に鉄が有利だ。旧約聖書で「ヘテ人」として現れるヒッタイトが強大な勢力になるに至ったのは、鉄器製造技術を得ていたこと、特に、炭素を含んだ鉄である鋼の製造が可能だったことが大きい。鋼は日本刀や柳葉包丁などの鋭利な刃物として今も使用されているように、武器としての能力は銅のそれとは比較にならない。ヒッタイトがこの製鉄技術を国家機密と位置づけ、独占していたと見られるのも自然なことだ。
 そんな技術的・軍事的優位な材料となる製鉄技術が盛んだったのは、実は常世神社がある地域。常世神社は、黄泉の国の王に妻を攫われた神が妻を取り戻すために黄泉の国に向かい、無事取り戻した際、現世と黄泉の国を繋ぐ扉が塞がれてしまったが、神が託された剣で空間を切り裂き、現世に舞い戻って降り立ったのが由緒とされている。もう1つ、この神は八岐大蛇を倒した神話の主役でもあり、所謂「三種の神器」と関係がある。
 遠い昔、常世神社のある地域には、頭が8つ、尾が8つある巨大な大蛇である八岐大蛇が支配し、若い女性を生贄として差し出させていた。そこに、話を聞いて訪れた神がこの八岐大蛇に大量の酒を飲ませ、泥酔して昏倒したところですべての首を落として退治したという筋書きだが、この時八岐大蛇の尾の1本から現れたのが天叢雲剣、後に草薙剣と呼ばれる剣だ。
 この神話は、製鉄技術を神話にしたという説と、地域に流れるヒビ川を神格化したという説がある。同時に、この神の風土記と記紀での描き方が異なることに注目する必要がある。記紀では歩くだけで山と川は激しく動き、国土が震えた荒れ狂う神とか、暴虐と冒涜の限りを尽くして天照大神が天岩戸に隠れる事態を引き起こしてついには追放されたとか、手が付けられない暴れ馬として描かれているが、風土記では地域を平定した、穏健で平和な地域の長として描かれている。しかも、風土記には天照大神など天孫系と称される、のちに神武天皇に繋がる血縁には全く触れられていない。
 常世神社のある地域は、朝廷から独立していた別の国家だったと見て良い。製鉄技術とそれによる軍事力で地域を平定し、更に対馬海流を利用して日本海側の各地に鉄器を送り、収入を得たり勢力範囲を広げたりしていた可能性すらある。事実、江戸時代には安来港を拠点として、常世神社のある地域の鉄を壇ノ浦から瀬戸内海を通って大阪に運ぶ航路と、日本海側の各所を経由して北海道まで届けるルートが存在した。重量がある鉄の運搬には航路が効率的だし-これは現代でも変わらない-、このルートには継体天皇がいたとされる越前国三国が含まれる点も、継体天皇が日本海側を勢力圏とする豪族だったとする説や、遠く離れたオオクス地方の娘、のちの吉祥姫を娶ったという説に信憑性を持たせるものだ。

「-話が予想以上に長くなりましたが、出自が不明瞭な継体天皇と此処オオクス地方が決して無縁ではない可能性があって、継体天皇より時代的にはかなり後になる桓武天皇の時代に生きた天鵬上人こと手配犯が知っていた可能性もあることは分かってもらえたでしょうか?」
「地図や略年表もあったから分かりやすかったよ。学校の歴史の授業では習わなかったから驚くことが多かった。」
「地理的要因と歴史との関係性は、日本の学校教育では殆ど言及されないようですね。地理と歴史はむしろ一体のものとして扱うべきところですが。」

 単元として地理と歴史が分かれているのは小学校からだけど、中学校になるとよりその分離が明確になって、高校で決定的になる。地理も歴史も別々のものとして暗記に終始するようになって、何の面白みもない。歴史も高校で日本史と世界史が別単元になって、日本史が世界史から独立した、日本が他国とは別建てで誕生したものという認識すら生じる。
 実際は、地理と歴史は一体不可分のものだ。良く知られる事例だと、江戸時代の親藩-水戸、尾張、紀州の配置。交通網が多種多様に発達した現代の視点だと、尾張は東海道の途中に位置して、中山道も交錯する交通の要所だから、身内である親藩を配置したのは何となくでも分かるけど、水戸と紀州がいまいち分からない。これも、当時の地理を考慮すると明確になる。
 水戸は以北に有力な外様大名-仙台の伊達、米沢の上杉などを多く有する。また、伊達や南部といった有力大名の領地を繋ぐ奥州街道に繋がる陸前浜街道を含み、そのまま水戸街道で江戸に繋がる位置にある。奥州街道の途中は譜代-前橋の酒井、宇都宮の奥平、古河の永井など-を配置する一方で、近隣の外様を監視しつつ、伊達や上杉を監視する役割を担った。また、水戸に所領を持ちつつ江戸で執務を取って-副将軍という異名はこれに由来する-有事に備えつつ将軍を支える役割を担っていた。
 紀州は街道より航路が重要ポイントだ。黒潮で薩摩の島津、土佐の山内という有力外様が繋がり、それが一方は紀州水道を通じて徳島の蜂須賀や堺に、そして江戸に近い伊豆半島や房総半島に繋がる。しかも航路だから陸路より運送量がはるかに大きい。更に、堺は鉄砲など武器の一大生産拠点でもあり、有力商人が多数陣取る。そのため、黒潮経由で堺や伊豆半島、房総半島に繋がるルートを抑えるため、広大な領地を有する形で、紀伊水道に面する和歌山に居城を有する紀州藩が配置された。
 他の親藩-御三家以外にもいくつかある-、譜代が、中高の歴史の模範解答である「外様を取り巻き監視するように配置された」のは事実だけど、もう1つ、街道の主要ポイントに配置されていることも忘れてはならない。移動と言えば基本的に徒歩、限定的に馬があったくらいの時代、街道という地理的要因を知ることは、徳川幕府の治世を考えるうえで重要だ。
 江戸時代より街道が限られ、移動手段は相変わらず徒歩が基本だった時代、海流は大量の人員や物資の輸送で重要な役割を果たしたことは想像に難くない。海流は一方通行だけど、往路で人員と物資を大量に輸送して、制圧した土地から陸路で戻ったり新たな物資を運搬することは、別段不思議なことじゃない。海流は浜から少し遠いところを流れているから、沿岸部に沿って移動すれば、復路も航路を使える。事実、江戸時代の安来港を拠点とする鉄の輸送航路のうち、壇ノ浦と瀬戸内海を通過するルートは、対馬海流に逆らう形で、沿岸部を伝う形だ。
 天鵬上人の行脚が此処オオクス地方に及んでいることが確実になった。その軌跡である寺社仏閣に、天鵬上人の別の顔と共に、ヒヒイロカネに関する重要な情報が隠されている可能性がさらに高まっている。明日出向く岩杖神社で、新しい情報が得られるかどうか…。