雨上がりの午後

Chapter 349 石垣への夫婦旅行(4日目:前編)

written by Moonstone

 翌朝。眠気が少し残る中、朝飯を済ませていざ出発。まず向かうは石垣港の離島ターミナル。此処から他の離島−竹富町を構成する複数の離島と、日本最西端の地がある与那国町がある与那国島と石垣本島を結ぶ高速フェリーが就航している。鉄道やバスのターミナルは新京市や小宮栄にもあるが、船のターミナルは初めてだ。
 与那国島は空港があって航空便も就航していて、かつては最も遠い波照間島の空港が稼働していたそうだが、今は竹富町を構成する離島には高速フェリーで行くしかないそうだ。台風の時期だと1週間くらい孤立することもあるらしいから、まさに船便は離島の命綱だ。
 離島ターミナルは結構人がいるが、小宮栄の混雑に日々翻弄されている身からすれば十分余裕がある。今回行くのは竹富島。船便も多いし10分程度で行ける。朝から行けば存分に楽しめるだろうし、島が小さくてレンタカーがないから、変な輩も脚を伸ばし難い。あの手の輩は車移動が前提のところがある。
 竹富島行きのチケットを買って埠頭に出る。このあたりはバスと同じ感覚だ。バスが船になったようなものか。船は既に停泊していて、乗客を少しずつ迎え入れている。俺と晶子もチケットをもぎってもらい、船内に入る。物資も運ぶためか、思っていたものより船内はかなり広い。観光客を意識してかデッキもある。

「デッキに出るか。」
「はい。天気も良いですし。」

 晴天続きだし、海の上を移動する機会は滅多にない。乗り物酔いはしないタイプだから、潮風に当たりながら海を眺めてみたい。機会があると海に引き寄せられるのは、日頃海を見る機会がない内陸部の生活故だろうか。
 デッキは人が多い。むしろ、船内の客席に座っている人より多いかもしれない。考えることは同じか。ざっと見たところ前より後ろの方が人がやや少ない。時間が早い方のせいか十分余裕はある。前の方が良いかな。俺は晶子の手を引いて前の方に移動する。
 少しして、出港のアナウンスが流れて船がゆっくり動き始める。結構エンジン音がする。船に乗るのは…何時以来か分からないくらい記憶がないから、こういうものかと思うしかない。揺れは逆に思ったより少ない。波とシンクロしたゆったりした上下運動が新鮮だ。
 船が埠頭を離れたところで向きを変え、ゆっくりスピードを上げる。上下の揺れはそのままに、前からの風が強まる。混じり気のない潮風が勢いを増して吹き抜けていく。

「石垣から更に遠いところに行くなんて、思いませんでしたね。」
「少し前は考えもしなかっただろうな。」

 飛行機に乗ってまで遠出をしようとか、つい半月前、否、3か月前くらいまで思いもしなかった。マスターと潤子さんに勧められたのが発端だが、遠い南の島に来て、そこから更に足を延ばすに至り、更に現地調達してまで一足早い海水浴までしようとしている。
 晶子と海に行ったのは、付き合い始めて1年も経たない頃。水着姿もそれ以来見ていない。約3年半ぶりの晶子の水着姿を昨日独占できた。海水浴も昨日までの成り行きから派生した想定外の行動であって、こうした行動をすること自体、思いもしなかった。
 宿と往復の交通だけ確保して、あとは自由にしたい。これは俺と晶子の当初からの合意事項だった。それを反映したのが石垣島の一周と南十字星見物のスポット探しだが、それより先は全く考えてなかった。滞在期間中レンタカーを借りたし、その日その場で考えれば良いという考えだった。
 あまりの海の美しさと夏としか思えない日差しの強さから派生したのが、今回の海水浴。離島に足を延ばすのは晶子の安全を考えたためだが、妙な視線や嫉妬、更には劣情に晒されるより、快晴の空の下思いっきり羽を伸ばせるほうが良いに決まってる。
 前方に島が見えてきた。あれが竹富島か。白い部分が近づいてくるが、あれが…港か?更に近づいてくると、想像していた港より随分小ぢんまりしたものだと分かる。接岸できる桟橋は1か所のみ。だが、桟橋は随分広々している。物資を積み下ろしする場所、まさに竹富島の玄関口だと感じさせる。
 船から降りると、白が眩しい。桟橋は白だし、建物も白。屋根だけが赤い。石垣島の中〜北部で見た、伝統的な沖縄地方の家を模しているようだ。4月でこの強い日差しだから、迂闊に壁を濃い色にしたら冷房が追いつかなくなるかもしれない。

「えっと、此処から目的地は…。」

 桟橋から出たところで、晶子が地図を開く。

「方角は…此処から南東。島の中央を抜けると早いですね。」
「他にも道があるのか?」
「島の北側からぐるっと回り込む形で行けます。」

 地図を見ると、確かに北側から回り込むようなルートもある。散歩がてら歩くのも良いが、土地勘がないところだし、散歩は後でも出来る。

「まず目的地に確実に行くのを優先するか。街並みも見物できるし。」
「そうですね。その方が安全ですし。」

 昨日のワゴン車の輩のような見るからに怪しい連中は、船には居なかった。有料の高速フェリーに乗るというワンクッションを挟むのは、意外に効果があるようだ。だが、土地勘がないところには違いない。まず道がはっきりしていて人通りが多い道を選ぶのが安全だろう。
 地図と見比べて、片側1車線の舗装された道の歩道を歩く。港から離れると森の中を道が走るという、石垣の郊外で見た風景になる。石垣等より小さいから人家が多いと単純に考えたが、人々は島の中心部に集中しているようだ。他の離島もこんな感じなんだろうか?

「この道を歩いて行くと、竹富島の中心部、市街地…って言うんでしょうか?そういう場所に出るんですけど…。」
「どうした?」
「街灯がないです。それが凄く不思議で…。」

 言われてみると、確かに街灯がない。歩道は両側に整備されているし、街路樹もあるが、街灯がない。となると、夜はこの道路は完全に闇に包まれる。周囲は俺の背丈を少し超えるくらいの木くらいしかないから、昨日のような満天の星空が見えるだろう。
 星空を残すためなのかは分からないが、思い切ったことだと思う。夜が暗くても外を出歩けるくらい治安が良いのもあるだろうが、夜に外出する必要がない生活が出来るためかもしれない。新京市ではまず不可能だし、小宮栄でこんなことをしたら大事故か大暴動かのどちらかは起こるだろう。

「此処での生活は、普段の生活とは違う時間の上で営まれているんですね。」
「夜勤とか夜遅くの残業とか、概念もないかもしれないな。その分、早朝からの行動はあるかもしれないが。」
「健康には朝型生活の方が良いとは分かってますけど、そういう生活を続けるのは意外と難しいですよね。」
「ああ。だから遠いところにあっても観光客が来るんだろうな。普段の生活から一時でも脱出して理想の生活を送れる時間を体験するために。」

 離島の生活そのものは、普段の生活より多分不便だろう。スーパーの品揃えも潤沢じゃないだろうし、コンビニもないと思った方が良い。家電や家具も選んで買えないだろうし、通販で買うにしても割高の送料を払わないといけない。病院に行くにも高速フェリー次第なこともあるだろう。
 観光で来るのと実際に生活するのとは全く違うし、そもそも習慣など価値観が違うことが多いから、地方への移住が失敗に終わることが多い。だが、それでも行きたい移住したいと思わせるほど、人を引き付ける何かが石垣や離島にはある。その一端が、街灯のない大通りとして現れているのかもしれない。
 道はほぼ一直線で分かりやすい。街灯がないのは変わらないが、道の両側の風景が森から時々牧場に変わる。だだっ広い草原をゆったりのんびり牛が歩いたり草を食べたり、座り込んだりしている。牛が逃げ出さないようにか鉄条網の柵はあるが、中学生くらいなら十分飛び越せる程度の高さだ。
 牛の方も警戒心が薄いのか、人間を見ても特に逃げ出したり逆に襲ってきたりしない。「何だこいつ」とばかりにじっと見つめて来る牛も居る。のっそり立ち上がって移動したり、我関せずとばかりに草を食べ続けていたりと思い思いに過ごしている。牛にも個性があることを窺わせる。

「市街地より牧場の方が広いかもしれませんね。」
「牧場の向こう側が見えないから、その可能性は十分ある。」

 地図を見る限り市街地とそれほど離れていないところに、牧場があるというのも非日常だ。かつては田んぼの一角に牛舎があったそうだが、宅地化が進行するにつれて臭いの苦情が出たりして牛舎が移転した事例がある。臭いを伴う牛舎と住宅は基本的に相容れない。
 牧場が広いから、牛舎は多分牛が寝たり子どもを産んだり、雨風を凌ぐための場所だろう。だから、臭いの要因であるフンが出ても広大な大地に取り込まれて、それは草の養分となっていく。循環サイクルが出来ているし、牛のストレスやそれによる病気のリスクも減る。
 歩き続けると、次第に白い壁に赤い屋根の建物が見えて来る。それも密集というほどじゃない。道の両側が森や牧場から、家の敷地らしい雰囲気になって来たのが、市街地に入りつつあると感じさせるくらいだ。家を囲む低い塀が、白い壁と赤い屋根の組み合わせと同じく何処も健在だ。

「街並みを保存しているんですね。」
「奥濃戸にもそういう場所があったな。」
「観光地であるっていう意識があるから出来ることなんでしょうね。1軒だけだと出来ないことですし。」
「日頃の苦労があるからこそ守られている風景だな。」

 人が増えれば宅地化が進むだろうし、その分牧場の立場が悪くなるだろう。他で起こった出来事が石垣や竹富で起こらないとは思えない。人が増えないとこの風景は維持されるが、何時まで維持できるかは不透明。広くない離島だから余程船便が増えない限り不便は覚悟し続けないといけない。暮らしやすさと風景や空気の良さはやはり相容れない。
 市街地に入ると、とたんに道が狭くなる。車だと1台が何とか通れる程度で、すれ違いは不可能。家にも車や駐車場はないようだ。車の通行は郵便や輸送といった公共的なものに限っているのかもしれない。新京市や小宮栄で慢性化している渋滞とは無縁どころか、渋滞という概念がないかもしれない。
 レンタサイクルや民宿の看板が時折見える町並みは、塀に囲まれた赤い屋根と白い壁の家、生い茂る木々で構成されている。車があまり通らないから必要がないんだろう。道のアスファルト舗装はなくなっている。車自体、港付近で見たくらいで今は存在しない。普段の生活では考えられない風景だ。
 俺と晶子の生活が家の近隣と決まった店で完結しているから、俺の通勤や遠出の際に電車を使うくらいだが、新京市は基本、車社会だ。小宮栄とかに通じる路線はあるからそこへの通勤通学は電車や高速バスを使うが、レジャーや買い物には車を使うのが普通だ。
 今の家には1台分の駐車場があるが、全く使っていない有様。尋ねて来る親族は居ないし−晶子の方は居たら即高島さんに連絡する間柄−、智一や耕次や宏一といった車を持っている友人も、新婚家庭に遠慮してか電話は偶にあるが尋ねて来ることはない。駐車場料金だけ払い続けている。
 無駄とは思っていない。晶子が子どもを熱望しているから何時子どもが出来てもおかしくないし、そうなったら毎度タクシーを呼ぶより車1台持っていた方が何かと都合が良いだろう。だが、結婚しても尚車を持たない俺と晶子は、かなり異端的であることは確かだ。
 更に歩いて行くと、花に彩られた大きな門構えの前に来る。竹富小学校…に中学校?石畳や民家と同じ赤の屋根と白の壁で作られた塀といい、奥に見える大きな民家のような建物といい、公園や児童館と錯覚する。

「小学校と中学校が同じ敷地にあるのか。」
「子どもの数が少ないから出来る、小中一貫校みたいなものですね。」

 長く続く石垣の向こう側が小学校と中学校の敷地らしい。石垣もそれほど高くないから、その気になれば乗り越えることは可能だ。奥の方は塀も大人ならジャンプすれば超えられそうな高さで、他の障害は大きな木が点在するくらい。道を挟んで向かい側が空き地のようだが、そちらと区別が付き難い。

「凄くゆったりした作りですね。」
「少人数ならではだな。それに、周囲と区分けしようとする感がない。」
「言われてみれば…。建物も周囲に溶け込んでますよね。」
「人間関係は難しくなる側面はあるが、子どもにとっては理想の1つだな。」

 新京市に限らず、小宮栄や近隣の小中学校は、高い塀と聳え立つコンクリートの建物が定番だ。学校が終われば塾が待っているし、別の県から来た人が「この辺の学校は収容所みたいだ」と形容していたと晶子から聞いたことがあるが、あながち間違ってないと思う。
 ギスギスした人間関係は、何も田舎だから起こるもんじゃない。絶えず競争を強いられ、脱落すれば転げ落ちるのみという環境の方がそういう人間関係を形成しやすい。晶子から客の話として聞く限りだが、いじめは潜在化して陰湿な形で起こっている。表沙汰になると自分が脱落すると分かっているからだ。
 中高一貫校は小宮栄の私立で数校あるが、この界隈は公立の方が優位なのもあって、思うように生徒が集まらないとも聞く。私立が優位なのは東京と大阪くらいというし、学費と進学率を考えれば、授業料が安くて進学率は上位なら抜群な公立に行かせたくなるだろう。
 小学校から私立で大学までその系列というのは、漫画とかではよくあるし、東京では芸能人や金持ちが子どもを通わせるために熾烈な「お受験」にのめり込むという。だが、その教育効果は甚だ疑問。私立大学で内部推薦組より一般入試組の方が成績が良いというのはよくある話。
 結局、親や社会が教育の何処に重きを置くかで決まるんだと思う。ブランドや見栄を重視するか、子どもの進学・就職を自分のステータスと見るか、子どもが自立して社会の一員として暮らしていけることに重きを置くか。子どもの頃は親の存在が絶対だから、どうしても親の意向が子どもに反映されてしまう。
 恐らく塾はあっても個人経営のこじんまりした、授業の遅れを補完するようなものしかないであろうこの地域では、余程特異な事例以外は難関校への進学は難しいかもしれない。だが、難関校の進学が全てなわけがない。その先就職はあるし、就職後も業種や会社によっては絶え間ない競争が続く。進学はほんの序の口でしかない。
 小中学校の敷地の南の角が、ちょっと複雑な交差点に隣接している。複雑と言っても、道の交差の仕方だけで、信号も標識もない。正面に看板と碑がある。地図によると、コンドイビーチにはこの交差点を真っ直ぐ進むか右折するかで行ける。折角だから看板と碑を見ていくことにする。

「水道記念碑…?」
「こっちにある井戸は、さほど遠くない過去に使われていたものらしいです。」

 そうだ、離島の生活の重大な問題は水だ。周囲を海に囲まれているから水には不自由しない、という馬鹿な見解を目にすることがあるが、生活で必要なのは真水。飲用に耐えうる水のことだ。離島には水があるようでない。それは…石垣でも垣間見られたことだ。
 石垣は川があったから、ダムを作って飲用水を貯めることが出来る。ところが竹富島など更に小さな離島には川がない。そうなると飲用水は井戸を掘るくらいしか得る手段がない。今でも海水から真水を作るには専用の施設が必要だが、設置するにはかなりの費用がかかる。大都市ならいざ知らず、小規模な町村、ましてや離島では容易じゃない。
 雨水を溜めて流出させないような工夫もなされ、石垣島から送水管が敷設されて上水道が整備されたのは、昭和51年になってから。まだ半世紀も経っていない。石垣島から送水されるものだから、石垣島での需要が急騰すると送水が厳しくなる。決して潤沢とは言えないわけだ。

「離島に漂着したり、漂流したりして水をどう確保するか苦闘するシーンがあるけど、誇張じゃないわけだな。」
「水がなかったら何も出来ませんよね。生きることすらままならない。」

 蛇口を捻れば即座に水が出る。2カ月に1回の水道料金は大して気に留めないレベル。そんなごく当たり前の生活感覚は、こういう離島に来ると生活苦に直結しかねないものだと感じる。それどころか島全体の水道に悪影響を及ぼしかねない。
 海水を真水にする設備がもっと安価に利用出来れば、離島の生活が変わるかもしれない。海水を真水にする必要があるのは、何も離島に限ったことじゃない。工場は何らかの形で大量の真水を必要とする。その水道料金も桁違いだろう。もしかすると、子どもの躾で水の使い方は最重要項目の1つかもしれない。

「さて、此処からだが…。」

 晶子が広げた地図と実際の地形を見比べる。地図では、此処から水道記念碑の横を通って真っ直ぐ進み、もう1つの市街地の中間あたりで右折する道と、この交差点で右折して暫く進み、交差点で左折、更に進んで右折する道の2とおりがある。どちらでも行けるだろうが、どちらかを選ぶ必要がある。

「真っ直ぐが右折か。」
「真っ直ぐの方は、少し上り坂のようですね。」
「どちらを選んでも迷わないだろうし、迷っても直ぐ本来の道に出られるだろうから…、じゃんけんで決めるか。」
「それくらいの感覚で良いですね。」

 俺は右折、晶子は真っ直ぐを選ぶ。早速じゃんけん。…勝った。妙な気分だ。

「じゃあ…右折ってことで。」
「勿論それで良いですよ。どうしたんですか?」
「勝ったって言うようなもんでもないし…。」
「勝った方で良いんですよ。さ、行きましょうよ。」

 若干違和感を覚えたものの、晶子に引っ張られるように行動再開。右折して少し歩くと一気に市街地から草原と森に変わる。町の外に豊かな自然があるというより、豊かな自然の中に町がある感じだ。ゲームの世界に近いかもしれない。
 コンクリートで固められた一直線の道の直ぐ隣に森と草原が広がる。そして…その草原を悠々と牛が闊歩していたり、草を食べたりしている。見知らぬ人間に対しても全く警戒感がないようだ。好奇心か何かでじっと見つめて視線で追っている牛も居る。市街地に入る前の牧場と同じだ。

「さっきより更に間近ですね。」
「牛が凄く大きく見えるな。」
「のんびりしているのが余計にそう見えるんでしょうね。」
「本当にのんびりゆったりしてる。見慣れない奴が来たな、くらいの感覚みたいだな。」

 草を食べていて、俺と晶子に気付いたのかふと顔を上げても、少しして何食わぬ顔でまた草を食べることに戻る牛も居るが、こちらに近づいて来る牛は居ない。縄張りというか生活圏内というか、そういう場所に入ってこなければどうでもいい存在と見なされているようだ。
 牛をこんな間近で、しかも仕切りや柵もないところで見るのは初めてだ。小中学校から100m離れているかいないかという場所に、放し飼いの牛が何頭も居る光景は、新京市や小宮栄ではあり得ない。牛で別世界に来たことを実感することになるとは思わなかった。
 牛が思い思いに過ごす草原−牧場と言うには自然に近い−を横目に、真っ直ぐ伸びる道を歩いて行く。此処にも街灯は1つもない。石垣島を巡るより、竹富島を少し歩く方が簡単に星空を眺める絶好のスポットを探せたかもしれない。だが、それは来て初めて分かったこと。星空は昨日十分見られたから満足だ。
 更に歩いて行くと、交差点が見えて来る。地図と見比べても、此処が左折する交差点なのは明らか。交差点の前には木で出来た案内標識がある。その1つに「コンドイ浜」と書かれている。風景に分かりやすい目印がないから、こういう標識は貴重に感じる。

「間違いないですね。」
「ああ。それにしても、結構有名なビーチらしいのに、近づいても店とかは出て来ないな。」
「必要以上に人を集めないようにしてるのかもしれませんね。設備を充実させるとどうしても人が来ますから。」

 道が片側1車線になったが、舗装はコンクリートと思われる白いもの。周囲の景色は変わらず森か草原のどちらか。割と有名らしいビーチに繋がる道とは思えない。基本的に車にとって行動し辛い道だから、車で乗り入れて大騒ぎする、昨日のような輩が脚を伸ばし難いのは確かなようだ。
 現に、車は今に至るも1台も走っているところを見ていない。歩いているか自転車に乗っている人しか見ていない。車はイレギュラーな存在だと分かる。欧州だと都心部への車の乗り入れを禁止している町もあるそうだが、渋滞など車に纏わるリスクを根本的に取り除くには車を使わせないようにするのが一番近道かもしれない。
 緩やかな上り坂になっている道を歩く。車が通れる道だが、徒歩や自転車の人が自由気ままに歩いている。車が居ないからこそ出来る、自然発生的な歩行者天国だ。この島に車が何台あるのか数えてみたい気がする。もしかすると牛の方が多いかもしれない。

「えっと…、こっちですね。」

 交差する道路の間に島のような場所がある交差点で、地図と見比べた晶子が細い方の道を指さす。幹線道路(?)じゃなくて脇道っぽい方から行くのか。観光地ではあるが積極的に呼び込むより、知っている人が多少の不便も我慢して来るようにしている感がある。むしろ潔いと思う。
 細い道に入って直ぐ、木の標識が現れる。やっぱりこの細い道、電柱はあるが街灯や標識は1つもない道がコンドイビーチへの道らしい。もう1つの道は星砂浜とある。距離はコンドイビーチとそれほど離れていないようだ。海水浴を済ませてから行ってみるのも良い。
 少し人が増えたが、やっぱり車は1台も通らない。両側は鬱蒼と生い茂る森だけがある。観光地としてじゃなく、海水浴がしやすいビーチに通じる獣道を整備したくらいの印象だ。この道を車で乗り入れようとすると、島の人以外は顰蹙を買いそうだ。

「これだけ観光地然としていないと、ビーチも殆ど自然のままかもしれませんね。」
「海水浴に必要な設備だけ用意してあるくらいだろうな。だが、その方が遠い南の島まで来たって感じはする。」
「ゆったり散策感覚で歩いて行けて、気持ち良いです。」
「車で疾走するような場所じゃないよな。」

 ビーチに通じる道がこれだけ細いから、車で来る客を迎え入れることをそもそも想定していないんだろう。積極的に観光客を迎え入れたり、海水浴場として売り出すなら、森を切り開いて道を拡充したり駐車場を作ったりするだろう。その分車が道路に溢れ、事故や渋滞のリスクも高まるだろうが。
 再び道の考査が複雑な交差点に出る。コンドイビーチはもう目の前という位置だが、道路は相変わらず1車線のみ。歩道が出て来たが、多分徒歩で来る人用だろう。自転車で走っていくひとが数人いるが、いずれも車道の真ん中を走っている。これだけ車が少ないと、道は自転車専用道路と変わらない。
 何だかドキドキしながら、コンドイビーチに通じる森のゲートを潜る。申し訳程度の広さでバス停もある−バスが通っていることを此処で初めて知った−駐車場と、同じくらいの広さの駐輪場の脇を通って出た先には、ちょっとした公園のような芝生の場所と、遠く続く砂浜。広がる青い海。

「凄く綺麗ー!」

 晶子が珍しく歓声を上げる。目の前の風景は、俺から言葉を奪った。店と言えば車タイプの屋台−と言うのか?−が1台だけ。建物はトイレと更衣室らしい、民家と同じ色調の小さなものだけ。大部分を白い砂浜と青い海が占める、シンプルで美しい風景が目の前にある。

「こんな海で海水浴が出来るんですね!行きましょうよ!」
「慌てなくても海は逃げないから。」

 何かスイッチが入ったのか、駆け出そうとする晶子の手を引っ張って止める。人は少ないから衝突とかの危険は少ないし、砂浜には障害物らしいものはないから転んでも大した怪我はしない。だが、海を見ただけでこんなはしゃぎぶりだと、沖に泳いで行きそうな気がしてならない。

「海は海だから、まず着替えてきちんと準備運動をしないと、折角の海で痛い目に遭うぞ。」
「確かに…。」
「こんな綺麗な海を目の当たりにしたら、突進したくなる気持ちは分かるが、まず着替えよう。あの…看板の前で待ち合わせるか。」

 トイレと更衣室らしい建物と砂浜の境界線上に、赤い屋根をあしらった大きな看板がある。何もない分目印になるものも限られている。やっぱり、建物の1つは更衣室。一旦晶子と別れて着替えることにする。こういう時、着替えが楽で良い男で良かったと思う。
 貴重品はゴムひも付きのビニール袋に入れて−宿で教えてもらった−、手首をゴム紐に通す。真剣に泳ぎを競うものじゃなければ、少し気になる程度だ。全額を持ってはいないが、盗まれると痛い。俺は念のためロッカーに鍵をかけたのを確認してから、待ち合わせ場所の看板の前に向かう。

「お待たせしました。」

 予想より早く斜め後ろから晶子の声がかかる。髪をポニーテールに纏め、昨夜披露した水着の上にTシャツを着たシンプルな装い。水着はTシャツから微かに透けて見える程度だが、丈の都合で2本の長い脚は殆ど隠せない。ちょっと恥ずかしいのか頬をほんのり赤く染めている。

「殆ど待ってない。髪は纏めたんだな。」
「お風呂と同じ理由ですよ。」
「ああ、なるほど。まずは日焼け止めだな。」
「これは欠かせないんですよね。早く海に入りたいのは山々ですけど。」

 これまで外出時は長袖と帽子、更に日焼け止めで防御していた。今回は一時的でも肌の露出がかなり増えるから、その分日焼け止めの重要度は増す。晶子の手首にもぶら下がっている貴重品入れには、追加購入した日焼け止めが入っている。
 幸い、砂浜は広いし時間帯や時期の関係か人は本当に少ないから、場所確保に悩む必要はない。適当な場所に腰を下ろし、貴重品入れから日焼け止めを取り出して手足と顔と首回りに塗る。正直、こうしている間もじりじり肌が焼かれているのを感じるくらいだから、相当紫外線が強烈なんだろう。

「こうしてみると、紫外線が強いのが分かりますね。」
「焼き肉の肉の立場を体感してるみたいだ。」
「そんな感じですよね。」

 俺もTシャツを着ているから、日焼け止めを塗る部分は晶子と同じ。並んで見ると、肌の色の違いが分かる。晶子の方が格段に白いのは言うまでもない。塗る面積の殆どは腕と脚だが、塗り終えると日焼け止めが結構なくなる。
 日焼け止めを済ませたら、次は準備運動。浅いとはいえ海に入るんだし、浅くても溺れるのが水の怖いところ。「あの時ああしていれば」と後悔しても取り返しが付かないことはある。そうならないように、不格好でも生真面目でも準備運動はしておくに限る。
 さて、いよいよ海に入る。最初は慎重に…と思ったら、晶子が俺の手を引っ張って駆け出す。少しひんやりした、久しぶりに味わう感触が足全体を包み込む。4月と5月の境界線だというのに、7月−丁度学校だとプール開きあたりの環境だな。

「気持ち良いですねー!」
「ああ。南の島で海に入るなんて、らしいよな。」

 慣らしも兼ねて、暫く浜辺近くを歩きまわる。くるぶしから少し上あたりに周期的に波がぶつかる。歩いている海の底が鮮明に見える。これまで見て来た南国の綺麗な海に足を踏み入れて歩いている実感が強まって来る。
 それにしても、本当に人が少ない。そこそこ料金がかかる高速フェリーに乗るというのが二の足を踏ませるのか、昨夜南十字星を見たビーチより人が少ない。何処までも続くように見える海と砂浜。南の島に漂着したというシチュエーションがこんなにしっくり来る場所があるとはな…。

「浅い場所が多いですね。」
「サンゴ礁の島だからだろうな。多分、そのエリアを外れるといきなり深くなる。」
「だから、沖にブイが並んでるんですね。間違えて深いところに行かないように。」
「海の底に足が付くかどうかは、ぱっと見ただけじゃ分からないからな。」

 沖の方に赤と白のブイが一定間隔で並んで浮かんでいる。それより先は遊泳禁止という印だろう。調子に乗って沖に進んで行って、いきなり足が付かない深さになってパニックになって溺れる事態はあり得る。昨日立ち寄った川平湾も、見た目は綺麗だが潮の流れが急で遊泳禁止だった。

「この辺りで少し泳いでみるか。」

 晶子の腰辺りまで海に浸かるところに来た。浜辺からそこそこ距離が出来た。泳ぐこと自体久しぶりだし、競争するわけでもないから、まずは直ぐに海の底に足を付いて立ち上がれる場所で様子を見た方が良いだろう。

「いよいよですね。」
「そんなに気合入れなくても。」
「何だか意気込んじゃうんですよ。こんな綺麗な海で泳ぐんだって。」

 こういう時の顔はめぐみちゃんにかなり重なる。めぐみちゃんが似たのか晶子が似たのか。兎も角泳いでみる。身体を水に浸すと、新鮮な水の感覚が全身に染みわたって来る。身体を浮かして軽くバタ足。緩やかに進みながら、眼下に広がる南の海の中の世界を眺める。

「サンゴがある海を泳いでるんだな。」
「感慨深いですよね。」

 少し進んだところで立ち上がる。風呂ともプールとも異なる、少し目に染みるが不規則で複雑で綺麗な底面を湛える大海原の一角で気ままに泳いでみた。何とも言えない感慨が胸の奥から湧き上がり、全身にいきわたる。
 もう少し泳いでみる。もっと自由に。表面だけじゃなく、潜ってみたり、海の底に触れてみたり。ゴツゴツした表面と入り組んだ構造は、魚にとって格好の住処や隠れ家らしい。明らかに熱帯魚と分かる魚こそ居ないが、小魚や蟹が居たり、猛スピードで出て行ったりする。
 更に泳いで、海の世界を見たくなる。少し沖に繰り出す。眼下に広がる青が深まり、底が遠くなる。浮力に抵抗しないと底に触れられない。魚のサイズも幾分大きくなる。こんなに海の世界に浸ったのは記憶を軽く探っても出て来ない。思った以上に南国の海は綺麗で面白い。

「祐司さん、凄いですね。」

 浮力を使わないと顔を十分出せない深さまで来た。晶子が俺に続いて顔を出して、急いで酸素を取り込んでいる。

「深く潜ったり海の底近くを泳いだり、泳ぐの得意なんですね。」
「何だか夢中になってた。泳ぐの自体は久しぶりなんだが。」
「私も楽しくて潜ったりしてましたけど、祐司さんみたいに自由に出来なかったです。」

 本当は潜るのにかこつけて晶子を鑑賞しようと思ったんだが、すっかり頭から霧散していた。晶子より泳ぐのに夢中になっていたかもしれない。海水浴というとどうしても混雑していて、身体に墨を入れた連中が幅を利かせるネガティブな印象があったが、それが此処にはない。
 人が少ないのは勿論だが、海水浴という体で身体の墨を見せびらかしたり、それを使って因縁をつけたりカップルや女性に危害を加える輩−男女問わず−が居ない。これが、海水浴に夢中になれるくらい専念出来る最大の理由だろう。昨日みたいに尾行されたりする環境だと、周囲の警戒や晶子の防衛で海水浴どころじゃなくなる。
 早々に結構泳いだから、一旦休憩にする。バタ足と平泳ぎを混ぜた不可思議な泳ぎで浜辺に近づき、底が十分見えるようになったところで底に足を付く。砂浜はまだまだ人が少ない。そもそも海に入っている人自体少ない。殆どプライベートビーチだ。

「海でこんなに泳げるとは思わなかった。」

 砂浜に腰を下ろし、再び肌に日焼け止めを塗りながら、南国の海を思いのままに泳いだ感慨に浸る。

「海水浴っていうと、どうしてもネガティブなイメージが付いて回るから。」
「それは正直私もありました。それを気にしなくて良いのは、凄く安心できます。」
「俺でも感じるくらいだから、晶子は尚更か。」

 見たこともない綺麗な海で泳ぎたい。だが周囲の下劣な視線が気になる。そんな葛藤が晶子の中であったであろうことは想像していた。何しろつい昨日その視線に晒され、視線が凶器に変わろうとしていたのを間近で接したんだから。自意識過剰や被害妄想ではない真の危険に、晶子は晒される機会が多い。
 晶子はそういう視線とそこから派生する危害−未遂も含む−に晒され続けて来た。それを抜本から除去するために俺に焦点を合わせ、初の誕生日プレゼントを結婚指輪に変えさせ、結婚へと持ち込んだ。それでもまだ視線と危機から完全に脱しきれないことに疑問や不満を抱えていたんだろう。
 正直、晶子が何の予備知識もない第三者から「綺麗」「美人」と評される容貌である限り、今の状況では視線や危険から脱しきることは不可能に近い。だが、容貌を崩すことは俺の希望じゃないし、晶子の希望でもない。子どもを抱っこしたり手を繋いで連れていたりすれば変わるかもしれないが、それは直ぐに出来ることじゃない。
 昨日体験した琉球衣装は、肌の露出が殆どないものだった。それでも危険が間近に迫るところまで来た。レアケースかもしれないが、あの衣装でもああなるんだ。肌の露出が格段に増える水着を着たら、危険の確率は増すと考えるのが自然だ。
 手間と金はかかったが、やっぱり此処まで来て良かった。安全は金と手間で買う時代になったんだと割り切るしかない。それに…晶子の笑顔と水着姿を見られたなら、手間と金は有り余るほどお釣りが来ている。それ以上望むのは贅沢としか言いようがない。

「この海を目の前にしていると、1日泳いでいたくなります。」
「綺麗だよな。開放されているビーチとは思えない。」
「此処に来られて良かった…。」

 晶子は俺の肩に凭れかかる。普段の生活から遠く離れた南の島で、綺麗な海を目の前にして水着姿の彼女と身を寄せ合う。彼女じゃなくて妻だが、絵に描いたような典型的なパターンに自分が適用されると夢心地になる。
 周囲を軽く見渡しても、本当に人が少ない。海に入っている人は更に少ない。まだ時期が早いのもあるんだろうが、有料の高速フェリーが意外に大きなハードルになっているのは確かなようだ。昨日のような輩が全くいないし、此処に来るまでも一度も目にしなかった。
 それとも、めぼしい遊び場がない、海水浴と散策くらいしかすることがない離島にわざわざ足を運ぶ理由が、あの手の輩にはないと判断されているのかもしれない。どちらにせよ、関わりたくないし決して相容れないタイプであることには違いないから、これで良い。
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