雨上がりの午後

Chapter 320 受け継がれるバトン、大学からの旅立ち

written by Moonstone

 卒業式を金曜日に控えた週の最初のバイトとなる火曜日。晶子と一緒にバイトに出向くと、何となく見覚えがある顔ぶれも混じっている男3人女2人がカウンターの前に居た。

「「こんにちはー。」」
「「「「「こんにちは。」」」」」
「あら、丁度良いところ。マスターが戻ってきたら紹介するわね。」

 程なくマスターが戻ってくる。俺と晶子を見て、グッドタイミングと言いたそうな顔をする。

「彼らは4月から店のバイトとして採用した人達だ。左から順に、増崎君、勝田君、小野君、青木さん、石川さん。」
「安藤祐司です。初めまして。」
「安藤晶子です。初めまして。」
「こちらは君達の先輩、安藤夫妻。旦那の方は残念ながら今月末で退職するけど、奥さんの方は引き続き働いてもらうことになってる。」
「「「「「初めまして。」」」」」

 採用が決まったという話は先週の金曜に聞いてはいたが、名前や人数は聞いてなかった。5人も採用したのか…。これだとシフトを組みやすくなると思うが、単純に割り振れば良いというもんでもないし、人数が多いとかえって難しくなるかもしれない。

「今日は先輩後輩の顔合わせを兼ねて、全員に研修に来てもらったんだ。1人1人教えるのも手間だし、実際の時間帯に先輩について覚える方が効率的だと思ってね。」
「研修ですか。何を教えれば良いですか?」
「普段の働きを見せてもらえば十分だ。その前に腹ごしらえをしてくれ。君達は客席を回ってきて。」
「「「「「はい。」」」」」

 新人5人は散開して客席に向かう。客席は何時ものとおりかなり人が入っている。追加注文する客も多いから、客席を回るだけでも仕事が出てくる。メニューを聴いて覚えたり、メニューの詳細やリクエストタイムといった質問に答えたり。俺も最初の頃は覚えることで精一杯だったな…。

「5人採用ですか。語弊があるかもしれませんけど、結構多いですね。」
「個人経営の店では多いだろうね。だが、今回からは必要だろうと潤子と相談して決めたことだよ。」

 潤子さん手製の夕飯を受け取って食べながら、マスターの話を聞く。今回の大量採用は、これでも応募数からすると倍率は数倍になること。何か楽器が出来ることと、接客か料理のいずれかが出来ることは勿論として、昼間の時間帯に1度来てもらって一種の実技試験もしてその度合いを重視したこと。そして今回の採用は、シフト勤務の構築と定休日以外に1日休日を持てるようにするためでもあることなど。

「祐司君は本当によく働いてくれたし、晶子さんには引き続きキッチンを担ってもらうけど、何時までも頼るわけにはいかない。晶子さんは子どもを持ちたい意向だし、将来的な休業を考えると、今から長期間働ける人を採用して育成していった方が良い。」
「晶子を含めて6人だと、シフト勤務を組みやすくなるでしょうね。」
「接客だけでも結構大きいと思う。今までは祐司君が休む間もなく店内を駆け回っていたから、それを新採用の1人でカバーするのは無理があるし、手分け出来れば相互にフォローも出来るだろうからね。」
「そういえば…、何人かは見覚えのある人だなぁと思ってたんですけど、今までお店によく来ていた高校生のお客さんですよね?」
「そうだよ。増崎君、小野君、青木さんは新京高校の学生さんだった。此処で食事をしながら勉強して大学に合格したから、今度は働く側になりたいと思ったそうだ。他にもそういう人は結構来たよ。」
「本当に世代交代ですね。」

 新京高校の学生と聞いてついに記憶の顔と符合する。塾通いの前後で食事をして腹ごしらえをしたり、予習や宿題をしたりしていた高校生の常連客の1人だ。受験シーズンでも何時も通り来ていたし、何処を受けたとか合格したとかは客から言わないと聞かないようにしてるから知らなかったが、無事大学生になったのか。
 俺はこの店をもうすぐ卒業する。その代わりに5人の新大学生が働き始める。晶子も何れは妊娠・出産や育児で休業や退職の時が来るだろう。その時も新たに採用されて晶子の後を受け継ぐだろう。個人経営の店で数人のバイトを雇用するのは珍しい部類だろうが、長期間働くことを前提にした育成や継承を考えていることが分かる。
 4年前は大学に入って、知り合いも友人もいない新京市に単身暮らし始めたばかりだった。バイトも俺1人だけだった。それが今では後継となる新大学1年生が5人採用となって、研修で今店内を巡回している。こうしてこれからもこの店は、中高生の代替わりにも十分順応していくだろう。俺のこの店での役割は、確実に次の世代に受け継がれていくんだな…。
 バイトを終えて帰宅。一気に5人増えたことで接客は楽になった。もっともメニューを記録出来なかったり、出来た料理をどこに持って行けば良いか分からなかったりといったトラブルは多々あった。それをフォローするのは俺の役目。マスターと潤子さんが実技試験も含めて選抜しただけあって、重大なミスはなかった。
 営業終了後は清掃をして「仕事の後の一杯」。今までマスターと潤子さん、そして俺と晶子の4人だけだった光景が、一気に人数だけでも倍以上になった。その分賑やかになった。大学は増崎君と小野君は新京大学、勝田君は大嶽工業大学、青木さんと石川さんは小宮栄大学。高校は全員が新京高校で、店の客だった増崎君、小野君、青木さんの誘いで応募したそうだ。
 特に、増崎君は俺と同じく工学部の電子工学科で、楽器もギター。それを聞いて、今まで作り溜めて来た曲データは店を通じて増崎君に渡すことにした。俺が店を退職すると、曲データはシーケンサのPCに留まり、俺と晶子の家だけの存在になる。ちょっと勿体ないかと思っていたところだったから、ギターが弾ける増崎君に託した方が良い。
 俺の退職は3月29日に決まった。名実共に社会人になる4月1日まで少し間があるが、連休にして心機一転した方が良い、というマスターの提案を受け入れた。今年は4月1日が金曜日だから、店でのバイトは実質残り1週間ほど。明確に退職までのロードマップが出来た格好だ。

「バイトを辞めることで、大学生活が終わることをより強く実感するなんて、珍しいかもな。」

 卒研の最終発表後に達成感や満足感はあったものの、快調な進捗の礎になった夏の学会発表を終えた後の方が強く印象に残っている。夏の学会発表で卒研を先取りしたようなもんだし、それは仕方ないだろう。学生居室のデスクには私物らしい私物もないから、片づけは既に終わったも同然。4年生の多くの時間を過ごしたにもかかわらず、あっさりしている。
 サークルやクラブに入らなかったから、卒研以外だと大学は講義と試験を受けるためだけに通ったようなもんだ。生活費を補填−今ではまさに生計費そのもの−するためには、サークルやクラブの時間をバイトに振り向ける以外なかったし、入らなかったことに後悔はないが、その分大学との繋がりは勉学のみになったことは否めない。
 4年間の生活は、大学よりバイトと密接だった。大学を終えるとバイトに直行し、夕飯を食べてから店内を回り、リクエストタイムではステージに上がってギターを爪弾いた。終わって帰宅したら日付が変わるまで1時間少々。進級ごとに数を増すレポートをこなして寝る。この繰り返しだった。
 バイトで大学以外の時間の殆どを埋めたことで、当時付き合っていた宮城と破局した。そして晶子と出逢って交際・結婚に至った。右往左往していたバイトも客の顔を覚え、中高生には勉強を見たりする余裕も出来て、その客の1人だった高校生が卒業・進学して店で働くようになり、4年間の蓄積である曲データを受け継いでもらうことになった。
 店では年末に結婚披露パーティーをした。招待客は全部で10人、全員同学年の友人というこじんまりしたものだったが、親族間の見栄の張り合いや腹の探り合いもない、純粋に祝いたいという気持ちが充満する中、記念となる結婚写真を撮った。その写真は綺麗に製本されて本棚に佇んでいる。
 進級するごとに量を増すレポート攻勢との両立は大変だった。だが、それと歩調を合わせるように晶子のサポートが密接かつ強力になり、上々の成績を残して就職もすんなり決まった。あと1週間ほどの勤務を終えたら、今度は社会人として新しい一歩を踏み出す。晶子と営むこの家での生活を拠点として。

「もしかすると大学より長い時間を過ごしたかもしれないし、卒業間近の大学より愛着があるのも当然か。」
「祐司さんがお店に残した足跡は、これからお店に来る人や働く人に語り継がれますよ。」
「料理担当の晶子より印象は薄いだろう。それに、晶子を独占したことでやっかみの対象になってる方が多いんじゃないか?」
「存在感は確かですよ。男子中高生はやっかみがあるみたいですけど、その中から祐司さんと同じ大学の学部学科に進学した人もいますし、祐司さんは知らないみたいですけど、女子中高生や女性客には人気だったんですよ。」

 そんな話は聞いたことがないな。思い返す限り、女子中高生の客は口調が丁寧か多少くだけているかの違いくらいで、敵対心とかの類は持ってなかったように感じたくらいだ。数名、リクエストタイムに当たると必ず俺を指名する客も居たが、それが俺そのものの人気だったのかどうかは分からない。
 何にせよ、ステージに立って演奏を披露する時間も残り僅かになった。この先晶子は店で働き続けるから、シーケンサやシンセサイザはそのデータ作成専用になりそうだ。演奏用データの作成以外の使い道を考えないといけないな。それなりに金もかけたしずっと使って来たものだから、用済みとするには惜しい。

「多少でも惜しんでもらえれば良いかな。今月は流石に行事が多いから、1つ1つ確実にこなしていかないとな。」
「そうですね。節目の時期らしく節目のイベント目白押しですよね。」
「卒業式は実質卒業証書を受け取りに行くだけだから、目下当面の最大の行事は、めぐみちゃんに会うことだな。」
「はい。…楽しみです。」

 めぐみちゃんに会うための京都訪問は、こちらの希望どおり月曜に決まった。丁度小学校が春休みだし、事務所に森崎さんをはじめとする事務所員が出勤しているから、高島さんが手を離せなくても誰かが即応できる態勢に出来るから、平日の方が高島さんの都合も良いらしい。
 詳細は向こうで話すが、俺と晶子は無事卒業して俺は高須科学に就職、晶子は今の店で引き続き働くこと、去年の10月に入籍して新居に引っ越して暮らしていることなど、主だった近況を伝えてある。めぐみちゃんは俺と晶子が会いに行くことを知って、凄く楽しみにしているそうだ。
 日程調整や予想時刻などの連絡は本人の申し出を受けて晶子が担当した。その結果は今のように帰宅してから伝え聞いたが、短いながらもめぐみちゃんとやり取りする時間があって、めぐみちゃんの元気な声を聞けて嬉しかった、と言っていた。めぐみちゃんの生活環境の改善を何より望んだ晶子だから、それが今も現実として存在していることは感慨深い筈だ。
 日帰りで行ける距離だが、めぐみちゃんと十分遊べるようにするためと、卒業して少しばかりの余裕の時間を楽しむために、京都で1泊することにしている。昼前にでも帰ればバイトには十分間に合う。凄くざっくりした計算で1人1万円くらいの臨時出費には問題なく対応できる。
 1年ぶりの京都訪問は、晶子とめぐみちゃんの再会のためと言える。あの時めぐみちゃんを本当に可愛がり、別れを惜しんでいた晶子が、めぐみちゃんの1年の成長を見る機会は甘いかもしれないが必要だと思う。めぐみちゃんが安心して暮らせることを確信できた時が、自分の子どもを作りたくなるときだろうと思っている。そのための通過儀式、一種の子離れみたいなもんだ。何かと忙しない昨今、こうしてじっくり自分の心と向き合う機会があって良い筈だ…。
 電子工学科と電気工学科の講義棟の一角にある大講義室。久しぶりに満員近い状況になった室内は、普段と違って少し厳粛な空気が漂っている。今年度の電子工学科と電気工学科の卒業生が一堂に会し、クラス担任の増井先生に1人1人名前を呼ばれて卒業証書を受け取る。

「安藤祐司君。」
「はい。」

 電子工学科の名簿で先頭にあった俺は、電子工学科卒業生で最初に卒業証書を受け取る。文面は電気工学科の先頭の人に読まれているから省略。高校以来の卒業証書を受け取る。

「頃合いを見て、是非社会人学生として院に来てください。」
「頑張ります。」

 中央やや前方の席に戻る。卒業証書の授与は1人ずつ着実に進んでいく。高校までと違って練習も何もないが、騒ぎもなくスムーズに進んでいく。俺は出席しなかったが、大講堂で行われた卒業式も基本座って話を聞いているだけですんなり終わったそうだ。
 男女比が極端に男性側に偏っている学科らしく、席を埋める人の服装はほぼスーツか羽織袴の2種類。2人しか居ない女子の袴の赤やピンクが異様に目立つ。この部屋に入る前にかなりの回数写真撮影の輪の中に入っていた。俺はそのうちの1人と学生実験が同じグループで、負担を増やすだけだったから嫌な思い出しかない。
 全員に卒業証書の授与が終わり、増井先生が最後に挨拶。社会人になる人、進学する人様々だが、大学でどれだけ学んだかが今後に生きて来るだろう。仕事や研究で行き詰ることがあったら大学で学んだことを思い出すと良い。そんな話だ。就職と進学の比率がおおむね半々くらいらしいが、どちらかと言うと就職組に向けたアドバイスに感じる。
 挨拶が終わると解散。雑然と、だがそれなりに整然と講義室から出ていく。他の学科も当然ながら卒業式後の卒業証書授与があったわけで、外では彼方此方で記念写真を撮る風景が展開されている。俺はそれらを横目に研究室の学生居室に向かう。

「おっ、安藤君。卒業証書は受け取ったんだね?」
「はい。おかげさまで。」

 研究室では修了式−卒業式と同時に行われたそうだ−を終えた大川さんら院生の修了生が出迎えてくれた。学生居室の片づけはとっくに終わっていて、研究室での記念写真を撮るために集合することになっている。智一をはじめとする学部4年も、そのうち全員集合する筈だ。

「先に撮れるだけ撮ってしまおう。何と言っても今年度の研究を抜群に進めた立役者との記念写真だからね。」
「フラグシップ同士とは貴重だなぁ。」

 俺は大川さんとの記念写真を撮ってもらう。卒研が大変だったものの学会発表も出来たりトップオーサーの論文にもなったり、予想以上に充実したものになったのは、大川さんがしっかり指導してくれたおかげだ。並んだり握手したりした写真を撮ってもらう。
 ぼつぼつ学部4年が集まり、指導役の院生とのペアで写真を撮る。正直、院生は「やれやれ」と言いたげな、肩の荷が下りたような顔だ。デジカメの液晶で見せてもらった俺と大川さんの写真だと、大川さんは満足感溢れる表情だったんだが、卒研の1年を反映していると言えるか。
 学部4年が全員揃ったところで、集合写真を撮ってもらう。俺が中央に立ち、その周囲に他の学部4年が集まる形になる。3回撮ってもらい、一番写りが良いと思えるものが全員のメールアドレスに配信されるそうだ。メールアドレスは卒業・修了後半年間は有効で、設定さえすれば学外からもメール送受信が出来る。
 学部4年の就職組の集合写真は、研究室のWebページにも掲載される。研究室はそれぞれ自分達で管理するWebページを持っている。管理者の方針や技術、そしてセンスによって同じようなコンテンツでも様々なものが出来るが、そのコンテンツのうち「イベント」に掲載される。
 研究室のWebページは学部学科のWebページにリンクが貼られているから、専用コンテンツとして居ない限り何処からでも閲覧できる。自分がかつて此処に居たという証が当分の間残るわけだ。「論文・発表」のコンテンツには、夏の学会発表とその論文も題目が掲載されている。管理しているのは実は野志先生。きっちりしてる。

「学生居室の私物は完全に持って帰ってね。今月末に残ってるものはすべて処分するから。」
「はい。」

 野志先生が言う。来年度は新しい学部4年が入ってくる。来年度といってももう2週間もない。新しい住人を迎える時期はもう直ぐそこだ。俺を含む就職組は大学を去るし、進学組も研究室はそのままだが部屋は院生用の場所に移る。過去の痕跡は居室には必要ない。必要なのはこれまでの研究の蓄積と研究環境だ。

「進学組もきっちり片づけておくように。もう1度4年をしたいなら別だけど。」
「記憶や知識はそのままで時間だけ戻れるなら。」

 なんだか小説とかにありそうな仮定だ。年末辺りからの首の締り具合を教訓として4月からやり直せるならそうしたくもなるだろう。進学組で卒研の出来が悪かった人は今も絞られているそうだ。でも、絞られたり注意されたりするのは大学の間だけかもしれない。就職するとそうはいかないと思うべきだろう。
 ひとしきり談笑した後、改めて研究室を後にする。研究棟を出てふと振り返る。何度となく出入りした建物とも今日でお別れか…。あっという間に過ぎた1年、そして大学生活の4年だった。高校までの勉強量を総合したものより時間も量も多く勉強したように思う。レジャーランドにはほど遠かったが充実していた。

「祐司はこれから晶子さんと待ち合わせか?」
「ああ。こっちと同じようにゼミで記念撮影をするらしい。」

 スーツ姿の智一が尋ねて来る。智一は卒業式に出た。俺が知っている卒業式の情報は智一から齎されたものだ。

「智一ー。」

 袴姿の吉弘さんが駆け寄ってくる。筒に入れられた卒業証書を持っているのは俺や智一と同じ。後方に取り巻きらしい男性が10名以上居るのが大きな相違点だ。

「安藤君も一緒なんだ。奥さんのところ?」
「ええ。そろそろゼミの記念撮影も終わってるでしょうから。」
「記念撮影となると、奥さん美人だから引っ張りだこじゃない?」
「そういうのは断る、と言ってました。」
「晶子さんも卒業式には出なかったんだよな?見かけなかったし。」
「出ないって決めたからな。高校までと違って卒業証書の授与もないし、取り立てて出る必要もないと思って。」
「夫婦揃って結構ドライって言うか、必要不要で厳格に切り分けてるのね。」
「そう…なんでしょうかね。」

 前に智一にも言われたが、俺や晶子にはそういう意識はあまりない。卒業式は卒業証書の授与が学部学科単位で行われることもあるし、式典に出なくても単位数が揃えば卒業できる方がドライだと思う。何をするにもクラス単位、最低でも班単位での行動が付きまとった高校までより、この方が良い。
 優先順位をつけて、必要性が高い故に優先順位が高いものに注力してはいる。今で言えばめぐみちゃんに会うための京都訪問と、4月からの新生活に備えての生活リズム作り。取り組む取り組まないの境界となるラインがあって、そこで厳密に区分していると言えるから、吉弘さんの見解は当たっているか。

「どうして智一と吉弘さんがこっちに?」
「卒業式は入学式同様、大学における学部間交流の貴重な場だぞ?専門課程になってめっきり行かなくなった文系エリアに行かずしてどうする?」
「つまりは、この機会に物色して回るんでしょ?まったく…。」

 俺の背後で智一と吉弘さんが口論する。共通しているのは俺にくっつく形で文系エリアに向かうこと。男女比は女性側に大きく傾くから、智一にとってはまさしく絶好の機会だろう。吉弘さんはそのお目付け役として追って来たといったところか。

「あー、晶子の旦那だー。」

 聞き覚えのある声がして、見覚えのある顔が幾つか近付いてくる。やはり袴姿の女性陣は、俺と晶子の結婚報告パーティーにも来た、晶子と同じゼミの女子学生だ。揃いも揃って袴を着て同じ髪結いをしているから、ぱっと見ただけじゃ区別し難い。

「おやおや、これはこれはお久しぶり。」
「えっと、伊東さん…でしたっけ。お久しぶりですー。」
「あれ?後ろの女性って確か大学祭のミスコンで2年連続優勝した…。」
「吉弘です。従兄の智一が彼方此方で女性にちょっかい出しているみたいで、ご迷惑をおかけしてます。」
「ちょっかいじゃない。祐司の結構報告パーティーでお知り合いになれたんだ。」
「ふーん。」
「晶子は?」
「さっきゼミで記念撮影をしたところだから、直ぐそこに居ますよ。」
「凄い人気なんで、ちょっと脱出し辛いかも。」

 文学部の研究棟の出入口前はちょっとした人だかりが出来ている。その人だかりから晶子が出て来る。人だかりが晶子の「脱出」を感知して向きを変えるが、晶子は俺の姿を見つけて駆け寄ってくる。晶子は双方の両親に結婚の報告に出向いた際にも着たスーツ姿。地味な服装の筈だが袴ばかりの中では凄く目立つ。

「お、お待たせしました…。写真を撮らせてくれって要求が凄くて…。」
「断りを入れても駄目だったか?」
「はい。幸か不幸か人が多いせいで並んで撮られることはなかったですけど…。」
「晶子、凄い人気でしたよー。スーツだしスタイル良いから凄く目立つんですよー。」

 うーん…。袴を着る必然性がないし、動き難いし、卒業式に出ないのに美容院の予約を取ってどうこうするのも無意味な気がする、として晶子がスーツを選択したのが逆効果だったか…。袴はどちらかと言うと寸胴に見えるが、この手のスーツは身体のラインが出る。しかも晶子はスタイルが良いから尚更際立つ。
 スーツは袴と比べて色彩や形状が地味だから目立たないかと思いきや、周りが袴だらけだからかえって目立ってしまうわけか…。選択ミスと言ってしまえばそれまでだが、今は向きを変えて迫りつつある集団−恰好からして「遊んでます」雰囲気が出ている男子学生から晶子を守ることが先決だ。

「写真撮らせてくれない?って、あんた誰?」
「それはこっちの台詞。俺の妻に何か?」
「妻って!大学生で妻って!バッカじゃねぇの?」
「バカは貴方達よ。」

 嘲笑してきてムカッとしたところで、吉弘さんが前に出る。吉弘さんも相当美人だから、嘲笑ついでに凄むつもりだったらしい男子学生達が息をのむ。

「知らないの?1年から交際してきて、去年の4月から安藤姓を使い始めて、同じく10月には入籍した安藤君と旧姓井上さんのこと。」
「…マジ…だったの?」
「横から何だけど、俺は年末の結婚報告パーティーに招待されたし、こちらのレディ達も出席者なんだがねぇ。」
「何でもかんでも上っ面ばかりで真摯に向き合わない。真実にもまともに向き合わない。軽薄そのものの思考回路。基本勉強しなくてもコンパやってコミュ力とやらの道化の能力を着けさえすれば卒業できる、文系学部の能なし学生ならではの浅はかさよね。」

 これまたきつい、神経を逆なですることを言う。だが、目の前の連中を見るとそんな雰囲気がありありと見える。実際、実験にレポートにと勉強の量には不自由しなかった理系学部の俺や智一や吉弘さんと、コンパやサークルが大学生活みたいなものだったこの連中とでは、大学生活そのものが違う。
 文系学部の単位の条件が全体的に甘い傾向にある理由は知らないが、大学に文字通り来るだけで単位を取って卒業出来るんだから何かおかしい。新京大学の卒業生とひとくくりにされたくない。大学生活は充実したが、この連中の「充実」とは違うと声を大にして言いたい。

「そんなに女の子と写真が撮りたいなら、私はどう?」
「…何処かで見たことあると思ったら、大学祭のミスコンで2年連続優勝した吉弘さんじゃあ…!」
「ご名答。今日だけは無料でツーショットを撮らせてあげる。」
「よ、吉弘さん!こんな男達と写真を撮られるなんてもったいない!」

 それまで背後に居た−正直忘れていた−吉弘さんの取り巻きが一斉に前に出る。流石と言うか、取り巻きと言っても20人くらい居る。全員が一斉に前に出ると、全員スーツを着ていることもあってそれなりに迫力がある。晶子に向かって来た輩は、こういう予想外の「反撃」に意外と弱かったりする。
 吉弘さんの取り巻きと文系男子学生の間で口論が勃発する。吉弘さんと写真を撮らせろ、そんなことはさせられない、と双方譲らない。流石に卒業式で問題を起こすわけにはいかないと思っているか、大学生にもなって乱闘騒ぎは馬鹿馬鹿しいと思っているかは分からないが、口論なら五月蠅いだけで済む。
 口論が展開される人垣から、吉弘さんがするりと出て来る。無言で別の方向を指さす。「この隙に逃げろ」という合図だろう。俺は晶子の手を引いて早々に遠ざかる。それに吉弘さんが智一と一緒に続く。口論が起こった隙に自分も脱出するのか。こういった策略に長けたところは晶子にはない。

「この辺まで来ればひとまず大丈夫ね。さっさと大学から出ましょ。」

 正門近くまで来たところで、足を止めた吉弘さんが言う。袴だから走り難かっただろうが、不思議と智一の方が息切れしているように見える。

「…良かったんですか?一緒に居た男性(ひと)達。」
「構わないわよ。好きでついて来てたんだから。それよりその服装は失敗だったわね。地味な服だから目立たないと思ったんでしょうけど、他が袴ばっかりだから逆に目立つのよ。」
「そうみたいですね…。」
「あえて周囲に同化するのも目をつけられないための手段だと思っておいた方が良いわよ。旦那さんに心配かけないことを優先するなら尚更。」
「覚えておきます。」

 少々棘があるが、吉弘さんの言うことは正論だ。同調圧力が強い女性、しかも服装がある種統一される傾向にあるセレモニーなどでは、その事実上の統一品種に合わせて「その他大勢」の1人になることがカモフラージュになる。単体で目立たないことが集団で目立たないこととは等価じゃない。

「さて…。大学ともお別れだし、家に戻ろうかな。もう少ししかのんびり出来ないし。」
「吉弘さんもご両親の会社に就職ですか?」
「そう。私はネットワーク事業の方に配属が決まってる。ホスティングサービスが主体だからイメージみたいにスマートってわけにはいかないけど。」
「今のマンションも引き払う。俺は知ってのとおりFA開発に配属で、順子と揃って新京市から出るからな。」
「まさに門出の時ですね。」

 智一も吉弘さんも両親が経営する企業に入り、それぞれの配属先で働きながら幹部候補を目指す。そう簡単にはいかないだろうが、良くも悪くも図太さがあるから何とかやり過ごしていけるだろう。大学というかなり潤沢な環境から離れて、それぞれ社会人としての第一歩を踏み出す時は着実に近づいている。

「それじゃ、この辺で。」

 大学の正門を出て、国道が交錯するスクランブル交差点に差し掛かる。智一と吉弘さんは間もなく離れる自宅マンションへ、俺と晶子は駅から自宅へ。4年間通った道をたどってそれぞれの自宅に戻る。この時間や光景ともお別れだ。

「ええ。智一も吉弘さんも元気で。」
「おう。晶子さんと仲良くな!」
「旦那さんに心配かけないようにね。」
「お世話になりました。お元気で。」

 2対2のごくシンプルな組み合わせで挨拶を交わし、それぞれの帰路に就く。大学の帰路で私服じゃなくてスーツなのは入学式以来だろうか。あの時と違うのは1人じゃなくて隣に晶子が居ること。どちらからともなく手を繋いで駅への道を歩く。
 駅に着き、改札を通って上り方面のホームに向かう。先発は急行。急行だと1駅で通える便利な通学はこれで最後。あと1週間少々で小宮栄経由で乗り継ぐ通勤が始まる。短い通勤時間に慣れて約1時間に延びる通勤時間に慣れることが懸案だが、それも仕事の1つと見るべきか。

「帰宅したら、この服装で写真を撮りませんか?」

 電車が到着するアナウンスに続いて晶子が言う。卒業式には出席せず、卒業証書を受け取っただけの卒業だが、2人揃って無事ストレートで卒業出来た記録を、誰にも邪魔されないところで撮るのは良いな。

「良いよ。スタンドがないがどうする?」
「携帯電話みたいに、手で持って向けるスタイルで十分ですよ。」
「タイマーがあるなら、少しの工夫でそれらしいことは出来るかも…。」

 ホームに入ってきた電車に乗り込む。昼前の電車は閑散としている。結局学年が上がるごとに早く帰る曜日が少なくなって、4年は講義を詰め込んだ3年と殆ど変らなかった。電車は帰宅ラッシュがピークに向かう時間帯だったからかなり混み合っていたから、こうして座って帰宅出来るのは随分久しぶりだ。
 胡桃町駅で降りて、かつての俺の家の近くや晶子と出逢ったコンビニがある大通りを進み、俺と晶子の家に帰宅。未だに身体に馴染まないスーツは早々に脱ぎ捨てたいところだが、その前に晶子と2人きりでの卒業写真を撮る。スタンドはないが、茶箪笥にデジカメを載せてズームとフォーカスを調整すれば、2人が十分収まる構図になる。

「こんな感じでどうだ?」
「ちゃんと撮れるんですね…。驚きました。」

 まず晶子だけを被写体にして撮影具合をテスト。タイマーを使って操作をしくじらないように予行演習も兼ねての結果だ。もっとも失敗しても、或いは写り具合が気に入らなくてもやり直しに制限はない。他の人が入り込む心配もなければ、邪魔する奴もいない。

「タイマーは10秒くらいで良いかな。並んだりするのに手間はかからないし。」
「そうですね。一度撮ってみませんか?」
「それは勿論。1回で一番良いのが撮れるとは思ってない。」

 タイマーを10秒にセットして、晶子の位置に駆け寄って隣に立つ。10秒と一口で言っても体感時間に基づく自分のカウントはかなり精度が低い。撮れたかな、と思ったらシャッターを切った音が微かに聞こえたりして、これといったものが撮れない。何度かやり直しつつデジカメの設定も見直して、感覚がつかめて来た。

「今度は大丈夫だと思う。」
「私は何度でも構いませんよ。」

 デジカメから戻ってシャッターが切れるのを待つ短い時間で、そんな話をする。晶子は素早く俺の腕に自分の腕を絡める。そこからLEDの点滅が2回してシャッターが切れる。デジカメでの撮れ具合を見る。…うん、今までで一番良いものが撮れたと思う。
 ちょっと硬さが残る表情の俺。自然な表情で俺に密着している晶子。バストアップより少し小さめにしたくらいの構図にしたことで、デジカメのそれほど大きくない液晶画面でも2人の上場が確認出来る。全身を写す構図が多いから、結構新鮮に見える。そして何より結婚写真以来の2人きりで撮った写真が増えたことが嬉しい。

「綺麗に撮れてますね。」
「印刷してもらうか。結婚写真を頼んだ写真屋なら、デジカメの画像の印刷もお手のものだろうから。」
「賛成です。ぜひお願いします。」

 こういう場面で晶子が反対の立場に立つことはあり得ないと言える。晶子はこうして俺と写真を撮るのも好きだ。今まで晶子と何度か2人きりの写真を撮ったが、それらは結婚と同時期に買ったアルバムに原本のカード−ネガじゃないのが今時か−と共に収録されて、本棚に佇んでいる。
 大学を卒業していよいよ社会人としての一歩を踏み出す。俺は環境が激変するだろうが…、晶子が居れば頑張れる。いささか勇み足だったと思われるかもしれないが、生活と心の強力な支えを法的に裏付けられたものにして良かったと大学生活を振り返ってしみじみ思う。そして俺も晶子の支えになろう。支え合って助け合うのが夫婦の筈だから…。
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