雨上がりの午後

Chapter 319 学生生活の集大成、今此処に

written by Moonstone

 3月も中旬。いよいよこの日がやってきた。4年間の大学生活の集大成、卒研の最終発表だ。久野尾研の会議室は、スクリーンとプロジェクタという必須の装備の他、演台と座長席、更には研究室外の聴講者用の椅子が並べられ、緊張した雰囲気を漂わせている。
 プログラムも本格的だ。発表題目、発表者、セッションごとの座長と時刻に加え、予稿(註:学術学会等における発表の要旨)も集約されて製本もなされている。最終発表のスライドと卒論の追い込みに予稿も加わって、3月に入ってからの学生居室は阿鼻叫喚だった。製本の日程の都合上、締め切り厳守だったのもある。
 俺も発表する。先月中旬に実質的な最終発表を先行して、久野尾先生から完了と思って良いとのお墨付きをもらい、卒論自体も既に製本されたものが届いて学部の事務室に1部を提出してある。一応学部4年の最終発表だから、ということで俺も加えられたが、本来の発表の場だから違和感や不満はまったくない。
 セッションは午前午後2つずつで、1セッションあたり2人か3人が割り当てられている。俺の発表はやはりと言うか最後。しかも1つのセッションとして独立した格好になっている。座長も他は学部4年が担当するし、その中には俺も入っている−俺は午前の第1セッション−が、俺の発表は座長を野志先生が担当する。これだけが俺の緊張感の要因だ。
 朝から学部4年が中心になって会場の準備をした。準備と言ってもスクリーンとプロジェクタは殆ど引っ張り出すか電源を入れるだけだし、テーブルと椅子を並べて休憩で飲み食いする茶菓子を準備するのがメインだった。俺はセッションの座長に備えて、スクリーン向かって右側の座長席に陣取っている。
 準備の段階では果たして来客があるのか疑問だったが、パラパラと人が座っている。同じ研究領域(註:新京大学における学部学科の研究室やゼミの緩やかな集合体)ということで、計算機工学や情報工学の研究室から、学部4年や院生、更には研究室の教官が来ている。情報工学研究室のボスである那須川先生は、最後列に居る久野尾先生と談笑している。
 半分ほど着席している学部4年をはじめ、後部に陣取る院生も、那須川先生を見て居心地が悪そうだ。それもその筈、那須川先生が担当する講義「情報数学」は兎に角難解で、必須なのに単位が取り辛い講義の1つだった。俺の専門課程の単位で数少ない「8」評定の1つは、この「情報数学」でついたものだ。
 開始は9時丁度からで、現在の時刻は8時45分を過ぎたところ。それでも学部4年の半分はまだ着席していない。学生居室は複数のリハーサルの真っ最中。もっと最終発表に相応しいものに、と院生や野志先生に尻を叩かれ連日深夜まで研究室に篭っていた。院生に最後の最後まで追い詰められた状況の中、最終発表を迎える心境は少なくとも良いものじゃあるまい。
 開始5分前を切った頃、残りの学部4年がようやく揃った。やはり緊張や不安の色は濃い。レクチャーである程度フォローはしたし、各自の対応も出来る限りはしたが、卒研自体が突貫工事の印象は否めない。回を重ねるごとに質問が厳しくなってきて、それでも何とかやり過ごせたが、流石に今回は「出来てません」の言い逃れは出来ない。
 しかも、かつて「情報数学」で散々な目に遭わせた那須川先生が後ろに控えている。半分ほど埋まっている来客用の席から見られて、2年前期の悪夢がよみがえる人は決して少なくはないだろう。よりによって最終発表で何を言われるのか気が気でならなくても不思議じゃない。

「・・・時間になりましたので、これより20xx年度久野尾研卒業研究最終発表会を開催いたします。」

 聴衆の動向観察にかまけていられない。俺は最終発表の開会を宣言する。少しざわめいていた会場が一気に静まり返る。

「午前第1セッションの座長を務めます、安藤祐司です。よろしくお願いいたします。・・・最初の発表は『無線通信とCCDカメラを用いた常時監視ネットワークの構築』。伊東さん、お願いします。」
「い、伊東です・・・。よろしくお願いいたします。」

 トップバッターは智一。俺の感覚では、最も進捗が鈍かったグループの1人だと思う。この半月あまり神谷さんが徹底的に追い込んだそうだが、何処まで到達したか・・・。ひとまず智一の発表に注目しよう。

・・・。

「−以上です。・・・ご清聴ありがとうございました。」

 智一の発表が終わる。手元のタイマ表示では3分余っている。少し早口だったし−これは俺も人のことは言えないが−、スライドを次から次へと変えたから枚数から考えるとかなり詰め込んで矢継ぎ早に見せたように思う。ギリギリまで粘ったがそう簡単に「一発逆転」出来るような出来栄えにはならないもんだと、改めて思う。
 俺が質疑応答を呼びかけると、早速院生が複数手を挙げる。俺が適当に指名していくと、院生から突っ込んだ質問が次々投げかけられる。智一は相当動揺しながら答える。何度か俺に救援を求めるような視線を向けるが、座長は助けるどころか質問が少なかったら質問する立場だし、それを除いても助けられる立場と状況じゃない。それは事前の説明で知ってる筈だが。
 質疑応答の時間は元々5分だが、そこに余った3分が加わったから体感時間は更に長いだろう。院生からは次々と質問が飛んでくる。データの解釈から回路構築まで、これまで以上に突っ込んだ質問の連続に、智一は翻弄される。それを見る学部4年の大半の表情は強張っている。「自分がこうなる」という事例をまざまざと見せ付けられ、それは発表順番が進めば否応なしに現実のものになるんだから。
 どうにかこうにか智一の持ち時間が終わる。俺は智一の発表の完了を宣言する。時間を見つつ進行させるのは座長の第一義的任務だ。

「時間になりましたので、これで質疑応答を終了とします。伊東さん、ありがとうございました。」

 会場から拍手が起こる。だが、院生は「まあ仕方ないか」という雰囲気だ。智一はPCを閉じて茫然自失の様相で席に戻る。俺は次の発表者の準備完了を待って進行させる。この分だとこのセッションは質問の数とそれに動揺する発表者という意味で大荒れになるのは避けられないな・・・。
 午前のセッションが全て終了して昼休み。普段より長い−卒研になるとあまり意味を成さないが−1時間半の時間が確保されている。昼飯を食べ終えて控え室のような学生居室は、何と言うか死屍累々といった雰囲気だ。
 2つのセッションでの発表者は合計5人。進捗や成果が明確だった森崎氏を除いて、質疑応答の時間は大荒れだった。付け焼刃やにわか仕込みだということを質疑応答で露呈させられ、つぎはぎの綻びに容赦なく突込みが入れられた。もう動揺を通り越して狼狽して、立ち往生する人も出た。
 後半は俺を含む5人。準備が出来ている俺も緊張を感じるが、他の4人は公開処刑のようなあの場に立つことがじりじりと近づいていることに生きた心地がしないかもしれない。俺がちょっと見た限りでも顔が強張っていたし。
 恐らく午後の2セッションもほぼ大荒れになるだろう。俺も高みの見物とはいかない。何せ俺は野志先生が座長を務める単独発表。冊子を見てももの凄く目立つ。発表を脳内でシミュレーションしておく。腹は晶子の弁当で十分膨れたし、徹底的に俺の好物で固めてくれた晶子に応えるためにもへまは許されない・・・。

「−以上で第4セッションを終わります。ありがとうございました。これより午後4時までコーヒーブレークです。」

 座長の森崎氏が俺以外の全てのセッション終了とコーヒーブレークを宣言する。張り詰めていた会場の空気がふっと和らぐ。いよいよ次は俺の発表。コーヒーブレークは他の10分の倍、20分もある。俺はPCの準備をしてスライドをひととおり確認してから、飲食物が置かれている場所へ向かう。

「最後のセッションは安藤君だけなんですね。」

 近くでは那須川先生が久野尾先生と談笑している。那須川先生も1人1人にこれまた厳しい質問をぶつけていた。「そのアルゴリズムにした理由が不明瞭」とか、理論工学らしい観点からの鋭い質問をぶつけ、発表者を回答不能に追い込むこともしばしばだった。まさに2年後期の悪夢の再来だ。

「しかも野志先生が座長をされる、と。」
「一種の特別講演なんですよ。」

 久野尾先生は、既に実質的な最終発表が終わって卒論の製本もなされていること、夏には学会発表もこなした内容だから前回に倣って最後に回したことなどを話す。プログラムの背景には久野尾先生の意向があったのか。「前回」とは飯田さんのこと。那須川先生も納得の様子だ。

「ああ、そういえば飯田君もそうでしたなぁ。それなら理解できます。」
「十分先生のご期待に沿えるものですよ。」

 流石にプレッシャーを感じる。俺は紙コップに汲んだ紅茶に併せて何個か菓子を引っ掴んでその場を離れる。最後を締めくくるものだから、相当な発表にしないとブーイングが飛ぶかもしれない。学会発表もこなして経験値はそれなりにあるつもりだが、緊張やプレッシャーは相当なものだ。

「祐司ー。期待してるぞー。」

 まだ魂が戻りきってない智一がぐったりした様子で言う。

「俺達はもう散々だったから、祐司がしっかり締めてくれよなー。」
「・・・精一杯する。」
「俺達の屍を乗り越えてくれよー。」
「屍って・・・。」
「あれだけ徹底的にやられたら、屍も同然だー。」

 周囲の学部4年は一様に力なく肯定の頷きをする。あれだけ徹底的な質問攻勢を受ければ体力気力を消耗しきってもおかしくはないが、俺1人の発表で治癒するわけでもなし。それとも、徹底的にやり込められた悔しさを俺の発表で晴らそうと考えてるんだろうか?何と言うか「江戸の敵を長崎で討つ」みたいな感覚と言うか・・・。
 聴衆の過半数を占める研究室の面々は、今まで何度か俺の発表を見聞きしているし、院生の人達も質問することはこれまで出たことの繰り返しになるだろうから、ある意味予定調和で終わる可能性が高い。だが、その後ろに居る他の研究室からの聴衆、特に那須川先生と対峙する自信はあまりない。
 那須川先生の質問は、アルゴリズムや信号処理の理論に関するものだった。理論工学の1分野だからそういう観点からの質問になるのは必然的ではあるが、そういった理論分野まで詳細に検証して使っているわけじゃない。正直、これまでの成果を受け継いでいるから余程根本的な欠陥や他に理想的なものがない限り変えようがない。
 俺の発表のベースになっている学会発表では、アルゴリズムや信号処理の理論についても言及している。それらは大川さんが教えてくれたものを先生や院生が補強してくれたものだ。俺自身がきっちり把握しているかと言われれば疑問符がつく。勿論内容は説明できるが、それをなぜ採用したかなどの根本的なところは答えるのが難しい。
 菓子を食べて紅茶を飲み、高まる緊張を紛らわせる。これまでもそうだったが、発表すると決まったら何れその時は来る。今回はキャンセルなんて出来る筈がないから、尚更腹を括るしかない。他より発表回数が多くて場慣れしていることを好条件として乗り切るしかない。
 時間が近づいてきた。俺は演台に向かう。既に座長席には野志先生が陣取っている。レーザポインタは・・・問題ない。スライドは・・・問題ない。これまでの経験やシミュレーションどおりに発表して、時間いっぱいまで質疑応答に対峙する。今はこれだけ考えれば良い。

「それでは、時間になりましたので、久野尾研卒業研究最終発表の最後のセッションである第5セッションを開始いたします。タイトルは『簡易な立体音声再生システムの構築』です。安藤さん、よろしくお願いします。」
「ご紹介いただきました安藤です。『簡易な立体音声再生システムの構築』と題して発表いたします。」

 タイトルのスライドを映して発表を始める。最後まで発表することだけ考えれば良い。その後のことはその時考えて対処すればよい。

・・・。

「−以上で発表を終わります。ご清聴ありがとうございました。」
「ありがとうございました。ご意見ご質問、コメントなどありましたらお願いします。」

 後方に陣取る院生と来客から手が挙がる。野志先生が順次指名していく。俺はそれに回答や提示をしたり、謝辞を言ったりする。院生からの質問は流石にこれまでに出尽くしている感があるから、その繰り返しと言うか確認になる。この辺は答える側も楽だが手は抜かない。
 来客からの質問などは基本的な部分、すなわちマイコンではなくFPGAを使った理由や、ノイズ処理をどうしているかといった細かいことまで多岐に渡る。これらも到達点や手持ちの知識を元に回答する。用語が分からない場合も幾つか出てくるが、それらも噛み砕いて説明すると納得してくれる。

「那須川先生、どうぞ。」

 ついに那須川先生が指名される。一気に会場の空気が張り詰めたものになった気がする。

「情報工学研究室の那須川です。2つ聞きたいことがあります。1つ目ですが、FPGAで周波数帯域の分離+リバーブとディレイで大半の処理を完了しているようですが、音声処理をリバーブとディレイの2つの処理だけで良いとした理由を聞かせてください。」
「1つは音声を扱う本システムの特徴です。音声の遠近感は残響であるリバーブと山彦であるディレイの組み合わせと見ることが出来ます。それ以外の音声処理効果−たとえばフランジャ(註:元の音声信号と少し遅延した音声信号の干渉で音声を変化させること)はディレイの応用です。音声処理では実際に聞き取れることが重要であり、市販のエフェクタのように多数の音声処理効果を1台に導入する必要性は低いと考えています。」
「ほう・・・。」
「もう1つは、ご指摘のとおり周波数帯域の分離を前処理として行っていることです。音声は重量感を与える低域、金属的な響きを与える高域、それらの中間に位置する音声帯域の本体部分が多く存在する領域の3つに大別できます。それらをあらかじめ分離して各々にリバーブとディレイによる処理を施すことにより、遠近感と上下方向の位置感覚、すなわち立体感を構成するのが本システムの基本方針です。」
「分かりました。では2つ目。リバーブとディレイが周波数領域ごと、今回だと3つそれぞれに存在しますが、それを1つとすることで回路規模を圧縮し、低コスト化することも考えられると思いますが、その点はどうですか?」
「音声処理を1つにすると確かにFPGAの規模は小さく出来ますが、音声帯域ごとに順次処理する必要が生じます。そこで発生した遅延は基本的に解消できませんし、その遅延を音声処理と見なすことには疑問を感じます。また、FPGAは急速に大規模化・低コスト化が進んでいるので、あえて回路規模を縮小して小規模なFPGAにすることによるメリットは少ないと考えています。」
「なるほど・・・分かりました。ありがとうございます。」

 那須川先生は着席する。やけにあっさり終わったな・・・。まあ良い。徹底的に追及されるよりずっとましだ。まだ質疑応答は続く。大半の質問はこれまでに出たことや基本的な事項に関することだから、答えるのに悩むことはない。

「時間になりましたので、質疑応答を終了させていただきます。安藤さん、ありがとうございました。」

 会場から拍手が起こる。後列の久野尾先生と那須川先生は拍手しながら何やら話をしている。学部4年と院生は「よくやった」という様子だ。これで多少は学部4年の無念−というほどのものでもないと思うが、それを晴らせただろうか?俺はPCを閉じて自分の席に戻る。

「今年度の卒業研究の発表は全て終わりました。まず那須川先生から総評をお願いします。」
「はい。例年どおりお邪魔しましたが、森崎君と下屋君と安藤君の発表は良かったです。特に安藤君では一気に発表のレベルが上がって、最後に配置された理由がよく分かりました。」

 会場から苦笑いが起こる。後列からは笑いも起こる。どうやら俺の発表は那須川先生に高いレベルと認識されるものだったようだ。

「卒研の発表を見ていると、学生がどれだけ卒研に取り組んだかが如実に出ます。別の研究室だと客観的な視点のみになりますから尚更顕著です。心当たりのある人は進路にかかわらずこれからの姿勢を抜本的に改めるべきでしょう。あと、院に進学する人は、他の分野や学会に積極的に乗り出していくことです。多角的な視点を持つことが研究では必要です。私からは以上です。」
「ありがとうございました。では久野尾先生、お願いします。」
「はい。やはり付け焼刃やその場凌ぎではカバーしきれないものがあると痛感したのではないでしょうか?那須川先生も仰ったように、発表を見ていて、コツコツ積み上げてきた人と付け焼刃で臨んだ人の差が強烈に出ていました。」

 会場から再び苦笑いが起こり、今度は溜息も混ざる。差は客観的に見ても歴然としていた。就職組は卒研が最低評価の6でもとりあえず良いかもしれないが、進学組で卒研が6だと来年度から相当苦労するだろう。修士はそう簡単に出せないから、留年も当然と判断されるだろうし、最悪退学を余儀なくされるかもしれない。
 同じく客観的に見て完成度が高かった下屋、森崎両氏、加えて坂東氏は揃って進学組。散々だった7人のうち2人が進学組。この段階でかなり差がついているが、発表や論文など相応の成果が求められる修士で、あの体たらくでは次の学部4年が迷惑を被ることになる。
 その辺のフォローは残留する院生と久野尾・野志両先生がしっかりするそうだ。やはり指導役を担う院生が何も出来ないのは非常にまずいから、進学組で卒研の出来が悪かった学部4年は新年度まで徹底的に叩き直されるそうだ。結局、卒研で楽をしたりして適当にやり過ごしたとしても、進学すればそのつけを一気に払わされるわけだ。

「就職にせよ進学にせよ、卒研の1年で得た経験の違いは今後に大きく影響してくるでしょう。特に自分で考え、手を動かし、他人と議論して方向性を検証するといった一連の過程をどれだけ経験したかは、今後社会に出て研究室以外の人達と仕事を進める上で大きな違いとなって表面化すると思います。」
「・・・。」
「進学組の人で完成度が不十分だった人は、新年度に新たな学部4年を迎えて指導するだけの力量はないと判断出来ます。現在の修士1年が中心になって、新たな学部4年を指導できるだけの力量を身につけてもらいます。改めて基礎から十分勉強できる良い機会になるでしょう。」

 穏やかな口調にたっぷり皮肉が篭った久野尾先生の言葉に、一部の学部4年は力なく項垂れる。俺は以前野志先生から聞いて知っていたが、内密にするよう言われていた。卒研完了まで甘い汁を吸ってきたことへの制裁であり、最後の更正のチャンスと位置づけているから、突然知らされるほうが良いというのが理由だ。
 今の院生にもこの試練を受けてきた人が居る。徹底的に叩き直されたことで、1年前の自分を見るような学部4年に、前情報に安穏とせずに何とかして卒研を進めさせようとする。そんなに上手く双方の意思が噛み合わないから同じ事が起こる。なかなか難しいもんだと思う。

「それはそれとして、やはりと言うべきでしょう。当初から院生と協力して地道に積み上げてきた安藤君、森崎君、下谷君、そして急伸長した坂東君の発表は充実したものでした。ちなみに今回の学部4年の座長は、卒件における取り組み具合や進捗、成果が芳しい上位4人に配分したものです。」

 やっぱりそうか。俺と森崎氏と下谷氏は中間発表の段階から進捗が良好と言われていたし、2番目のセッションで座長をした坂東氏は年明け以降急速に進捗したし、今日の発表も聴き応えがあった。自分の発表をきちんとこなせないと他人の発表を聴いて必要なら質疑応答を主導する座長は出来ない、という判断だろう。

「特に安藤君の発表は野志先生に座長をお願いして、実質的な特別講演と位置付けました。来客の皆様にも十分満足いただけるものだったと思います。その安藤君には信号処理のみならず電子回路で頻出する、複数の増幅回路とフィルタ回路の設計製作と特性評価を行ってもらいました。これらは貴重な知的財産として研究室のデータベースに登録したことを公表します。」

 卒論の完成以降、レクチャーと並んでメインだった増幅回路とフィルタ回路の設計製作と特性評価。増幅回路は倍率と周波数帯域を変えたもの、フィルタ回路はパッシブとアクティブ(註:抵抗とコイルとコンデンサ(これらをまとめて受動素子と言う)で構成されるフィルタ回路をパッシブフィルタ、OPアンプも含めて構成されるフィルタ回路をアクティブフィルタと言う)、カットオフ周波数(註:フィルタ回路が遮断もしくは通過を開始する周波数)、フィルタの特性を変えたものを作った。
 いずれも入出力波形と、それらを集約した周波数特性のグラフ、設計に使ったシミュレーションソフトの回路図とシミュレーション結果を用意した。定数や回路が少しずつ違う回路をひたすら作ってひたすら測定してひたすらまとめるのはなかなか単調で面倒だったが、すべて揃った時の達成感は大きかった。
 それらは他の面々が卒件の追い込みに苦闘している中、久野尾先生と野志先生、そして大川さんに相談して進めて説明した。すべて揃ってOKをもらい、回路基板の実物はジッパー袋に入れて印刷した図面と共に実験室の一角に、すべてのファイルやデータはバックアップを取った上で研究室のサーバに収納した。これで俺の卒件はすべて終わったと感じた。

「進学就職を問わず、卒研の取り組み方で学んだこと、すなわち目的を持って設計・シミュレーション・製作を行い、実験をしてデータを取得し、解析して現状を把握し、他者と討論して方針や回路の修正を検討するといった一連の作業は、必ず生きてきます。そして経験の深さや長さによって自分にプラスにもマイナスにも働きます。」
「…。」
「今回の発表をもって今年度の卒研は完了です。皆さんには相応の単位を出しておきます。各々が卒業式で配布される成績証明書で確認してください。…私からは以上です。」
「ありがとうございました。以上をもちまして、今年度の久野尾研卒業研究並びに卒業研究最終発表会を終了します。」

 会場にざわめきが戻り、人々に動きが戻る。最後の講義の試験は終わってるし、試験の手応えから単位は出ると踏んでいる。後は卒業式くらいか…。

「お疲れ様でした。」
「ありがとう。」

 バイトから帰宅して、ホットミルクと少量のクッキーを前にしてのお茶会。晶子からの労いの言葉で、今までの苦労が全て思い出の一部へと昇華される。
 最終発表会が終わってからは、テーブルや椅子を元に戻してスクリーンとプロジェクタを片づけて、研究室最後のお茶会。久野尾先生と那須川先生のコメントで名前が上がらなかった面々、特に進学組は一様に表情が重かった。単位は出るものの恐らく評価は最低の6。その上進学までの約半月間徹底的に絞られることが決まったからな。
 一方、名前が上がった俺を含む面々を指導した院生は終始ご機嫌。特に大川さんは今月末、つまり就職前の最後の学会発表も最高の状態で臨めることに満足しきっていた。その報告書と学会が発行する専門誌に受理された論文には俺の名前も記載されているる。俺の卒研は、論文ではファーストオーサーが1本、それ以外が2本という十分な成果になった。
 卒研が実質2月半ばに終わり、実験そのものは昨年内にほとんど終わっていたことから、飯田さんの研究費を分けてもらう形で進めたアンプとフィルタは、回路図から特性評価まで出揃った貴重な成果と絶賛された。飯田さんの研究費の報告書にも名前が載ることが飯田さんから公表された。
 夏休みを使った卒研は十分な成果を出せて終わった。恐らく単位は10でつくだろう。そういった成果は俺1人で出来たことじゃない。晶子の強力なバックアップがあったからこそのもの。学生生活最後の思い出作りの機会になる筈だった夏休みを卒研に使っても、嫌な顔1つしないどころか弁当を作って送り出してくれた。

「晶子には感謝しきれないな…。晶子が毎日バックアップしてくれたおかげでこんな充実した成果が出せたんだから…。」
「私は確かにバックアップと言うか、お弁当を作ったりしましたけど、それを使って結果を出したのは祐司さんですよ。」
「二人三脚だな。」
「はい。ゴール出来て良かったです。」

 弁当作りは晶子にとって日常のひとコマ、日課の1つくらいのものだ。土日を中心に仕込む食材の一部を利用しているに過ぎないと言われればそれまでだ。だが、そうして作られた弁当は、昼飯時の混雑とある種の焦燥感から俺を解放し、数週間単位でローテーションが見えるメニューから脱却して開封するまでと食べる時の楽しみを齎してくれる。
 学科には俺の他にも数名彼女持ちが居るし、智一のように遊び慣れた人も若干名居る。そういう人達も彼女手製の弁当を持参している人は知る限りは居ない。研究室が別になると動向は殆ど見えなくなるから変化はあるかもしれないが、俺が弁当持参を羨ましがられたのはそういった特異な事情もある。
 晶子に聞いたところ、弁当を作るには幾つかの関門があるそうだ。1つは食材をその分仕込むこと。これは普段から増量すれば良い。もう1つはメニューを考えること。これは料理に慣れるほど幅は広がるが、弁当に使えるメニューと使えないメニュー−典型例は生もの−、そして時期によって避けた方が良いメニューや調理方法を把握する必要がある。
 もう1つは弁当を作る時間分早起きするなり前日に弁当を用意する手間を作ること。これが実は最大の障害だと言う。作る相手−自分自身も含む−の出発時間前には出来ていないといけないし、当日朝に料理するならその分早く起床しないとどうにもならない。前日に詰めておくならその分余分に作ったり、最低限炊飯の準備くらいは二度手間になってでも必要になる。
 それらは惣菜や冷凍食品を使えばかなり対処出来る。しかし、それなら自分で買った方がまだ作りたてに近いものが食べられたり、昼飯は何処かで調達した方が良いということになる。料理が出来ることは勿論、相手のために生じる手間や時間を惜しまないことが弁当を作る大きな原動力になっている。
 晶子は俺に自分の料理を食べてほしいと思っている。それは俺に食事を提供出来る唯一の立場であり、それが出来る唯一の環境に居ることを実感できる貴重な機会だ。その機会を最大限利用しているに過ぎない。晶子はそう言っている。
 弁当作りを中核として、家庭環境も衣服も清潔に保たれ、帰宅すれば安心出来る、一息つける環境を保持してくれる。維持するのは怠惰や惰性とする向きもあるが、高い水準だと維持すること自体がかなりの困難を伴う。学生時代に上位の成績を保つのがどれだけ難しいか、転落がどれだけ容易か思い返せば直ぐ分かる。

「今度は晶子の方だな。」
「私は基本提出してOKが出れば完了したようなものですよ。発表会自体、今度の1回だけでセレモニーみたいなものですし。」
「もう提出は済んだんだよな?」
「はい。OKが出るまで修正の繰り返しですけど、それは大したことじゃないです。」

 卒研の進め方は大学ならではというか、学部学科によって大きく異なる。晶子が居る文学部英文学科では、提出してOKが出れば完了となるそうだ。全員が成果を披露する発表会も「卒論発表会」という名称で来週行われる1回のみ。複数のゼミが集合して3日間の日程で行われる。
 進級と取得単位数が卒業までリンクしないせいで、最後の定期試験が終わるまでゼミはすったもんだしていたそうだが、その点晶子は早くから単位を取って卒研を進めてきたことで十分な余裕がある。本来そうするのが本分なんだろうが、そう出来る人が少ないのは甘いとか微温湯とか言われる所以だろう。
 ともあれ、晶子の学生生活も着実に終わりへと近付いている。4月からは引き続き今の店で働くが、時間帯についてはマスターと潤子さんと相談中。俺の後継になる新採用のバイトが2、3名になる見込みで、採用を決めたらシフトを組む調整をするそうだ。
 朝は遅いし、休憩時間が2時間ほどあるとはいえ、朝から晩まで働き詰めになるのは厳しい。早番遅番に対応できるように身体のリズムを調整するのも大変だろうが、朝から晩までよりは余裕も出来るだろう。俺が辞めた後の話だから関与する資格はないが、良い方向にまとまることを期待している。
 此処まで来たら卒研の単位を落とすことはまずない。となると、後は卒業式か。高校までと違って式典のスケジュールはあっても練習とかはないし、出なくても良い。卒業証書は学科単位で配布されるから、指定の日時に指定の場所に行けばもらえる。その辺は集団行動が前提の高校までと違って随分ドライと言える。
 俺と晶子の関心は、卒研から卒業式以降へとシフトしている。行くか行かないかのレベルから話し合っているが、揃ってあまり行く気はしない。卒業式に出て終わりの感慨に浸るほど、大学での生活に特別な思い入れはない。それに、俺はまだしも晶子は出るとなると実質袴を着る必要性が生じる。
 周りと同じ格好をするのは、実は晶子はあまり好きじゃない。成人式に出なかったのは実家との確執もあったが、振袖を着る気が起こらなかったのもあったそうだ。相当珍しい部類だと思うが、動き辛いこと、そして大して深い交流がなかった他人と同じ格好をしてセレモニーに出ることに気乗りしないのは晶子らしい。
 男性も袴を着る向きもあるが、スーツも結構居るそうだ。この辺同調圧力が女性より弱い男性ならではの利点だろう。どのみち出るならスーツ一択だが、晶子が出ることに消極的だし、スーツを着込んで出るほど特別なものでもないという考えが強い。だから、卒業式は出ない方向で纏まりそうだ。
 それより、俺が卒業後社会人になるまで1週間ばかり猶予がある。これを利用してめぐみちゃんに会いに行こうかという話をしている。京都御苑でのイレギュラーな出会いから早1年。今年は祖母の高島さんとの連名で年賀状が届き、つたない文字で元気に学校に通っていること、春休みにでも会いたいとあった。
 旅費の工面は悩むほどのもんじゃない。日程を月曜主体にすればかなり余裕が出来る。高島さんと連絡を取って日程調整をする方向で進んでいる。話し合いと言っても殆ど同じ方向を向くから、細かいところの調整や意思統一で済む。とはいえそれらは大事なことだから怠ることはしない。

「となると、めぐみちゃんに会いに行くことかな。次のイベントらしいイベントは。」
「そうですね。日程調整は私がしても良いですか?」
「卒論の仕上げに支障がないなら、俺は構わない。」
「大丈夫です。」

 連絡先を好感している高島さんの応対が、俺と晶子で変わることはない。ただ、めぐみちゃんを本当の子どものように可愛がっていた晶子からの電話となれば、高島さんはめぐみちゃんに代わって声を聞かせようとなる。その現場を見たことがあるが、晶子は終始笑顔で少し涙ぐんでさえいた。
 年賀状で俺の就職内定を伝えてはあるが、今度の訪問で正式に伝えることが出来る。大学を卒業して雇用形態は異なれど揃って社会人になる節目の時期に、親になることの難しさと楽しさを体験させてくれためぐみちゃんに会っておくのは、決して悪いことじゃない。
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