雨上がりの午後

Chapter 311 最後の音の宴、そして結婚披露パーティーへ

written by Moonstone

 翌日のバイト後の「仕事の後の1杯」。「半夏生」をBGMに最近の専らの話題である結婚報告パーティーについて話す。

「私のゼミで招待した子達から一斉に返事がありました。…全員出席する、と。」

 先陣は晶子からの報告。出席人数で料理の準備が大きく変わってくるから、態度が分からないで居た晶子側の出席者の動向が、直近の懸案事項だった。これでパーティーで最も手間を要する、しかし準備に念を入れる必要がある料理の準備を加速できる。

「全員からか。即答だね。」
「はい。…昨日祐司さん側の出席者の概要を話したら、ほぼ即答でした。何だか心苦しいです…。」

 晶子が俺が招待した面子と智一の概要を話したのが今日。昼飯時に話したらその場でOKした、と晶子からメールが届いたのが昼休み終了後直ぐ。予想どおり、面子と智一の概要が晶子側の招待客の強い関心を呼んだようだが、これで合コン感覚で来るかどうか算段していたことが確定したわけでもある。
 晶子としては、純粋に同じゼミで交流がある人に来てもらって、1つの節目を迎えたことを祝福して欲しかったところだろう。だが、相手は必ずしもそのとおりには考え、動いてはくれない。自分が招待して相手の意図がどうであれそれに応じた以上、きちんとパーティーを準備して運営するのが俺と晶子の役目。晶子への返信でそう伝えてある。

「それだけ、祐司君側の出席者が将来有望揃いってことだね。」
「分かりやすいわね。青田刈りの気分なんでしょうけど。」
「これで出席者数が固まりましたし、準備を加速させましょう。出席者同士がどんな交流を持つかは、それこそ出席者の自由ですし。」
「随分大人な見解ね、祐司君。」
「俺と晶子は主催者ですから、出席者が『このパーティーに来て良かった』と思えるようなパーティーにする方が大事です。」

 俺とて、俺が招待した面子や智一の品定めをされた気分だし、それに比べて自分はどうなんだと言いたい気持ちはある。だが、俺と晶子が相談の上で双方に知らせてから招待した出席者に満足してもらい、1つの節目を迎えた俺と晶子を祝福してもらうことが一番重要だ。それに専念すれば良い。
 出席者が同年代の男女同数だし、晶子側の出席者の考えもさることながら宏一や智一あたりの考えもあるから、合コン会場を兼ねることになると思っておいた方が良い。それならその成り行きは本人同士に任せて、その会場をきちんと整える、言い換えれば合コンに対しては第三者に徹すれば、無用な衝突は避けられる。

「それはもっともね…。お客さん同士がどうするかは主催者が関与することじゃないし、祐司君のお友達が引っ掛かるならその程度ってことよね。」
「はい。こちら側が評論したところで招待客の性格や考え方が変わる筈もないですし。」
「何だか…、祐司君、此処最近ぐっと大人になったわね。」
「そうですか?自分じゃ分からないんで何とも…。」
「確かにそうだな。物事を俯瞰出来てるし、目標を見失わずに行動を一貫出来てるし。」
「卒研がそういう訓練になってるのかもしれませんね。」

 卒研は、1つの目標−俺の場合は「FPGAを中枢とする信号処理回路で簡易な立体音響システムを構築する」という研究テーマを進める。その過程で信号処理回路を改良したり、入出力の要となるA/DやD/Aの回路基板を設計・製作したり、それらを含めた動作試験をしたりする。
 研究テーマではFPGAで集中制御するが、採用試験あたりでも問われたように「どうしてマイコンじゃないのか」という疑問は生じる。その検証のためにマイコンで同様のシステムを構築する場合、入出力特性はどうか、A/DとD/Aの速度や分解能(註:ある値をどれだけ細かい単位数で表現出来るかの特性。8bitだと2の8乗=256、16bitだと2の16乗=65536。1Vを8bitで表現する際、1bitは3.90625mV、16bitだと約15.78μV(μ=μは10のマイナス6乗=100万分の1)は十分か、といったことを検証する必要がある。
 結論から言えば、マイコンではなかなか厳しい。安価なものだとA/Dは内蔵していてもD/Aは持っていない品種が多い。D/Aを内蔵している品種でも、本体の動作周波数と処理関数から概算出来る処理時間が、音声帯域−最高20kHzとしてその逆数50μsec内に収まらないものが多い。
 俺が卒研の総括−アーカイブと実質的に卒論の作成の合間に協力している研究テーマでも、マイコンを使って音声信号処理をするものがある。だが、音声帯域の信号を扱うにはかなりシビアなプログラミングが必要。それ以前にデバッグの仕方が碌に分かってないから、結構な頻度で実験室に向かう羽目になっている。
 マイコンを使うなら使うで、マイコンに付きまとうレジスタ定義と割り込みを使えないといけない。思うような信号が出ないなら何処に問題があるのか調べないといけない。それには、空いているピンに、例えば割り込み開始ごとに'H'レベルになるようにして、想定どおりの割り込みをしているかどうかから検証していく必要がある。
 その辺の筋道を立ててプログラミングなり実験なりデバッグなりをするには、目標をきちんと見据えていないといけない。言い換えれば「自分は今何をすべきか」から視点を逃さないようにしないと、全く無意味な実験や調整に終始することにもなる。学生実験がその絶好の訓練の機会で、卒研はその実証の場だと実感している。

「食材はメニューを固めたら買いに行こう。車は出すから心配は要らない。」
「はい。今週中には決めておきます。」

 どんな料理を出すかは勿論重要だが、このご時世アレルギーにも配慮する必要がある。食べ物のアレルギーは生命に関わることが多いし、料理が混在すると用意した方も分からなくなるから、テーブルを分けたりする必要がある。
 他にもテーブルの配置、料理を出す順番−一斉に出すのか順番に出していくかで手間が大きく変わる−など、決めることは色々ある。こうした準備をあるテンプレートに沿って幾つか準備してあるのが結婚式場とかだ。結婚式場を使わずに自分達でパーティーを開催するんだから、そうした手間は惜しんじゃいけない。
 結婚報告パーティーまで1週間を切った。今回も準備と練習、そして卒研があるってことで、俺と晶子は渡辺家に滞在させてもらっている。新婚だし引っ越しからもまだ間もないから家から通いたいとも思ったが、晶子と相談の上で今回も世話になることになった。
 今回はクリスマスパーティーの翌日に結婚報告パーティーがある。疲労とかも考えると引き続き会場になる店により近い方が良い。パーティーは午後からだが、準備は朝からしないと間に合わない。家と店を往復するより滞在させてもらう方が都合が良い。
 部屋は滞在時に宛がわれる2階の1室。渡辺夫妻の寝室と廊下で結んだ反対側の部屋。料理は晶子と潤子さんが共同で作るし、弁当も何時もどおり出る。生活設備は完備しているから、荷物は着替えと貴重品くらい。それも大きめのボストンバッグに収まるから便利なもんだ。
 店のクリスマスコンサートと結婚報告パーティー前の最後の土曜日。その日のバイトを終えた俺と晶子は、先に風呂に入らせてもらってから部屋に戻る。暖房は入れているものの料理という重責を担うため厚手の半纏を羽織った晶子が、布団の横に腰を降ろして徐に部屋を見回す。

「何だか…、祐司さんの前の家で暮らしていたことを思い出します。」

 8畳で基本的に使われていない場所だから広いが、何もないとも言える部屋。ほんの2カ月ほど前まで暮らしていた、1LDKとは言え手狭だったことは否めない俺の前の自宅。似たような雰囲気があるような気がする。

「あの家で祐司さんと一緒にいる時間が長くなっていって、新婚旅行に行って婚姻届を出して引っ越しして、2人のお金だけで生活するようになって…。お店のコンサートでこうして泊らせてもらう際はずっとこのお部屋でしたから、何となくあの家と重なるんです。」
「何だかんだともう2カ月経ったんだよな。」

 俺は晶子の後ろに座り、晶子を受け入れる。晶子は身体を委ねて来る。2人で居る時の定番となった体勢だ。
 もう年末もカウントダウンの最中の時期。婚姻届提出が10月10日で、それから間もなく引っ越したから、2人での生活はその日から始まったと考えて良い。仕送りは2人揃って完全に打ち切られたし−2カ月遅れるなんて実家が破産でもしない限りまずあり得ない−、2人でバイトの収入のみで生計を営む、本当の意味で2人での共同生活の開始でもある。
 生活パターンが変わっていないから支出も変わっていない。2人合わせれば収入は30万を超えるから、これまでの生活パターンなら生活には困らない。大きく変わったのは、仕送りの分だけ減った、貯金に回していた額。何れはなくなるものだったから、それが半年ほど早まっただけとも見なせる。
 そんな調子だから予想以上に生活は安定している。「予想以上」だから不安はあった。2人とも卒研が佳境に入るからバイトと何処まで両立出来るか、冷静になるためとかで何時でも距離を変えられる同棲時期と違って、生活拠点が1つになることで万一衝突が起こったら生活出来なくなるんじゃないか、とか。
 幸いにも卒研は快調で、夏休み期間中には学会発表にもなった。今は先んじて卒論の製作とアーカイブの作成の段階に入っている。2年と3年、特に3年で講義を限界まで詰め込んで全部単位を取得したのも良かったが、自分でも満足出来る成果を出せて、仕上げの卒論作成に大きなアドバンテージを持てた。
 卒研が主体になる4年としては異例かもしれない9時5時生活を維持出来ることで、バイトも続けられる。それは仕送りが打ち切られた現状では収入源の維持と同じ。この分は非常に大きい。曲がりなりにも世帯主となった以上、卒研という正当な理由があるとはいえ晶子より収入が減るのは気分が良くない。
 上手い具合に好循環を形成して、晶子との結婚生活も順調に続いている。大学に続いてバイトという生活だから、夕方に帰宅したら後は存分にイチャイチャという「新婚」でイメージする生活じゃないが、帰宅後や大学が休みの時、そして店が休みの月曜にはそれに近い生活をしている。
 その順調な生活の基盤になっているもう1つの要因は、晶子と情報を共有すること、言い換えれば話し合いを徹底することだろう。結婚前までに双方の過去を知り、それを踏まえても結婚したいと思ったから婚姻届を提出した。以降、隠し事はしないで情報を共有し、解決に向けて話し合うことを徹底している。
 そういった対応が必須な状況−例えば田中さんが迫って来たとか、実家が干渉を仕掛けて来たとかは今のところない。だが、此処までにも1つの方向性を出すのが必要なことはたくさんあった。双方の両親への紹介と対応の仕方、最近だと引っ越しの段取りや新居の場所、生活の運営方法−つまりは役割分担とか。
 それらを独断で進めて事後承認を求めるというのは、相手にしてみればおざなりにされた感がある。信頼関係があればまだ良いが、それが信頼関係に皹を入れる危険性はある。話し合いの末に「自分では判断できない」と思って相手に委任するなら、その結果が悪くても自分の責任と出来るが、独断専行の結果が悪いとまず遺恨が生じる。
 新居を決めるにしても引っ越しの際にどれを持って行ってどれを処分するかにしても、情報の共有と話し合いを徹底した。その結果一部は俺か晶子が判断することも出たが、それらも情報の共有と話し合いの結果。時間はかかったかもしれないが新居探しも引っ越しも、それに伴う不用品の選別と処分もスムーズに進んだ。
 順調に推移して来たが、それでも新居での生活が落ち着くには時間がかかった。家が変わると全ての配置が変わる。当たり前のことだが、毎日の生活の拠点がそうだと小さなストレス源になる。家で数日生活してストレスになるなんておかしい、と思うかもしれないが、家での生活時間は就寝時間を除けば平日は2,3時間しかない。そして20時間ほど間が空くから慣れるには相応の日数がかかる。
 晶子は料理でキッチンの使用率が圧倒的に高いことで、食器や料理器具の配置で戸惑うことが多かったようだ。食器や料理器具の配置は、キッチンの主と言っても過言じゃない晶子に一任したが、それでもいざ料理、いざ片付けとなった時に、これまでの感覚で移動した場所が全く違う場所だったことは結構あったようだ。
 そういった細々したことへの順応が完了するには、おおよそひと月かかった。それから家での時間は短いものの新婚生活を満喫するようになってひと月。総合して2カ月があっという間に感じられるのは当然と言える。その2カ月の経過が年末と重なったことも、瞬く間と感じさせる要因になっているところもあるだろうが。

「今年結婚して新婚旅行に行って、婚姻届を提出して新居に引っ越して…。それらはあの家にお邪魔するようになったことから発展してるんですよね…。」
「2人であの家じゃやっぱり手狭だろう、ってことから引っ越しが具体化していったからな。俺はあの家に住んでいて晶子と出逢ったんだし、あの家が出発点って見方は同じだ。」
「出来るだけ早く結婚したい、祐司さんと2人きりで暮らしたい、と思い続けて、ここまで来れて感無量です。」
「女の方からひたすら押し続けて卒業前の結婚に持ち込んだって、まだまだ少数派だぞ。」

 卒業して生活が落ち着いたら−社会人だと3年か5年くらいか−結婚することは考えていた。それが流れに対応していたら卒業前に結婚して婚姻届を出し、更には新居で夫婦として生活を始めるに至った。学生結婚自体少数派だろうし、女の方から押して結婚に持ち込んだってのになると更に少数派だろう。
 俺も恋愛の発展としての結婚への願望というか憧れというか、そういうのが強い方だと思う。晶子はその上をいっていた。最初に感じたのは何と言っても指輪。付き合って最初の誕生日プレゼントとして選んだペアリングを、まさか左手薬指に嵌めてくれ−俺も含む−と譲らないとは思わなかった。
 それから婚姻届を提出するまでに約2年半あったが、婚姻届の提出がさほど驚かれなかったのは、先んじて左手薬指に指輪を嵌めた相手がいる=結婚相手がいるという認識が広範囲に普及・浸透していたせいだろう。婚姻届は法的な位置づけの確保くらい−これはこれで重要だが−にしかなっていない。
 晶子の容姿と性格なら、卒業してからでも男を物色するのは造作もない。そうせずに俺と出逢って早々に指輪を嵌めて、1年後に身体を差し出し、一緒に生活する時間を着実に増やしていくことで3年で婚姻届の提出に持ち込んだのは、やはり浮気や浪費のリスクが低い状態で安心して子どもを産み育てるため。俺がそうなる恐れはないとは言えないから、晶子はかなりのリスクを冒してでも早めの結婚・出産を自分の人生のロードマップとして実現したわけだ。

「祐司さんは…後悔してますか?私と卒業前に結婚したこと…。」
「後悔するくらいなら、早々に離婚届を出してる。それ以前に、婚姻届を破いてる。」
「…良かった…。」
「俺独りじゃ、今みたいな恵まれた生活は出来てない。晶子の万全の支えがあるから…俺は順風満帆な卒研が出来てるんだ。」

 年末までに卒論の作成に着手出来たり、学会発表まで持ち込めるほどの成果を出せた卒研は、晶子の支えなくして存在しない。実験の進捗によっては大幅に遅れたり逆に早まったりする昼飯で、食堂の時間を気にしなくて良い。朝はきちんと食事が出来ている。家も服も清潔に保たれている。こうした万全の環境があるから、卒研に専念して良い成果が出せた。

「結婚までにも色々あったけど…、晶子と結婚して良かったと思ってる。時期が早かったのと晶子の押しで持ち込んだってのが、客観的に見て珍しいだろうな、と思ってるだけだ。」
「逃したくなかったですから…。」
「俺と晶子の今の関係を示す服も…用意してある。」

 俺と晶子の向かいには、明後日に着る1組の服がビニール袋に覆われてハンガーに掛けられている。貸衣装屋で写真撮影とセットで時間をかけて選んだものだ。

「あの服を着る時間そのものは短いが、堂々と皆の前に出て…、報告しよう。俺と晶子は結婚しました、って。」
「はい。」

 まずはクリスマスコンサートを乗り切る必要がある。これも重要なこと。俺にとっては最後となるだろうから、余計に後悔のないようにしたいところだ。1つ1つハードルを越えていくこと。生活はその繰り返しだし、結婚生活も同じだと思う。
 晶子が徐に立ち上がり、ドア付近にある電燈のスイッチのところへ行く。晶子が立ち止まって直ぐ部屋が暗転する。行く時よりやや足早に戻ってきた晶子は、俺の前で半纏を脱ぐ。俺は掛け布団を捲って晶子を迎え入れる。掛け布団を被ってから…今夜も始まる…。

Fade out...

 緩やかに意識が浮上してくる。カーテン越しに朝の光が染み込んでいる。隣には…晶子が居る。普段は滅多にない朝の風景は、こういう時くらいしか見られない。
 俺にとって最後の店のクリスマスコンサートは、盛況のうちに終了した。2日目の最後は「GLORIOUS ROAD」。演奏曲は何時もどおり事前に選ばれていたが、曲順が微妙に変わっていた。その疑問が解けたのは、最後の曲紹介の時だった。

ご紹介しましたとおり、安藤君は来年3月の卒業と共にこの店も卒業となります。
社会人として新たなスタートを切る安藤君と、今秋に安藤君と結婚して引き続き店の味を担う晶子さん。
2人の道に栄光あれ、との願いを込めて、最後を締めくくるのはこの曲、「GLORIOUS ROAD」!

 驚いたのは、この曲で晶子がキーボードを担当したことだ。晶子がキーボードを弾けるとは知らなかったがそれもその筈。この時のために夏休み頃から店で練習していた、とコンサート終了後の打ち上げパーティーで聞いた。「GLORIOUS ROAD」はかどのパートもかなり難度が高い曲だから、早いうちから練習する必要がある。
 「GLORIOUS ROAD」はマスターと潤子さんの共同推薦で出された。潤子さんの指導でオープン間もない時間や休憩時間に練習を重ね、問題ないレベルに達したのを確認して曲候補に挙げた、というのが経緯。これも打ち上げパーティーで聞いたことだが、期限が決まっている中で未経験の楽器を使えるようになるのは相当なプレッシャーがあった筈だ。
 俺が卒研を学会発表に持って行くことが決まり、夏休みも通常どおり大学に出ていった。晶子は何時ものように俺に朝飯を食べさせて弁当を持たせて送りだした後、当時の最後の望みだった公務員試験の準備と並行して練習を重ねていた。ある意味俺が何時ものとおり大学に行くことで、店のバイトを増やして収入を増やしつつ、キーボードの練習が出来たわけだ。
 そのキーボードの腕前はなかなかのものだった。晶子の担当分はブラスセクション。結構細かいフレーズが多くて難しいんだが、リズムをキープして弾いていた。ピアノが終始動く曲だから、シーケンサを使わないとブラスセクションは出来ない。全員がステージに出る点でも、シーケンサを使わない−ドラムとベースは居ないから仕方ない−演奏という点でも、丁度良かった。
 キーボードは俺も持っている。俺の場合は手早くフレーズを入力するためのツールの域を出ないが、晶子なら練習次第でもっと使いこなせるだろう。俺が居ない時に使うのは構わないし、シーケンサの使い方も教えようと思う。キーボードを使うとシーケンサへのデータ入力が早く出来る。近い将来オリジナル曲が出来る可能性は十分ある。

「…おはようございます。」
「おはよう。」

 晶子が目を覚ました。若干気だるそうなのは夜の余韻のせい。何時もはそれを感じさせずに俺を起こすんだが、1日休みだから遅く起きても構わないと言われたことによる気の緩みで、本来の様子を見ることが出来る。

「こういう機会だから、二度寝するか?」
「それより…ぎゅってしてください。」

 擬音での要求に一瞬疑問符が浮かんだが、連想することをすれば良いのか。俺は身体を晶子の方に傾けて、晶子を抱き寄せる。晶子は身体を寄せて密着してくる。

「こうか?」
「はい…。温かい…。」

 本当に晶子はスキンシップが好きだな。晶子の感触や温もりを直接感じられるし、費用は発生しないから、俺に拒む理由はない。俺もこういうのは好きな方だし。
 今日1日は休みだが、明日の結婚披露パーティーに向けての準備がある。飾り付けはせいぜいテーブルを並べてクロスをかけるのと、荷物置き場を兼ねて椅子を周囲に並べることくらい。メインは料理。食材は既に選定と購入を済ませてあるから、下ごしらえが基本になると思う。
 料理は作り置き出来ないものもあるから、それは当日キッチンで料理してテーブルに運ぶ形にする。運ぶのは俺がメインでマスターが手伝ってくれる。晶子は勿論料理担当で潤子さんが手伝い。今日の会場づくりと下ごしらえもその分担を基本に進めることになっている。
 暫く抱き合った後、布団から出て服を着て1階に降りる。降りたところは渡辺家のキッチンとダイニング。この家に住む人全員が1日の最初に顔を合わせる場所。自分の席で新聞を読んでいるマスターと料理を作っている潤子さん。これが渡辺家の朝の日常だ。

「「おはようございます。」」
「おはよう。割と早いね。」
「もう出来るから、座って待ってて。」

 俺と晶子はマスターと潤子さんの向かいに座る。程なくテーブルに4人分の料理が並び始める。潤子さんは晶子と同じく朝は和食派。家庭の食生活、特に朝飯は料理をする人の好みや志向が出やすい。晶子と潤子さんは少なからず似ている部分があるが、料理が出来ると和食にしたくなるんだろうか。

「祐司君の友達は全員地元から離れてるのよね。明日来るの?」
「はい。パーティーが午後からですから、昼前に新京市に着くように向かうそうです。昨日の昼に電話がありました。」

 小宮栄あたりで一泊するのかと思っていたが、所在地がバラバラだから時間の調整がし難い、ってことで現地集合にしたと耕次から伝えられている。一番近いのは小宮栄と同じ県にある大嶽工業大に通う勝平で、耕次と宏一が関東、渉が関西と結構離れてはいるが、電車なり飛行機なりで必ず行く、とも伝えられている。
 人生において自分のために親戚友人が来てくれるのは、結婚式と葬式の時という。このパーティーでは両親をはじめ親戚の出席者は皆無。招待してないから当たり前だが、遠方にいる耕次達はそれぞれ卒研や進学準備で忙しいところを駆けつけてくれる。晶子と相談して往復の交通費を出すことにしたのは返礼でもある。

「招待にあたって会費は明示しましたし、服装はラフで構わないとしておきましたから、事前に集まって打ち合わせをする必要もないかと。」
「こういう時、男は服装にそれほど悩まなくて済むね。考えるのは祝儀くらいだけど、今回は会費制だからその点も楽だし。」
「会費制だと見栄の張り合いのネタが1つ減るから、もっと普及しても良いのにね。」

 パーティーは会費制にした。その額1人5000円。会場費が無料だし料理は晶子と潤子さんが作るし準備も自分達でするから、儲けを考えなければ安価に出来る。儲けるつもりはさらさらないし、出席しやすい方が良いから、この金額に決まった。
 各々バイトなり仕送りなり奨学金なり小遣いなりで収入はあるだろうが、学生で万の単位の臨時出費が大きい。祝儀となると相場が3万とか言われるから−親族だともっと高いらしい−出席の返事を出すのも迷うだろう。バイトやサークルのリーダー云々がその椅子の数からしてそんなに多い筈がないし、学生で起業するのはもっと少ないから、むしろ俺と晶子の方が潤沢かもしれない。
 披露宴が数百万の巨額に達するのは、会場費とスタッフの人件費が多くを占めるためだ。それ自体は否定しないが、この先葬式くらいしか顔を合わせない親族をかき集めて祝儀を得てまでするようなものか疑問だ。それは晶子も同じだから、典型的な披露宴にはしなかったし親族は1人も呼ばなかった。
 料理にしても、出席者の年代からして1皿幾らの高価な料理より、大皿に盛られた馴染みのある料理の方が豪華と思う。料理も纏めて大量に作ればその分安価に出来るし、晶子と潤子さんの料理の腕なら食材から揃えればホテルのビュッフェくらいには出来る。だから会費を高くする必要はない。
 会費制の披露宴は北海道では主流らしい。理由は知らないが、祝儀の金額と服装に頭を悩ませたり、他の出席者と見栄を張りあったりする必要もないから合理的だし、金額が明示されているから出欠の判断もしやすい。潤子さんの言うとおりもっと会費制が普及しても良いんだが、慣習はそうそうなくなるもんじゃない。

「私側の招待客は、何を着ていくか雑誌を見てあれこれ言ってました。」
「準備万端で臨むつもりなのね。」
「多分。潤子さんが以前言ったように、祐司さん側の出席者の概要で一気に乗り気になりましたから…。」
「現金なものね。」
「良いんじゃないか?祐司君側の出席者も相手を見るんだし、それこそ祐司君が言ったことだが、出逢いの場にはなってもそこからどうなるかは本人次第なんだし。」

 どうも晶子側の出席者は純粋に同じゼミの人の門出を祝うために出席するんじゃなさそうだ。耕次達には、晶子が同じゼミの女子学生を5人招待したとは伝えてあるが、品定めの後お眼鏡にかなえば色目を使われたら良い気分はしないだろう。表には出さないだろうが。
 披露宴は合コンの場にもなるという。割と似通った年代の新郎新婦の友人が一堂に会するんだから、新たな出会いの場になることは不思議じゃない。今回のパーティーも規模や会場は違うが、その場になるようだ。招待して来てもらうんだから、客同士でどうするかは俺と晶子が干渉すべきことじゃない。

 朝飯終了後からボチボチ準備開始。俺とマスターは会場設営の担当。予め作っておいた図面を基に店のテーブルと椅子を片付け、配置していく。

「テーブルは4人用を2つと2人用を2つで固めます。」
「位置は?」
「1つはこのあたりですね。」

 椅子はまだしもテーブルはかなり重い。2人用は何とか1人でも持ち運びできるが、4人用は2人でないと無理。白基調のお洒落な作りだから軽そうに見えるが、安易に動かされないようにと椅子も重めのものにしたそうだ。そりゃあ、余程のことがない限り店のテーブルや椅子を全て動かすほどの模様替えなんてしないだろうからな。
 4人用のテーブルは主にステージ近く、入口から見て奥に集中している。他は全て2人用だから、かなり動かさないといけない。だから、予めどのテーブルを移動して固めるかを一覧できる図面を作っておいた。研究室のPCを使ったが、フローチャートを描いたりするCADソフトが入っているから簡単に描けた。
 その図に従って不要なテーブルと椅子を窓際に固め、4つの島を作る。4つの島は上から見てステージ側に短辺を向けた長方形で、2×2のシンプルな配置にした。招待客の人数が10人だからこの程度で十分だ。椅子は会場となる店内を包囲するように並べて、荷物置きや休憩・談笑に使ってもらう。

「これでOKですね。」

 テーブルの移動を終えた頃には汗だくになった。店内はやや控えめながらも暖房が効いているから、力仕事をすれば汗もかくだろう。4つの島になったテーブルが、窓際に固められたテーブルを背後にした椅子に囲まれて配置されている。広い店内に対してやや閑散とした感はあるが、狭苦しいよりはましだろう。

「そうだね。あとはこれにクロスをかけるだけか。」
「はい。建物もテーブルや椅子も白基調ですし、色の統一感は出ると思います。」
「あとは料理次第だが、その辺は大丈夫だね。」

 キッチンでは晶子と潤子さんが下ごしらえや仕込みをしている。作り置き出来るものや基本冷やしておくタイプのデザートは作ってから店の冷蔵庫に収納されるそうだ。店はクリスマスコンサートから少し早目の年末年始の休暇に入ったから、店の分のスペースを気にしなくて良い。
 流石に普段からキッチンを切り盛りしているだけのことはあって、晶子と潤子さんの手際は抜群だ。次々と食材が形を変え、調味料で下味をつけられていく。コンロでは湯やスープが湧かされている。冷やしておくデザートはこの段階で作られる。食べる順番とは異なるが、仕込みの間に湯を沸かしたり撹拌したりして手が空いたら一気に型に流し込んで冷蔵庫に入れるのは最も効率が良いそうだ。

「裏の冷蔵庫から肉のパックを持ってきてもらえますか?」

 様子を見に行ったところで、晶子が顔を上げて言う。

「全部か?」
「はい。順次下味をつけたりしますから。」
「ついでに小麦粉とパン粉を1袋ずつ持って来て。裏の倉庫にあるから。」
「分かりました。」
「了解。」

 潤子さんからも頼まれて、俺とマスターはキッチンを抜けて渡辺家のダイニングに入る。俺はダイニングの奥、渡辺家の冷蔵庫の奥にある大型の2ドアの冷蔵庫に向かい、マスターはそのままダイニングを抜けて渡辺家の玄関から外に出る。それぞれの妻から頼まれたものを運ぶために合図なしに分岐した格好だ。
 俺の前にある冷蔵庫は、店の料理のための業務用冷蔵庫だ。家庭用との大きな違いは冷凍庫の温度が更に低くて、冷蔵庫と冷凍庫共に庫内の温度が表示されていて、その温度に保たれる点だ。食べ盛りでもある中高生の客が連日多く来るから、こういう大型の冷蔵庫でたっぷり貯蔵しておかないと間に合わない。
 冷蔵庫のドアを開けると、肉のパックがぎっしり詰まっている。クリスマスコンサート前に買いこんだものだ。パック1つ1つも一般のスーパーのものよりやや大きいし、それが庫内にぎっしり詰まっている。全て取り出すとかなりの重量になる。1階で全部運ぶのは無理だから数回に分けて運ぶ。
 俺が第1陣の運搬を開始すると、マスターが小麦粉とパン粉を両手にそれぞれぶら下げて入ってくる。裏には車庫があるが、その隣には常温保存が可能な調味料や粉類を備蓄するための倉庫がある。業務用だから1袋がかなり大きいし、店にいると侵入者が来ても分からないから、渡辺家が鍵をかけて管理している。
 俺とマスターはそれぞれの荷物をキッチンに運び込む。コンロでフライパンを煽る際の爽快な音はしないが、大量の食材が続々と切られたり下味をつけられたりしていく。俺とマスターは邪魔にならないように作業用のテーブルに整然と積む。俺は何回か往復して積み上げるから、崩して余計な手間がかからないように尚更注意が必要だ。

「料理で手伝うことはないか?」
「いえ、私と潤子さんで十分出来ます。」
「会場の準備だけ確実にしておいて。」
「分かりました。」

 キッチンは完全に晶子と潤子さんの独壇場だ。カウンター越しに料理を受け取って客席に運ぶ俺が、カウンターの内側に入る余地はない。テーブルの配置は出来たから、会場の準備と言えばあとはクロスをかけることくらい。これも借り物だが用意してある。マスターと協力してテーブルにクロスを敷く。

「これで会場の準備は完了だね。」
「はい。あとは実質料理だけですけど、俺とマスターが手伝うことはなさそうですね。」
「わざわざ不味くしてもしょうがない。掃除でもしておくか。」

 相変わらずキッチンは忙しそうだが、スペースも限られているし全てを理解して動く晶子と潤子さんにとって、勝手を知らない俺やマスターの手伝い志願は足手纏いになる恐れすらある。テーブルや椅子を移動したことで出て来たかもしれないゴミや埃を取り除いておく方が建設的だ。
 普段のバイト終わりと同様に、店のトイレに隣接する物置から掃除用具を取り出して掃除する。まずは掃除機で床を擦るように移動する。よく見ると、テーブルがあったところにゴミや埃がテーブルの足を象ったように残っている。それらを入念に掃除機で吸い取る。これを店のスペース全域ですると、結構な手間になる。
 掃除機で巡回した後は、モップをかける。こびりついていたゴミや埃を取ると、床の色が若干違って見える。よく見ると床がまだらに見えるから白基調の店内では余計に浮いて見える。まずは洗剤を落とした水に浸けたモップで全域を廻る。これも床の色が均一になるようにすると時間と労力がかかる。
 最後にモップの先端を乾いた雑巾に取り換えて床を乾拭きする。モップで水拭きして安心すると、時期によっては臭くなる。モップに付いた雑菌が繁殖しているせいだが、洗剤数滴程度では死なない。水気をしっかり除去しておくことで臭いの元は取れる。これも水気が残らないようにきっちり全域を廻る。

「こんなところかな。」
「良いね。店の床をこれだけ広く念入りに掃除したのは久しぶりだよ。」
「掃除の時、晶子にテーブルや椅子も出来るだけ退けるように言われるんですけど、その理由が改めて分かりました。」
「祐司君の家でも同じか。」

 テーブルを拭いたり落ちたゴミを片付けたりといったことは随時しているが、掃除機をかけたりする大がかりな掃除は週1回。晶子もまだ大学があるし、その後は俺と同じくバイトがある。そこから掃除機を使うのは近所迷惑になるだろう。余程荒いことをしなければ掃除機を使うのは週1回で十分だと思う。
 引っ越して間取りは2LDKになり、広さも感覚で倍近くになった。その分あまりない家具などが分散して、掃除の時間が少し長くなった。テーブルや椅子の移動は掃除機がけをする前に晶子が言うことだ。退かさないとその周辺にゴミや埃が残るし、それだと掃除の意味が半減するという。
 正直そこまでしなくても良いんじゃないかと思うこともあった。だが、今回テーブルと椅子を全て移動させて通常とは全く異なる配置にして床を全面掃除して、明らかに綺麗になった。やっぱり家事については晶子の方針や判断を最大限尊重するようにした方が良さそうだ。

「料理の方は…まだのようだな。」
「量が多いですからね。」
「茶菓子でも準備しておくか。それくらいなら家の台所でも出来るし。」

 むやみに出しゃばらないのも手伝いの1つ。店のキッチン脇を通る前に仕込みや下ごしらえを続ける晶子と潤子さんに一声かけてから、渡辺家のキッチンに向かう。クッキーは店で出されるものと同じものがあるし、紅茶もある。マスターが出したものを俺が並べたり仕掛けたりする。これくらいは俺でも出来る。
 少ししてデザート類を運んでほしいと店のキッチンから声がかかる。それに応えて何度かデザート類を持って店と渡辺家のキッチンを往復する。何だか洋菓子店のようだ。肉類は塩コショウで下味をつけてラップをかけてから店の冷蔵庫に収納された。先に肉類が出るし量も多いから、店のキッチンに近い方に収納されたわけだ。
 晶子と潤子さんの仕事が終わって、全員でテーブルを囲む。クッキーを出して紅茶をそれぞれのカップに淹れて並べただけだが、晶子と潤子さんは随分喜んでくれる。マスターと潤子さんが長く夫婦を続けて居られるのも、こういう感謝や声かけを怠らないからだろう。晶子もそれに倣おうとしている。
 準備が整った以上、後は当日を待つばかり。俺と晶子はそれぞれの役割を担い、マスターと潤子さんの協力を受けて明日のパーティーを進める。主賓であると同時に主催者でもある変わったパーティーだが、業者任せで良い式や披露宴の替わりに開催するものだ。良いパーティーにしよう…。
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