雨上がりの午後

Chapter 310 親友たちへのお披露目に向けて

written by Moonstone

「−以上で、第4セッションを終了します。」

 やってきた中間発表の日。神谷さんの終了宣言で俺は胸を撫で下ろす。前回はあいうえお順で先頭だったが、今回は何故か最後の最後になった。おかげでこの瞬間までずっと気が抜けず、緊張しっ放しだった。
 今回の中間発表は、前回と違って学部生のみが発表する。当然質疑応答でも院生のフォローはない。発表から質疑応答までまさに学部生の半年間の総決算の場だったわけだ。どうにか質疑応答もこなせたが、次から次へと質問やコメントが来るのには参った…。

「では、野志先生から総評をお願いします。」

 俺が席に戻ってから、神谷さんが司会を再開する。

「はい。学部生の単位の取得状況、そして日頃の卒研への取り組みの度合いが可哀相なくらい明瞭に反映されたものだった、というのが第一印象です。」

 口調は普段どおり穏やかだが、痛烈な皮肉が篭っている。発表が前回のものから大して変わらない=進捗らしいものが殆どないとか、質疑応答で立ち往生して聴衆の院生からフォローが出ることが頻出していたから、半年間何をしていたんだと言いたいところだろう。

「前回は卒研開始から3カ月、就職活動や院試の準備もあったので実質1カ月程度でしたから、進捗よりテーマを理解していれば良しとしました。ですが、就職活動も院試も終了し、全員の進路が確定してから遅くともひと月以上経過しています。その間の卒研の結果が前回と大差ないというのは、卒研に取り組んでいないと言っても過言ではありません。」
「「「「「…。」」」」」
「進学組でも就職組でも卒研の重要度は変わりませんが、来年度以降学部生を指導する立場になる進学組は、自分の状況で来年度から学部生を指導出来るのか考えてみてください。少なくとも修士では、中間発表でもこのようなレベルを持ち出されたら修士の学位を出すわけにはいきません。」
「「「「「…。」」」」」
「今回もやはり、安藤君、森崎君、坂東君の出来栄えが良かったです。単位を多く取っている人がより多く卒研に取り組めるためと言えるでしょう。特に安藤君の出来栄えは抜きん出ていました。流石に今夏の学会発表に出て、そのために夏休みも普段どおり出て来ただけのことはあります。名前が上がらなかった学部生は十分反省して、卒研に注力してください。…私からは以上です。」
「ありがとうございました。では久野尾先生、よろしくお願いします。」
「はい。半年が経過した卒研生活は充実していると言えるでしょうか?その問いに対する自分の回答が、今回の発表の完成度だと言えるでしょう。」

 久野尾先生も普段通りの穏やかな口調で痛烈な皮肉を込めた総括を言う。確かに、卒研を十分してなかったら、発表の内容は充実出来ない。

「卒研はこれまでの学生生活の総決算であると同時に、ある命題にどう取り組むか考えるところから始め、考えた方策で実験を行い、データを取得して解析し、その結果から以降どう進めるかを考察して行動に反映するという、仕事でも研究でも共通の基本的な流れを1年かけて体験することです。これが十分に出来ないと、来年度以降非常に苦労することになるでしょう。」
「「「「「…。」」」」」
「野志先生がおっしゃったとおり、発表の出来栄えは単位の取得度合いに比例していると言えます。もう1つ。こうした中間発表など1つの区切りやリミットに対して、自分の卒研の進捗をどうか、進捗を出すためにはどうすべきかを考えて行動するかどうかも発表の出来栄えを左右しています。言い換えれば、自分の状況を的確に把握している学生ほど、発表も充実していたということです。」
「「「「「…。」」」」」
「前回の反省を踏まえて、今回は機械的に名簿順にするのではなく、発表が期待出来そうな学生を後半に配置しました。そうして正解だったかなと思います。特に、安藤君を最後にしたのは間違いありませんでしたね。」

 場内から苦笑いが漏れる。野志先生の総評と合わせると、確かに出来が良かった3人が後半のセッションに固まっていた。その分午前中の前半のセッションは酷かった。前回、つまり7月の中間発表と大して変わらないから質問のしようはないし、テーマの内容も十分理解出来ていないと感じさせるものだったし、指導役の院生の焦りや落胆が窺える。
 前回から約3カ月で、進捗のみならず発表内容−テーマの理解度や方針を明確にしているかといったことが傍目にも分かるほど顕著になったのは間違いない。俺の場合は夏休みも普段どおり出ていたし、学会発表もあったからテーマの概要説明だけで終わりなんて出来る筈がなかったのもあるから例外的。それを除いても明らかな差が出来ていた。
 森崎、坂東の2人は確か進学組。野志先生が言ったとおり来年度は指導する側に回るし、自分のテーマを主体的に進められないようじゃ修士は無理だろう。だが、進学組は2人だけじゃない。割合では3〜4割が進学組だった筈。それがあの体たらくじゃ、来年度は大丈夫なのかと思うのも無理はない。

「卒研は折り返し地点です。半年で何処まで出来るか、進めるにはどうすべきか、院生と十分相談して主体的に取り組んでください。特に進学する人は野志先生もおっしゃったように、この状況で来年度は学部生を指導出来るだけの能力を備えているか、よく考えてみてください。私からは以上です。」
「ありがとうございました。これで久野尾研卒業研究中間発表会を終了します。ありがとうございました。」

 神谷さんの閉会宣言で安堵か落胆化の溜息が洩れる。何らかの進捗や成果を持ち寄ることを目指した今回の中間報告は、進んでいる人と遅れている−滞っていると言うべきか−人の圧倒的な格差をまざまざと示した。指導役の院生はいよいよ焦らざるを得ないだろうし、学部生は更に研究室に缶詰めにならざるを得ないだろう。
 次の中間報告は年明け早々の1月。それまでも講義はあるしレポートも当然ある。後期で単位を取り零したら最悪の事態になる。内定なり進学が決まっているなりしているからまず留年させることはないだろうが、追試やレポートは免れない。それらが卒研の追い込みと重なるから文字どおり尻に火が付いた状況になるだろう。
 何と言うか…、学会発表のために夏休みもずっと同じように出て来て、実験と解析と検証を繰り返してスライドを練り込んだのが今になって大きなアドバンテージになっていると痛感する。あの最中には「学生最後の夏休みにどうして」と思ったこともあったが、これだけの結果を出せて良かった。

「酷い目に遭ったなぁ…。」
「徹底的にやられたって感じ…。益々帰れなくなるなぁ…。」

 一旦会議室を出て学生居室に戻ったところで、他の面々が呟く。1人は神谷さんが指導を担当している。しかも第4セッションで発表だったから、神谷さんは容赦なかったな。俺の時も結構質問を向けて来たが、どうにか全部回答出来たことで納得した様子だった。
 前回との大きな違いは、指導役の院生も質問する側に回ったことだ。立ち往生したら止むなくフォローする程度だった。これだとテーマを理解して現状を把握していないと対応出来ない。おかげでテーマの進捗が少なかった前半は立ち往生する発表者−学部生が続出した。
 こうした形式は発表会が始まってから明かされた。進捗が乏しくても前回のように院生がフォローしてくれるだろう、と見込んでいたら物凄いトラップが待ち構えていた。この瞬間に頭が真っ白になった人も居ただろう。でも、少なくとも最終発表は学部生だけでするだろうから、半年を経過した区切りの中間発表としては当然かもしれない。

「段々厳しくなってきたなぁ…。楽だって聞いてて安心してたらこのざまだし…。」
「まだ久野尾研だから楽な方らしいぞ。澤田研とか堀田研とか増井研とかは、遅れてる学部生は朝から晩まで研究室に缶詰めらしいし。」
「単位もまだ取り残してるものがあるし、卒業まで徹底的にやられそうだな。」
「大丈夫だ。俺達には久野尾研5年ぶりの学会発表もこなしたフラグシップが居る!」

 パーティションの向こう側からやや芝居がかった智一の声がする。やっぱり俺に頼ろうって魂胆か…。他のテーマは概要程度しか把握してない俺に頼ろうって考えだから、今回の赤っ恥とも言える体たらくになったって自覚はあるのか?…あったらあんな結果にはならないか。

「あのなぁ…。俺も自分のテーマ以外は概要程度しか知らないんだぞ。言ってみれば素人に近い俺に手伝わせたって、進捗には大して影響しないだろう。」
「何をおっしゃる。今まで誰が聞いても必ず教えられたくらいなのに。」
「院生も実験の手法とか基礎的な部分は面倒見切れないから安藤君に教えてもらえ、って言ってるし。」
「…自分で調べて試してみてからにしろよ。」

 なるほど。久野尾研の倍率が高くなる理由が何となく分かったような気がする。研究室に詰めることにはなっても、要領良くすれば抜け道があるにはあるからだ。もっとも、それは久野尾研の方針として作られた罠かもしれない。こんな状況が院や仕事で通用するとは思わない方が良い。
 だが、院生が俺に話を振っていることが分かった−そりゃ面倒みきれないだろうが−から、どうしても俺にお鉢が回ってくるだろう。俺が出来ることと言えばせいぜい実験の仕方を指南したり怪しいところをリストアップしたり基礎理論を教えたりする程度だが、気分転換程度に対応するようにするか。
 やれやれ…。心底疲れたな。俺は研究室を出て晶子との待ち合わせ場所である図書館へ向かう。中間発表は全く問題なく終わり、少し間を置いてからのお茶会も良かったが、その後が大変だった。早速智一を含む学部生の多くから質問攻めに遭ってしまった。
 テーマを概要程度しか知らない俺に回路の不具合やソースのバグへの対処、果ては実験データの解析を言われても困る。せめて回路なら入力と出力の仕様、入力信号の周波数と振幅くらいはないと評価のしようがないし、実験データとなるとどういう条件でどこを観測したものか分からないことには分かる筈がない。
 最低限それらを揃えてから持ってくるように言っても、時間稼ぎにしかならなかった。端から頼る気満々だから、言われたとおりに仕様や条件を書き出して、グラフやソースリストと一緒に持ってくるだけ。まずテーマを聞いて、何をしようとしているのか、どういう不具合なのか聞いて、そこから検討するしかなかった。
 プログラミングにしろ実験にしろ、どうもサンプルをそのまま使ったり入出力しか測定していない場合が殆どだった。サンプルソースはあくまで評価ボードとか特定IC単独の回路でのみ動作するようになっているから、自分の回路にはそのまま適用出来ることはまずない。部品や入出力設定が全然違う回路で特定条件で動くことを条件に作られたサンプルソースが動作しないのを普通と思わない時点で首を傾げざるを得なかった。
 回路にしても、ソースリスト−マイコンだとC言語でFPGAとかだとVHDL−を見ただけじゃどんな回路なのか掴み切れない。回路図なりブロック図なり、それらがなくても−これが意外となかったりする−せめて入出力や接続のリストを作って持ってくるように言うなんて、これで良いのかと何度思ったことか。
 自分のデスクで作業をしようにも列が出来るくらいだったら、殆ど手がつけられないし図面とかを広げるには手狭。だから早々に会議室に移動して対応に専念した。テーブルは2つくっつけ、ホワイトボードにプロジェクターも動員した。テーマや回路の仕様について説明させるには紙だけじゃ分かり辛いし、それくらいさせないことには俺の気が済まなかった。
 本人がテーマや回路の仕様やトラブルの内容を理解しきれていない場合が殆どだったから、時間ギリギリまで対応したが到底足りなかった。俺はバイトがあるから明日改めて対応する、と言って研究室を出て来た。こんな有様が当分続くんだろうか。

「お待たせ。」
「お疲れ様。」

 図書館1階のラウンジの一角で、晶子は待っていた。待ち合わせ場所を此処に替えてからの日常の1つだが、今日みたいに研究室での嵐のような時間から解放された後だと本当にほっとする。

「随分お疲れのようですね。」
「そう見えるか?」
「全身から疲労のオーラというか、そういうものが感じられますよ。」
「うーん…。気配とかオーラとか、自分じゃ分からないもので人には分かっちまうんだな…。」

 これからバイトだし、引っ越しの片付けも完全に終わってないから疲れは仕舞っておきたかった。だが、その辺身体は正直に出来ているらしい。気だるいとか身体が動かないとかいうレベルじゃないが、全身が数割重くなったような感覚が続いているのは事実だ。
 兎も角此処に留まっても仕方ないから、図書館を出る。大学はこの時間になっても割と人が多い。クラブ活動もあるようだし、理系学部だと学生実験や卒研・修論が本格化するからだろう。現に工学部の研究棟は相当遅くまで煌々と明かりが灯っているらしいし。

「今日って研究室の中間発表だったんですよね?何かあったんですか?」
「中間発表自体は大成功だった。内容もスライドも文句のつけようがない、って。」

 発表内容は学会発表に使ったものの拡張・取捨選択版だし、基礎となった学会発表の分は本番前に何度かの予行演習を経て相当練られている。スライドも理論・実験手法・データ・解析結果と考察を起承転結に見立てて構成したし、見やすさを重視して作ってある。
 質疑応答でも「方針が分からない」「発表内容が理解出来ない」といった、中間発表の本題から離れてはいるが根本的なものは一切なかった。実験条件や手法、解析結果や考察についての質問だけだったから、実験をしてその結果をどう捉えているか把握していれば、異なる見解が出ることはあっても噛み合わないということはなかった。
 それらを前置きとして、俺の疲労を大幅に増やした「その後」について話す。こういうことはどうしても愚痴になりやすいから、事実と経緯だけ感情を含めないように淡々と話す。

「−こういうわけで、ちょっと疲れが溜まってしまってな。」
「大変ですね。」
「卒研はもうまとめに入って良いし、フラグシップはそうなる運命らしいし、知識を深める機会だってポジティブに受け止めるようにする。」

 中間発表後は一旦居室に戻った後会議室でお茶会があったが、その席上、俺の卒研はもう総括に入って良いと久野尾・野志両先生が公言した。発端は出来栄えの圧倒的な差を示したことへの院生の落胆や焦りと満足の総括だったが、圧倒的な出来栄えだったと称賛されて御満悦だった大川さんが、両先生に「もう卒研を区切りとして卒論に着手してもらって良いですよね?」と問いかけたら、両先生はあっさり「良いですよ」「問題ないね」と答えた。
 久野尾先生は「もう(俺の)卒研の単位を出したいところ」と前置きした上で、「来年度はテーマの担当が揃って居なくなるし、卒研は区切りとして此処までの経緯や成果を総括してアーカイブ化してもらう方が良い」と言った。野志先生も同じ考えで、「あえて他のテーマと歩調を合わせる必要はない」「研究室の資産を増やす観点で取り組んでもらえば良い」と言った。
 他の学部生からの質問や依頼の応酬は、お茶会でのこういったやり取りを受けてのものだから、「自分の卒研は実質完了したんだから手伝え」という意志があってのことだとよく分かった。その上、院生から基礎的な部分は俺に聞けと話を振っているらしいから、質問攻めに遭うのは必然的だろう。

「夏休みも頑張っただけのことはありましたね。」
「ふた月くらい先を進んだようなもんだったからな。」
「もう単位を出しても良い、って言われるくらい進めたんですから、少し大学を休んだりしても良いと思うんですけど…。」
「俺の身体が心配だから、か?」
「それ以外ありませんよ。」
「学生のうちは時間に融通をきかせることが可能だけど、それに慣れるのは4月からの生活を考えると良くない、って思ってる。」

 4月からは社会人になる。俺が通勤する高須科学は通勤に約1時間かかる。フレックスタイムはないし、特に4月から6月末までは研修期間だから、あったとしても使えると思う方がおかしい。通勤時間が約2倍になるから朝は早くなるし、この程度で暢気に重役出勤に浸らない方が良い。
 バイトも休めない。仕送りを止められたのは最早確定。月10万の減収は今までの収入の4割超えがなくなったことに相当するから、やはり大きい。バイトだから基本的に休んだ分の給料が減ってしまう。晶子と2人で生計を営む以上、自分の安直な都合でバイトを休んでのんびりしてられない。
 大変さで言えば、晶子の方が上だ。大学は確かに俺より遅いが、朝は俺より早いし朝飯と弁当を作ってくれている。大学に行くまでも2度寝じゃなく、洗濯や掃除−今は引っ越しの片づけや収納をしてから大学に行く。俺と同じ時間に大学を終えてバイトに行き、休む間もなく潤子さんとキッチンを切り盛りしてる。
 そんな姿を見ていたら、卒研がほぼOKとなったことで暢気に研究室に重役出勤したり、バイトを休んで惰眠を貪る気にはなれない。この前携帯の会社に使っていたプランの継続と、戸籍謄本の写しの提出に行った際、書類にあった「世帯主」の欄は俺だった。世帯主なら尚更、晶子におんぶに抱っこになるわけにはいかない。

「晶子が居るから俺は頑張れる。朝から晩まで働きづめでも文句の一言も言わない、一生懸命な晶子を見てたら、頑張りたくなる。」
「私は…、祐司さんと夫婦として堂々と一緒に暮らせるから、それが幸せだから、ちっとも苦じゃないんです。」
「良い相乗効果を生んでるんだな。俺と晶子は。」

 義務感や惰性じゃない、「相手が頑張ってるから自分も頑張れる」って発奮させられることは良いことだし、そういう関係は良いことだ。2人で生活していくなら、どちらかが働き者であることに依存して相手をこき使うんじゃなくて、それぞれが出来ることをして、出来ないことや手が足りないことを助け合えば良い。夫婦ってそういうもんだと思う。
 晶子と正式に夫婦になって、間違いはなかったと感じている。結婚したらいきなり豹変して、自分はぐうたらなのに稼ぎが少ないとか家事を分担しないとか文句ばかりだったり、その一方で遊び呆けて浪費三昧だったりすることはない。むしろ生活リズムや金銭感覚は磨かれている。結婚したいがための猫かぶりじゃなくて良かったとも思う…。
 バイトを終えて帰宅。俺は風呂の準備をしてから軽く引っ越しの片づけをする。晶子はこの間「お疲れ様」の準備をしている。引っ越しの片づけは、空になった段ボールを畳むことが殆ど。中身は出されて所定の場所に収納されている。晶子がこまめに動いてくれるおかげで、引っ越しは予想以上に早く収束する見込みだ。
 段ボールを畳むのは意外と手間だ。大きさもそこそこあるし、カッターで底の封印部分を切って開いて潰すにはそれなりに力も必要になる。収納場所や方法については晶子の方が秀でているし、それでも色々大変だと思って、段ボールを畳むのは俺がすると言ってある。元々段ボールはそんなに多くないから、1日数個畳めば十分追いつく。

「準備、出来ましたよ。」
「ああ、分かった。」

 畳む途中だった段ボールを畳んでからテーブルへ向かう。テーブルには何時ものとおり2つのマグカップに挟まれて手製のクッキーが置かれている。マグカップを手にとって軽く合わせて「お疲れ様」。1日の終わりを感じながら寛ぐ貴重な時間だ。

「今日、お昼に大学のATMで確かめたんですけど…、どうやら確定と見て間違いなさそうです。」
「2人揃って、だな。」

 少しして晶子が切り出したことは、昨日の時点で恐らく間違いないだろうと思っていた。晶子の仕送りも今月で止められたということだ。俺の仕送りは月初で晶子の仕送りは月半ばくらいだが、どちらも1週間ほど過ぎても口座にない。俺は前に確定しているし、それに晶子が加わった。
 これで俺と晶子の収入は双方のバイト代のみになった。晶子の仕送りも月10万ほどあったから、今月から一気に約20万の収入が消えることになる。こういうことの手回しが早いのが両方の両親で共通してるなんて嫌な偶然だが、それは俺と晶子の結婚を兵糧攻めで破綻に追い込むつもりと見て間違いないだろう。

「変な良い方かもしれないが、これで良いと思ってる。仕送りをしているから言うことを聞け、って言われる余地がなくなったんだし。」
「私もそう思ってます。世間体を殊更気にする私の両親が、こうも早く対抗手段に打って出るとは思いませんでしたが。」
「こうなると改めて、2人揃って浪費タイプじゃなくて良かったとも思う。」
「本当にそうですね。」

 正直、学生のうちの結婚強行で仕送りが打ち切られることは予想していた。結婚したんだから自分達だけで何とかしろ、ということで。現に俺の実家に報告に行った時、父さんはそんな口ぶりだった。それが早速仕送りの打ち切りという形で表面化したわけだ。
 俺も晶子も浪費タイプの正反対。特に晶子と一緒に暮らす時間が長くなるにつれて、生活費が同一かつ効率的になった。特に食費と光熱費が共通になったことは大きかった。元々自炊じゃなかった俺が幾分出費するだけで3食全て豊かになった。晶子は逆に食費を減らせて、その分が貯金に回った。
 バイト代が破格なのもあって、固定費の家賃と共益費を除いた仕送りの殆どとバイト代の多くが口座に蓄積されていき、揃って4年次の学費を出しても尚余裕があった。月10万×2がなくなるとは言え、それでもまだ約16万×2が収入として存在する。2人の生活なら十分余裕がある。
 しかも今月から家賃と共益費が完全に1つに集約された。月約5万が2等分できる。更に食費も光熱費も2等分となれば、物凄くざっくりした計算でも最低限必要な生活費は約10万程度。学費は払ってあるから、残りは完全に貯金出来る。仕送りがなくなったことは貯金の額だけが減るだけで、それでもまだ余裕がある。
 俺がバイトを続ける理由は、今月からの仕送りの打ち切りで目減りする収入を更に目減りさせたくないこともある。俺が1時間減らせば週約1万、月約4万の減収になる。16万×2から4万の減収は大きい。卒研が実質完了となった以上、バイトの継続は俺と晶子で構成される安藤家の金銭面での基礎として至上命題と言っても過言じゃない。

「こうなってみて、改めて祐司さんと正式に夫婦になれて良かったと思います。独りのままで…実家に戻されるために仕送りを止められたら…どうなっていたか…。」
「キリスト教式−何処まで本当か分からないが、その結婚式で神父の前で、苦しみを分かち合い、とか言うのは、あながち間違いじゃないな。」

 約16万×2はそのまま手取りになっている。学生だから確定申告はしなくても税務署が乗り込んでくることはまずないだろうが、その額はある程度の規模の企業で何年かの勤続がある社会人の手取りに匹敵すると思う。その上で生計が完全に同一になったことで1人当たりの額がほぼ半分になった。家賃と共益費を払っても十分な余裕が出来る。
 俺は大学に入ってから縁がなくなってるが、ゲームのRPGでパーティーを結成するのが普通なのは、相互補完と生計費の低減のためだと思う。いくら勇者が万能だと言っても、1人で多数の敵モンスターを相手にするのは厳しい。ましてや強力な攻撃で大ダメージを負ったり、毒や麻痺で満足に攻撃出来なくなるとゲームオーバーが近づく。
 戦士が居れば攻撃が頭数だけでも倍になるし、戦士にパーティー全体を護らせることも出来る。僧侶が居れば傷の治療や状態異常の解除が出来る。魔法使いが居れば遠距離から安全に攻撃したり、一度に多数を攻撃することも出来る。最低1人残れば街に戻って生き返らせることも出来る。そういった相互補完や代行で幅が広がるし、生存の可能性が高まるからパーティーを組むんだと思う。
 ゲームだから簡単に生き返ったりする非現実的なところもあるが、パーティーを組むことと夫婦や家族になることは共通項が多い。1人なら自分が倒れたら復帰はかなり難しくなるが、2人ならどちらかが助けたり支えたりすることが出来る。病める時も、の件はそういう間柄になることを誓わせるためだと思っている。
 俺が結婚式をしたくないし、晶子にその意向がないことで安心しているのは、「病める時も〜」のくだりがあまりにも現実と乖離しているからだ。どれだけああいう結婚式が華やかで一般的なものになっても、実際問題そういう結婚式をしたであろう年代−俺と晶子も含まれるが−の離婚率は高い。あの誓いやあの結婚式は何だったんだと思う。
 その世代以外でも、夫がリストラで収入が減ったり失職したり、病気になったりしたら離婚して、文字どおり身包み矧ぐようなことをやらかす熟年離婚とやらも隆盛している。若い世代の「病める時も〜」をその世代が笑う資格はない。何せその世代は結婚式や披露宴がもっと厳粛で、親族を多数動員して盛大にしていた夫婦が多かったんだから。
 親族を動員しての結婚式や披露宴に興味がないのは、従兄の披露宴の記憶もあるし、そういった離婚の事情と結婚式の乖離がある。だったらそういった形式的な、しかも安くもない費用をかけて親族や友人を動員してまで行う儀式をすっ飛ばして、費用を生活の構築や整備に向けた方が良いと思う。

「式や披露宴はしないとして、ごく親しい友人とかには通知って言うのか?そういうのを送っておこう。」
「そうですね。でも私の場合、今の大学に入るまでずっと地元で、その地元と完全に離れましたから、送る相手が居ませんね。」
「俺は…バンド仲間くらいか。葉書代が安く済んで良いんじゃないか?」
「それもそうですね。その分きちんと作ってお知らせしましょうよ。」

 引っ越しも随分落ち着いてきたし、あっという間に退去と引っ越し→入籍へと進めて来たから、バンド仲間への連絡が後回しになってしまっていた。就職や進学を控えてるから新居に招待したりするのは無理だろうが、1つの区切りを迎えられたってことは伝えておきたい…。
 1週間後の夜、バイトを終えて帰宅してから携帯の着信番号に電話をかける。3回目が終わったところでコール音が切れる。

「祐司か。バイトが終わって帰宅したってところか。」
「ああ。バイト中だと何時終わるか分からないから出られなくてな。」
「電話があったという記録が明確に残るのが、携帯の着信履歴の長所だ。バイトを中断してまで出る必要はないし、バイトが終わって帰宅してから電話があると思っていたから、それで良い。今は良いのか?」
「大丈夫。」
「そうか。通知を受け取ったことを知らせることが第一だ。前みたいに全員が立て続けに電話すると相手をするのが大変だろう、ということで、俺が代表して電話することにした。」
「全員に届いたんだな。」
「卒業してからだろうと思っていたから少々驚いたが、調べた限りでは新京市の中で良好な住環境のようだな。晶子さんとの新生活には幸先が良い。」
「調べた、ってどうやって?」
「今はインターネットっていうものがある。地図は勿論、その地域の評判も多数存在する。もっとも玉石混合だから精査は必要だが。」

 役所に出向いたり、興信所を使ったりしなくても、色々なことがネットを介して調べられる。何処かのサーバにあることが前提条件だが、様々な情報がこうしている間も続々上げられている。そしてそれらはほぼ永遠に残る。今後はネットに掲載されていないことは事実でない、存在しないと見なされる時代になるんだろうか。

「式と披露宴はしてないと見て良いか?」
「そのとおり。2人して荷物を整理して新居を契約して、引っ越して婚姻届を出した。それだけと言われればそれだけだな。」
「実生活を重視したわけか。俺としてはその方が賢明だと思う。思い出は大事だがそれで生活してはいけない。それより4月からの新生活に備えて、足場を固めることを優先すべきだろう。その新生活だが、祐司と晶子さんはどうなったんだ?」

 俺は少々躊躇うが、何時もの体勢で俺の腕の中にいる晶子に確認を取ってから話す。俺は研究室と就職担当の教授の紹介と推薦ですんなり高須科学に決まったが、晶子は全滅。最後の頼みの公務員試験も全滅で、今の店で働き続けることを選んだ。正直話すのは気が重い。

「−というわけ。」
「そうか。学部学科の落差というのもあるし、男女の落差も大きいな。俺の大学でも同じような感じだ。大卒の女子学生は極力採用しない。説明会でも何か難癖をつけて追い返す。こういう事例は表に出て来るだけでも結構ある。例外は有名大学の理系くらいだ。」
「そういえば…、俺の学科でも聞かないな。」
「晶子さんの場合は、分かりやすい目印があるからな。社員の嫁候補が欲しいところに既婚者が来られても無意味だし、追い返す口実を持って来てくれたようなもんだっただろう。」
「…。」
「もっともそれは晶子さんの意志なんだし、世代交代や継承を考えない採用をしている企業の問題だ。晶子さんが悪いとはさらさら思ってない。むしろ、晶子さんと新婚早々別居することにならなくて良かったと思う。祐司にとっても晶子さんにとっても、な。」

 そう…かもしれない。何れ産み育てる子どもを万全の環境で迎えたい、それを俺に依存したくない、ということで働ける限りは働く、そのために別居する可能性が生じることも許して欲しい、と頭を下げてまで頼まれたことで了承したが、別居することへの不安がなかったわけじゃない。
 晶子は申し出に際して、万が一自分が浮気をするようなことになったら、離婚は勿論いかなる制裁も受けること、そのために書面を作っても良い、と言った。書面を作るのは実際に決まってからでも遅くないとして、別居から心に距離が生じて破局に繋がるのでは、という不安はあった。それはやはり過去の経験があったからだろう。
 浮気はしないとして、別居ということになったら交通費もかさむし、何より俺は生活面で大きく品質が低下することは避けられない。食事だけでなく、効率の良い家事運営で広くなかった俺の前の自宅は綺麗で整理された状況が保たれていた。それは俺の良好な健康状況にも密接に関係している。別居となったら新社会人としての生活と自分の家の環境の維持を両立できたか甚だ怪しい。

「結果として晶子さんは祐司と婚姻届を出して正式に夫婦になれたんだし、新居にも移れたんだ。晶子さんにとってはその方が良かったと思う。無論、祐司もな。」
「そう…だと思うようにしてる。」
「就職に関する話はこのくらいにして本題に戻る。式と披露宴はしてないそうだが、する予定はあるのか?」
「披露宴はしない。式は…卒業してから結婚写真くらいは撮ろうと思ってる。」
「親族の見栄とメンツの張り合いになる旧式の式や披露宴は無用と思うが、同窓会がてら集まって会食とかをするってのはどうだ?」

 会食、か。量は少ないし肌馴染みも少ない披露宴の料理より、俺のような若い年代の胃袋を満足させられるような量と質を両立することも出来る。披露宴はスタッフの人件費もあるから一概にコストパフォーマンスが悪いとは言えないが、退屈なスピーチや関係者以外には意味不明の余興を見せられながら摘まむような感覚は避けられるだろう。

「会食はあくまでも一例だが、俺と渉は院に進学で、祐司と勝平と宏一は就職で、分野も場所も当然違うから会う機会は限られてしまう。」
「宏一も就職が決まったのか?」
「夏に決まった。あいつらしいと言うか、外資系のコンサルタント会社に飛び込んで行ったら採用になったそうだ。だから、面子は全員進路が確定したってわけだ。」
「そうか。この前耕次と話した時は宏一だけまだ決まってなかったから、どうかと思ってたんだが…。」
「あいつのバイタリティなら世界が終わらない限り生きていける場所はある。そういう事情もあるから、俺達くらいには顔見せ出来る機会を作ってもらえないか、と思ってな。」

 それは言えてる。大学でさえ、面子と顔を合わせたのは成人式と3年の冬の旅行の2回だけ。環境が変われば時間や都合を合わせることが難しくなることがよく分かる。就職や進学となれば更に合わせ辛くなる。まとめ役をするのも大変だし、まとめられる側も他との兼ね合いで調整する必要に迫られるだろう。
 社会人となれば更に状況は複雑になる。勤務形態も様々だし、休日の存在や休暇の取りやすさも異なる。そうなると5人全員揃うのは何年かに1回とかのペースになりかねない。だったら、全員の進路が確定した今、卒業までに一度くらいミニ同窓会を兼ねて集合するのも良い。
 今までこうした集合のまとめ役は耕次だった。バンドのリーダーだったし、耕次の取りまとめや調整の上手さは抜きん出ていた。だが、耕次は院に進学するし、司法試験の準備も本格化してくるだろうから、耕次に頼れなくなるだろう。今度は俺が調整役を担うべきかもしれない。

「…何時頃実施すれば良いとか、そういうのはあるか?」
「卒研の動向次第か。祐司も分かるだろうが、勝平と渉は卒研が忙しい。特に渉は実験そのものに時間がかかる理学の化学だからな。とは言え、卒研ならまだ他人任せでも何とかなる部分もある。勝平と渉がそうだとは思わないが、そういうレベルだから時間を融通することは十分可能だろう。」
「まだ引っ越して間もないし、時期を考えて改めて連絡しようと思う。」
「それで十分だ。面子への窓口は話を持ちかけた俺が担当する。考えてみてくれ。」
「分かった。」
「結婚自体祐司が一番乗りだ。俺達が出来ることは大してないが、結婚したくなるくらい幸せになってくれ。」
「ありがとう。皆にもよろしく伝えておいてくれ。」

 耕次との通話を終了する。この結婚にあたって双方の両親との軋轢や衝突は十分考えていたし、実際に直面もした。それ以外の方面への挨拶や紹介は葉書での通知しか考えてなかったな。多くの客を呼んで盛大に祝福される結婚じゃないと思っていたし、金に任せてわざわざそうするつもりはない。だが、ごく親しい人を招いて挨拶や披露の場を用意することは、決して悪いことじゃない。
 俺は、直ぐ目の前にいる晶子に耕次との通話について話す。面子への披露を兼ねた会食とかをするかどうかは、最終的には俺と晶子の合意のうえでの決断になる。俺の親友ではあるが、俺だけで進めて良いもんじゃないし、進められるものでもない。最初の段階で話しておく方が「そんなこと聞いてない」という軋轢を生まなくて済む。

「−そういう話なんだが、どうだ?」
「良いお話だと思います。そういうところ、本田さん達らしいですね。」
「半分は、新婚家庭見たさってのもあるかもしれないが。」
「それでも、集まって祝いたいって気持ちがあるんですから、嬉しいですよ。私にはそういう宛はありませんし…。」
「…ゼミで仲が良い人を呼んでみるか?」
「そうですね。来てくれるかどうかは期待出来ませんけど。」

 婚姻届の提出、新居への引っ越し、俺との新婚生活の開始、と自分の願いが立て続けに成就したから、誰かに祝福されたいという気持ちは出て来るだろう。だが、晶子のゼミでの生活は決して良好とは言えない。学業の面では晶子の今までの努力の甲斐あって申し分ないが、人間関係はかなり悪い。
 俺がゼミの学生居室に迎えに行くことから図書館のラウンジで待ち合わせをするようになったのは、晶子の申し出に因るものだが、その背後には悪化する人間関係が渦巻くゼミの学生居室に俺を入れたくないという気持ちがあったんだろう。それまで心労で寝込むこともあったほど、助教になった田中さんに宣戦布告を受けたのも大きい筈だ。
 口ぶりからして、まだ若干ではあるが交流がある人も居るようだ。全員を呼ぶ理由はない。呼んでも来ないだろうし、わざわざ嫌がらせに来ることも考えられる。第三者から見れば徒労でしかないようなことだが、嫌がらせで他人の幸福を破壊すれば良い、それどころか単に嫌がらせをすることで満足する輩も居るには居る。そういった嫌な可能性を増やす必要はない。
 俺とて、婚姻届の提出自体は久野尾先生に報告したし、その後野志先生にも報告した。それで十分だと思っているから、研究室の人達を呼ぶつもりはない。俺の場合はやっかみの方が多い気がするし、卒研の進捗と単位の取得状況からして、他人の早い結婚を祝う気になれないだろうし。

「会食っていうと大袈裟な雰囲気になりますし、同年代の人が集まるんですから、立食パーティーみたいな方が良いかもしれませんね。」
「それはそうだな。堅苦しくしたくないし、会費を集めるにしても安く出来るだろうし。」

 晶子も面識のある人を集めての食事会には乗り気のようだ。会場の候補から絞り込み、手配、食事内容の考案などすることは多い。だが、こうしたことでまだ気兼ねなく遠方の友人を呼べる機会は限られている。本当に夫婦となった俺と晶子の対外的な共同作業として、取り組んでみる価値はあるだろう…。
 時は流れて早12月。駅前やショッピングセンターあたりがクリスマス一色に染まった。年末が近づき何かと慌ただしくなるこの時期、俺と晶子も結構忙しい。クリスマスを過ぎてから結婚報告パーティーをすることになったからだ。
 場所は色々考えたが、結局バイト先の店に落ち着いた。定例のクリスマスコンサートを開催してからなら終日貸し切りもOKで、場所代は無料となれば借りない手はない。駅からも分かりやすいし、招待状とかにも書き易い位置にある。紹介されてくる客の中には駅から歩いて来る人も結構多いくらいだからな。
 招待したのは、俺の側は俺の高校時代のバンド仲間である耕次、勝平、渉、宏一、そして智一。晶子の側はゼミで仲が良いという5人。全員来るとして招待客は10人という随分小ぢんまりしたパーティーだが、大規模にするのが目的じゃないからこのくらいで良いと思っている。
 料理の準備の都合上、出欠の締め切りは開催半月前の今週末にしてある。今のところ俺の側は全員出席の返事が届いている。晶子の側は届いた人同士で相談しているのか、返事はゼロ。智一も送って数日後に返事が来たのは少々驚いたが、「楽しみにしてるぞ」と研究室で言われている。
 開催日はクリスマスコンサート明けの月曜休みを挟んだ27日。それが終わったら店は年末年始の休みに入る。マスターと潤子さんも準備には全面協力してくれるが、出来る限り俺と晶子ですることにしている。目玉の料理は晶子と潤子さんが手分けして作るから、その準備の都合が締め切りと関係している。

「祐司さん。1つお願いがあるんですけど…。」

 締め切りまであと3日となった水曜日のバイト終わり。「When I think of you」をBGMにしての「仕事の後の1杯」の席上、晶子が話を切り出す。

「私側の招待客の人に、祐司さん側の招待客の概要を教えて良いですか?その…、祐司さんとの間柄と現在の大学とかを。」
「良いと思う。そういったことを隠したがるタイプじゃないし。でも、間柄って今回は親戚は一切呼んでないから、高校の同期としか言いようがないな。」
「変な言い方なのを承知で言いますけど…、祐司さん側の招待客の皆さんのステータスを知れば、私側の招待客は出席する踏ん切りがつくんじゃないかと思って…。」

 なるほど、そういうことか。耕次達は分野こそ様々だが、全員有名大学と難関大学の両方を満たす大学の卒業を控えている。更に、1人は弁護士か検察官候補、1人は次期社長候補。他も大学や企業の研究者や経営コンサルタントなど結構な職業になる可能性が高い。様子見か何かで返事を出し渋っているところに、そういう面子が来ると知れば合コン感覚で行こうという木になるだろう。

「良いんじゃないか?合コン感覚になっても。ステータス狙いで近付いてもそれが面子に通用するかどうかは分からないが。」
「はい。じゃあ失礼ですけど、皆さんの概要を使わせていただきますね。」
「晶子ちゃんのゼミの子達って、男性のステータス狙いのタイプなの?」
「少し聞いてみたんですけど、旦那側−祐司さんの側はどんな男性が来るのか分からないのがネック、なようなことを言っていて…。」
「高年収なり社会的地位の高い職業なり、そういう男性と結婚すると自分も社会的地位が高まる、と考えるあたり、まだまだ青いね。」

 マスターはさらっと皮肉を言う。だが、実際そんなところだろう。晶子もそういう考えがあって、その考えで出席に向かって動かせると見ているから今回の話を持ちかけたんだろうし、図星の連続を男女差別とか言われても説得力は皆無。言い逃れでしかない。

「んー。そうかしらねー。」
「潤子?」
「ないものねだりをしてるのよ。自分には高年収も社会的地位の高い職業も得られる見込みはないから、祐司君のお友達がそれを掴めそうだと見たら寄ってくるだけ。お子様そのもので可愛いじゃない。」

 潤子さんの皮肉はマスターの上を行くものだ。これを面と向かって潤子さんに言われたら、ほぼ言い返せないだろう。女性は初対面で相手が自分より格上か格下かを瞬時に判断して、格下には徹底して見下した態度を取るが、格上には徹底的に卑屈になる傾向がある。
 その格上格下の判断は、夫の収入や社会的地位も多分に含まれるらしい。これはマスターの皮肉に理由を見いだせる。夫の収入や社会的地位が自分の地位と見る向きがあるから、夫の収入や社会的地位が自分の方が高いと、自分が格上となるし逆なら格下になる。こうした優劣とそれに基づく見栄の塊が、所謂「ママ友」付き合いだと言われる。
 そういう感覚が男性には全くないとは言わないが、自分の地位や収入を比較対象するのと、自分の夫の地位や収入を比較対象にするのは意味が違う。後者は「他人の褌で相撲を取る」ことそのものだし、その思想背景で締結される関係に「友」が入るんだから、何の冗談だと思う。

「晶子ちゃんは何としてもその子達に来てもらいたいの?」
「私が案内状を出したのはその子達だけですから、出来れば来て欲しいんですけど…。今日の話を出しても返答がなかったら諦めます。」
「それが良いわね。強引に連れて来た子が祐司君のお友達を露骨に品定めするようだと、晶子ちゃんに加えて祐司君のお友達の心証が悪くなるから。」
「やけに棘があるな、潤子。」
「そうかしら?男女平等だのジェンダーフリーだの女性の時代だのに乗せられて、女性の弱さを利権にする旨みに溺れてる癖に気に入らない男性を蔑んで強いと思い込んでるお子様は、早いうちに痛い目に遭っておくのが良いと思うだけよ。」
「耳が痛い話ですけど、そういう面があるのは事実ですからね…。」

 潤子さんの言葉にはかなり棘がある、否、相当刺々しいが、言っていること自体は間違ってないと思う。現にそういうタイプの女には京都旅行中にも出くわしたし、晶子のゼミで俺の評価が芳しくなかったのも同様の理由だ。結局、俺が早々に就職を決めたりする中で評価は変わっていったが、それは俺の性格とか言動とかを知ってのことじゃない。
 晶子が招待状を出した友人がどんな人かは聞いていないが、純粋に晶子を祝福するつもりで居るとは思えない。体の良い合コンになってあわよくば、という気持ちがあるんだろう。面子がその考えに引っ掛かるかどうかは分からないが、渉あたりはそっぽを向くだろう。「a fool men's brain holds no meaning」と言い放ったことがあるくらいだし。

「祐司君は、晶子ちゃんの招待客について何か知ってるの?」
「晶子と同じゼミの女子学生、とは知ってます。招待状も見ましたから。来るか来ないかは本人次第ですね。」
「祐司君のお友達は、ある意味品定めされるようなことになるけど、どうなの?」
「全員、そういったことは大なり小なり経験してますから、今更取り立てて言うことはないですよ。1人は鼻の下を伸ばしそうな気もしますが、その手の考えは直ぐ分かるんじゃないでしょうか。」

 前の卒業旅行を兼ねた奥濃戸旅行でも、即席の合コンがあった。巧みに声をかけて即席合コンに持ち込んだ宏一の行動力と口の上手さは大したもんだが、先に宿に帰った俺と晶子−女にあからさまに貶されて腹が立っていたのもある−を除いて、女の飲み食い分を全額払わされる羽目になった。
 もっとも、宏一自体そういう女と分かっていて合コン開催に持ち込んだ面もある。いくら払わされたのかは聞いてないが、「この程度の金で一時楽しめるなら良い」という割り切った、ある意味冷めた考えもある。化かし合いみたいな感じもするが、そうと分かっていて行動するんだから、宏一を咎めることはしない。

「もう祐司君の友達の進路は決まってるんだよね?」
「はい。進学が2人と就職が3人です。」

 面子の進路は前に耕次に聞いたとおり。智一も予定どおり親の会社に就職する。院試の準備も就職活動もしてなかったことを訝る向きもあったが、就職先が親の会社、しかも不動産管理を始め多彩な事業展開をする企業グループの総本山だと分かって、すんなり納得された。
 智一は親の会社に入るから将来安泰、将来は企業グループの頂点、と捉えられやすい。しかし、智一から聞いている実態は決して甘くはない。智一は兄さんと姉さんが1人ずついる末っ子で、兄さんと姉さんは既に親の会社で役員候補として働いている。単純に考えて数年はアドバンテージがある。
 企業グループの総本山だから、そこがしっかりしていないと総崩れになる危険もある。赤字満載で業績回復の見込みがないとなれば、他のグループ企業の利益が穴埋めに消えるだけになりかねないし、そうなる前に切り捨てる判断を求められる。時に非情な判断をしてもグループ企業が離反しないだけの信用や手腕が、総本山の役員には求められる。
 だから、単純に親の会社に入れば世襲で役員になれる、というほど甘くはない。親の側は子どもに役員としての力量がないと見切れば有能な「外様」に継承するのが当然、というスタンスだと言う。それが企業本来の姿だが、そんな中でアドバンテージがある兄弟とも競争して役員に就任するのはかなり厳しいと見ておくべきだろう。
 パーティーの場で合コンみたく自己紹介となった際に、一番食い付きが良さそうなのは耕次と智一だと思う。耕次はどうか分からない部分もあるが、智一はかなり遊び慣れている。だから、将来の企業グループ社長と思って食いついても体よく遊ばれて終わりだろう。これも化かし合いみたいだが、それこそ潤子さんの言葉を借りるならその手の輩は痛い目に遭っておいた方が良い。

「締め切りまで3日あるし、その結果を待って準備や対策をすれば良いだろう。」
「そうですね。どのみち5人は確定ですし、他にも準備することはありますから。」

 結婚報告パーティーでは、会場の準備−テーブルの配置や料理の内容といったことは、俺と晶子で決めて主導することになっている。それに、俺と晶子の衣装の手配とかもある。招待客にはこちらがメインとなりそうな気がしないでもないが、あとひと月もないから締め切りの結果をやきもきするだけじゃいられない。
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