雨上がりの午後

Chapter 48 年の瀬の食事の準備、そして回想

written by Moonstone
Special Thanks to Mr.くのっくす


 俺は晶子と並んで天ぷらの準備をする。
まずは晶子の詳細な解説付きの「お手本」を見て、それから実際に自分でやってみる。だが、これがなかなか思うようにいかない。
最初の「課題」となった海老は殻こそ剥けたものの、背腸(せわた)を取るのが難しい。1匹目は包丁が深く入りすぎて半分ほど真っ二つになってしまった。

「うっ、ミスった・・・。」
「祐司さん。包丁は先端の方を使って、軽く切り込みを入れれば良いんですよ。」

 晶子は自分の手を休めて、尾の関節一節を除いて殻を剥いた海老を持っている俺の左手と包丁を持った俺の右手を包み込むように掴む。
柔らかい感触が手の甲全体に伝わる。

「力を抜いて下さいね。」
「ああ。」

 俺の両手が晶子の手に操作されてゆっくりと動く。
俺の両手の動きは晶子に任せて俺はどうやって晶子のように出来るのか、そのプロセスに神経を集中させる。

「まず海老の頭の方を、親指と人差し指で挟むように両横で軽く持って下さい。今の持ち方だと海老どころか、
祐司さんの手にも包丁が入っちゃいますよ。」

 確かに晶子の言うとおりだ。この状態で包丁を入れたら海老は勿論、自分の指まで切り込みを入れてしまうことになる。
先端の方に刃を入れる、ということで海老の先端を覆うように掴んでいた左手を動かして、晶子に言われたとおり親指と人差し指で軽く挟むように持つ。

「・・・これで良いか?」
「ええ。それで包丁の先の方をこうやって海老の頭の方へ持っていって・・・。」

 包丁を持った俺の右手が、ゆっくりと海老を持つ左手に近付く。
そして包丁の先端が海老の頭側の先端に翳される。

「ここで先の方に少し包丁を入れるんです。あくまで先端だけ使って、切った部分が広がる程度まで・・・。」

 晶子に操作されている俺の手が、海老の頭の先端に包丁を入れる。
包丁は先端の鋭い部分が海老の中に入ったまま、海老の背中をなぞるように少しずつ下へ向かって動く。
1cm程切ったところで包丁を持った右手が止まる。

「これで良いです。あとは包丁を置いて背腸を取り出せば良いんですよ。」
「ああ、分かった。」

 俺は包丁を俎板の上に置こうとするが、右手を覆っている晶子の手はまだ離れない。無論、海老を持っている左手もそうだ。

「・・・あのさ、晶子。」
「はい?」
「もうここまで来たら、晶子は手を離して良いんじゃないのか?」
「まだ最後まで終ってないから、離すわけにはいかないですよ。」

 ・・・どうやらここからは、晶子の極めて個人的な事情で、それも俺が充分過ぎるほど良く分かる事情で手を離さないらしい。
俺は晶子の手がくっついたまま包丁を置いて、切り込みから見える細長い褐色の糸状の物体、即ち背腸をゆっくりと取り出す。
今度は上手くいった。ここでようやく両手を覆っていた晶子の手が離れる。

「あとはお腹の方にある筋に切り込みを2箇所入れて、背中を軽く押さえて海老を平たくなるように形を整えてくださいね。」
「分かった。」

 俺は背腸を取った海老を平たく整形して、氷水と小麦粉を混ぜた粘性が高めの衣に浸す。
程なく海老の下準備が出来あがり−図体が大きめで数の少ないパックを買った−。次は薩摩芋の番か。
二人分ということで買うときに大きさを入念に選んだから、それ程大きくない。

「祐司さんはその薩摩芋を切ってくれませんか?」
「ああ。そのまま縦に輪切りすれば良いのか?」
「それだと大きさがバラバラになりますから、出来るだけ均等な大きさになるように斜めに切って下さい。」
「出来るだけ均等に、か・・・。」

 俺は自分から見て水平に置いてある薩摩芋を右上がりに傾けて、切る様子を想像する。
多少大きさに差が出るのは仕方ないが、輪切りにするよりはずっと大きさが均等になると予測できる。

「あ、それと厚さは5mmくらいに抑えてくださいね。厚過ぎると火が中まで届かなくて硬くなっちゃいますから。」
「うーん・・・。分かった。やってみる。」
「お願いしますね。私はかき揚げの準備をしますから。」

 晶子は玉葱と人参を冷蔵庫から取り出して、俺の隣で皮を剥き始める。
やっぱり自炊しているだけあって、その動作には無駄がない。人参の皮もするすると剥けていく。
 ・・・おっと、晶子の様子を見とれている暇はない。
俺は頭の中で均等の厚さに切れるようにイメージしながら、慎重に最初の包丁の位置を考える。
此処でこの角度・・・否、もっと傾けた方が大きさが均等になるか?・・・どうだ?

「祐司さん。」

 晶子に呼ばれて俺はびくっと体が大きく振動する。驚かされたような気分だ。
呼吸は荒いし、心臓もかなり激しく脈打っている。

「そんなに緊張しなくて良いんですよ。」
「何処からどういう角度で切れば良いのか分からなくてな・・・。」
「端の方で厚くて小さくなっちゃったものは捨てても構いませんし、大体5mmくらい、の感覚で切ってもらえれば。」
「そ、そうなのか・・・。」
「機械じゃないんですから、全て均一に切り揃えるなんて無理ですよ。それに、失敗しても気にする必要は全然ないですから、安心して切って下さいね。」

 晶子のアドバイスで、体の強張りが解けていく。やっぱり晶子は良い女、否、良い人間だ。俺にはあまりにも不釣合いなほど・・・。
俺が晶子に「Fly me to the moon」の指導をしてた時は、こんな穏やかなアドバイスじゃなかった。キツい言い方しか出来なかった。
あの時は優子に一方的に捨てられてからまだそれ程間もなくて、その上、晶子にはストーカー並に追い回されて、
挙句の果てに俺と同じバイトを始めて、さらになし崩し的というか強引というか、そんな形で「Fly me to the moon」の指導役になってしまって、
晶子のことを疎ましく思っていたとはいえ・・・。

「・・・あの時は・・・本当に悪かったな・・・。」
「え?あの時って?」
「晶子に『Fly me to the moon』を教えてた時だよ。晶子みたいにもっと親身になって教えてれば、晶子を傷つけなくて良かったのにな・・・。」

 今思えば、晶子にあの時の言い方は酷かった、とか責められても絶対に文句は言えない。
あの時に言ったことを自分が言われたらもっと丁寧に言えないのか、などと言い返すか、練習を放棄すると投槍に言い捨てて
練習そのものを打ち切るかのどちらかだろう。

「あの時のことは、少しも気にしてませんよ。」
「え・・・?」

 だが、晶子は俺の予想に反することを言う。
意外に思って晶子を見ると、その顔は口元に笑みを浮かべてはいるが、叱責の情念は全く見えない。

「私は音楽を聞くことは知ってても歌うことは中学の授業以来全く経験がなかったですし、その上、楽譜も読めないとなれば、
祐司さんがどう教えるか困るのは当然だと思ってました。」
「・・・。」
「それに私自身、借りたCDの歌い方や音程と全然違うことが分かってましたから、祐司さんに何度も叱られたのも当たり前でしたし、
その度にもっと上手く歌えるようになるんだ、って発奮したんですよ。」
「・・・。」
「ほんの少しだけ、もうちょっと穏やかに言ってくれないかな、って思ったことはありましたけどね。」
「そりゃ・・・そうだよな。」
「でも、あの頃の祐司さんはあんなことがあって間もなかったですから、女の人に不信感を持ったり情緒不安定になったりするのは無理もないですよ。
私も同じような経験しましたから、あの時の祐司さんの気持ちは少しは分かるつもりです。」

 何て言って良いか分からない。分からないから・・・余計に心が温かくなってくる。
目頭が急に熱くなってくる。俺は何度も目を瞬かせて、溢れ出そうな感情の水位をギリギリのところでどうにか抑え込む。

「・・・ありがとう・・・。」

 今の俺では、そのたった一言しか言えない。そんな自分がもどかしい。
でも、そんな俺に、晶子は柔らかい微笑を浮かべて見せる。その微笑が眩しくてたまらない。

「どういたしまして。さ、準備を続けましょうよ。あんまり夕食が遅くなると年越し蕎麦が食べられなくなっちゃいますから。」
「そうだな。よし、続けようか。」
「はい。」

 俺と晶子はそれぞれの役割を再開する。
適度な厚さになるように薩摩芋に包丁を入れる俺。かき揚げに使う人参の皮を剥いてそれと玉葱を切る晶子。
今年最後の夕食の準備は着々と進んでいく・・・。

 最後に残っていたかき揚げ一つを食べて、俺の食器は全て空になった。

「「ご馳走様(でした)」」

 俺より少し前に食べ終えた晶子は食後の挨拶を済ませると、二人分の食器を重ねて流しに持っていく。
自分の分くらいは運ぼうとしたが、それより先に、それも手早く重ねられたのでどうしようもない。
 晶子は食器を流しに持っていって戻ってくると思いきや、俎板を洗って布巾でさっと水分を取り除いてから、
冷蔵庫の中から林檎を−昨日の買出しで買ったやつだ−を二個取り出して俎板の上で四分割して、芯を取り除いて皮に何度か包丁の刃を入れる。
そして食器棚から小さめの皿を取り出して、切った林檎を四個ずつ盛り合わせてそれぞれ爪楊枝を一本ずつ刺して持ってくる。
皿に乗っているのは所謂「兎さん林檎」というやつだ。

「はい、どうぞ。」
「ああ、ありがとう。」

 昨日もこの「兎さん林檎」を食べたんだが、見たときはちょっとびっくりした。こんな形状の林檎を食べるのは小学校以来だったからだ。
晶子曰く「ただ四等分して芯を取っただけじゃつまらないじゃないですか」ということだが・・・昨日より見慣れたとはいえ、やっぱり少々気恥ずかしい。
綺麗に出来ているから食べてしまうのがちょっと惜しい気もするが。
 ふと時計を見ると19:00を過ぎたところだ。四つの「兎さん林檎」はあと一つを残すのみとなった。
テレビは俺の正面やや右側と晶子の後姿やや左側、そして俺の背後にある壁をぼんやりと映すだけだ。
この時間帯は各テレビ局が歌番組を始めて間もない頃だが、それには興味がないから見ない。晶子も興味がないのか「テレビ見ませんか?」とは言わない。
 今もそうだが、思えば俺と晶子が二人で食事をしたりくつろいでいる時に、CDの音楽が流れていても、テレビがついていた記憶がない。
新しいレパートリーのことや料理のこととか、その日そのときに思いついた話題について−殆どは前述の二つだが−話したり、
二人で練習をしてたりするうちに食事が終ったり、寝る時間になったりした。
言い換えれば、テレビが介入する余地がなかったということだ。
 話題が尽きても意識の行き先がテレビになることはなかった。
俺は元々テレビを見る方じゃないし、今までの会話や行動から推測するに、晶子もテレビはあまり見ない方らしい。
話題もテレビもなくても、ただ自分と同じ空間に相手が居ればそれで良い。
俺はそう思うし、晶子も多分そう思っていると思う。そう信じたい。
 最後の「兎さん林檎」を口に放り込んで、林檎ならではのサクサクした食感を堪能してから飲み込む。
今年ももう5時間を切ったのか・・・。ぼんやりそう思っていると、俺の頭の中で今年の出来事を纏めたアルバムが次々と捲られていく・・・。





 正月は優子と二人で大嶽(おおだけ)神社へ初詣に出掛けた。
境内で御神酒が配られていて、優子が酒は全く駄目と言ったから、俺が二人分飲んだ。
「俺達二人の一足早い勝利の美酒だ」なんて言ったら、優子に「祐司にはあんまり似合わない台詞ね」と笑われた。

 俺がセンター試験を受けて程なく、優子が第一志望の短大合格を決めた。
「祐司が今まで勉強教えてくれたから受かったのよ」と不安と緊張の厚い皮を破って花開いた笑顔でそう言われて、
自分のことのように嬉しくて、同時に照れくさく思った。

 それに触発されて、それまでの模試で合格確率50%近傍を漂っていた新京大学を目指して、1月下旬から受験当日まで家に篭りっきりで
受験勉強に明け暮れて−2/14は優子と会って手作りのチョコレートケーキと「合格祈願」のキスを貰った−、無事合格を決めた。
思わずガッツポーズを決めた俺の横で、一緒に合格発表を見に来た優子は泣いて喜んだ。

 二人の進学先が決まったことで、俺と優子は「友達数人と一緒に行く」と両親に嘘をついて、二人きりで2泊3日の温泉旅行に出掛けた。
そこで俺と優子は初めて二人きりの夜を過ごし、二人きりの朝を迎えた。
初めて迎えた至福の時に、俺と優子はがむしゃらに互いを求め合い、互いの全てを心行くまで堪能した。

 引越しに先立って、俺は父親と一緒にこの町の不動産屋を回り、条件が一番良かった今の家を探し当てた。
条件の良さに住み始めるまでは「何かあるんじゃないか?」という疑いが消えなかった。

 引越しの日。バンド仲間が駆けつけて成人式の日に会おうと、優子には毎日電話すると約束して、引越し業者のトラックの後を追うように
父親と共に住み慣れた町を離れた。

 どうにか引越しが済んだ後、生活費を稼ぐためのバイト探しを始めた。
この町を歩き回っているうちに今のバイト先を発見して、条件の良さと俺のセンスとかけ離れた店造りとの葛藤の中、店のドアを開けた。
最初はマスターと対面して思わず後ずさりして、次に潤子さんと対面して、此処は「美女と野獣」の舞台なのか?と訝った。
 バイト希望の旨を二人に話すと一転して二人の目が真剣になって、課題曲として「Fly me to the moon」の楽譜を渡され、
客も居るステージで即興でアレンジして演奏するように言われた。
突然で意外な「採用試験」にびっくりはしたが、楽譜から曲の流れと雰囲気を把握して即興でギターソロにアレンジして演奏した。
演奏が終ると少なからず居た客と、マスターと潤子さんから拍手喝采を貰い、即日その場でバイト採用となった。
ちなみに「これほどの実力と度胸を持っているとは思わなかった」というのがマスターの弁。

 家が飲食店とはいえ、接客なんてろくにやったことがなかったから、最初のうちはかなり戸惑った。
どの客から注文を受けたかということが複数になると頭が混乱して、聞き直しに走ったこともあった。
マスターと潤子さんに教えてもらいながら1日でも早く慣れようと店中を走り回り、接客と並んで大切な仕事であるステージ演奏をこなした。
仕事のやり方が身体に定着するまで半月はかかったかな。

 そんな慌しさの中でも、優子への電話は欠かさなかった。
父親名義で請求先も父親の口座になっている自宅の電話を使うと、急に電話料金が高騰した理由を問い質されるのも嫌だったし−何せ市外通話だからな−、
一方でどのくらい電話料金がかかるのかということも知りたかったから、電話ボックスを探し回った。
自宅とバイト先の道程から少し離れたところに運良く電話ボックスを見つけて、それが設置されている場所が住宅地だから利用する人も殆ど居ない
「穴場」だったので、テレホンカードをしこたま買い込んでバイト帰りに立ち寄るようになった。
 1回の電話でテレホンカードを半分以上使うのは当たり前で、1枚潰すのも珍しくなかった。
話の内容は殆ど互いの近況報告と次に会う日程の打ち合わせ。俺も優子もバイトをしてたから−優子は自宅の近所にあるスーパーの
レジのバイトだと聞いた−、そこでの出来事を話すことが多かった。バイトでの変化もそれ程大きなことがあるでもなし、
要は互いの声を聞きたかったんだし、聞ければそれで良かった。

 半月、或いは一月に一度、優子が俺に会いにやって来た。
優子も短大に通学していたからもっぱら会うのは週末。俺のバイトは土日もあるし生活費を稼ぐ重要なものだったから、
昼間にボーリング場やゲームセンターに行って昼食を一緒に食べたりして優子に帰ってもらうか、優子に留守番してもらった。
留守番をする日は俺の家に泊まっていくという意思表示でもあり−10時過ぎに俺が居る町から帰宅するのは不可能だ−、
同時に俺と寝たい−2つの意味がある−という意思表示だった。

 遠距離恋愛に不安もあったが、俺は毎日の電話と半月若しくは一月に一度会えればそれで良かった。
優子が疎ましく思ってのことじゃなくて、俺はそれで充分楽しかった。
優子にもっと一緒に居たい、と言われるのは辛かったが、優子も俺の事情を−バイトで生活費を稼がないと苦しいということだ−知っていたし、
「祐司の声を聞きたい」という優子の願いに毎日の電話で応えていた。

応えていたのに・・・

 8月だったか・・・。
その日はこの町から北へ行ったところにある総合駅、大海(おおみ)駅の中央改札前で待ち合わせすることにしていた。
俺は約束の時間より10分早く到着して優子が来るのを待った。
刻一刻と迫る待ち合わせの時間。優子のことだから間もなく来るだろうと楽観視していた。
しかし、優子は待ち合わせの時間になっても姿を現さなかった。時間が待ち合わせの時間より少しずつ遅れるにしたがって、
俺の心は優子と会える楽しみから不安と焦燥と苛立ちに変貌した。

事故にでも遭ったのか・・・?
まだ来ないのか・・・?
こんなに遅れるか?普通・・・!

 待ち合わせの時間から30分以上過ぎたところで、ようやく優子が姿を見せた。それで俺の中で蠢き、ざわついていたものは
安堵の溜息と同時に一気に吐き飛ぶ。俺は改札を通った優子を出迎える。
でも・・・優子の表情は今までと全く違うものだった。笑顔で俺に瞳を向けて駆け寄るんじゃなくて、笑顔はその欠片もなく、
視線は俺を避けるかのように彼方此方に泳いでいた。
 俺は一抹の不安を覚えつつも、何か嫌なことでもあったんだろうと思って、何時もの調子で声をかけた。
だが、俺が声をかけても優子の表情は一行に緩まなかった。
視線も俺を避けるように彼方此方をさ迷っていた。
そして優子の口からまさかと耳を疑うような言葉が吐き捨てられた。

もう・・・疲れたのよ。

俺が慌てて掴んだ腕を優子は強引に引き剥がして、早足で俺から去っていこうとした。
愕然とした俺は慌てて人の波を無理矢理垂直方向に渡ってどうにか優子に追いついた。
優子は俺が追いついたことを感じて振り向いたが、その表情は硬いままだった。
どうしてついてくるのよ、と言いたげな表情を見せられ、さらに「身近に居ると一番安心できるわ」と、別に好きな男ができたことを
仄めかすようなことを言われた。俺は優子と付き合うようになってから初めて、優子が俺から離れていくという恐怖に晒された。
 俺は必死になった。優子を、そして優子と付き合っているという夢の世界を手放したくなかったから。
今まで割り勘だった食事の料金を俺一人で払ってみたり、今まで優子の意思を確認してから向かった行き先を自分で決めてエスコートしたり・・・
本当に必死だった。
最後の方になると優子の表情も幾分柔らかくなって、優子を繋ぎ止めることが出来た、と俺は心の底から安堵した。

 それから暫くの間、優子との付き合いはこれまでどおりのものだった。
毎日の電話、ほぼ半月に一度のデート、そして一月に一度くらいは夜を共にした。
待ち合わせの場所やデートで俺に向ける笑顔、そしてデートや夜の電話口、或いは薄明かりが差し込むベッドの上で幾度となく繰り返された
「私のこと、好き?」という問いかけ。
そんな笑顔や問いかけは、ずっと俺に向けられると信じていた。
別れる寸前まで追い込まれたあの時は、きっと何かの間違いだったか、電車が混み合っていたか何かで優子がたまたま不機嫌だったか、
そんなところだと思っていた。そう思うことで、あんなことがまた起こるんじゃないか、という不安を打ち消していた。なのに・・・。

「・・・今、何て言った?」
「祐司・・・。私、もう貴方とは終わりにしたいのよ・・・。」
「・・・何でまた・・・そんなこと・・・。この前会って・・・。」
「御免なさい。でも・・・もう疲れたのよ。」

 忘れもしない、そして今尚忘れられない10月のあの日の夜、優子からいきなり「最後通牒」を突きつけられた。
つい1週間ほど前に会って、何時ものようにボーリング場やゲームセンターに行ったりして、俺の部屋で朝を迎えたのに・・・。
何も変わった様子はなかったのに・・・。
 そこでふと思いついた。優子が初めて別れたいと仄めかした時、「身近な存在」とやらを口にしたことを。
その瞬間、俺の疑問は確信へと変わった。優子は俺との関係が元に戻ったと見せかけて、その「身近な存在」とやらに心の向きを完全に移したんだと。
あの時から今までの優子との時間は、「身近な存在」に心の向きが完全に移行するまでの「猶予期間」でしかなかったんだと。
激しい落胆と混乱の中で、もう優子の心のベクトルを俺に向けさせることは不可能だと悟った俺は、優子に「最後通牒」を突きつけた。

「・・・そうか。・・・じゃあ・・・さよならっ!」

 最後通牒といっても、優子に絆を切られた俺のそれは、所詮負け犬の遠吠えでしかなかった。
でも、それがあの時の俺が示すことが出来た精一杯のプライドだった。
俺は受話器を叩きつけるように切ると、電話機から吐き出されたテレホンカードを握り潰して放り捨てた。
その日以来、あの電話ボックスに立ち寄ることはない。・・・立ち寄りたくもない。
あんな忌々しい「絆の痕跡」を祭り上げた記念碑に足を運ぶなんて・・・考えたくもない。

 俺は夢の世界が終った絶望感と、愛から一気に怒りと憎悪に変貌した気持ちに任せるがままに、酒屋の自動販売機で抱えて持てるぎりぎりの量まで
缶の大小を問わずに缶ビールを買いこんだ。
家に帰って部屋の電気を点けるなり、物置に仕舞ってあった優子からの手紙やプレゼント、二人一緒に写った写真を引っ張り出して、
ビールを浴びるように飲みながら、かつては、否、その日のあの時までは宝物だったもの全てを破り、千切り、壊した。
夢の世界が最期の時を向かえてその廃墟に残された、優子に関わる全てのものを消し去りたかったからだ。何もかも・・・。

 でも・・・不思議なもんだ。
何せルックスも良いとは言えず、背も特別高いわけじゃない、服装なんてお洒落や流行とはかけ離れたこの俺に、
もう二度と夢の世界は訪れやしないと思っていた俺の前に・・・

井上晶子という女が現れた。


このホームページの著作権一切は作者、若しくは本ページの管理人に帰属します。
Copyright (C) Author,or Administrator of this page,all rights reserved.
ご意見、ご感想はこちらまでお寄せください。
Please mail to msstudio@sun-inet.or.jp.
若しくは感想用掲示板STARDANCEへお願いします。
or write in BBS STARDANCE.
Chapter 47へ戻る
-Back to Chapter 47-
Chapter 49へ進む
-Go to Chapter 49-
第3創作グループへ戻る
-Back to Novels Group 3-
PAC Entrance Hallへ戻る
-Back to PAC Entrance Hall-