慈善「死」医療

written by Moonstone

〜この作品はフィクションです〜
〜登場人物、団体などは実在のものとは無関係です〜

第3章

 脳死移植水新機構「交渉員」の突然の訪問から数日が経過した。
2,3日は「交渉員」の帰り際に残した言葉−「・・・我々は患者のために、もっと積極的な行動に出るつもりです。」−が気になっていた小山内であるが、
1日最低1件の手術を行うという毎日の中で、徐々にその言葉も「交渉員」のことも、ある日の嫌な出来事程度の記憶として、急速に色褪せていた。
不吉な予感を覚えさせる「交渉員」の言葉をずっと気にかけることより、自分には医師としてもっと大切なことがある。
眼前で生死の境界線を千鳥足で歩く患者の生命を救うこと。それが一人の医師としてできる最大限の使命なのだ。
小山内は疲労が滲む心身に、医師になったあの日の決意を注ぎ込んでメスを握る。
 その日、小山内は珍しく手術がないことで、自分が執刀した患者の回診に多くの時間を当てることにした。
患者やその家族は勿論、素晴らしい技術を持つその医師の顔を知らないはずが無い。
病室を訪れれば、驚きと笑顔が小山内を出迎える。
患者やその家族の笑顔が見れることが、小山内にとって何よりの心の糧となっている。

「先生。お蔭様でもうすぐ退院できます!これも先生のお蔭です。」
「先生に執刀してもらわなかったら、私はもうこの世には居なかったでしょう。」
「本当にどうやってお礼を言ったら良いのか・・・。」

 ありふれた、しかし、率直な心情が篭った感謝の言葉に、小山内は笑顔と共にこう付け加える。

「私に感謝する前に、臓器を提供してくれたドナーの方に感謝してください。ドナーの方が臓器を提供してくれたから、私は移植手術ができたんです。
貴方が生き長らえた陰には、心ならずも命を落としたドナーの方が居る。その事を記憶の片隅にでも留めておいてください。」

 自分の技術や才能を誇示し、それに跪けと言わんばかりの傲慢な医師も居る。
小山内は学生時代から長い間、そのような医師を目の当たりにしてきたことで、それを反面教師として自戒することを意識している。
数々の経験抱負な医師が在籍しているにも拘らず小山内を執刀医に指名する患者が多いのは、小山内のこの人間性に起因するのかもしれない。
 それに、自分に冠せられた若き天才移植医と言う今の称号は決して自分から望んだものではないという事実が、小山内をそうさせているのかもしれない。
学部長選挙を前に、難しい手術の失敗でこれまでの経歴を汚したくない教授の言わば「生け贄」としていきなり桧舞台に立たされ、その結果得られた称号。
もしあの時失敗していれば、恐らく全ての責任を背負わされ、永遠に医療に携わる道を閉ざされたことだろう。
突然回ってきた「主役」の座の裏に隠された真相を知った時、今までに無い憤りと絶望感を感じた。
所詮与えられた役どころには、与えたものの思惑が否が応にも絡みついている。
その教授の呪縛から逃れるために、自分の力で「素晴らしい医師」たる称号を勝ち得るために、

小山内は、医科長の地位も約束された大学病院を離れたのだ。
あの教授が事務的に行っていた回診を大切にしているのだ。

 回診が一段落した小山内は、自室でコーヒーを入れて飲んでいた。
微かに白煙を立ち上らせる琥珀色の液体は、既に半分以上その量を減らしている。
普段はコーヒーを入れても温かいうちに全て飲み終えることは殆ど無い。
何かと多忙な毎日の中で、たまにはこんな日もあって良い。小山内はふとそんなことを思う。
 その時である。内線電話がコール音を鳴らし始めた。
それも同時に点滅しているのは内線を示す緑色のランプでも、外線を示す赤色でも無い。緊急を告げる青色のランプだ。
小山内は事の重大性を察知して、素早く受話器を取る。

「はい、小山内です。」
「先生!交通事故の急患です!大至急手術の準備を願います!」

 急患受付からの電話はそれだけ告げると荒々しく切れる。
普段なら眉を潜めるところだが、電話の口調が切迫した事態を如実に物語っている。
一秒を争う深刻な事態に礼儀だ何だのとけちを付けるほど、小山内は「大人」ではない。
小山内はハンガーに掛けておいた白衣を引っ手繰るようにとって羽織り、それまでほんの一滴まで味わうように飲んでいたコーヒーの存在も忘れて
駆け出していく。
 小山内はずらりと並んだレントゲン写真の一枚を見ながら、苦悩の表情を浮かべる。
今まで数々の外科手術を行ってきた経験で言うなら、「この患者が助かる見込みはゼロに近い」と判断するほかない。
両手両足の骨折、内蔵破裂、全身打撲に脳挫傷・・・思い当たる外傷を全て一人の人間に押し付けたような状態だ。
さらに大脳には巨大な血腫の他に、頭蓋骨の陥没により組織そのものの重大な損傷が見られる。
 小山内は大きなため息で苦悩と絶望を吐出そうとするが、全身に埋め込まれたそれは、ため息一つで吐出せるはずも無い。
傍らの若い医師−とは言っても小山内とさほど歳は違わない−が、言いにくそうに口を開く。

「小山内先生・・・これは・・・助からないのでは・・・?」

 彼とてそれ相当の腕を持った医師だ。レントゲン写真を見れば患者の深刻な状況は容易に分かる。
だからこそ、望まない仮定が現実へ向け急速にその色を強めていることに、絶望を隠し切れない。

「我々医師が・・・助からないと思ってはいけない。まずは最善を尽くすこと。それが人の生命を預かる医師の義務だ。」

 小山内は絶望に押し潰されそうな自分に言い聞かせるように言う。
譬え仮定が限りなく現実に近いとしても、目の前の患者を見殺しにしたくはない。

「先生!準備ができました!お願いします!」
「分かった。・・・じゃあ、行こう。」

 小山内は応急処置が済んだ患者が搬送された手術室へ、若い医師と共に向かう。
恐らく助からないだろう。しかし、何もしなければ絶対に助からない。
そんな諦めと叱咤の攻防を心の内で幾度と無く繰り返しながら・・・。

「心拍数が急激に下がっています!」
「強心剤を投与。」
「駄目です!心拍数の低下が止まりません!」
「心臓マッサージだ!」

 小山内は夥しい出血に手術服を染めながら、患者の胸に両手を押し当て、何度も何度も強く押す。生きてくれ、生きてくれと念じながら。
しかし、小山内や他のスタッフの願いも空しく、心拍数を測定する機械の単音が延々と密室で鳴り響く。
小山内は尚も心臓マッサージを続けるが、単音が途切れることはなかった。

「先生・・・もう・・・。」
「・・・助からなかった・・・か・・・。」

 小山内はがむしゃらに患者の胸を押していた手を静かに退ける。
破裂した水風船のように溢れる血液。切り開かれた腹部。無残に折れ曲がった手足。見るも痛々しい全身の内出血。
患者を飲み込もうとする死という奈落との決死の死闘は、ついに及ばなかった。
小山内はぐっと目を閉じた後、もっとも辛い作業へと入る。看護婦から手渡されたペンライトを灯し、患者の瞼を開けてその瞳に光を当てる。

「・・・瞳孔拡大。・・・対光反応消失。死亡確認。」

 小山内はペンライトの光を消して、横たわる骸に向き直り、ぐっと一度目を閉じて俯く。他のスタッフもそれに倣う。
自分達の無力感に苛まれながら、せめて患者の最期を看取ったものとして黙祷するのが患者への礼儀だと、小山内は思う。
 重い沈黙が支配する手術室のドアが突然開き、わらわらと手術服や白衣を纏った一団がなだれ込んできた。
手術のスタッフを半ば押しのけるように、その一団は患者の亡骸を取り囲んで何やら調べ始める。
彼らが何者で何が目的か、度々顔を合わせている小山内はよく分かっている。
彼らはここ国立総合医療センター常駐の、移植専門医と移植コーディネータで構成される臓器提出団である。
今までにも見せたことのない彼らのあまりにも無作法な来訪に、小山内は珍しく感情を剥き出しにして一人の肩を掴んで振り向かせる。

「お前達!いきなり何のつもりだ!」
「邪魔しないで下さい。この患者はもう死んでるんでしょう?」

 肩を掴まれた一人は至って機械的な応対を見せる。
激昂した小山内はその一人を引き剥がしにかかり、もみ合いとなる。
近くのスタッフが止めに入ったその間に、他の面々が患者の骸を調べながら小声で何かを囁きあっている。
そして周囲から見えないように人垣を作ると、何かの作業に取り掛かる。
一部のスタッフは何が行われているのか覗き見ようとするが、一団の頭や身体で覆われた内側はまったく窺い知ることができない。
そうこうしているうちに一団の作業が終わったらしく、人垣を解いて小山内ともみ合っている団員に告げる。

「もう終わった。行きますよ。」

 機械的な告知に、その手術服姿の団員はさっと小山内から離れ、スタッフをかき分けて何事もなかったかのように一団に再度加わる。
そして入ってきた時と同じように、わらわらと手術室を出て行く。
小山内は人で囲われた彼らの陰に、何か箱のようなものが一瞬見えたような気がした。
 予想外の出来事に気まずい空気が漂う中、小山内は先陣を切って最後の処置を始める。
格闘の末、切り開かれた患者の体を丁寧に縫合し、包帯で覆っていく。
もはや溢れることのない血液は、その量が少ないところから徐々に黒ずんだ色に変わり、固まり始めている。
たとえ縫いあわせても、その傷が自然に塞がっていくことはもはや有り得ない。
だが、せめて表面だけでも、できる限りつい数時間前までの奇麗な状態にしておきたい。
小山内とそれに続いて処置を始めたスタッフは、口に出さずとも皆同じ事を考えていた。
 それから間もなく、連絡を受けた患者の遺族が顔を強張らせて駆けつけてきた。
小山内は遺族を霊安室へ案内し、身元の確認を求めるという辛い仕事をした。
患者はまだ20代前半の若い男性で、話によるとアルバイト先へ向かっていた大学生だという。
これから訪れるはずだった様々な可能性を一瞬にして奪われた患者。
つい数時間前まで元気な姿を見せていた家族が、変わり果て物言わぬ姿となって横たわっているのを目の当たりにする遺族。
遺体にすがり付き、純白のシーツを握り締めて号泣する遺族の姿は、いつ見ても小山内には生きたまま身体を啄ばまれるような気分になる。
 付き添いの医師に遺族を任せ、重々しい気分で頭を下げると、小山内は霊安室を出る。
扉を閉めても封印することはできない遺族の号泣は、小山内の胸を抉る。

目の前で奈落に落ちていく患者を・・・助けられなかった・・・。

 医師として最も辛い現実に直面して、小山内は壁に拳を叩き付ける。
そのままの姿勢で俯き、体を震わせる小山内に、誰かが注意深く声を掛ける。

「あ、あの・・・先生・・・。」

 小山内が顔を上げて振り向くと、そこには一人の妙齢の看護婦が立っていた。
彼女もまた、患者に襲い掛かる死と格闘し敗れたスタッフの一人である。

「・・・君か・・・。いや、済まない。取り乱してしまった。」
「私がこんな事を言うのは失礼だとは思いますが・・・、先生、どうか気を落とさないで下さい。」
「・・・ありがとう。」

 小山内は微笑みを浮かべる。憔悴し切った表情に少し光が射す。
どうしようもない無力感に苛まれていた小山内は、看護婦の一言で少し気が楽になる。

「先生。あの、ちょっとお話しておきたいことが・・・。」
「ん?何か?」
「ここじゃ何ですから・・・別の場所で・・・。」

 周囲を窺うような看護婦の態度に何かあると察した小山内は、ひとまず場所を移すことにした。
 小山内は看護婦と共に屋上に上った。久々に上る屋上から見る外の景色は既に夕暮れの色合いを呈している。
白衣が鮮やかなオレンジ色に染まる中、二人は辺りを見回す。幸い、患者や他の医師や看護婦の姿はない。秘め事を話すには丁度良い。

「先生。実はさっきの手術の話なんですが・・・。」

 看護婦はやはり言いにくそうだ。
ついさっきまで小山内が猛烈に苦しめられていた出来事を蒸し返すのは、どうしても気が引けるらしい。

「いや、構わない。言ってくれ。」
「はい。・・・実は患者さんが亡くなられた直後に入ってきたあの人達・・・」
「臓器摘出団のことか・・・。」
「はい。私、先生が怒ってもみ合いになっている時、丁度反対側に居たので先生を止められなかったんですが、その時、あの人達が・・・凄く
気になることを・・・。」
「気になること・・・?」

 看護婦は一度頷いた後、小山内との距離を縮めて小声で言う。

「はっきりとは聞こえなかったんですが・・・『腎臓は・・・片方潰れてる・・・強すぎだ。』とか『肋骨が折れてる・・・肺も破れてるぞ』とか言っていたんです。」
「・・・?」
「何か・・・最初から臓器摘出の対象になることを・・・知っていたような気がして・・・。」

 小山内は頭の奥から、どす黒いものが吹き出してくるのを感じる。
徐々に具体的な形を成していくそれは、小山内が何としても否定したいある仮定である。
医師として、否、それ以前に人間として、絶対に踏み込んではならない禁断の領域。
しかしそれは、人間が「善意」や「〜のため」と思い込むと、時として当然のことと錯覚して迷いなく踏み込む領域だ。
 そして再び脳裏に蘇ってくる、彼らのあの去り際の一言。
仮定が限りなく現実に近づいているのを感じる。それもあろうことか自分の近くで、最悪の仮定が。
悪い予感はさらに悪い予感を生み、瞬く間に増幅して小山内の脳裏を埋め尽くす。
愛の語らいにも相応しい紅の風景が、やがて闇へと向かう現実を暗喩しているように思えてならなかった。
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