Saint Guardians

Scene13 Act3-1 騒乱-Mayhem- 大きく進む動き2つ、僅かに進む動き1つ

written by Moonstone

「すべてのサンプルの解析が完了しました。」

 アレン達がジグーリ王国に入国して2日目の夕方、特別工房で待機していたアレンがモーグに事態の進展を伝えに走った。最深部に近い特別工房から、モーグの住居がある層10)までは、我々の世界でおよそ10階相当の階段を上る必要があるが、ルイのひたむきな努力と成果の報告、そして最大の目的であるカッパードラゴン打倒を達成するため、アレンが進んで伝令役を買って出た。

「!もう完了したのか?!」
「はい。…妻が頑張ってくれました。これが解析の結果を纏めたレポートです。」

 「ルイさん」と言いそうになって、まだ馴染みが薄い「妻」という呼称に変え、アレンはルイが纏めたレポートをモーグに手渡す。モーグは図を右に、文章を左に配置することを基本にして整然と纏められたレポートに目を通す。無垢の水晶が最もファイア・クリスタルに近く、ルビーがそれに続くという結果は、ある意味予想どおりだ。しかし、推測ではなく、緻密な解析で得られた結果は、アレンの剣に回復不可能な損傷を齎すリスクを軽減するものだ。

「…よく分かった。水晶はまだ十分在庫がある。急を要する以上、俺が作業する。ハンジュは頭に伝えてくれ。」
「分かったわ。しっかりやりなさいよ。」
「アレンは嫁とこの家で待機してなさい。部屋は十分あるから好きに使って良い。」
「じゃあ、あたしが特別工房で護衛を兼ねて待機するわ。」

 それまで黙ってやり取りを聞いていたリーナが、唐突に口を開く。

「散策がてら特別工房の周辺を見たけど、最近人が出入りしてないせいか、周辺の警備がお留守よ。アレンは一応剣士で嫁は高位の聖職者だから防衛は万全に近かったけど、丸腰の作業者が狙われたらただごとじゃ済まない。」
「…作業には丸1日近くかかるぞ?」
「暇潰しは何とでも出来るからご心配なく。新婚と部屋が近くになるよりはましよ。」
「ちょ、ちょっと…。」
「ラクシャスの町に着いてから、夜に嫁と何もしてないって言い切れるならどうぞ。」

 身に覚えがあるだけに、アレンは答えに窮する。元より嘘を吐くのが苦手なタイプのアレンでは誤魔化しようがない。そもそも、昨夜もルイと濃密な時間を過ごし、ルイは起床後に入浴し、シーツは全交換した。何もしていないと言い切れる筈がない。

「そういうわけだから、食事は2人分持ってきて。あと、本も適当に見繕って。」
「わ、分かった。」
「嫁には入れ替わりであたしが伝えるから。」

 リーナはそう言って、アレンから剣を受け取ったモーグと共に家を出て行く。

「私は国王に話をしに行ってくるから、アレン君は料理を作ってくれる?」
「それは構いませんが、良いんですか?」
「この国は君の両親に物凄く世話になったし、君達夫婦も負けず劣らず尽力してくれている。家の留守を預けるくらいの信用は十分あるよ。」
「ありがとうございます。」

 物心ついたころからひたすら小さい畑で農作業をしていた父と、ドローチュアでしか顔を知らない母は、故郷のレクス王国から遠く離れたこのジグーリ王国に確かな足跡を残していた。そしてその足跡を受け継ぎ、新たにジグーリ王国に迫る国難を打開すべく動いている。アレンは親子の、そして種族と国を超えた絆を改めて実感し、バトンを一旦モーグに渡して時を待とうと思う。
 見慣れない食材でも、アレンの手にかかれば特選料理に変貌する。既にルイは前日の夜から3食アレンの料理を食しているが、精密な一方で定型動作の繰り返しになる構造解析を、ルイが予想を大幅に上回る速さで完了する大きな原動力になった。アレンは台所と食材の保管庫を俯瞰して、下ごしらえに取り掛かる。少しして戻ってきたルイが加わり、モーグ夫妻の家は一気に新婚家庭の雰囲気に満ち溢れる。
 更に遅れて戻ったハンジュは、若い頃を思い出すと同時に、リーナがこの2人との同室を避ける理由を改めて十分理解する…。

「…退屈じゃないか?」
「ご心配なく。」

 その日の夜、特別工房ではモーグがアレンの剣フラべラムに水晶を填め込むべく、穴の形状の測定や水晶の選定に勤しむ傍ら、リーナは一見我関せずといった様子で、アレンが運んできた本を読んでいる。
 本はモーグの家にあったもので、文芸書や歴史書が多い。リーナがよく読む薬学関連の書籍は、薬草の種類や調剤方法など、専門的なものも揃っている。ジグーリ王国は魔術に依らない歴史を歩んできたことで医学薬学の水準がかなり高く、既に初心者の域を脱し、試験受験に向けた対策に歩を進めているリーナでもかなり読み応えがある。中には、これまで国際薬剤師会の会報でも見たことがない調合方法も記載されていて、リーナは時折メモも取りながら読み進めている。
 元々、リーナは他人と会話するより、1人で読書なりをする方を好む。モーグの作業に手を貸す余地はないし、その能力もないと理解しているから、待機中は読書に耽るのが良い。護衛は特別工房内外に召喚した強力な魔物が担当しているし、念には念を入れて特別工房を包む形で結界を張り巡らせている。食事はアレンとルイの合作が良好だったし、寝床は特別工房隣の空き部屋に作らせた。耳障りな喧噪もないし、読書には非常に良好な環境だ。リーナは偶に立ち上がって腰を伸ばしたり、アレンが運んできたティンルーを飲んだりしているが、それ以外は本に視線を固定している。
 モーグは作業をしながら、リーナとルイはかなり違うタイプだが、一方で共通する部分も多いと感じる。

「お待たせ。ティンルーを持ってきたよ。」

 17ジムを過ぎた頃、アレンがティンルー一式を運んできた。ティンルーは芳香が特徴的なものがブレンドされたもので、茶菓子としてスーホン11)もある。ティンルーはルイのセレクトでブレンドされたもので、スーホンはアレンの手製。料理の腕は折り紙付きの2人の合作とあれば、休憩時間は贅沢な茶会の雰囲気すら漂う。

「-ほほう。これは美味いな。ティンルーの香りも良い。」
「上出来ね。明日もよろしく。」
「はいはい。」
「嫁とよろしくやってるんでしょ?多少の労役は甘んじて受けなさい。」

 約3ジムおきにモーグ宅と特別工房を行き来する羽目になっているアレンはやや不満だが、「モーグさんの作業中の護衛を買って出てくれたんですから」とルイにやんわり窘められ、見送りを受けて出向いている。ルイも言うし護衛をしているのは事実だから仕方ないか、とアレンは思うようにしている。

「明日の昼過ぎには完了するだろう。その頃に出向いてみてくれ。」
「分かりました。よろしくお願いします。」
「お前の両親、ジルムとサミーユは我が国で出逢って、その息子夫婦は我が国で子どもを作る、か。不思議な縁だな。」
「こ、子どもって…。」
「人様の家に居候中だってこと、忘れないように。」

 昨夜は昨夜で特別工房のベッドで濃密な夜を過ごしただけに、歯止めが効かなくなっている実感はある。だが、ルイは2人きりになると甘えてくる上に、アレン命名の「柔らかさの暴力」こと豊かな胸の押し付けを伴っている。寝る時は屋内だとパジャマ1枚だから、その柔らかさは容易にアレンの理性を破壊する。
 ルイが恵まれた自分の肢体をコンプレックスではなく、アレン限定の武器に出来ることを自覚したことで、ストレートかつ強烈に誘惑してアレンの心を入念に自分に打ち付けている。フィリアが「非常にあざとく、しかも強か」と嫌悪混じりにルイを酷評するのは、あながち間違っていない。
 何かにつけてルイとの営みに結び付けられると察したアレンは、前回持ってきたティンルー一式を引き取っていそいそと退室する。階段を延々と上ってモーグ宅に戻る。

「えっと…ただいま。」
「おかえりなさい。」
「アレン君、配達ご苦労様。丁度嫁さんがティンルーを淹れてくれたところだよ。」

 アレンは回収したティンルー一式を台所に持っていき、手早く片付けてからリビングに入る。モーグ宅ではアレンとルイの合作による立派な夕食が振る舞われ、ハンジュは舌を巻いた。
 ルイだけでなくアレンが料理が出来ること、その腕前はおよそどの店でも通用するものであることはリーナから聞いていたが、その腕前が王国のシェフを凌駕すると言っても過言ではないことに驚いた。聞けば、ルイがサンプルの解析をしていた間の食事はすべてアレンが担当したという。この腕前なら安心して任せられるし、休憩も兼ねた食事が楽しみになって解析に精を出せただろうとハンジュは思う。

「うちの亭主はどうしようもない飲んだくれだけど、宝石細工の腕は確かだからね。安心して良いよ。」
「モーグさんにお任せするしかありません。完了まで待ちます。」
「湯もリーナちゃんがサラマンダーであっさり解決してくれたからね。久しぶりにこの国に活気が戻ったよ。」

 カッパードラゴンの出現によって宝石は採掘できず、在庫分で外貨を稼ごうにも高過ぎて宝石商が敬遠し、宝石商の足が遠のいた。石炭の採掘も大幅に減少したことで、湯の使用が制限されるようになり、様々な方面でジグーリ王国の生活は行き詰まりを呈していた。
 そこにアレン達が現れた。カッパードラゴンを打倒する策としてアレンが父から託された強力な剣の復活を掲げ、ルイがカッパードラゴンの猛毒ブレスに侵されたドワーフを全快させた上にファイア・クリスタルに最も近い宝石を特定し、リーナがモーグの作業の間の護衛を担いつつ湯の安定供給に大きく寄与している。
 3人の若者、しかも人間とクォーターのダークエルフ、人間のようで人間でない者という不可思議な組み合わせの若者達が、門前町ラクシャスと共倒れを待つばかりかというジグーリ王国の状況に楔を打ち込んだ。意気消沈していたジグーリ王国は、打倒カッパードラゴンの先頭に立つアレン達を全力で支援しようと団結し、その時に備えている。

「今日はゆっくり休みなさい。リーナちゃんが使ってた大部屋があるし、リーナちゃんが制限なく風呂に入れるようにしてくれたから、2人で入ると良いよ。」
「!ふ、2人で?!」
「遠慮しなくて良いよ。その方が待ち時間も少なくなるし。さ、入った入った。」

 ハンジュに急かされて、アレンとルイは入浴の準備をして脱衣場に入る。一等宝石細工師かつ軍の中将の自宅だけあって、脱衣場は2人でも十分なスペースがある。だが、スペースの広狭とシチュエーションは無関係だ。
 このまま脱衣場で突っ立ったままだとハンジュの待ち時間が悪戯に長くなる。家主の多分な厚意があるとはいえ、リーナの言うとおりアレンとルイは居候だし、どちらかが入浴しないで脱衣場から出ると夫婦関係を怪しまれかねない。ドワーフは悪辣な宝石商や高慢なエルフなどに虐げられた歴史が長いことで、全体として懐疑的で嘘や裏切りに敏感な傾向がある。アレンとルイの夫婦関係が嘘だと発覚することは、信頼に基づくドワーフとの共闘関係に悪影響が出る恐れがある。

「…俺が先に入るよ。髪や身体を洗う時間は短いから。」
「そう…してください。」

 意を決したアレンが言うと、ルイは了承して背を向ける。アレンはルイと背中合わせになって服を脱ぐ。そしてタオルを持って急いで浴室に入る。
 浴室も1人使用が前提の特別工房とは違い、浴槽も2人が十分入れる程度の広さがある。アレンはルイを脱衣場で待たせないように、急ぎ髪と身体を洗う。脱衣場で待つルイにどう呼びかければ良いか分からず、アレンは浴槽に浸かって待つことにする。

コンコン

 浴室のドアがノックされ、手が入る程度の隙間が出来る。

「入って…良いですか?」

 ドアの隙間からルイの声が流れ込む。ルイ自身は姿を見せない。まだアレンが髪や身体を洗っている最中かもしれないと踏んでのことだ。

「も、もう大丈夫。浴槽に入ってるから。」
「分かりました。では…。」

 ドアがゆっくり開いて、ルイが姿を現す。既に服を脱いでいたルイは、前をタオルで隠してはいるものの、身体を洗うための小さなものだから豊満な肢体を隠し切れない。思わずドアが開く段階から凝視していたことに気づいたアレンは、気恥ずかしそうに視線を逸らす。
 ルイは椅子に腰を下ろし、身体と髪を洗う。以前であればさほど時間をかけなかったのだが、アレンと交際を始めたあたりから一転して髪を洗う時間を長く取っている。ルイが髪と身体を洗う間、アレンは見ないように努めるが、タオルが身体を擦る音や指が髪を擦る音が強烈な誘惑となって、しばしば視線が引き寄せられる。ルイはアレンの視線を感じていないのか視線が向けられても良いと思っているのか、浴槽を気にしたり身体の要所を隠したりすることはない。
 やがてルイは髪を洗い終え、タオルを絞って棚に置き、髪を纏めて立ち上がる。アレンはゆっくり近づくルイに視線が釘付けになる。ルイはアレンの目前でアレンに背中を向ける体勢で浴槽に入る。視認には十分な明るさのランプが灯っているから、見えるものが全部見える。アレンが呆然とする中、ルイはアレンに背中から凭れ掛かる。

「昨日…全部見たじゃないですか。」

 ルイが湯面に視線を落としての呟くような声で、アレンは全身が一瞬で沸騰したように感じる。
 ルイの言うとおり、昨夜の濃密な時間で、アレンはルイの最後の1枚を脱がし、ルイの全てを見てルイの全てに触れた。絶妙といえる薄暗さも相俟って2人の興奮は留まるところを知らず、翌朝、ルイは起床後に改めて入浴し、シーツを全交換することになった。
 一時的な滞在、しかも本来は一等宝石細工師しか使用できない宿泊場所という意識が、最後の大きな一線を越えるのを阻止した。リーナが同室だったら、寝室から漏れ聞こえるアレンの囁きとルイの嬌声と2人の荒い吐息の連続で発狂したのは間違いない。

「昨日は暗かったから…。」
「アレンさんの吐息や指の感触を、私の身体の至る所で感じました。見えてないなんて言わないでください。」
「…はい。」

 ルイも昨夜の尋常ではなかった興奮を思い出し、視線を湯面に固定したままだ。それでも、身体を隠そうとはせず、アレンに身体を預けている。アレンはある意味開き直ってルイを包み込むように抱き締める。ルイはアレンの腕に手をかけ、視線を上げて頭をアレンの胸に委ねる。

「…丸1日大変な作業、お疲れ様。」
「アレンさんの剣を強化できる可能性があることですし、お義父様とお義母様が築かれた財産でもあるこの国と人々の暮らしを良くする可能性があることですから、私は私が出来ることをしました。」
「次は、俺の番だね。俺に出来ることは、強化された剣でカッパードラゴンを倒すこと。」

 アレンが担う任務はシンプルだが最も危険を伴うことだ。アレンの剣は確かにカッパードラゴンを倒せる可能性があるが、確証ではない。
 ドラゴンの強靭な鱗は大抵の武器を枝切れと錯覚させる。唯一の弱点である喉元の逆鱗を突けば倒せるのだが、それが容易に出来ればドラゴンが種族を超えて畏怖の対象になる筈がない。
 逆鱗を攻撃するには、ドラゴンの懐に飛び込む必要がある。ドラゴンも自分の弱点は十分理解しているから、易々と敵を懐に入れることはしない。フルプレートを紙のように切り裂く爪や牙、そしてドラゴンによって異なる強力なブレス攻撃は、懐に入る以前にドラゴンに接近することすら困難にしている。
 カッパードラゴンには力魔術のすべてが有効だが、生命力が非常に高いから弱い魔法は無意味に近い。ドラゴンを倒せるほどの魔法が使えるなら、懐に入ることを前提にする必要はない。そんな魔術師は3大称号-Necromancer、Illusionist、そしてWizardくらいのもの。それらの称号を保有することがセイント・ガーディアンを継承する条件の1つであることに象徴されるように、大抵は3大称号を得るのと寿命が尽きるのとどちらが早いかの話になる。それくらい困難なことをぶっつけ本番で実行し、成功させることがアレンの任務だ。重圧を感じない筈がない。

「アレンさんの剣が重要なのは間違いありませんが、アレンさんだけで戦うんじゃないですよ。」

 ルイが顔をアレンに向けて言う。

「私は勿論ですし、リーナさんも、この国の人達も、それぞれの方法でカッパードラゴンを倒すという目標に向かっています。アレンさんは独りで戦うんじゃなくて、多くの人々と一緒に戦うんです。大丈夫。アレンさんは必ず達成できます。そう信じているから…、私は…アレンさんに身体を許しているんです。」
「ルイさん…。」

 戦争にルールなどあってないようなものだ。そうでなければ国際法が整備された我々の世界においても尚、イラクへの侵略戦争やファルージャ虐殺など戦争犯罪が起きたりはしない。特にコミュニケーションが不可能な魔物相手に「一対一で正々堂々」云々など自殺教唆でしかない。しかも相手は人間を凌駕するドラゴンの1種族。総がかりで挑むことは何ら恥ではないし、武器や魔法といった、ドラゴンが使用しないもので自身を強化することも正統派の範疇だ。
 あらゆる手段を使ってカッパードラゴンを倒し、ジグーリ王国とラクシャスを滅亡の淵から救うと共に、採掘可能になったファイア・クリスタルで愛用の剣フラベラムの本来の力を取り戻す。それだけを考えて実行すれば良い。

「ルイさん。フォローを頼むね。」
「勿論ですよ。」

 アレンはルイを抱きしめる力を強める。ルイはアレンにより深く身を委ねる。カッパードラゴンとの決戦の時は着実に近づいている…。
 夜が更ける。特別工房で読書に耽っていたルイは、読んでいた薬学関連の書籍に栞を挟んで立ちあがる。
 モーグは今も作業中。アレンの剣フラベラムの穴に確実に填めるため、候補のクリスタルを慎重に研磨している。カッパードラゴンの出現によって採掘が不可能になったことで、在庫には制約がある。そのうえ、水晶は硬い一方で脆く、作業を誤ると容易に欠損する。気を緩めることが許されない作業だから、モーグはこの作業工程に入ってから一切休憩をしていない。リーナは読書に耽っているし、積極的にコミュニケーションを取るタイプではないから、モーグの集中を阻害しない。この点では、リーナが護衛として帯同しているのはモーグにとっては幸いだ。
 リーナはモーグの集中を途切れさせないよう、慎重にドアを開けて特別工房を出る。向かうは隣に用意させた部屋。寝泊りするためだけに用意させたため、ベッドの他は洗面台とトイレがあるだけの殺風景な部屋だが、元より装飾性より実効性を重視するリーナは気にならない。
 この部屋にリーナが入ったのは、寝るためではなく、イアソンからの通信を待つため。外の回廊は巨大な吹き抜けだから声が意外と響く。特別工房がある階層は最深部だからドワーフには影響はないが、モーグの集中を阻害する恐れがあると見て部屋を移動した。一見慇懃無礼とも映る言動のリーナだが、自分も薬剤師になるべく勉強を続ける身であり、集中したい時に阻害されるのは実害以上に精神をささくれ立たされることは十分理解している。
 ベッドに腰かけたリーナは、恐らく今日初めての溜息を吐く。護衛自体は必要なことだし、志願したことだ。それに、モーグも集中して作業に没頭するタイプだから、必要以上にコミュニケーションを求められないし、食事や休憩時の茶菓子も運ばれてくる。環境自体に不満はないが、疎外感を感じずにはいられない。その原因は言うまでもなく、アレンとルイとの比較だ。
 偶然にもアレンの両親が出逢い、大きな礎を残したジグーリ王国で、アレンとルイは完全に夫婦として認識され、アレンとルイもその認識を強めている。特にルイは対外的な説明を容易にするためという大義名分と、ジグーリ王国に出向く間の期間限定という、夫婦関係に存在する2つの条件を完全にかなぐり捨てている。むしろ、夫婦関係という格好の対外的な説明要素を入手し、邪魔なフィリアがいない今、豊満な身体を武器にしてアレンとの関係をより強固なものにしようという意図さえ感じる。フィリアが「非常にあざとく、しかも強か」とルイを酷評するが、その背景にある感情は別として内容は間違っていないという感が、リーナの中で指数関数的に強まっている。
 ルイがアレンにそれだけ入れ込むのは、聖職者やクォーターのダークエルフ、更には私生児というこれまで自分に付きまとっていた看板をアレンが当初から度外視して、1人の人間、女性として受け入れているためだ。アレン自身が美少女と見間違うレベルの女顔に華奢な体格という外見に、深刻なコンプレックスを抱えていたことで、ダークエルフの特徴を色濃く受け継ぐルイの境遇に共感する面もあっただろう。だが、偶然にも2人が出逢った当初からやり取りや過程を観察しているリーナは、単に同情や共感だけではなく、相互理解が早期からスムーズであった、端的に言えば2人の相性が抜群に良いと感じる。
 こうしている間にも、アレンとルイは熱く甘い時間を過ごしているだろう。ルイにはシーナから秘密裏に託された避妊薬を渡し、夜は必ず飲んでおけと言っているが、正直何時妊娠しても不思議ではない。場所の都合で最後の一線は超えていないようだが、ジグーリ王国全体に夫婦と認識されている現状を利用してルイがその気になれば、アレンは確実に一線を踏み越えるだろう。まさしく「非常にあざとく、しかも強か」な計略だ。
 その一方で、リーナは今もイアソンからのアプローチを保留し続けている。我ながらくだらないプライドに固執していると思うし、固執する自分自身がくだらないと思う。しかし、どうしてもイアソンからのアプローチに応じる一歩が踏み出せない。あれだけ邪険にしてきたイアソンのアプローチを受け入れることは敗北だという認識がどうしても消えない。そして、それらが自分のプライドによるものだと感じて自己嫌悪に陥る。何かしていないとこの無限ループに嵌ってしまうから、リーナは読書に没頭している。

「リーナ。聞こえるか?」

 リーナの耳に、イアソンの声が届く。思考の無限ループに陥りかけていたリーナは急浮上して、急いで通信機の片方を外して口元に運ぶ。

「う、うん。聞こえる。…そっちの様子はどう?」

 リーナは平静を装うが、思考の無限ループを脱したばかりの動揺は隠し切れず、声の微妙な震えとなって表れる。

「国王がマタラ元内相にすべての責任を負わせて、俺達パーティーとの和解交渉に道筋をつけたというのは、昨日も話したとおりだ。バシンゲンと首都キリカとの間は、往復で1日を要する。流石に伝令の体力的に厳しいだろうから、1泊はするだろう。」
「ドルフィンは直接交渉の日程をどう判断するかしらね。まさかあたし達が、ファイア・クリスタルの採掘のためにカッパードラゴンと対峙する直前だなんて分からないだろうし。」
「実は、その点については、伝令の親書にドルフィン殿宛の情報文書を紛れ込ませた。」
「そんなこと出来るの?」
「ちょっと際どいタイミングだったが、何とかなった。恐らく、情報文書は今頃ドルフィン殿が解読しているだろう。それを受けてタリア=クスカ王国との直接交渉の日程を決定してくれる筈だ。」
「解読って、暗号?」
「そうだ。万一部外者の目に触れると、色々面倒なことになる。こういう時は暗号を使うに限る。」
「あんたらしいと言うか…。」

 レクス王国の反政府組織「赤い狼」の若き情報幹部として活躍してきたイアソンならではの工作活動で、アレン達の現状を伝える文書がドルフィン宛のタリア=クスカ王国国王の親書に紛れ込んだ。しかも、途中伝令など部外者に発見されても分からないよう、暗号とされている。その解読方法は、ドルフィンとイアソンしか知らない方式だ。
 ドルフィンとイアソンは、かねてからパーティーが分散行動を取らざるを得ない事態が起こると予測していた。パーティーの人間関係が万全とは言えない状況であり、そうでなくても複数の目的を同時に達成するには、ドルフィンとシーナを主軸とするメイン部隊の他に、アレンとルイを主軸とする少人数の機動部隊、イアソンを主軸とする諜報部隊を編成し、分散行動を取る必要があると読んでいた。その議論の過程で、シーナが開発した通信機の他、入手できればファオマを使う他、ドルフィンとイアソンだけが分かる暗号を構成し、分散行動時の情報伝達に使用することにした。
 ドルフィンとイアソンに暗号の構成を知る対象を絞ったのは、シーナが隠し事に不向きなタイプであることと、人間関係が不安定な箇所であるリーナ、フィリア、そしてルイを先輩女性の立場から平定することを担当してもらうためだ。
 そしてその予測は的中し、今まさにパーティーは分散行動の最中にある。

「直接交渉の日程の選択や交渉自体はドルフィン殿に任せるのが最適だ。これは余程の事態がない限り円滑に進むと見て良いだろう。だから、俺はもう1つの方に比重を傾ける。」
「何それ?」
「カーンの墓だ。国王は謎の病の原因がカーンの墓にあることは確実と見て、今も墓参を禁じている。一方で、このまま墓参を禁止することは、国民の精神的支柱を揺るがし、政情不安を招く恐れがある上に、この先予定している先住民族との交渉でもネックになる。そこで国王は、ドルフィン殿との直接交渉成立後、調査隊を編成・派遣して内情を調査する方針を打ち出した。これには病の治療に大きく貢献したシーナさんに協力を求めると共に、現地での危険を見越して軍も参画させる方針だ。」

 カーンの墓は、タリア=クスカ王国のみならず、今はジャングルに追いやられている先住民族の心の拠り所だ。長く対立が続き、双方は疲弊する中でも、カーンの墓に墓参する時だけは揃って先祖を救った英雄に思いを馳せてきた、言わば停戦ポイントだ。
 近年王国と先住民族を巻き込んだ謎の病は、タリア=クスカ王国ではシーナをメインに、リーナをサブに据えた製薬と全国的な配布、先住民族は偶然訪れたウィーザの診断と製薬によって収束し、どちらもカーンの墓に病の源泉があると特定し、カーンの墓への墓参を禁止している。
 タリア=クスカ王国の国民も先住民族も、これまでの行動からカーンの墓に何らかの原因があると推測できていたし、先住民族は病の治療と共に生活の環境や水準を抜本的に改善したウィーザをカーンの御使いと崇めて極めて従順だ。しかし、ウィーザも未来永劫先住民族の地に留まるわけにはいかないし、タリア=クスカ王国は先住民族との戦争が事実上停戦に至り、近年の政情不安がマタラ元内相によるものだと判明したことで、荒廃した国土と自分達の生活の再興を進めている。何時までもカーンの墓への墓参を禁止することは、国民の反感を呼び、ひいては政情不安を招く恐れがある。
 マタラ元内相から国政の実権を奪還し、先住民族と折り合いを付けながらの国家再建を図る国王にとって、カーンの墓に巣食うと謎の病の原因を取り除くことは非常に重要だ。カーンの墓が再び墓参可能になれば、タリア=クスカ王国と先住民族の融和の象徴と位置付けられるし、カーンの墓を謎の病から人々の手に取り戻したことになり、国民と先住民族双方からの支持を強め、政権の長期安定化に繋げることも出来る。

「カーンの墓は、先住民族にとっても重要な位置づけを占める。そこで国王は先住民族と正式な停戦協定を締結し、共存に向けた交渉を開始するため、使節団を派遣することを正式に発表した。更に、先住民族にも可能ならカーンの墓の調査と謎の病の原因の除去に協力を要請するそうだ。」
「かなり積極的な外交ね。先住民族に停戦協定と共存の交渉を始めると同時に、謎の病に対して共同戦線を張ろうと呼びかけるって。しかも不穏分子だった軍も上手い具合に抱き込もうとしてるし。」
「情報収集を進めたところ、やはり国王はかなり聡明なようだ。これほど外交と和平と主体に据えて、かつ多角的な方策を並行できる国の指導者は珍しい。」

 国王はマタラ元内相に実権を掌握されていた時代に指を咥えて傍観していたわけではなく、マタラ元内相の「次」を予測し、そのために必要な方策をシミュレーションしていた。中でも近年王国と先住民族に蔓延していた謎の病と、その原因と推測されたカーンの墓がカギになると見込み、そこに先住民族をどのように抱き込んで融和と共存を進めるかを模索していた。
 そんな折、イアソンの工作によってマタラ元内相の悪事が露呈したことで、重大な反逆者として全責任を負わせる形で投獄・排除できた。戦闘一辺倒だったマタラ元内相に対して、先住民族との共存を図り、疲弊した国民生活の再興を重視した施策を打ち出し、その過程で懸案だった軍の懐柔にも成功した。
 国王は融和と共存をキーワードとして、複数の施策を並行して進めることで国政の安定化を目指すという一貫した方針を有している。権力に溺れて独裁体制を敷くか、大臣などの傀儡として利用されるかのどちらかが殆どの指導者とは違い、中長期的な視野を持つ聡明で有能な国王だとイアソンは高く評価している。

「カーンの墓に対して、あんたが何をするわけ?」
「調査隊に先行して、カーンの墓の状況を調査する。」
「それは絶対止めておきなさい。病が変質してたら、あんたが持ってるシーナさんの薬が効かなくなる場合があるし、最悪致命的なレベルの大流行を巻き起こす恐れがあるわよ。」

 リーナはこれまでになく強い口調でイアソンを諫める。
 リーナは目指す薬剤師の試験範囲には、主な病の性質と対策も含まれている。この世界ではまだウィルスの存在が知られていない12)が、インフルエンザなど致死率は低いが感染力が高い病気の中には、これまでの薬の効果が低くなることがあり、天然痘やペストなどのように決定的な対策を講じにくいという認識が、医師や薬剤師など一定の知識水準を持つ者には共通している。
 シーナを補佐して謎の病の治療薬を製造したリーナは、謎の病がインフルエンザなどと類似した性質を持っていると推測している。変質した病を持ち込んだ場合、既存の薬の効果が限定的となる恐れがあるし、更に致死率が高くなる方向に変質していたら、タリア=クスカ王国を破壊しかねない。謎の病の原因究明は、シーナやウィーザなど医学薬学の専門家に任せるのが賢明だ。

「原因を究明するつもりが、病を再び広めることになったら洒落にならない。国王の失脚にも繋がりかねない重大事態ってことよ。」
「至極もっともだな。分かった。俺がカーンの墓に潜入することは撤回する。」
「まったく…。情報収集や工作活動に勤しむのは良いけど、状況を考えなさい。下手に首を突っ込んで取り返しのつかない事態になったら、諜報どころじゃないわよ。」
「リーナに話をして良かった。リーナの聡明さはパーティーでも指折りだな。」
「…それはどうも。」

 イアソンの称賛に対してリーナは素っ気なく応えるが、以前の「お世辞を言っても無駄」ではなく「照れくさい」という感が声に滲み出ている。声だけの通信だから、赤らんだ表情が見られないのはリーナにとっては幸いだろうか。
 リーナは自分にも他人にも厳しいことで、褒めることは勿論、褒められることにも不慣れだ。以前なら「お世辞は不要」と一蹴していたところだが、今はリーナの心を複雑に揺らす。
 思えば、アレンとルイは互いをよく称賛する。カップル、今は期間限定の夫婦という特別な関係なのもあるだろうが、事あるごとに互いに称賛し、感謝を口にしている。そういえば、ドルフィンとシーナもそうだ。「してもらって当然」より「してくれてありがとう」の方が受け取る側は張り合いがあるし、次をより良いものにしようと思うだろう。以前は社交辞令か相手をおだてる意図があるのかと思っていたが、カップルが円満に長続きする重要なコミュニケーションなのかとリーナは思い始める。

「あんたは単独行動だから、いざって時に誰も助けられない。そのことを踏まえて行動…して。」
「!あ、ああ。十分理解した。」

 リーナが命令口調でなく、依頼・要請する口調で話すのは非常に稀なこと。しかも、イアソンに命令口調でないのはこれが初めてだ。躊躇するが故に消え入るような音量になったことで、懇願するようなニュアンスが加わり、イアソンにとっての破壊力が増した。声だけの通信であることが更に破壊力を増した面もある。
 通信を終えて、リーナはようやく踏み出した一歩がこの程度かと自己嫌悪する。これだけ勇気を出して、プライドの山を乗り越えて口調を変えても、今頃声を忍ばせてでも熱く甘い時間を過ごしているであろうアレンとルイには遠く及ばない。その現実がリーナの疎外感を強める。
 一方のイアソンは、身を潜める倉庫の片隅で、降って湧いたイベントに高揚している。声だけの通信が生むリーナとイアソンのギャップは、容易に埋まりそうにない…。

用語解説 -Explanation of terms-

10)モーグの住居がある層:ジグーリ王国は世帯主(男女は不問で専門分野や軍の階級が高い方)の階級によって、低い方が地面に近く、高い方が地中に近い方に家を配分される。モーグは一等宝石細工師かつ軍の中将なので、最も地中に近い層に家を配分されている。

11)スーホン:卵黄をベースにふっくら焼き上げて作られる、我々の世界におけるカステラに近い食感の菓子。タリア=クスカ王国の郷土料理の1つで、アレンとルイがレシピを憶えていたことで作られた。

12)この世界ではまだウィルスの~:細菌は顕微鏡で見えるマイクロメートル(1mmの1/1000)サイズだが、ウィルスは細菌よりはるかに小さいナノメートル(マイクロメートルの1/1000、つまり1mmの1/1,000,000)サイズなので、電子顕微鏡でないと観察できない。この世界では顕微鏡が既に発明されているため、細菌の存在は知られている。ちなみに野口英世が取り組み、自らも罹患して倒れた黄熱病(厳密には黄熱が正確な呼称)もウィルス性疾患であり(マラリアと同じく蚊が媒介するが、マラリアはマラリア原虫という微小な寄生生物が病原体)、黄熱病がウィルス性疾患であると突き止め、黄熱ワクチンを開発したマックス・タイラー(Max Theiler)は、1951年にノーベル医学生理学賞を受賞した。