謎町紀行 第77章

欲望と情欲に溺れた果てに

written by Moonstone

 HUDとナビの案内に従って移動する。往路と違って複雑な経路じゃないけど、どうも市街地に向かっているようだ。市街地に近づくにつれて渋滞や通行止めを示す色表示やマーカーが増えて来る。市街地中心部はすべて通行止めだ。HUDとナビの誘導は、市街地中心部から少し離れたところに向いている。
 誘導されたのは、市街地から離れたところにある有料駐車場。市街地にシャル本体で入るのは、通行止めの連続でどう考えても不可能。本体を離れた場所に置いて言うなればリモート端末のシャルで向かおうというわけか。ごくごく妥当な判断だ。
 シャルは僕の手を引いて市街地中心部へ向かう。ナビで見た感じ、市街地中心部まで2kmはある。基本的に平らな土地だから上り坂の苦労がないだけありがたい。だんだん道路の混雑が酷くなってくる。車は1台も走っていない。市街地全体が歩行者天国になったみたいだ。

「凄い混雑だね。」
「車が全面通行止めの理由の1つです。カノキタ市内外から市役所付近に人が集結していて、流入した外国人とその支援団体に退去を求める側と、外国人排斥に反対する側のデモとシュプレヒコールに溢れています。」
「反対派も集まって来たのか。」
「一部の外国人が生活保護や医療制度にただ乗りしているのは事実ですし、それに対する批判を人権や差別で排除してきたのが、この世界のリベラル派の重大な弱点です。そこを突かれれば、困窮する自国民より不正を働く外国人を優先するのかと反感を持たれるのは当然です。」

 残念だけど、この世界のリベラル派は人権を神聖視・絶対視しすぎるきらいがある。そして人権や各種権利・制度の悪用に外国人や女性、最近だとLGBTなど所謂社会的弱者が絡むと、それに対する批判を機械的に差別として排除して、逆に批判した側を攻撃する。
 「人権差別と叫ぶけど、所詮は奴等の飯のタネ」という都々逸に絡めた揶揄がある。実際、人権や差別問題はリベラル派が政権や支配層などを批判・攻撃する有力な材料でもある。無論、本当に真剣に取り組むべき人権侵害や差別問題はある。だけど、制度や権利の悪用に対する批判に、人権や差別を印籠のように持ち出して機械的に排除するのはあまりにも短絡的だ。
 リベラル派が特に日本で支持を集められないのは、制度や権利の悪用という身近な悪に対して毅然とした態度を取れず、逆に人権や差別を盾にそれらを擁護さえすることが大きな要因だ。法治主義を言いながら人権や差別を持ち出せばそれらが無視できると言わんばかりの言動で、自国民の支持が集まる筈がない。
 カノキタ市はそういったリベラル派に不都合な闇が凝縮された状態に巻き込まれている。一般市民は外国人と支援団体の退去の方に支持が多い。何しろ子育て支援の名目で住民税は高額で、子育て支援以外の市民サービスは二の次三の次。おまけに子育て世帯の無法ぶりに苛まれ、不満が鬱積していたところだ。
 自分達の負担の上に成り立つ子育て支援に、困窮したとはいえ遠路はるばるカノキタ市に乗り込んで保護を求めるさまは、客観的に見て自分達の負担が増えるだけとしか映らない。外国人世帯を除外しなかった条例の穴を悪用する形の保護を求める流入と自国民との軋轢は、外国の移民・難民問題にも重なる。
 結局、そこでも自国民の生活や安寧より、移民や難民を優先する歪な人権意識と、それに対する批判を機械的に差別と見なして排除・攻撃するリベラル派の重大な弱点がある。外国人や移民の排斥を唱える極右政党が伸長する理由は、人権や差別を出せば解決するとリベラル派が認識する限り分からないだろう。

「市役所のほうまで行く?」
「いえ、現状でこれ以上進むのは時間の無駄ですし、危険も伴います。こっちへ。」

 シャルが案内した先は、ごく一般的な通り沿いのカフェ。通りが大混雑で大混乱している影響か、店内は思いの外客がいない。しかも、カノキタ市では当たり前だった、騒々しい子連れの客が全くいない。店員に窓際の席の1つに案内されて、シャルはゆったりメニューを広げる。

『航空部隊が展開中です。此処から中継を見ます。』

 シャルがダイレクト通話の後、親指と人差し指で摘まむような仕草をする。耳に一瞬違和感を覚えたのち、演説らしい声と、拍手や野次が不規則に入り乱れる喧騒がうっすら聞こえてくる。

『例の猿は、間もなく舞台に到着します。』
『舞台って…、此処は市役所前?』
『はい。財務官僚の威光と私利私欲で市役所と市民生活を牛耳った猿の最後の舞台としては、なかなかの晴れ舞台です。』

 この混雑と混乱の中に渦中の人物が飛び込んだら、無事では済まないだろう。シャルが恐らく代表の顔に施した治療は、治療と言うより仮面の装着だろう。流石にひしゃげて血塗れの顔で人前に出たら、代表が何かするより先に救急車を呼ばれるだろう。そうさせないために、シャルが代表に仮面を装着した。悲惨な仮面舞踏会の舞台に引きずり出すために。

『猿が舞台に到着しました。』

 シャルが窓を向くように立てたスマートフォンに、混乱の中、市役所前に陣取っていた選挙カーのようなワンボックスの上に、代表が乗り込んできた。

『この街宣車は外国人や支援団体の退去を求める右翼団体のものです。』
『そこに代表を乗せるのは危険じゃない?』
『最後の舞台の邪魔にならないよう、動きを制限しています。』

 舞台の演出や監督として、その辺は抜かりない。ざわめきの中、マイクを持った代表は何を言う、否、言わされるんだろうか。

「失楽園カノキタ市の愚民の皆さん!!この田舎町をはるばる訪れた愚民の皆さん!」

 な、なんて切り出し方だ。完全に市役所前に集まった人々を愚弄している。元を辿れば、この代表が主計官の威光を笠に着て好き放題したのが原因なのに。そもそも、田舎町どうこう言うなら、代表の出身地のヒジリ市も似たようなものだ。

「私はカノキタ市子育てママ課の課長にして、次期カノキタ市市長として愚民を統率する立場にあった者です。」

 常識外れの自己紹介がなされ、聴衆からの怒号が一気に大きくなる。市役所前には、自分達の重税にただ乗りしようとする外国人や支援団体に業を煮やしたカノキタ市の市民も大勢詰めかけている。その市民の多くに重税を課し、更には堂々と愚民呼ばわり。厚顔無恥の斜め上を行く。

「私はこの田舎町出身の財務省主計官を公私ともに密接に協力し、子育てのために奉仕する町づくりを目指してきました。子どもを産み育てることこそ至高!それ以外の愚民は子育て世帯に税金で貢献すべき!その信念を財務省主計官に話したところ、大変絶賛されました。」
『凄い露骨な演説だね。これ、シャルが仮面で言わせてるんだよね?』
『装着した顔面から脳神経系に干渉して、記憶を整理した上で順序だてて公表しているだけです。』
『それ、世間一般では言わせてる、って言うんだけど。』

 仮面が直接顔面に突き刺さって、その先端が脳神経に直結して、記憶を引っ張り出した上で整理して口を動かしているようだ。なかなかえぐい光景だ。シャルが直接僕やシャルに危害を加えていない代表にここまで激しい制裁を加える理由は何だろう?
 野次と怒号が溢れる中、代表は朗々と演説を続ける。中でも、財務省主計官の威光を笠に着ることで、市役所に自分が率いる市民団体を食い込ませたこと、財務省主計官と現市長が財務省の先輩後輩であること、財務省主計官は代表の企てを評価・支援したことを利用して、カノキタ市から次期衆議院選挙に立候補する準備を進めていたことが、野次と怒号を強めさせる。

「私の栄光ある立身出世の道は、財務省主計官との一心同体、公私一体の結果です。そう、私はかの財務省主計官と5年間真実の愛を貫いてきました!」

 野次と怒号が大きなざわめきに替わる。財務省主計官との不倫を公然と公表するとは、誰も思わなかっただろう。同時に、言葉は悪いが一介の市民団体が、市役所の一組織に食い込み、市長に匹敵する権限を持って子育て世帯絶対の階級社会を作れた理由がよく分かる。ざわめきが再び野次と怒号に変化していく。

「私は伊邪那美神の啓示を受け、女性が輝く時代、女性が主役の社会を作るために邁進してきました!愚民は強い者に統率されれば良いのです!皆さんもそれを望んでいる筈!さあ!この伊邪那美神の啓示を受けた私に跪きなさい!愚民ども!」

 あまりにも人を馬鹿にした演説に、野次と怒号のボルテージが最高潮に達する。次の瞬間、悲鳴が上がる。代表の顔面が一瞬にしてひしゃげた血塗れのものになった。シャルが装着した仮面が?がされたんだろう。これがシャルの策略?見るも無残な顔かたちを晒されるのは確かに屈辱ものだろうけど、それだけじゃない…!

『シャルがこうしたのって、伊邪那美神の故事になぞらえたから?』
『聡いですね。そのとおりです。伊邪那美神の啓示を受けたとほざくなら、伊邪那美神と同じ境遇にしてやるのが良いかと思って。』

 伊邪那美神は火の神を産んだ際に死んだ。その死を悲しんだ伊邪那岐神が黄泉の国に赴き、一緒に帰って欲しいと言った。伊邪那美神は黄泉の国の神に頼んでみるからその間自分を決して見るなと告げた。なかなか戻ってこない伊邪那美神に痺れを切らした伊邪那岐神が暗闇を照らしたら、醜く腐り、蛆が沸いた伊邪那美神を見てしまった。
 激怒して鬼女や鬼の軍団に追跡させたが、伊邪那岐神は葡萄や筍、そして桃を投げつけて追手から逃れた-この時の故事が桃の節句ことひな祭りに繋がる-。そしてあの世とこの世の境、黄泉比良坂に巨大な岩を置いて塞ぐ。代表が伊邪那美神の啓示を受けたことを理由に私利私欲に走ったことで、シャルは伊邪那美神の故事になぞらえた制裁を下したわけだ。
 代表は血まみれでひしゃげた顔を周囲に向ける。その都度悲鳴が上がる。僕はシャルにこうされる過程を見たからある種の免疫でも出来たのか、ものが食べられなくなるようなショックはないけど、えぐい光景なのは変わりない。それにしても何となく歌舞伎か何かのような変わった動きだ。錯乱してるのか?

『いえ、仮面を介して脳神経系を直接操作しているからです。』
『仮面が光学迷彩で見えないだけか。』
『そのとおりです。性根が腐った伊邪那美神を騙る不届き者の舞台は、蹂躙した町での独演会では終わりません。』

 シャルはまだ制裁を止めない。これまでの傾向からして突出して激しい制裁だ。何がシャルの逆鱗に触れたのかまだ分からないけど、シャルの気が収まらない限り、代表への制裁が終わることはない。顔面から脳神経系を直接操作されている代表は、逃げようにも絶対に逃げられない。徹底的に悪事を晒して破滅するしかない。

『猿の夫を見つけました。同じ市内ですから、不倫猿の存在を聞きつけたようです。』
『代表の夫って、確かタザワ大学病院時代に代表と出逢って結婚したんだよね?』
『はい。今はこのカノキタ市で開業医をしています。猿と違って夫の方は至って誠実。正確な診療で評判が高いです。』
『そんな夫が居ながら不倫なんて…。』
『不倫をする連中なんて、自分のことしか考えない利己主義者ですよ。配偶者や子どもがどれだけ傷つこうが構わない。ばれなければ何をしても良い。ばれたら逃げるか泣くかしてほとぼりが冷めるのを待てばよいと考える。そんな腐った性根だから不倫が出来るんです。』

 代表は自分のために市民団体を市役所に食い込ませて市役所と自然体を牛耳り、次のステップとして次期カノキタ市市長の座を狙っていた。主計官は代表を利用してカノキタ市での実績として、次期衆議院選挙を足掛かりに国会進出、そして首相の座を狙っていた。すべて共通するのは「自分のため」だ。
 同時に、自分のためなら他人を踏み躙って構わないし、そもそもそれを当然とさえ思うのも共通している。過去にヒヒイロカネを悪用してシャルの制裁を受けた輩は、この程度がどれだけ広範囲で醜悪かの違いでしかない。不倫もシャルの言うとおり徹頭徹尾利己主義。それを擁護・美化しておいて「結婚して一人前」とかどの口が言うのか。

『猿の制裁はこれで終わりじゃありませんよ。むしろこれからです。』
『これ以上何かすることってある?』
『1つの自治体を踏み台にして首相の座を狙った、財務省の腐れ官僚と共倒れしてもらいます。』

 まさか、これから代表を霞が関まで行かせるのか?シャルならやりかねない、否、やるだろう。シャルは一度キレたら情け容赦ない制裁を加える。代表にはシャルが創造した仮面が装着されていて、脳神経系を直接操作している。痛もうがどうしようがそれこそ這わせてでも霞が関まで行かせる。

『シャル。どうして代表をここまで追い込むの?代表が私利私欲でカノキタ市を牛耳ったのは事実だけど、物理的な被害は出ていないし、僕とシャルも同じ。』
『猿の破滅を見届けてから詳しくお話ししますが、猿の思い上がりが許せないんです。』

 思い上がり…。市役所の1組織として行政に食い込んで、市長に匹敵する権限を奮っていたのは事実だし、それを実績として不倫関係にあった財務省主計官と二人三脚で次期市長を狙っていたことは、甚だしい思い上がりではある。だけど、シャルの口調はそれ以外にもっと、シャルに徹底的な制裁を決意させた理由があるのを感じさせる。

「伊邪那美神と並び、私に愚民を統率するよう掲示した、愛しき財務省主計官!されど彼は、私との公私一体の関係が公になった途端、踵を返して霞が関に向かっているという!ああ、何という無責任さ!私は彼を許さない!彼と共に並び立ち、愚民を統率することを高らかに宣言する!」

 代表は財務省主計官を追跡することを宣言して、街宣車から降りる。その直後、街宣車の周辺の人だかりに不自然なスペースが出来る。代表が血塗れの顔を四方に向けながら歩いている。ひしゃげて血塗れの顔を近くで見て平気でいられる人はそうそう居ない。代表はまるでヤクザが周囲を威嚇するように顔を忙しなく左右に振りながら市役所前を後にする。
 僕とシャルは、運ばれてきたケーキセットを食べながら、代表の動向を見る。あまりに酷い顔面に野次と怒号を忘れた群衆が半ば呆然と見送る中、代表は周囲にひしゃげて血塗れの顔面を左右に向けて、威嚇しながら移動する。行きついた先は、カノキタ市駅。そこから電車で霞が関まで移動するようだ。
 人気がなくなったところで、シャルが装着させた仮面が復活して、能面みたいな無表情ながら周囲をたじろかせることはない。そこで切符を買ってホームに向かう。ホームは中央にあって、両側を上り下りの電車が行き来するタイプ。代表は人気の少ないホームで棒立ちになる。
 ケーキを半分ほど食べたあたりで、電車が来る。2両編成のごく一般的なローカル線といった趣の車両に、代表は乗り込む。行先はタザワ市駅と出ている。タザワ市駅は渦中の人物の1人、財務省主計官が東京から新幹線で降り立った駅。今から霞が関まで行くとなると、それなりに時間はかかるだろう。

『時間がかかろうが、今日中に霞が関まで行かせますよ。今からなら十分可能です。』
『財務省主計官の居場所は…分かってるか。』
『航空部隊のほんの一部を回すだけで可能です。今は霞が関にほど近いホテルの一室に籠っていますよ。乳繰り合った猿がやって来るとも知らずに。』

 シャルは這わせてでも代表を霞が関に行かせて、件の財務省主計官に合わせるつもりだ。シャルが創造した仮面が代表の脳神経系を直接操作している以上、肉体の限界を超えようが、顔面が身体を引きずってでも霞が関への歩みを止めさせない。まさに死の行軍だ。

『市役所前の混乱が再び活発化しました。事態収拾のため、I県県警が機動隊を派遣することを決定しました。』

 代表の「死の行軍」を注視していたら、本来の騒乱の要因である、外国人や支援団体とその退去を求める団体、そしてカノキタ市内外の市民の口論や掴み合いが再び活発化する。代表が財務省主計官と結託しての悪事が子育て支援関連と重なることから、それにただ乗りしようとする外国人や支援団体はかなり分が悪い状況だ。
 代表が悪事を暴露したことで、市役所側も外国人や支援団体に退去を促す方向にシフトしてきた。元々、一介の市民団体が市役所の1組織になって、それまでの子育て支援関係の部署を吸収合併して焼け太りした。更に代表をはじめ、団体の構成員が大きな顔をして市役所内外を跋扈したから、市役所職員は快く思わない。
 加えて今回の騒乱に、休日だというのに事態の鎮静化のために駆り出されている。しかもそれは代表と市長の連名だという。不満が鬱積していたところに、自分のためにカノキタ市と市役所を踏み台にしていたことが当人の口から暴露されたんだ。やる気になる方が珍しい。
 外国人や支援団体は、代表の暴露を受けて排斥の大義名分を得た形の反対派団体とカノキタ市内外の市民の勢いに加え、市役所職員の実質的なサボタージュで明らかに押されていく。外国人や支援団体は人権や差別を打ち出して反撃を図るが、自分達の人権を侵害された挙句に批判を差別でひとくくりにするテンプレ的行動に、反発は強まるばかりだ。
 市民の方から「帰れ」コールが出て、一気に全体に伝搬する。外国人や支援団体はじわじわと市役所周辺から排除されていく。混乱の中、背丈ほどある金属製の盾を持った武装集団が乗り込んで来る。I県県警の機動隊だ。機動隊は拡声器を使って市民には解散を、団体には退去を要請する。
 だけど、どちらも要請に応じる気配はない。逆に機動隊に対して市民や団体から「上級国民は丁重に対応するのに、一般市民は機動隊で抑え込むのか」「上級国民専属の警備会社は帰れ」などと激しい反発が起こり、「帰れ」コールの矛先が外国人や支援団体から機動隊にも広がる。
 機動隊は要請を繰り返すに留まる。ここで迂闊に強制排除に乗り出したら、A県県警の事例を出されてI県県警全体に非難が集中するのは避けられない。しかも動画アップも可能なSNSが市民に広く普及している上に。編集も容易。強制排除の部分だけ抜き取られて拡散されたら、I県県警だけでなく警察全体が更に致命的なダメージを受ける恐れがある。

『I県県警は市民から逮捕者を極力出さないよう指示しています。現状で強制排除は危険と判断するだけの知能はあるようです。』
『機動隊の人数は分からないけど、かなり厳しそうだね。』
『市民や団体は双方合わせて78524人。対する機動隊は500人。国会議員相手のように、丁重にお引き取りいただけば良いんじゃないでしょうか。どれだけ時間と手間がかかるかは知りませんけど。』

 実力なら機動隊の方が有利だけど、数と条件はかなり不利だ。実際、市民の中にスマートフォンを構えている人がかなりいる。機動隊が強制排除に乗り出した瞬間から拡散が始まるだろう。そうなったら「I県県警も同じ穴の狢」など批判が沸き起こるのは避けられない。機動隊も手を出しあぐんでいる様子がうかがえる。

『市役所周辺は機動隊が何とかするでしょう。その結果がどうなろうと知ったことではありません。顔面が崩壊した猿と、支配者面をして猿と乳繰り合っていた腐れ官僚の末路に焦点を絞ります。』

 カノキタ市の騒乱は、カノキタ市の条例による子育て支援の手厚さをSNSで外国人世帯を対象に流したシャルが原因と言えなくもないけど、それは言わぬが花というやつか。それは兎も角、ある意味本題に戻ったと言える。「支配者の証」として継承あるいは争奪されているヒヒイロカネを持つ高級官僚と、それを譲り受けた市民団体代表の邂逅、否、対峙。
 出世競争に致命的なダメージを負った主計官は、徹底的に雲隠れするだろう。現に、今はホテルに立て籠もっている。新幹線に乗って一路霞が関を目指す代表は、血眼になって主計官を追うだろう。恐らくシャルは代表に主計官の情報を流す。必ず対峙する。霞が関の何処かで、或いは別の場所で。
 シャルが主計官と代表を対峙させる理由は、政権中枢に食い込んでいる確率が非常に高くなったヒヒイロカネ、そしてその背後にいると見られる、シャルが創られた世界の人物の行方を引き出すため。その舞台としてシャルが選ぶのは何処かはまだ分からない。

「このケーキ、美味しいですね。」
「あ、うん。そうだね。」

 唐突にシャルがケーキを堪能するモードに切り替わる。途中交換しながら、外の騒乱を他所に紅茶を片手にケーキセットをゆったり楽しむ。やっぱり、ケーキには紅茶が合うと思う。この辺、シャルと同じ価値観や嗜好で良かった。コーヒーか紅茶かで喧嘩には至らないと思うけど、どちらかに合わせるのはちょっと難しい。
 ケーキセットを食べ終えて店を出る。通りの騒乱はまだ続いている。実力行使が極めて困難な状況の機動隊は、人数と勢いに押され気味という。外国人と支援団体がじわじわと退去に追い込まれていることで、これに割って入ると外国人と支援団体の味方と見なされて攻撃されかねない懸念があるんだろう。

『僕達も霞が関に行く?』
『その手間は当面不要です。航空部隊と地上部隊が展開する中、洗いざらい吐かせます。ヒヒイロカネの存在が明らかになったら、一気に叩きます。その時に霞が関に出向くことになります。』
「タザワ市のホテルに帰りましょう。今日は移動が頻繁で疲れたでしょう?」
「ちょっとね。」
「今回の理由も、ホテルでお話しします。」

 シャルの声のトーンが若干曇る。何らかの理由でシャルの逆鱗に触れて激しい制裁を受ける羽目になった代表。その代表と主計官の対峙やヒヒイロカネの存在も勿論気がかりだけど、シャルがこれまでにない形で激情を露にした理由を知りたい。何となく、シャルをもっと知ることが出来るように思う…。
 夜。夕食と入浴を済ませて部屋に戻ったら、ベッドに引っ張り込まれて営みに入った。当初は戸惑ったけど、僕がプレゼントしたワイシャツを羽織っただけの肢体と、甘い声で耳元で甘えられてせがまれたら、単純な僕はたちまち没頭してしまう。あの日以来毎晩営んでいることになる。これが「よく寝られたのに何だか寝不足」の理由。
 シャルは僕に覆いかぶさって荒い呼吸を続けている。シャルが上で果てたからだ。何時も激しいけど、今日は更に激しかったような気がする。おかげで僕はシャルを抱き締めるどころか、手を動かすのも億劫に感じるほどだ。傍から見れば大層贅沢なシチュエーションだろうけど。

「私があの猿に激昂したのは…、猿の思い上がりです。」

 シャルは僕に覆い被さったまま、耳の近くで囁くように言う。思い上がり…。主計官と結託して次期カノキタ市市長の座を狙っていたのは思い上がりと言える。だけど、シャルの逆鱗に触れたのはそれじゃないと感じる。

「あの猿は…、市役所でのある会合でこう言い放ちました。『子を産む女性こそ至宝。子を産む女性を他の市民が支える社会こそ理想郷。』『独身者は特に多くの税金で子育て世帯を支援しなければならない。独身者の遊ぶ金を子育て世帯の支援に回す方がはるかに有意義。』-子どもを産むことを絶対として、それ以外の人は下支えをしろ。特に独身者からは税金として可能な限り搾り取る。そういう志向があったんです。」
「独身税みたいなものか…。少し調べれば、独身税が出生数の増加どころか逆効果だったことは明らかなのに。」
「独身者は出逢いが必要です。そのためには余暇と自由になる金銭が必要です。なのにあの猿は、自分達がすでに出産していることから、出産に至るまでの過程を度外視して…、自分を含む子育て世帯に奉仕しろ、それが社会のあるべき姿、と言い放ったんです。」
「何処までも自分のため、自分のことしか考えない人物だったんだね…。」

 自分を含む子育て世帯のために、特に独身者を標的にして多額の税金を搾り取る。独身税の前例に倣った愚策を、子育て支援を名目に導入した。その結果、子育て世帯は潤沢な助成を受けることが出来るようになった一方で、独身者は重税にあえぎ、結婚どころか出逢いもままならない状況が生まれた。
 更に、金を求める子育て世帯が流入する一方、独身者や子どもがいない夫婦、高齢者世帯は転出するか、重税に甘んじるかの二択を強いられた。共稼ぎで比較的潤沢な、子どもがいない夫婦は、早々に見切りをつけて転出していき、独身者、特に若い人や高齢者世帯が重い負担を強いられることになった。
 独身税そのものの税金に加えて、生活のあらゆる面で子育て世帯と子ども優先、否、絶対の環境が義務とされた。その一端が、僕とシャルが店で見た光景だ。子育て世帯はますます増長し、独身者や高齢者世帯など、子育て世帯でない人を人として扱わないことさえ一般的になった。

「『子育て世帯は志向の存在であり、誰もその活動を阻害することは許されない』『子育てをしない世帯は、市や県、ひいては国に貢献しない無駄銭使いと言っても良い』…あの猿はこうも言い放ちました。子どもが欲しくても出来ない、子どもを持つために準備をしている、子どもが巣立った、そんな人達もたくさんいるのに、そんな人達は虐げて奴隷にして良いとさえ言い放ったことが…許せなかった…。」
「…。」
「子どもを持つことがそんなに偉いのか、子どもを産んだら崇め奉られるのか、そんな疑問と怒りが交錯して…。そこに、あの猿が財務省主計官と結託して更にカノキタ市を我が物にして、子育て世帯以外を蹂躙しようとしていたことが分かって…。頭が沸騰しました…。」

 シャルは自分が人間じゃないことが意識の奥底にある。どれだけ僕と身体を重ねても子どもを持つことが出来ないことが、ある種のコンプレックスになっている。そんな時に、あの代表が、子どもを産んだことで絶対の存在でありそれ以外は奴隷に甘んじろと実質的に公言した。それがシャルの逆鱗に触れたわけだ。
 シャルを批判したり咎めたりするつもりはない。シャルのコンプレックスを意図しなかったとはいえ踏み躙ったのは事実だし、それを差し引いても、子育て世帯、特に母子の存在の絶対化と、それに伴う母子の無法ぶりは常軌を逸している。殺人や強盗、放火といった直接的な重大犯罪ではないけど、市民に深刻な分断を齎し、市や県の財政を食い潰した責任は重い。
 しかもそれは、霞が関の高級官僚との不倫関係の上に成立・進行していて、代表が将来的にカノキタ市の市長になるための踏み台作りだった。私利私欲のために財政的裏付けの乏しい施策を優先させ、市民に分断と重税を齎した。これまで遭遇したヒヒイロカネ悪用の輩と似たり寄ったりだ。

「シャルは悪くない。」

 何とか右手を動かしてシャルの頭を抱く。

「子どもを産むだけなら、それこそ猿でも出来る。躾が伴わないと人間じゃない。猿でしかない。代表やそれに乗じた子育て世帯は、猿が跋扈する社会を作り出してしまった。その責任と代償は、これから償うことになる。」
「…。」
「今聞くことじゃないかもしれないけど、代表と主計官はどうなってる?」
「今夜の邪魔なので、それぞれに情報を流して夜の東京を徘徊させています。」
「それで良い。人目に付かないところに追い込んで。」
「衆人環視の下で洗いざらいぶちまけさせて、無様に吊し上げたい。」
「否、政権中枢は恐らく代表と主計官の抹殺に動いている筈。口封じされないようにして、後で捕縛して吊し上げるなりした方が良い。」

 ヒヒイロカネが政権中枢に食い込んでいることが明らかになった。その一部と言える主計官が代表との不倫で雲隠れして、代表はこの時間だと霞が関に入って主計官を追いかけている。支配者の証とされているヒヒイロカネの存在を知るこの2人が政権中枢から見て不審な動きをすることは、2人が抹殺対象になり得ることでもある。
 日本に政権中枢から抹殺対象にされるとかありえないという向きもある。だが、政権とそれに繋がる経営層-まとめて支配層と言って良いかもしれない-にとって邪魔な存在は、あの手この手で妨害される。時にはあり得ない状況で不審な死を遂げる。それはどの国にもある秘密警察や情報機関が担う国家による妨害や暗殺だ。
 日本にも秘密警察や情報機関に相当する組織は数多い。昔からのものは特高警察の流れを汲む公安警察であり、支配層による政権打倒の動きを破壊活動防止法という法律に依拠して調査する公安調査庁だ。最近だと内閣情報調査室であり、国家安全保障局。偵察衛星で情報を収集して内閣に直結する機関や、警察官僚の指定席と化している官僚が居座る機関が情報機関でなくて何なのか。
 情報機関の存在自体は否定しない。だけど、日本の場合、情報機関の矛先は専ら国内に向けられるのが問題だ。その気になればそれこそ破壊活動防止法や各種刑法で一網打尽に出来る国内の過激派を泳がせて、左派運動に対する印象操作を続ける一方、朝鮮総連は事実上野放しだし、竹島、尖閣諸島に干渉する韓国や中国にまともにモノが言えない。
 政権側でも、政権側に不都合なことを言ったり、行動したりすれば、抹殺の対象になり得る。主計官と代表はまさにそれだ。公安警察に文字通り暗殺されて、自殺として処理されるのがオチだ。警察は所詮メンツと身内意識の塊で、政権=国体護持のための組織なのはもはや明らか。その闇の部分である公安警察の存在を認識している国民がどれだけいるか。
 主計官と代表を免罪するつもりはない。私利私欲で財政を食い潰し、人々の生活を踏み台にして出世を目論んだ代償は、民事刑事両方でしっかり裁かれる必要がある。その前提として、主計官と代表が生存する必要がある。法の下の平等とやらは、上級国民であろうと犯罪を犯せば被告席に立たされ、裁きを受けることで実現される。

「…分かりました。猿2匹に護衛をつけて霞が関から出します。」
「シャルの気が進まないのは当然だよ。だけど、支配者の証とされて政権中枢に食い込んでいるヒヒイロカネの回収と、暗躍する人物の所在や情報を掴むことは、主計官と代表の処遇と分離しないといけない。」
「はい…。」

 シャルがこんなに消極的な態度を取るのは初めて見る。本来なら衆人環視の前で洗いざらい吐かせた上で、全方位から攻撃を加えて骨も残らないほどバラバラにしたいところだろう。頭では分かっているけど、その行動をとりたくない。そんな心情が痛いほど伝わってくる。
 こうしている今も、主計官と代表は夜の闇に紛れて追いつ追われつを続けているんだろう。その行く果てに待つのはいずれも破滅。そのこと自体は自業自得だけど、背後で暗躍している、シャルが創られた世界の住人と見られる人物の動向が気になる。追ってくる?あり得る。近い将来、僕とシャルと対峙することになるだろう。
 代表を直接手を触れずに実質的に洗脳したり、足跡を残さずに立ち去ったりと、例の人物の背後には、シャルが創られた世界の高度な文明が見え隠れしている。その文明の英知の欠片でもこの世界の支配層に齎されていたら、待っているのは破滅だ。この世界の人間は、シャルが創られた世界の英知を使いこなすだけの倫理を持ち合わせていない。
 それに、シャルが創られた世界の文明は、僕の認識を凌駕している。シャルだけを取っても、プラントから水素を精製したり、光学迷彩を施したり、サイズはミニチュアながら破壊力は通常サイズ並みの兵器の数々を複数同時に制御したりと、この世界では基礎すら確立されていないことを単独で悠々と実現する。
 そんな文明を知る人物が、僕とシャル、マスターことあの老人、この世界に逃げ込んだ手配犯以外にもう1人いる。1人と言えど、圧倒的に高度な文明を知り、その英知を持っているであろう人物と対峙することになったら、果たして周囲を巻き込まずに戦えるんだろうか…?