謎町紀行 第44章

攻防戦の後で、本丸に向けて

written by Moonstone

 その日の深夜からSNSやオンラインニュースが大騒ぎになった。カマヤ市の旧カスプ社工場跡で大規模な水素爆発が発生し、敷地内に居た外国人が一斉に町に出た。相手は犯罪を犯して逃げ込んだ外国人だから、カマヤ市は本来閉鎖されている筈の工場跡の大爆発もあって、一斉に警察や消防に通報した。
 結果、外国人排斥団体の再集結への警戒で、県警本部からの応援がまだ残っていたのもあって、カマヤ市全体が大捕り物の様相を呈し、全員が逮捕・連行された。それだけならカマヤ市の懸案がひとまず解決したとなるけど、それだけじゃ収まらなかった。
 連行される外国人が、口々に「ホーデンが裏切りやがった」「ホーデンは俺達を捨て石にした」などと喚いた。日本語があまり流暢じゃないけど、声は大きいから嫌でも聞こえる。市民が唐突にホーデン社の名前が外国人から飛び出したことに疑問を感じたところに、工場跡で日本人1人が身柄を確保された。
 違う建屋にいた外国人と違い、爆発を起こした建物の中に居たこの日本人は、奇跡的に軽傷で済んだ。この日本人が同じく警察に連行されたけど、その直前にSNSにとんでもない爆弾を放り込んだ。何と「ホーデン社は、旧カスプ社工場跡地を安く買い叩くために、犯罪を犯した外国人を囲い込むよう秘密裏に指示した」というもの。
 SNSの短文だけだと信憑性は薄いが、立て続けに投稿した資料が強烈な内容だった。ホーデン社の渉外対策室から男性宛に、旧カスプ社工場跡地に失業した外国人を集め、共同生活をさせること、ただし、ホーデン社はインフラ関係のみ資金供与し、食料や生活費は外国人自身でどうにかさせろ、と指示するメールだった。
 同時に、外国人には、グローバル社会を生き抜くには、企業を宛にせず、自ら生き抜く時代であること、男性が居る限り最低限の住居と水と電気は確保されるが、そこから先は自己責任で活路を切り開くこと、より積極的に行動した者はホーデン社の幹部に登用すると伝達せよ、とも指示していた。
 男性の正体はホーデン社の渉外対策室員。言うまでもなく、外国人排斥団体に資金提供していたのもホーデン社の渉外対策室。ホーデン社は、片方で集めた外国人に幹部登用という餌をチラつかせて犯罪に駆り立て、片方で生きるために犯罪に駆り立てられる外国人への憎悪を煽り、全面衝突させる腹積もりだった。
 全面衝突となれば、負傷者は当然出るだろう。死者が出た恐れすらある。だが、そうなれば外国人排斥団体も旧カスプ社工場跡に集められた外国人も、傷害や決闘の罪で警察が一網打尽に出来る大義名分が成り立つ。外国人排斥団体と外国人が消えた旧カスプ社工場跡は、ホーデン社が二束三文で買い叩ける。
 トヨトミ市やココヨ市、そしてA県を牛耳り、ハネ村を吸収合併させようとしたばかりか、他県の自治体に混乱と危険をばらまいた理由は、広大な土地を安く買うため。そこで何をするかは知らないけど、いかに自分の懐を痛めず、一方で無関係の他人は容赦なく踏み躙ってでも目的を、つまりはホーデン社の利益を上げることが目的であることは容易に読み取れる。
 男性は最後っ屁とばかりに、自分の身分証や保険証など、ホーデン社社員、しかも悪名高き渉外担当室員であることを証明するものや、ホーデン社からの指示の数々の証拠をSNSにぶち上げた。一旦注目が集まるカマヤ市の事件の核心の人物が、逮捕直前にぶちまけたホーデン社の悪事を露骨に示す証拠は、あっという間に拡散された。
 男性は警察に逮捕・連行されたけど、数々の揺るぎない証拠と、同じく逮捕・連行された外国人の供述から、ホーデン社が2つの県と2つの自治体に跨る壮大な自作自演劇を展開し、あのまま外国人と外国人排斥団体が全面衝突していたら、ホーデン社が漁夫の利を得る形で旧カスプ社工場跡の広大な土地を買い叩くシナリオが完成するところだった。
 SNSでは猛然とホーデン社批判が沸き起こり、流石にホーデン社から多額の広告料を得ている-広告料金はいざという時の口止め料という側面も持つ-マスコミも無視できず、ホーデン社批判を始めた。メディアとSNSからの総攻撃に対して、ホーデン社は広報を介して「事実関係を確認中」とだけ発表して雲隠れなのはお約束と言うべきか。

『僕が寝てる間にそんなことになってたんだね。』
『ヒロキさんの推理がきっかけで黒幕が露わになっので、あとは私がすべきことだと思って。』

 攻撃とかわすため、尋常じゃないGの連続に襲われたのと強い緊張の連続だったためか、ミニホテルに帰還するところで強い疲労感に襲われた。何とかミニホテルに帰還したけど、そこで安心したのか急に眠くなって、そこから先の記憶がない。目覚めた時傍に居たシャルが-やっぱりワイシャツネグリジェ姿-言うには、やや急ぎ足で部屋に向かい、部屋のドアを開けて中に入ったところで膝から崩れ落ちたらしい。早く寝ようという無意識からの行動だろうか。
 ミニホテルのダイニングは、雰囲気や静かさを重視してかテレビがない。僕とシャルはダイレクト通話が出来る。出された食事を食べて、間に置いたスマートフォンで報道やSNSを見ながら、ダイレクト通話でシャルからの説明を聞く。まだ少し霞がかっている頭に、シャルの澄んだほんのり甘い声は心地良い。
 ホーデン社の悪事の数々は、ついに内部からも漏れ始めた。ホーデン社のカイカクで限界まで搾り取られる下請け企業や、経営陣に異を唱えて冷遇されていた本来の労組に加えて、ホーデン社に内心不満や疑問を感じながらも生活や家族のために我慢していた社員からも、ホーデン社への反旗が翻り始めた。
 ホーデン社と癒着していたA県県警に対しても、怒りの炎は青天井だ。A県県警がホーデン社をまともに取り締まらないのは、まさにホーデン社の専属警備会社であり、それなら警察は不要、民営化しろという意見や、もはやA県県警に治安は任せられないとして自警団結成の宣言も上がっている。
 警察庁はA県県警の本部長への事情聴取に留まらず、ホーデン社本社とA県県警本部の家宅捜索に乗り出した。家宅捜索を行うには裁判所の捜査令状が必要。つまり警察庁はホーデン社とA県県警に重大な容疑があり、もはや看過できるレベルではないと判断したわけだ。ハネ村の騒動が表沙汰になった時点でこうしておけば良かったのにという疑念は消えない。
 元財務相が絡むナチウラ市の核攻撃施設建設発覚の衝撃がまだ冷めやらぬ中での、警察による前代未聞の不祥事発覚で、野党はA県県警幹部やホーデン社経営陣に対する証人喚問を要求し始めた。「記憶にない」でしらを切り続ければ切り抜けられる証人喚問にどれだけの効果があるかは兎も角、これを放置すれば政権の存在は危険水域に達するのは明らかだ。
 政府与党も流石にまずいと思ったのか、複数の関係者筋の話として、証人喚問に応じる意向を明らかにした。恐らくホーデン社とA県県警の家宅捜索が終わり次第、証人喚問へと移るだろう。政府与党としては、元財務相の核攻撃施設建設発覚で、国際公約違反もあって「内政干渉」で押し返すのも難しくなっている。此処に政府与党とも密接な関係がある-企業・団体献金だの政府審議会委員だの-ホーデン社との関係が明らかになれば、政権どころか次の選挙もおぼつかない。切り捨てるなら早めの方が傷は浅くて済むだろう。

『-状況は今も激しく動いていますが、警察庁がこの手の事例としては珍しく、予告なしに家宅捜索に出たのが目新しいところですね。』
『家宅捜索でどれだけ証拠が裏付けられるか、だね。』
『警察庁も、ここで下手にA県県警やホーデン社に有利な取り計らいをすると、完全に警察の権威が失墜しますから、ある意味A県県警を生贄にする形で事態の収束を図るつもりでしょう。どれだけ収束できるかは知りませんが。』

 警察は身内に甘いというのは公然の秘密と言って良い。一般市民なら逮捕起訴となる事件でも、警察官だと懲戒処分に依願退職という例が殆どだ。今回の事態でも、ホーデン社と一体の関係にあったA県県警の情報通信管理課の課長や職員に懲戒処分は下るだろうけど、免職には至らないというのが、SNSでも大勢を占めている。
 だけど、ある意味これまでどおりの身内に甘い処分で済ませたら、警察全体の信用が地の底に落ちることは避けられない。一企業と癒着して情報を横流しし、逮捕されないように便宜を図ると見られたら、それこそ警察は要らないと見なされる。現にハネ村は過去の事例を挙げて事実上A県県警からの治安面の独立を宣言して実行中だ。
 実際、SNSを中心に「警察は信用に値しない」「上級国民の専属警備会社だから弱者に厳しく、強者に諂(へつら)う」「警察の腐りっぷりには恐れ入る」など、警察への激しい批判や怒り、不満が溢れている。警察や検察寄りと言われる元検察庁の弁護士、所謂「ヤメ検」の弁護士も、警察の恣意的な法解釈や運用を批判している。
 これから警察庁がどう動くか、どこまで厳しく処罰できるかは疑問だ。だけど、それを追うのは僕とシャルの役目じゃない。少なくともカマヤ市ではヒヒイロカネ回収の障害はなくなった。ハネ村の方は今回の事態で更に態度を硬化させたけど、そちらはカマヤ市のヒヒイロカネを回収してから考えれば良い。

『…そういえば、旧カスプ社工場跡のヒヒイロカネは、誰が設置したんだろう?』
『「主様」と言われた男の記憶を徹底的に調べましたが、男はそこにあったから権威づけのために使ったという認識に過ぎませんでした。』
『え?じゃあ、いったい誰が…。』
『男には、旧カスプ社工場跡のヒヒイロカネは、ヒヒイロカネだという認識ではなかったんです。説明書どおりに使ったら、見たことがない能力を持つ兵器だったというレベルです。』

 「主様」はホーデン社から送り込まれて、たまたま存在した兵器の数々を、何処かで発見したマニュアルどおりに使って権力者の座に居たわけか。高度な兵器はマニュアルなしで使える筈がない、なんて主張は工学的知識がないことから来る話。今の車や携帯端末、はてはPCや兵器なんて、オームの法則を知らなくても使えるのは何故かを考えればすぐ分かる。
 高度な技術が結集された機器は、ブラックボックスそのものだ。内部がどんな原理で、どんなICが使用されているか、どんなプログラムが走っているかなんて、中身をこじ開けても分からない。だけど、教習所に行けば車の免許は取れるし、携帯端末は思うように操作できないと全体の評価がガタ落ちになることすらある。
 その説明書を何処で見つけたか、そしてあの工場跡に大量の兵器を残したのは誰か、が焦点になる。この辺は…SMSAの分析待ちかな。

『はい。SMSAは男の記憶と工場跡の捜索結果を分析して、兵器の設置時期や首謀者を特定しようとしています。』
『それには時間がかかりそうだから、邪魔がなくなったカマヤ市のヒヒイロカネの回収が先だね。』
『そのとおりだと思います。SMSAが現在も工場跡周辺に展開しているので、進入や回収は容易です。』
『かなり量がありそうだから、日を分けることも視野に入れて取り掛かろう。』
『はい。では食事を済ませたら出発しましょう。』

 考察は何時でも出来るしきりがない。あくまでも目的はヒヒイロカネの回収だ。色々な策略や欲望が絡み合ってその考察に関心が向きやすいけど、目的を忘れたら本末転倒だ。こういうところで思い直したりするのは、自己管理っていうんだろうか?

「すべてのヒヒイロカネの回収が完了しました。」
「お疲れ様。水素はまだたっぷりあるそうだから存分に補給して。」
「そうします。」

 ホーデン社の壮大な自作自演の暴露から2日後。旧カスプ社工場跡のヒヒイロカネの回収が完了した。シャルが押さえていたジャミング装置や対空装備に、中枢部分にあったミサイル発射装置を無力化して回収するのは時間がかかる。僕はシャル本体を運転して無力化が完了したヒヒイロカネの近くに移動して、リアと回収ボックスを開けて回収準備をすることで支援した。
 旧カスプ社工場跡のヒヒイロカネは、知能こそないものの、兵器として特定の機能を果たすようにプログラムされていたから、無力化作業が必要。それはシャルしか出来ないし、水素も時間も相応に消耗する。しかも旧カスプ社工場跡は広大。朝から夜まで駆け回っても丸2日かかった。
 SMSAが展開しているおかげで、妨害もなく、時間さえかければ作業は終わる。シャルに付き合うつもりで朝しっかり食べて昼は抜くことで、迅速な回収に少しは協力したつもりだ。これでカマヤ市を覆っていた大きな病巣は撤去できた。これからどうするかはカマヤ市の市民が決めることだ。

「問題は…ハネ村だね。」

 水素の充填が終わり、SMSA職員の見送りを受けて旧カスプ社工場跡を出てミニホテルへ帰還する。運転は僕がしている。BGM代わりに流れるラジオのニュースは、ホーデン社とA県県警の前代未聞の不祥事が殆どを占める。ホーデン社とA県県警への批判は収まるどころか、ボルテージは上昇の一途だ。
 不祥事の発覚と拡散で、事実上ホーデン社とA県県警のハネ村への干渉は封じ込んだと言える。だけど、その代償としてハネ村が独自の治安システムを維持することに大きな大義名分を齎すことになった。絶対悪と言うべき立場に落ちぶれたホーデン社とA県県警に対抗し続けたことで、自治体の星と持ち上げる動きもある。
 治安システムは検問と自主警備を主体とするものだけど、今のところホーデン社の社員とトヨトミ市の職員、そしてそれらの車が立ち入り拒否される以外、悪い話は出ていない。だけど、これまで執拗に狙われていたことで、焦点のオウカ神社の警備は更に厳重になり、周辺への接近も出来ない状況だという。
 ヒヒイロカネの回収にはどうしてもシャルの接近が必要だ。本体が境内に入る必要性はそれほど高くないにしても、無力化が必要な場合も考えられるから、尚更シャルが直接接触する必要がある。すなわちオウカ神社への立ち入りが必須なんだけど、現状ではそれは不可能だ。
 厳密に言うと、接近することは出来るけど、ハネ村住民との全面衝突が避けられない状況だ。それは避けたいところ。ヒヒイロカネの回収には、様々な欲望や策略が絡みついて、多くの人が被害を受けている。そこに僕とシャルが更に被害を加えたら、ホーデン社やA県県警と大差ない。

「まず、ハネ村に入ることを考える必要がありますね。」
「うん。ハネ村に入らないことには始まらないし。」
「検問を通過するのは容易です。この車の原型はホーデン社製ではないので。前回ハネ村に入った時も監視が比較的緩やかでした。」

 前回ハネ村に入った時は、観光案内を兼ねたパンフレットから入村者の情報が収集されるようになっていた。昼食を食べた店でも、駐車場に止めておいたシャル本体が通りがかりの村人に見られていた。ホーデン社製の車じゃないから一瞥されただけで終わった。前回同様なら検問を通過することは非現実的な話じゃない。
 そこからどうするか…。これは考えるしかない。どうやってオウカ神社の本殿に祭られたヒヒイロカネを回収するか、否、それ以前にどうやって境内に入るか。強行突破を避けるなら、それに代わる策を考えるしかない。A県県警もA県ももはやハネ村の圧力になり得ない。弁護団も組織するハネ村の懐柔策は戦闘より難しいかもしれない。

「今日はまずホテルに戻ってゆっくりしましょう。疲れが溜まった状態では、考えられることもうまくいきません。」
「そう…だね。」

 2日連続で朝から晩までシャル本体を運転し続けて、疲れが溜まっているのが分かる。事故の恐れはシャルのサポートがあるから皆無だとしても、複雑な思考が出来る自信はない。シャルは現地で水素を充填して、無力化に伴う若干の損傷も修復済み。ヒヒイロカネと生身という違いが疎ましい。
 ハネ村に入るのは、移動時間はあるけど明日のチェックアウト後か。SNSの一部では、今回のA県県警の不祥事を背景に、ハネ村がA県から独立するのではという観測も出ている。現在の法制度で都道府県のくくりから自治体が独立できるかは疑問だけど、A県もA県県警も癒着に塗れ、その被害を受けた経験から、都道府県のくくりとその警察は宛にならないという言い分が説得力を持っているのが現状だ。
 ヒヒイロカネに引き寄せるかのように、様々な欲望や策略が絡み合う。僕とシャルが回収しようと手を尽くすことで、自治体や議員、官僚や警察、大企業が深く関わる腐敗の構図が明らかになる。これだけの腐敗が今まで連綿と続いていたのは…ヒヒイロカネのせい?それとも…?
 ホテルに到着して、程なく夕食。少し遅くなったけど、シャルが連絡を入れてくれたことで何らトラブルなく出来たての食事を食べることが出来た。食事の後、フロントに明日のチェックアウトで精算することを伝え、部屋に戻る。シャルは早速入浴の用意をして、大浴場へ僕を引っ張っていく。
 このホテルは、各客室にもユニットバスより少し大きい風呂があるけど、男女別の大浴場もある。これまでは部屋の風呂を使っていたけど、今夜はシャル自ら大浴場に行こうと言い出したわけだ。最後だから設備を堪能しておこうってことだろうか?シャルは人型を取ってから入浴がかなり気に入っているのもあるだろうけど。
 大浴場といっても、一般的なホテルとかのそれよりはこじんまりしている。客室の数から考えると十分な広さだ。しかも、時間帯がずれたせいか僕1人。かえって広く感じる。湯船に浸かると、不思議と疲労が和らいでいくように感じる。良い塩梅のシートでも、流石に1日中座ってると腰に来るんだよな。
 身体が十分温まったところで、風呂から上がる。着替えて隣接するラウンジで待つ。ソファに座ってただ待つ時間が、ゆっくり流れていく。ここ数日の慌ただしさの反動か、この緩やかさが心地良い。シャルがまだだから此処でもやっぱり僕1人。館内は静寂がBGM。喧騒に慣れていると逆に落ち着かなくなりそうだ。

「お待たせしました。」

 耳に心地良い声がする。シャルが好むカジュアルな、少しゆったりした服に着替えたシャルが立っている。湯上りのシャルは瑞々しさが増して、煌めいているようにも見える。

「シャルも1人だった?」
「はい。ゆっくり出来ました。」

 手を繋いで部屋に向かう。廊下にも人が居ないから、何だか自宅に居るような気分になる。自宅、か…。かつて僕が住んでいたアパートも自宅と言えば自宅だったけど、あの時は帰っても自宅という感覚があまりなかったように思う。平日は仕事でくたびれて帰って適当に食べて入浴して寝る、休日は偶にドライブって生活だったからかな。
 部屋に戻ってバッグに荷物を仕舞う。あとは寝るだけ…と思ったら、シャルが僕の手を引いて外に連れ出す。そのまま外へ。転々と足元に明かりがあるだけの遊歩道。湖かと思うような広大な池。水辺にポツンと置かれた屋根つきのベンチ。僕とシャルはベンチに腰を下ろす。このベンチ…。

「ヒロキさんが心身を必要以上に消耗する前に、私が回収の日程を延長するなどするべきでした。」

 シャルは言う。手は僕とシャルの間で繋がれたままだ。

「私には、エネルギーの残量や消耗やそのスピードは計測や得られた数値の比較で把握できますが、疲労という概念がありません。ヒロキさんの疲労は、筋肉中の乳酸の含有量や血圧、脈拍、顔色や表情の変化を数値化して分析することで把握できるんです。」
「…。」
「ヒヒイロカネの回収を急ぐあまり、ヒロキさんの疲労状況の把握が遅れてしまいました。御免なさい。」
「確かに疲労は溜まったけど、休めば良いし、移動はシャルのサポートもある。あれだけの数を2日で回収できたから、ハネ村の対策に専念できるんだ。だから、謝る必要はないよ。」

 僕自身、旧カスプ社工場跡のヒヒイロカネ回収を急ぐべきと思っていた。旧カスプ社工場跡に散在していたヒヒイロカネは無力化が必要だったし、その無力化はシャルしか出来ない。事態はハネ村に圧倒的優位とはいえ、流動的な面があることは否めない。出来ることは出来るうちに済ませておいた方が良い。

「僕が倒れるまで回収に連れ回したなら、ちょっと考えてって言わないといけないけど、今回は休めば十分解消できる範囲だよ。そもそもそんな状態になるまでシャルが僕を連れ回すとは思ってない。」
「…。」
「僕とシャルの概念や感覚が違うのは当然だし、それは擦り合わせていけば良いって思ってる。そのために言葉があるんだし、会話もある。これまでどおりで大丈夫だよ。」
「ヒロキさんを労わる筈が、私が労わられることになってしまいましたね…。」

 シャルは僕の左肩に凭れ掛かる。これだけでも心拍数が一気に高まるのを感じる。シャルの接近、否、密着で甘酸っぱい香りが漂ってくるのもある。まさか、心拍数を変化させる薬品なんて混入してないと思うけど。

「私が調べて分析したところでは、カップルというのはお互いに労わったり励ましたり、時に喧嘩したりしながら、仲を深めていく特別な関係だと理解しています。」
「理想的なカップルだね。」
「私もそうでありたいと思っています。だけど、本来ヒロキさんをサポートするところで手が回らなかったり、行き届かなかったり…。」
「いきなり何でも理想的に出来る筈がないよ。それに、シャルは凄く僕を大切にしてくれる。裏表なく。僕はシャルが彼女になってくれて良かったって思ってるよ。」

 シャルと初めて出逢ったあの時、何処からともなく聞こえてきた、澄んだほんのり甘い声。驚きの余韻が残る中自己紹介をしたこと。気晴らしだった週末のドライブと、悶々とした気分の通勤が、シャルとの会話で世界に色が着いた。そして僕はシャルと旅に出ることを選んだ。
 この旅に出ることを選んだ大きな要因は、変わろうとしない周囲と環境に見切りをつけたのもあるけど、シャルと一緒だからというのが大きい。ヒヒイロカネを探すために不眠不休で運転を強いられると感じたなら、僕は迷わずシャルをあの老人に返却しただろう。シャルは出逢ってからも、猶予期間の間も、決してそうしなかった。
 僕を気遣い、労わってくれた。一緒に出掛けて楽しいひと時を共有した。そんな簡単なことでと思われるかもしれないけど、そんな簡単なことでさえ、僕は拒否された。そんな簡単なことさえ、僕を対象としては出来ない。そんな現実があった。猶予期間でどれだけ働きかけても現実は変わらなかった。だから僕は現実を捨てた。
 旧カスプ社工場跡のヒヒイロカネ回収だって、僕はシャルに使役されたとかこき使われたとか、そんな感覚は一切ない。協力して広大な敷地に散在するヒヒイロカネを回収する。その目的のために協力した結果、体力を幾分消耗した。それだけ。だからシャルを責める理由はない。

「僕は生身の人間だから、疲れることはある。だけど、それは休養で解消できる。今回もそうだよ。だから…自分の責任だなんて思わないで。」
「…私がすべき役割を、ヒロキさんがしてくれて…。嬉しいですけど、申し訳ないです…。」
「お互いに労わったり励ましたり、時に喧嘩したりしながら、仲を深めていく。シャルのカップルの分析はそのとおりだと思うし、それだったら、労わったり励ましたりするのが僕になることも、おかしなことじゃないよ。」
「!」
「だから、自分を責めないで。」

 シャルは僕の左肩に凭れたまま、頭の向きを変えて僕を見る。藍色の大きな瞳が僕だけを映している。僕の右腕の袖が掴まれる。引き寄せられるように僕はシャルに顔を近づける。初めての時と同じ場所で、僕とシャルはキスをする。
 全身が微かに痺れるような、それでいて凄く心地良い不思議な感覚に暫し浸って、僕はゆっくり唇を離す。シャルは瞼を開帳して2つの大きな瞳を見せる。キスをしておいて今更だけど、前回みたいにオーバーヒートしないかな…。表情は少しとろんとしてるけど…どうやら大丈夫らしい。

「流石にまた強制スリープモードになるわけにはいかないので。」
「もっと回数を重ねれば良いのかな。」
「え…。」

 僕がシャルの肩を捉えると、シャルは目を閉じる。もう1回キス。我ながらスマートじゃない口実作りだけど、シャルとキスしたいって欲求が際限なく湧き上がってくる。こんな静かで良い雰囲気の場所で、理想を3次元化したような彼女とキスできるなんて…。