謎町紀行 第40章

高原の農場と衰退企業の因果、公園での初めて

written by Moonstone

 警察が現場検証をしていたから、ホテルの駐車場から出るのに少し時間がかかったけど、そこからは平穏無事にシャル本体で移動。高速道路と一般道を使って約2時間南に移動した先は、オオヤマ高原。広大な丘陵地帯にペンションや別荘が点在し、花のテーマパークと温泉がある。
 最寄駅はあるものの、都心部からの電車は特急でも停車しないことが多いらしい。だから車が事実上唯一の交通手段。その割に駅前のロータリーは結構広大で行き来しやすい。その駅前ロータリーを通り過ごして山道を進むと、オオヤマ高原が目前に広がる駐車場にたどり着く。

「涼しくて気持ち良いね。」
「喧騒から離れた癒しの里というキャッチフレーズで、徐々に整備されたそうです。」

 駐車場からは徒歩かバスか路面電車。路面電車は遊園地とかにあるような、何とか2人並んで座れる程度の幅しかない小さいものだけど、ゆったり移動するにはむしろこの方が良い。駐車場から先は、所定の場所以外は車輪のあるものは一切使用禁止。高原にある交通機関を使うしかないってわけだ。
 高原にある大抵の施設は路面電車で回れるし、少し歩けば近くの施設にも行ける。ペンションや別荘、ホテルはバスを使う。かなりきっちり棲み分けがなされている。車が押し寄せると収拾がつかない。あえて車から人を降ろして、施設を回ってもらおうという明確なコンセプトを感じる。
 施設と言っても、飲食店と遊園地、季節ごとに花が変わる庭園くらいのもので、他は広大な芝生に大木が無秩序に点在するだけ。良く言えばシンプル、悪く言えば殺風景なこの高原は、忙しない日常から隔絶されている。これがむしろ良いと僕は思う。サービスってものは何も至れり尽くせりが全てじゃない。
 僕は助手席に座ってうとうとしていたから、あっという間に着いた感がある。まだ頭に霞がかかっているけど、眠くて歩くのも面倒ということはない。シャルに手を引かれて歩く。シャルの要望を受けて、試しに路面電車に乗ることにする。駅は駐車場から直ぐのところにあって、きちんと踏切もある。乗車券は券売機で買う。1回買うと1日自由に乗れるフリーパスだ。この手の施設にしては結構思い切ったことをする。値段は100円。徒歩での移動がしんどいと思ったら近くの駅から乗れば良いというのは、心理的な保険になる。
 少しして電車がやってきた。僕とシャルは、前から2列目の席に乗り込む。客はそこそこいるけど、やっぱりシャルは人目を引く。茶色はもはやありふれた色だけど、根元から先まで統一された金髪は、日本だとなかなかお目にかかれない。加えてアイドル顔負けの容貌だ。他の客の視線がシャルに集中しているのが分かる。
 電車はゆっくりとホームを出る。歩くよりは早いけど走るより遅いという、本当にのんびりした電車だ。こののんびりした運行が今はとっても心地良い。通勤していた時は車だったから満員電車の大変さはあまり分からないけど、出張で都心の在来線に乗ると人の多さに愕然としたのを覚えている。
 電車の路線は、高原を大きく囲むような形で、なんと複線。山手線とかで言うところの内回りと外回りがある。今僕とシャルが乗っているのは内回りの方。遠くに外回りの電車が動いているのが見える。1回乗車券を買えば気分で乗り降りできる気楽さが、興味もあって乗客を集めているんだろうか。

「此処で降りましょう。」

 2つ目の駅で、シャルに手を引かれて降りる。少し先に凄く枝が広い大樹が1本、鎮座している。不思議なことに人は殆どいない。飲食店とかが近くに全くないのが理由だろうか。シャルは大樹の下で、持っていたバスケットからシートを取り出して広げる。これも創造機能を使ったんだろう。ヒヒイロカネかどうかなんて識別できない。

「さ、横になってください。」

 シートにさっさと上がってシャルが何をするかと思ったら、腰を下ろして自分の太ももを軽く叩く。…膝枕するから寝ろってことか。照れくさいけど、今はシャルの膝枕で寝たいという気持ちがはるかに勝る。靴を脱いでシートに上がり、シャルの膝枕に頭を乗せて横になる。真上を見ると、シャルがこちらを見ている。胸のでっぱりで口元は見えない。

「気分はどうですか?」
「凄く寝心地良い。シートが…何だろう…薄っぺらい感じが全くない。」
「形状はシートを模しましたけど、使い勝手は上質の敷布団と同じにしています。」
「こういうことも出来るんだね。」
「私の機能は戦闘や情報収集だけじゃないですよ。」

 シートを通して芝生と地面の感触や冷たさが伝わると思ったら、ふかふかの敷布団そのものでびっくり。見た目とは全然違う材質にすることも、シャルにとっては呼吸をする感覚で出来ることなんだろう。ホテルのベッドはちょっと固めで寝やすさという面では疑問符が付くことがある。シャルの創造機能は単に形状を再現することじゃないとよく分かる。

「寒くもないと思いますがどうですか?」
「そういえば…。」
「この辺は涼しいので、風邪をひくといけないと思って、光学迷彩を施した保温シートを被せました。」
「凄い気配りだね。嬉しいよ。こういうこと、今までなかったから。」
「今とこれからは、私が出来ますからね。」
「うん。」

 今までそうじゃなくても、今、そしてこれからは違う。そうなりたいと思って、僕はすべてを捨てて旅に出た。今なんて客観的に見れば羨ましいシチュエーションの1つだろう。だけど、見せびらかせるまではいかなくても-今でも十分見せびらかしていると言えなくもないけど-、今が幸せだという実感が乏しい。漠然としているといった方が良いか。
 ちょっと考えてみれば、寝る時なんてフィクションでもなかなかあり得ないものだ。自分がプレゼントしたシャツ1枚で、同じベッドですぐ隣で寝ている。その上、寝る前にせがまれるか僕が寝ている間に腕枕をしたり、以前みたいに抱いて寝ていたり。昨夜、覆い被さって寝ていたなんて、どうして何もしないんだと言われかねないシチュエーションだ。
 逆に何もしないのは何故か?色々あるように思うけど、多分、何かしたらもう止められないという、ある種最後の防衛線を堅持したいという気持ちだろう。こんな容貌的にも性格的にも性的にも魅力満載の女性と仲を深めたら、旅そっちのけで情欲に溺れるんじゃないかという、かなり現実味のある危機感がある。

「ヒロキさんは、ナチウラ市に屯していた下等生物と同じだとは思えません。」

 シャルの声で思考を停止する。視界には口元が隠れたシャルが変わらず見える。口元は見えなくてもほんのり甘い澄んだ声は、僕の耳に届く。

「ヒロキさんが女性と見るや涎を垂らして襲いかかるタイミングを伺う、大脳辺縁系しか存在しない生物なら、私は夜な夜なヒロキさんを縛り上げて逆さ吊りにしますよ。そうならないし、そうしないのは、私との彼氏彼女の関係を一歩一歩進展させたくて、それを模索しているからだと思うんです。ヒロキさんの言う最後の防衛線を少しずつ深いところに進めていくイメージでしょうか。」
「そう…だね。その正しい進め方が分からない。スマートな進め方って言った方が良いのかな…。」
「無理に取り繕っても、何処かで破綻します。進む時は一気に進むものですし、仲を深めるにはどうするか、どういうシチュエーションが良いか、あれこれ考えたりするのも、彼氏彼女の関係ならではだと思いますし、楽しみの1つだと思います。」
「うん…。」
「時間は十分あります。ヒロキさんはもう誰に負い目を感じる必要もありません。ヒロキさんと私だけの甘い駆け引き、楽しみましょうね。」
「そういう台詞は僕が言うべきところなんだろうけどね…。」

 話をしているうちに本格的に眠くなってきた。シャルが僕の頬を撫でるのも合わさって心地良いことこの上ない。暫くこの夢心地に浸ろう…。

…。

 視界が開けてくる。身体を包む心地良い感触。頭を受け止める弾力。僕の頬を撫でる少しひんやりした滑らかな手。僕を見つめる2つの大きな藍色の瞳。シャルが変わらず僕を寝かせてくれていた。この事実を全身で感じる。どれくらい眠っていたか分からない。そんな時間を僕のために費やしてくれた。それが嬉しい。

「良く寝られました?」
「うん。すっかり眠気は取れたよ。」
「食事にしましょうか。朝あまり食べてなかったから、お腹が空いたでしょ?」
「うん。よく分かるね。」

 僕は身体を起こす。シャルが言うには、降りた駅から2つ先の駅にお勧めのカフェがあるそうだ。シャルの情報収集や分析能力は今更言うまでもないし、なかなか食通の面もある。シャルのお勧めだと安心だ。僕がシートから退くと、シャルはシートを普通に折りたたんでバスケットに仕舞う。バスケットに吸収・同化できるだろうけど、誰が見てるか分からない。
 シャルと手を繋いで駅に向かい、電車を待つ。電車は少し待っているとのんびりやって来る。数分毎に定刻で出発とか、時計と睨めっこするシチュエーションとは完全に隔絶されている。何処かのテーマパークも現実との隔絶を大きなコンセプトにしているそうだけど、同じようなコンセプトなんだろうか。
 今度は座席が割と詰まっているから、後ろの方に乗り込む。この短い時間でもシャルが視線を集めているのが分かる。もっとも、当のシャルはまったく意に介さないのは普段どおり。「見るだけなら幾らでもどうぞ。危害を加えるようならただではすまない」というスタンスは徹底している。
 2駅分乗って降りる。乗客の半分近くが同じ駅で降りる。向かう先は幾つかに分かれる。降りた駅は飲食店が立ち並ぶ「お食事通り」というエリア。和食洋食中華にカフェにイタリアンフレンチと、パッと思いつく料理がこの界隈で食べられるようだ。その中でシャルが選んだカフェはどうなんだろう?

「いらっしゃいませ。」

 店内に入って迎えた女性店員の服装に、思わず目を疑う。メイド服だ。それも所謂正統派メイド。シャルの性格だとこういう店は選びたくない筈。

「何名様ですか?」
「2人です。」
「かしこまりました。お席へご案内いたします。」

 甲高い声であれこれサービスを迫って来るかと思ったら、至って落ち着いたもの。逆に違和感すら覚えてしまうけど、突っ立っていても仕方ない。店員に奥の2人席に案内してもらう。改めて店を見渡してみる。天井から床まですべて木製。薄く流れているBGMはクラシックか。全体的に落ち着いた雰囲気で高級感すら感じる。
 所謂メイドカフェだと思うけど、僕が抱いていた印象とかなり違う。かなり埋まっている客席も、年配の方が多い。客の会話もあるにはあるが、喧騒とは縁遠い。シャルがこの店を選んだのは、食事の品質は勿論として、店内の雰囲気も考慮してのことか。

「こういうお店なら、食事を楽しみながらゆっくりお話しできると思って。」
「雰囲気は凄く良いね。でも、店員の服装でシャルの選択肢から外れるんじゃ?」
「ヒロキさんがメイド服には大して興味がなくて、ナース服一本だということが分かっているので。」
「う…。」

 シャルは僕の趣味嗜好を完全に把握してる。睡眠と意識不明はシャルにとっては流れ込んでくる情報量が桁違いらしいし、その情報を基にシャルが今の容貌を選んだから、シャルの指摘を否定できない。逆に、まずないだろうけど制服がナース服だったら絶対シャルは避けてただろう。
 水とおしぼりを持ってきた店員に、5分くらいしたら注文を取りに来てもらうよう頼んでメニューを広げる。シャルが探してくれた店だから、シャルのお勧めを聞いた方が良い。シャルは楽しそうにメニューを捲って開く。「オオヤマ高原セット」という見開きのページだ。

「これがお勧めです。2人から注文できるんです。」
「それにしよう。」

 料理店や居酒屋だと2名以上と注文に制限が付いたメニューはあるけど、カフェでは初めて見る。サラダにスープ、パスタなどなど色々な料理が多めに盛られている。2人以上で取り分けて食べるのが前提のようだ。カップルや家族だとこういうメニューは便利かもしれない。
 メニューを見ると、食材は高原併設の畑や牧場で栽培・肥育されたものを使っているという。スマートフォンでこの辺の地図を表示すると、「オオヤマ高原」と薄い緑で色分けされた広大なエリアの中に、牧場がある。航空写真に切り替えると、確かに広大な草原に牛らしきものが居る。

「随分大がかりだね。」
「地産地消を発展させて、第1次産業を基盤とする経済運営を目指すというのが、このオオヤマ高原を経営する農業法人の大きなコンセプトだそうです。」

 農林業や牧畜といった第一次産業は、工業化から「いかに売るか」を主体とする広告宣伝が強大になった現代では、利益を得て賃金を増やしたり設備投資をする経営が難しい。1つは農協の縛りがある。高価な-トラクターとか高級車以上の価格だったりする-農機具の共同購入・使用が本来のあり方の筈なのに、今は選挙の集票マシンと化している。
 農協の縛りを脱した販売戦略も出て来ているけど、第一次産業を主体にした経営というレベルには至っていない。どうしても高価な農機具とそれを集約する代わりに様々な制約を課す農協がネックになる。農業法人も出て来てはいるけど、法人ゆえに倒産のリスクはある。
 農協自体が悪いんじゃなくて、集票マシンと創造性の制約を排除すれば、農機具や土地の問題を避けて通れない農林業の運営形態としての農協は意義がある。農協がまともに機能しないところに登場した農業法人は、農林業運営の1つの在り方になると思う。

「それにしても、山の中とはいえ良くこんな広い土地を買えたね。」
「調べたところ、元々この農業法人の前身は、旧カスプ社工場跡で牧場を営んでいたそうです。」
「?!」

 シャルがダイレクト通話で説明する。農業法人の前身である牧場経営者は、かつてカマヤ市で体験コーナーや試食試飲コーナーを併設した牧場を経営していた。カマヤ市では結構有名で、ローカルでそこそこ知られた牧場だった。そこにカスプ社が土地買収を持ちかけた。
 カスプ社はM県からの補助金を含めた札束で頬を叩く一方、牧場の悪評を流したり、客として潜入した社員が言いがかりをつけたりと追い出しにかかった。家族は勿論、家畜に悪影響が出て来たことで-家畜は想像以上にデリケート-、牧場経営者は買収を受け入れ、かつてのリゾート地で荒れていたこの高原に移り住み、心機一転農業法人を立ち上げた。

『-カスプ社は自分の懐を殆ど痛めることなく、ただ同然であの土地を手に入れたわけか…。』
『はい。それが没落によって、今度は買いたたかれる羽目になったのは、因果応報というのでしょうか。』
『確かカスプ社は、あの工場を買収した外資系企業の子会社になったんだよね。フラット・ディスプレイの売れ行き悪化で経営が危ないとは言われてたけど、本当に因果なものだね。』
『農業法人は空き家になっていた別荘やペンションを改装して店舗や休憩所に、経営していたものの資金繰りが厳しかった旅館やペンションを傘下にして、牧場と畑作を主体とした持続的経営を目指して今に至ります。経営は極めて健全で、新時代の農業経営として視察が相次いでいます。』
『土地に固執せずに新機軸を開拓した勇気だね。今、カスプ社やヒヒイロカネの要塞との関係性はどうなってるか分かる?』
『カスプ社やヒヒイロカネとは全く無関係です。流石に過去の因縁でカスプ社の製品は使用していませんが。』

 カスプ社との因縁はあるけど、ヒヒイロカネでの接点はない。ということは、カスプ社の工場が建設された後でヒヒイロカネは持ち込まれたと断定して良いだろう。何時誰がどうやって持ち込んだのか?タカオ市での例から、社員に偽装した手配犯や関係者で、その人物が「主様」である可能性もある。
 その辺の考察は後回しで良い。目的はあくまでヒヒイロカネの回収。それをどう実行するか。これまでにない防衛網が敷かれている。向こうも攻撃されたら黙って耐え凌ぐとは思えないから、シャルの航空部隊や地上部隊の投入は戦争になると言って良い。そうなるとカマヤ市への影響は避けられないし、ヒヒイロカネの存在が表沙汰になると非常にまずい。
 潜入して密かに持ち出す?恐らくそこまで間抜けじゃないだろう。光学迷彩を施しても、施設内部まで通用するとは言い切れない。何か良い策はないかなぁ…。そういうのがすんなり思いつくようなら、こうして悩む必要もないだろう。だけど、そういう流れに期待したくなる。

『今も要塞の調査を続けています。要塞全体の構造が少しずつ判明しています。』
『見つかってない?』
『まったく問題ありません。調査は陽動も含めて慎重に進めます。』
「今日は此処でゆっくりしていきましょうね。」
「宿も手配したの?」
「勿論です。」

 この旅に出て、ある宿を拠点にして他の宿に泊まることが常態化している。言わば拠点の宿は荷物置き場にしているわけで、いちいちチェックイン/アウトを繰り返さなくて便利だけど、物凄い使い方だ。こういうことが出来るのも、マスターと呼ばれるあの老人が、シャルと共に僕に託したカードがあるからだ。
 実際の口座とどういうリンクをしているのか全く分からないけど、何をするにも金があるに越したことはない。何しろ僕とシャルは人脈とやらがない。宿の手配も食事も誰かの厚意に甘えるという選択肢がない。そんなものに期待しない方が賢明だけど、それらを実現するツールとして金は必須だ。
 この世界に生きていることには違いない手配犯やその関係者を、金で懐柔することは出来ないかとも思う。だけど、シャルが創られた世界では終身刑一択の重罪を犯している以上、金で懐柔するのは無理だろう。金がいくらあっても刑務所じゃ碌に使えないだろうし。
 そんなリスクを冒してまで手配犯がヒヒイロカネを持ち出し、この世界に逃げ込んだ理由は何だろう?タカオ市で身柄を拘束された手配犯の1人は、強制送還された世界で何か重要なことを話しているだろうか?謎は尽きないけど、1つ1つ解き明かしていくのがこの旅の目的の1つなんだろう…。
 その日の夜。路面電車の、駐車場から最も遠い駅から徒歩で5分のところにある、ペンションを改修したという洋風のミニホテルで寛いでいる。客室は3室。部屋はかなり広くて、今荷物の一部を置いているカマヤ市のホテルの1.5倍はあるだろうか。広大なダブルベッドに新聞を広げられる広さのテーブルとセットの椅子。ソファもある。
 風呂は天然温泉の大浴場か、部屋付きのものかどちらでも使える。小ぢんまりとしてはいるけど、小規模の家庭用風呂場といったところで、ユニットバスのような手狭感はない。これで朝夕の食事つきだから、結構な金額だろう。それでもどうやら他の部屋も客が入っているらしい。

「晩御飯、美味しかったですね。」
「うん。シャルの見立ては正確だね。」

 食事が出来るようになったシャルは、味を学習したようだ。かなり食通な面があることも分かってきた。このミニホテルの夕食も多彩で美味しかった。夕食が付くホテルはあまり多くないけど、店を探したり予約する必要がないメリットもある。だからこそ味は重要な要素。シャルがホテルを選ぶ際に料理を重要視しているとしたら、かなり的を得ていると思う。
 高原だからか、日が山の向こうに消えるとかなり冷え込んできた。まだ夏と言える季節だけど上着を羽織っていないと肌寒いくらいだ。此処へ来るまで僕は助手席でうつらうつらしていたからよく分からないけど、かなり標高が高いところにあるんだろう。

「天気はどうかな?」
「夜ですから単語が適切がどうかは微妙ですが、雲1つない快晴です。」
「えっと…外に出てみない?」
「是非。」

 我ながらスマートな誘い方とは言い難いけど、手をこまねいているだけじゃ変わらない。シャルが言う「僕とシャルだけの甘い駆け引き」は、僕からも一手を打ちたかった。幸い取っ掛かりはひとまず成功。シャルの手を取って部屋を出る。向かうはミニホテルから歩いて行ける公園。
 ミニホテルをはじめとする宿泊施設は、広大な敷地に点在している。1つ1つがそこそこの広さの庭と車止め-物資や急病人の運搬に限定して車は入れるようになっている-を持っていて、それ以外は大小の森が覆っている。人が歩くには十分な歩道が、足元を仄かに照らすライトで照らされていて、森に踏み込んで迷ったりすることはない。
 公園があることは、ミニホテルにチェックインした際に説明を受けた。あくまでも公園だから、水飲み場とトイレはあるけど飲食店はない。だけど、宿泊施設周辺では花火やバーベキューなど火を伴う遊びは一切禁止だし、ゆったり寛ぐには最適だという。ただし、天候には十分注意とのこと。
 森の中を緩やかに蛇行する歩道を進む。一定の間隔で足元を照らすライトも、光はそれほど強くない。手を繋いで歩くシャルの顔が、暗闇に慣れて何とか見える程度だ。それが2人きりで歩いているって感覚を強める。この明るさのおかげで、恐らく真っ赤になっているであろう僕の顔が隠されている面もある。
 暫く歩いていくと視界が開ける。湖と言っても良さそうな広い池が横たわっていて、池を取り囲むように歩道がある。歩道に沿って、ところどころにベンチや小さいブロックのような建物-恐らくトイレか倉庫-がある。街灯はあるにはあるけど、池に転落したりしない程度に絞られている。公園というより整備された森と言った感が強い。

「凄く静かですね。」
「うん。こんなに広い公園なのにね。」

 一番近いところにあるベンチに並んで座る。水面には波1つない。鏡のように星空を映し出している光景は幻想的ですらある。オオヤマ高原に入る際に駐車場までとされている理由が分かる気がする。観光地は容易に入れると簡単に俗化する。便利にはなるけど風情や手つかずの自然は失われる。
 街灯は近くにあるけど、スポットライトのように照らすから、ベンチにはあまり届かない。シャルの顔はすぐ隣にあるからようやく見えるくらいの明るさだ。…改めて、今のシャルとの距離が本当に近いことに気づく。シャルと向き合ったら、鼻先が触れ合うと思える距離だ。
 傷もシミもない白い肌。アメジストを嵌め込んだかのような大きな瞳。長い睫(まつげ)。僅かな光を吸い込んでいるかのような輝きを見せる金髪。綺麗な稜線を描く横顔の輪郭。どれをとっても、僕の好みのストライクど真ん中。こんな美人が僕のすぐ隣に居るなんて…。

「ヒロキさん。」
「!!」

 シャルが不意にこっちを向く。シャルの顔が僕の視界を埋め尽くす。明かりが少ない下でも、シャルの紫色の瞳は不思議な煌めきを放っている。鼻先が触れ合うような、否、実際に触れ合う距離。仄かに漂う甘酸っぱい香りと相俟って、視線はシャルに釘付けにされる。
 僕はシャルの鼻先を自分の鼻先で少し押し上げる。シャルが少し上目遣いになる。僕はシャルの左肩を掴む。凄く華奢でびっくりして一瞬固まってしまう。僕は目を閉じながらシャルを引き寄せる。

唇が触れ合う。

 意識は唇に伝わる感触に集中する。凄く柔らかくて、でもグミのような弾力があって、ほんのり温かくて。これがシャルの唇なんだ。僕のジャケットの右袖に掴まれた感触が伝わる。そちらに少し割かれた意識は、直ぐにシャルの唇にベクトルを戻す。シャルと、僕の彼女とキスしてる。その実感がじわじわ強まってくる。
 徐に唇を離す。目を開けると、目を開け始めたシャルの顔が見える。シャルの目は程なく開いたけど、開き切っていない。さっきまで僕の唇と触れ合っていた唇は僅かに開いている。キスの前より僕に身体を預ける度合いが強まっている。シャルとキスした実感が一気に強まって、全身が内側から燃え上がるように熱くなる。

「…シャル。」

 暫く見詰め合った後、僕は呼びかける。だけどシャルはとろんとした表情で僕を見つめたままだ。

「シャル?」
「ん…。」

 返答かどうか分からない、やけに色っぽい吐息を漏らして、シャルは僕の左肩に額を乗せて寄りかかる。左手は僕のジャケットを掴んだまま。

「シャル。どうしたの?」
「キス…した…。」
「シャル?」
「くらくらする…。」

 漏れ聞こえるシャルの声は、意識が朦朧としているような感がある。不規則に、僕の左肩に額を付けた状態で頭を左右に振る。受け答えは一応出来ているから意識はあるようだけど、端的に言えばバグった状態になってるみたいだ。僕以上に頭が火照ってオーバーヒートしちゃったんだろうか。
 えっと…。こういう状況は予想してなかった。果たしてどうしたら良いんだろう?シャルは時折僕の左肩に額を付けた状態で頭を左右に振るけど、顔を上げる気配はない。僕自身、シャルとのキスの余韻で全身が火照っている。シャルの感触と匂いが燃料になって、僕もオーバーヒートしそうだ…。

「よ…っと。」

 シャルをベッドに寝かせる。勿論、ミニホテルの自室。暫く様子を見ていたけど、シャルのバグった状態が解消する気配はなかった。夜の深まりに同期して気温は低下してきたから、このままだと色々まずいと思って、シャルを抱きかかえて、言い換えればお姫様抱っこしてミニホテルに戻ることにした。
 明るいところでシャルを見ると、頬がかなり赤いことに気づく。目は閉じているが、唇は少し開いている。熱を出してぐったりしているような感じだ。試しに頬に手を置いてみる。…ほんのり温かいけど発熱というほどじゃない。意識があるかどうか確かめたいところだけど、そうするのは憚られる。
 こういうシチュエーションは初めてだし、そもそも全く予想してなかったから、どうしたら良いか、そもそもシャルがどういう状況なのかどういう心境なのか分からない。…今出来ることは、シャルが元に戻るまで見守ることか。ヒヒイロカネというかINAOSがバグった時のトラブルシューティングは何も知らない。
 掛布団をかけて部屋のライトを消す。そしてテーブルとセットの椅子の1脚をベッド脇まで運んでそこに座る。シャルが目を覚ます気配はない。シャルの意識に直接呼びかけることが出来れば…シャルが目を覚ますきっかけになるかもしれないんだけど…!

「腕時計を填めてるから…もしかして…。」

 僕は掛布団を少し捲って、シャルの左手を両手で包む。この腕時計はシャルの改造を受けて、僕の脳神経系と直結している。そして、オクラシブ町で僕が銃撃を受けて意識不明になった時、僕の趣味嗜好とかがシャルに何らの歯止めなく流れ込んできたと言っていた。だから、こうして接触してシャルに呼びかけることで、シャルの意識に直接話しかけることが出来るかもしれない。

『シャル…。シャル…。目を覚まして…。』

 こんなことになるとは思わなかった。だけど、今は嘆いたり悔んだりしてる場合じゃない。シャルが目を覚ましてからだ…。

…。