もう1つPCデスクと椅子を買って、がら空きのダイニングに置くか寝室に置くか。プロジェクタの性能が良くなっているので、これまたがら空きの壁に投影して大型ディスプレイの代わりにするか。PCが中心になっている感はありますが、これで良いと思っています。
まず神宝の行方を考える。以前話したように、崇神朝は統治機構としては黎明期で、日本の広範囲を支配するには至っていなかった。そこに、時の中国の政権である秦の滅亡で多数の中国系難民が押し寄せ、数と文明水準で押されて政権基盤が揺らいだ。この難民の中には海洋豪族も含まれ、後に応神朝や継体朝に繋がったとも考えられる。
神宝を奪われたら日本統治の正当性が担保されなくなると危機感を抱いた崇神朝は、神宝の模造品を大量に作らせ、支配地域を巡らせながら安全な隠し場所を探させた。この軌跡と建立された神社が元伊勢巡幸。元伊勢巡幸の後半は崇神朝配下の海洋豪族だった舟木氏を頼り、神宝の隠し場所を急いで探させた。その背景には崇神天皇ー垂仁天皇の政権で渡来人が大量に流入し、政情不安が深刻化したことがある。
舟木氏は現在の伊勢神宮を神宝の隠し場所に定めた。しかし、伊勢神宮の所在地は防衛に適さない。伊勢神宮はカモフラージュで、舟木氏は崇神朝の命令を受けてそのまま紀伊半島を巡り、淡路島を経由してヨクニ地方に入った。そして現在の吉野川とその支流を遡り、ヨクニ地方で最も高い逆鋒山に神宝を隠した。場所を知れば分かりやすく、しかし容易に近づけず、安心して神宝を保管し続けられる場所。険しい山で囲まれ、遠い海からでも天候が良ければ見える逆鋒山は、神宝の隠し場所として最適だ。
「-万世一系は勿論、日本古代史や邪馬台国論争を根底から覆す内容だね。だけど、先入観を抜きにすれば、合理的で傍証との整合性が取れると思う。」
「王朝の興亡や交代は珍しいことではありませんし、継体朝から現代の天皇の系統が始まったとしても、その歴史は世界随一の長さです。医療水準も栄養面でも不可能な100歳以上が並ぶ不合理な系統にこだわる必要性はありません。」
「継体朝が日本海側で広範囲を勢力圏内にしていたから、オオクス地方に継体天皇の后の話が残っている…。」
「十分考えられる推論です。大国主命がはるばるオオクス地方まで浮名を広めていたのも、継体朝となる海洋豪族の行動範囲がそれだけ広かったことの傍証と考えられますし、国譲り神話が基本的に平和的に進んだ不可思議な展開も、越前国や出雲国に鉄器と船団を背景にした強大な軍事力を持つ海洋豪族が同化を基本に応神朝を取り込んでいった過程を描いたものだと考えられます。」
「王朝の興亡や交代は十分説明できてると思う。あと1つの問題は、邪馬台国がどうなったか、かな。」
「大変重要な課題です。邪馬台国の滅亡は逆鋒山に隠された可能性が高い、崇神朝が創り出した神宝の行方を追うことでもあります。」
居住地は割と鉄道路線が多く、少し歩くか車で移動するかすれば、そこそこ撮影対象はあります。近隣の駅も良いですが、次は何時訪れるか分からない土地の駅だからこそ、見慣れないゆえに感じる良さがあると思っています。先日の一之宮巡りでも無事撮影できた写真を整理・選定中です。
しかし、この第2期大和朝廷も雄略天皇の時代に粛清を繰り返したことで政権の基盤が揺らぎ、そこを突いたのが日本海側、越前国や出雲国に拠点を有していた海洋豪族だ。海洋豪族だから琵琶湖~淀川の経路で多数の軍隊で侵攻し、終着点である河内国に拠点を形成していた第2期大和朝廷を退け、あるいは取り込みながら徐々に勢力を拡大し、やがて大和国に入り、政権を樹立した。これが現代にも続く第3期大和朝廷もしくは継体朝だ。
継体朝と応神朝は、元々が中国・朝鮮半島から流入した海洋豪族や渡来人の集団だから、対立関係にあったとはいえ、全く未知ではなかった。だから継体朝の勢力拡大では応神朝を攻め滅ぼすより取り込みや同化の方が多く、血で血を洗う戦闘はさほど起こらなかった。継体朝としても、応神朝が開いた河内国周辺の耕作地や交易ルートを平和裏に使えればそれに越したことはない。ある意味継体朝と応神朝が一体化していく格好になった王朝の交代の過程が、大国主命の国譲り神話の原型になった。
旅は全体的に快適で、不快な思いをすることはごく少なかったです。不快な思いの原因は、ここでもお話ししたとおりスマートフォンが馬鹿になって通信途絶したこと、「鈍足なくせに車線を頑なに変えない車」に帰路で3回遭遇したことくらいです。立ち寄った店の店員さんは尋ねれば親切に教えてくれましたし、食べ物が何処も美味しかったのは嬉しいところ。あと、外国人、特に中韓や中東系を殆ど見なかったことも快適さの要因です。残念ながら、多数で押し寄せて所かまわず大声で喋り、気に入らないとこれまた大声で集団で威嚇する、など知れば知るほど、見れば見るほど共生など絵空事でしかないと分かります。
一方、陸路からは古代ユダヤ人の文化や預言、神宝を持った民族が朝鮮半島を経由して流入し、一部は南方から入植した民族と同化あるいは対立をして、近畿地方の平坦な地に住み着いて国家を樹立し、一部は海流を利用した交易で出雲国を中心に広範囲の勢力圏を持つ国家を樹立した。これが弥生人と言われる北東アジア系の遺伝子の源泉だ。
近畿地方で興った国家は、神宝を携えたことで正当性を主張した。これが崇神天皇を初代とする第1期大和朝廷もしくは崇神朝だ。しかし、文化的にも人口的にも少数だったことで、中国の秦や三国の興亡で脱出した民族の大量流入に押され、存亡の危機に瀕した。そこで海洋豪族の舟木氏らを頼って大量の模造品を作ると同時に神宝を安全な場所に隠させることにした。これが元伊勢巡幸だ。
舟木氏らは現在の伊勢神宮特定をカモフラージュとして利用し、伊雑宮や近畿地方の丹の出土地域を抑えつつ船旅を続け、天体の動きから伊勢神宮の直線状にあり、しかも容易に入れない場所として逆鋒山を特定し、そこに神宝を安置した。しかし、その動きは現地住民が知るところとなり、後にヨクニ地方に流入した民族がそれを発見し、首領の呪術的能力で勢力を拡大し、第1期大和朝廷を抑えて中国が知るところなる巨大国家となった。これが邪馬台国だ。
そこで、多少手間になるものの、CをメインPC部屋に運んでゲーム機専用に。DとEをリビングに運んで、Dは今後旧メインPCと接続して、EをノートPCに接続。A,Bの接続と表示を確認したのち、この作業を実施して、無事ノートPCと同じ解像度で画面を大きく出来たのと、懸案だった「ゲーム時にディスプレイの1つが使えない」問題もクリアできました。CはHDMIが1つ余っているので自宅カメラ表示用にも使うことを画策しています。コネクタの種類と数もディスプレイ選択で重要だと改めて感じます。
更に不可思議なところがある。実質的に国譲りをした八重事代主神と建御名方神は、大国主命が東北地方で娶った沼河比売(ぬなかわひめ)との子どもなのだ。つまり出雲国と東北地方がすでに交易などで関係性があり、そこに鉄を用いた農具や武器の製造と流通のルートがあった。近畿地方のごく一部、しかも地理的に防衛に不適格な大和朝廷こと天孫系の天皇を頂点とする豪族集団との力関係は比較するまでもないと考えるのが自然だ。
古事記などの文献と科学的調査研究から推察される古代日本史はこうだ。イスラエルの滅亡により、10支族を含む多くのユダヤ人はイスラエルを脱出し、一部はイザヤの預言に従って「海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤ」に希望を見出して船出した。長い船旅で原住民との同化や混血あるいは遭難し、神殿から持ち出された聖櫃や神宝は旅の途中に別の民族に継承されるか奪われるかした。
今回特に重視した解像度は、1920x1200から2560x1440になったことで、従来のブラウザウィンドウを2つ横に並べても十分余裕が出来ます。発色は問題なく、輝度やコントラストは調整すれば十分。旧ディスプレイはまだ使えるので、1台はゲーム専用、1台はリビングに運んで旧メインPCに使う考えです。普段の使用に必要十分で従来より解像度が高い仕様のものが3万~5万程度で買えるのは、液晶の進歩を感じさせます。
出雲国に降り立った建御雷之男神は、十掬剣(とつかのつるぎ:別名「布都御魂(ふつのみたま)」で、八岐大蛇退治に使われたもう1本の十掬剣(布都斯魂剣(ふつしみたまのつるぎ)と共に石上神宮(奈良県天理市)のご神体として祀られている))を抜いて波間に逆さに刺し、その上に胡坐をかいて大国主命と対面し「今、お前が治める葦原中国は天津神が治めるべきと言っている。お前はどう思うか」と尋ねた。これもこれまでとは異なり威嚇を伴う姿勢だ。これに対して大国主命は、自分ではなく息子の八重事代主神(やえことしろぬしのかみ:一般に事代主神と呼ばれる)に聞いてくれ、ただ八重事代主神は鳥を狩ったり漁をしたりしていて帰ってきていないと答えた。
これに建御雷之男神は、天鳥船神を派遣して八重事代主神を連れ戻させ、八重事代主神に問うた。すると八重事代主神は「この国は天津神に治めていただきたい」と答え、姿を隠した。建御名方神が「お前の息子の八重事代主神はああ言ったが、他に言う子どもはいるのか」と尋ねると、大国主命は建御名方神(たけみなかたのかみ:後述するが諏訪大社の祭神)がいると答え、建御名方神は指先に巨大な岩を載せて現れた。
建御名方神は建御雷之男神に力比べの勝負を提案し、自分が勝ったら建御雷之男神が手を引くこと、建御雷之男神が勝ったら国を譲り天津神に仕えるとした。建御雷之男神は応じ、建御名方神を投げ飛ばした。逃げた建御名方神は諏訪湖で建御雷之男神に追い詰められ、殺されそうになるが、この国を天津神に譲ること、自分はこの地、すなわち諏訪湖のある場所に留まること、父である大国主命と兄の八重事代主神の命令に従うと言った。これにより、建御名方神は諏訪の地に留まり、諏訪大社の祭神となった。また、建御名方神と建御雷之男神の力比べは相撲の起源となった。
流石にガソリンが持たなくてSAで1回給油して(足元を見る価格)、途中2回買い物も兼ねて休憩しましたが、往復全て事故なく無事に帰還しました。「鈍足なくせに車線を頑なに変えない車」には閉口しましたが、懸念していた雪や渋滞は回避できたのも良かったです(何故か事故現場に遭遇することが多い)。多数の写真の整理と選定はこれからします。土日で元の生活に戻して、週明けから本業に復帰します。
天若日子の派遣から8年経過し、未だ何の報告もないことに痺れを切らした天照大神は、鳴女(なきめ:人の言葉が分かる巨大な雉)を派遣した。この雉を天若日子は弓矢で撃ち、矢は鳴女を貫通し、高天原まで届いた。その矢を撃ったのは誰かを突き止めるため、高御産巣日神は、天若日子が悪い神を撃ったならどこにも当たらず、天若日子が裏切って撃ったなら天若日子の胸を射るよう誓約(うけい:天照大神と素戔嗚尊が高天原で行ったあの占い)を行ない、高天原から矢を放った。結果、当然ではあるが天若日子は矢に撃たれて死に、下照比売は嘆き悲しんだ。
天照大神は次に誰を送るべきかを問い、思金神(おもひかね:天岩戸の件で主導的役割を果たした神)や他の神々は、天安河の河上にある天の岩屋に住む伊都之尾羽張神(いつのおはばりのかみ:伊邪那美が死ぬ原因となった加具土命(かぐつちのみこと:火の神)を斬殺した剣と同じ名前。刀が神格化されたものと見られる)もしくはその子どもである建御雷之男神(たけみかづちのをのかみ:加具土命を斬殺した刀(前述の伊都之尾羽張)についた加具土命の血が伊邪那岐の手元に流流れ落ちて生まれた神:雷神であり刀剣の神でもある)を推挙した。
移動に時間がかかった理由は、一之宮ではないものの連載にも登場した神社の参拝・撮影と、その神社がある半島をひとめぐりしたためです。ある意味エクストラステージですが、写真などでは見たことがあるスポットを実際に目の当たりにすると感慨深いものがあります。並行して空や雲、海など原点ともいえる写真もかなりの数撮影しました。今日の最終目的ポイントは参拝・撮影に時間がかかる見通しなので、早朝から動き始めます。
しかし、天照大神が相談した最初の神である別天津神(ことあまつかみ)こと造化三神の3柱ー天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神の予想とは異なり、天照大神は話し合いによって大国主命から日本の統治権を譲らせることを宣言した。遥か子孫の神武天皇が殺戮を繰り返しながら大和国に入ったことを考えると、非常に平和的な手法を選択したわけだ。
天照大神の国譲り交渉は、まず長男の天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)を派遣するが、地上こと日本の人々が非常に騒いでいたため早々に帰還した。天照大神はによる命令を受けた高御産巣日神は、天安河(あまのやすのかわ:高天原を流れる川)の河原に八百万の神を集めてどのように国津神を説得するか議論した。結果、 天照大神の次男である天菩比神(あめのほひのかみ)を派遣することになったが、ものの見事に絆されて大国主命の国造りを手伝うことになった、つまり天照大神を裏切り3年間音沙汰なしになった。
この日は県を跨いで移動する日でしたが、方向音痴にナビの設定ミスが重なって、移動経路の高速道路を間違ってしまい、正しい行先を調べようにもスマートフォンが馬鹿になって通信できない最悪の状況。道の駅の全体地図と何とか入手した地域の地図でどうにか特定して、ようやく復活した(?)スマートフォンで確認して経路を修正して何とか宿に到着しました。通信機器が使えないと紙の偉大さが良く分かります。今日も長距離移動しながら参拝・撮影の繰り返しです。
前述のとおり、ユダ王国はアラム・北イスラエル王国連合による侵略を退けたものの、アッシリアの救援を受けた代償として禁忌である偶像崇拝を受け入れた。この時の王ヒゼキヤとその息子マナセは神への背信を続け、預言どおりユダ王国は滅亡する。これにより、北イスラエル王国から逃れた10支族は現在も行方が分からないため、「失われた十支族」と言われるのは、以前話したとおりだ。
何とか最初の一之宮近くで一般道に入ったものの、交通事情を無視したナビや(幹線道路の途中で右折させたがるとか)一方通行の連続、そして車1台が何とか通れる程度の狭小な道と多数のトラップで宿に着くまでひと苦労しました。一之宮の1つは歩いた方が安全確実なので、4日目は朝から歩きます。
一方でイザヤ書では救いの道も預言されている。「しかし、苦しみにあった地にも、やみがなくなる。さきにはゼブルンの地、ナフタリの地にはずかしめを与えられたが、後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる」(第9章1)「ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる」(第9章6)と、救いの道があること、救世主が出現することが預言されている。
No.2: 中央教育審議会答申の「公の意識」批判(2002/7/19~2002/7/27掲載)
No.3: 「日の丸」「君が代」は何故問題か(2002/7/19~2002/7/22掲載)
No.4: 公明党の事実歪曲、隠蔽を糾す(2002/10/24~2002/10/27掲載)
No.5: ここまで堕落した「平和の党」公明党(2003/2/18~2003/2/20掲載)
No.6: イラク国民と日本国憲法を蹂躙するイラク特別措置法案(2003/6/19~2003/6/21掲載)
No.7: 「マニフェスト選挙」宣伝の背景にある経済界の策略(2003/10/16~2003/10/18掲載)
No.8: 夫婦別姓について-賛意に敢えて苦言を付す-(2004/6/2~2004/6/24掲載)
No.9: 腐った祭典オリンピックとスポーツ神聖視を改めて批判する(2021/7/22~2021/7/31掲載)
No.10: 池袋暴走事件に見る警察・検察・裁判所の限界、メディアの怠慢(2021/9/3~2021/9/21掲載)
No.11: 検索・デザイン至上主義が齎す個人ページの衰退とインターネット情報の劣化(2021/11/26~2021/12/1掲載)
近年、Webの検索結果の劣化が目につきます。まとめサイトや「〇〇について調べてみました」系サイト(大抵内容に新規性はないのも共通)、Q&Aサイトのコピーが先頭1~2ページに来て、それ以降も大半がその手のページ。個人ページの衰退と概ねリンクしているのも関係していて、結局のところ検索とデザイン至上主義を反映したのと、Web技術が先行し過ぎたことの弊害と見ています。
このページの開設から何年かして、検索上位になるようSEOという手段が出てきました。それが進歩した一方で、SEOとPV至上主義が進み、前述のようなコピーサイトが粗製乱造されました。結果、個人Webがより検索結果から追いやられる羽目になり、本当に欲しい情報がWebで入手しづらくなってきたと言えます。
個人でサーバーを設定したりするのは面倒だし本筋ではないが、情報を出したい・残したいという人にとって、GeoCitiesやInfoseekなどは広告付きながら無料で、基礎的なHTMLを知っていればWebページを開設できました。実際、それらにあるWebページが有効な情報を多く掲載していました。ところが、Web技術が急速に進展し、CSSも必要、更にはJavaScriptでDOM操作など、デザイン至上主義が強まりました。デザイン自身は悪ではないものの、プログラミングが絡むと個人レベルでは簡単に対応できません。見栄えが悪いと内容も劣ると見なされやすい昨今、Web技術が本来充実すべき個人ページを衰退させる形になったのは皮肉な話です。
また、デザインには流行り廃りがあります。そのため、環境に依存しない情報発信の手段というWebやその道具であるHTMLやCSSが、デザインの流行り廃りに影響されて見栄えの頻繁な変更やプログラミングの難易度が上昇する傾向が出てきました。しかもブラウザ側の思惑で同じHTML+CSSでも表示が違う有様。これでは個人レベルで対応できなくなって当然です。W3Cやブラウザ側は、デザイン重視のHTMLやCSS対応より、ブラウザ間の表示統一を進めるべきでしたが、完全に道を誤りました。
Web技術の隆盛は、個人ページの衰退とほぼ同時にブログ形式の隆盛にも影響しました。トラックバックやコメント、タグクラウドなどページ間の連携やユーザー参加機能、HTMLを知らなくても文章の作成と写真などの投稿で体裁も整うテンプレートといった、高度化したWeb技術を活用したものです。一定数の個人ページがブログに置き換わりましたが、テンプレートは便利な一方でそれを逸脱するレイアウトが出来ません。テンプレートなどブログが用意したものに束縛されることは、すべての個人ページがブログに移行しなかった理由の1つでもあるでしょう。そしてブログはまとめサイトという重大な弊害を孕む分野を生みだしました。
まとめサイトやその利用者、源泉となる某掲示板は、それこそ「ネットこそ真実」「マスコミは悪」を地で行く論調ですが、結局のところ一次ソースはマスコミ。しかも掲載記事には運営側の意向が入ります。それに対して考察・議論するのは兎も角、まとめサイトこそ真実とばかりの論調で、異論反論を許さず直接排撃さえする攻撃的な面が強く出ているのは、重大な問題です。このような傾向が出るのは、運営側の意図に沿った(まとめサイトは基本的に右翼反動側)意見が某掲示板から抽出され、アフィリエイトなどPVを稼ぐことで運営側に収入が入るブログ形式が大きな要因です。どこもかしこも抽出元が同じ掲示板でも、ページ名やテンプレートを変えれば別サイトに見えますから、多数に見える同じ見解がある=正しいという歪んだ多数決の論理が生まれます。ブログ形式が生んだ重大な弊害と言えます。
7 ブログ形式に続いて、TwitterやPixivなどSNSが隆盛してきました。これらもHTMLの知識が不要で、テンプレートから背景などを選択でき、画像や音声の投稿も容易など、イラストや写真に携わる人を中心に多く使用されています。自身の作品を公開し、時に収入源とするには、HTMLの知識を得るより本題であるイラストや写真の技量を向上させる方がはるかに重要です。これらの状況から、個人レベルのHTMLベースのWebページが再興することは、ほぼないと言えます。検索・デザイン至上主義の意向が個人ページの衰退を招き、時に重大な弊害を孕むブログ形式や、情報の安易な拡散の危険があるSNSの隆盛に至ったのは、環境に依存しない情報発信を目指したHTMLの新しい形ではあります。しかし、検索・デザイン至上主義が別の弊害を生みだしているのも事実です。
Webが本来の目的、すなわち環境に依存しない情報発信の手段となるには、まだまだ時間がかかるでしょう。中立と言いながら運営側の意向と閲覧者の正常化バイアスが如実に出るまとめサイトは言うに及ばず、フィルターや掲載側の意向が絡むSNSも、本来のWebとは言えません。Webをデザインから取り戻し、誰でも使えるレベルと標準化の対象をブラウザ側にシフトすることが、Webを本来の目的に戻すことに繋がると考えます。
2名死亡、9名重軽傷の大惨事を引き起こした池袋暴走事件の加害者、飯塚幸三被告に禁固5年の判決が出されました。主張を二転三転させ反省も謝罪もない飯塚幸三被告を、警察は一度も逮捕しませんでした。検察は危険運転致死傷や未必の故意による殺人ではなく過失致死で立件・起訴し、裁判所は求刑の7掛けの判決を出す判例主義に固執しました。言うなれば、官僚主義・前例主義と叙勲者の保護=天皇のメンツを優先した妥協の産物です。
京都アニメーション放火殺人事件では、入院中の青葉真司被告に逮捕状を出し、拘置所を改修してまで拘留し、他の交通死亡事故ではほぼ現行犯逮捕。「逮捕=刑罰ではない」と言われますが、実質的に「逮捕=刑罰」として機能している現状では、法曹界の空虚な理想論にすぎません。その説明も碌にないまま、警察は飯塚幸三被告の自宅を警備する体たらく。一般の事件事故の加害者がここまで守られる事例は聞いたことがありません。これが特別扱いでなくて何だと言うのでしょうか。
飯塚幸三被告が骨折で入院したことで現行犯逮捕されなかったことは妥当な範囲です。しかし、供述を二転三転させた段階で、退院後に逮捕拘留から早期に起訴することも出来た筈。前後に起こった他の交通事故では現行犯逮捕→送検、起訴とある意味定型処理なされただけに、飯塚幸三被告に対しては徹頭徹尾任意聴取がなされたのは、特別待遇という疑惑・批判は当然です。事故発生時に経歴や勲章の有無を把握するのはまず不可能ですが、その後の把握の時点で手心を加えたとの疑惑は払拭できません。
検察の怠慢ぶりも看過できません。飯塚幸三被告がパーキンソン病の疑いがあると診断されていたこと、2001年に自転車との接触事故で略式処分を受けたこと、ブレーキ一切なしで暴走を続け、多くの死傷者を出したことから、単なる過失ではなく少なくとも重過失、危険運転致死傷、更には「積極的に犯罪行為を意図してはいないが、結果的にそうなっても仕方ない」という未必の故意による殺人の適用も視野に入れるべきところ。「自動車事故だから過失」「加害者は天皇から叙勲された」など、前例踏襲の悪しき官僚主義と天皇のメンツ優先で罪状を狭小化したとの誹りは免れません。
検察よりも怠慢なのは裁判所です。裁判所の極端な判例主義は、悪しき官僚主義そのものです。検察の求刑には拘束力はなく、日本国憲法にあるとおり「法と良心にのみしたがって」判決を出せます。しかし、判例主義に固執するあまり、機械的に求刑の7掛け8掛けの判決を出したり、世情から乖離した空虚な理想論に基づく判決をだしたりしています。機械的な判決や法の条文をなぞっただけの判決しか出せないなら、機械学習に置き換えた方が人件費の大幅削減にもなります。
検察と裁判所、弁護士は立場こそ違うように見えますが、実際は司法試験合格→司法修習生という同じレールを進んだ同胞です。検察と裁判所は悪しき官僚主義に毒され、弁護士は金のためなら悪魔の尻も舐め、今回の飯塚幸三被告の弁護士のように荒唐無稽な弁護や、安田好弘弁護士らのように何の落ち度もない被害者遺族を侮辱することも躊躇わない醜悪さを隠しません。法曹界が、自浄能力もなければ刷新もない、ただ六法全書など法律の条文をいかに解釈するか、敢えて卑猥な表現を使うなら「六法全書オナニー」に明け暮れる、新陳代謝が途絶えて淀み腐敗した世界であるかを知らしめています。
結局のところ、弁護士など法曹界は法律がすべて完全に適用されている「理想の世界」に生きていて、現実と法律の乖離などには全く無頓着であることが窺えます。AEDの問題でもこの「理想の世界」に生きる故の現実の見えなさがあります。法曹界は「理想の世界」で条文をこね回すのではなく、現実を直視すべきであり、免許更新制度を導入するなら、教師よりも医師と弁護士が対象であるべきです。もっとも、日本医師政治連盟だの日本弁護士政治連盟だのを結成して与野党問わず国会議員を送り込み、日本医師会だの日本弁護士連合会だの圧力団体を結成して既得権益を死守する体制を堅持しているので、それらは望み薄なのもまた現実です。
金と権力に媚びる腐敗と悪しき官僚主義が充満する警察と法曹界もさることながら、例によってそれ以上に腐臭を放ったのがメディアです。同時期に発生した大津の園児死傷事故では、記者会見を開いた被害者と言うべき保育園の園長を、産経新聞の清水記者、報道ステーションの井沢記者などが執拗に責め立てました。それを「表情が伴って初めて"お気持ち"なのだし、記者会見をカメラが捉えているなら、お気持ちを聞くということは基本中の基本」(テレビ朝日の平石直之氏)「「どんな園児がどのような散歩を行っていたのか」は、泣き崩れた園長や園児を守ろうとした保育士のためにも聞くべきことだったのです。」(木村隆志氏:東洋経済オンライン2019年5月10日付)などと、メディアの悪辣な行為を正当化する始末です。保護者に託された園児が事件事故に巻き込まれて死傷したら、冷静ではいられないのが当然。にもかかわらず、「お気持ち」を聞かせろなどと妄言を吐き、それを正当化するメディアが、いかに心底腐っているかをまざまざと見せつけました。
それに対して、飯塚幸三被告や同乗していた妻、更には隠蔽工作を図ったとの疑惑もある息子(110や119ではなく、息子に連絡している時点で救護義務違反、つまりはひき逃げと等価)などへの取材攻勢はいたって控えめなもの。いつものメディアスクラムはどうした?大津の死傷事故のように飯塚幸三被告を徹底的に質問責めにしないのか?
この池袋暴走事件では、「逮捕されないのは入院したから~」「逮捕は刑罰ではない~」など弁護士やメディアがこぞって説諭まがいの見解を出しました。ところが、京都アニメーション放火殺人事件の青葉容疑者など、その理論に合致しない事例は多数あります。福島県の県立大野病院事件では、無理がある手術を要望した遺族がけしかけた警察によって医師が逮捕される羽目になったように、メディアがいくら「逮捕は刑罰ではない」「逮捕されないと容疑者とは言わない」「逃亡や証拠隠滅の恐れがなければ逮捕されない」と法曹界を動員してまで弁明しても、詭弁でしかないことを証明しています。
更に看過できないことは、様々な角度から飯塚幸三被告の擁護が出ていることです。例えば、加害者家族支援NPO法人「World Open Heart」(以下WOH)の阿部恭子氏は、自身が運営するWOHのホットラインに飯塚幸三被告の息子から電話が入ったこと、飯塚幸三被告の息子が報道と事実が違うことや家族が悲嘆に暮れていることを挙げたり(現代ビジネス 2020年10月9日)、飯塚幸三被告や家族への批判が被告を頑なにさせ、真実を遠ざけている(週刊女性PRIME 2021年4月29日)などと、飯塚幸三被告を事実上擁護しています。また、名古屋大学未来社会創造機構特任准教授の島崎敢氏は「人間は本質的に「エラーをする生き物」だから」「「加害者の発言が被害者や社会の人たちにどう映るか」や「本当は何が起きたのか」と切り離して考えれば、飯塚被告の発言は自然なものだと考えることもできる」(オトナンサー2020年12月2日)などと、飯塚幸三被告の引き起こした事故は「エラーを罰するべきではない」とまで述べて擁護しています。
白昼の東京都心で、過去に自転車と接触事故を起こし、パーキンソン病の疑いで足が不自由な飯塚幸三被告が車を暴走させ、多数の死傷者を出したことが単なるエラーであり、罰するべきではないとまで言い、起訴までに供述を二転三転させ、法廷で自身の過失ではないと無反省に繰り返す飯塚幸三被告や、同乗者の妻や隠蔽疑惑まである息子を責めるのはおかしいとまで言う。このような擁護の動きが、それこそ単なるエラーで引き起こされた交通事故であるにもかかわらず、方や事実上加害者支援のNPO法人から、方や国立大学の研究者から出ること自体、あからさまな特定人物擁護の腐った策動であると言わなければなりません。
前述のように、通常なら家族の下に押しかけ時に謝罪会見を開かせるマスコミが弁護士を動員して、「逮捕されていないから容疑者とは呼ばない」「逮捕は刑罰ではない」と供述を二転三転させる飯塚幸三被告が退院後も逮捕されないことを正当化したり、NPO法人代表や学者を動員して「飯塚幸三被告を責めるだけでは解決しない」と事実上擁護する動きを見せたのは、飯塚幸三被告の身内(特に息子)や弁護士がメディアに手をまわしたのと、メディアが叙勲者である飯塚幸三被告、ひいては天皇のメンツを優先させた結果である疑いが濃厚です。言い換えれば、同じ犯罪を犯しても社会的地位や年齢で警察やメディアは遠慮し、弁護士があの手この手で擁護の風向きを作ろうとする、日本国憲法が謳う「法の下の平等」などどこ吹く風の状況が日本の実態なのです。
池袋暴走事件の飯塚幸三被告が控訴せず、禁固5年の実刑が確定しました。勲章とそれに伴う名誉(年金などは文化勲章受勲者だけ)の剥奪を避けるため、控訴で引き延ばしを図ると見ていたので、予想外です。とはいえ、刑事訴訟法で70歳以上もしくは刑の執行で健康を害すると判断される場合に刑の執行が停止できます。公判や事実上加害者支援のNPO法人を介しての体調悪化や難病罹患アピールは、控訴による引き延ばしから刑の執行停止に切り替えたものだと推測されます。勿論、悪魔の尻を舐める弁護士の入れ知恵で。
警察はまだ飯塚幸三被告周辺の警護を続け、検察も裁判所も通り一辺倒の求刑と判決を出すだけの人件費がかかる機械学習でしかなく、弁護士とマスコミは金次第で悪魔の尻も舐める腐った法運用や報道環境下で、飯塚幸三被告がどう出るか、何時本人あるいは身内や弁護士が記者会見を開くのか、注視していくと共に、空虚な理想論を繰り返すだけで実際は権力と金に弱い法曹界とメディアを厳しく糾弾する必要があります。
私は以前から商業主義や国粋主義に塗れたオリンピックを強く批判していますし(No.1を参照ください)、IOC即時解体が必要だと考えています。東京オリンピック誘致が決まった際「おもてなし」だの「平和の祭典」だのもてはやされた中でも、それに水を差す非国民的な見方をされた中でも、この見解は一貫している自負があります。
一連のコロナ脳騒ぎの数少ない利点は、オリンピックに纏わる嘘や欺瞞、拝金主義と中間搾取、オリンピック開催の帳尻合わせのために国民生活に犠牲を強いる上級国民的性質が露呈して、一定の周知がなされたことです。オリンピックはIOCなどの利権のためであり、オリンピックをはじめとするスポーツ神聖視を捨てる時期に来ています。
今回の東京オリンピックは、コロナ脳騒ぎが始まる前から以前にも増して腐臭が充満していました。誘致選考の段階で「おもてなし」とか、とどのつまりは接待攻勢。招致委員会理事長だった竹田恒和・JOC会長(当時)に贈賄疑惑が生じるのは自明の理。この「おもてなし」とやらで伏魔殿IOC総会でプレゼンをしたのが、悪名高き現環境相、小泉進次郎氏の現配偶者である滝川クリステル氏というのも、もはや質の悪いギャグです。
利権の腐臭がするところには利権の腐ったネットワークが構成されるもの。死者も出るほどの猛暑の最中に開催を決めたのも、最大のスポンサーであるアメリカ放送局NBCの意向ですし、それを粛々と受け入れる一方で、冷房すらない新国立競技場建設や、後に箔をつけるためのタワーマンション選手村建設。これで開催理念は「コンパクト五輪」。何のギャグでしょうか。
前述したとおり、体温より高くなることもある気温と猛烈な湿度という、スポーツでなくても最悪の環境でオリンピックを開催すること自体が愚の骨頂ですが、その愚の骨頂を実行に移したのは、他ならぬスポンサー、特にNBCなど海外勢です。欧米の多くは高緯度地域、しかも夏でも湿度が低いので想像が及ばないのかも知れませんが、多少調べればわかること。知った上でごり押しするのは、単に金のため。「アスリートファースト」などどの口が言うのか。
受け入れ側の日本・東京都の対策も杜撰の一言。打ち水や朝顔の陳列でどうにかなる筈がなく(しかも朝顔の世話もせずに立ち枯れさせるお粗末さ)、B29を竹槍で落とそうとした時代から為政者の頭の中身は何も変わっていないことが露呈しました。これをメディアが碌に批判しなかったのも、メディアがスポンサーだから。これでオリンピックやIOC、JOCの腐臭がする腐敗を糺せる筈がなく、大本営発表の時代からやはり何も変わっていないのです。
メディアがスポーツイベントにスポンサーとして関与することで、イベント全体の腐敗度が進行しやすくなります。オリンピック然りFIFA然り高校野球然り。選手やチームは勝利や栄光を目指して練習に勤しみ、と様々な形で美化して喧伝されますが、その一面もある一方で暴力恐喝喫煙飲酒、八百長ドラッグetc.と大小の不祥事は日常茶飯事です。これはスポーツの本質の1つでもあり、その本質を「健全な精神は健全な肉体に宿る」などと美辞麗句で誤魔化しているにすぎません。
スポーツの歪んだ本質がある一方で、「健全な精神は~」などスポーツをする側が健全、それを批判する者は不健全という図式が今もまかり通るのは、メディアの責任が重大です。スポーツイベントを称賛する一方、スポーツやイベントの本質を覆い隠すのは、やはり金のため。こんなメディアなど不要です。
メディアがスポンサーとなってでもスポーツイベントに関与することで、別の歪みが生じます。スポーツイベントの礼賛とその押し付けです。現に、体裁上オリンピックへの疑問の声を一応紹介していたメディアも、いざ始まるや日本選手のメダル獲得や予選状況をつぶさに報道し、オリンピックやIOC、電通や自公政権の腐敗追及、感染と発症の区別すらしないまま、開業医の団体である日本医師会や御用学者集団である専門家会議の怠慢や欺瞞など、どこ吹く風です。
スポンサーとして関与するから、例えば朝日新聞が主催する高校野球で、甲子園出場校や常連校での犯罪を掘り下げたり追及することもなく、一般的な報道を投げて終わり。オリンピックなど最たるもので、膨大な予算が何処に消えたか、中間搾取の実態に迫るものは殆どありません。暗部を追求し、隠された事実を暴く使命を放棄したメディアは、単なる大本営発表の広報機関でしかありません。
オリンピックをはじめとする腐ったスポーツイベントがメディアによって喧伝される理由は、金であることは疑いようがない事実です。同時に、メディアはもとより多くの市民がスポーツを神聖視していること-スポーツは尊く、それに携わるスポーツマンもまた尊いとする認識が、この歪んだ現状を強力に支援していることも事実です。
スポーツマンが果たして健全か?否!「勤勉と規律とはつねにわれらと共にあり、怠惰と放縦とに対しては不断に警戒されなければならない。」(高野連の日本学生野球憲章より抜粋)と謳っている高校野球では、常連校でも飲酒喫煙暴力など日常茶飯事。オリンピックやFIFAは言わずもがな。「法令を遵守し、健全な社会規範を尊重する」だの「一切の暴力を排除」(いずれも高野連の規定第2条)などどの口が言うのか。「スポーツをする者が健全」など大ウソであり、「スポーツは戦争の代替手段」だと市民が認めることが肝要です。
スポーツがフェア精神を涵養すると喧伝されますが、選手の側は何度も挙げているとおり、部員などへの暴力など「よくある話」のレベル。しかも不問だったり、時に被害者に退学を迫る理不尽さ。観客の側はフーリガンなど暴力行為や八百長、「勝てば官軍負ければ賊軍」そのものの扱いで、負けた選手やチームが「身の危険を感じる」のもこれまた「よくある話」。これで何がフェア精神の涵養かと冷笑する他ありません。
スポーツをする者が何かにつけて良い人間とされ、スポーツが苦手な者は冷遇されることは、義務教育前から続く伝統です。それが社会では、上には諂(へつら)い下には粗暴な体育会系という悪しき伝統と人脈を形成し、理不尽を躾や教育として強要する始末。スポーツ愛好家の本性見たり、ではないでしょうか。このような腐った理不尽が選手の側でも、観客の側でも、そして運営の側でも凝縮された最たるものの1つが、オリンピックです。
スポーツ優遇、(スポーツではないという意味での)文化冷遇は、オリンピックに限りません。プロ野球などスポーツイベントは観客の制限はあれど通常どおり開催している一方で、コミケやライブなどの文化イベントは、時に医師会がしゃしゃり出て来てまで中止に追い込まれています。答えは単純。メディアやスポンサーの金になるかどうか。健全な精神云々と言いながら、露骨に金と権力で動いているのがスポーツの実態です。
オリンピックが開催されるのも、金と権力が行使できるスポーツイベントだからであり、その額が巨額だから。それはこれまでも述べて来たとおりであり、スポーツ優遇、文化冷遇の結果が、学校行事の理不尽な中止・延期にも表れています。学校行事でメディアやスポンサーは儲かりませんがオリンピックはその正反対。開催側は金と権力に骨の髄まで浸かり、選手は暴力ドラッグ反則で腐ったスポーツイベントの最高峰オリンピックは、IOCもろとも即時解体以外にありません。
オリンピックを巡る腐敗や歪みをまともに指摘できるメディアは殆どないのは、スポンサーとして癒着しているからなのは前述のとおりですが、政党が右も左もオリンピック礼賛一色なのが情けない限りです。オリンピックなど国際スポーツイベントを、右は国威発揚・国民団結の起爆剤としていて、左は世界平和・友好の象徴と位置付けていますから、どちらも礼賛一色になるのは当然と言えば当然です。どちらもオリンピックなどスポーツイベントを崇め奉り、利用する立場なのは何とも滑稽なものです。
オリンピックなどスポーツイベントの報道を見れば、スポーツは所詮戦争の代替手段であることは明白。だから開催側では金と権力とメンツが鎬を削り、選手や応援側では暴力恐喝ドラッグ八百長など犯罪を当然とする体育会系思考が跋扈する、極めて歪み腐敗したものになるのです。戦争の代替手段ですから「勝てば何でも許される」となれば、それに善悪やモラルなど期待するのが無駄なのです。そんなイベントをこぞって応援するなど、戦争や腐敗を応援・礼賛するのと等価です。
スポーツは娯楽の1つであり、スポーツイベントは興行の1つです。それらに楽しみを見出すのは他の娯楽を楽しむのと同じですから全面的に否定はしませんが、高尚でも健全でもないどころか、大規模なものほど腐敗しやすいこと、特に上意下達が理不尽と融合する体育会系思考が跋扈しやすく、暴力や殺人をも正当化する有害なものでもあることを認識しなければなりません。スポーツやスポーツイベントは過程や結果で、リアルで殺人が起こる醜い現実を直視すべきです。
菅首相が「なんだかんだ言ってもオリンピックが始まればこぞって応援する」という趣旨の高を括った発言をしましたが、まさにそのとおりになりました。「国民などオリンピック報道で簡単に誤魔化せる」と完全に見透かされ、舐められているからこのような発言が出るのです。オリンピックをはじめ、スポーツやスポーツイベントは利権と犯罪の坩堝であり、それから目を背けてスポーツやスポーツイベントを礼賛・神聖視することは、国民の不満を逸らし忘却させる愚策に嵌る愚行でもあることを認識し、改めることが必要です。「健全な精神は健全な肉体に宿る」などスポーツやスポーツイベントが抱える醜い現実から目を背ける、空虚なスローガンでしかないのです。
日本において夫婦別姓問題が浮上するようになって久しいですが、「姓の変更で不利益や断絶感を生じる」と主張する「賛成派」と「家族の一体感が崩壊する」という「反対派」の主張が真っ向から対立し、国会では未だに法案に審議にすら入らない状態です。今回は夫婦別姓に対して述べることにします。
「夫婦別姓になると家族の一体感が破壊される」という「反対派」の主張は完全に破綻しています。「夫婦別姓=家庭の崩壊」ということは即ち、「夫婦同姓=家族の強固な一体感」となるのでしょうが、では何故夫婦同姓の日本で離婚や家庭内別居、果ては親殺し、子殺しといった家庭崩壊が頻発しているのでしょうか。また、儒教の「女性は男性の家に入ることはできない」という考えが根強い韓国では夫婦は別姓ですが(時折「韓国のような男尊女卑の根強い国でも夫婦別姓がある」というような主張がありますが、全くの的外れであるばかりか、心の何処かに韓国に対する蔑視感情があると推測されます)、夫婦や家族の一体感は強固です。
国会図書館が夫婦の姓に関する法令や判例、慣習法について40カ国25地域について調査した結果では、34カ国が夫婦別姓を認めています。夫婦別姓を法的に認めている国でも、或いは日本のように夫婦別姓が法的に認められていない国でも、強固な絆を持つ夫婦や家族もあればその逆もあります。日本においても結婚して姓が変わったらもはや親子ではない、赤の他人になるかと考えればこれも違います。やはり親子は親子です。これらのことは姓の一致や不一致では合理的に説明できません。
それに、現行の民法では結婚時に夫婦どちらかの姓を選べる(というより統一する)ようになっていますが、97%以上が夫の姓になっているということは、必然的に女性の殆どが結婚と同時に姓が変わり、そこでこれまでの自分とこれからの自分に有形無形の断絶が生じます。特に個人名が前面に出る職業、例えば弁護士や税理士、研究者や技術者、芸術家といった「資格職業」や「経歴職業」、自由業に就く人には、姓を重要視する日本社会における改姓は、男性女性を問わず、経歴や実績の重大な断絶を招くことに繋がります。
日本では名前よりも姓が重要視される傾向が強いです。呼称ひとつを採り上げても、普段の生活で「○○さん」と呼ぶときは殆どの場合、姓が使われます。ここで名前を使うのは余程親密な間柄だけが許されるのであって、付き合いの浅い段階で使おうものなら「馴れ馴れしい」「生意気」という印象すら与えかねません。それだけ姓は日本人にとって重要なのであり、それを変更することに大きな問題が生じるのは必然的とも言えます。これは通称使用で解決する問題ではありませんし、通称にしても使用できる範囲は地域や状況によってかなり制限されているのが現状です。「通称使用でよい」と述べるなら、通称使用の範囲を拡張するように役所や企業などに働きかけるべきです。
夫婦や家族、そして姓の問題は価値観的命題の一つです。夫婦や家族は同姓でこそ一体感が保てるというのも一つの価値観ですし、夫婦や家族は姓が違っても強固な関係は構築できるというのも然り。また、個人を取り巻く状況も大きく異なります。価値観的命題に対して千差万別の回答が提示されるのは当然です。そんな命題に関してある「模範」回答を法律という強制力を伴う形で強要することそのものが誤りですし、条文化されてなくてもまた然りです。だから現行の「夫婦は同姓であるべき」というのは勿論、「夫婦は別姓が当然」というのを他人に強要するのもおかしいのです(これに関しては後述)。
「選択肢が多いことが民主主義の成熟度を示す」とも言われますが、その観点からも、2通りの選択肢のうち1つが圧倒的多数で半ば自動的に「選定」される現状下で、実生活や精神的に大きな矛盾や苦痛を感じる人に「新たな選択肢」を提供できるのであれば、選択的という条件を付加した形での夫婦別姓制度は大いに賛成ですし、早く実施されて然るべきものだと考えます。
しかし、私は夫婦別姓制度に無条件に賛成することはできません。私がこの問題が世間に広まる以前から抱いてきた、「夫婦別姓制度そのものは賛成だが、同姓にする人に圧力が掛からないか」という疑問が未だ消えないのですが、それは「夫婦別姓こそ男女平等の証明」「男性は改姓に伴う『家』や『墓』の心配はないから反対する」「夫婦別姓に反対するのはおかしい、遅れている」というような主張が度々「無条件推進派」から聞こえて来るからです。そのような姿勢で夫婦別姓制度を推し進めるなら、待ったをかけなければなりません。
1980年代から夫婦別姓を含む民法の改正を提唱している日本共産党の木島日出男衆議院議員(当時)は、「別姓を望む夫婦というのは、お互いに相手の姓、立場を大事にしようという思いからそうする」「むしろ夫婦の絆を強めようという意志のあらわれ」(「女性のひろば」1998年1月号p12)、「多くの国民が家庭崩壊に胸を痛めて」いることは「同姓を強制することで解決できるものではありません」(同)と述べている。これには異論を挟まざるをえません。
一つ目に関して言えば、この逆を言えば「同姓を望む夫婦は、相手の姓や立場を犠牲にしようという思いからそうする」「(同姓を望む夫婦は)夫婦の絆を強めようと考えている訳ではない」と言いたいのではないでしょうか。だとすれば、「選択肢を増やす」ことで「違いを認めあえる成熟した社会をつくる」などという美辞麗句は建前にすぎません。
二つ目に関して言えば、家庭崩壊の原因は木島議員も述べているように、「雇用や賃金など経済・くらしの問題、子育て・教育問題、病気や老後の不安、退廃的な文化(この表現も引っ掛かりますが)など、複雑な要因がからみあって」いるからであり、別姓にしたところで即座に解決するものでもないのではないでしょうか。法律の条文や制度の変更で個人の考えが180度変わるなら、日本は日本国憲法や現行民法の施行段階で、世界に誇る民主国家になっている筈です。
木島議員の発言はもとより、私が夫婦別姓制度研究の取材のために出席した「選択的夫婦別姓に関するシンポジウム」(以下、シンポジウム)におけるパネリスト諸氏の発言を耳にしている中で、「結婚しても自分の姓でいたい」「いろんな生き方を認めあえる成熟した社会を」「違いを認めあえる社会を」という主張はあくまでも賛同を集めるための建前であり、本音では「夫婦別姓こそ男女同権の象徴であり、それに異を唱えるのは男女差別」と考え、それを実行しようとしているのではないか、「夫婦の姓をどうするかは女性の問題であり、男性は女性の意向、即ち夫婦別姓に異議を唱える権利はない」と言いたいのではないか、という疑問がさらに膨らんだ次第です。
それらを臭わせる発言として、パネリストの弁護士は「女ばかりの姉妹や一人娘で家名、墓の心配から(別姓を)望む人もいます。・・・こういう心配も男ならない」と述べました。これは、結婚しないと家系が断絶する、墓を守る人間がいなくなるという周囲(特に親族)の圧力に晒され、追い回されている現代の男性の実情を知らないのか、あるいは「男性は加害者で女性は被害者」であり、「被害者の女性の主張は絶対正しく、加害者の男性や社会は絶対間違っている」という図式を描きたいが為に意図的に無視したのか。このような一方的な見解をさも正論の如く言われては、男性の一人としては到底承服できません。
また、同じくパネリストの瀬古由紀子衆議院議員(当時)は、梶山前官房長官(当時)の発言を取り上げ、「(私の妻は夫婦同姓がいい、と言ったことに関して)何て遅れた考えだろう、このような考えの方が自民党の中心にいるんです」と述べました。重複しますが、夫婦や家族の姓の問題が価値観的命題の一つである以上、一律的に強制力を伴う法律という形を取るかどうかを問わず、ある「回答」を強制するのは問題です。仮に個人で夫婦同姓は遅れていると考えていても、それを立法や法改正の理由にすべきではありません。 「彼はこう考えているが、それも一つ。しかし、様々な理由で別姓制度を望む人もいるから推進する」というのなら大いに賛成ですが、パネリスト諸氏のこのような発言を聞いていると、どちらも価値観的命題に対して「全てかくあるべし」と強要する姿勢を見せているという点で、「賛成派も反対派もどっちもどっちだな」という冷めた印象しか持てません。そもそも、このシンポジウムのパネリストがすべて女性だったことや、案内状を女性にしか配布しなかったという態度(私は情報を聞きつけて参加しました。参加条件に「女性のみ」とはありませんでした)にも、どこかきな臭いものを感じます。
パネリストの発言に代表されるような本音と建前の使い分けや、夫婦別姓以外は認めないと暗に仄めかしていたシンポジウム会場の雰囲気を考えると、このまま夫婦別姓制度が推進されることにはちょっと待った、と言わざるを得ません。反対派の主張には、「別姓制度が導入されれば、自分の妻が別姓を言い出すのでは」「これまで自分が抱いてきた価値観が否定される」という不安や警戒感があると推測されますが、このような感情を無視していては、「夫婦別姓を強制しようとしている」と言われても「言論の自由だ」「反対派に対する粛正だ」の水掛け論になるだけで事態は進展しませんし、無理に進めればどこかで歪みが生じるのは必然的です。
併せて、別姓制度が夫婦(になる男女)だけの問題のように語られ、子どもに対する配慮が欠けている点も無視できません。夫婦別姓の場合の子どもの姓に関しては、「どちらかの姓に統一すべき」「出生時にどちらか届け出て、ある年齢に達した時点で改めて子どもに選ばせるべき」など様々な意見がありますが、「とにかく実施して、問題が発生した時点で議論する」などという意見もあります。姓を重視する傾向が強い日本社会の傾向と人間の思考がそう簡単に変わるものとは思えないことを考えると、あまりにも子どもに対して無責任ではないでしょうか。
親の考えや制度が変わる毎に姓が変えられることで、人生の断絶を感じるのは子どもも同様です。大人や社会の都合で振り回されては、子どもにとってはいい迷惑でしかありません。「改めて子どもに選ばせる」にしても、「自分の姓を大事にしたい」という意志で夫婦別姓を選んだ夫婦が、子どもが自分の姓を取るか相手の姓を取るかで干渉や軋轢を生むとも限りません。親族がしゃしゃり出て来て余計に拗らせる危険性も無視できません(現在でも結婚相手に関して五月蝿いのは親族の場合が多いものです)。「夫婦別姓では子どもが可愛そう」という反対派の主張は、その意味では正論です。姓は夫婦のみの問題ではないということを、推進派はもっと考慮すべきです。
結婚に伴う姓の問題は、ずっと辿っていくと最終的には「役所に書類を提出しなければ夫婦でないのか」という法律婚や戸籍制度への疑問に繋がる大きなテーマです。夫婦のみの問題に矮小化したり、同姓あるいは別姓が当然と決め付けることなく、十分な議論を重ねていくことが望まれます。
衆議院総選挙を前にして、民主党がまたも本音を出しました。管代表が年金財政に充てるためと称して消費税を10%にする必要があると言い出したのです。とは言え私は何も驚いてはいません。元より民主党は消費税を重要な税目の一つとしています。管代表の提言はそれが表に出ただけのこと。マスコミが「自民VS民主」「小泉VS管」、そして「マニフェスト選挙」なる聞き慣れない、言い換えれば新鮮な謳い文句を煽り立てているから目立たない、否、目立たないように隠されているだけです。
社会保障の財源のため、年金財政のため、と色々口実はありますがどれも出鱈目嘘八百。これまで金持ちから貧乏人まで「平等に」買い物の度に巻き上げられてきた消費税約130兆円は、実のところ長引く不況や経済界の要求に沿った法人税減収の穴埋めに使われてきたのです。これは過去の税金推移を調べれば一目瞭然です。
考えてもみてください。自民党や民主党は勿論、公明党や保守新党はことある毎に消費税は社会保障のため、などと言ってきましたが、実際これまでに行われてきた社会保障の「変化」を見てみると、医療費の労働者本人3割負担へのアップ、保険料聴衆の総報酬制(簡単に言えばボーナスからも保険料を徴収すること)の導入、物価の下落に伴う年金スライドの実施など、社会保障がどんどん崩されてきたのが実情ではないでしょうか。幾ら社会保障や年金の充実を持ち出したところで、実際がそれに反映されていなければ、それは票目当ての偽りの看板であるばかりか、有権者、ひいては国民に対して嘘に嘘を重ねる背信行為と言わなければなりません。
大体、旧民主党と自由党が合併して出来た今の民主党自体が、経済界の意向を踏まえた、自民党と政権が変わっても経済界が安心出来る政党として作られたという事実があります(「月刊「BOSS」2002年11月号)。旧民主党は旧社会党や民社党を主体とする、労働組合を締め付けている労働貴族集団。自由党は自民党の中でもタカ派の集団が自民党をカッコ良く(そのつもりで)離脱した集団。ですから旧民主党が政権を取ると労働組合に有利で経済界に不利な政権が出来てしますのではないか、という不安が経済界の中にあったわけです。その点、自由党は勢力は小さいが、党首の小沢氏が消費税増税、自衛隊の軍隊化、憲法9条「改正」など、経済界と二人三脚の自民党の政策をより強い形で受け継いでいる(小沢氏の著作「日本改造計画」を思い出してください)。その二つがくっ付けば、経済界も安心の巨大右派政党が出来て、政権交代しても経済界は安心、というからくりです。
明らかな政治買収といえる、自分たちの主張への「貢献度」に応じて献金をちらつかせる、経済界の大集団である日本経団連と民主党は会談し、「政権交代可能な野党」を求める奥田会長に「民主党にかけていただきたい」と言い、もう一つの経済界の大集団である経済同友会は2003年7月18日に「マニフェストで競う総選挙の実現を」というアピールを採択。そこでは野党に「批判勢力からの脱皮」を求め、保守二大政党による「政権選択」選挙を働きかけています。要は経済界の意向に合わせて生まれた野合の集団、それが民主党なのです。経済界では有名な稲盛和夫・京セラ名誉会長も旧民主党と自由党の合併に深く関与していることは、識者の間では有名です(月刊「BOSS」2002年11月号)。
これでお分かりのとおり、「自民VS民主」の構図、そして「マニフェスト選挙」は、経済界の意向で生み出された意図的な選挙構図なのです。経済界、即ち大企業の広告料金で経営が成り立っているマスコミが「自民VS民主」の構図や「マニフェスト選挙」を煽るのは、こういう背景があるからです。こんなマスコミは要りません。
経済界の要求に応じて形作られた「自民VS民主」の構図。更に双方経済界の「信用」を得るための政策をぶち上げていますから、アメリカの「共和VS民主」、イギリスの「労働VS保守」と同等、否、それ以下のレベルの「どっちもどっち」の争いでしかないわけです。それが消費税率の引き上げであり、憲法「改正」であり(民主党は「創憲」と言っていますが、「憲法を『不磨の大典』とすることなく」と前置きしているところからして今の憲法を変えようとしていることは明らか)、更に郵政民営化にも表れてきているわけです。
元々郵政民営化は電電公社の民営化、国鉄の分割民営化同様、国民から出てきた議論ではありません。こういう時の決り文句は「民業を圧迫している」「民間活力を利用していない」です。要するに自分たちの儲け口が少ないから開放しろ、という利害関係者(この場合は銀行や生命保険)の声を代弁しているに過ぎません。しかし、郵政を民営化して良くなるのか、という議論はさっぱり見えてきません。
それもその筈、現に民営化したスウェーデンでは、都心部と僻地の郵便料金の格差の発生など、今の郵便が維持している国民の権利でもあるユニバーサルサービス(全国何処でも同じ行政サービスが受けられる)が崩壊してしまっているからです。マスコミがこういう事実を報じないのは、先に言ったように「自民VS民主」が自分達のスポンサーである経済界の意向であり(郵政民営化も経済界の意向)、それを煽る役割を担っているからです。
このように、経済界の意向で作られた「自民VS民主」の構図や「マニフェスト選挙」の謳い文句に目を向けていては、どちらが政権をとっても経済界にとって安心の、国民いじめの政治が続くだけなのです。経済界が最も強大化を怖れるのは日本共産党です。何故なら日本共産党は企業団体献金を一切受け取らず、企業に応分の負担を求めることを掲げているからです。このような経済界との腐れ縁のない、経済界にも言うべきことを言える政党を伸ばすことこそ、今の政治の舵を大きく変えることに繋がるのではないでしょうか。
与党が数の力で会期延長してまで成立を狙うイラク特別措置法案(7/11現在)。これは一見イラクの復興支援をするように見えますが、実際は自衛隊をより本格的に戦地に送り込み、実戦に臨ませやすくする法律であり、イラク国民と憲法を蹂躙する法案です。
まず、法案は国連安保理決議を持ち出してイラク戦争を合理化しています。しかし、幾ら強弁しようと、一連の国連安保理決議の中にイラク攻撃を容認、追認したものは一つもありません。だからアメリカやイギリスは国連憲章違反、国際法違反、と厳しく内外から批判されているのです。そんな無法な戦争を追認することは、イラク国民はおろか中東イスラム諸国、ひいては国際社会を侮辱するものです。
そして問題なのは、占領軍、即ち米英軍の指揮下で兵站(へいたん)支援(武器、弾薬、物資の輸送、通信など後方支援)を行うことです。武器弾薬、そして米英兵を輸送することは、イラク国民側からすれば自衛隊は米英側に立っていると見なされ、今でも続いている散発的な反撃やテロの標的にされかねません。「兵站支援は非戦闘地域で行う」としていますが、イラク全土が戦闘地域、とアメリカの司令官が言っている状況下で戦闘地域、非戦闘地域の線引きが出来る筈がありません。こうして「自衛」を口実にイラク国民に銃口を向けたり、イラク国民に米英軍と同等と見なされて銃口を向けられることになるのです。
米英軍によるイラク攻撃が国連憲章、国際法違反の侵略戦争である以上、イラクを占領する米英軍は侵略国です。侵略行為に対する反撃措置は国連憲章第51条に明記されています。即ち、米英軍を支援していてイラク国民から銃口を向けられても文句は言えないのです。
更に問題なのは自衛隊の武器使用基準を緩和しようとしていることです。交戦権放棄を憲法で謳っている日本に武器使用基準があること自体が矛盾なのですが、その武器使用基準を緩和することで益々自衛隊の海外での武力行使をやりやすくするものです。
イラクのインフラ復旧や治安回復といったことはジュネーブ条約に基づき占領軍である米英軍が行わなければなりませんが(このことは国連安保理決議1483で明記されている)、その他イラク国民への生活物資の輸送などは国連主導で行われなければなりません。現に今、ユネスコや世界保健機構(WHO)、国際NGOなどがそれを行っています。日本が支援すべきはそのような行動であり、占領を追認しその尻馬に乗ることではありません。それに、ユネスコなどが行っている支援活動は治安悪化で思うように進まないのが現状なのです。
日本が憲法とイラク国民を蹂躙してまで自衛隊派兵に躍起になるのは何故か?そこには2003年5月の日米首脳会談が背景にあります。ここでは「地球規模の日米同盟」が提起され、小泉首相は「安全保障面での日米協力を更に強化するため、グローバル(地球規模)な課題への取り組みを含め、両政府間の協議を更に進める」(外務省発表文)と発言。ブッシュ米大統領はこれを称賛してます。イラク戦争支持、占領米英軍の支援は「地球規模の日米同盟」を具体化したものなのです。
更に国内では重大な胎動があります。自民党の内閣・国防・外交三部会の合同会議が2003年6月12日にイラク特措法案の了承にあたってあげた決議の一節には「国際的基準に合致した武器使用権限の規定を設けることを含む恒久的な法制の早期整備に努めることを法案の附則に明記する」とあります。この決議は今回のイラク特別措置法案には反映されなかったものの、福田官房長官は「恒久法とはどういうものかということについて、これから大いに議論してほしい」(2003年6月13日の会見)と述べています。2003年7月10日には自衛隊派兵の恒久法制定に向けた発言が飛び出していますし、防衛庁を「省」に格上げし、名実共に自衛隊を日本国軍としようとする策動が企まれています。
「恒久法」とは「国連決議に基づき派遣される多国間の平和活動(いわゆる『多国籍軍』)への我が国の協力(例えば、医療・通信・運輸等の後方支援)について一般的な法整備の検討を開始する」「国際平和協力法(PKO協力法)では・・・『多国籍軍』は対象とはならず、また、テロ対策特措法も・・・限時法であるため、いわゆる『多国籍軍』への協力のための部隊要員派遣についての一般的な法的根拠がない」と福田官房長官の諮問機関「国際平和協力懇談会」が述べています。要するに「普通の国」に近づけるために特別措置法案を必要としない、何時でも海外で武力行使出来る法整備をせよと言っているのです。軍国主義自民党の本性が露呈した格好です。
「恒久法」の議論が少なからず今回のイラク特別措置法案の策定経過に絡んでいたことは、先に強行成立した有事法制とあわせ、自衛隊が建前上の「専守防衛」の原則を投げ捨て、アメリカと共に堂々と海外で武力行使する突破口となる危険があります。このような時代錯誤の盲動を続ける政党とそれにつき従う政党には、選挙という場で厳しい審判を下す必要があります。
驚くと言うより呆れました。日曜日(2003/2/16)のNHK「日曜討論」そしてテレビ朝日系「サンデープロジェクト」で、公明党・創価学会の本音が出ました。先の「日曜討論」では、「(ベーカー米駐日大使は)まだ攻撃するということは、最終決断してませんとおっしゃっているわけです。何かもう、戦争、戦争というけれども、それはいま圧力をかけているわけであって」と、軍事攻撃準備を進めるアメリカなどの動きを「圧力」として擁護するばかりか、「その圧力を抜くような、利敵行為のような、サダム・フセインに利益を与えるような、戦争反対とか、それはむしろ解決を先延ばしする。」とまで言いました。
何のために国連監視検証査察委員会(UNMOVIC)と国際原子力機関(IAEA)が3度も国連安保理に報告し、問題点があるとしながらも「査察は前進している」「査察は継続・強化すべき」と唱え、安保理15ヶ国中12ヶ国が2003年2月14日の国連安保理外相級会合で査察の継続・強化を主張したのか。それはもはやマスコミも無視出来なくなったように国際的にイラク戦争反対の世論が強まり、アメリカやイギリスの孤立が深まっているということの表れです。それを害するような軍事攻撃準備を「圧力」と言うとは。しかもアメリカは「ゲームは終わった」などとして先制攻撃を公言しているのです。これほど現実を無視した暴論もそうそうありません。「平和の党」の正体が見えた、というものです。
更に「サンデープロジェクト」では、司会の田原総一郎氏の「フランス、ドイツは断固反対しているんですが、それに対してどうして日本ははっきりした姿勢は示さないのか。」という問いに対し、「私は政府じゃないから分からないが」とわざわざ前置きした上で「査察継続はいいんだが、それはサダム・フセインの喜ぶところじゃないんですか。」と答え、フランスなどの戦争反対の姿勢を「間違っていると思いますよ。」と言いました。
公明党は国権の最高機関である国会における与党の一員です。政府の行動を左右する権限があります。にも関わらず「政府じゃないから分からない」というのは責任逃れでしかありません。フランスなどの戦争反対の姿勢を「間違っていると思う」という発言共々、政府与党の一員の発言という自覚があってのことでしょうか。もしないとすれば政権与党たる自覚のなさを示すものであり、あるとすれば日本政府は戦争を容認する立場にあると公言したことになります。
さらに田原氏の「サダム・フセイン体制を倒さなければだめだということは、日本は賛成?」という問いに「ここまで違反してきた人ですから、それは、世界中が賛成するんじゃないですか。」とまで言いました。田原氏がこの後に述べたとおり、「世界中は(賛成)していない」のです。国際世論の多数派はイラク軍事攻撃反対、査察の継続、強化による平和的な武装解除なのです。しかも他国の政権転覆の展望を持っているということは、明白な内政干渉であり、アメリカの姿勢そのものです。公明党の発言は日本政府のアメリカ追随の姿勢を証明したことになります。
アメリカ追随の姿勢を如実に示す自衛隊艦船の派遣、そして既成事実を作るための民間人技術者の派遣。あろうことか戦闘能力、情報収集能力が優れたイージス艦まで派遣する始末。「居住性」云々を言うくらいなら、とっとと引き上げてくれば良いのです。無実の一般市民を「テロ組織が居るかもしれない」と攻撃し、殺しているという立派な殺戮行為にこれ以上加担する理由はありません。
「平和の党」を名乗るのなら、自衛隊の即時撤退を自民党に訴え、要求が飲まれない場合は連立解消、というくらいの気構えが何故持てない?それは公明党がおよそ「平和の党」という看板とはかけ離れた活動方針を持っているからに他なりません。そうでなかったら、自衛隊の海外での武力行使、即ち憲法で禁じられている戦争行為に道を開き、それに国民を強制動員する有事法制を自民党と一緒になって推進する役割を担える筈がありません。
公明党、そしてその母体である創価学会が如何に偽りに満ちているか、そして自分達に異議を唱えるものを平気で誹謗中傷して恥じない謀略集団であるかは、新聞の印刷を委託したりスポンサーになってもらっているマスコミが書いたり報道したりしないだけで、目に余るものがあります。こんな政党や集団が「平和」を口にするなど恐れ多い。恥を知れ、とはまさにこういうことを言うのではないでしょうか。
2002年臨時国会での各党の代表質問の場において、公明党の代表が、日本共産党が朝鮮労働党(北朝鮮の政権党)と親密な関係を続けていた、拉致を疑惑と称して後ろ向きな態度だった、と述べましたが、ここまで事実関係を捻じ曲げて他党を誹謗中傷する党もそうそうありません。流石は反共を至上命題とする創価学会の政治団体というだけのことはあります。
確かに日本共産党は1960年代までは朝鮮労働党と通常の外交関係を持っていましたが、1960年代後半に北朝鮮が「南進」(韓国の革命を主導するという内政干渉政策)を提唱し、ソウルの青瓦台(大統領官邸がある)に武装集団を送り込んだりしたこと、1970年代から金日成個人崇拝を押し付けて来たこと、1980年代に発生したラングーン事件(ビルマのラングーンで爆弾テロが起こり、ビルマと韓国の高官数十名が死亡した事件)や大韓航空機爆破事件などの国家テロとも言える行為を行ったりしたことなどの北朝鮮の無法ぶりを厳しく批判し、逆に朝鮮労働党から「帝国主義者達に丸め込まれている」などと攻撃されたために関係は長く断絶しています。
逆に公明党はというと、金日成個人崇拝を強めた1970年代以降に北朝鮮と親密な関係を持ち、1972年には党委員長を団長とした訪問団を派遣し、歓迎集会では「私たちは昨夜、この国を解放し、この国を本当に廃墟の中から革命思想によって立ち上がらせた、皆さまの敬愛する金日成首相にお目にかかり、対日友好にあふれた雰囲気の中で親しく懇談することができました」と述べたばかりか、公明党が最も嫌っているはずの社会主義、共産主義体制を標榜する(「資本論」やレーニンの著書などを読めば、北朝鮮や旧ソ連などの体制が社会主義や共産主義とは無縁なことは明らか)北朝鮮の体制を、「今回、共和国の各地を参観し、そこに働く人々が、主体思想をもとに、チョンリマ(千里馬)運動で前進する共和国の社会主義建設が大きな成果を収めていることに深い感銘をうけました」と称賛さえしています(発言は何れも公明党の機関紙「公明新聞」に掲載)。自分達のそうした事実を覆い隠し、事実を捻じ曲げて他党を攻撃する態度は厳しく批判されて当然です。
日本共産党が拉致を疑惑と称して後ろ向きな態度だった、という公明党の主張も事実の捻じ曲げです。そもそも拉致の「疑いがある段階」というのは政府と警察が捜査の到達点として公式に明らかにしてきた立場です。ことが国家間の、それも外交ルートがない国との問題であり、更に明確な証拠もなしに安易に疑惑を事実と断定することは出来ません。これは刑事事件の捜査の基本です。公明党はそのことを分かっていないのか。分かっていて言っているのなら尚更悪質です。
それに「疑惑」という言葉が問題なら、公明新聞の記事や党幹部の発言、国会議員の質問でその言葉を繰り返してきた事実、例えば公明新聞の「日本人拉致疑惑で参考人質疑」(7月26日付)、「政治決断の必要性で一致 日本人拉致疑惑」(8月29日付)、3月に立ち上げたプロジェクトチームの名称「拉致疑惑事件調査等プロジェクト」はどう説明するのか。このような事例は多数存在します。それを覆い隠して「疑惑」という言葉を問題とするのは如何なものか。政党としての資質が問われる問題です。
第一、共産、公明両党の拉致問題に対する方針や問題提起などの事実を見れば、どちらが「後ろ向き」だったかは明白です。日本共産党は1988年の参院予算委員会で橋本敦議員(当時)が、1978年夏に福井、新潟、鹿児島などの行方不明事件について政府の捜査状況を質(ただ)し、梶山静六国家公安委員長(当時)が「北朝鮮による拉致の疑いが濃厚」と、初めて政府として国会の場で拉致疑惑の存在を認めました。更に1999年1月の衆院本会議質問で不破委員長(当時)が北朝鮮との正式な外交ルートの確立を行うべき、と提案し、同年11月の不破委員長の本会議質問で、ミサイル(テポドン)問題や拉致疑惑などは外交ルートを通じた交渉で解決を図るべきだと提案しました。そして事態は同年12月の日本共産党を含む超党派訪朝団の派遣、政府間の国交正常化交渉再開、そして日朝首脳会談へと進みました。
一方、公明党の態度は北朝鮮側の譲歩がない限り国交正常化交渉を再開すべきではない、という立場から始まりました。新進党の(覚えてます?)解体後、再結成された公明党は再結成にあたっての「基本制作大綱」で北朝鮮政策について「北朝鮮のわが国に対する挑発的な外交姿勢が改められない限り、日朝国交正常化交渉は当面凍結するべき」(公明新聞1998年11月11日付)と、国交正常化に後ろ向きの態度を示していました。この当時の日朝間には北朝鮮のミサイル問題があり、緊張、対立状況でした。
ところが、自民党が北朝鮮への食料支援の凍結解除などの動きを見せるようになると立場を急転換し、自民党との連立を決めた1999年7月の党大会では「朝鮮半島の平和へ積極的な関与政策」として、「拉致事件などの解決をあえて『入口』に位置づけないで、国交回復交渉をすすめる機会を粘り強く探る」と言い出しました。同年10月の政権入り目前の9月27日には、神崎代表が駐日米大使と会談し、北朝鮮問題について「拉致問題は重要だが、対話の前提条件にすべきではなく、対話の姿勢を強く打ち出すべきだ」と前提条件なしでの交渉再開を口にしました(公明新聞1999年9月28日付)。つまり、自分達が政権側につくような状況になった途端、立場をころっと変えたのです。これは外交問題を党利党略で扱っているとの批判を免れません。
公明党=創価学会はこれまでにも日本共産党に対して事実捻じ曲げ、誹謗中傷、実績横取りなど様々な謀略活動を繰り広げてきました。しかし、創価学会タブー(「鶴タブー」と言う)を持つマスコミはこのような創価学会の蛮行を批判しません。それどころか新聞社は紙面の印刷を創価学会系の印刷会社に委託しているというのですから話になりません。真実を知るには商業マスコミを切り捨て、先祖代々からの「アカ」偏見の壁を突き崩してアンテナを思い切って広げることこそ重要です。
この問題は中央教育審議会答申の「公の意識」批判と関連しますので、まずはそちらをご覧下さい。「公の意識」を植え付けることで国民間に生じた格差意識を「是正」し、上から統制し易くする為に右翼軍国主義勢力が持ち出す「武器」が「日の丸」「君が代」なのです。
国家(つまりは自分達のことと錯覚している連中を含む)に幼少時から奉仕し、忠実に仕える意識を植え付けために、「日の丸」「君が代」が押し付けられるわけです。国旗国歌法案では国旗を日の丸に、国歌を君が代とすると定めているだけで義務の文字は一つもありません。しかし、文部科学省が学習指導要領という形で教育現場に押し付けているのは事実。卒業式などで君が代を歌わない教師を処罰したりするなど、右翼勢力の意図は見え見えです。
そもそも「日の丸」「君が代」は右翼勢力のシンボルであり、同時に奴らが崇める皇室とそれの派生神話で持って繋がる神社のシンボルです。「日の丸」の歴史は古く、奈良時代には日・月をかたどった旗がつくられたり、源平の合戦で日の丸の図案をあしらった扇が使われたりしました。江戸時代の末期になると、薩摩藩の提案で、外国船と区別するため、日本の船に「日の丸」をかかげるようになり、1870(明治3)年になって、政府は、日本の商船に「日の丸」をかかげると決めました。しかし、大日本帝国憲法でも国旗が「日の丸」であるという条文は何処にもありません。ただ慣習と思い込みで「日本の国旗=日の丸」と日本国民が勝手に思い込んで来たに過ぎないのです。
そして日の丸はアジア侵略戦争の際に文字どおり旗印となり、多くのアジア人民を苦しめ、殺害したという血塗られた歴史を持っています。戦時中のドイツの鍵十字の旗と日の丸は同じ歴史を持っているのです。これはどうあがこうが変えられない事実です。ドイツが戦後国旗を変えたと同様、日の丸は戦後の国旗に相応しくないのです。
「君が代」も国歌に相応しくありません。元々「君が代」は「古今和歌集」に収録された、親しい人の長寿を願う歌でしたが、明治政府が「君」を「君主」即ち天皇のことと決め付け、法律などの裏付けなしに、天皇の時代が末永く続くよう願う意味を持つ国歌として国民に押し付けたものです。ですから国旗国歌法案が成立するまで、日本は法律の根拠を持つ国旗も国歌も持ってはいなかったのです。
戦後の日本国憲法で主権在民の原則が打ち立てられた以上、天皇の時代の末永い繁栄を願うと解釈されてきた「君が代」が国歌に相応しくないのは明白。しかし、国旗国歌法案の審議において時の小渕首相が「『君』は日本国および日本国民統合の象徴であり、その地位が主権の存する日本国民の総意に基づく天皇」を指すと言った以上、君が代を国歌とする右翼勢力が天皇中心の国家作りを目指していることは明らかです。
血塗られた歴史を持つ日の丸と日本国憲法を否定する君が代の何れも国旗国歌に相応しくないのはお分かりでしょう。しかし、憲法改悪を狙う右翼勢力は手始めに教育基本法を改悪し、国民を上から統制し、天皇を崇める戦前同様の国家作りを学校から推し進めようとしているのです。
右翼軍国主義勢力は、単なる日本国民の勝手な思い込みと慣習を利用する形で国旗国歌を「日の丸」「君が代」と決めましたが、これまでの経緯を踏まえれば「日の丸」「君が代」が国民を再び臣民とし、皇族を中心とする国づくりに利用しようとしているのは明らかです。我々は歴史的事実を見詰め直し、もう一度国旗国歌たるものを論じ、主権在民の日本国憲法に相応しい国旗国歌を作るべきです。
そしてそれらが国旗国歌と決まったからといって、決して誰もが掲げ歌えと強制してはなりません。国旗国歌を掲げ歌い、逆に背を向けるのも日本国憲法に定められた思想信条、内心の自由だからです。「日の丸」「君が代」に背を向ける者を「非国民」呼ばわりした暗黒時代に逆戻りさせない為にも、我々は国旗国歌というものをもっと真剣に、そして自由に捉えるべきではないでしょうか。
2002/7/16に中央教育審議会が教育基本法見直しの骨子を示しました。そこでは国際性と日本人としてのアイデンティティー(伝統、文化の尊重、郷土愛、愛国心)、個性の伸長と創造性の涵養(かんよう)、社会の形成に主体的に関わる「公の意識」、自律心、規範意識を第1条に入れることを打ち出しています。
一見もっともらしいことを言っていますが、右翼政権お抱えの審議会が言う「愛国心」や「公の意識」など、要は国(皇室を含む)を愛せよ、社会に奉仕せよ、という上からの押し付けに過ぎません。事実、このような意識を教育基本法に盛り込むことを提言してきたのは「新しい教育基本法を求める会」であり、それの中心メンバーと侵略戦争否定、愛国心高揚を求めるグループ(「新しい歴史教科書を作る会」など)と同じです。また、2002/7/29の中央教育審議会答申の元になった首相の私的諮問機関「教育改革国民会議」のメンバーにも、「国民を奉仕役に動員する」と言ってのけた、右翼国家主義者の曽野綾子氏なども含まれています。
更に、「新しい教育基本法を求める会」が森首相(当時)に提出した要望書には、伝統とは「皇室を国民統合の中心とする社会基盤」としています。その一方で歴史教科書を「祖先を侮辱するような記述」と非難しています。結局今回の骨子は、民主主義教育を否定し、戦前の天皇絶対体制を支える国民を育成しようというものに他なりません。
今の学校教育は教育基本法の精神から大きく逸脱し、子ども達を現在の権力の忠実なる継承者となりうる一握りの「エリート」と、それに従う存在になりうる「それ以外の子」に早期から差別化し、それを拡大しています。そうした教育基本法の精神を逸脱した現状を改めるのではなく、格差で生じた国民の間の意識を統制する為に「公の意識」を持ち出し、教育基本法の改悪を狙っているのです。これは戦争を放棄し、交戦権も否定した憲法第9条の解釈をアメリカの意向とあわせて無理矢理捻じ曲げ、自衛隊という名の軍隊を作り上げた過程と酷使しています。法律の理念に現実を近づけるのではなく、既成事実を固めて「現実に合わないから」と法改悪を狙っているのですから。
ボランティアを点数化して入試や就職に有利にしたり、公共施設利用料金の割引など、実質ボランティアを義務化しようという動きもあり、これは中央教育審議会答申で明記されました。これも「公の意識」とやらの一環でしょう。本来自主的、自発的な思考に委ねられるべきものを飴と鞭を使って上から強制しようとする辺り、全体主義、国家主義を是とする右翼勢力らしい薄汚いやり口です。
先に述べたような、教育基本法の精神を逸脱した一握りの「エリート」養成の過程で子ども達がランク付けされています。文部科学省自身、「『弾力化』により生ずる格差の対応」を今後取るべき施策の一つとしてあげていますが、自分達の施策で子ども達をランク付けしておいて、それへの「対応」を言うこと自体矛盾も甚だしいことです。それを「公の意識」で埋め合わせようとする一環として、ボランティアの事実上の義務化を打ち出してきているのですから、こんな「公の意識」など論議に値しません。
国民はこのような教育基本法改悪、「公の意識」に名を借りたボランティアの事実上の義務化に断固反対しなければなりません。ボランティアそのものを侮辱するような施策を許さず、子ども間の競争を激化させる政策を改めさせ、真の意味で助け合い、支え合う社会の構築が今、急がれているのではないでしょうか。
私はサッカーをはじめとするスポーツそのものを右翼軍国主義的性質のものとして否定するつもりはありません。スポーツそのものは人間の健康を維持、促進し、競技を通してマナーやルールを守ることの必要性を学ぶ良い機会であると考え、むしろ積極的に肯定する立場です。
しかし、そこに部活動では学校の、国際イベントでは国家の威信とやらが絡んだり、「精神鍛錬」の名の元で横行する上級生の下級生に対する、指導者の選手に対する暴力の存在、とりわけ国際イベントにおける戦争の代理的性質が顕著に見られることに対して、これらはスポーツ本来のあり方を歪めるものであるとして強く異議を唱えるものです。
同じスポーツでも所謂アマチュア、言い換えればそのスポーツを愛好する人々が自主的に集い、競技を楽しむレベルは大変良いことだと思います。しかし、アマチュアでもインターハイなどの右翼軍国主義の象徴である日の丸君が代がまかり通る国家レベルのものやプロスポーツ、とりわけチェアマン自身が「日本に君が代が流れるスポーツを」と言って君が代斉唱を導入したJリーグは即刻解体し、国家意識の介入を断つべきであると考えます。
日の丸君が代という右翼軍国主義の象徴を取り除き、国家意識の介入を断ったプロスポーツそのものは、卓越した技と力を入場料を払って訪れた観客に披露するエンターテイメントの側面を持つものであり、その存在を否定するものではありません。
W杯やオリンピックといった国際イベントは、大規模なものほど腐敗しています。そこはただスポンサーになった大企業が特権を振り回してチケットの入手の当否を賭けさせる形で自社の商品を売りさばいてぼろ儲けし、参加者が国家の威信とやらを背負わされて勝てば賛美、負ければ罵声という酷いプレッシャーに晒され続ける、スポーツ本来のあり方が商業主義と右翼国家主義で歪められた極めて問題のあるものです。
それ故にスポンサーは金は出すが名前と口は出させない、出場を国家単位から地域ブロック単位或いは有志で構成するようにして、商業主義と国家意識の介入を断ち、国連主催の下で構成、運営するような体制に改めるべきです。
アマチュアレベルでの改革も必要です。国内のアマチュアスポーツでも日の丸君が代の介入により、国家意識の植付けが行われています。スポーツに国家意識など必要ない筈です。その一方でスポーツの振興はtoto頼みで、国家予算に占める割合は削減される一方。スポーツしたけりゃ自前でやれ、という冷たい態度の一方で国家意識の植付けだけは徹底する。これは如何に日本政府与党がスポーツを文化として、否、それ以前に重視すべき項目として考えていないか、そしてスポーツが軍隊的精神継承の場であると考えている(上級生の下級生に対する、指導者の選手への暴力はその典型)という証拠です。
先に述べたとおり、スポーツそのものは健康の維持、促進のみならずマナーやルール意識の確立という側面を備える重要な機会ですから、国は大型公共事業や軍事費を削減し、社会保障と共に「健康で文化的な最低限度の生活」の確立に向けて、toto頼みではなくスポーツ振興に本腰を入れるべきです。あくまでも「金は出すが口は出さない」方針は徹底されなければなりません。
学校における部活動や野球のリトルリーグなどの青少年スポーツのあり方も、指導者の意識改革を含めて抜本的な改革が必要です。文字どおり「勝つためには何でもやる」とばかりに成長途上にある青少年に科学的根拠に基づかない過酷な練習をさせたり、「精神鍛錬」の美名の下で暴力をはびこらせることはあってはなりません。
この点では保護者の側も「子どもを鍛える為」という暴力容認の誤った意識を変革しなければならないのは勿論です。どんな理由があれ、公道で暴力をふるったら犯罪になるのに、部活動や青少年のスポーツでは暴力が奨励されるという「治外法権」は許されてはなりません。教育する側に矛盾があっては子どもが大人の嘘を見抜いて言うことを聞かなくなるのは当然です。
また、進学や就職では上下関係に厳しいとされる体育会系の部活動をしていた方が有利になるというのもおかしな話です。上下関係の厳しさと意見や反論を述べるのを許さないというのをごっちゃにしてはいけません。そもそも上下関係などスポーツに持ち込んではいけません。スポーツに親しみ競技を楽しむ場に上下関係など不要な筈です。上下関係を導入するのは権力誇示とその警鐘を目的としたものに他なりません。
更に言うなら、部活動などに存在する所謂「体育会系的」上下関係が、「上の言うことは絶対正しい」「上に意見してはならない」という悪習を生み、行政が自分達を痛めつける政策をごり押ししてきたり企業などで雇用者側が無法な「合理化」(リストラとは言わない)を押し付けてきても反対せずに粛々と従い、陰で悪口を言う割には押さえつける側を支持するような、行政の下請け的町内会やストも出来ない腑抜けた労働組合を形成、維持し、それに異議を唱えるものを「アカ」と蔑視する(「アカ」という言葉そのものが戦前の天皇絶対政治が共産主義の拡大を恐れて、反共宣伝と共に流布した蔑称)悪習を続ける温床となっているのです。
上下関係は信頼の上に成立するものであって、単に年齢やキャリアが上だからという理屈で成立するものではありません。スポーツの指導においてはそういうことも念頭において、選手の技術と共にマナー意識や道理ある信頼関係のあり方の意識を向上させるようにするべきです。
繰り返しますが、スポーツは人間の健康の維持、促進の他、練習や競技を通してマナーやルール意識を習得する絶好の機会です。その機会を生かすも殺すも指導者や大人、保護者の意識次第なのです。スポーツは単なる暇潰しではなく、「健康で文化的な最低限度の生活」の一部として、国や自治体が積極的に支援すべきです。勿論「金は出すが口は出さない」という前提で。