謎町紀行

第29章 交通戦争真っ只中

written by Moonstone

 途中断続的な渋滞にはまったのもあって、サービスエリアに入るのは2回目になる。到着予定時刻が1時間ずつ延びていくのにはげんなりさせられるけど、シャルのアシストがあるから寝ていても良いとあって、精神的にはさほど疲弊した感覚はない。まだ昼過ぎだし、焦ることはない。
 渋滞を反映してか、サービスエリアは混雑している。エネルギーステーションはガソリンも水素も行列が出来ている。ナチウラ市の出発前に水素を満タンにしておいて正解だった。少し遅い昼食も兼ねて、駐車場にシャル本体を止めてレストランに向かう。シャルは相変わらず視線を集めながら僕と手を繋いでいる。
 サービスエリアのフードコートは家族連れでほぼいっぱいでも、レストランは値段設定もあってか割と空いていることが多い。此処でもその傾向に合致していて、待たずに席に案内される。席は窓際じゃないけど、特にこだわりはないから十分。ゆったりした座席配置だから落ち着いて食事や会話が出来る。

「何だか渋滞が酷いね。帰省ラッシュはもう少し先なのに。」
「西行きで追突事故が複数発生したようです。」

 シャルがスマートフォンに情報を表示する。シャル独自で収集して分析する交通情報は、物凄く緻密だ。この先23km先と67km先で追突事故、3車線のうち2車線規制か。これじゃ渋滞もする筈だ。渋滞は一度発生するとなかなか消えない。運転制御が高度になっても、自分の運転に妙な自信を持つ輩がそれをOFFにして、暴走や車間を詰めたりすることで結果事故からの渋滞発生と相成るのは、今も昔も変わらない。

「そういえば、次の目的地って2つ目の渋滞の先あたりだよね。」
「はい。ココヨ市−車の町と言われています。」

 ココヨ市は日本有数の大都市。新幹線やリニア高速も全て停車する総合駅があって、特にリニア高速駅の誘致に成功した前後から企業のこのエリアの拠点とされることが増えて、急速に高層ビルや大規模ショッピングセンターやタワーマンションが建設されている。特に自動車の生産数は全国一を維持していて、関連企業も数多い。市の予算規模は地方の県のそれを超えるくらいだから、市の平均所得もかなり高い方だ。
 僕もこの旅に出る前、出張で2、3度来たことがある。地下鉄やバス路線も充実しているし、宿もそこそこある。だけど、何故か移動に不便と感じた記憶がある。あまり憶えてないけど、最寄駅から妙に歩かされたり、ひたすら地下道を歩かされたりした記憶はある。
 こんな日本有数の大都市にヒヒイロカネがあるとしたら、何処だろう?タカオ市の例のように、都市部は現代のジャングルと言えるところもあるから、捜索は骨が折れそうだ。駅やショッピングセンターは人が多いし、警備が厳しいところもある。何処にあるか分からないヒヒイロカネ捜索は、傍から見れば不審者扱いされるかもしれない。

「ヒロキさん。ココヨ市に入るあたりから、運転は私がします。」

 注文した料理が運ばれて来て、食べ始めたところでシャルが言う。

「渋滞の車線規制があるから?」
「それもありますが、ココヨ市は土地勘がない人が車で移動するにはかなり難しいところだからです。」

 土地勘がないところを運転するのは、これまでの行程も同じ。なのにシャルが本体制御を自分で行うと言い出すだけの「難しさ」って何だろう?都心は一方通行が多くて、運転し辛いとは感じる。僕がこの旅に出る前にドライブに出かけたところは郊外が殆どだったから、都心部の複雑な道路にはあまり慣れていない。

「シャルが言うんだから、任せた方が良いね。その間、運転席も換わる?」
「いえ、運転席にはヒロキさんが居てください。そうしないと危険が増します。」
「?どういうこと?」
「ココヨ市に入ったら嫌でも分かりますが、車の町と言われるのは、自動車の生産数や関連企業の多さが理由ではないんです。」

 何だか嫌な予感がするな…。事前情報はシャルの方が直ぐ精度が良いものを増やせるから−常時検索と最適化と分析をしているようなものだ−、シャルの言うとおりにした方が賢明だ。一体ココヨ市では何が待ってるんだろう?
 高速道路の渋滞はかなり深刻なようで、1つ目の渋滞で20kmを超えるという情報が入った。シャルは分析の結果、一般道を走行した方が速いと判断して、ココヨ市があるA県に入ったところにあるトミモトインターで降り、少し走行したところから乗れる国道32号バイパスに乗った。
 このバイパス、料金所とサービスエリアがない高速道路という感じだ。スピードも常時80kmは出さないと流れに乗れない。片側2車線だけど、走行車線でこれだ。追い越し車線は猛烈な勢いで車が通り過ぎていく。今は90km出ているから、追い越し車線側は100km超えは確実だ。
 この国道32号バイパスは、僕とシャルが下りたトミモトインターにかなり近いところから、一旦海沿いに湾曲してそこからココヨ市に向けて北西にほぼ真っすぐ伸びる。途中、トミホジャンクションで、僕とシャルが走ってきた高速道路と接続する。シャル本体は今、海沿いに湾曲する部分を走っている。

「高速道路みたいなバイパスだね。制御は大丈夫?」
「はい。問題が生じるレベルではありません。」
「高速道路があの状態だから、僕とシャルのように高速道路を下りた車も居るだろうけど、それにしてもスピードが凄いね。」
「ココヨ市を含むA県は、新幹線やリニア高速の駅もありますが基本的に車社会です。車での移動を前提にして道路や町が構築されています。」

 僕が住んでいた町も車社会だったけど、鉄道が私鉄1本だけでバス路線が脆弱だった。新幹線やリニア高速の駅は私鉄で乗り換え含めて1時間かかった。ココヨ市は高速鉄道に不自由しないのに、敢えて車社会にしているのか。車の生産数や関連企業が多いから、それを使う場を整備してるってことか?
 バイパスとは思えない道路を疾走する。僕は体裁上ハンドルを握ってるだけだけど、基本HUD、偶にナビ画面を見ていると意外と退屈しない。道路は湾曲部分を過ぎて、トミホジャンクションへの直線経路に入る。直線経路に入ったからか、スピードが更に上昇する。此処、走行車線だよね?そもそも、一般道だよね?

「シャル。スピード出し過ぎじゃない?」
「いえ、このバイパスの制限速度は100kmです。追い越し車線の走行車は120km以上出ています。」
「一般道なのに制限速度が100km?」
「このバイパスを含むA県の幹線道路と高速道路区間は、制限速度規制特区とされています。」

 シャルの説明だと、日本の道路の制限速度、特に高速道路は諸外国に比べて厳しく、それが慢性的な渋滞や無理な追い越しによる事故を誘発しているという指摘がある。将来的な制限速度の緩和を目指して、特定のバイパスや自動車道で制限速度の緩和が行われている。それが制限速度規制特区と言う。
 もっともな理屈のようだけど、どうも違うような気がする。高速道路でもしっかり渋滞は発生するし、現にその収束の見通しが立たない上に到着時間は一般道走行の方が速いっていうシャルの分析で高速道路を下りた。高速道路で事故が起こると、単独では済まずに2台3台巻き込んだ酷い事故に発展しやすい。
 そもそも渋滞が起こるのは、事故を除けば車間距離を無暗に詰めることと、スピードの調整が下手なことだ。自動運転が普及してもあくまで基本は運転者のアシスト。運転者が無茶な運転をすれば結局自動運転の意味はなくなる。しかもスピードを無暗に挙げると車の燃費が低下する。制限速度の緩和にそこまで意味があるとは思えない。
 バックミラーを見ると、シャル本体に近づいた車がどんどん追い越し車線へ移動していくのが分かる。100kmでも痺れを切らすほど急ぐ理由って何だろう?高速道路だとどんなスピードになるのか想像も出来ない。ほんの僅かなミスで大事故に発展する危険を全く考慮していないのか、自分はそんな事故を起こさないっていう確固たる自信があるんだろうか。
 トミホジャンクションに差し掛かる。うわ…。車の多さも結構なものだけど、それよりスピードが凄い。低速で走っているトラックとかに、後方から車が接近して急ブレーキを踏んで、けたたましくクラクションを鳴らして車線変更をする様子が頻繁に展開されている。
 流石にシャルは正確な分析と的確な加速で合流する。走行車線2車線に追い越し車線1車線。ナビによると此処も国道32号バイパスらしいけど、これまでより全体的にスピードが上がり、遅い車に対する攻撃性が増している。クラクションが彼方此方で鳴らされる様子は、物凄く殺伐としている。

「何でこうもスピードを出すんだろう?」
「一言で言ってしまえば県民性です。A県の交通死亡事故件数と死亡者数は、30年連続ワースト1です。」
「これじゃ事故も起こって当然だよ…。」
「ココヨ市はこれに輪をかけて酷い状況です。しっかりハンドルを握っていてください。」
「わ、分かった。」

 シャルが一段と加速する。シャルになる前は出したことがないスピード、120kmに達する。それでも走行車線を何とか走行できるレベル。追い越し車線は考えられない勢いで車が列を成して走って行く。シャルの後ろにも次々と車が接近してきて、けたたましくクラクションを鳴らして追い越し車線に切り込んでいく。
 シャルの防音性能は最高レベルの筈だけど、それでも聞こえて来るんだから、力いっぱいクラクションを叩き鳴らしているんだろう。トミホジャンクションからココヨ市まで30分程度。130kmとか150kmとか出したところで、さして到着時刻が変わるとは思えない。これが県民性なら事故が毎日のように発生しても何ら不思議じゃない。
 バイパスは緩やかなカーブを描きながら、時々アップダウンを交えてココヨ市に入る。インターから次々と車が入り、出ていく。そのスピードは高速道路を上回る。時折居る低速走行のトラックとかが、罵声のようなクラクションを浴びながら見る見る間に後方に下がって行く。バイパスはクラクションが鳴り止むことがないようだ。

「ホテルは手配済みです。あと7分程度で到着します。」
「ずっと120km走行だけど、シャルの駆動系は大丈夫?」
「まったく問題ありません。後ろから急接近して鳴らすクラクションが耳障りなだけです。」
「交通戦争そのものだよ、この道路。」
「ココヨ市全体がこの状態です。ハンドルは握ったままでお願いします。」
「分かった。今の僕はそうするしかないよ。」

 クラクションが彼方此方で鳴り響く中、シャルは巧みに車線を変えてオウギ町インターチェンジで降りる。これでひと安心と思いきや、スピードは平気で80km出ている。此処って…一般道じゃないのか?インターチェンジから出て直ぐの信号待ちだけでも、周囲が殺気立っていると感じる。一体何故?
 信号が変わったらしく前から動き始める。と同時にクラクションの嵐。横断歩道を人が渡ることで左折の流れが止まったのが原因らしい。だけど、この状況でクラクションを鳴らすのは車の方がおかしい筈。歩行者はクラクションの罵声を浴びながら、いそいそと渡って行く。歩行者が途絶えると一気に加速する。
 その列に混じっていた僕とシャルは、勿論クラクションを鳴らしていない。だけど、前の車と少しでも多めに車間距離が開くだけで、後方からクラクションが飛んで来る。車間を開けるのが無駄とでも言うんだろうか?80kmとか平気で出ている時にいざ急ブレーキを踏まれて、即座に対応できるとは思えない。
 信号がある一般道なのに、クラクションの嵐は彼方此方で起こっている。歩行者が横断歩道を渡る−無論、歩行者信号は青−、前の車が車間距離を取る、別の車が車線を変えようとする、兎に角今の走行状態を少しでも乱すと見れば即座にクラクションが飛んで来る。一体何なんだ、この町は…。
 シャルの巧みな走行と車線変更で、ナビの表示が目的地のホテル−ミッドジャパン・ココヨ総合駅東口に重なる。HUD表示に駐車場の情報や入庫経路が加わる。だけど、大通りから抜けて片側一車線の裏道っぽい道路に入ったにも関わらず、後ろから車が急接近してクラクションを鳴らして来る。歩道に人が歩いている道路で、しかも駐車場に入ろうとしているところで、80kmとかスピードを出せるわけがない。

「鬱陶しいですね。」

 駐車場へ入るため人の流れを見ていたシャルの声のトーンが1オクターブ下がる。かなり怒りが募っている段階だ。歩行者をなぎ倒して駐車場に入れと言うつもりなんだろうか、後ろの車は頻りにクラクションを鳴らしている。
 シャルが駐車場に入ると、後ろの車は発進…しない。その後ろについていた車からクラクションを鳴らされる。夜だから他の車の中はよく見えないけど、慌てている様子だ。…シャル、後ろの車の制御に干渉したな。

「ご名答。駆動系に動力が伝わらないように操作しました。これから4時間ほど、アクセルをどれだけ踏んでもびくともしません。せいぜい後ろの車からクラクションを鳴らされると良いです。」

 この旅に出る前にも、後ろから煽られたことが何度かあって、そのたびにシャルが相手の車に干渉して制裁した。事故にならないようにはしていたけど、携帯が圏外の山道で立ち往生させるとか、かなりの手間や時間を浪費させる厳しい制裁だった。今回も結構厳しい。
 シャルは駐車券発行システムの前で止まる。僕が駐車券を受け取ると再びゆっくり動いて、駐車スペースに入る。クラクションに付き纏われた感がある移動がどうにか終わったようだ。シャルが運転すると言った理由が嫌と言うほど分かった。こんな環境で僕が慌てずに運転できるとは思えない。
 駐車場からホテルは徒歩1分。こんな都心部にかなりの広さの平面駐車場を持つホテルだと、結構宿泊料金は高額だろう。その辺シャルは考えずに、拠点として食事が美味しいとか風呂が広いとか、居住性の良さを重視した宿選びをする。金銭面の不安は全くないんだけど、カードだからか実感が掴めないためか、料金を考えずにはいられない。
 ロビーからして高級感が満載だ。ドレスコードはないみたいだけど、Tシャツに短パンとかだと自主的に回れ右しそうな雰囲気が漂っている。黒のスーツで固めたフロントの出迎えを受けて、僕が手続きをする。10泊か。この旅だと1つの候補地に1ヶ月くらい留まるから、手始めに10泊というシャルの考えだろう。
 手続き自体は一般的なホテルと同じ。違うのはセキュリティ。手続きの時にタッチパネルの1点を見て、瞬きをせずに5秒静止するよう言われたから何かと思ったら、虹彩が出入り口とエレベーターと部屋のセキュリティに登録されて、それぞれドアスコープのようなところに覗きこむと、部屋のロックを解除したり、出入り口を施錠している深夜でも出入りできるそうだ。
 ドアの鍵はなくす恐れがあるし、形状がカードになってもそのリスクは減らない。認証方式は指紋や動脈、顔とか色々あるけど、このホテルでは精度の点で虹彩認証を取り入れたという。手続きが済んで試しにエレベーターの外部通話用スピーカーの近くにある小さい窓−「此処を覗きこんでください」と表記がある−を覗きこむと、エレベーターが操作できるようになる。
 8階まで上って部屋のドアの前で同じことをすると、ドアノブの上にあるLEDが赤から緑になってロックが外れる音がする。確かにロックは外れている。部屋はテーブルと椅子、デスクにTVに冷蔵庫がある。テーブルと椅子があっても部屋の広さは十分なゆとりがある。シャル、かなり良い部屋を取ったんだな。

「移動に時間も手間もかかりましたし、1日の半分近くを過ごす拠点は、良いものを選んだほうが良いですよ。」
「どうしても、前の生活の名残で料金を気にしちゃうんだよ。」
「資金は一切心配無用です。それより、晩御飯にしましょう。」

 シャルのことだから、夕食の場所も幾つかピックアップしていたんだろう。シャルの味覚の仕組みがどうなってるのか全く分からないけど、美味しいものを選ぶセンスは確かだ。此処はシャルに任せるのが賢明だ。何処で食べるかより誰と食べるかの方が、今の僕には重要だ…。
 夕食から帰還。シャルが探しておいたという料理店で出された煮込みトンカツという変わった料理や−一度揚げたトンカツを醤油ベースで煮込むという不思議な料理−、男性の比率が高い店内で、金髪の若い美人であるシャルは物凄く目立っていたことは、耳鳴りで印象が薄くなっている。
 耳鳴りはけたたましいクラクションの嵐。シャルが制裁した駐車所前の車の後方だけじゃなくて、道路の彼方此方でクラクションが鳴らされていた。交差点ともなるともう酷いの一言。歩車分離式の交差点でも、歩行者に向けて四方八方からクラクションが鳴らされた。歩行者が邪魔だと言わんばかりに。
 町中全部がそんな感じだから、他の音が全く聞こえない。シャルとはダイレクト通話が可能だからその点は大丈夫だったけど、歩道を歩いている隣でも全力でクラクションを鳴らされたら耳鳴りもする。このホテルの部屋も、防音がしっかりしている筈なのに若干ながらクラクションが聞こえて来る。

「具合が悪いですか?」
「クラクションが五月蠅過ぎたせいで、少し耳鳴りがするんだ。」
「診察します。ベッドに座って楽にしてください。」

 僕がベッドに座ると、シャルの服装が一瞬でナース服になる。両手で僕の耳や首筋に触れるシャル。顔が直ぐ近くにある。思わず息を止めてしまう。

「耳管や鼓膜など聴覚器官に異常はありません。一時的な軽い難聴ですね。聴覚保護のため、暫く外音をシャットアウトしましょう。」

 シャルが親指と人差し指で摘む動作をすると、一瞬耳の中に異物感が生じる。すると、若干流れ込んできたクラクションの音がすっかり聞こえなくなる。ナチウラ市で使った超小型のノイズキャンセラーか。心なしか耳鳴りも軽くなった。

『気分はどうですか?』
『楽になったよ。ありがとう。』
『良かったです。少し安静にしていれば耳鳴りは収まりますよ。』

 シャルの声だけが聞こえる不思議な世界。手や指で耳を塞いだ時に聞こえる嵐のような音がない、シャルの声がないと何の音もしない世界。シャルと2人きりの世界になったら、こんな感じなんだろうか。シャルが徐にベッドに乗って、僕の少し斜め後ろに座る。そして僕の頭に手をやって引き寄せる。なった体勢は膝枕。

『安静にするのは、横になるのがより効果的ですよ。』
『それはそうかもしれないけど、どうしてナース服のまま?』
『好きでしょ?』
『…はい。』

 横目でシャルを見ると、悪戯っぽい笑みを浮かべて…いるようだ。目元はそんな感じに見えるけど、鼻から下が見えない。…胸の出っ張りで。僕は観念して−或いは開き直って−、足を伸ばして仰向けになる。シャルは僕の頬や首筋に触れる。少しひんやりした触感が気持ち良い。

『私はセンサの塊のようなものですから、環境条件を隈なく把握することは出来ます。ですが、それがヒロキさんにとって快適か不快か、有益か有害かなどの識別には繋がりません。』
『個人差があるから?』
『快適か不快かの判断は非常に曖昧な領域で、同一個人でも条件によって変動することを、人格OSでは再現しきれないんです。加えて、私自身は極限状況−例えば真空や極低温でも通常の行動が可能ですが、生身の人間であるヒロキさんは当然生存できません。そういった存在条件の大きな相違が、認識や感覚のずれになっているんです。』

 ヒヒイロカネは金属の強靭さと人体の柔軟さの良いとこどりをしたようなものだと認識している。だから欠損しても自己修復できるし、人間なら即死するような環境でも存在・行動できる。人格OSであるシャルは感情もあるし考えることも出来る。考えるのは自我があるということでもある。だけど、感覚やその境界などは僕と乖離しているらしい。
 極限環境でも存在・行動できることは、その極限環境であることを知ることは出来ても、それが僕にとってどうなのかを理解するには繋がらない。センサの情報と分析で「この環境は暑い」とか「この状況は五月蠅い」と認識は出来ても、僕にとってどうかまでは分からない。僕とシャルの感覚や快不快の境界は全然違うんだから。

『考えてみれば、それは当然だよね。シャルっていう人格があるんだから、僕と何もかも同じわけじゃないんだって。』
『はい。ヒロキさんの感覚にとって現状がどうなのかは、ヒロキさんの反応や身体状況を観察・分析しないと分からないです。ですから、言って欲しいんです。今回みたいに長時間大音量に晒されたことで耳鳴りがするとか、具合が悪いとか。私はそれに直ちに対応しますし、必要なら治療もします。』
『うん。今日みたいな時は頼むよ。』
『ヒロキさんは、今までの経験と記憶から無意識に頼ることや頼むこと、特に女性にそうすることを警戒するように感じます。忘れろと言われて忘れられるようなら、PTSDやトラウマと言う用語は必要ありません。ですが、私はヒロキさんに嫌な記憶を刻んだ連中とは違うことだけは、忘れないでください。』
『それは分かってるつもりだよ。僕とシャルとは人格も感覚も認識も全く違うってことを再認識しただけ。』

 僕は頬と首の境界辺りに添えられていたシャルの手を取る。シャルの気遣いは今まで経験したことがないレベルだ。感覚や認識の違いは、どんどん出して共有するようにしていけば良い。違いはあっても理解は出来る筈だから…。
 翌日。ナース姿のシャルに起こされてまずは朝食へ。朝食はホテル1階のレストラン。チェックインの時は良く見てなかったけど、予想以上に広い。レストランは朝、昼、夜で時間帯を設けて営業しているタイプで、朝は宿泊客しか利用できない。ビュッフェ方式なのは他のホテルと同じ。
 流石にナース服からカジュアルな服装に替わったとはいえ、シャルは相変わらず物凄く人目を引いている。シャルがそれを全く意に介していないのも相変わらず。空いている2人席に向かい合って座って、食べながらこれからの方針や行動を話し合う。

「何処から行こうか?」
「まず、これまでの候補地にはなかった、或いは小規模だったポイントを回ってみたいと思います。」

 シャルがスマートフォンに表示したポイント一覧を見る。ココヨ城址、官庁街、ココヨ港、ココヨ国際空港。ココヨ城址と官庁街は隣接しているけど、ココヨ港とココヨ国際空港はココヨ城址を頂点とする二等辺三角形の両側に位置する。スムーズに移動するにはココヨ市を縦横に走るココヨ高速道路を使う必要がある。

「空港か。シャルと行くのは初めてだね。僕自身、出張で2回くらい使っただけだけど。」
「空港はセキュリティが他の施設より厳重なので、確率は他の施設より高いと推測しています。」

 空港の何処にヒヒイロカネを隠すかは別として、手荷物検査をはじめ、空港はセキュリティが厳しい。事故になるとほぼ全員死亡の確率が非常に高い乗り物を扱う以上は止むを得ない面もあるけど、使う側としては鬱陶しいと思う。一方、空港側としてはセキュリティを名目に隔離や隠蔽が可能な環境でもある。調査自体はシャルの機能なら簡単だろう。
 何処から行くかは、土地勘がない上にやたらとスピードを出すし、昨日だけでも物凄く車優位を感じた環境だから、僕では判断しかねる。距離から見ればココヨ城址と官庁街が近いけど、えてして出入りが難しくて何故かスピードを出すのが当然の都市高速を使うか、地下鉄で移動するかの判断も必要だ。
 ココヨ港とココヨ国際空港も、最寄りの地下鉄や鉄道路線がある。ココヨ国際空港の方は最寄駅が空港ターミナルに乗り入れているようだ。安全を考えると地下鉄や鉄道路線を使うのが良いか。移動速度も何だかんだと渋滞が起こるココヨ高速道路を使うより、鉄道の方が速いのは事実だし。

『エネルギーの供給ロスの観点から、本体で移動したいです。』
『今僕とシャルが居るホテルが…此処か。結構距離があるね。交通事情がやたら厳しいけど、大丈夫?』
『あの程度なら苦労と言うほどではありません。』

 僕が昨日みたいな運転と車線変更をするのはかなり厳しい。シャル本体で移動するならシャルの制御が必要だけど、その点も問題にならないようだ。地下鉄だと混雑もさることながら、最寄駅からの移動に時間がかかる傾向がある。空港ターミナル乗り入れのココヨ国際空港は兎も角、エネルギーの転送ロスも気になるから、シャル本体で移動するのが最適か。

「場所は、此処から一番近いのはココヨ城址と官庁街だけど、所要時間に差はある?」
「現状ですと、ココヨ港が最速です。ココヨ城址に繋がるココヨ高速環状線は、2件の事故で10kmほど渋滞しています。」
「事故って聞いてもやっぱりか、って思うね。まずはココヨ港からにしよう。」
「はい。」

 ココヨ高速を使うとしても、昨日の道路状況は気になる。スピードを出すのが当たり前、車間距離は詰めるのが当たり前、と自動車学校での講習内容とはおおよそ正反対の方向性がまかり通っている。ココヨ城址方面では事故が2件残っているそうだけど、当たり前としか思えない。
 「車の町」というのは、車優先どころか車至上主義が蔓延るゆえだろう。単に自動車産業が盛んだからとは思えない。それに、シャルが昨日言ったこと−「車の町と言われるのは、自動車の生産数や関連企業の多さが理由ではない」が気になる。制御はシャルがするけどハンドルは僕が握ることと関係があるんだろうか?
 朝食を済ませて出発。駐車場のシャル本体に乗り込む。普通の車だとまずサウナ状態の洗礼を受けるか、大して機能しない割に燃料消耗が激しい車内温度設定機能にうんざりさせられるかだけど、シャル本体は適切な温度管理がなされているから、直射日光が照りつける車に乗り込んでも快適だ。シートベルトを締めるとシステムが起動するところもしっかりしている。
 僕がハンドルを握ると、シャル本体がゆっくり動き始める。通勤ラッシュの時間帯を少し過ぎたところだけど、駐車場が面する道路はかなりの車が行き交い、どれもこれもクラクションを鳴らしている。見た感じ、40km以上は出しているけど、飛び出しとか急な事態に対応できるんだろうか。
 駐車場から出ようにも、次から次へと勢いよく車が突進して来る。少しでもスムーズに出ようと左折で出ようとしているにも関わらず。対向車線も同様だ。流石に大通りに出る信号では停車するけど、クラクションが激しい不協和音を奏でる。目的地までに停車するのが犯罪だと言わんばかりの光景だ。

「出るのに時間がかかりそうだね…。」
「この道路はオフィスビルに通じる近道でもあります。大通りに信号で確実に出られる道でもあるので、両方向から車が来るんです。」
「車が多い理由は分かるけど、信号停車でクラクションを鳴らす理由が分からないな…。」
「これがこのココヨ市の日常なんです。…間もなく出ます。」

 車の列が一瞬途切れたタイミングで、シャル本体が急加速して道路に出る。歩行者も居なかったし、絶妙なタイミングだ。後ろの車が猛烈な勢いで近づいてきてクラクションを鳴らす。さっさと行けと言いたい、否、言ってるんだろうけど、制限速度40kmの片側1車線で高速道路みたいに走れる筈がない。

「ホーデンの社員ですね。」
「どうして分かるの?」
「車種と社章入りのバッジです。私にはバッジの傷の位置と深さも視認できます。」

 す、凄い高解像度だな。ホーデンというと、日本トップの自動車メーカー。厳ついフロントの黒のワゴンでホーデン社の車というと…アックスフレイムかリングフォードか。この車種、荒い運転をする輩が多いことで有名な車種の1つでもある。現にそれを間近で見せつけられてるから、印象がより悪くなる。
 この旅に出る前、シャルと出かけた時に山道で煽ってきたのもこのタイプの車だった。道は蛇行してたし制限速度+10kmくらいで走らないと中央線をオーバーして、対向車と衝突という自体も十分考えられた。なのに、追い越し禁止なことで余計に苛立ったのか、執拗に煽ってきたことでシャルがキレて、携帯が圏外になるところで制御系を完全停止させた。

「どうやらこの車種に乗る連中は、金はあっても脳はないようですねー。標識の認識も出来ないうえに、制限速度の概念も知らないんですからねー。」
「シャ、シャル?」
「その馬鹿でかい大層な車で、車間距離を詰めてスピードを出したらどうなるか、体感してもらいましょうかー。脳がない輩に言葉は通じませんからねー。」

 ま、まずい。シャルがキレた。かと言って僕には止められない。間近に迫ってきた信号は青。このまま大通りへ出てやり過ごすなら良いんだけど…。交差点に差し掛かる。シャル本体が交差点の中ほどまで進んで左折する。次の瞬間、後方で激しい音がする。後ろの車が曲がり切れずに中央分離帯に激突した。
 衝突の勢いでフロントは見るも無残に凹み、勢いよく助手席側を下にして横倒しになる。フロントガラスをはじめ、ガラス全体が広範囲にぶちまけられる。車体が大きい車が横倒しになったから、1車線は完全に塞がった。信号が変わったけど、当然その車線は避けるしかないけど、停車していた車は隣の車線にそう簡単に変われない。起こるのはクラクションの嵐。
 シャル本体は何事もなかったかのように走る。僕自身、HUDのウィンドウ表示で事故の様子を見ているんだけど、あっという間の出来事で未だに実感が湧かない。後方で激しいクラクションの大合奏が聞こえるけど、それもどんどん遠ざかって行く。

「ほら見たことか、ですねー。私なら曲がれても、低レベルの人工知能もどきの制御機構じゃ、あのスピードでは曲がれませんからねー。」
「…制御系に干渉はしてないの?」
「一切してませんよ。あの車が曲がりきれないように、私のスピードと角度を微調整はしましたけど。」

 シャルの頭脳プレー…と言うべきかちょっと微妙だけど、シャル本体だから曲がれるようなスピードと角度で曲がったところを、あの車は曲がり切れずに中央分離帯に激突したわけか。運動エネルギーは重量に比例して速度の二乗に比例するのは有名どころだけど、慣性の法則というものもある。質量が大きいほどその作用は大きくなる。「車は急に止まれない」というやつだ。
 シャル本体はヒヒイロカネで全面刷新されたことで、本来よりかなり軽量化された。これはシャルならではの特殊事情だから、他の車はそういうわけにはいかない。シャルだから曲がれた角度でも、あのサイズの車であのスピードだと曲がりきれないことは容易に想像できる。結果、実際無残な姿で横たわる羽目になった。

「この車で煽れば退くなり急ぐなりすると思ったんでしょうけど、当の本人が当面入院する羽目になりましたねー。」
「…ココヨ高速の事故も、こんな感じなのかな。」
「今日の分は全部追突事故です。車間距離を詰め過ぎたところにスピードが出ていて、インターチェンジから入って来る車や、逆に出ようと減速した車に次々と追突したパターンです。」
「あの車間距離じゃ、そうなって当然だよね…。」

 自業自得だけど、こんな事故が彼方此方で起こっているココヨ市の現状に溜息が出る。車間距離を無暗に詰めてスピードを出せば、いざという時に止まれずに交通事故に直結するのは自明の理。それが分からないのか忘れたのか知らないけど、スピードを出して車間距離を詰めるのが当たり前となっているココヨ市の現状を、誰も疑問に思わないんだろうか?
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