謎町紀行

第1章 霧が包む町を探る

written by Moonstone

 シャルが止まったところは、ホテルの駐車場。シートベルトがひとりでに外れて収納される。ウィンドウ越しに見る風景は、本当に霧が深い。天候は快晴の筈だが、霧が深いから曇っているようにしか見えない。

「霧の町っていう通称そのものだね…。」
「まったくですね。」

 太陽が霧の向こうに見える。傘を被った月のようだ。それだけ霧が空にも広がっている。これだと日照不足で作物が思うように育たないんじゃないか?だったら尚のこと、物資を陸路で運ばないと大変なことになるかもしれない。
 そこそこの広さがある駐車場には、他に車が2、3台止まっている。秘境を訪れた人だろうか。兎にも角にもチェックインしよう。車上荒らしとかはシャルがACSで確実に防衛する−しつこいようなら相手が死んでも構わないと言い切る−から大丈夫だろうが、念のため貴重品をひとまとめにしたバッグも持っていく。

「チェックインして大きな荷物を置いてくるよ。」
「分かりました。私は此処で待機しています。何かあったら心の中で呼びかけてください。」
「分かった。」

 そういえば、この時計をしていると僕が思ったことがシャルに伝わるんだよな。何かあったらって、僕が部屋で強盗に襲われたら、人間になって駆けつけてくれるんだろうか?流石にそれはないよな。場所柄そこまで治安は悪くないと思うけど、用心するに越したことはないかな。
 霧に包まれたような気分の中、ホテルの正面玄関から入る。両脇にオレンジ色のライトが灯っているから何とか所在が分かる。それくらい霧が深いし、ライトもかなり散乱している。此処まで来ると、霧と言うより煙幕だ。エントランスは自動ドア。正面には3段の緩い階段、向かって右側には更に緩やかなスロープ。フロントやロビーは洋式の落ち着いた佇まい。ごく一般的なビジネスホテルといった趣だ。「いらっしゃいませ」と出迎えるフロントも、特におかしなところはない。

「予約した富原です。」
「富原様ですね?かしこまりました。少々お待ちください。」

 フロントの応対した若い女性は、端末を操作して宿泊者カードを出す。きちんと予約されていたようだ。シャルを信用してないわけじゃないが、完全お任せで予約完了とかそういう知らせが何もなかったからな。

「富原ヒロキ様、本日より3泊のご予定ですね。こちらのカードにご記入願います。」

 氏名と年齢は迷う必要はない。住所は…この旅に出る前に住民票を移したんだった。職業は…辞職したんだった。無職だと変な眼で見られそうだし−表には出さないだろうけど−、かと言って前の職場を出すのは癪だし…。

『著述業あたりにしておけば良いですよ。』
『シャル。そういえば頭の中で思ったことが聞こえるんだったな。』
『はい。宿泊者カードで身元調査はされないですから、いい加減でも大丈夫です。』

 職業は著述業、と。必要事項を書き終えてカードをフロントの女性に渡す。フロントの女性は特に記載事項をチェックすることもなく、宿泊者カードを仕舞ってカードキーを出して部屋の場所や出入りの方法、朝食の場所について案内する。これらも変わったところはない。部屋は3階の305号室。エレベーターは3階までだから最上階か。霧で全体像が見えないから規模は分からないが、横に広いかこじんまりしてるかのどちらかだろう。エレベーターに乗って3階へ。僕以外誰も居ない。
 3階に到着。エレベーターホールから二手に分かれて客室が伸びている。305号室は…左側か。荷物を持って部屋番号を辿っていく。305と書かれたドアの、ドアノブの下あたりにカードキーをかざすと、LEDが緑色に変化して鍵が外れる。ドアを開けて荷物を中に入れて僕も入る。結構広めの洋室。デスクとベッド、クローゼットとテーブルと1人用のソファ。デスクの下には冷蔵庫。コンセントはAC電源とLANの両方。これらも変わったところはない。屋内まで霧が入り込んでいるかと思ったが、そこまで酷くはないようだ。

『シャル。霧の様子はどう?』
『全然変わらないです。昼はまだ太陽光があるからましかもしれません。夜は完全に視界が遮られますね。』
『時刻は…11時過ぎか。日が暮れるまで情報収集をしようかな。』
『お手伝いします。』

 この時期、日が暮れるのは…18時前後か。だけど、山間の町は日が暮れるのが早い。早めに動かないと霧に闇が重なって身動きが取れなくなる。情報収集も効率的・効果的にしないといけない。まずは…この霧についてだな。いきなりヒヒイロカネを持ち出すと良くない気がする。
 日が暮れる前に何とかホテルに帰還。シャルが居て良かったと心底思った。もし1人で聞き込みをしようとしたら、土地勘はないわ四方八方霧だらけだわ、おまけに何処に人がいるか分からないわで、完全に迷ってしまっただろう。それどころかホテルにも戻れなくて消息不明扱いになったかもしれない。シャルはこの最悪の視界に対抗して、GPSとレーダーとサーモグラフィを組み合わせて、独自のリアルタイム3Dマップを作製してくれた。しかも、ナビの小さい画面じゃなくて、HUDにリンクしてフロントガラスにCG表示。大画面にリアルタイムの3D表示で、霧がない風景が完全に表現されていた。
 シャルの凄い性能に改めて感服しつつ、探索結果を基に情報収集。此処でもシャルのアドバイスで、同じ老人でも男性には丁寧に、女性にはややくだけた感じで話しかけ、僕が世界を回っていることを最初に話し、霧と社について尋ねるスタンスを取った。結果、意外なことが見えて来た。
 霧は確かに出ると濃くなりやすかったが、それほど頻繁に出るわけじゃなかった。だから「霧の町」として観光名所にもなったりした。ほぼ毎日、しかも朝から晩まで町全体が霧に覆われるようになったのは、ここ数年のことだそうだ。数年というと短く思えるが、何せこの深さだ。日光が遮られるから作物は育たないし、洗濯物も乾かない。満月の日だけ何故か霧が晴れるから、この時を狙って物資が町の外から運び込まれ、木を伐採して保管して次の満月の日に運び出すようにしているという。なるほど、道理で長い道のりで1台もトラックと出会わなかったわけだ。
 霧が深くなってから探検や物珍しさで人が多く来るようになった。それだけなら構わないのだが、この霧の深さを甘く見て迷ったり、挙句行方不明になる人が出て来ている。昼間、町中に居れば偶然出くわした町の人が助けられるが、道を外れて田畑や森に入ってしまうともう助けようがない。町の人さえ、地図と強いランプがないと、霧がある時は外出できないくらいだから、部外者が何の準備もなしに探索できる筈がない。
 更に厄介なことに、霧で迷子になってほうほうの体で逃げ帰った人の話を聞いたり、行方不明になった人の親族や友人が町を訪れるようになった。人は増えるが、その分迷い人や行方不明者も増えるから、自殺スポットという悪名を受ける羽目になってしまった。
 町の人もこの霧には困り果てているが、有名な大学の教授が調査しても、霧が停滞しやすい環境なのだろうという漠然とした結果しか出せない。その環境が何なのか、どうすれば霧を晴らすことが出来るのか、町の人が最も知りたい疑問に答えることは結局出来ていない。
 霧に関する経緯や愚痴が大量に出て、社に関することはあまり聞けなかった。生活を著しく不便にしているこの霧への不満が溜まっていたのは想像に難くない。シャルのアドバイスで、愚痴が出始めたら聞くことに徹するようにしたからだ。でもそのおかげで、町の人とかなり話しやすい環境が出来たと思う。
 ひとしきり愚痴を聞いてから社について軽く聞いてみたところ、シャルからの情報どおり社は全部で4つある。名称は赤宮、青宮、白宮、黒宮。どれも代々続く神主が中心になって、周辺の集落の住民が祭りや神事を執り行う。−このあたりが得られた情報だ。社に関しては町立図書館に詳しい資料があるかもしれないという情報も得た。町史や在住の研究家の資料は図書館や役場に集まりやすい。部外者の域を出ない僕が彼是聞き回るより、文献を調査した方が町の人の警戒心を強めずにするかもしれない。

『シャルに感謝だよ。何もない状態からひとまず道筋が出来た。』
『どういたしまして。町の人の話から、霧の発生が常態化したのは、何らかの異変があったと考えられますね。』
『そして、それは基本情報にもあった4つの社が関係している可能性が高いと見た。』
『私もそう思います。もしかすると、社はヒヒイロカネに関係しているかも。』

 そう考えたくなるよな、やっぱり。社の場所はシャルが捜索・検出して僕のスマートフォンに転送されている。僕が滞在しているホテルからみて、赤宮は南西、青宮と白宮はほぼ真西、黒宮は北西にある。ほぼ東西南北への配置、そして4つの色とくれば、思いつくものは1つ。四神だ。有名な青龍、朱雀、白虎、玄武はそれぞれ東、南、西、北を司る。そして色の対応は青、赤、白、黒。社が冠する色にぴったり符合する。シャルのように、これがヒヒイロカネに絡んでいると考えたくなるのは自然だろう。実際、僕もそうだ。
 問題はやはり社の調査だ。基本データのとおり、社は代々続く神主が中心になっていると言うから、相応に長い歴史と伝統を持つだろう。この歴史や伝統ってのは調査や研究ではしばしば障害になる。典型的なのは古墳だ。神社は穢れを嫌う性質上、部外者の調査を容易に許可するとは思えない。ヒヒイロカネが関係していることも、あくまで推測の域を出ない。調査をするならそれなりの証拠が必要だ。まずは町立図書館で文献をあさって読むことから始めないと駄目だな。これだと3泊じゃ到底足りそうにない。部屋が空いているようなら宿泊を継続することになるだろうな。

『文献の解読や分析は、私に任せてください。』
『そういうことも出来るのか。』
『ヒロキさんを介するので、文献を広げたり捲ったりといったことは協力が必要です。』

 ドキッとした。協力どうこうじゃなくて、シャルが唐突に「ヒロキさん」と呼んだことに。今まで他人からそんな呼び方をされたことがない。シャルは車の制御OSだと分かってはいるが、通常の車の音声案内に残る、つぎはぎめいたものや妙な抑揚の変化がまったくない。少し甘めの柔らかく澄んだ声質で呼び掛けるのは反則だ。

『どうしました?』
『…分かってて言ってる?』
『時計を填めていると、ヒロキさんの考えていることは私に伝達されはしますが、全てに返答するようなことはしません。呼称や声質で受け止め方が違うことがまだ良く分からないのもあります。』
『ああ、そうなんだ。…明日は朝から町立図書館に行くから、案内よろしくね。』
『分かりました。今日はゆっくり休んでください。』

 霧の町ことオクシラブ町の1日目は終わろうとしている。十分休養を取って明日からの文献調査や情報収集に備えよう。文献や社の調査とか、学者みたいだ。仕事を辞めて家を引き払って、積めるだけ車に積んで始めた旅は、これからこんな調子で続いて行くんだろうか?楽しみ半分、不安半分ってところか…。
 翌朝。眠気や身体の違和感が取れた僕は、ホテルの食堂で朝食を取って外に出る。相変わらず凄い霧だ。1m先もまともに見えない。シャルのところへどう行くかと思ったら、ヘッドライトを灯したシャルがごくゆっくりと近づき、ホテルの玄関に横付けする。ご丁寧に運転席のドアがホテルの玄関に向くように。

「おはようございます。良く寝られましたか?」
「ベッドや布団に横になると、やっぱり違うよ。スッキリした。」
「睡眠環境の構築は、ベッドや布団には敵いませんね。」
「仕方ないよ。車は睡眠のために作られてないから。それより、町立図書館へ案内して。」
「分かりました。今日も霧が深いですから、3DマップをHUDに表示します。」

 HUDに外の様子が表示される。僕がハンドルを握ってアクセルを踏むと、3Dマップは速度に応じて変化する。これのおかげで昨日は土地勘も何もない場所を巡って、町の人の話を聞くことが出来た。ヘッドライトの有無くらいしか識別できないくらいの霧だから、何もないと何処に居るかさえ分からなくなる。HUDの左やや上に、「オクシラブ町立図書館」という矢印を伴う文字列と、白く点滅した建物が表示されている。此処までは通常のHUDでも可能だ。シャルはこんな視界ゼロに等しい状況でも、安全を確保しながら道路を走れる。HUDの3Dマップも健在。僕は何もしなくて良いんだが、一応運転している体裁を保っている。
 道は1車線のみ。幅自体はすれ違い可能だが、この視界だとそれすら難しい。他に車が走っていないのが幸いだ。HUDの3Dマップ表示がないと、何があるのか全く分からない。木や草が全く揺れていないところからして、風も吹いていないようだ。まさに霧が溜まっている状況だ。

「町立図書館の駐車場に入ります。運転席を出たら、私が誘導します。」
「頼むよ。何も見えそうにない。」

 シャルはしっかりウィンカーを出して、町立図書館前の駐車場に入る。そこそこの広さだが、車は全く停まっていない。シャルは図書館の正面玄関と向かい合う位置に停車する。僕はメモ帳と筆記用具、そしてスマートフォンの所持を確認して車を降りる。うわっ、霧の中だ。

『その位置から、前に3歩進んで、左90度を向いてください。』
『分かった。』

 シャルの言うとおり、前に3歩進んで左90度を向く。左を見るとシャルが何とか見える。

『そこから真っ直ぐ30歩歩いてください。玄関前の階段があります。』
『躓きそうだな。』
『道路上に障害物はありませんが、確実に踏みしめるイメージで歩くのが確実です。』

 足元も一応見える程度という霧の深さ。躓くと方向感覚を見失いかねない。シャルが捕捉するだろうが、ちょっとみっともない。1歩1歩数えながら歩を進める。1、2、3…27、28、29、30。後ろを振り返ると、シャルはもう見えない。これじゃ方向感覚を見失うのは当然だ。町の人の苦労も痛いほど分かる。

『そこから3段、広めの階段があります。やや大股で1歩ずつ、確認しながら上ってください。』
『分かった。たった3段上るのにこんなに緊張するなんて…。』

 階段で躓くと相当痛い。まずは右足から。一歩踏み出してゆっくりと…。確かに段差がある。右足の位置を目指して左足を上げて、と。これで1段。同じことを2回繰り返すわけか。階段も足元が見えないと強力なトラップになるんだな。

『上った。この先どうするんだ?』
『2歩先に引っ張って開けるタイプの正面玄関があります。今の位置ならうっすら前方に見える筈です。』
『…ああ、何とか見える。』

 薄ぼんやりと引っ張る部分が四角形の、少し昔の建物にあるタイプのドアが見える。これを引っ張ると…開いた。図書館に入るだけでこんなに苦労するなんて初めてだ。ともあれ、文献調査をしないと…。受付に行くのが良いか?

『はい。受付で町の歴史や風土の研究をしたいという名目で、文献のある場所を聞けば大丈夫です。』

 素早いフォローだ。新聞や雑誌の閲覧コーナーに若干人が居る。僕は受付に行って、シャルのアドバイスどおりに伝えて文献の場所を聞く。受付の女性は、文献は禁帯出であること、コピーは自由だが料金が必要といった扱いの情報に加えて、場所も教えてくれる。2階に町史や風土などオクシラブ町に関する文献が保管されているそうだ。
 階段で2階へ。さっきは3段上るだけでも緊張しっ放しだったから、視界がクリアなことのありがたみを思い知る。2階は天井近くまで達する書庫に、びっしりと書籍が詰め込まれている。町史から読めば良いか。えっと…、あそこか。脚立を使わなくても取れる位置にはあるが、何故か多い。背表紙を見ると「有史以前」「○○時代」という感じで、中学あたりの歴史で習う時代を区切りとして1冊になっている。その1冊がかなり分厚い。典型的な過疎の町で、これだけ書くことがあるのかちょっと疑問だ。
 手始めに「有史以前」を取り出して、近くのデスクに向かう。2階は人が居ないらしく、場所探しは必要ない。さて、シャルはどうやって読んで解析とかするんだろう?

『普通に本を開いてゆっくりページを捲ってくれれば良いです。』
『それで内容が分かるのか?』
『この会話が出来る時計は、ヒロキさんの脳神経系にアクセスしています。視覚情報を共有するのは容易です。』

 なるほど。シャルはこの時計をルータとして、僕の思考だけじゃなくて五感にアクセスできるんだな。見た目普通の時計と変わらないこの時計も、ヒヒイロカネで出来ているとあの老人は言ってたっけ。一体ヒヒイロカネってどんな金属なんだ?そしてそれはこのオクシラブ町にあるのか?興味が尽きない。

「はー、肩凝った…。」
「お疲れさまでした。飲食店へは私が案内します。」
「頼むね。」

 12時を超えたところで、昼休みと昼食のため、一旦町立図書館を出る。首や肩のあたりがガチガチになっているのが分かる。辞書くらいの厚みがある文献を、ひたすら一定速度で捲っていく。単純だが結構きつい。数が多いから持ち運びだけでも大変だし。
 シャルから依頼された一定速度は、1秒数えてから捲るイメージ。一定速度を保つ上に、視線を文献に向けている必要がある。僕の目を介して文献をスキャンしているようなもんだからそうなるのは必然だが、それを文献の数だけ続けるわけだから結構な労働だ。

「シャル。解析にはどのくらいかかる?」
「午前中にスキャンした分は、今日中には出来ますね。文字の形が現代のものなので、その分の解析が省けますから。」
「筆書きで草書体とかだと、そこから解析するから時間がかかるわけか。」
「そうです。」

 シャルの説明は人間に置き換えれば容易に理解できる。つまりは、「読み辛い文字はそれが何であるか識別するのに時間がかかる」ということ。それは人間でも全く同じ。文字認識でも出鱈目に崩された文字は誤認識する確率が高いように、認識はAIなら何でも出来るわけじゃない。
 それにしても、小さい町なのに文献があれだけ多いのはやっぱり不思議だ。古代とか中世なんて、人口はまだしも人の行き来はかなり限られていたから、記録することなんてそれほど多くないような気がするんだが…。何冊捲ったか覚えてないけど、現代の分がまだ残ってるし、風土関係はまだ手つかずだ。

「シャル。ふと思ったんだけど…、ヒヒイロカネって、この世界では生産できないんだよね?」
「はい。」
「だったら、ヒヒイロカネがこの世界に持ち込まれても、どうにもならないんじゃないか、って思うんだけど。」
「…そういうわけにはいかないんですよ。ヒヒイロカネは…高性能なだけの金属じゃないんです。」
「どういうこと?」
「…増殖するんです。自分で。」
「増殖?!金属なのにアメーバみたいに?!」
「はい。」

 金属が自分で増殖するなんて聞いたことがない。ということは…、この車もやがて2台になって、そこから更に倍々ゲームで増殖するのか?

「私を構成するヒヒイロカネは、自動車として完結しているので私の制御なしに増殖することはありません。何も処置されていない状態だと無制限に増殖するんです。」
「ああ、そういうことか。それでもとんでもない性能だね。世紀の大発見ってことに…!」

 それだと大変なことになる。自己修復機能だけでもとんでもないのに、何も処理してないと勝手に増える金属なんて市場を、否、金属関係の企業を根本から脅かしかねない。ヒヒイロカネを使えば、銃撃を受けても壊れない戦車や戦闘機も出来るだろう。軍拡競争に拍車がかかったり、各国の軍部が暴走するなんてことも…。

「そういうことです。この世界のテクノロジーを大幅に超えるヒヒイロカネは、災いの種なんです。」
「ヒヒイロカネを見つけた人が、先のことを考えるとは限らないよね…。」
「残念ながらそのとおりです。テクノロジーは高度になればなるほど、人間にとって便利であればあるほど、悪用する方が容易なんです。後先を考えるのが大変ですから。」

 シャルの言うとおりだ。核分裂なんてその典型で、原子炉として大きなエネルギーを取り出すのは、制御棒で臨界を調整したり、放射能漏れがないように堅牢な原子炉を作る必要がある。それでも地震や津波でメルトダウンの危機に晒されたり、そこまで至らなくても冷却水漏れとかは珍しくない。ヒヒイロカネはその危険に並ぶか上回る。オーバーテクノロジーのものが突然降って湧いたように齎されたら、金に糸目を着けずに引き取りたい輩は居るだろう。そこから雪崩のように事態が悪化する恐れは高い。早々に場所を突き止めて回収しないと危険だ。事態は思ったよりずっと切迫してる。

「この世界に持ち込まれたヒヒイロカネは、恐らく何らかの形状に擬態していると思います。」
「擬態ってことは、一目見たくらいじゃ分からないってこと?」
「はい。もっともそれは、私なら識別可能です。直接見る必要がありますが。」
「同じヒヒイロカネで出来ているからこそ分かるものがあるってことか。」
「そんなところです。」

 あの老人の世界の輩は、随分厄介なものを持ち出したもんだな…。何のためにヒヒイロカネをこの世界に持ち込んだんだろう?金のため?やっぱりそれかな…。そして、その輩は今何処に居るんだろう?まさかヒヒイロカネをこの世界の何処かに放置して戻るなんて、許される筈がないし…。

「到着しました。」

 シャルが告げる。車、すなわちシャルは道路の隅に寄せていて、運転席から出て真っ直ぐ道を渡ったところに、結構洒落た佇まいの店がある。見たところ食堂と言うよりカフェとか、そんな感じ。過疎の町にこういう洒落た店があるのはちょっと意外だ。観光客相手だろうか?

「オクラシブ牛筋煮込みカレーセットがお勧めですよ。」
「良く知ってるね…。ちょっと待ってて。」
「いってらっしゃい。」

 シートベルトが外れて運転席のドアが開く。相変わらず霧は深いが、幸い真正面に出入り口があるのと、出入り口脇に店の場所を示すためか点滅する赤色の明るいランプ−灯り自体は多分LED−がある。ランプのおかげで出入り口付近がどうにか見える。念のため足元に注意しつつ歩を進め、店に入る。

チリン、チリン。

「いらっしゃいませ。何名様ですか?」
「1人です。」
「お好きなお席へどうぞ。」

 出迎えたのは意外にも若い女性。店内は木材を前面に出した作りで、そこそこの広さだ。天井には出入り口にあったものと同じ形状のランプと、ゆっくり回転する大きなファンがある。僕は窓際の席に座る。4人席だが客は僕1人だし、こういう時、店の奥側に座るのは何となく躊躇する。女性が水とおしぼりを持ってやって来る。

「ご注文がお決まりでしたら、お呼びください。」
「オクラシブ牛筋煮込みカレーセットってありますか?」
「はい。ございます。」
「それ、お願いします。」
「かしこまりました。お待ちください。」

 テーブルも椅子も木材。林業が主力産業だというオクラシブ町産の木材を使ってるんだろうか?地元の食材を使う店は良くあるが、地元の木材を使った建物での営業だと数は少なくなるだろう。何となく気の建物は落ち着く。BGMもない静かな店内だが、ゆっくり食事をしたり寛いだりするには最高だ。
 店の奥、僕の方から見て左手の奥に、カウンター越しに厨房が見える。料理をしているのは…さっきの女性?この店、あの女性だけで営業してるのか?個人営業の店は珍しくないけど、料理から接客まで全部1人でするのは、混雑する時だともう手に負えないだろう。でも、他に人はいないし…。窓越しに外を見る。明るいから本来は晴れてるんだろうけど、霧が深いから空気全体がぼんやり光っている感じだ。車、つまりシャルはあの赤い点滅のランプでどうにか視認できる程度。この霧が続くようだと、こういう店は余計に営業が難しいだろう。この霧の謎を解き明かすことは、この町の生活を取り戻すことでもあるのかな。

「お待たせしました。」

 暫くして、トレイに乗った香ばしい香りのカレーが運ばれて来る。カレーはきちんと別の器に盛られている。やや褐色のそれには、メニューの名前にもある牛筋らしいものが幾つもある。野菜サラダも結構大きめのガラスの器に盛り付けられている。かなりお得なメニューだな。

「こちらのお店では、これがお勧めだと聞きまして。」
「良くご存じですね。オクラシブ町の広大な牧場で放し飼いされている健康な牛の筋を、自前のカレーと合わせてじっくり煮込んだ、お勧めの一品です。」

 まず、そのカレーを、筋を確実に1個は拾うように掬って、ご飯にかけて食べる。…うん、牛筋がとろける。それと同時に筋の旨みとカレーの味が絡み合う。少し強めの香辛料が良いアクセントになる。牛筋だけでもご飯が進みそうだ。東京とかに店を出せば結構有名になれそうな気がする。

「評判どおり牛筋が美味しいですね。」
「ありがとうございます。」

 女性は嬉しそうに言う。仕事をしていた時はチェーン店のカレー屋に行ったことがあるけど、こんな立派なものじゃなかったな。安価なチェーン店に特徴ある逸品を求める方がどうかしてるだろうけど、ヒヒイロカネを探す旅に出て思いがけず世界が広がったのかもしれない。

「観光か何かでいらしたんですか?」

 それとなくこの町のことを聞くタイミングを窺っていたら、女性の方から話しかけて来た。他に客がいないが故の思わぬ産物というか…。仕事を辞めるまでは僕から話しかけてもまともに相手にされなかったし、話しかけられることなんて仕事関連か量販店の店員くらいだったな。

「えっと…、作家になろうとしていて、見聞を広げるために色々な町を回ってるんです。」
「そうですか。生憎今は満月の時しか晴れなくなって、見て回るのは大変でしょう。」
「町に入った時はびっくりしました。こんなに霧が濃いとは思わなくて。」
「あの霧には、町の人も困ってるんです。」
「何時からこんなに霧が濃くなったんですか?」
「5年くらい前です。私が大学生だった頃、突然毎日、しかも深い霧が出るようになって…。」

 昨日の情報収集で得た情報は、対外向けの嘘じゃなかったようだ。老人達は色々話してくれたが、所詮僕は余所者でしかない。余所者に詮索されるなら表向きの経緯を並べ立てておくとか、本来の理由を隠すための嘘を出すようにしているかもという疑惑めいたものがあった。どうやらその線はなさそうだ。

「一体何があったんでしょうね…。単なる気象条件の変化と言ってしまえばそれまでかもしれないですけど。」
「さあ…。このままだとこの店も町全体も立ち行かなくなるので、早く元に戻って欲しいです。」

 およそ30日に1回しか霧が晴れない、晴れても必ず晴天とは限らない。元々霧や雨が多いロンドンとかは知らないが、極端なまでの気象の変化が四季として存在する日本でそんな気象が続くと、不都合が多い。作物が満足に育たないという話は聞いてるけど、草が十分育たないと家畜の飼育にも悪影響が出るだろう。
 林業は最悪だろう。ただでさえ視界が悪い森の中。前方10mも満足に見えない状況だと碌に木が切れない。切るのは機械に任せれば良いかもしれないが、運び出すのは至難の業だろう。切りだした木を楽に運び出せるシステムがあれば、林業が重労働と言われることは少ない筈。
 林業と農業が主産業とされる過疎の町で、それらの産業が成立しなくなれば、町の税収も当然減る。一方で生活保護とか町の支出は減るどころか増える。町全体が崩壊するのは何れ現実のものになりかねない。国からの地方支援の突然の大幅な増額は無理だろうし、以前に事実上破綻した地方都市もある。

「行政というか、役場はどうなんですか?」
「完全にお手上げです。お天道様には勝てないって…。」

 そう言ってしまえばおしまいだけど、何とかしないと町が崩壊することを分かってのことだろうか?町に失業者が溢れても役場に居れば給料が出ることには違いない、と高を括ってるんじゃないか?町が破綻したら不変と思っている給料も激減することになるって知らないんだろうか?

「話は変わりますけど、この町にある4つの神社、あそこには参拝しても良いんですか?」
「神社、ああ、四色宮(よいろみや)さんなら普通に参拝しても大丈夫ですよ。」
「よいろみやってどういう字を書くんですか?」
「漢字で4つの色そのものの『四色』とお宮の『宮』です。赤宮さん、青宮さん、白宮さん、黒宮さんって町の人は呼んでますよ。」

 四色宮とは洒落たネーミングだな。普通に参拝できるなら、ひとまず4つの神社に行って観察するのが今のところ取れる手段だな。思いがけないものがあるかもしれない。

「四色宮を参拝するのに、こうしなさいとか、逆にこうしてはいけないとか、そういうものはありますか?町の人や神社の人を不快にさせたくないので。」
「余所から来た人で、この町や四色宮さんをそれだけ尊重される方は、初めてですね。」

 女性が感心したような顔をする。閉鎖的とされるこういった環境や対象は、それだけ地域の人に神聖視或いはタブーとされていることの裏返し。それに関する情報を事前に集めて、神聖なものなら汚さないように、タブーであれば触れないようにする。正式な許可を得た調査でないから、尚更そういう意志表示は大事だ。

「四色宮さんを回るのは、青宮さんから始めて白宮さん、赤宮さん、黒宮さんの順にしてください。これを守らない人には、四色宮さんの罰が当たります。」
「青、白、赤、黒の順ですね。確実に守ります。他には?」
「他は特にありません。参拝の仕方も他の神社と同じですよ。」

 4つの神社に参拝の順序があるというのは、非常に重要な情報だ。ヒヒイロカネは四色宮と呼ばれる4つの神社と関連があると見ているし、その順序を守ることで何か分かるかもしれない。神社の近くには集落もあるそうだし、四色宮に関する情報を集める環境はある。
 今日は1日文献の読み込みだから、四色宮の調査は明日だ。まだ雲を掴むどころか雲に手が届かない状況には変わりないが、糸口は見えたかもしれない。ヒヒイロカネが向こうから出て来るものじゃない以上、こちらから探し出すしかない。ヒヒイロカネの存在が白日の下に晒される前に…。
 情報収集を兼ねた昼ご飯を終えて町立図書館へ。ところがどうもシャルの機嫌がよろしくない。戻った時からドアはなかなか開けないし、シートベルトは座った途端にシートに押し付けるかのようにきつく締められるし−流石に今は普通の締め具合−、HUDには何も映ってない。真っ白にぼやけた風景しか見えない。

「…シャル。もしかして…怒ってる?」
「別に。」

 物凄く素っ気ない対応。忘れてた…。シャルがかなりやきもち焼きだってこと。シャルは僕が填めている腕時計で五感の情報プラス僕の思考を得ているから、僕が店の若い女性と仲良く話し込んでいたと見えたんだろう。そんなつもりはなかったんだけどな…。

「そのつもりがまったくなかったとは言えないんじゃないですか?」
「な、ないよ。」
「へー。」
「まったく信じてないね…。」

 物凄く車内の空気が重い中、車が停まる。シートベルトが取れてドアが開く。辛うじて見えるのは町立図書館の出入り口。どうやら到着したようだ。シャルの機嫌が直らないから、足元注意で自力で歩くしかないな…。

「引き続き文献の閲覧をお願いしますね。ヒロキさん?」
「こんな時にその呼称を使わなくても…。」

 シャルは頭の回転が速い分、こういう時が怖い。じわじわ嬲られるような気がしてならない。兎も角、文献調査…の前に、この階段を安全に登らないと…。足元が見えないだけでこんなに不自由するとは思わなかった。視覚障害者がどんな気分で毎日を過ごしているか、分かったような気がする。
 どうにかこうにか図書館に入って2階に上って、やっぱり全く人気がない書庫から町史の残りの分と、風土関係の書物を取り出す。最寄りのデスクに座って、町史から順に捲っていく。シャルは僕の脳神経系にアクセスして書物をスキャンして蓄積や解析をしてるんだろうけど、やっぱり小さい町にしては冊数が多い。
 もう1つ疑問がある。町史は複数の冊子に分かれているのに、風土関係は1冊。事細かに書くほど歴史があるなら、その時々に応じて風土−環境や産業、人々の服装や習慣といったものが多彩に変化しても良さそうなところ。なのに風土関係は1冊なんてちょっと変だ。僕は漠然と眺めているようなところがあるから詳しくは分からないけど、歴史と風土の極端な差は、何となくヒヒイロカネに絡んでいるような気がする。ヒヒイロカネを御神体として封印していたのが四色宮と言われる4つの神社で、それを巡って町が争ったとか…。考え過ぎか。
 そう言えば、ヒヒイロカネが何時どれだけ持ちだされたのか、聞いてなかったな。あの老人はヒヒイロカネを回収するためにこの世界に来たと言っていたけど、それは何年なんだろう?あの老人が居た世界とこの世界とでは、時間の進み方が違うんだろうか?だとすると、ヒヒイロカネが一見しただけじゃ識別できない状態になっているだろうというシャルの推測は現実味を帯びて来る。
 老人が居た世界を見てみたいという気持ちはなくはない。だが、それはヒヒイロカネをすべて回収してからでも遅くはない。極端なオーバーテクノロジーは人間が扱えるだけの知識と倫理を身に着けてからでないと、単なる凶器でしかない。この町で浮かび上がった情報と謎の絡みを解して、第1のヒヒイロカネ発見につなげたいところだ…。
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