待ち人

 カラン カラン

 あぁ、いつものお客さんだ。光弥(ミツヤ)は入ってきた客を見て、ポットからグラスに水を注いだ。トレイに乗せて、座った席へと持っていく。

「いらっしゃいませ。ご注文は?」

「ミルクティを」

 一番隅の窓側の席。光弥を見ると、彼女はいつものように少し淋しげな笑みを浮かべて注文を口にする。


 彼女の存在に気付いたのは、いつだったろうか。あまり明確には覚えていないが、1カ月くらい前だったように思う。

 はっとする程の美人というわけではない。だが、綺麗な人だとは思った。彼女に注目するようになってようやく気付いたのだが、彼女は毎日ここへと訪れていた。ミルクティを頼んで、何時間も窓の外を見つめている。そんな毎日だ。彼氏がいるのか気になったが、この様子ではきっといないだろう。別に彼女のことが好きだとかいうわけではないが、どこかほっとした。……十分気になっている。

「マスター。彼女って、どうして毎日来るんでしょうね?」

「そんなに気になるなら、直接聞け」

 洗ったカップを拭きながら、店主である九之木田(クノキダ)は素っ気なく告げた。が、豊かな口ひげの奥には、含んだような笑みがある。

「えーっ!そんなこと聞けないですよぉ」

「なんだお前。彼女に気があるんだろ?なら聞けばいいじゃないか」

「気なんかないですよ。ただ毎日来るから気になるだけで……」

「それが気があるって言うんじゃないか。ほら、聞いてみろ」

 九之木田は苦笑を浮かべながら、拭いていたカップを棚の中へしまった。そして、別のカップを棚から取り出す。それに注がれるミルクティの香りが、ふわりと光弥の鼻をくすぐった。

 彼女専用になっている淡いピンクの花が描かれたそれ。元は2客セットの物だったのだが、1客が欠けてしまったせいで、1人で来た女性客に出している。誰に出してもいいはずだが、いつの間にか彼女にしか出さなくなっていた。

 光弥は渡されたカップをトレイに乗せ、彼女の元まで行く。彼女は、光弥に気づいていないようで、ただじっと窓の外を見つめていた。

「いつも、いらっしゃるんですね」

「えっ……」

 光弥は、何気なさを装って声をかけてみると、彼女は驚いたような顔をして光弥を見た。そんなに驚かれてしまい、光弥まで驚いてドギマギしてしまう。

「あ…すいません。気になったもんですから……」

 慌てる光弥に、彼女は軽く首を振って小さく笑った。いつも無表情に窓の外を見つめているだけだった彼女が、柔らかな笑みを浮かべたことで、光弥の持つ彼女の印象ががらりと変わる。口をきいたことがないこともあって、随分と近寄りがたいイメージがあったのだが、それを一瞬で払拭するほどの親しみやすさを感じたのだ。

「人を待っているんです。……来るかわからない人のこと。暇人でしょ?」

「い、いいえ…別に、それは人の自由ですし……」

 彼女の笑みに見とれていた光弥は、はっとして返事をしたのはいいが、ちょっと噛み合っていない。それに気づいて、光弥の顔は朱を散らしたように真っ赤になる。それに、彼女の笑みが深くなった。




 彼女の名前は、須藤美幸と言った。美幸は意外と気さくな人柄で、毎日顔を合わせていたこともあり、光弥ともすぐに親しくなった。光弥は、3つ年上の美幸に対して、恋心を抱いたというよりも、姉であるようなもう少し砕けた気持ちを抱く。「待っている人がいる」という言葉を聞いた時点で、恋心を終わらせてしまったのかもしれない。

「美幸さん、いつもミルクティですけど、たまにレモンティとか頼みませんか?」

「うーん…私、ミルクティしか飲めないの。……元々、紅茶は苦手だったんだけどね、勧められてから渋々飲むようになって。何となく慣れたんだけど、他のはまだ苦手」

 苦笑混じりに、美幸は小さく肩をすくめる。表情はいつもと変わらずに穏やかなのだが、瞳に浮かぶ光がどこか寂しげである。そんな彼女の様子を敏感に察知した光弥は、すぐさま話題を変えた。強引に話を変えたせいか、美幸は少しだけ怪訝そうな顔をしたが、何も言うことはなく、光弥の話に乗る。

 きっと、彼女にミルクティを勧めた人が、彼女の待っている人なのだろう。「来るかどうかもわからない人」と彼女は言った。それでも、こうして待ち続けているのだ……ミルクティを飲みながら。諦めようと思ったことはないのか?と訊きたいところだったが、さすがにそんなことまでは言えない。

「……ねぇ光弥君。昔話を聞いてくれない?」

「え?俺が聞いて良いんですか?」

「嫌ならいいの。何となく誰かに話してみたくなった気がしただけだから」

 自嘲するように口元を歪め、美幸は光弥を見つめていた。

 光弥はあたりを見回し、客がまばらであることを確認した後に九之木田を見る。わざとなのか、九之木田は光弥に気づいていないように、黙々と雑誌を読んでいた。きっとOKということだと思い、光弥は美幸の向かいの席に座る。わけもなく緊張してきた。

「ありがとう」

 美幸の口調は、光弥に不思議な感覚を与えた。特別な言葉ではないし、特別な言い方でもない。けれど、これから先に告げることと関係しているのか、言葉の端に微妙なくぐもりがあるような気がしたのだ。

「待ってる人ってね、山岳写真家なんだ」

「へぇ…じゃあ、エベレストとか行ったりするんですか?」

「ずっと日本の山を撮っていたんだけど、2年前だったかな…急に海外に出るって言い出して。多分、いきなりそこはないとは思うんだけど…」


 出会った頃は、彼はまだ駆け出しだった。そして私は大学生。友達の紹介で知り合ったのだけど、全体的に「熊」という感じがして、最初はあまり好きではなかった。服装にも無頓着だったし、がさつそうなイメージがあったからだ。私は好きではなかったけれど、彼は私に一目惚れをしたらしい。しつこいくらいにデートに誘われた。

 あまりにもしつこくて、強引で、仕方なくつき合ったデート。写真のこと…撮る山、空、自然、それを話す時の少年のような彼の瞳に、いつしか惹かれていた。だから告白された時、迷うことなく頷いたのだ。

 そして、それまでに自分が抱いていた彼のイメージが、実際とはまるで違ったということに、気付いた。格好に無頓着なのはその通りだったけれど。

「夢中になったら、他のことなんて全然見えなくなる人。今はきっと、海外に出て…私の事なんて忘れちゃってる。連絡ひとつよこしてくれないんだもの。どこにいるのかだってわからないわ」

「でも…でも、美幸さんは彼のことずっと待ってるんでしょう?」

「…………」

 美幸の笑みが、一瞬だけ崩れた。少しだけうつむくと、美幸は髪を掻き上げながら「ダメだよね、私」と小さく呟く。

 光弥には、何がダメなのかわからない。否、意味も指すべきものもわかる。ただ、それがどうしてダメだというのかがわからないのだ。

「諦めようと、何度も思った。思ったんだけどね、そう思えば思うだけ、諦められなくなったの。なんて言うのかな、フェードアウトで終わるって後味悪いじゃない?もうダメなんだったら、区切りの一言が欲しいんだよね」

 その気持ちは、光弥も何となくわかる。

 高校でつき合っていた彼女とは、大学に行くことで地元を離れてしまってから、何となく疎遠になってしまった。最初は頻繁に電話やメールをしていたのだが、だんだん回数が減り、日を置くようになり……そして、どちらからともなく切れた。
 
 彼女は地元の大学へ進学し、いろいろ忙しいこともあったんだろう。光弥も、大学に慣れるまでは何もしていなかったが、今ではここの他にもバイトを掛け持ちしている。遠恋は相手が見えない分、目の前のことが忙しくなると、構っていられなくなってしまうのだった。それに、見えない分、相手の要求がわからない。年末に帰省した時、偶然彼女を見かけたと思ったら、隣には男がいた。……そんなものなのだ。

 光弥は、離れることで彼女に対する愛情を失っていった。

 しかし、美幸は違う。

 離れることで、より強い愛情を彼に対して抱いているのだ。……そんな自分を自嘲しながら。

「どうして、急にこんな話を……?」

「先月メールを送ってね、デートの待ち合わせを、あの時計の下にしたんだ。9月15日の3時にって」

「えっ!?だって今日は10……」

「1ヵ月だけ待つって付け加えておいたわよ。いつ、そのメールを見るかどうかもわからないし。…それで、今日でちょうど1ヵ月。今日来なかったら、終わらせようと…思うんだ」

 時計を見れば、すでに3時を回っていた。窓の外を見るが、人を待っているそれらしい人はいない。

「終わらせたいから、俺に話したんですか?」

「そうかもね。ほら、こういうのって誰かに話した方がすっきりするでしょ?」

 微笑んでいるが、それが光弥には泣いているように見えた。きっと、終わらせたくないのだろう。けれど、自分で決めた以上、美幸は本当に終わらせるつもりだ。そして、その決意が揺らがないように、光弥に話したのだろう。

「美幸さん、あの…無理して笑わないでください…。見てて、ちょっと辛いです」

「…………」

 その言葉が、美幸の中で張りつめていた糸が切れてしまったのかもしれない。美幸の目が大きく見開かれたと思うと、涙が静かに滑り落ちた。止めどなく落ちていく涙に、美幸はバッグからハンカチを取り出す。

「み、美幸さん……」

「ほんと…バカね、私」

 俯き、小さく嗚咽を漏らす姿に、光弥は言葉を掛けられない。何と言えばいいのかわからないのだ。そんな自分に嫌悪を抱きつつ、ふと美幸のカップを見れば、中のミルクティはまだ口を付けていないのに完全に冷めてしまっているようだった。

「紅茶…冷めちゃってるから取り替えますね。俺のおごりです」

 顔を上げて止めた美幸を制し、光弥は美幸のカップを持って立ち上がる。今自分にできることはそのくらいしかない。

 棚から新しいカップを出し、紅茶を注いでいると、突然大きな音と共に視界の隅で何かが動いた。振り返ってみると、美幸が席から立っていた。僅かにいる他の客の視線を一心に受けているが、それに気づく様子もなく、食い入るようにして窓の外を見つめている。

「美幸さん?」

「そんな…そんな本当に……」

 美幸はバッグを掴むと、ごめんなさいと告げ、慌ただしく会計を済まして行ってしまった。まだミルクを入れる前の、濃いめのストレートティが光弥の前に残される。

「美幸さん…どうしたんだろ。まさか」

 光弥は窓際まで行き、美幸の背中を探した。

 そして、彼女が向かう先を知る。



 次に彼女が来た時は、ちゃんと2客セットのカップを出そう。

END


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