雨上がりの午後 アナザーストーリー Vol.3

Chapter 1 on December 29th, a year

written by Moonstone

 12月29日

 行っちゃった、か・・・。
 本当は駅まで見送りに行きたかったんだけど、そこまで祐司さんと一緒に行くと今度は、行かないで、って引き止めてしまいそうだから、玄関までにしておいた。
玄関まででも引き止めたくて仕方なかった。だけど、祐司さんには高校時代のお友達と成人式会場で会ってライブをする、っていう大切な約束がある。約束を大切にする祐司さんに我が侭を言って困らせたくない。だから、引き止めたい気持ちを懸命に抑えて、玄関での見送りまでにした。
 幾ら見直しても、祐司さんの姿はもう見えない。私の口から思わず小さな溜息が漏れる。その原因は寂しいっていう気持ちからのもの。祐司さんと付き合うようになって初めて、私は独りになった・・・。その事実が狂おしく胸を締め付ける。
 今までは大学でも一般教養の講義で会えたし、お店に行けば必ず会えたし、バイトの後紅茶を飲んでお話したり出来た。祐司さんと顔を合わせない日はなかった。だけどこれから1週間あまり、祐司さんの顔を見ることは出来ない。毎日1回の電話でしか話をすることも出来ない。

 ・・・何時まで玄関に突っ立ってても、祐司さんが引き返してくることはない。素直に事実を受け入れて、独りの生活を始めるしかない。もう一度出た小さな溜息を残して、私は自分の家に戻る。
 エレベーターに乗って廊下を歩いていき、ドアの鍵を開けて中に入る。ドアを閉めて改めて、この家に居るのは私独りなんだ、と実感する。物音一つしない空間。そこにはつい数分前まで、祐司さんが居た・・・。
 ・・・掃除でもしようかな。何かしてないと独りっていう現実に押し潰されてしまいそう。
 私は靴を脱いで上がり、部屋の掃除を始める。まずは台所周りから。ガスコンロや流しを洗剤を付けたスチールたわしで磨いて、よく絞った布巾で拭いてから乾いた布巾で乾拭きする。毎週1回やってるから、目立った汚れや落ちにくい汚れなんてない。最後に流しの生ゴミ受けに溜まった少量のゴミを捨てて、完了。
 ・・・呆気ない。全体を見渡してみても、何処にも汚れはない。掃除したばかりなんだから当たり前と言ってしまえばそれまでだけど。
 私は続いて食器棚の整理をする。これも呆気なく終わってしまう。使う食器の数や種類は決まってるから、あれこれ弄る余地なんてない。
 次はお風呂場とトイレの掃除。手始めに洗剤を付けたスポンジで拭いて、お風呂場は全体にシャワーをかけて泡を流してから、よく絞った雑巾で拭いて、最後に乾拭き。
 ・・・これも呆気ない。お風呂場やトイレの面積なんて大したことないし、何時もの要領で掃除すれば何の問題も生じない。
 リビングの掃除をしよう。私は物置から掃除機を取り出して、最初にテーブルや家具を雑巾で拭く。拭く場所は少ない。食事を食べるためのテーブルと、レポートを書いたりする机、コンポとその棚、CDの入った棚くらいのもの。途中何度もテーブルに目が行く。ついさっきまで、此処に祐司さんと一緒に座って朝ご飯を食べていたっけ・・・。
 拭き掃除が終わったら部屋の床全体に掃除機をかける。何時もより念入りに掃除機をかけてみたりする。元々ゴミを出す要素が少ないから、せいぜい埃を吸い取る。・・・そもそも一昨日祐司さんに手伝ってもらって掃除をしたばかりだから、手間がかかる筈がない。家具を動かした跡や片隅にまで、それこそしつこいくらいに掃除機をかけても殆ど代わり映えしない。

 掃除機のスイッチをOFFにして掃除は終了。部屋を見渡してみると、家具が幾つか点在するだけの部屋は、何時になくがらんとして見える。掃除機を仕舞って台所に行ってお茶を入れる。リビングのテーブルに湯飲み茶碗を置いて、クッションに腰を下ろす。
 ふと隣を見る。座るべき人が居ないクッションには、ほんの少し前まで祐司さんが座っていたのよね・・・。お茶を飲んでいても、視線は無意識のうちに何度も隣のクッションに向かう。そして、そこに居た祐司さんの姿を思い描く。
 程なく湯飲み茶碗は空になる。そこでまた溜息一つ。物音一つしない部屋。私以外誰も居ない部屋。ついさっきまで色々な話が交わされていた。私の他に一人、私の大切な人が居た。玄関との往復で雰囲気ががらりと変わってしまった部屋は、今の私には持て余すほど広く感じられてならない。
 ・・・買い物にでも、行こうかな。今日の夕飯は・・・何にしようかな。隣に居た、今は居ない人に尋ねようとしてしまう。私独りでの夕飯、か・・・。そのために買い物に行くなんて、何だか馬鹿馬鹿しく思えてしまう。
 私は湯飲み茶碗を持って台所に行き、湯のみ茶碗を片付けるついでに冷蔵庫の中を確認する。食材は揃っていると言えば揃ってるし、不足していると言えなくもない。私独りなんだから、小分けして冷凍してある肉を野菜と一緒に炒めても良いし、魚を焼いても良いかな。
 煮つけや刺身を作る気にはなれない。祐司さんが食べてくれるなら時間も手間も惜しくないけど、私独りにそんな手の込んだ料理を作る必要はない。でも、買い物にでも行かないと、このまま独りで居るのが寂しくて切なくてどうしようもなくなってしまいそうな気がする。野菜入れを見ると、白菜や葱がちょっと少ない。・・・鍋物にしようかな。買い物に行く口実にもなるから。

 私は冷蔵庫のドアを閉めてリビングに戻り、机の上に置いてある財布をスカートのポケットに入れて、ハンガーにかかっているコートを羽織る。鍵を持ったのを確認してからリビングを出て、玄関で靴を履いて振り向き、またそこに居ない、居て欲しい人の姿を思い描く。また出た溜息を部屋に残して、私は廊下を歩いてエレベーターに乗って1階に下りて、管理人さんに会釈して外に出て自転車置き場に向かう。自転車に乗って通りに出て、そのまま何時ものコースでスーパーに向かう。冬独特の空気の張りは厳しいけど、緩みつつあるのが分かる。車の往来が多い通りに出る。自転車だからあまり関係ないけど。
 やがてスーパーが見えてくる。駐車場の車の数は意外に多い。私が普段来る時間、土曜日の午前中はそれなりに多いけど、今日はどうして?年末が近いから、かな。よく見ると、店の周囲に「年末大売出し」とか書いてあるのぼりが林立している。やっぱり年末が近いからね。駐車場は空きスペースを探すのが大変だろうけど、自転車の場合はまず困ることはない。自転車で買い物に来る人は少ないみたい。車の方が沢山運べるから便利なんだろうけど、近いなら自転車にした方が良いと思うんだけど・・・。

車で来なきゃならないほど、そう毎日毎日いっぱい買う必要はないと思うけどな。

 祐司さんが以前言った言葉が頭に浮かんで来る。そうですよね、と心の中で相槌を打つ。十分余裕がある自転車置き場に自転車を止めて鍵をかけて、私は店内に入る。 中はそれなりに人が多いけど、私が来る土曜日の午前中とそれほど変わらないように思う。車に必ず乗れる分だけの人が乗ってるわけじゃないから当たり前か。
 私は山積みの籠の中から一つ取って、何時もどおり野菜売り場から回る。今日は鍋物にするから、白菜と葱を籠に入れて・・・。あ、シメジが安いから買っておこうっと。シメジって鍋物にも炒め物にも使えて便利なのよね。次は肉売り場。此処は今日はパス。豆腐や麺類が並ぶコーナーで豆腐を一丁籠に入れる。鍋物に豆腐は欠かせないわよね。 次は魚売り場。色々並んでるけど、今日は買う必要は・・・ないか。

「あ、奥さん。こんにちは。」

 通り過ぎようとしたところで聞き慣れた声がかかる。振り向くと、長靴を履いた小父さんが私を見ている。
 一応魚を捌ける私は、切り身じゃなくて大抵一匹丸ごと買えるこの売り場で買う。切り身だと1/4で1000円近くする鯛も丸ごとなら2000円で買える。ハマチやメジマグロなんかも丸ごと買えば凄く安い。1匹買って3枚に下ろして、片方は刺身にしてその日に食べて、残り半分は冷凍しておく。後日解凍して一口サイズに切り分けてご飯に乗せて、刻んだ海苔や葱をまぶせば丼ものが出来上がる。骨や頭は煮付けにしたり出汁の元になる。
 それに、魚丸ごと1匹買う人はまず居ない。譬え買っても店員さんに捌いてもらって、一緒に買いに来た近所の人とかと分け合う。そんな中で、魚を1匹丸ごと買う私は凄く目立つ。目立とうと思ってるわけじゃないけど、そうする人の絶対数が少ないから目立ってしまうのよね。そういう関係でこの魚売り場で頻繁に買うから、私は顔を覚えられている。勿論、私も店員さんの顔を覚えている。
 奥さん、って呼ばれるのは今に始まったことじゃない。今年の誕生日に祐司さんからプレゼントされたペアリングを左手薬指に填めて以来、私一人でも必ず「奥さん」って呼ばれる。

「こんにちは。」
「奥さん。何時も毎度。今日は何にします?」
「鍋物にしようと思ってるんです。」
「それなら今日はこれがお勧め。産地直送のタラ。この大きさで1匹200円ですよ。」

 あ、これは安いわね。これだけ大きいと2回分に分けることも出来る。捌いて切り身を冷凍しておけば天ぷらにも使えるから、2匹買おうかな。

「それじゃ、このタラを2匹ください。」
「はい!毎度あり!タラ2匹、少々お待ちくださいね。」

 店員さんはタラを2匹取って大きめのビニール袋に入れて口を括ると、紙で包んで輪ゴムで縛って一塊にしてくれる。そしてレジを操作して値段とバーコードが書かれたシールを貼り付けて、私の籠に入れてくれる。値段は・・・300円。25%割引ね。

「今日も勉強させてもらいましたよ。」
「ありがとうございます。」

 店員さんの小声に私は礼を言う。常連になるとこういう得がある。

「今日・・・、旦那さんは?」
「実家の都合でちょっと戻ってるんです。」
「そうですか。またよろしくお願いしますね。旦那さんにもよろしく。」
「はい。ありがとうございます。」

 私はもう一度礼を言って、魚売り場を後にする。
周囲の切り身を並べてあるコーナーに居る小母さん達や、子ども連れの女性の視線を感じる。魚丸ごと買って始末出来るのか、とでも思ってるのかしら。私は包丁を研ぐことから魚の捌き方までひととおりこなせる。私はそれが出来て当たり前だと思っていたけど、実は珍しい部類らしい。
 以前大学の講義で、魚は切り身でしか知らない子どもを水族館に連れて行くと、どうしてあんな格好で泳いでるのって聞かれる例がある、って聞いた。私が居る文学部は元々女性の比率が圧倒的に高い。それでもその講義で魚を捌けるか、という問いに手を挙げたのは私だけだった。講義の後、魚ってどうやって捌くの、とか、あんなのよく触れるわね、とか言われたっけ。
 ヒラメやカレイは流石に難しいけど、ハマチみたいな形状の魚なら、やり方さえ覚えれば、後は良く切れる包丁と新鮮な魚があれば綺麗に捌ける。包丁が切れないと捌く以前の問題だけど、魚が新鮮じゃないと皮を綺麗に剥けない。私がさっきの魚屋で一匹丸ごと買うのは、新鮮というのも理由の一つ。
 ・・・祐司さん、私が作った刺身を沢山食べてくれるのよね。刺身だけじゃなくて、私が作った料理を本当に美味しそうに食べてくれる・・・。実家じゃ刺身は切り身からだよ、って前に祐司さんが言ってた。今日実家に帰った祐司さんは、何を食べるのかな・・・。祐司さんと一緒に鍋物をつつく光景が頭に思い浮かんで来る。祐司さんが美味しい、って言いながら食べる様子が・・・。
 また溜息が出る。他に買うものがない私は、レジに向かう。レジでの順番は直ぐに回ってくる。買った量が少ないから、私の番も直ぐ済んでしまう。私はお金を払ってレジを抜けて、買ったものをレジ袋に仕舞うところに籠を持って行く。まず白菜を寝かして入れて、次に紙に包まれたタラ、最後にシメジを入れて口を閉じたレジ袋に葱を差し込む形で仕舞う。これで完了。籠を近くのキャスターが付いた枠に入れて、買ったものが入ったレジ袋をぶら下げて外に出る。
 後は自転車の籠に荷物を載せて家に帰る・・・だけ。帰っても祐司さんは居ない。私のためだけに作る食事、か・・・。
 今日何度目かの溜息が、一瞬白く浮かんで儚く消える。外でぼんやりしていても仕方ない。私は自転車置き場に向かい、自分の自転車の籠に荷物を入れて鍵を外して、来た道を引き返す。待つ人が居ない、私独りの家に向かっての道のりは、何時もよりずっと短く感じる・・・。
 帰って食材を収納したら、本当にすることがない。あえて言うならレポートくらいだけど、今からやらないと間に合わないっていうほどのものじゃない。下調べはしてあるから、本文の体裁を整えれば良い。
 まだ夕食には早い時間。寂しさを紛らわせるために、私はレポートを手がける。音がないと寂しいから、CDをコンポにセットする。祐司さんとの最初の買い物で買ったCD、「LIME PIE」。暖房が効いている部屋にゆるりと溶け込む程度の音量のBGMを聞きつつ、レポート用紙に向かう。
 まずは下書き。文章の体裁を形成しつつ、ここにこの資料の引用を入れようとか、この辺に図を入れようとか想定していく。祐司さんのレポートを見せてもらったことがあるけど、難しい公式がいっぱい並んでいて理解以前の問題だった。あんな難しいレポートを毎週幾つもこなしている祐司さんは、本当に凄いと思う。大学もきちんと通ってバイトも毎日こなして、自分のだけじゃなくて私の分のレパートリーの曲データを作ってくれている祐司さん。きちんと寝る時間があるのか、と度々心配に思う。土日の午前中寝てるから、って祐司さんは言っている。だけどそれだけじゃ足りないんじゃないかと思えてならない。
 私はそんな祐司さんの真面目さに甘えて、祐司さんの信頼を軽んじて、田畑先生との一件に祐司さんを巻き込んでしまった。その田畑先生には停職半年、減給1年の処分が下って停職中。祐司さんからプレゼントされたICレコーダーが決定的な証拠になった、と後に聞いた。
 文学部では、左手薬指に指輪を填めている私にちょっかいをかけたからこんなことになった、っていう説が定着している。そうとも言える。だけど、私が軽率な行動をしなければ祐司さんを苦しめることはなかった。それが一番申し訳なく思う。

 私はふと左手を見る。薬指で柔らかい光を放つ指輪。祐司さんからの大切なプレゼントの一つ。祐司さんからのプレゼントがペアリングだと分かった時、私は決めた。左手薬指に填めてもらおう、って。私の我が侭に、祐司さんは顔を真っ赤にしながら応えてくれた。祐司さんが私の手を取って指輪を填めてくれた時の感触と温もりは、今でも鮮明に思い出せる。
 指輪を填めてもらって以来、大学で声をかけられる回数は激減した。祐司さんが護ってくれているんだと思えて、毎日が弾む思い。同じ学科の娘(こ)からは、結婚したんだ、とか、旦那はどんな人か、とかことある毎に聞かれる。田畑先生との一件以降、更に増えた。私は、同じ大学の電子工学科に居る男性(ひと)で、凄く優しくて真面目な男性、と答えている。それがありのままの祐司さんの姿だから。写真を見せろ、とも言われるけど、写真は毎日会うから撮ってない、と答えている。写真が欲しくないわけじゃない。毎日会えるから、毎日の祐司さんを見られるから、それに満足してるだけ。
 今年のクリスマスプレゼントには、ペアのペンダントをもらった。祐司さん、ペンダントをつけてくれるのに苦心してたっけ・・・。指輪をもらっただけでも十分満足してたのに、シンプルで綺麗に包装されたプレゼントがペンダントだと分かったら、更に満足が欲しくなった。だから、祐司さんにはペンダントを着けてもらって、私は祐司さんにペンダントを着けた。祐司さん、着けるときも着けられる時も息を止めてたっけ・・・。
 その時の光景を思い出しているうちに何時の間にか浮かんでいた笑みが消えて、溜息が漏れる。私にこの世に一組しかない指輪とペンダントをくれた人は、今この家に居ない。この事実はどう足掻いても変えられない。私は視線をレポート用紙に戻して、止まっていた右手を再び動かす。レポートに集中して、少しでも寂しさを紛らわせないと・・・。

 レポートの体裁が整った時、机の隅に置いてある電話が鳴る。
もう祐司さん、実家に着いたのかしら?私はシャーペンを置いて受話器を取る。

「はい、井上です。」
「晶子?母さんよ。」

 ・・・お母さん・・・か。私は思わず溜息を吐く。期待しちゃったじゃない。期待したのは私だからお母さんに責任はないって分かってはいるけど・・・。

「どう?元気にしてる?」
「うん。元気よ。」
「大学はもう冬休みじゃないの?バイトは?」
「大学は冬休みよ。バイトも年末年始はお休み。今、レポートを書いてるの。」
「そう。」

 電話口に沈黙の雲が垂れ込める。
私からこれ以上言うことはない。祐司さんから電話がかかってくるかもしれないから、用がないならこれで切って欲しい。

「・・・ねえ、晶子。」
「何?」
「一度・・・帰って来てくれない?」
「馬鹿言わないで!!」

 私の心の奥底にあった爆薬庫が一気に炸裂する。怒声が口から迸る。

「約束した筈よ!!私は大学を卒業して結婚を決めるまで帰らない、って!!私が大学を入り直してこの町に暮らすこと。お金は出すけど口は出さない。
そう約束したじゃない!!なのに電話の度に帰って来い、ってどういうつもり?!私から何もかも奪っておいて、よくそんなことが言えるわね!!」
「あの時は・・・。」
「仕方なかった、とでも言いたいの?!世間体を優先して私から何もかも奪ったくせに!!私がどれだけ泣いたか、もう忘れたの?!」
「・・・。」
「そんなに私に帰って欲しいなら、あの時を返してよ!!私から奪った幸せを全部!!」
「・・・わ、悪かったわ。母さんが悪かった。許して・・・。」
「本当に悪かったと思ってるの?!思ってないから帰って来いなんて平気で言えるんじゃないの?!私の気持ちが分かってないからじゃないの?!」
「ほ、本当に悪かったと思ってるわよ。御免、晶子。もう帰って来いって言わないから・・・。」
「今度一回でも帰って来いって言ったら、もう電話のケーブル切るわよ!!」
「わ、分かったわ・・・。」
「分かったなら電話して来ないで!!」

 私は受話器を電話機に叩きつける。息が切れるのが分かる。
視界が・・・滲む・・・。もう・・・忘れたつもりだったのに・・・。今の幸せで・・・満足してたのに・・・。
胸の奥からふつふつと何かがこみ上げてくる。あの時と同じ、二度と感じたくないと思っているこの衝動・・・。駄目・・・。

もう・・・耐えられない・・・。

 ようやく涙が止まった。私は鼻を啜りながら顔を上げる。レポート用紙が涙でくしゃくしゃになってる・・・。
頬に感じる熱い雫を指で拭う。こういう時は祐司さんが居なくて良かったと思う。こんなところ、とても祐司さんに見せられない。見られたくない。
 以前お母さんからの電話で今日みたいな展開になった後、祐司さんは何も言わずに私を心行くまで泣かせてくれた。
話せるなら話して良い。だけどそれが辛いなら無理しなくて良い。祐司さんはそう言ってくれた。
私が隠している過去の一部を話した時も、祐司さんは尋問するようなことは決してしなかった。
そして・・・私を信じる、と言ってくれた。それだけで心が熱くなった。
半ば自棄になって目の前で裸になった私を、祐司さんは抱かなかった。優しく、真剣に諭してくれた。
祐司さんが私との幸せを本当に大切にしていて、その幸せと懸命に向き合っていることが分かった私は、一つの布団に入った時点で祐司さんに抱かれたかった。
だけど祐司さんは、今と私と真剣に向き合うために、せめて自分が20歳になるまで待って欲しい、と言った。
何て真面目な男性なんだろう。こんな男性に愛されている私は本当に幸せだ。心からそう思った。もっともっと祐司さんを愛するようになった。
 祐司さんには今年の祐司さんの20歳の誕生日に、手作りのケーキと共に私自身を差し出した。祐司さんは真剣に考え、悩んだ末に私を受け取ってくれた。
祐司さんが私の上で動いて、私が祐司さんの上で動いて、私と祐司さんは一緒に絶頂に達した。
初めてじゃない女と分かったら冷めるんじゃないか、という不安が僅かだけどあった。でも、祐司さんは自然に受け入れてくれた。
自分と付き合う前に真剣に結婚したい相手が居たならそうなってても不思議じゃない。自分もそうだから。祐司さんはそう言ってくれた。
初めて祐司さんの胸の中で迎えた朝は、とても爽やかで心地良くて・・・幸せだった。

 あの時流せるだけの涙は流したつもりだった。だけど、その傷跡に触れられると怒りが爆発して、その後心の炎を消すべく大雨が降る。今回も同じ。
前と今とでは決定的に違うことがある。それは、祐司さんがこの場に居ないこと。
 あの人にあまりにも似ていた祐司さんを追いかけることで、私は過去の傷を癒そうとしていた。寂しさを紛らわせようとしていた。
だけど、祐司さんと触れ合ううちに、私は大切なことに気付いた。一つはあの時の幸せはもう返って来ないこと。もう一つは、新しい幸せを見つけたこと。
幸せの度合いは天秤にかけるべきものじゃないってことも分かった。過去の思い出と今の幸せも天秤にかけるべきものじゃないってことも分かった。
分かっていたつもりでも・・・、まだ過去に未練を持っていると分かると自分が恥ずかしい。こんなところ、とても祐司さんに見せられない。
 祐司さんは過去の傷とそれを負わせた女性(ひと)と真剣に向き合い、きちんと清算した。
祐司さんの視線と心全てが私の方を向いているって分かってるのに、私は・・・今の今まで何をやってるんだろう?
自嘲の笑みがこぼれる。もっと女を磨かないと、祐司さんにそっぽ向かれちゃうわね。一番しっかりしないといけないのは、私よね・・・。

 夕食を済ませて後片付けをする。
捌いたタラは1匹の半身を今日の鍋物に使って、残りは半身ずつラップに包んで冷凍庫に入れた。
寒くなると魚介類が美味しくなる。祐司さんが居る時、鍋物をすれば良かったな・・・。
 水を止めて手を拭いて、リビングに戻る。そしてレポートに取り掛かる。
昼間泣いたせいで、下書きが出来ていたレポート用紙がくちゃくちゃになったから、もう一度最初から書き直し。これも自分への戒め。
・・・これで良し、っと。レポートはほぼ完成。図を描いたりするのは明日にしよう。そうじゃないと、独りの時間を持て余してしまうから。
 時計を見る。・・・あ、もう9時過ぎちゃってる。電話・・・して良いかな?祐司さんの実家に。
誰が出るんだろう?祐司さんかな?お父様やお母様だったらきちんと挨拶しないと、祐司さんに迷惑がかかるよね。
私は受話器を取ってダイアルする。・・・間違った。やり直し。・・・また間違った。やり直し。
祐司さんの実家に電話するのは今日が初めて。やっぱり緊張するなぁ・・・。メモと照らし合わせながら一つ一つダイアルする。・・・成功。
受話器からコール音が聞こえる。1回目、2回目、3回目・・・。あ、切れた。背筋が硬直する。

「はい。安藤でございます。」

 この声は祐司さんじゃない。お母様だ!き、きちんと挨拶しないと・・・。

「あ、安藤さんのお宅ですか?」
「はい。」
「夜分遅く申し訳ありません。はじめまして。私、井上晶子と申します。」

 自分の名前の部分は特にゆっくり、はっきり言った・・・つもり。電話での初対面だから尚のこと、まずしっかり名乗らないと怪しまれちゃう。

「井上さん?今、祐司と付き合ってるっていう井上さん?」
「はい。改めてご挨拶いたします。はじめまして。私、井上晶子と申します。」
「あらあら、ご丁寧に。こちらこそはじめまして。祐司の母でございます。」

 お母様の声が明るくなる。どうやら第一関門突破ね。き、緊張するなぁ・・・。

「祐司から話は聞いてますよ。あの子、今日帰って来たんですけど、良いセーターを着てて・・・。マフラーも貴方が編んでくれたんですってね。」
「はい。祐司さんには何時もお世話になっております。」

 祐司さん、約束どおり今私と付き合ってるってこと、話してくれたんだ・・・。普段人前に積極的に出さないからどうかな、って思ってたんだけど。

「わざわざすみませんね。あの子、服装にはてんで無頓着だから・・・。あ、御免なさいね。話し込んじゃって。私への電話じゃないのに。」
「いえ、とんでもございません。」
「祐司に代わりますね。」
「よろしくお願いします。」

 受話器の向こうから、お母様が祐司さんを呼ぶ声がする。祐司さんの家は2階建てで寝室とかは2階にあるそうだから、今2階に居るのかな・・・。
早い足音が近付いて来る。くぐもってるけど、電話の向こうのやり取りが聞こえる。胸が今まで以上に高鳴る。左手で押さえてないと心臓が飛び出そう。

「もしもし。祐司です。」

 聞きたかったこの声・・・。緊張で強張っていた顔が緩むのがはっきり分かる。

「祐司さん。こんばんは。約束どおり電話しました。」
「晶子から電話がかかって来るってことは、父さんと母さんに話してあるんだ。いきなり知らない相手から電話がかかって来て俺に代わってくれ、って
言われても怪しい電話と思いかねないし、晶子が説明するのも大変だろうと思ってさ。」
「ありがとうございます。祐司さんが無事に帰れて良かったです。今、何してたんですか?」
「弟の冬休みの宿題見てやってたんだ。今年俺が帰省するって知っててしっかり溜め込んでやがって・・・。晶子の方は?」
「私は買い物とレポートで1日が過ぎました。レポートがほぼ出来上がって時計を見たら約束の9時を少し過ぎちゃってたので、電話したんです。」
「レポートってあったのか?」
「ええ。大して難しくないですし、祐司さんが居る時は祐司さんとの時間を大切にしたかったから、祐司さんがこっちを出てからにしたんです。」
「そうか。」
「弟さんの宿題、見てあげてくださいね。頼りにされてるんですよ。」
「そうかな・・・。見てやってるって言うより、俺が代わりにやってるって感じだよ。」
「そんなことないですよ。今日はゆっくり休んでくださいね。」
「ああ。ありがとう。」
「長電話になると迷惑になりますから、今日はこの辺にしますね。あ、お母様に代わってもらえますか?挨拶しておきたいので・・・。」
「分かった。ちょっと待って。」

 電話の向こうでやり取りが聞こえる。わざわざ挨拶、ってお母様、驚いてるみたい。
でも、これから毎日この時間に電話するんだから、私からも一言言っておいた方が良いよね。こういう場合。

「もしもし。お電話代わりました。祐司の母でございます。」
「今日はありがとうございました。祐司さんから既に聞いてらっしゃるかもしれませんが、このくらいの時間にお電話させていただきますので、
夜分遅くに申し訳ありませんが、その際は祐司さんに取り次いでくださいますよう、よろしくお願いいたします。」
「ええ、ええ。勿論ですよ。わざわざご丁寧にどうも。祐司は終日家に居ますから、大丈夫ですよ。じゃあ、祐司に代わりますね。」
「はい。ありがとうございます。」

 お母様の声は明るい。どうにか好印象を持ってもらえたみたい。これで明日からも電話して大丈夫ね。

「もしもし。祐司です。俺からこの時間に晶子から電話がかかって来るって話してあるから、大丈夫なのに・・・。」
「お母様とは初対面が電話ですから、きちんと挨拶しておかないといけないと思って。」

 連れて来れば良かったのに、ってお母様の声が聞こえる。・・・祐司さんと一緒に行けば良かったかな、とちょっと後悔。

「俺は成人式と正月の親戚回り以外は外に出ないし、この時間は間違いなく居るから。」
「はい。・・・それじゃ、今日はこの辺にしますね。お休みなさい。」
「お休み。」

 私は気分2つ数えてからそっと受話器を置く。
本当はもっと祐司さんと話したい。でも、長電話になると印象が悪くなるし、祐司さんに迷惑がかかるから、それは絶対避けないといけない。
祐司さんと出会って以来、毎日1回は祐司さんの顔を見るのが普通だった。でも、普通が普通じゃなくなった今、普通の大切さを改めて痛感する。
成人式が終わるまで祐司さんは帰って来ない。早く・・・独りの時が過ぎて欲しい。今願うのはそれだけ・・・。
 お風呂から出てパジャマを着てリビングに戻った私はふと時計を見る。・・・11時か。まだ早いけど、寝る以外思いつかない。
今日の日記は書いた。寂しがって、怒って、泣いて、緊張して、楽しんで・・・、また寂しさに逆戻りしちゃったことをつらつらと綴った。
音がないとあまりにも寂しいから、とかけておいたCDは倉木麻衣さんの「FAIRY TALE」。私が好きなアルバムの一つ。
曲は「Can't forget your love」。・・・あ、この部分。昨日祐司さんが苦笑いしながら言った言葉が脳裏に浮かんで来る。

何だかこの部分、俺のこと言ってるみたいだな。

 祐司さんは最初はNOだった。でも、触れ合ううちにYESに代わった。代わってくれた。
私の押し付けがましい気持ちを受け入れてくれた祐司さん。真剣に今と私に向き合ってくれている祐司さん。
祐司さんとの触れ合いは、行き場を求めるばかりだった私の心を包んで温かくしてくれた。
 分かってるかしら?祐司さん。祐司さんが此処を出発する直前のキスは、「Can't forget your love」の歌詞になぞらえたものだってこと。
カーテンを開けて空を見る。深い藍色のキャンバスに星が煌いている。祐司さんもこの星空を見てるかしら?
祐司さんと私は同じ場所には居ない。でも、この星空の下に居ることは変わりない。
何時までも祐司さんとの愛が続きますように、と煌く星に祈りを捧げる。これも「Can't forget your love」になぞらえてのこと。
 「Can't forget your love」がフェードアウトしたところでCDを止めてコンポの電源を切る。部屋の電気を消すと静寂と暗闇だけになる。
私は布団に入って目を閉じる。祐司さんとの夢が見られると良いんだけど・・・。

お休みなさい、祐司さん・・・。

Fade out...