雨上がりの午後 Another Story Vol.1

Last Chapter 過ぎ行く師走の夜に

written by Moonstone


 私は安藤さんに食事に誘われ、駅の線路を挟んで向こう側へ足を踏み入れた。
この町に来て半年以上経つけど、此処へ来たのは初めて。初めて見る光景の連続に、私は思わず辺りをきょろきょろ見回してしまう。
対する安藤さんはと言うと、さして辺りを見回すこともなく、三作デモするかのようにゆったりとしたペースで歩いていく。
安藤さんはここに来るのは初めてじゃないのかしら?バイトでの夕食を除けば外食任せの安藤さんなら、それも十分考えられる。
 暫く道に沿って真っ直ぐ歩いたところで、安藤さんの足が止まる。
居酒屋さんや飲み屋さんが軒を連ねる通りの一角に、壁に「香蘭」と書かれた中華料理屋さんのお店がある。
見た目はかなり年期の入ったこじんまりとした感じで、如何にも此処に店を出して久しいといった感じ。
安藤さんは私にこの店で良いか、と尋ねてきたので、私は即答した。

「安藤さんが誘ってくれたんですから、安藤さんの判断にお任せします。」

 安藤さんが選んだお店が高級料理店じゃなくて安心した。
何分高級なお店はテーブルマナーとかで味わうどころじゃないから、こういう所謂庶民的なところなら安心して食べられる。
安藤さんと私は一緒にそのお店に入る。いらっしゃい、という声が厨房から聞こえて来る。
 私は安藤さんに先導される形で、2つの椅子が向かい合う小さめのテーブルに向かう。
席に着いたところで、安藤さんは早速テーブルの端に立てかけてあったメニューをテーブルに広げて私の方へ向ける。
安藤さんが誘ってくれた以上は安藤さんに一任したい、と言うと、安藤さんは程なく水とお絞りを持ってやって来た小母さんに、
ほぼ即刻で2人用のコースメニューを注文した。
安藤さんって、かなり決断が早いと言うか、注文するのに何の躊躇もない。やっぱり外食に慣れてるだけのことはあるな。
 お店には安藤さんと私以外にお客さんは居ない。夕食時にはちょっと早いせいもあるんだろう。
肝心の味の方は・・・安藤さんを信用するしかない。逃げ口上かもしれないけど、誘ってくれたのは安藤さんだし、その味覚が頼り。
厨房から調理する音が絶え間なく聞こえて来る中、私は身を乗り出して話を切り出す。

「どんなところに連れてってくれるのかな、って実は期待してたんですよ。」

 厨房の方を眺めていた安藤さんは、私の方を向く。

「でも、高いところじゃなくて良かったです。」
「?」
「私、そういうお店に今まで縁がなかったから、テーブルマナーとかよく分からないんですよ。」
「あ、そうなのか・・・。」
「この席で言うべきじゃないとは思うんですけど・・・一昨日伊東さんが食事に連れて行ってくれた時、物凄く高そうなお店だったんで
緊張しちゃって味が分からなかったんですよ。それでちょっと私と住んでる世界が違うな、って思ったんです。」

 安藤さんは成る程、といった表情で何度か小さく頷きながら私の話を聞いて、私が話し終えたところで言葉を返す。

「智一にはそれが普通だ。あいつの家は裕福だから。」
「だから今日ももしそういう店だったらどうしようかなって思ったんですけど、こういう普段着で来れるようなお店だったから安心しました。」
「俺も高級料理には無縁の人間だしな。こういう店じゃないと入り辛い。」
「やっぱり同じ世界に住んでる人だと良いですね。」

 思わず念押しするみたいな感じで言ってしまう。ちょっと押し付けがましかったかな・・・。
安藤さんはやっぱり呆れたのか、溜息混じりに答える。

「まあ・・・確かにな。」

 でも、同意見が得られたのは嬉しい。私はテーブルに両肘を立てて両手を組んだところに顎を乗せて微笑む。
安藤さんは穏やかな表情で私を見る。こうして気軽に向き合えてお喋り出来るなんて・・・。
あの時もっと素直になってれば、余計なトラブルを巻き起こさなくて済んだのに。それが悔やまれてならない。
でも、紆余曲折はあったけど、今こうして安藤さんと二人きりで向き合える時間が持てて良かった、と改めて思う。
そう思うと、あの夜の口論が自分の気持ちに素直になれるきっかけになったようで、ちょっと複雑な気分・・・。

 暫くして、スープを筆頭に断続的に料理が運ばれてきた。
鶏がらをベースにしているらしいスープを一口啜ったところで、このお店の料理は美味しい、と直感する。
大皿に盛り付けられた料理を二人で分け合って食べ進めていくと、料理の美味しさがより一層はっきりしてくる。
気軽に食べられて尚且つ美味しいと来れば、これ以上のことはない。

「美味しいですね、ここの料理。」
「ああ、本当に美味いな。」

 ・・・え?安藤さん、もしかしてこのお店に来るのは初めてだとか?
よくよく考えてみれば、安藤さんの家の近くにはコンビニがあるから食事は底のお弁当なんかで済ませてる可能性が高い。
そもそもバイト代が生活費に直結するという苦学の身の安藤さんが、彼方此方出歩いて自炊やコンビニの食事より高くつく外食に手を出すとは考え辛い。
でも結果的に美味しい料理が食べられたことだし、何より変な気を使わず気軽に、そして安藤さんと一緒に食事が出来るんだから結果オーライよね。
 安藤さんと音楽の話をしながら食事を進めていく。
濃厚だけど後を引き摺らない、そんな料理の数々がテーブルに所狭しと並ぶ。
安藤さんと私は思い思いの料理を取り皿に取って口に運ぶ。そして談笑する。
気取らない、そして意外にと言っちゃ失礼だけど気さくで笑顔が優しい安藤さんを見れて嬉しい。
今までぶっきらぼうなところが目立った安藤さんだけど、それはただ失恋のショックで女性一般に不信感を抱いていたせいであって
−そんな中でも潤子さんを意識してるのは癪だけど−、私に音楽の「先生」としてどう接したら良いか模索していたんだろう。
辛い精神状態の中でも、厳しかったけど邪険に振舞うことは決してなかった安藤さんは、本当に精神的に強いと思う。それが余計に痛々しい。
こんな良い人を袖にするなんて、彼女だった女性(ひと)も見る目がないと言うか・・・。どういう理由で安藤さんをふったのか理解出来ない。
まあ、自分の思いどおりに動いてくれないことで腹を立てて、自棄になって他の男の人と、あろうことか想い人の友人とデートした私が
偉そうに言えたもんじゃないんだけどね・・・。
 安藤さんには少しでも早く失恋の痛手から立ち直って欲しい。願わくば私が安藤さんの心の支えになりたい。
勿論未来を選択するのは安藤さんだし、私が無理強いする権利はないことは今回のことで充分思い知らされた。
それに、何の気兼ねもなしに向き合えて話が出来る今の関係が心地良いし、それを恋愛関係の成否如何で崩したくない。
でも、安藤さんとの関係を深めたい、強めたいという気持ちがあるのは事実。

このままで居たい。でも、今以上になりたい・・・。

 安藤さんは私の告白に、何れ返事はする、と言った。
それが何時になるかは分からない。それで安藤さんとの今の関係が崩れてしまうものなら聞きたくない。
身勝手極まりないけど・・・今の関係が安藤さんの心を癒して、それがごく自然に発展していくのが一番良いのかも・・・。

 料理を全て食べ終わり、一息入れたところで安藤さんと私は席を立つ。
入った頃には他に誰も居なかった店内は、徐々にスーツ姿の会社員らしい人たちで賑わい始めてきた。
その人達の視線を感じた私は、安藤さんのコートの袖を掴む。こうしてないと不安でならないから。
安藤さんは幸にも私の手を跳ね除けることなく、会計を済ませて店を出て行く。私は安藤さんのコートの袖を掴んだまま安藤さんに続いて店を出る。

「今日はご馳走様でした。」

 店を出たところで安藤さんにお礼を言う。
誘ったのは安藤さんだけど、ご馳走になったのは事実。きちんとお礼を言わないとね・・・。

「いや、良いよ。今日は俺が看病の礼に誘ったんだから。」
「でも、ご馳走になったのは変わりないですよ。」

 安藤さんが急に神妙な面持ちになる。どうしたんだろう・・・?何だか急に不安の渦が私の心に生じ始める。

「・・・今までありがとう。」
「え・・・?」
「毎回練習の度に料理食わせてもらったのに、一度も礼を言ってなかったから・・・。」
「ああ・・・、それなら良いんですよ。何時も丁寧に教えてもらってるんですから。それより、さっきのはちょっとびっくりしました。」
「?」
「今まで、って何だか今生の別れみたいで・・・。」

 良かった・・・。これで終わりじゃなくて・・・。でも「今まで」っていう言葉が妙に心に残響を残す。
これで終わりじゃないって分かったのに、不安の渦は小さくはなったけど完全には消えない。
そう思っていたところで、安藤さんが少し慌てた様子で言う。

「あ、そんな意味じゃない。今まで言ってなかった分の礼を言おうと思っただけだから。」
「・・・じゃあ、これでお別れじゃないんですね。」
「そんなつもりは・・・ない。」

 最後の強い口調の一言が、私の心に渦巻いていた不安を完全に打ち消す。安藤さんも私と同じ気持ちだったんだと分かってほっとする。
これでお別れなんて・・・辛過ぎて耐えられない。そうならなくて本当に良かった・・・。
言葉って本当に怖い。ちょっとした受け止め方の違いで心に不安の渦を作り出したりするんだから。
私もこれからは言葉を選んで喋らないと駄目ね。思わせぶりなことを言って安藤さんを怒らせたっていう苦い経験もあるし・・・。
 安藤さんと私は並んで夜道を歩いていく。賑やかさを増してきた「向こう側」とは正反対で、「こちら側」は夜の平穏な住宅街そのもの。
お店を出て以来、安藤さんと私は急に口数が少なくなる。・・・何でだろう?
このまま歩いていったら、やがては安藤さんの家に着く。安藤さんが回復した以上、私は荷物を持って「撤収」するのが筋というもの。
遊びに来てたわけじゃなくて看病に来てたんだから当然のこと。でも・・・その時が迫って来るのが嫌でたまらない。
私はふとあるものの存在を思い出して、思い切って尋ねてみる。

「本屋・・・寄っていきませんか?」

 安藤さんは少し驚いた様子で私の顔を見る。いきなりだから無理もないわよね。
私は安藤さんの顔を見ながら、本屋に行きましょうよ、と懸命に念じる。
少しして、安藤さんが口を開く。

「・・・行くか。」
「ええ。」

 思いが通じたかどうかは分からないけど、結果的にOKしてくれたことは嬉しいことに違いない。
私は顔が綻ぶのを感じながら小さく頷く。これで安藤さんと一緒に居られる時間が延びた・・・。

 本屋さんは相変わらず賑わっている。むしろ夜の方が賑わっていると言って良いかもしれない。
他のお客さんは男の人一人というのが殆どで、安藤さんと私のように男女ペアというお客さんは他に見当たらない。
 適当に店内をぶらついている時にふと安藤さんを見ると、何だか落ち着かない様子で視線を彼方此方に向けている。
誰か知り合いの人と出くわすんじゃないかって不安がってるとか?
バイト仲間だって答えても、はいそうですか、で済むとは思えないし・・・。聞いてみるかな。

「?どうしたんですか?」
「いや、ちょっとな・・・。」

 安藤さんは言葉を濁す。やっぱり知り合いの人に出くわすのが不安なのかな?
それとも・・・今こうやって自分のコートの袖を掴まれているのが嫌なのかな?嫌なら勿論離すけど・・・何だか淋しいな・・・。

「安藤さんはこういうの、あんまり好きじゃないんですか?」
「こういうのって・・・?」
「今、私がやってるようなこと。」
「・・・慣れてないんだ。あんまり・・・やったことない。」
「前の彼女とも?」
「・・・人前であんまりくっつく方じゃなかった。学校だと何かとからかわれるし。」
「嫌じゃないんですね?」
「それは・・・ない。」

 良かった・・・。それじゃこのままくっついてても大丈夫ね。
でも、コートの袖を掴まれるのが嫌じゃなかったら、安藤さんは何を警戒してるんだろう?
・・・止めとこう。余計な詮索をするのは。折角安藤さんと一緒に居られるんだから、今を大切にしないと・・・。

「井上は・・・気にならないのか?」
「何がですか?」
「・・・前に俺が付き合ってた相手のこと・・・。」

 安藤さんが意外なことを尋ねてくる。安藤さんの口から前の彼女のことが出てくるなんて思わなかった。
詳しくは知らないけど、看病初日の夜の話から察するに決して双方納得の上で、というわけじゃなかったみたいだし。
でも、安藤さんが付き合っていた女性(ひと)がどんな人だったのか気になるのは否定出来ない。この際、言えることは言った方が良いだろう。

「・・・ええ、安藤さんが好きだった女性がどんな女性だったとか、どんな付き合いをしてたのかとか、やっぱり・・・気にはなります。」
「・・・。」
「・・・こういうことは誰かに聞いてもらった方が良いと思うんです。少しは楽になれるかも知れませんから・・・。」

 そう言ってから何を偉そうに、と思う。私自身、人にアドバイス出来るほど立派な別れ方なんて経験してないのに。

「・・・なんて言って、でしゃばりですよね、私。」
「いや、良いよ。今は聞かれてもそれ程嫌じゃないし、それに・・・隠してばかりだとあの女に何時までも拘ってるようで、自分でも嫌だし。」
「・・・。」
「ただ・・・納得行かないっていうか・・・どうして他の男に乗り換えたのか聞きたい気持ちはある。そうしないと・・・気が済まない・・・。」

 それはそうだと思う。看病初日の夜の話を踏まえて推測すると、安藤さんが一方的にある日突然さようなら、って言われたんだと思う。
それじゃ今までのは何だったんだ、何で突然そうなるんだ、って戸惑って仕舞うのも無理はないと思う。納得いかなくて当然だと思う。でも・・・。

「・・・ふられた方は納得なんてできないですよ。どれだけ理由を話されても・・・。」
「・・・そうかも知れないな。」

 安藤さんは淋しげな、辛そうな横顔で言う。表には出さないけどやっぱり思い出したくない別れ方だったんだろう。
それが一日でも、一秒でも早くほろ苦い思い出に変わってくれることを祈るしかない自分が口惜しい。
 同時にこうも思う。安藤さんは・・・あの女性、確か優子とか言ってたっけ、その女性とよりを戻したいんだろうか、って。
私が居るから綺麗さっぱり忘れて、なんて言える立場じゃないことは分かってるつもり。
でも、私より優子って女性の方が心の大きな部分を占めてるとしたら・・・ちょっと悔しいし、悲しい。私がその女性に及ばないっていうことと等価だから。

「安藤さんは・・・優子って女性とやり直したいんですか?」
「もうよりが戻るなんて思ってないし、戻したいとも思ってない。ただ、納得行かないだけ・・・。」

 そうか・・・。納得出来ないだけなのか・・・。それを聞いて不謹慎だけど安心する私。
ふられて納得出来ないのは当たり前だと思う。特に一方的にさよならを言われたなら尚更。
でも、相手からどんなに合理的な理由を話されても、ふられた方にはどうしても、何で自分をふったんだ、っていう気持ちが残ると思う。
それが何時までもわだかまりになって後々まで影響するなら、その人にとって損でしかない。
 新しい方向を向くには時間はかかると思う。だから安藤さんは私の告白に即答せずに、何れ返事をする、って言ったんだと思う。
今の私に出来ることは安藤さんの返事を待つこと。そして安藤さんの傍に居ること。
そして・・・安藤さんと一緒に居られる時間を大切にすること。これは今でも出来る。その時間を少しでも長く持ちたい。これは私の願い。

もし私が今夜も一緒に居たいと言ったら、安藤さんはそれを許してくれるんだろうか?

 店内を歩き回るうちに、二人揃って結構な数の本や雑誌を手に取っていた。
私はハードカバーの小説や料理の本−もっとレパートリーを増やしたいから−とごった煮的だけど、安藤さんは音楽関連の雑誌のみ。
安藤さんはギターが専門なのに、ギター関連の雑誌だけじゃなくてキーボードやドラム関連の雑誌を持っている。
私には良く分からないけど、アレンジする時にはギターだけじゃなくて色んな楽器の特徴を知ってないといけないんだろう。
本当に真面目な人ね。こんな真面目な人だから、その人への真摯な気持ちをへし折られてささくれ立ってしまったんだろう。
 私は手に取った本を脇に抱えては安藤さんのコートの袖を掴み直すことを繰り返してきた。
今までだったら馴れ馴れしい、と跳ね除けられただろうし、さっきも嫌じゃないって言ったから、人目を気にせずにこうしている。
安藤さんをあれだけ苦しめた高熱もすっかり下がったし、食欲の方も今日の夕食の食べっぷりを見れば問題ないことは明らか。
だからもう私はお役御免。安藤さんの家に立ち寄って荷物を纏めて帰るのみ。
もっとも練習は何時もどおりするってことになってるから、安藤さんは一緒に私の家に着てくれるだろう。そして練習が済んだら安藤さんは帰っていく・・・。

安藤さんが念のためもう一晩泊まっていってくれって言ったら、私は何て答えるだろう?

拒否する気は微塵もない。嬉しさいっぱいで首を縦に振ると思う。
そうなったら・・・安藤さんとの間に何も起こらないとは限らないんじゃ・・・。

何れ返事をする、って言った安藤さんは真面目な人だから、引き止めたのを良いことに、なんてことはしないだろうけど・・・
それが全くあり得ないとは言えない。安藤さんも健康な男の人。何かの衝動で私を求めてくるかもしれない・・・。

そうなったら、私はどうするんだろう?

「安藤さん・・・。」

 めっきり口数が少なくなった安藤さんにそれとなく尋ねてみることにする。
安藤さんが私の方を向く。その目は何となく、私の出方を窺っているように見える。
安藤さんももしかしたら、私がもう一晩念のために、とか言い出すんじゃないかと思ってるのかしら?

「体の具合、どうですか?」
「あ、ああ、もう何ともない。」
「そうですか・・・。」

 安心して微笑む私と同時に、安藤さんの家に泊まりこむ口実が安藤さんの側にないことを知ってがっかりする私が居る。
私の方から念のために、と言い出しても、安藤さんはもう大丈夫だから、と言って「辞退」するだろう。
やっぱり、この本屋さんを出たら安藤さんと一緒に居られる時間は、安藤さんの家への道のりと私が荷物を纏める時間−これは殆どないに等しい−、
それに私の家への道程と練習の時間だけ。殆ど何時もの月曜日と変わらない。
未練たらたらなのは自分でも嫌だけど、何時もの安藤さんと私に戻るしかないのかな・・・。

 広い店内をほぼ一回りしたところで、安藤さんと私はレジへ向かう。
カウンターにどさどさと本や雑誌を積み重ねると、店員さんは少々驚いたような顔をしてからレジ打ちを始める。
私は財布を取り出すために安藤さんのコートの袖から手を離す。
自分の分のお金を出すためにはそうしなきゃ駄目なんだけど、名残惜しくてならない。

「これ、私の分です。」

 私は千円冊3枚を財布から取り出して安藤さんに差し出す。

「これで足りる筈ですけど、足りなかったら直ぐに出しますね。」
「良いのか?」
「もうお礼は十分して貰いましたから。」
「・・・じゃあ。」

 安藤さんは私が何も言わなかったら、お礼の延長線上として私の分まで支払ってくれただろう。
根が真面目な安藤さんだけに、そうしても全然不思議じゃない。
私の拙い看病のお礼は夕食で充分過ぎるくらいしてもらったから、区切りはしっかりつけないといけない。
 安藤さんは千円札を2枚取り出して私の差し出した千円札と合わせる。
レジ打ちが終了して表示された金額は4258円。夕食の時に5000円も払ってもらったから、これまで安藤さん一人で支払うのは生活に響くだろう。
やっぱり早めに自分の分のお金を出して正解だったと実感する。

 本屋さんを出ると、鋭利な冷気が私の頬に突き刺さってくる。
安藤さんと出会った時はまだ朝晩ちょっと冷えるかな、って程度だったのに、季節が過ぎ行くのは本当に早い。
私は温度差の激しさに耐えられず、無意識に安藤さんのコートの袖を掴んで身体を寄せる。
 安藤さんは店を出て少し歩いたところで立ち止まってしまう。どうしたんだろう?
何か考え事をしているような感じ・・・。もしかしたらこれからの行動をどうしようかと考えているとか?
・・・って、それは私の希望的観測よね・・・。相変わらず自分本位な私。こんなことだから余計なトラブルを引き起こすって分かってる筈なのに・・・。

「もし・・・安藤さんがまだ具合良くないなら、もう一晩泊まって看病しようかな、って思ってたんですけど・・・大丈夫なら、もう良いですね。」

 私の口から本音がぽろぽろ零れだす。
もっと安藤さんと一緒に居たい。でもそれが叶わぬことだと分かった今、自分に言い聞かせる為に出た言葉なのかもしれない。
その証拠に私は安藤さんの顔を見て言っていない。言葉そのものも明瞭じゃない。
何処までも未練たらたらな自分が情けない。でも、安藤さんと一緒に居たいという気持ちはどうしても抑えることが出来ない。

「・・・俺は・・・井上に居て欲しいと思ってる・・・。」

 安藤さんの口から思わぬ言葉が飛び出す。私は思わず安藤さんを見る。
安藤さんは私の方を見ていない。さっきの私と同じで、自分の本音を口にしているだけなんだろう。
でも、安藤さんの口から私に居て欲しいという言葉が出てきたことで、私の中で一時は消えかけた期待が急激に膨らんでくる。

「安藤さん・・・。」
「ただ・・・そうすると、際限がなくなりそうな気がする・・・。もう俺は病人じゃないから・・・その・・・そういうことはないって断言できない。」
「・・・私は・・・。」
「別に汚らしいこととか言うつもりはない。でもそれじゃ、何のために気持ちを纏めて何時かは返事をするって言って、井上を待たせてるのか分からない・・・。」
「・・・。」
「そのことのために好きだなんて言葉を使いたくないんだ、俺は・・・。」

 安藤さんの言葉が胸を打つ。安藤さんは自分の欲望と−こう言うのは生々しいけど−葛藤してたんだ。
安藤さんにとって「好きだ」と口にすることは、とてつもなく重いものなんだと今更ながら思い知る。
私も「好きだ」って言葉は軽軽しく言いたくない。
安藤さんに言った時もその場で拒否されるかもしれない、という恐怖を乗り越えて喉を振り絞った記憶が今尚鮮明に脳裏に焼き付いている。
安藤さんも同じくらい、ううん、それ以上に様々なハードルを乗り越えて言うものだと思ってるんだと思う。
 安藤さんは自分が前に言った言葉と今の自分との間に整合性を持たせようと、必死に心の内で格闘してたんだと知って、嬉しさと同時に感動すら感じる。
自分が以前言ったことは知らぬ存ぜぬでも構わない、っていう風潮の今、こんなに自分の言った言葉に忠実で居ようとするなんて・・・。
私が感動に浸っている中、安藤さんは言葉を続ける。

「少なくともこれだけは分かって欲しい。嫌いだからとか、居て欲しくないからとか、そういう気持ちじゃないってことだけは・・・。」

 安藤さんの言葉が痛いほど胸に響く。そんなに真剣に考えていてくれたのなら、私は何の不満もない。これを不満に思うなんて贅沢我が侭極まりない。

「そういう気持ちで言ってくれるなら・・・嬉しいです。」

 私は万感の思いを込めて言う。顔から嬉しさと感動が噴出していくのを感じる。

「やっぱり安藤さんって真面目なんですね。」
「こういうの・・・真面目って言うのか?」
「だって、自分の気持ちがどうかってことをあんなに考えてるじゃないですか。凄く真面目って証拠ですよ。」
「・・・そうかな?」
「ええ。」

 そうですよ、安藤さん。もっと自分に自信を持っても良いくらいですよ。
私はそんな真面目な安藤さんにちょっと悪戯してみたくなる。

「今日のところは帰りますね。」
「・・・今日のところは、って・・・。」
「何か考えてます?」
「そ、それは井上の方だろ。」

 ちょっと動揺している安藤さんに、私は少し腰を屈めて上目遣いに微笑んでみせる。
そしてこの隙にとばかりに、安藤さんの腕に自分の腕を絡めてより密着する。こうすると・・・安藤さんの腕に私の胸の感触が伝わってるかな?
ちょっと飛び石的な感がしないでもないけど、安藤さんの心で私が占める部分を大きくするにはもってこいかな、なんて思ったりする。
戸惑ったような、照れているような顔の安藤さんに、心の中を探る言葉を投げかける。

「もう一歩ですね?」
「・・・多分。」

 安藤さんは短く、戸惑い気味に答える。
今私がこうして腕を絡めていることが不意打ちだったから、そっちの方に意識が向いているのかもしれない。
こういうことに慣れてない、とか安藤さんは言ってたから、やっぱり新鮮な−変な言い方だけど−ことに意識が向くんだろうな。
安藤さんだって健康な男の人なんだから、自分にない異性独特の感触を感じてそれを意識してしまうのは当然と言えば当然よね。
何だか安藤さんをからかってるみたいな気もするけど、今日くらいはこういうのも良いわよね。
 安藤さんが何れ私の告白に対する返事をすることで、返事の内容を問わず今のこういう心地良い関係が壊れてしまうかもしれない。
でも、そうなるかもしれないということを承知の上で、抱えきれなくなった自分の気持ちを口にしたのは他ならぬ私自身なんだから、
安藤さんの返事は正面から受け止めなきゃいけない。
今の関係を発展的に解消してより密接なものに再構成するか、それとも近くて遠い関係にするかは、安藤さんの気持ち一つにかかっている。
真面目な安藤さんには重いことだと思うけど、あの時言ったとおり、私は待てるだけ待ちます。それで・・・良いですよね?
 師走の夜の町は疾走する車も殆どなく静まり返っている。
家々の明かりが装飾する漆黒の闇に、安藤さんと私の吐息が白く舞い上がってゆっくりと溶け込んでいく。
これからの安藤さんと私がどうなっていくのかは、誰にも分からないだろう。分からないから未来、即ち未だ来ないことって言うんだと思う。
 私が告白をしてまだ間もない。でもその間にいろいろなことがあった。
変な意地を張ったり、人も自分も偽ったり、好きな人の傍に居たり・・・。
それらもまた、この町に来て安藤さんと出会ったからこそ生じた出来事だと思う。

安藤さん、返事、待ってますからね・・・。


「雨上がりの午後」Another Story Vol.1 Fin

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