雨上がりの午後 Another Story Vol.1

Chapter9 驚きと漠然たる幸せの朝

written by Moonstone


 ・・・目の前が白色を帯びている。目覚める時が来たのね・・・。
私は身体の自然な動きに任せて、目の前に目覚めた場所の光景が現れるのを待つ。
・・・安藤さん・・・?ああ、そうだ。私は安藤さんのベッドにお邪魔して寝ることにしたんだっけ・・・。
安藤さんが私を見詰めてる。その顔は何時になく穏やか。私の寝顔を観察してたのかな・・・。まあ、それはそれで良いんだけど、ちょっと恥ずかしいな・・・。

「ん・・・あ、安藤さん・・・。起きてたんですか?」
「ついさっき、な。」

 看病する方が看病される方より後で目覚めるなんて、看病する立場としてなってないわね、私・・・。
って自分を叱責するのは後でも出来る。まずどうして私が安藤さんの隣で寝てるのか、その経緯を説明しないと・・・。

「昨日、安藤さんが寝た後お風呂借りたんですよ・・・。先に断っておくべきだったんですけど・・・。」
「良いさ、それくらいのこと・・・。でも、何でベッドに・・・?」
「今時期湯冷めし易いですし、お風呂の後で眠くなってきて・・・。」

 最初の方は本当だけど、後の方はちょっと脚色を入れておく。本当は最初から安藤さんの隣で寝るつもりだった、なんて言ったら、
安藤さんがどんな顔をするか分からない。気安く男の横で寝られる女だ何て思われたくないし。
そう言わなくても、安藤さんの表情には疑問の念が滲み出ている。そりゃそうよね。目が覚めて隣を見たら私が寝てたんだもの。

「俺がその・・・何かするとか、考えなかったのか・・・?」

 そんなこと微塵も思わなかった。私はただ安藤さんと一緒に寝たかっただけだから。それに・・・。

「全然・・・。だって、そんなことする人じゃないって信じてますから・・・。」

 安藤さんは腑に落ちないと言いたげだ。
そう思っても無理はない。幾ら病人だからって絶対の信用をもって男の人のベッドに潜り込んで寝るなんて思いもしないだろうし。
でも、私は安藤さんが夜中に目を覚まして、隣で私が無防備に寝ているのを見てそれを良いことに襲ってくるなんて考えもしなかった。
安藤さんは真面目な人だし、それに・・・失礼な言い方だけど、失恋して間もない安藤さんが私を抱こうという気にはならないと思う。
女性に不信感を持っている安藤さんにしてみれば、私は人間ではあっても女とは見えないと思う。
ちょっと寂しいけど−不謹慎な物言いだけど−、そういう気持ちになることは理解出来るつもり。私も同じような体験をした身だから。

「どうしたんですか?」
「ん・・・信じるってことが最近なかったな、って思って。」
「信じるには、相手がそれだけのものを持ってないと駄目ですからね。」
「俺の場合は・・・信用できないって決め付けてただけさ。」

 信用出来なくても仕方がない。ある日いきなり心底好きだった人から別れ話を切り出されて、残酷にもふられたんだから。
その相手と同じ「女」という存在やその言動を信じられないし、そう決め付けるのは仕方ないことだと思う。
安藤さんが前の彼女とどういう別れ方をしたのかは知らないけど−そんなこと話したくないだろうし−、私は安藤さんに信用されてなくても仕方ない人間。
自分の思いどおりにことが進まないのを安藤さんの理解不足だと一方的に決め付けて、伊東さんとのデートを承諾したのに、途中で心配だから、と言って
これまた一方的にデートを打ち切るような女、ううん、人間を信用しろ、って言う方が無茶だと思う。

「俺は・・・信用できるのか?」
「出来ますし、してますよ。」
「何で・・・?」
「好きだから、じゃ答えになりませんか?」
「・・・。」
「私、好きになった人はとことん信用したいんです。そうじゃないと・・・自分が辛いから・・・。」
「・・・。」

 疑うことは一見楽だけど、常に恐怖を抱いていなきゃいけないから実際は辛い。それより裏切られる可能性を承知の上で信じる方が楽だと思う。
それにそういう気持ちは態度にも表れることだし、相手にしてみれば疑われてる、と思うのは不愉快ではあっても決して良い気分にはなれない筈。
だから私は好きになった人はとことん信用したい。譬えその気持ちが届かなくても良い。自分は信用されている、と思ってもらう方が楽に決まってるから。
 それは兎も角、肝心の安藤さんの容態はどうなんだろう?
昨日の夜、熱冷ましを飲んでもらったし−正確には飲ませたんだけど−、食欲も出ていたから多分もう大丈夫だとは思う。顔色も良いし。
でも、自分で確かめないと確証にはならない。こういう場合は僅かの可能性でも疑った方が良い。
 私はまだ眠気の残骸がある目を擦って身体を起こして、左手を安藤さんの後頭部に回して額と額を合わせる。
安藤さんが呼吸を止める。私が鬱陶しく感じると思ったのかしら?気にしなくて良いのに・・・。やっぱり安藤さんって神経の細かい人ね。
で、熱の方は・・・。うん、すっかり下がってる。良かった・・・。これでひと安心ね。

「熱、下がりましたね。」
「・・・。」
「昨日の夜、念のために熱冷まし飲んでもらったんですけど、もしかしたら必要なかったかも・・・。」

 私が額を離すにつれて、安藤さんの表情が疑問一色に染まっていく。
そりゃそうよね。安藤さんには昨日の夜に熱冷ましを飲んだ記憶はないんだから。

「熱冷ましって・・・昨日の夜、何時飲んだ?」
「安藤さんが寝た後ですよ。」
「・・・寝た後って・・・。」
「言ったとおりの意味ですよ。」

 含みを持たせた言い方をする。ちょっと悪戯が過ぎたかしら?
私がしてやったり、という笑みを浮かべると、安藤さんの顔が徐々に驚きで強張っていく。どういう意味か分かったみたいね。

「く、口移しで飲ませたんじゃないよな?!」
「え?そうして欲しかったんですか?」
「そ、そうじゃなくて・・・そうしたかどうかって聞いてるんだよ!」
「・・・さあ。」
「さ、さあ、って・・・!」
「朝御飯作りますね。」

 私は安藤さんの追及をはぐらかしてベッドから出て、椅子の背凭れにかけておいたコートを羽織ってキッチンへ向かう。
安藤さんが寝てる間に私が口移しで飲ませたってことは、私だけの秘密。
一つくらい自分だけの秘密を持ってても良いわよね?悪いことをしたわけじゃないし。
まあ、安藤さんの唇を盗んだのは悪いことと言われればそうかもしれないけど、それくらいは悪戯の部類に含めても良いわよね?
 私は笑みが浮かぶのを堪えながら、朝食の準備を始める。
まずはお米を砥いで、御飯を炊いている時間で味噌汁とおかずを作る段取りで良いわね。おかずは・・・目玉焼きだけで良いかな?
本当はもっと豪華にした方が栄養を摂るためにも良いのかもしれないけど、安藤さんは病み上がりだからそんなに多く食べられないと思う。
と、そういえば・・・味噌と出汁の素と卵なんてあったかしら?
・・・私が昨日コンビニへ買いに言ったのはお米と梅干だけ・・・。うう、どうしよう・・・。急いで着替えてコンビニへ買いに行こうかしら?
 念のため、というか期待を込めて一昨日の夜にマスターと潤子さんから貰った食料を探ってみる。
・・・あった!新聞紙に包まれた卵と−冷蔵庫に仕舞った時に中身を確かめなかったわね−味噌のパック。
あとは出汁の素なんだけど・・・これはキッチンに隣接する戸棚の中身に期待するしかない。
殆ど使われた形跡のない戸棚を探っていく。食器を退けたり引出しを開けたりしてみると・・・あった!未開封の小さい缶の出汁の素。
きっと此処に引っ越してきた時、ご両親が自炊のためにとひととおり揃えておいたのね。でも開封してないってことは無駄に終わったみたい。
あ、でも未開封だから下手に使ったまま放置されているより水分を吸ってくっついたりしないし、品質が劣化することもないからむしろ好都合か。
あと、味噌汁の具に乾燥ワカメでもあれば・・・って、これもあった。未開封で。
 材料も揃ったことだし、お米を砥いで準備しないと・・・。安藤さん、お腹空かせてると思うし。
あ、そうそう。お茶を用意しないと。お茶の葉は・・・戸棚の下の方にあった。これって結構高級品じゃないかしら?
折角の高級品も使われなかったら無意味なんだけど・・・安藤さんは自炊を放棄したみたいだから仕方ないわよね。何を食べるかは人それぞれだし。
 でも、これだけ材料が揃っていて今回しか使わないのは勿体無いわね。
時々でも安藤さんの家に通って食事を作ろうかしら?そう思うと安藤さんと一緒に食事を摂る光景が目に浮かんで、思わず顔が綻んでしまう。
あ、でも夕食はバイトの時は潤子さんが用意してくれるし、月曜日は私が用意するし・・・。
残るは朝食と昼食か。昼食はお弁当を用意出来るけど、毎日一緒に大学へ行くわけじゃないから、行く時間帯がずれると渡せないわね。
昼食の時間にどこかで待ち合わせて渡す、っていう手段もあるけど、今の安藤さんにはまだそういうことは押し付けがましく思うかもしれない。
あとは朝食だけど・・・これは一緒に暮らしてないと準備が大変よね。

一緒に暮らす、か・・・。

その光景が頭に思い浮かんでくる。一つの机に二人分の食事が並んで、それを食べながら談笑する・・・。本当にそうなれたら良いな・・・。
でも、今の私は一緒に暮らすために最低限必要な、安藤さんの信用を獲得してはいない。慌てず焦らず、安藤さんの信用を獲得するのが先決よね。
 そうこうしている間にお米が砥げた。炊飯器をセットして「炊く」と書かれた赤いボタンを押す。ピッと音がする。あとは炊飯器にお任せ。
私はその間に味噌汁を作る準備をして、やかんに水を入れてお湯を沸かす準備をする。戸棚から適当な大きさの皿を取り出してそれに卵を一つずつ乗せる。
実際に味噌汁と目玉焼きを作ってお湯を沸かすのは、御飯が炊ける10分前くらいからで良い。作り始めるのが早過ぎると、冷めてしまって美味しくなくなる。
 横目で安藤さんを見ると、横になった状態で私の方を見ている。
私がどんな朝食を準備するのか気になるのかしら?安心してくださいね。温かくて美味しい朝食を作りますから・・・。

「さ、出来ましたよ。」

 テーブルに二人分の食事を向かい合うように並べ終えて安藤さんに伝える。
テーブルには音楽雑誌やCDが乱雑に積み重ねられていたけど、一先ずある程度纏めて床に置いて、布巾で−これも殆ど未使用−拭いて体裁を整えた。
 炊き立ての御飯と出来たての味噌汁、それに焼きたての目玉焼き。シンプルだけど今日のところはこれで我慢してくださいね。
今まで祐司さんは朝食にパンを食べてたみたいだけど−一昨日の夜の冷蔵庫への収納でパンの入った袋があった−、たまには和食も良いでしょう?
 安藤さんがベッドから出て私の向かいの位置に座る。
私は急須で−これまた殆ど未使用−二つの小柄な湯飲みにお茶を注いで、一つを安藤さんの前に置く。
その時、安藤さんの顔が一瞬硬直したように見えたけど・・・気のせいよね。

「まずお茶を飲んだ方が良いですよ。起き抜けにいきなり食べると胃に悪いですから。」
「あ、ああ・・・。そうする・・・。」

 ?私、何か変なことしたかしら?多分、久々の和食の朝食と普段一人のところに私が居る朝の光景に戸惑ってるんだろう。
そんなことで戸惑うなんて、安藤さんってやっぱり神経質な人なのね。
その割には部屋が散らかってるけど、これは掃除が嫌いなだけだろう。
私は大雑把な方だけど掃除とか好きだし・・・。神経質なのと部屋の整理具合は必ずしも一致しないのね。

「普段はパンみたいですけど、たまには良いでしょ?」
「何で分かるんだ?」
「冷蔵庫見れば分かりますよ。さ、どうぞ。」

 私が勧めると、安藤さんはいただきます、と言ってからお茶を軽く啜(すす)ってから朝食に手を伸ばし始める。
続いて私もいただきます、と言ってから、安藤さんと同じようにお茶を一口啜ってから食べ始める。
 それにしても・・・自分以外の人が居る朝食なんて久しぶり。夏に帰省した時以来だから・・・約2ヶ月ぶりってところか。
普段静かなダイニングで一人で朝食を摂ってるから、目の前に別の人が居るのにはちょっとぎこちなさを感じなくもない。
でも、好きな人とこうして向かい合って一緒に朝食を食べられるなんて、本当に幸せな気分・・・。また一人に戻ると思うと寂しくてならない。
 時折車の走行音が聞こえるだけの静かな朝食が進む。
今日は月曜日。私は講義は休みだけど安藤さんは大学へ行く。それから今日は恒例の練習の日なんだけど・・・病み上がりの安藤さんには辛いかな?

「今日、練習はどうします?」

 私が問い掛けると、安藤さんは味噌汁のお椀を置いて答える。

「何時ものようにやろう。」
「良いんですか?病み上がりなのに。」
「もう大丈夫だから。」

 病み上がりだから今日は休みでも構わないのに・・・。安藤さんって本当に真面目な人。
こんな真面目で実直な人をふるなんて、彼女だった人は人を見る目がないというか・・・。勿体無いことをしたものね。
でも、そのお陰と言っちゃ何だけど、こうして彼女の存在に気兼ねすることなく一つ屋根の下で過ごす時間が持てているんだから、
そういう意味では前の彼女に感謝するべきところね。

「何にしても、大学から帰ったら一度連絡する。」

 安藤さんが続けて言う。・・・そうだ。私が居る場所を決めておかないと連絡のしようがないわね。
私は此処に居させてもらいたいんだけど・・・良いかしら?

「・・・安藤さんはどっちが良いですか?」
「?」
「此処で待ってようかなって。」

 安藤さんの動きが止まる。・・・やっぱり嫌なのかな・・・。
でも、此処に居れば、安藤さんがまた具合を悪くして戻って来ても、直ぐに面倒を見れるからその方が良いと思うんだけど・・・。
もっとも、安藤さんの空間であるこの場所から離れたくないっていう気持ちもあるんだけど、これは下心の一種よね。

「・・・井上の家じゃなくって・・・?」
「此処で待ち合わせすれば、もし安藤さんがまた具合が悪くなっても大丈夫でしょ?」
「そんなに柔じゃ・・・。」

 安藤さんは言いかけて言葉を止める。そしてまじまじと私を見詰める。
何か考えてるな、って見破られたかな?

「・・・井上は良いのか?」
「何がですか?」
「俺が帰って来るのは大体3時半か4時前・・・。それまで暇じゃないか?」

 あ、そんなことか・・・。そんなこと気にしなくて良いのに・・・。

「CD聴いてますよ。あと、此処にある雑誌も読んで良いですか?」
「良いよ、それは。・・・それで良いなら・・・。」
「じゃあ決まりですね。留守番してます。」

 希望が叶って、私は思わず顔を綻ばせる。
此処を離れるのは後ろ髪を引かれる思い出し、好きな人の帰りを待つっていうシチュエーションが出来るのがたまらなく嬉しい。
でも、何れは自分の家に戻らないといけないと考えると、途端に気が重くなる。
そのことは考えないでおこう。・・・これって現実逃避かしら?

 朝食が終わり、私と安藤さんは着替えをする。安藤さんは汗で体がべたつくから、とシャワーを浴びてから着替えるのでお風呂場で、
私はこのリビングで着替えることになった。
土日と熱を出して相当汗をかいただろうし、幾ら人間垢では死なないとはいえ、外に出る以上は身体を清潔にしておいた方が良い。
だけど、シャワーだけだと身体が後で冷えないかしら?でも仕方ないか。湯船に湯を張ってのんびり出来るほど時間はないし・・・。
 私はパジャマを脱いでブルーの長袖シャツと紺色のパンツに着替える。
留守番の間に、この部屋をある程度掃除しようと思う。
やっぱり綺麗な方が気持ちが良いだろうし、身勝手なことをした私が傍に居ることを許してくれた安藤さんへのせめてものお礼になれば・・・。

「・・・井上、そっちは良いか?」
「あ、良いですよ。着替えは済んでますから。」

 お風呂場の方から安藤さんの声が聞こえて来る。いきなりアコーディオンカーテンを開けて着替え中の私を見ることになるのを警戒してるのね。
その気遣いは勿論嬉しいけど・・・別に見られても構わないような気がする。
 アコーディオンカーテンが開いて、安藤さんが姿を現す。そこで私と安藤さんが同時にあっ、と小さく叫ぶ。
安藤さんが着ている長袖シャツの色は私と同じブルー。期せずしてお揃いになっちゃった。それだけで心が弾む。

「シャツ・・・同じ色ですね。」
「・・・偶然・・・な。」

 安藤さんは照れくささを隠そうとしてるのか、ちょっとぶっきらぼうに言う。
まさかお揃いのシャツを着ることになるなんて思わなかっただろうし、安藤さんの性格を考えると、そういう物言いも全然気にならない。
私はペアルックに特別憧れてるわけじゃないけど・・・お揃いの服を着ていると仲が良いように見えるだろうし、私もそう思われるのが嬉しい。
まだ仲が良いとか言う段階じゃないけど、何時かこういうことが珍しくなくなる日が来ると良いな・・・。

 安藤さんは箪笥から明るいグレーのセーターを取り出して着て、その上に黒のジャンパーを羽織って、鞄を持って玄関へ向かう。
私はその後をついて行って玄関まで来た。こういうお見送りなんて初めてだから、緊張するなぁ・・・。勿論嬉しいけど。
 安藤さんはその場に座り込んで靴紐を結び直している。別に結び直す必要はないように思うんだけど、やっぱり気になるのかな?
まあ、時間は十分余裕があるし、安藤さんにとっては久々の外出になるから、焦る必要はないわよね。
・・・そうそう。折角此処で留守番させてもらうんだから、何か要件があれば済ませておこうと思う。

「何か身の回りのもので買っておくものとかあります?」

 私が尋ねると、安藤さんは靴紐を結び直す手を止めて、少し間を置いてから私の方を向く。

「いや、特にない。まあパンくらいだけど・・・それは帰りに買えば済むし。」
「そうですか。」
「あ、それから・・・ドアチェーンは忘れないようにな。今の時代、どんな奴が来るか分からないから。」
「はい。」

 一昨日の夜もそうだったけど、安藤さんはドアチェーンをかけるようにと念を押す。
確かに何かと物騒な昨今だけど、安藤さんが、自分が居ない間に私に災難が降りかかるのを気にかけてくれることそのものが嬉しい。

「俺は駅に着いた時点で一回連絡するけど、ドアチェーンはかけたままにしておいて良い。」
「じゃあ、安藤さんは?」
「1回インターホンを鳴らすから、それで俺かどうか確認して。駅から大体10分くらいだから、それが目安になると思う。」
「私は安藤さんからの電話を待ってれば良いんですね?」
「ああ。一人で居ていきなりドアの鍵があいたらびっくりするだろ?」
「そうですね。」

 私のことを心配してくれてる・・・。うっかりしてると涙が出そう。
あんな身勝手な振る舞いをした私を許してくれた上に、私の心配までしてくれるなんて・・・。なんて優しい人なんだろう。
 私は嬉しさのあまり微笑みながら安藤さんの横にしゃがみこんで、その肩に両手を置いて寄りかかるような態勢になる。
安藤さんは驚いたような顔をして私を見る。
その安藤さんに、念を押すように尋ねてみる。やっぱり率直な言葉が聞きたいから。

「私のこと・・・心配してくれてるんですか?」
「・・・そりゃ、女一人で留守番なんて今は物騒だから・・・。」
「それで・・・?」
「・・・心配・・・だよ。」

 安藤さんの口から「心配」の言葉が出る。搾り出したような、言いにくそうな響き。
でも、その言葉が安藤さんの口から出たことそのものが嬉しい。

「嬉しい・・・。」
「そ、そうか・・・?」
「好きな人に自分のこと心配してもらって、嬉しくない筈ないですよ。」

 私は安藤さんの肩に置いた両手の上に顎を乗せて、安藤さんとの距離を詰める。
私が顔を近付ければ、或いは安藤さんがそうするかで、唇が触れ合うほどの距離。
安藤さんの頬が急速に赤みを帯びる。そして安藤さんはさっと視線を逸らして靴紐を結び直すのを再開する。照れくさいのかな?やっぱり。
 安藤さんは靴紐を結び直すのを完了すると、脇に置いてあった鞄を持って立ち上がる。
私は安藤さんの肩がいきなり上昇を始めたことで前へつんのめりそうに鳴ったけど、何とか持ち堪えて安藤さんに続いて立ち上がる。
いよいよお見送りの時間。何だか出勤する夫を見送る主婦みたい。
・・・至福の瞬間。この一言に尽きる。

「じゃ、じゃあ、留守番頼む・・・。」
「はい、行ってらっしゃい。」
「・・・。」
「挨拶は?」

 安藤さんは呆然と私を見るだけで返答はない。
普段ない筈の見送りを受けて、頭の中が真っ白になっちゃったのかしら?
ここは私からアクションを起こした方が良いわね。

「あ、い、さ、つ、は?」

 私は笑みを浮かべながら、安藤さんの鼻の頭を軽く突付く。
それでも安藤さんはその場に突っ立ったまま。余程私の見送りを受けることにびっくりしたのかしら?
ここで私が痺れを切らしちゃ駄目。安藤さんの返答が来るのを待とう。
 どれくらい時間が流れたか分からない。
恐らくは1分にも満たないだろうけど、それが凄く長い時間に思えた。
閉じられたままだった安藤さんの口が少し開き、続いて言葉が発せられる。

「・・・行ってきます・・・。」
「はい。気を付けて・・・。」

 私は嬉しさを隠さずに手を振る。安藤さんもそれにつられたのか、小さく手を振ってドアを開けて外へ出る。
ドアが閉まると、安藤さんの足音が聞こえなくなったのを確認して鍵をかけ、ドアチェーンをかける。これで戸締りは完了。
私は心が跳ねるように弾むのを感じながら、リビングへ戻る。
食器は流しに運んである。テーブルの上にあったCDや雑誌は床の上で幾つかの層を作っている。
 よし、掃除を始めよう。雑誌はとりあえず全部残して整理して、部屋全体の埃を掃って掃除機をかければ良いだろう。
それに洗い物や流しの掃除、洗い物が乾いたら戸棚に仕舞えばOK、よね。
安藤さん、帰ってきたらびっくりするかな・・・。部屋が綺麗に片付いていたら。
でも、私が掃除することは安藤さんへのお礼でもあるんだから、喜んでもらえたらそれで充分嬉しい。

何だか、本当に一緒に住んでるみたい・・・。


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