雨上がりの午後

Chapter 333 追い込む夫婦、追い込まれる親族

written by Moonstone

 更に1週間後。早番の出勤に出かけた晶子を送って帰って来た俺の携帯に、高島さんから電話が入った。

「おはようございます。例の件について報告などしたいのですが、よろしいでしょうか?」
「はい。お願いします。」

 俺はリビングで腰を据えて聞く。手元にはメモと筆記用具をスタンバイ。この辺は仕事の研修でも馴染みのことだ。

「こちらからの損害賠償の提示に、相手方は難色を示しています。額が額ですからある意味当然ですが、身内の問題に金銭の支払いが生じることに強い抵抗感があるようです。」
「ちなみにどのくらい提示しているんですか?」
「500万です。」

 あっさり回答された巨額に、俺は思わず絶句する。500万払えと言われたら大抵の人は仰天するし出し渋りもする。ましてや自分達の感覚では至極当然のことをしたのに、違法行為と徹底批判されて勘弁して欲しければ、として提示されたんだ。大人しく従うとは思えない。

「こちらは主に奥様を対象とするこれまでの行為や、奥様のお兄様をはじめとする集団による恐喝やお勤め先への営業妨害、逮捕監禁未遂などの違法行為を前面に出して、支払いに応じるか裁判に出るかを選択させているところです。証拠が明確にあり、安藤さんご夫妻に問題がないのに強制的に連行しようとしたことそのものが違法行為ですから、裁判になっても賠償額以外は問題ありません。」
「裁判になると賠償金額に変化があるんですか?」
「一般に裁判を経ると賠償金額が減少します。裁判所は法的に明確な問題を見出したりしない限り、これまでの事例などと比較して賠償金額を決定します。親族のトラブルは日本ではえてして軽視されやすい傾向がありますので、賠償金も低くなりがちです。」
「そうなると、相手方としては裁判の方が金銭的損害を減らせるということですか。」
「そうでもありません。裁判となれば弁護士を立てる必要があります。弁護士を立てなければ全ての立証や反証を自分でしなければなりませんし、それは現実的ではありません。弁護士を立てれば一般にそれなりの費用がかかります。それに、裁判の経緯や結果は全て記録されます。当然ながら裁判所に出廷しないと所謂欠席裁判のような形で不戦敗になります。賠償金額は減りますが、今回の場合、どのみち相手方に金銭的ダメージを与えることが出来るわけです。」
「こちらが負ける要因は今のところない、ということですか。」
「はい。長期化すればその分外部に知れ渡る危険が高まりますし、精神的に消耗します。ですからこちらは期限をぼかしつつ相手方を追い込み、示談という形での決着を考えています。」

 流石というか…、生かさず殺さずの体で攻め続けている。晶子の出身地が含まれるS県の弁護士も連合に加わっているから、日本全国どこに逃げても必ず追手が来るようなもんか。その上、言い値で500万払うか裁判で晒し者になるか好きな方を選べ、と究極の2者択一を迫って崖っぷちに追い込んでいる。
 晶子の親族も弁護士を立てて交渉すれば良いと思うが、大事にしたくない、穏便に済ませたいという意識が先に出るから、弁護士を立てることはそれに反すると思っているんだろう。このまま追い詰められていく様子を高島さんから伝え聞くだけで良いのは、高島さんという腕利きの弁護士が窓口になってくれているからだろう。
 賠償金の金額は正直どうでも良い。弁護士費用はかからないし、賠償金を当てにした生活はしていない。それより、今後同じようなことが起こらないように確約を得ることが重要だ。その点で、ある程度の額の賠償金でないと、文字どおり「痛い目」に遭ったと感じずに同じことをしてくる恐れがある。
 裁判だとこの点与えるダメージは大きいが、深刻な遺恨を残す恐れがある。どのみち晶子が「出奔」して俺と結婚した時点で遺恨は発生しているが、ローカルルールからすればあるまじきことである、親族に刑事罰を与えることで、晶子の親族が徹底した復讐に乗り出すとも考えられる。
 何しろ前回も晶子の実兄が徒党を組んで押し掛けて来たくらいだ。今度は親族が束になって押し寄せて来る恐れもある。平穏な生活、周囲に終始気を配る必要のない生活を求めているから、そんな事態になったら逆効果だ。大きなダメージを与えることだけが決して「勝ち」とは言えない。

「私は、賠償金の金額より、2度と私達に関わらないことの確約の方が大事です。そちらの方はどうでしょう?」
「仰るとおり、賠償金を支払ったら今回は謝罪完了で改めて、と考える危険もあります。ですので、賠償金額の若干の減額をちらつかせて、2度と安藤さんご夫妻に関わらないことを誓約する公正証書を作成する方針でもあります。公正証書込みの賠償金支払いで、2度と安藤さんご夫妻に関わりたくない、と心理的にも根付かせる方針と言えますね。」
「公正証書というのは?」
「簡単に言えば、公的な証明書です。公証人という専門家が法律に従って作成する公文書ですから、証明性は高いですし、債務不履行−払うべき金銭を支払わない状況になれば、直ちに強制執行で差し押さえて支払わせることも出来ます。また、原本が公証役場という役所に保管されるので、万一安藤さんご夫妻のご家庭に侵入されて盗まれたりしても、効力が失われることはありません。それらの手続きは私が顧問弁護士の活動の一環として行いますから、一切の心配は御無用です。」

 俺が考えるようなことは既に想定済みか。法的な強制力を伴う形の文書に残せば、最悪全財産没収の憂き目に遭う。そんなリスクを冒してまで既婚者の晶子を強引に連れ戻すとかは考えないだろう。賠償金はなくても良いから、公正証書付きの決着が俺と晶子には一番望ましいと言える。

「このような状況で再び奥様を連れ去ろうとは考えないと思いますが、念のため引き続き身辺の注意は継続願います。全くあり得ないことではないというのは、今回に限った事ではありませんし、警察沙汰にならなければ良いという考えが蔓延していることも、先の交渉の場で私が感じたことですから。」
「分かりました。引き続きよろしくお願いします。」

 相手からの妥協点を引き出すのは、高島さんの手腕に任せておけば良い。それより、相手方が隙を見て強硬手段に打って出る恐れがあって、そちらの危険性が決して無視できない方が厄介だ。引き続き晶子と緊密に話をして情報を共有する、を続けるしかない。
 それにしても、そこまでして晶子に固執する理由が分からない。分からないというより理解出来ない。男女の出生率が地域でそう極端に変わるわけがないから、晶子以外にも女性はいる筈だ。地域で結婚させるとか言うなら、変な言い方だが別の女性をあてがっても良いだろうに。
 結婚云々が出るまでに女性が外に出てそのまま帰ってこなくて、所謂嫁不足になっているんだろうか。…あり得る。本家分家の概念や力関係が幅を利かせて、一定の年齢に達したら地域での結婚・子作り・子育てというレールが敷かれてるとなれば、情報が溢れる今は大抵嫌がるだろう。
 過疎化については高校時代のバンド仲間と議論になったことがあるが、仕事がないことと給料が低いことという経済的な事情もさることながら、ローカルルールが最高法規とする概念や、干渉=地域連携との勘違いに嫌気がさした若年層が戻らないことも大きいという結論になったのを思い出す。今回の騒動で後者の要素が強いと感じる。
 晶子も、従兄との恋愛を壊され、そのことを周囲にばらすと脅して地元の大学を辞めて新京大学に入り直し、同時に一人暮らしを始めたという経緯がある。そうでもしないとこのまま地域での結婚・出産・子育てルートに押し込められると察したんだろう。かなり思い切った賭けに出たが、晶子にとっては良かったわけだ。
 だとすると、晶子がそのルートから脱したことで地域の平穏や予定が狂ったと見られるだろう。それを修正するために晶子を連れ戻そうと画策している、と考えれば、晶子の親族の行動の理由は分かる。理解は出来ないし承諾もしないが。
 こういう騒動は、本当に長期戦・消耗戦になるものだとつくづく思う。だからこそ、「兎に角終われば良い」と投げ出すようなことは絶対避けないといけない。えてしてこのような場合、相手がつけあがって来て要求をエスカレートさせるからだ。そうなったらまさに無間地獄。死ぬまで搾取される危険すらある。
 今日の通話内容は録音してあるし、メモにも取った。晶子が帰宅したらきちんと説明して情報共有だな。今は我慢の時。少なくとも、高島さんが全面的に動いてくれているから、自分達の防衛に専念できるのは恵まれた状況だろう。終わるまで戦い続けるしかない。
 更に1週間後の日曜日。休日が俺と重なった晶子も居合わせる中、高島さんから連絡が入った。

「相手方から、慰謝料支払いに応じる構えが出てきました。」

 冒頭のまとめは、膠着状態を脱する希望に思える。冷静に考えるとかなり展開が速い方なんじゃないだろうか?

「やはり表沙汰になることを非常に恐れています。その点を突いて行くことでこちらの理想にかなり近い形で妥結できると思います。」
「相手方から、私と妻に交渉したいという申し出は出ていますか?」
「頻繁に出ていますが、全て門前払いしています。交渉は全て顧問弁護士である私が行うよう依頼されていること、安藤さんご夫妻との交渉は、貴方がたの強引かつ違法な誘拐行為に繋がる恐れがあったことを過去の証拠を列挙して退けています。」

 やっぱりこういったことも抜かりない。まさに敏腕弁護士といったところだ。直接交渉はこの場合俺と晶子にとっては不利だ。俺は相手の感情を読みとって対処するのが元々苦手な方だし、晶子は親族ということで別の苦手意識や身内に楯突くことへの拭い難い恐怖感がある。そこを突かれると不利になることは見える。

「これも表沙汰になるのを恐れてか、相手方は未だに弁護士を立てて来ません。もっともこのような状況で相手方に有利になるような弁護を引き受ける奇特な弁護士はまず居ないでしょう。相手方が嘘を言うなどすれば最初は弁護するでしょうが、嘘がばれれば即手を引きますし。」
「形勢が不利でも弁護を依頼されれば、有利になるようにすることはしないんですか?…言い回しがややこしいですね。」
「いえ、仰りたいことは分かります。弁護をするにしても形勢が覆しようがない不利であれば、弁護士は妥協点を求める弁護をするのが普通です。無暗に長引かせても弁護費用がかさむだけで、クライアントには何らの得になりません。そのような弁護の方針でクライアントから費用を毟り取る弁護士が居ないとは言えないのも事実ですが。」
「なるほど…。では、このまま高島さんが交渉を続ける限り問題は発生しないと見て良いでしょうか?」
「最後まで楽観は禁物ですが、今のところはそうです。後先考えない暴走に走る前に、前回お伝えした方針、すなわち多少の賠償金の減額と引き換えに公正証書を含めた決着へと落とし込む方針で進めます。」

 弁護士だからといって、必ずクライアントが勝つように弁護するわけじゃないんだな。それもそうか。どう足掻いても有利不利が覆せない状況なんて多数あるし、そんな状況の不利な側の弁護をしたところで、背景が法律だから逆転ホームランなんてありえない。
 弁護士を立てるか立てないかでこれだけ違ってくるのか…。俺と晶子は自分達の身の安全だけ考えれば良いが、晶子の親族側は何時周囲にばれるか、どれだけ金銭を払わないといけないのか、何とか打開策はないかとずっと考えてなきゃならない。そこに高島さんが詰めてくれば根を上げたくもなるだろう。

「引き続き交渉は私が進めますし、安藤さんご夫妻との直接交渉の申し入れはいっさい門前払いしますが、相手方の動向を全て把握することは出来ません。現状どおり警戒を怠らないようにお願いします。万が一発生した場合は直ちに私に連絡ください。」
「分かりました。」
「あと、奥様は今日いらっしゃいますか?」
「はい。今日は仕事がお休みなので。」
「奥様に特にお伝えしておきたいことがあります。」

 何だろう?俺が席を外すことを求めないところからして、俺にも関係があるようだが。

「相手方は直接交渉を求める際、奥様単独で出席することを前提としています。それは奥様単独なら言いくるめることが出来ると考えているからです。」
「…私は…。」
「勿論、奥様が相手方に絆(ほだ)されるとは考え難いことです。しかし、一般論として、曲がりなりにも親族が目の前で泣き落としを仕掛けてきたら、無下にし辛いと感じるのではないでしょうか?」
「…ないとは…言い切れないかもしれません…。」
「相手方は状況の打開、というより逆転のために、奥様1人に対して徹底して情に訴える作戦に出て来ることが考えられます。強硬手段を取れば、私をはじめとする弁護団が存在する以上警察沙汰になり、致命的なダメージを受けることくらいは予想できて来たようです。となれば、親族であることを前面に出して泣き落としを仕掛けるのが、最も効率は良いし奥様を引き戻せる確率が高いと考えるでしょう。地縁血縁が強固な地域で生まれ育った奥様なら、予想できることと思います。」
「…仰るとおりだと思います。」
「先ほども申しあげましたように、直接交渉の申し入れは私が門前払いしますが、相手方の行動を全て把握することは出来ません。相手方から手紙や電話、或いは直接人をよこして説得を試みて来ても、一切相手にせずに、手紙であれば私に転送し、電話であれば切って着信拒否、人をよこしてきたら警察を呼ぶといった徹底した対応をお願いしたいのです。」
「はい。分かりました。」
「力技が通じない場合、買収や泣き落とし、地縁血縁によるしがらみを利用するなど、相手側の結束を切り崩す策を取るのが、このような場合によける常套手段です。この点にも十分ご留意ください。」
「はい。」

 高島さんの推測は決してぶっ飛んだものじゃない。むしろ、強引な連れ去りとかが出来ないなら、泣き落としなど情に訴える策で切り崩しにかかるのが自然だ。泣き落としや地縁血縁のしがらみに訴えるなんて、今でも選挙で頻繁に聞かれることだし、それが買収とかになって逮捕者も出ている。
 特に両親に「戻ってきてくれ」と目の前で泣かれたら、晶子の性格からして一蹴するのは難しいだろう。それで情に絆されて一旦戻りでもしようものなら、即本性を表して今度は2度と出られなように強制的に結婚させるなどするだろう。高島さんが警戒しているのはそういう流れだ。
 周囲の警戒を怠らないことは、これまでの強襲を回避することから、泣き落としなど情に訴える策を回避することへとシフトしつつある。どちらがやりやすいかは言えない。どちらも気兼ねなく外を歩けるには遠いことには変わらない。だが、根負けしたら文字どおり敗北になる。恐らく挽回は出来ないだろう。
 兎に角相手のペースに乗らないことだな。地味だがひたすら警戒を続けるしかない。交渉自体は高島さんが着実にしてくれるんだから、俺と晶子が足を引っ張るようなことをしちゃいけない。まだまだ戦いは続くが、根気強く闘い続ける以外に勝算はない。
 半月という時間が流れた。こういう時の時間の流れは遅く感じるもんだ。仕事では兎に角集中して、仕事を終えたら兎に角晶子と話をして、「もういい加減にしてくれ」と投げやりになりそうな気持ちを抑えて来た。それは仕事では真摯で理解が速いと好評を得て、晶子にはより頼られ愛されるようになったのは素直に喜ぶべきなのか。
 この間、高島さんからの報告を待つだけだったわけじゃない。高島さんと相談の上、組合の顧問弁護士に相談して、晶子の親族が会社に来ても一切応対しないことや、変な噂が流布されたらそれを証拠として収集し、会社に対する名誉棄損としても告訴する方向で動くようにしてもらった。
 組合の顧問弁護士は高島さんとコンタクトを取って、これらの行動方針を確認した。更に、組合の顧問弁護士の方から晶子の親族に、俺が勤める会社に突撃して来たり、妙な噂や中傷ビラを撒いたりしたら会社に対する名誉棄損にもなる、と警告する内容証明郵便を送った。
 高島さんだけでなく、組合の顧問弁護士からも警告されたことは、晶子の親族には更に強力な一撃になったらしい。組合の顧問弁護士に「これ以上脅さないでくれ」と電話が入ったそうだ。「脅しではなく警告」「文章が理解できるなら行動に注意すれば良いこと」と一蹴したそうだ。こちらもなかなか容赦がない。
 組合の顧問弁護士に相談したことで、顧問弁護士と組合を介して会社側にも事情が伝わり、晶子の親族が取り次ぎを依頼したりしても一切取り次がない、しつこいようなら業務妨害として対処するようにしてもらった、と連絡があった。会社側の理解も得られたのは心強い要素の1つだ。
 オートロックとモニター付きインターホンがある自宅と、会社側と組合が共同歩調を取ってくれる会社では安全が維持されるが、通勤だけはどうしようもない。万が一にもホームから突き落としたりされないように奥に立ったり、痴漢冤罪をふっかけられたりしないように吊皮を両手で持ったりといった自衛策を取っている。
 これらは組合の顧問弁護士から教わったことだ。特に痴漢冤罪は一旦起こされると男性側は防ぐ手立てがないこと、痴漢では何故か「やっていない」証拠を提示することを求められ、それが出来ないと有罪へのレールに乗る確率が高いなど男性側が終始不利であることから、誰かを陥れるために悪用する輩が居るそうだ。
 通勤時間は片道1時間程度だが、この時間が一番神経を使う。自宅と会社の最寄り駅を降りた瞬間、思わず溜息が出てしまう。だが、俺が弱音を吐いていたら晶子が不安になる、そこから相手に切り崩される、という警戒感が緊張感を維持する力の1つになっている。
 漸く迎えた土曜日。昼飯を済ませて寛いでいたところに高島さんから電話が入った。進展があったんだろうか?俺はスピーカーモードにした携帯に出る。

「お休みのところ失礼します。例の件について進展がありました。相手方が賠償金の支払いと公正証書の作成に同意しました。」

 ようやく、か…。高島さんは勿論、組合の顧問弁護士が圧力をかけても半月粘った。金額が金額だからそう簡単に払いたくないという気持ちは分かるが、精神的ダメージは相当蓄積しただろうに。最初からこんなことをしなけりゃ良かったことには変わりないが。

「長らくお待たせしましたが、ようやく決着が具体化してきました。」
「いえ。色々動いていただいて、ありがとうございます。公正証書の作成に私達が出る必要はありますか?」
「お2人に御足労願うのは時間的に大変ですし、相手方との面でリスクがあります。そこで、私が代理人として公正証書作成を公証役場に依頼する場に出る方針です。」
「高島さんに代理人になってもらうと、賠償金の支払いが完了するまで相手方と一切顔を合わせなくても良くなるんでしょうか?」
「そうです。今回の場合、最後の最後まで特に奥様に揺さぶりをかけて来る危険性があります。最終的にはお2人の意向次第ですが、今回は相手方の接触を徹底的に避ける方針が望ましいと言えます。」

 これは高島さんの言うとおりだ。公正証書作成の場で顔を合わせたら、それこそ「肉親や親族に何も此処まで」とか情に訴えて来るだろう。最後の最後で揺らがれたら公正証書を作成できなくなるかもしれない。此処は高島さんに代理を依頼して徹底的に接触や対面を避けるべきだろう。

「晶子は代理を依頼するので良いか?」
「はい。そうしてください。私は尚更顔を合わせない方が良いと思います。」
「御主人はよろしいでしょうか?」
「はい。お願いします。」
「分かりました。では、委任状を作成いただきたいので、実印と印鑑登録証明書をご用意いただけますか?」

 実印と印鑑証明?そんなの持ってないな…。作った覚えもない。引っ越す時に印鑑を何回も使ったが、全部手持ちの認印だけだったし。

「生憎、実印と印鑑証明は持ってないんです。本題から逸れますが、実印はどう作れば良いんですか?」
「普通に印鑑を作って、市役所に印鑑登録を申請すれば実印となります。その印鑑が登録されていることを証明する書類が印鑑登録証明書です。印鑑はお手持ちの認印でも構いませんが、印鑑がきちんと読み取れるもので、印影−印鑑を押した時のサイズが8ミリから25ミリの正方形に収まる必要があります。認印からの流用は混乱やリスクの面からお勧めしません。」
「今回は時間が限られていますから、ひとまず別の印鑑を実印にしようと思います。それでも良いですか?」
「はい。改めて印鑑を作成したら、そちらを新規に登録して以降実印として使用するようにすれば良いです。今回使用する印鑑は別途保管しておいてください。新京市における登録方法を調べますので、少々お待ちください。」

 少し待つ間、メモと筆記用具の用意をする。高島さんから回答が始まり、それをメモする。本人−世帯主である俺の方が良いようだ−が出向く場合は、官公庁発行の顔写真入りの身分証明書−免許証があればそれが一番手っ取り早い−と登録する印鑑を持って行き、申請書に必要事項を記載して提出すれば即日印鑑登録証が発行される。
 印鑑登録証は登録された印鑑の証明書で、免許証と同じようなサイズ。印鑑登録証明書は印鑑登録証が必要になる。やはり免許証など官公庁発行の身分証明書があると複数用意しなくて良い−健康保険証などだと複数必要−から、印鑑登録と同時に申請すれば全て完了する。

「−手順はこのようなところです。免許証はお持ちですか?」
「はい。印鑑を作る方が時間がかかりそうですね。」
「後日新たに登録するのも手間ですし、今はインターネット通販を使うと良いですね。最短即日発効という業者も多数あります。印鑑登録する実印と銀行取引に使う銀行印を同時に作成しておくと、この先何かと都合が良いです。」

 高島さんが印鑑の違いについて説明する。実印は主に不動産契約や身分証明に関わること、銀行印は主に銀行口座の開設や不動産売買における多額の金銭の取引に使用する。不動産、すなわち土地建物や分譲マンションを売買するには、実印と銀行印が必須となる。更新や有効期限はないから早期に作っておくのが良い。
 今の銀行印は認印そのままだが、それは財産管理の面から危険。万一盗難に遭った場合、簡単に口座の預金を引き出されたり、マネーロンダリングなど金融犯罪に使われる口座を作られる危険がある。基本的に銀行はこれらの犯罪の救済には消極的なので、可能な限り自衛する一環として、認印と銀行印は分離しておくべきだ。
 続いて印鑑のインターネット通販業者を教えてもらう。晶子にPCを準備してもらって、検索から該当する業者のWebページを出してもらう。1万円もあれば立派な実印と銀行印が出来て、ケースも付いて来る。しかも送料はせいぜい数百円で最短即日出荷。印鑑申請と登録書プラス登録証明書の発行を含めて、1週間あれば全て出揃う。

「−幸い年末年始や大型連休、お盆の時期から外れていますから、今から手続きをすれば明日には届きますね。」
「便利ですね…。」
「あの…、併せて伺いたいんですが、材質や印相というでしょうか?それらはどうすれば良いでしょう?」
「印相は判断する人間によって千差万別になる、印鑑の価格を釣り上げるためにあるようなものです。それより、安易な押印や盗難に注意することと、破損などしないよう保管や取り扱いに注意することの方がずっと重要です。印鑑が欠けたりすると、実際の押印の際にその印鑑だと認められない場合があります。」
「仰るとおりですね…。」
「変な表現ですが、実印や銀行印らしいものを作っておけば良いんですね。」
「そうです。印鑑もお2人の身分や財産を証明する重要な証明書の一部です。そう考えれば、証明書の色や形より扱いや保管を丁寧にする方が余程現実的で重要であることがお分かりいただけると思います。」

 印相ってのは少し聞いたことがあるが、何やら良く分からなかった。高島さんの言うとおり、欠けたりなくしたりしないようにきちんと保管して、迂闊に押さない管理の方が重要だ。あまりに粗雑な材料だと印鑑自体が使えなくなるだろうから、安かろう悪かろうにならないように注文するくらいか。
 高島さんから、本題である公正証書の作成について説明の続きを受ける。契約内容は高島さんが作成して委任状に纏めて送付するから、その内容を確認して実印を押す。それと印鑑登録証明書を1部添付して高島さんに返送する。以降は高島さんが俺と晶子の委任を受けた代理人として公証役場に出向き、賠償金支払いなどを公正証書にする。
 その公正証書の写しを俺と晶子に送付する。原本は公証役場にあるから安全性は高いとはいえ、公正証書も保管には十分注意する必要がある。公正証書の受領と賠償金の支払いを以て本件は完了と見なして良い。間違っても以降俺と晶子に接触したり、晶子を連れ戻したりしないよう公正証書に盛り込むから、姿を現したら直ちに連絡して欲しい。
 相手方はこちらの要求をほぼ全面的に受け入れると表明している。だが、公正証書作成完了までそれが表向きのポーズであることも否定できない。送付する公正証書の写しと賠償金の振り込みが完了するまでは、これまでどおり周辺への警戒や不要不急の外出を控える安全対策を継続して欲しい。
 これらが高島さんの説明だ。大詰めにさしかかったことが良く分かる。その分、此処で迂闊なことをしたり手続きが無用に遅れたりすると、思わぬ形で足を掬われる恐れがある。手続きは迅速に、待つ時は腰を据えて。地味だがやっぱりこの基本に徹するのみだ。
 翌週の月曜日。高島さんから封書が届いた。初めて配達証明なる形で受け取った。俺は仕事だったから晶子が受け取ったが、きちんと届いたことを確認するためだろう。封書の中には一昨日聞いた公正証書の契約内容が書かれた委任状が入っていた。
 賠償金は300万。一括で支払う。今後いかなる理由があっても、乙−晶子の両親+兄を含む親族全員のこと−は甲−俺と晶子のこと−に接触しないことを誓約する。特段の事情がある場合は必ず甲の顧問弁護士を介して行うことも誓約する。誓約に違反した場合はその都度賠償金の2倍の金銭を即日支払う。−これらが公正証書の内容だ。
 言うまでもなく俺と晶子に圧倒的優位な内容だ。同封されていた説明を見ると、誓約を破って金銭の支払いを渋った場合も、公正証書があれば即日差し押さえて支払わせることが出来るとある。この辺が個人同士で作成した念書との決定的な違いだそうだ。
 委任状には氏名と押捺の欄がある。此処に俺と晶子の署名をして実印を押して、印鑑登録証明書1部と賠償金振込先の金融機関と口座番号のメモと一緒に同封されている封書に入れて配達証明で返信して欲しいとある。郵便事故を防ぐためだ。実印は新しい銀行印と一緒に同じく今日晶子が受け取った。実印の方を印鑑登録して、登録証と一緒に登録証明書を受け取れば準備は大方完了だ。

「凄くこちら側に有利な内容ですね…。よく私の親族、特に本家が同意したな、と。」
「同意しないと周囲に漏れるのは時間の問題と思ったんじゃないか?」
「そうでしょうね。周囲の状況を根掘り葉掘り聞いて言い回る一方で、自分の状況は隠そうとする矛盾した面がありましたから…。」
「印鑑登録は予定どおり、俺が明日済ませて来る。その足でこの委任状に判を押して印鑑登録証明書と一緒に高島さんに送る手続きをして来る。それで良いか?」
「はい。お願いします。」

 晶子の回答に迷いはない。両親と兄を含む親族全員を対象とするこの公正証書の契約内容は、晶子にとって従兄とも絶縁するものだ。それだけ「今の自分の幸せを破壊しようとするならその時点で敵」と過去に引きずられずに明確に判断出来ていると言える。本家で親の暴走を止めなかった従兄も敵に含まれているわけだ。
 晶子が後に引けない状況を作っておいて、今後子どもが出来てから双方の実家を頼るのは筋が通らない。現状では距離的にもまず無理だが、同居だ何だと言いくるめられないように、今度は俺が注意する番だな。夫婦の厄介事は、自分達のことより親族の方が火種を作りやすいもんだと改めて思う。
 これまでのところ、晶子の親族からの接触は直接間接問わずない。高島さんの前の電話では、少しでも接触すれば更に証拠が積み重なって不利になるだけ、と釘を刺してあるそうだ。このまますんなり聞き入れるとは考え難い。警戒を続けるべきだな。
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