雨上がりの午後

Chapter 328 誕生日のおもてなし(前編)

written by Moonstone

 連休只中の5月4日。カレンダーでは連休を構成する祝日の1つだが、俺にとっては重要な日の1つだ。この日は晶子の誕生日。マスターと潤子さんの計らいか、勤務シフトの流れからするとややイレギュラーな形で休日になっている。
 昨夜は晶子にとって前哨戦という位置づけなのか、晶子が兎に角乱れて求めて来た。全精力を吸い尽くされた俺は普段だと晶子が起こしてくれるまで突っ伏してるんだが、この日ばかりはそうはいかない。今日台所に立っているのは晶子ではなく俺。今日1日の食事は俺が作る。
 これは俺が言い出したことだ。連休初日に性欲が突沸して昼下がりに晶子を思うがままにしたが、その礼も兼ねて今度は日頃快適な生活環境を維持してくれる晶子に誕生日くらい何か出来ないか考えた。何しろ晶子は高価なプレゼントや豪華な演出を望まないタイプ。晶子の心理に負担にならないような範囲となると、やはり料理を全てこなすことくらいしか出来ない、という結論に至った。
 とは言え、晶子自身は連休初日の帰宅後の提案に大喜び。懇切丁寧なレシピの他、必要な食材の選定と購入と最低限の仕込みまでこなして俺に台所を譲ってくれた。料理は普段晶子が作っているものの範囲から逸脱しない、家庭料理の範疇と言えるものばかり。晶子は「俺が作ること」そのものが嬉しくてならないそうだ。
 朝は準備運動という位置づけなのか、サンドイッチと紅茶というオーソドックスなメニュー。だが、これですらオーブンを温めてからパンを入れて、焼いている間に野菜やツナを用意して水分をきちんと切っておき、パンが冷めないうちに挟んで適当な大きさに切ることが必要だ。勿論、紅茶を並行して用意する必要がある。
 まったく台所に入らないわけじゃないから、何も出来ないってことはない。だが、晶子のようにふと台所に入ったと思ったら全てのものが食卓に揃うような、流れるような効率的な作業は出来ない。台所の収納棚に貼ってある手順を読んでイメージしながら取り組むしかないが、当然そう簡単にはいかない。
 結局、先にサンドイッチが出来て、紅茶は後になった。サンドイッチも切るには切ったが、どうも不格好と言うか綺麗じゃない。晶子はいとも簡単に作ってしまうから簡単だろうと思っていたが、切る段階でも落とし穴があるとは…。

「食べて良いですか?」
「あ、ああ。勿論。」
「それじゃ、いただきます。」

 晶子は野菜のサンドイッチに手を伸ばす。正直、野菜のサンドイッチはまだまともに切れた方だ。それでもトマトがはみ出そうになっていたりと、晶子手製のサンドイッチからするとかなり不格好だ。晶子は躊躇なく口に入れて何度か噛んで飲み込み、何度か小さく頷く。

「美味しいですよ。」
「そうか?」
「ええ。塩とマヨネーズが適量ですし、パンも良い具合に焼けてますよ。」

 晶子は野菜サンドの残りを食し、続いてツナサンドを口に運ぶ。ツナサンドは野菜サンドより出来が悪い。切る時にツナとマヨネーズが少し溢れて、切り口がかなり汚くなった。晶子と同じように刺身包丁を使ったんだが、切り方が悪かったのか何なのか…。だが、ツナサンドを食べた晶子の表情が曇ることはない。

「ツナサンドも美味しいです。」
「綺麗に切れなかったんだよな…。」
「それは切り方の問題ですよ。味は全く問題ないですから。」

 晶子は至って普通に食べる。何とか体裁を保てた紅茶も加えて満足そうだ。晶子が旨そうに食べるのを見て安心した俺も食べ始める。味は極端な調味料の使い方をしなければ食べられる範疇に収まるが、切り口に代表される見た目はやっぱりノウハウがある。幾ら晶子の刺身包丁を使ってもそれだけじゃ駄目だ。

「こうしてみると、晶子が普段どんなに手際よくやってるかって良く分かる。」
「慣れですよ。私は毎日何かしら料理をしてますから。」
「切るにしても、晶子の刺身包丁を使ったのにこの有様だからな…。」
「道具を使うのも慣れですよ。」

 刺身包丁は刺身を作るとか魚を捌くとかに使うものだと思っていたが、見ていると晶子は色々な用途に使っている。薬味ネギを刻んだり胡瓜とかを薄切りしたり、サンドイッチを対角線で切ったり。面白いようにすいすい切れていくんだが、どうして普通の包丁じゃなくて刺身包丁なのか疑問に思ったこともある。
 理由は簡単、「兎に角よく切れる」こと。普通の包丁ではまとわりついてどうも切り難いものでも、刺身包丁だと楽に切れる。良く切れることを利用したものだが、普通の包丁より刀身が長いしその切れ味が自分に向かうと凶器そのものだから、「切れないからこっちを使おう」と安易に使うと痛い目に遭う。
 刺身包丁を使うにあたって、晶子からは2点注意を受けている。1つは慎重に使うこと。もう1つは使い終えたら直ぐに洗って水気を切っておくこと。前者は日本刀と同じものを使うんだから普通の包丁より慎重に扱うのは当然。もう1つもやはり日本刀と同じ故、ステンレスのような対策はなされていない。簡単に錆びたりするからこれも当然。
 おかげで怪我もせず無事使えたが、上手く使えたとは言えない。晶子の言うとおり、道具1つとってもコツやノウハウがある。それらは解説もあるにはあるが、やっぱり自分の手に馴染ませるには使って覚えることが必要になる。今日実質初めて握った俺じゃ、まともに使える筈もないと思うべきか。

「晶子が使うのを見ていて、同じ道具を使えば、もう少しまともに切れると思ったんだけどな…。どうして潰れる感じになったんだ?」
「切るところを見てませんから推測ですけど、多分切るのがゆっくり過ぎたんだと思います。」

 晶子が言うには、サンドイッチのような柔らかくて全体が一体でない−表現が難しいが切り身のようなものとサンドイッチでは構造が違うのは明らか−ものは、ゆっくり過ぎると特に柔らかい中身が切られる前に押し出されてしまい、結果的に具が溢れるような形になってしまうそうだ。狙いを定めたら刃を垂直にして一気に切る。これが刺身包丁でサンドイッチを切る際の基本らしい。
 単純に良く切れるから使えば何でも良く切れるというもんじゃなく、刃の向きや切る速度といったものも重要なのか。一朝一夕に出来るもんじゃないな。晶子の言うとおり練習で使い方そのものを身体に馴染ませることが必要なわけか。

「包丁って一口に言っても簡単じゃないんだな。」
「サイズも材質も用途も色々ですからね。結構奥が深いんですよ。でも、それは祐司さんのギターにも言えることだと思います。」

 確かにギターと一口に言っても、アコギとエレキで根本的に音が違う。奏法も共通のものもあれば独特のものもある。アンプやエフェクタの組み合わせを含めると奏法と音は更に複雑になる。何かをそれなりに使えるってことはその特徴や使い方を十分理解して初めて出来ることで、それは包丁に限ったことじゃないわけか。

「朝のサンドイッチの時点で、晶子の料理が単なるローテーションじゃないって改めて思い知った。毎日の修練の賜物なんだな。」
「私はお店でも作ってますから、練習の機会は豊富ですよ。それに料理自体が趣味みたいなもので楽しいんです。」
「料理の…本体っていうのか?それはまだしも、仕込みや後片付けは単調だし面倒じゃないか?」
「どちらも料理の一部ですから、単調とか面倒とか思わないですね。最初の頃は思いましたけど。」
「料理の一部か…。」
「後片付けは次の料理を気持ち良く作ったり盛り付けたりするために必要ですし、仕込みは料理のメインを支える重要な過程ですよ。」

 どちらも晶子の言いたいことは分かるつもりだ。乱雑だったり汚れが残っていたりする食器や料理器具を使う気にはなれない。ましてや店で人に出す料理となると、店の衛生状況自体を疑われる。飲食店にとって衛生状況に疑惑を持たれることは致命的だ。食中毒を出したら店が潰れることが珍しくないのがそれを端的に示している。
 仕込みは味を左右する。下味をつけるのは単に調味料を使ったり浸したりするだけより、一旦冷やすことで味が染み込む。おでんやカレーが一晩おくと更に旨くなると言われるのは、加熱調理が終わってから冷ますことで味がじっくり染み込むことが背景にある。
 それに、仕込みも適当に調味料を使えば良いってもんじゃない。塩を使い過ぎれば塩辛くなるし、胡椒を使い過ぎると胡椒を食べるような感覚になる。当たり前のことだが、調味料を適量使うことが仕込みに求められる。仕込みでついた下味を除去することは出来ないし、薄めることもまず無理と思った方が良い。誤魔化そうとすればするほど味が狂っていくことが多い。
 そういった事情があるから疎かに出来ないことは分かる。だが、何しろ単調だし面倒という印象がある。しかも晶子の場合家だけじゃなく、仕事である店でもしている。しかも量が多い。繰り返しているとどうしてもいい加減になりやすいが、そうならないのは晶子の料理に対する愛着や情熱が並々ならぬものだからだろう。
 一方で、晶子も最初の頃は単調さや面倒さを感じたことがあったという。今じゃ思いついたものを言えば何でも作れる晶子も、最初から何でも出来たわけじゃない。仕込みや後片付けも「どうしてこんな面倒なんだろう」「退屈だな」と思った時代があった。決して超人的なものじゃなく、地道な修練を積み重ねて結実したものだ。

「普段の料理が練習になってるってことか。」
「ええ。それが料理を私に任せて欲しい理由の1つなんです。間が空き過ぎると感覚が鈍ってしまうので。」
「俺もひととおり出来るようにしておきたいんだが、今のままだと晶子のレシピ頼りだな。」
「祐司さんは十分出来てますよ。レシピを見ながら作ることは何も恥ずかしいことじゃないですし、家なら尚更効率良くすることが絶対じゃないです。いざという時に代わってもらえることが分かっているだけで、凄く安心できるんです。」

 晶子の安心材料であることは、むしろ嬉しい。普段健康そのものの晶子も何かの拍子で体調を崩すことがあって、長引くこともあり得ることは、ほんの1年ほど前に経験した。料理も含めて決して晶子が超人じゃないことの証左でもあるが、そんな時に家のことが完全に滞ってしまっては話にならない。
 2人だけならまだ何とかなるかもしれない。非常用にストックしている冷凍食品を使ったり、俺は外食で済ますことも出来る。だが、晶子が妊娠したり赤ん坊を世話したりする場合、晶子は安静が必要だったり手がいっぱいだったりするだろう。そこに俺が何も出来なくて晶子の世話を待っているようじゃ、晶子が倒れるのは時間の問題だ。
 レシピを見ながらでも、雑誌とかを見ながらでも、俺が兎に角家事をひととおり出来れば、晶子は自分のことや子どものことに専念できる。専念できると分かることで、精神的の安定性も向上する。精神の安定が身体にも影響することも、やっぱり1年ほど前に体験したことだ。
 交代要員が交代する相手より高い能力を持っている必要はない。プロスポーツとかは別として、兎に角緊急事態を凌げれば良いくらいの認識だ。晶子もそれは十分分かっているから、特に料理を家でも一手に担うことを自ら申し出て実行し続けている。

「お昼御飯も晩御飯も楽しみです。」
「時間が経つにつれて難しくなっていくからな…。あまり期待しない方が良いと思うが。」
「祐司さんが作ってくれて一緒に食べられることが楽しみなんですから、気楽にしてください。」

 そうは言っても、やっぱり晶子に食べてもらう以上は旨いものを作りたい。何せ普段、店の評判の一翼を担うだけの料理を手掛けている晶子の手料理を食べているから、味に五月蠅くなる。味に五月蠅いのと自分が作れることは別問題だから、今の俺の力量じゃ何処まで近づけられるかという程度だ。
 だが、晶子が言うとおり、今日1日は俺が晶子のために3食作って一緒に食べることが最大の目的。効率より丁寧に進めて食べられる物を作るのが最善だ。そうすれば晶子は喜んでくれる。今がそうであるように…。
 朝飯を終えて片づけた後、ちょっとお出かけ。と言っても、3食俺が作るのが今日のメインイベントだから、紅茶を買う専門店がある大型ショッピングセンターに行くという程度。だが、これも晶子のリクエスト。俺が咎めたり渋ったりする理由はない。
 ショッピングセンターには思いつく大抵の店が入っている。紅茶専門店があるならとばかり、かどうかは知らないがコーヒー専門店は勿論ある。衣料品、宝飾品、食料品、雑貨、書籍といった定番の専門店の他、鞄や特定のキャラクターもの、時計など此処に来れば必要なものは全て揃うくらいの店舗数だ。
 勿論店舗の入れ替わりもあるが、この手のショッピングセンターにしてはかなり少ない方だと思う。紅茶専門店へ通うようになってからだが、入れ替わった店舗は片手で数えて余るくらいだ。店舗数は全体で数十あって3、4年くらいのスパンで見てそのくらいだから、かなり安定している。
 今日行くのは家具店。電器店と共に最上階の3階にある。この2つで3階の大半を占めている。前に来た時は電器店が一人暮らし向けのセールをしていたな。新生活開始の時期をひと月過ぎたから、連休を絡めたセールをしているんだろうか。
 家具店に来たのは、将来的な購入に向けた様子見のため。一気に全部入れ替えなんて出来ないから、優先順位を決めて順次入れ替えていこうと決めてあるが、入れ替えるにしてもどんな商品があるのか、入れ替えて収納量や使い勝手−家具ではさほど大きな差はないかもしれないが−が良くなるのか知らないといけない。
 「将来」には子どもを含めた場合も考えている。俺と晶子2人の生活と子どもを含めた生活では、必要な家具が変わってくる可能性がある。同じ家具にしても収納の数−抽斗の数とか−より収納量を重視すべきとか、ベビーベッドもオムツあたりを収納できるタイプが良いのか、それもどのくらいの大きさや高さが良いのか、といった課題がある。
 それらは想像だけでは分からない部分が多い。箪笥あたりはまだしも、ベビーベッドとか使ったことがないものや碌に見たことがないものだと想像が事実とかけ離れている場合、いざ必要になった時「こんな筈じゃ」となる。思うだけならまだ良いが、実際に使う側−特に子どもにとってはたまったもんじゃない。
 時期やメーカーによって変遷や相違はあるだろうが、人間が使うものである以上はそれほど極端なものはないだろう。入れ替えの優先順位を含めてベビーベッドなどこれから必要になるものがどんなものか見ておきたい。それが晶子のリクエストの理由だ。
 店内には、入口に近いところにリビング回りの家具−センターテーブルやソファ、背が低めの箪笥が置かれている。結構カラフルだな…。例えば箪笥っていうと茶色、黒、白あたりが基本だと思ってたが。センスがないと奇抜を通り越して遊園地か何かのようになってしまいそうだ。

「ソファは…置かない方が良いですよね。」
「そうだな。場所も取るし置いても使い道がなさそうだし。」

 今の間取りは2LDK。LDの部分に置けないこともないが、対面にソファ、中央にセンターテーブルを置いたら、リビング部分の大半を占拠されてしまう。今のLDは日々の食事をする場でもあるし、俺のシンセ類が置かれている多目的部屋と言うべき場所。応接時にしか使わないものを置くほど余裕はない。
 そもそも、俺と晶子の家に来る客はない。マスターと潤子さんなら分かるが、余程の事態−今だと俺と晶子が揃って寝込むくらいのことにならないと来ないだろう。それ以外では智一と耕次達だが、智一は卒業後親の会社に入って現在修行中だし−時々メールが入る−、耕次達はそれぞれ就職や進学で忙しいから、前回のように全員に共通する特別なイベントでもない限り来る余裕がないだろう。
 双方の両親とは完全に没交渉。未だに何のアクションもないのは不気味でもあるが、来たところで家に入れるつもりはない。在学中に仕送りを止めたし、強行突破で結婚しても生活が立ち行かないだろうと思って泣きついて来るのを手薬煉引いて待ってるのかもしれないが、そんな考えで来るなら嫌がらせ以外の何物でもない。
 そんな状況だから、ソファが必要なシチュエーションが思いつかない。使わないものを買うことほど無駄なものはない。だが、センターテーブルは、ソファと対で使うという固定概念を外せば使えなくもない。横長なのは勿論そこそこ幅もある。今は炬燵机の流用だから、それよりは見栄えも良い。
 どのみち優先順位は相当低い。移動して別のものを見る。少し奥に入ると色も模様も様々なカーペット、そしてダイニングやキッチン回りに変わる。カーペットは勿論、ダイニングテーブルや食器棚も結構カラフルだ。黒か白か茶色の3択から随分変わって来てるんだな。

「食器棚が良いですね。」
「食器棚の優先順位は高くなりそうだな。今のは寄せ集めそのものだし。」

 そう、食器棚は寄せ集め状態だ。俺のものだった食器棚は茶箪笥そのものだし、晶子のものだった食器棚は1人用。食器棚らしいが収納量が限られている。晶子のものを台所に、俺のものをLDに配置して、使用頻度に応じて食器を分散配置している。晶子のアイデアで今のところうまくいっているが、決して使い勝手が良いとは言えない。
 茶菓子用の小皿やフォークといったものを集約して、3食の食器を台所に集約すれば、晶子の労力を減らせるし効率も上がる。台所は基本的に晶子の領域だから、晶子の使い勝手を良くすることを考えたい。3食と弁当がより作りやすくなれば、俺にとっても有り難い。

「食器は一か所に固まってる方が使いやすいよな。」
「そうですね。横着に聞こえるかもしれませんけど、出す時より仕舞う方が手間がかかりますから、一か所に集中していると便利なんです。」
「横着でも何でもない。台所は晶子の領域だから少ない動きで出し入れできる方が便利なのは間違いない。」

 晶子が横着だっていうなら、俺はどうなんだという話だ。それに、晶子の言うとおり、食器は出すより仕舞う方が手間だ。出すのは使うものを出して来るだけだが、仕舞うのは次に使うことを考えないといけない。適当に放り込むと次に取り出す時手間なだけじゃなく、食器が変に重なったりして落下や破損の恐れもある。
 2人で使う食器の数はさほど多くないが、大きいのから小さいのまで色々ある。双方が持ち寄って多少選別したから色も形も様々なのは別として、数はそこそこあるから、洗って乾かしてから別のところに仕舞いに行くのは明らかに手間だ。かと言ってLDの食器棚を持って来るほど台所の面積−正確には形状に余裕はない。

「色も形も、思ったよりバリエーション豊かだな。」
「想像していたものよりずっとカラフルです。壁紙や他の家具と合わせるのが難しそうですけど。」
「色に関しては最悪ペンキとかで塗るっていう変更手段も取れるからな。それよりサイズとか収納量の方が大事だな。」

 殆ど素通りだったリビング回りと違って、ダイニング回りはしっかり見て回る。俺も晶子も優先順位が高いと見ているからだろう。効率面からやはり最優先は食器棚。食器棚も文字どおり食器や季節ものの大型なもの−鍋とか−を収納することに徹したものから、電子レンジなどを置ける棚と一体型のキッチンボードまである。
 キッチンボードを単体で見ると、中央付近が大きく窪んだ形状だからちょっと不格好に映る。だが、窪んだ部分に電子レンジや炊飯器、ポットあたりを置けるとなるとその窪みが大きな意味を持つ。電子レンジや炊飯器は必須だが−電子レンジを下茹で処理とかに使うのは晶子から知った−意外と場所を取る。毎回仕舞うのはあまりにも面倒だ。
 今は電子レンジと炊飯器を流しの隅に置いているが、やや窮屈に見える。これらを茶箪笥にある食器と併せて台所に集約できれば、晶子は殆ど場所を変えずに多くのことが可能になる。そう考えるとキッチンボードの優先順位が急上昇していく。金に余裕があれば今すぐ買っても良いと思えるくらいだ。

「買うとすると、家の採寸をしてからですね。」
「買っても置けない恐れもある…か。」
「それも勿論ありますし、ものによっては玄関を通らなくて入れられない、って場合もあり得ますから。」

 買っても使えない。これまた無駄以外の何物でもない。俺は殆ど買わないが、服でもサイズを確認しないと着られないことが出る。大きいものは袖を捲るなり裾を詰めるなりすればまだ誤魔化せる部分があるが、小さいと着ることすらままならない。交換に行くにしてもその分が無駄手間だ。
 家具でそんなことになると、無駄の規模が大きくなる。返品・交換の代金も増えるだろうし、強引に置いても毎日のことだからストレスが溜まる。服とは逆に小さいなら強引に詰め込むことでまだやり過ごせるが、大きいと扉を開けられなかったりしてその部分が丸ごと使えない事態もあり得る。
 今日はどんな家具があるかを知るために来たから、購入を前提としていない。だから採寸自体頭になかった。より具体的にイメージするには採寸してからの方が良かったと思うが、今日限りのことじゃないし、優先順位を漠然とでも決めてから採寸して改めて来店すれば良い。

「そう言えば、今の家に引っ越す時の荷物の搬入はスムーズだったな。大きな家具とかがなかったせいか。」
「スイスイ運んでましたよね。多分そうだと思いますよ。」
「全部の家が大きな玄関だと限らないから、無暗に大きな家具を買うのは考えものかもしれないな。」
「ある程度の大きさのものだと、新築の際に据え付けるようなことを前提にしているかもしれませんし、いったん解体して搬入してから組み立て、となると大変そうですね。」

 殆ど素通りしたリビング回りにテレビボードがあった。大画面TVが当たり前なのを反映してか、テレビボードもかなり大型のものがあった。家のLDの南北の幅を超えそうなものもあったが、あれくらいの大きさだとそのままじゃまず入らないだろう。晶子が言うようにいったん解体して搬入後に組み立て、が基本なんだろうか。
 他の家庭のことや使わないものを考えても仕方ない。リビング回りを見て回ろう。キッチンボード以外にはダイニングテーブルと椅子のセットが多い。これも色や形状が様々だ。よく見ると、キッチンボードや食器棚とペアになりそうなものが多い。テーブルに置かれているラミネートされたパンフレットを見ると、シリーズものらしい。
 俺だと配置のイメージすら出来ないカラフルな食器棚も、よく見るとダイニングテーブルと椅子とペアになっている。家具メーカーも単に奇抜な色−生憎俺にはそうとしか思えない−の製品を適当に作るだけじゃなくて、同一のシリーズを買うことで自然と統一感が出せるようにしているわけか。当然と言えばそうだが。

「ダイニングセットってどう思いますか?」
「今のスタイルが馴染んでるからな。必要性を感じない。」

 ダイニングテーブルと椅子を置くスペースはある。丁度台所からカウンター越しにあるLDのスペースが相当する。カウンター越しに料理や空いた食器を出し入れするのはスマートではある。だが、そのスタイルが俺と晶子の生活に馴染むかどうかとは別問題だ。
 どちらもそれぞれの旧宅に住んでいた間、床に座って食事をするスタイルだった。俺が両親の家で暮らしていた時もそうだったし、晶子も一度行った限りだが、純和風の両親の家で暮らしていた時は恐らく同じスタイルだっただろう。それが今でも続いているから今のスタイルに何ら違和感はない。
 晶子の勤務シフトの関係で俺も偶に掃除をして思うのは、床に色々ものを置くのは掃除をし難くする原因だということだ。今ならLDを掃除する時、炬燵机とクッションを退ければほぼ全域に掃除機をかけられる状態になる。これにソファやダイニングテーブルと椅子を置いたら、相当掃除が億劫になるだろう。
 部屋を広く使おうとするなら、極力ものを置かないことが大切だと分かってきた。今の家は隣との防音効果も狙って収納が潤沢だから、箪笥を中心に仕舞えるものを徹底的にしまい込んだ。おかげで寝室はベッドだけ。北側の書庫が溢れることなく収まっている。
 子どもが出来たら、ぶつかるものがあることは深刻な危険になる。ハイハイをし始めた頃や歩き始めた頃は、兎に角興味が先行するし加減も知らないから、突進してぶつかる恐れがある。それが角ばったものだったり固いものだったら痛みが強まるし、その反動で転んで頭を打ったら最悪の事態も考えられる。
 子どもは家のことをどうにも出来ないから、親である俺と晶子が対策を講じるしかない。机やベッドの角とかにも保護材というのかそういうものを付ける必要はあるが、彼方此方にものを置いて「ついうっかり」を未然に防止することも必要だ。それは限られたスペースを有効利用することと連動する。

「入れ替えるとしたら、やっぱり食器棚だな。キッチンボードがベストか。」
「食器棚を1つに集約できると、LDの部分がもっと広く使えますね。あの茶箪笥は医薬品や掃除用品を纏めておけますし。」
「医薬品とかも台所にまとめる方が便利じゃないか?」
「バンドエイドくらいは台所に少し置いておいても良いですけど、他は台所以外の日常で使うものですから。」
「何でもかんでも台所にまとめる必要はないか…。」
「台所は食品関係を纏めて、医薬品とかはLDに置くのが一番効率が良いかなと思ってるんです。」
「台所は晶子の場所だから、晶子が使いやすいように家具や配置を考えるのが良い。俺は何処に何があるかくらい知っておけば良い。流石に何も知らないってのはいざという時困るから。」

 今のところ優先順位の1位は間違いなくキッチンボードを含む食器棚だな。価格を見ると…大きさにほぼ比例する感じで、3万から9万程度。採寸をしないとどれが使えるか分からないが、見た感じ5万から7万くらいのものが一番使い勝手が良さそうだ。
 晶子も関心が高いようで、熱心に観察している。俺と違うのは扉や引き出しを開けて中を見たり、棚の段数や引き出しの動きなど細かいところを見ている。一番使うものだから些細な不満がストレスになる。使い勝手を入念に調べて一番納得できるものにしたいんだろう。

「キッチンボードの購入を本格的に検討すべき段階かな。毎日使うもんだし、そんなべらぼうな価格じゃないし。」
「買っても良いですか?」
「高くても10万しないし、毎日使うものだから必要性は十分。実際に買うのはきちんと採寸してからだが、必要なものを買うのは何ら問題ない。晶子が基本的に使うものだから、サイズと晶子が使いたいものが一番両立出来るものを買えばいい」
「ありがとうございます。」

 晶子は嬉々とした表情で選んでいく。そして携帯を取り出し、何か入力していく。携帯の画面と見比べているのはラミネートされたカタログのダイジェスト。そこには商品名とサイズ、価格が表示されている。此処でめぼしい商品の情報を記録して、家の置き場所候補と照合して選ぶんだろう。
 晶子が記録した商品は5点。色は茶色が3点と白と黒が1点ずつ。価格は5万から7万のあたり。極端に大きくも小さくもないものから、茶色を中心に選んだようだ。白が汚れが目立ちやすいし−こまめに拭き掃除はしているが毎日毎回は流石に無理−、黒はメカニックな印象があるから、茶色が最も無難だろう。

「念入りに選んだな。」

 商品情報の一覧を確認して御満悦な様子の晶子に言う。晶子は満足そうに頷く。

「自分で言っておいて、買ったのに置けないなんてことは出来ませんから。そうでなくても、やっぱり気に入らないから交換とか買い替えとか出来るものじゃないですし、きちんと選んで納得できるものを買いたいです。」

 納得できるものを選んで買いたいという気持ちは、時間がかかってもきちんと選ぶ基礎だ。晶子なら適当に買って「気に入らない」とか言い出すことはまずないだろう。晶子自身、自分が毎日使うものだと分かっているし、そこから逸脱して妙なファッションセンスに走ることは考えられない。
 双方の家具を取捨選択して持ち寄った寄せ集めの家具も、それなりに愛着も思い入れもある。そこから少しずつ我が家の財政や必要の度合い、優先順位を照合しながら少しずつ入れ替えていく。そうすることでより俺と晶子の帰る場所が更に足場を固めていくと思う。
 帰宅して早速昼飯の準備。今度はパスタ料理。俺の料理技術を考慮してか、ミートソースは缶詰のもの。だが、きちんと作ろうとなると茹でるところからキッチンタイマーを使って正確に進めないといけない。大きめの鍋にたっぷりの水を張って沸騰させるところから始まる。
 その間に野菜サラダの準備。これは夕飯にも繋がるから4皿作る。これも盛り付けも考慮するとそれなりに神経を使う。野菜を流水で洗ってざるに上げて水を切り、レタスは一口サイズにちぎって皿の周囲に並べていき、千切り−俺の場合はどうも短冊に近い−したキャベツを柔らかく盛り付け、4つ切りにしてヘタを取ったトマトをシンメトリになるように並べる。
 出来た野菜サラダを冷蔵庫に入れて、パスタを茹でることに戻る。鍋底からポコポコと小さい泡が出始めている。2人分のパスタを指の人差し指の輪で計量して取り出して、沸騰したら即投入できるようにしておく。
 このパスタの計量方法は晶子のレシピに書いてある。人差し指を曲げて親指の第一関節に触れさせて出来る小さい円が、1人分のパスタになるというもの。今は1人分ずつまとめたタイプも売られているが、業務用だと料理をする量の違いかそうなっていないこともある。この計量方法はどんな場面でも共通に出来るものらしい。
 湯が完全に沸騰したのを見て、パスタを鍋の周囲に回すように投入。菜箸で鍋底に完全に沈めて、蓋をして火を止める。茹でるんだから火を止めたら固いままなんじゃないかと思うが、晶子のレシピにはこの状態で9分放置、とある。晶子がこんな場面で嘘を書くとは思えないから素直に従い、キッチンタイマーを作動させる。
 茹であがるまでに時間があるから、その間に別の鍋を用意してミートソースの準備をしておく。こちらは加熱するだけ。この分量だとキッチンタイマーが5分になったら火をつけて、中火で加熱していくとほぼパスタが茹であがるのと同時くらいに加熱が終わる、とある。だとするともう少し後だな。
 まな板を片づけ、ちょっとリビングを覗く。晶子は何時もの位置に座って本を読んでいる。俯き加減のその表情は明らかに弾んでいる。何と言うか…大好物のメニューが出て来るのを待っている子どもみたいだ。あと数分でその期待を叶えられるかと思うと、間違っても失敗は出来ない。
 キッチンタイマーに視線を戻して、6分を切ったところでミートソースの缶を開けて鍋に入れる。残り時間で空き缶に水を張っておき、パスタを上げるためのざるを出しておく。5分になったのを確認して火をつける。焦げ付かないように適時かき混ぜつつ、キッチンタイマーが終わりの時間を告げるのを待つ。

ピピピッ、ピピピッ。

 冷蔵庫に貼りつくキッチンタイマーが鳥のさえずりのような音を立てる。晶子が台所に居る時必ず1回は聞こえてくる音は、間近で聞くと結構大きい。俺はミートソースの鍋の火を止め、パスタの鍋の蓋を取って、流しの水を流しながらざるに上げる。大量の湯気を伴って茹であがったパスタがざるに残る。
 どう見ても固さが残ってるようには見えない。火を止めて蓋をしておいただけなのに、これだけキチンと茹であがってるなんてな…。火を止めても茹でられるなら、鍋を別のところに移動して別の加熱調理も出来る。絶えず何かしらの料理を作っていてコンロをフル回転させる必要がある店で覚えたんだろうか。
 ざるを数回ゆっくり上下に振って、パスタを軽く回転させつつ水気を切る。そして皿に盛り付けてミートソースをかけて、最後に冷凍庫から刻みパセリを軽く振りかける。これでミートソースパスタは完成。冷蔵庫に入れておいた野菜サラダと共にトレイに乗せてリビングに運ぶ。

「美味しそうですね。」
「晶子のレシピのとおりに作ったから多分大丈夫だと思うが…。」
「変な臭いがすれば直ぐ分かりますし、間違いなく良い匂いですから大丈夫ですよ。」

 俺は本に栞を挟んだ晶子の向かいに腰掛けて、作りたての昼飯を食し始める。…うん、パスタの歯応えは丁度良い。半信半疑だったが本当に上手く茹でられるもんだな。刻みパセリを振りかけることで、濃い緑のアクセントが出て見栄えも良くなっている。晶子のひと手間が着実に食卓に生きているのが良く分かる。

「正直半信半疑だったけど、晶子のやり方でパスタが良い具合に茹でられるんだな。」
「半信半疑になるのは無理もないと思いますよ。私も潤子さんに教えてもらった時は本当かな、と思いましたから。」
「ああ、潤子さんに教えてもらったのか。」
「お店はパスタ料理が看板料理の1つですから、頻繁にパスタを茹でるんですよ。その時コンロの専有時間を短くする方法、として教えてもらったんです。」

 なるほどね…。店ではパスタ料理が頻繁に注文される。量の調整を出来るから男子学生にも好まれるし、女子学生にも好まれる。ミートソースやペペロンチーノ、カルボナーラといったある程度名前が通じるメニューがあるから、腹ごしらえだけじゃなくちょっとお洒落に、といった意図にも叶うからだろう。
 茹でるにしても1回で茹でられる量には当然限度がある。湯の使いまわしは出来ないから毎回沸騰させるところから始める。それを繰り返すとなると、コンロが1つ完全に占拠されてしまう。当然ながら店で作る料理はパスタだけじゃない。コンロが長時間塞がれるのはかなり痛い。
 晶子のレシピにあった、火を消して蓋をした状態で一定時間保つ方法なら、湯を沸かしてパスタを投入出来ればキッチンの片隅に置いておける。その間炒め物や焼き物を作るために使える。炒め物や焼き物がコンロを占有する時間はそれほど長くない。コンロを効率的に回すための必要から生じた知恵だ。

「流石、店の看板を担ってるだけのことはあるな。」
「キッチンに人が増えて負担は減ったと言っても、コンロの数やキッチンの広さは変わらないですから、効率的に使うことがより重要なんですよ。」

 青木さんがキッチンに入るようになったとはいえ、全員が料理をするわけじゃない。青木さんは仕込み中心だから迂闊なことをすると焦がしたりする恐れがあるコンロを使わせるには二の足を踏むだろう。そんな時、パスタを入れて待つだけの鍋を置いておいて、キッチンタイマーが鳴ったらざるに上げて、と言えば分かりやすい。
 それは晶子が楽をするためじゃなく、料理を基礎から出来るように教育して、やがて来る晶子の休職若しくは退職に向けてバトンを受け渡す体勢を作るためだ。子どもを産み育てたいと強く願う晶子は、経済的な疑念が消えれば直ちに子作りに向けて全てを解禁するだろう。妊娠したら臨月まで今までどおりに働ける保証はない。
 その時いきなり「子どもを産むから辞める」と言っても、引き継ぎが何も出来ていない中で言われたら、店は立ち行かなくなる。喧嘩別れならまだしも、4年近く働いてきてプラスα働き、更に公私共に世話になった店を「子どもを産むから辞める」の一言で唐突に辞めるのは流石におかしい。
 恐らくこのパスタの料理法も小野君と青木さんに受け継がれているだろう。それはこれから何代も続くであろうキッチン担当のスタッフに受け継がれていくだろう。そういった知識や技術のバトンの伝承も、たかが飲食店の数年の小遣い稼ぎという認識では出来ないことだ。
 料理に関しては、この家ではやっぱり晶子が主役だ。自分で作ることの大変さや難しさ、そして楽しさを台所で子どもに教えるのは晶子だけが出来ることだ。俺はそれを支えること、美味い料理を作るには見えない手間がかけられていること、そういった手間は愛情があるから出来ること、出された料理をきちんと食べることが愛情に応えることと教えることに専念すべきだろう。
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