雨上がりの午後

Chapter 294 明日への扉(前編)

written by Moonstone

 この日のバイトが終わり、「THE AUTUMN OF '75」をBGMにコーヒーを啜る、終業後の憩いの時。晶子が復帰して最初の営業は、晶子の復帰を待望していた男子中高生のおかげで大盛況だった。その分疲れはしたが、晶子が居ると居ないとでは店の回転が違う。
 マスターと潤子さんにとっては店のキッチンの一翼を担うポジションだから、料理の生産量が単純に2倍になる。キッチンの回転が良ければ客を必要以上に待たせなくて良いし、潤子さんの負担も大きく減る。料理以外に食器を洗って次に使えるようにすることも含むから、人がもう1人居るか居ないかでは全然違ってくる。
 俺としては、絶えず携帯の動きを気にしなくて良い。何かあったら携帯で電話でも空メールでも良いから使うように言っておいた身だが、その分どうしても気になる。流石に料理を落としたりはしなかったが、注意や集中が散漫になりがちだったし、時間の経過が遅く感じた分疲労も増えた。その重しがなくなれば仕事に専念出来る。

「また長々とお休みしてしまって、すみません。」
「治ってくれて良かったよ。一番懸念されたのは祐司君との共倒れだったし、そうならなかったのが一番だ。」

 共倒れはマスターと潤子さんだけでなく、智一からも懸念されたことだ。俺まで倒れるようなことになったら、最悪採用試験に重大な支障が出る。他に幾つか候補はあるが、給料以外の条件も良くて熱心に誘ってくれるところからの内定をみすみす逃すのは惜しい。共倒れにならずに乗り切れたのは不幸中の幸いだろう。

「祐司君は今週に採用試験を控えてるから、今度は晶子ちゃんがしっかりサポートする番ね。」
「はい。それは勿論です。」
「そういえば、もう採用試験か。」
「はい。何だかあっという間です。」

 採用試験は今週の金曜日。僅か3日後だ。採用試験は筆記と面接を午前と午後に分けて行う、と和佐田さんからメールを貰っている。「一般教養と専門分野に関する基礎事項」とのみ書かれた試験範囲は、これまでにない広大なものだ。
 院試対策を兼ねた試験勉強で専門分野は概ね抑えているつもりだ。一般教養は公務員試験対策も兼ねて進めているが、こちらは意外ときりがない。面接対策がその分鈍いが、緊張するのは当然として相手の質問に明確に答えるようにすれば良いだろう。
 晶子が回復したことで心身面の不安は消えた。残り実質2日で出来る限りのことをして当日を迎える。最大の対策はこれに尽きる。今になって小手先の対策をしたところで付け焼き刃にしかならないし、脆いから役に立たないどころか自分に害を成す危険性すらある。

「当日までバイトを休んで試験対策に専念しても良いのよ。」
「いえ、バイトを休む方が身体のリズムが崩れそうな気がするので、このまま続けさせてください。」
「無理はしないでね。採用試験が今一番重要なのは誰もが分かってることだから。」
「ありがとうございます。」

 大学では卒研が徐々に動き始め、採用試験は間近に迫っている。忙しい時は更に忙しくなるとはよく言ったもんだ。後悔しないようにするには出来る限りのことをする。それだけ考えていれば良い。その意味でも晶子が回復して良かった…。

 ようやく呼吸が落ち着いてきた。晶子は俺の左肩口を枕にして、俺に抱きついている。1週間ぶりの「解禁」だった昨夜より平静を保てたし、幾分余力を残したつもりだ。それでも激しくしてしまうのは性ってもんだろうか。
 首を少し捻ると見える晶子の顔は、明らかに眠っている時のものだ。昨夜ほどじゃないが激しく攻められたし、バイトに復帰して体力を使ったから、やっぱり疲れたんだろうな。この体勢になった際に手を繋いで安心したのもあるのかもしれない。
 目を閉じて寝る態勢を整えながら少し考える。田中さんが助教になったってことは初めて聞いたが、晶子が寝込んでから今日まで殆どアプローチらしいものがない。晶子が渡辺家に立て篭もった時は頻繁に店に来て、俺のバイト終わりを待っていたりもしたから、かなり意外だ。
 直言こそしないものの彼方此方に気持ちを滲ませる言葉を繰り返した−今思えば本気のものだったんだろう−あの時とは違い、今回は晶子を介して気持ちを明言しているのにアプローチは随分控えめだ。晶子に大きく揺さぶりをかけて、寝込んだことをこれ幸いとばかりにアプローチを開始してくるかも、と思っていたんだが。
 どうも…田中さんは考えが読み難い。読ませようとしない。だが、謎めいたタイプの女性が好きだと、もっと詳しく知りたいと思って追いかけ、深みにはまるかもしれない。見た目も間違いなく良い部類だから、興味本位で近付く人も居そうだ。
 何れにせよ、アプローチされない方が俺にとっては良い。他人からすれば「勿体ない」とか「贅沢な状況」かもしれないが、片方で本命をキープしながら片方で保険を維持するような器用さや甲斐性は俺にはない。俺は晶子で十分満足だし、晶子以外欲しい女性は居ない。
 良く言えば付き合いの幅を広く、悪く言えば二股を推奨するのが今時の恋愛だが、俺はそういうのは好かないしそのつもりもない。だからしない。カッコつけじゃなく−それでも中二病とかレッテルを貼りたがる輩も多いのも事実−、今付き合っている相手に失礼だ。そんなの…。

 時は流れて早くも金曜日。晶子に起こされた俺は、朝飯を食べる前から緊張感に縛られている。昨日まではさして緊張しなかったのに、朝起きたらこんな調子だ。プレッシャーが表面化したのか今まで感じなかっただけか分からないが、兎に角落ち着かない。
 晶子は何時もどおり朝飯を作っている。俺は何時もより遅い時間に出かけるが、晶子はそれに合わせて行動している。更に、俺が帰る時間には大学から戻ることにしている。俺を見送って出迎える心づもりなのが言われなくても分かる。分からない方がおかしいか。

「お待たせしました。」

 晶子がテーブルに並べる食事は、特段豪華になっているわけではない。何時もどおりのメニューだ。特別な日だと意識させずに普通どおりで良いと諭しているんだろうか。色々を考えてくれてるな。
 出来ることはしたつもりだ。院試準備を兼ねた専門内容の対策は、院試の過去問や演習問題の標準的な問題は全問正解出来るレベルになった。やや遅れた一般教養もさして引っかかるところはない。面接が懸案と言えば懸案だが、聞かれたことについて答える姿勢で臨むつもりだ。急ごしらえのメッキはちょっとした傷から簡単に剥がれる。
 食事は普通どおり食べられるが、腹の底から周期的に突きあげるような感覚が気にかかる。自分の心臓の鼓動がこんなによく分かるなんてな…。こんなに緊張するのは何時以来だろう。今の大学の入試の時以来か?
 食事を食べ終わって流しに運ぶ。少し遅れて食べ終えた晶子が洗い物をしている間、茶を淹れて飲む。これで多少は落ち着くか…?駄目だ。腹の底から感じる振動は収まらない。これから試験が終わるまで続くのか…?

「祐司さん。」

 エプロンを着けたままの晶子が俺の隣に両膝をつく。もしかしたら、これより前に居たけど俺が気づかなかったのかもしれない。

「ああ、悪い。ぼうっとしてたか?」
「いえ、さっき洗い物を終えて来てみたら、意識此処にあらずって様子だったのが気になって。」

 やっぱりそんな様子だったか…。今まで試験対策で頭がいっぱいで、それが一種の脳内麻薬になって緊張を感じなくさせていただけなんだろう。

「私に出来ることと言えば…。」

 晶子は独り言のように呟く。エプロンを外して…ブラウスのボタンを外す?!上半分を外してブラウスを左右に開く。当然鎖骨も下着も、下着の下の胸も丸見えだ。夜に見るより鮮明な分、どうしても目が行ってしまう。

「ま、晶子…。」
「まだ出発まで時間はありますし、1回くらいなら疲れて眠くなるより目が覚めるんじゃ…。」

 晶子は髪の拘束を解く。家のことをする時はまとわりついたり料理に入ったりするという理由で髪を結えるのが晶子の流儀だ。一方で、寛ぐ時と夜は必ず髪を降ろす。服を乱したことと言い、その気なのは間違いない。
 晶子は膝を突いたまま俺の正面に移動して、俺の両肩に手を乗せる。「さあどうぞ」と言わんばかりのシチュエーションだ。出発まで1時間以上あるから1回は十分出来る。だけど1回で満足出来るか?否、それより朝で窓を通して外から少しでも見えてしまうんじゃないか?

「どうですか?緊張は。」
「…え?」
「少しは気が楽になりましたか?」

 どういうことか分からない俺に、晶子は舌先を出して悪戯っぽく微笑む。…ああ、そういうことか。ようやく晶子の意図が理解出来た。別のことに意識を向けて緊張から解放しようとしたんだな。

「そう言われてみると…楽になったみたいだ。心臓の鼓動が響かなくなってる。」
「良かったです。変な女と思われたかもしれませんけど…。」
「目の前のものに気を取られてそう思うどころじゃなかった。」

 晶子はある意味我に返ったのか、いそいそとブラウスのボタンを填めて整える。ほっとしたと同時に勿体ない事をしたと思うのも性だな。

「気が楽になったのは確かだ。朝から心臓の鼓動が腹の底から響いて来るような感じで、気になってな…。」
「私が言うのはおこがましいことは承知ですけど…、これで全てが決まるとか思わないでください。万の万の万の一にも駄目だったとしても、私は祐司さんのお荷物にならないようにしますし、祐司さんと一緒に生きる決意は出来ているつもりですから。」
「…。」
「祐司さんが今日まで懸命に勉強や試験対策をしてきたのは知ってます。ですから、大丈夫だとは思ってます。緊張や不安で折角頑張ってきたことが満足に発揮出来ないと勿体ないです。」
「分かってる。そうならないように、緊張を解すためにああしたんだろ?」

 今度は俺が晶子の両肩に手を置く。突拍子もないやり方だったが、俺の緊張を解すために行動に打って出たのは分かってる。晶子が俺に寄生しての優雅な生活を目論んで居ないことも分かってる。
 緊張は適度なら前向きな気持ちを呼び起こして自分を鼓舞する原動力にもなるが、そのさじ加減はかなり微妙だ。大抵は自分を縛る鎖になる。緊張が過ぎると覚えたことは頭から蒸発し、言葉を出すこともままならなくなる。緊張に押し潰されて自滅した事例は古今東西枚挙に暇がない。
 今のところ色々な面で最高水準の企業から内定が出るかどうかの分岐点だが、これで就職活動は全勝が全滅かが決まるわけじゃない。試験対策は後悔しないように怠らなかった。それで駄目だったとしても、晶子が掌を返して逃げ出すことはない。そんな女じゃないと晶子自身が身を以て証明しようと日々奮闘してる。だったら…俺は全力を出すことに専念すれば良い。

「気が楽になったのは本当だ。ありがとう。」
「良かったです…。」
「折角だからもう少し楽になりたい。」

 悪戯心を起こした俺は、晶子を引き寄せてキスをする。晶子は俺の両腕から背中へと両手を移動させて俺に密着する。悪戯心って可愛いもんじゃなくて欲求だが、これくらいは良いだろう。

 密月を堪能した後いよいよ出発。スーツを着て必要なものは全部持った。普段は下駄箱−正体は単なるカラーボックス−に眠っている革靴を履き、準備完了。

「行ってくる。」
「いってらっしゃい。」

 挨拶を交わして軽く身体を寄せて頬にキスをし合う。見学の時は晶子に不意打ちされたから晶子だけだったが、今度は俺も出来た。手を振り合いながら出発。さあ、頑張ろう。
 採用試験の場所は、前回と同じく此処中央研究所の大会議室。広大な室内には1つのテーブルの両端に1人ずつ氏名が貼られた「持ち場」がある。俺は中央の前から3番目、正面向かって右側の位置だ。
 受験票代りに身分証明書として学生証を氏名の貼られた場所に置き、筆記用具だけを出す。本当に閑散としている。氏名が貼られた場所はざっと見たところ、全部で20あるかどうかといったところ。少数精鋭主義なのか、元々採用予定数が少ないのかどちらかは分からない。
 10分前になって試験問題が配布される。表紙に早速名前を記入。時間は迫ってきたが気は楽だ。問題の厚みは…それほどないな。どんな問題が出されるにしても、今日まで積み上げて来たものを出しきるだけだ。

 筆記試験終了。同時に昼休み。筆記試験会場はそのまま休憩所兼待機所になる。極限まで張り詰めていた空気が少しだけ和らいでいる。俺は晶子手製の弁当を取り出し、途中で買ったペットボトルの茶と共に「いただきます」。
 筆記試験の問題は思ったより簡単だった。専門分野も一般教養も、院試や公務員試験レベルの平易なものだった。もっと専門的な内容が出る可能性も考えていたんだが、準備する方が大変か。何処の院試でも特定の専門分野の問題じゃなくて必須科目の中から出題されているのと同じか。
 今のところ手ごたえは十分ある。全部記述型だった専門分野もあまりにもすんなり解けたから、記入場所が間違ってないか最初から全部見直した。2度繰り返したが間違いなく全問記入出来ていた。良い方向で拍子抜けするのは構わない。
 ひとしきり食べたところで軽く室内を見回す。人数は…やっぱり20人居るか居ないかってところか。見たことがない顔ばかりだ。今日の採用試験の対象がどうなのかは知らないが、男ばかりということと此処が中央研究所ということからして設計製作や研究開発の方面なんだろう。
 小宮栄周辺で理工系がそこそこの水準にあるのは、新京大学と小宮栄大学くらい。新京大学近くの金持ちが行く中美林大学は文系のみ。他の大学や短大も殆ど文系学部のみで、医療系も新京大学と小宮栄大学の医学部と薬学部、そこに所属する看護やコメディカル系の学科に集中している。
 近年、看護やコメディカル系の志望者が増加しているらしい。卒業と同時に国家資格の受験資格が得られたり、単位の取得次第で資格が取れたりするからだろう。医療も一生涯全く縁がない人はまず居ないから需要が高い、つまり就職先が豊富だと踏んでのことだろう。
 医療系の就職動向は知らないが、文系はこの辺では最高ランクの新京大学で相当厳しい状況だから、何だかんだ言っても学歴社会が根強く残る、もしかすると強化されている面もある現在では、他の大学だと良くなることはないだろう。大学が就職対策に乗り出して公務員試験に大量合格させたりすれば話は変わってくるが。
 さて、昼飯の続き続き。今日の弁当も彩り豊かで美味い。鳥の唐揚げをメインにしたあたり、晶子が俺のテンションを少しでも上げようと気を配ってくれてることが分かる。…頑張らないとな。

 俺の面接の順番が回ってきた。面接は予想外にも3人ずつ別の部屋で行われている。だから回ってくる速度は1人ずつの時の3倍だ。面接の順番は昼休みが終わって直ぐに発表されたが、俺は3番目。多少の前後はあるが1人30分で進行している。こういう時の1時間なんてあっという間だ。
 多少緊張感が強まってきたのを感じながら、案内に従って面接室の前に移動する。面接室は休憩所兼待機所の大会議室から少し離れた小会議室。面接は個人単位だ。数人一斉に行って、リーダーシップとかそういうのを見るのが今の主流と聞いたことがあるが、面接は必ずこうしなければならないって決まりはない。俺としては自分1人の方が良い。
 ドアを目の前にして1度深呼吸。ノックをして応答を確認して入室する。

「失礼します。」

 面接官は…正面中央に機器開発2課課長の山下さん、その向かって左側は…名前は覚えてないがこの前の企業訪問の時にプレゼンでかなり突っ込んだ質問をしてきた人、そして同じく機器開発2課の和佐田さん。何だか前回の続きのような気がする。

「安藤祐司です。本日はよろしくお願いします。」
「どうぞおかけください。」
「失礼します。」

 落ち着かせるのを兼ねて椅子には深めに腰を降ろす。正面やや右側には演台があり、面接官の背後にはスクリーンがある。面接では10分程度現在の卒研についてプレゼンをすることになっている。PCの準備は万端だ。

「では最初にプレゼンを行ってください。」
「はい。」

 俺は演台にPCを置き、ケーブルを接続して表示を確認する。…よし、OKだ。俺はプレゼンを始める。前回よりかなり進んだが、前提は今回が初めてとして卒研の概要から入り、現在の卒研の中心であるFPGAによるリアルタイムの音声信号処理と立体音響構成の一部を説明する。
 プレゼンの内容は大川さんと野志先生にも確認してもらったが、昨日晶子にも確認してもらった。大川さんと野志先生は卒研のテーマについて十分把握しているが、晶子はほぼ知らないに等しいし、予備知識もない。だからこそ、その晶子に話してもおおよそどういうことをしているのか、今後どうしたいのかが分かるようなものにした。晶子は「音楽や歌声をスピーカで立体的に聞こえるようにしようとしていると分かった」と好評を得ている。

「−以上で終わります。」
「ありがとうございました。以降、プレゼンの内容も含めて面接を進めていきます。」

 俺はPCを手早く片付けて再び椅子に腰かける。司会進行は和佐田さんが担当か。さっきまでのプレゼンといい、やっぱり前回の続きのような気がする。
 面接はプレゼン内容についての質疑応答から本格化する。特に複数の音声を相手にした場合の処理方法や、近年隆盛している携帯機器への応用の展望などについてかなり突っ込んだ質問が向けられる。
 複数の音声を対象にすることは、音声成分をある程度内部で識別−例えばトランペットなら倍音成分が多いし、ピアノは音域が広いし、ドラムは様々な打楽器の集合体で位置が固定されている−して分離してから処理する方法を考えていること、処理速度の問題についてはハードウェアで構成すればさほど問題にならないであろうことと、信号の分離と以降の処理でFPGAを分割することもあり得ると返す。
 携帯機器への応用については、現状では消費電流が大きいので−FPGAで高速処理すれば消費電流はかなり増える−対応は考えていないこと、小さなスピーカを2つさほど広くない室内に設置して、立体音響に聞こえるシステムを前提にしていること、立体音響の処理システムをマイコンに適用する選択肢も考えられるが、現在の研究テーマでは視野に入れていないと返す。
 これらは企業訪問でのプレゼンからある程度予想された。だから事前に大川さんや野志先生と討論して対策問答を作って頭に入れておいた。だが、それでも全てをカバーしきれない。一部は俺の考えで喋った。テーマから逸脱しなければこの辺は自由に答えて良いと言われている。

「−分かりました。ありがとうございます。」

 和佐田さんが質疑応答の終了を宣言する。何だか変わった面接だな…。志望動機とか学生時代に取り組んだこととかを聞くのが定石なんだが、この会社の方針なんだろうか。ありきたりでない分、卒研への理解度や専門分野の知識が試されるってところだろうか。

「一般的な面接の入り方と違って、面食らったかもしれませんね。」

 それまで事務的だった和佐田さんの口調が一転してフレンドリーなものになる。気のせいか、他の面接官の表情も穏やかなものに様変わりしている。

「弊社の研究開発職の面接はこういう形式なんですよ。現在の卒研あるいは修論・博論(註:博士論文の略称)のテーマについての理解度や、現状を踏まえての展望の分析の度合いを図るためです。」
「研究開発職にとってまず必要なものは、専門分野における十分な基礎学力と自分の仕事の状況の把握、そして今後の展望を的確に分析して提案出来る能力。それらに加えて質疑応答で頭にあることを相手に伝え、相手の要望や質問を理解して答える基本的なコミュニケーション能力を見れば、面接には十分というのが弊社の方針です。」
「黒柳が挙げた観点からしても、安藤さんのプレゼンと質疑応答は非常に高い水準に達している、というのが私の率直な感想です。それは黒柳と和佐田も同じでしょう。」

 変わった面接方針だが、理に適っている。ありきたりな面接では幾多の問答集が出ている。だが、それらはある意味表面上取り繕ったものでもある。集団形式にしても、問答集ではサークルやボランティアのリーダーとして統率力やコミュニケーション力をアピールすることとある。だが、それらのどれだけが本当なんだろう?
 個性だ何だと言いながら、実はある形式を順守したものを100点として、そこから粗探しをして減点していくのが、多くの事例で見受けられる。面接ではそれが特に顕著に出る。企業にしても役所にしても、職務に取り組む能力を図らずにどれだけ自分たちが決めた形式に添えるよう取り繕えるかを見るから、人事部が妙な権力を持つ割に使えない人間でも採用してしまう。こんな程度の人事こそ典型的な官僚主義の害悪の塊だし、リストラ対象とすべきだ。
 高須科学では、人事は手続きや異動など人の流れを制御する交通信号のような部署だ、と和佐田さんが以前メールで話してくれた。だから、この場の面接は実際に仕事をする人達が出て来ていて、人事や総務など事務方が出て来ていないんだろう。異端的ではあるが、本当の意味で合理的だ。

「それに加えて、安藤さんは増井先生と久野尾先生の強力な御推薦もありますし、今回私達が推薦して大学を通して採用試験を受けてもらった学生さんです。今回の採用試験は研究開発職への適性を確認する意味合いのもので、落とす落とさないの次元ではありません。」

 確認、か。機器開発2課という名前からして研究開発職だと分かる職名で採用するに値するかどうかの確認は、概ねさっきのプレゼンと質疑応答で完了したようだ。とは言え油断はならない。面接は現にまだ続いている。

「安藤さんは今、緊張していますか?」
「はい。採用面接は御社が初めてですし、相応の対策は練ったつもりですが、頭から大半が蒸発してしまって…。」
「一般的な面接対策なら、弊社ではむしろ忘れた方が良いです。現に、プレゼン後の質疑応答では柔軟な思考や広い知識が率直に窺えましたし。」
「面接でマニュアルどおりの受け答えしか出来ない方が、研究開発職では出来ることや用意されたことしか出来ないのでは、と不安に思います。では、ここで安藤さんの緊張を解すためにも、プレゼンや専門分野とは少し離れたことについて幾つかお訊ねしましょうか。」

 俺の緊張はまだ解けないが、雰囲気は至って穏やかだ。面接の核心はプレゼンと質疑応答で終わって、後は雑談程度と見て良いんだろうか。…やっぱり油断はならないな。聞かれたことに率直に応えることは貫こう。

「安藤さんは、学生時代に学業とゼミやサークル活動以外で何か一生懸命取り組んだ思い出はありますか?あったら、その出来事を聞かせてください。」
「…昨年の夏に、プロのミュージシャンの人達と一緒に新京市公会堂でコンサートを開いたことです。」
「ほう、コンサートですか。ということは、安藤さんは何か楽器が出来るんですか?」
「はい。ギターを弾けます。」
「それを先に知っていたら、此処で1曲弾いてもらえましたね。」
「それは入社してからでも遅くはないよ。」
「仰るとおりですね。では、その経緯などを聞かせてください。」

 俺は去年の夏の思い出を順番に話す。元々プロのミュージシャンとして活躍していたバイト先のマスターが、旧友のメンバーからのコンサート開催を打診してきたこと。昼はバイト、夜は時にジャズバーなどに出向いての練習と忙しかったこと。当日は満員となった新京市公会堂のステージで最後まで演奏しきったこと。プロとして演奏している人達との交流は、今までにない厳しい面もあったが、成功に終わって全てが良い思い出になったこと。
 思いがけない話だったし、プロのミュージシャンとの練習は相手方の都合上どうしてもバイトが終わってからの深夜になったから、体力的に厳しいことも多かった。おまけに迂闊にも当日に熱を出して危機的状態になった。だが、発熱は上手い具合に収まり、コンサートは大成功した。あのコンサートはひと夏を費やした価値が十二分にあったと今でも確信している。

「なかなか興味深いお話でした。」

 和佐田さんは感嘆した様子で言う。黒柳さんとその隣の人も、感心した様子で頻りに頷いている。

「人の繋がりがないと出来ない経験なのもそうですが、異なる年代や職業の人達と音楽という手段でコミュニケーションを取って、目標を達成した経験は素晴らしいですね。」
「大きな目標に共同して真摯に取り組んだことがよく分かりました。そのような姿勢は非常に好感が持てます。」
「サークルやゼミでの話は、面接だと大体リーダーだったとかボランティアで先陣を担ったとかそういう話なんですよ。それは本当なら立派ですけど、そうそうリーダーや先頭に立つ立場になるわけがない。マニュアルどおりの受け答えよりずっと興味深かったですし、聞いていて楽しかったです。」

 全員から好評を得られたようだ。好評を得るために作ったわけじゃないし、この場であれだけの話を創作できるほど俺は文才がない。俺の思い出や努力といったものが良い評価を得られて嬉しい。晶子は恐らくこうはいってないんだろうな…。

「時間の都合もありますから、…質問はあと1つにしましょう。少々プライベートに踏み込むことですが、安藤さんはご結婚されているんですか?」

 可能性はあると踏んでいたが、此処で来たか。だが、迷うことはない。現状を率直に伝えるだけだ。

「婚約しています。今年中に入籍する予定です。」
「お相手は同じ大学の方ですか?」
「はい。」
「安藤さんが弊社に就職されると通勤される場所は此処になりますが、お相手が同じ地域に就職できるとは限らないのが、今年の女子学生の就職事情です。それに関してはどうされる方針ですか?」
「その可能性は当初から考えられたことですので、彼女と話し合いました。彼女は安心して子どもを産みたい、そのためには自分も財政基盤の構築に参加する必要がある、だから就職先によっては当面別居になることを許してほしい、と言い、私は応諾しました。」
「「「…。」」」
「そうなった場合、何年別居が続くのかは分かりません。その間に心変わりがないという保証もありません。ですが、私におんぶに抱っこになりたくない、働ける限りは働いて安心して子どもを産める環境を整えたい、万が一自分が心変わりするようならいかなる制裁も甘んじて受ける、だから自分の我儘を許してほしい。そう言って私に頭を下げさえした彼女を信じます。」

 話し合って結論を出したが、それで不安が消えるわけじゃない。だが、晶子は本当に頭を下げた。家で座っていたから必然的に土下座になる。加えて晶子は、口約束にならないようにと契約書の作成も提案した。話し合った結論をすべて記載し、いかなる制裁も受けるし一切文句などは言わないという文言も漏れなく加える、というものだ。
 そこまでして俺に承認を得て、別居する場合になっても子どもを産める環境を整えることに自分も参加したいという晶子の強い意志と、自身の裏切りに逃げ道を作らない晶子の姿勢を信じたい。信じないと…家族は出来ないし夫婦生活も成り立たない。

「なるほど。安藤さんとお相手で話し合って、将来像を考えているんですね。」

 和佐田さんは納得した様子だ。黒柳さんと隣の人も同じく納得した様子だ。晶子の場合だと非難轟々だろうな。

「公私とも充実した学生生活を送られていることが分かりました。お相手と無事ゴールインされることを願っています。」
「ありがとうございます。」
「本日はお疲れさまでした。気をつけてお帰りください。」

 面接は終わった。俺は「失礼しました」の締めくくりで退室する。小さい溜息が出る。さて、帰ろう。やることはやった。晶子が家で待ってる。
 ようやく帰宅。ドアの前に立ち、インターホンを鳴らす。程なく人の気配が近づいてきて鍵が外れる音がする。チェーンで制限される分だけドアが開いて晶子が顔を出す。

「お帰りなさい。今開けますね。」

 一旦ドアが閉まり、鍵とは別の金属音がしてドアが改めて開けられる。朝と同じ服装の晶子が真正面で出迎える。俺は中に入ってドアを閉め、鍵をかけてから挨拶をする。

「ただいま。」
「お帰りなさい。お疲れ様。」

 晶子は両手を広げる。俺は靴を脱いで上がり、晶子を抱きしめる。晶子は俺の首に両腕を回して抱きつく。何だかドラマか何かのワンシーンそのものだが、両腕を広げた時点でこういうことを期待していたことくらいは分かるようになってきている。

「大学には行かなかったのか?」
「大学じゃなくても試験勉強は出来ますから。」
「そうか。変なこととかはなかったか?」
「新聞の勧誘が来ましたけど、祐司さんの言うとおり、ドアチェーンを掛けて『要りません』の一点張りで帰ってもらいました。」
「きちんと対処してくれたな。ありがとう。」
「祐司さんが不在の間は、妻の私がきちんと預かります。」

 抱き合ったままだから小さな声で良い。晶子の囁くような声が左耳に心地良く流れ込んでくる。俺の声は晶子の左耳に流れ込んでいるが、晶子にはどう聞こえてるんだろうか。
 名残惜しさを感じながら離れて、晶子に弁当箱を渡す。昼間の憩いと午後の活力になった弁当は今日も美味かった。晶子にそう伝えると喜んでくれる。晶子は弁当箱を洗って洗い桶に入れる。明日から連休だから少しの間お休みだ。俺はキッチン横の茶箪笥からティーカップを取り出して、テーブルに向かう。そこには晶子が使っていたティーポットがある。そこから汲むくらいは晶子を待つ必要はない。少しして晶子が戻ってきて俺の隣に座る。

「どんな感じでしたか?」
「良い感じだった。筆記試験は完全回答出来たし、面接は最大の関門だったプレゼンが高評価だった。」
「良かったですね。」
「晶子が緊張を解してくれたおかげだ。ありがとう。」
「どういたしまして。私がお役に立てたなら十分です。」

 朝に晶子が執った策には面食らったが、そのおかげで緊張が解れた。今回初体験の面接では流石に緊張したが、プレゼンを乗り切れたから問題ない。
 俺の隣で密着している晶子。視線をふと下に落とす。きっちり第1ボタンまで填められたブラウスから、微かに下着が透けて見える。普段はこういう服だと必ずベストを着用するくらいガードが固いから、新鮮だしエロティックだな…。話をして意識を逸らすか。

「面接の最後で、結婚してるのかって聞かれた。」
「何か…言われましたか?」
「否。俺は現状−法的に見て婚約状態だから婚約中で年内に入籍予定ってことを話して、就職で同じ場所に住めなくなったらどうするかって聞かれて、彼女と話し合って結論を出している。彼女は安心して子どもを産みたいし、それを俺に完全依存したくないから就職を目指している。その結果当面別居することになっても許して欲しいと言って、自分は応諾した、って答えた。納得した様子だったし、面接の司会担当の人は無事ゴールインして欲しいって言ったくらいだ。」
「全然違いますね…。でも、私とのことをきちんと話してくれて嬉しいです。」
「婚約者って表現が晶子には不服かと思ったんだが。」
「法的には婚約の方が正しいですし、私が願望を先行させて安藤姓を名乗ったり結婚を公言しているんですから、不服には思いませんよ。」

 不満に思うかと少し危惧したが、冷静に判断出来るな。傍から見れば暴走に思えることも、TPOに応じて使い分けや現状優先が出来るなら、悪い意味での「自分の世界」にのめり込むことはないだろう。
 ふと視線が晶子の顔から下に向かう。下着がうっすら透けて見えるブラウスがやっぱり気になる…。男の性だな。普段ならそれほど気にならないだろうが−気にはなる−、朝に緊張を解されるほど強烈なものを間近で見たからだろう。
 俺は晶子の肩に手をかけて引き寄せる。晶子はすんなり俺に更に密着し、身体の向きを俺と向き合う方向に変える。挨拶代わりに軽くキス。唇を離してキスの前の距離で向き合ってから、両手を肩からブラウスに移す。
 上から1つ1つボタンを外していく。鳩尾あたりまで外すが、晶子の手が止めたり身体全体が撥ね退けたりすることはない。敢えて晶子の顔は見ずに−見るとそれ以上何も出来なくなる気がする−ブラウスの襟辺りに両手をかけて開く。首から下の白い肌と、ブラウスの下から微かに見えていた下着が鮮明な姿を現す。
 ブラウスを肩辺りまで開くと、下着とその下にある2つの豊かな隆起がほぼ全容を現す。半裸に近い状態だが、晶子からは何の反応もないのが今更ながら気になってきた。少し様子を窺い気味に晶子を見ると、晶子は少し頬を赤らめて俺を見ている。

「…ご希望ですか?」
「…下着がうっすら透けて見えてるのが妙に気になってな…。」
「普段は透けないようにベストを着てますから。今は…別に構わないですし…。」

 目の前にはほぼ全容を現した下着とその下の胸。鎖骨や肩も露わだ。レースのカーテンを閉めているが昼間の光は十分目の前の光景を照らし出す。夜見る時とは違う美しさと淫靡さを溢れさせている。これを見て興奮しない方がおかしい。

「ご賞味は…出来ればベッドで…。」

 晶子は1つ希望を挙げて、後は視線を少し横に逸らしてじっとしている。この希望は叶えるも無視するも実質自由だ。稀に性欲が突沸した時に床に押し倒してことを始めても、晶子はごく軽く抵抗するだけだ。今回もそうしても晶子の予想される反応は今までと変わらないだろう。
 半裸に近い状況にしたこの状況でふと思う。このまま続行して良いものか?何だか晶子を性欲発散の道具にしてしまっているような…。晶子は度々「自分で性欲を発散して欲しい」「自分で興奮するのは嬉しい」と言うが、それに甘えるのはな…。

「…夜にたっぷり賞味させてもらう。」

 俺は晶子のブラウスを元に戻す。晶子は視線を俺に戻してされるがままにしている。開いた部分を閉じて、ボタンを全部填めて、最後に随所を軽く引っ張って整えて完了。

「興奮したから脱がして押し倒すってのが普通だと動物みたいだし、そういうのって何だかな…。」
「私は良かったんですよ?」
「それは分かってる。朝にしたって、ポーズだけじゃなかったんだろ?」
「はい。」
「今回はあえてしない。楽しみは慰労も兼ねて夜に取っておくことにした。」
「分かりました。」

 晶子にしてみれば、昼間にブラウスを脱がされて押し倒されることを想定していたのに撤退されるのは腑に落ちないだろう。だが、思う存分晶子を味わう時間がある。その時に楽しみを取っておくのも乙なもんだ。
 それに、突沸する時は仕方ないにしても−正当化でしかないかもしれないが−したいから脱がして押し倒すってのは、何となく本能任せの放埓さが気にかかる。昼のガードが固い良妻の面と夜の全てが淫猥な専用娼婦の面のギャップが晶子の身体に飽きない大きな理由なのに、本能に任せて何時でも押し倒してたらそのギャップが楽しめなくなる。
 元に戻した晶子を改めて抱き寄せる。晶子は俺の背中に手を回して密着してくる。

「今日の採用試験が無事に出来たのは、晶子のおかげだ。それは間違いない。」
「私は…役に立ってるんですね…。祐司さんに甘えて一緒に居させてもらっている私が…。」
「俺が大学や、4年になってからだと試験の準備に専念出来るように身の回りのことを律儀に整えてくれるのは、晶子にしか出来ないことだ。月並みな言い方だが、俺には晶子が必要なんだ。」
「嬉しい…。」

 俺は晶子をしっかり抱きしめる。今日の結果が出るのは連休明けだからまだ安心は出来ない。だが、筆記試験と面接を両方問題なく終わらせられたのは、晶子の強力なバックアップがあったからだ。内定が取れたら改めて晶子に礼をしよう。
 公務員試験が本格化するからこれまで連戦連敗だった晶子の状況も変わるだろうが、晶子にとっては俺が他にはない強力なセーフティネットになり得る。万が一全敗でも俺というセーフティネットがあれば、晶子は存在意義を見いだせる。さっきも言ったが、俺には晶子が必要だからだ。
 こういうのを共依存とか言う向きもあるだろう。依存する必要があるなら、依存する相手を大切にしよう。依存しっ放しじゃ耐えられずに折れてしまうかもしれない。ふと弱った時に依存しても受け止められるように相手を労り、依存されても受け止めるために自分を強くしていけば、それで良い。
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