雨上がりの午後

Chapter 282 大舞台に向けての歩み

written by Moonstone

 居室に戻った。高須科学に関する当面の重要な情報は得られたし、返事があるまで卒研を進めるか。PCのロックを解除するとウィンドウ下に新着メールの
告知が出る。何処からだろう?
新京大学工学部電子工学科 安藤祐司様

平素はお世話になっております。高須科学機器開発部機器開発2課の和佐田です。
お問い合わせの件について回答いたします。

>1.私が窺う場所は、貴社小宮栄事業所で間違いないでしょうか?
>  また、入構手続きなどありましたらご教授願います。
当日お越しいただくのは当方の部署がある本社研究所の方になります。
地下鉄の港区役所駅3番出口から東へ徒歩5分のところにあります。
詳細は弊社Webサイトの「交通アクセス」でご確認願います。
正門直ぐに守衛所がありますので、企業訪問に来たこととお名前を告げれば
入構許可証が発行される手配をしておきます。そのまま直進すればエントランスです。
正面受付でお名前を告げれば、私がお迎えにあがります。

>2.もしよろしければ、当方の卒業研究についてのプレゼンテーションを
>  行わせていただきたいと思います。ご検討をお願いいたします。
是非行っていただきたいと思います。
見学後の質疑応答の時間にプレゼンテーションの時間を設けますので、ご準備願います。
概ね発表時間を15分から20分を目安にしていただければ、内容は特に問いません。

当日のご訪問を心よりお待ちしております。
以上、よろしくお願いいたします。
 早速返事が来た。オフィスビルじゃなくて研究所の方に行くのか。事務や営業関係がオフィスビルで、研究開発は研究所や工場っていう住み分けが
なされているのかもしれない。プレゼンテーションの申し出は快諾されたか。卒研の概要と方針、現時点での進捗あたりをメインに固めれば良いかな。
 返答へのお礼をしたためて送信。これで当座の大きな目標が出来たわけか。他の企業もエントリーシートの提出が始まっているし、公務員関係の試験も
日程が現実のものとして近付いて来ている。高須科学に早々に絞らずに手を広げておいた方が良いな。
 企業の業種の絞り込みはそれほどしていない。高須科学の例もあるから、業種を絞り過ぎない方が良いと判断して、電気電子卒を募集している企業を探す
という、かなり漠然としたものだ。それでも業種にこだわらなければ募集はかなり多い。これはインターネットから見るものだけじゃなくて、工学部事務室の
掲示板に張り出される求人票でも同じことが言える。電機メーカーや電子部品産業など研究テーマに近い企業に限定しなければ、求人数は豊富というべき
数がある。
 音楽関係の企業−特にレコード会社を探してみたが、求人票にはその名は見当たらない。大手と呼ばれる誰でも名前を知っている企業は電気関連企業
なら殆どあるが、レコード会社では一社も該当しない。やはり、基本は関連専門学校卒か縁故採用らしい。音楽に携わるのは相当早い時期からそのルートに
食い込まないと無理なようだ。
 残念ではあるが執着はない。趣味を仕事に出来ないと分かって、それ以外の就職先を探すことに専念出来る。断念するなら早い方が良い。その方が
切り替えがしやすいし、切り替え後の時間も多く取れる。

「安藤君、居るかな?」
「はい。」

 学生居室に大川さんの声が広がる。学生居室で俺を呼ぶのは殆ど講義に関する「教えて」コールだから、それ以外の呼び声だとむしろ安心する。

「信号処理回路のプロトタイプが出来たから、書き込みから動作チェックまでひととおりやってみよう。」
「分かりました。」

 卒研が一段階進む瞬間かもしれない。俺は急いでPCをロックし、卒研関連の資料を抱えて大川さんのところへ向かう。大川さんも早く試したくて気持ちが
逸っている様子だ…。
 学生居室の自分の席に戻って一息吐く。携帯の時計を見るともう5時を過ぎている。あっという間に時間が過ぎたな…。大川さんが開発した信号処理回路の
プロトタイプは最終的には無事動作した。何度か細かいバグが出てそれを修正してFPGAに書き込み、動作をチェックすることを何度か繰り返した。1回で動作
すれば何の苦労もしないことは学生実験で体験しているから、何とも思わない。
 バグが出ずに全ての動作が確認出来るまで、俺もソースのチェックと修正、書き込んでロジアナでチェックすることに携わった。これまで勉強していた演習
問題などのようにバグが分かるように用意されてないから−流石にそんな余裕は大川さんにもないだろう−、大川さんから受け取ったソースリストを何度も
読んでバグらしいところを探るのは大変だった。
 持ち歩いているノートには、今回のバグと解決過程が殴り書きされている。改めて読み返すと、入力信号を取り込むA/Dコンバータ(註:温度など連続した
値をたとえば0〜4095の数値に変換して出力するICの総称)からデータを読みとるところでバグが集中していたことがよく分かる。クロック(註:A/Dコンバータや
FPGAなどが動作するために必要な既定の周波数と振幅を持つ入力信号。CPUの動作周波数はクロックの周波数でもある)とA/Dデータの取り込む
タイミングがシビアだったからな。
 これらの過程をまとめると共に、信号処理回路に改良を加えていくことになった。立体的に聞こえるように複数の信号成分を混ぜる処理の追加がメインに
なるが、今回の信号処理回路がひととおり動作したことでかなりの進展が見込めると大川さんは言っていた。大川さんには企業訪問の際に行う自己
アピールとして、卒研の現在までの進捗をプレゼンしたいと申し出た。企業名は伏せたが大川さんは快諾してくれて、プレゼンの内容をチェックすることを
約束してくれた。大川さんも就職活動で使うらしいから丁度良いらしい。
 帰る準備をしてから携帯を広げる。晶子からメールが来ている。実験室に居る間に着信したが、その場では見ることも返信することもしなかったし
出来なかったから、今初めて見る。
送信元:安藤晶子(Masako Andoh)
題名:一足先にバイトに行きます
今頃祐司さんは卒業研究の真っ最中でしょうか。私は時間が時間ですので、
合同説明会の会場から直接バイトに行くことにします。
結果は…今回も全部駄目でした。残念です。後で祐司さんとお話したいです。
 今日も全滅か…。今回は中小企業中心だから、大企業中心だったこれまでと対応が違うんじゃないかと期待していたが、そうでもなかったか。短い文章の
中に晶子の落胆と悔しさ、徒労感が篭っているように思う。
送信元:安藤祐司(Yuhji Andoh)
題名:今から帰る
メールありがとう。結果は残念だったとしか今は言えない。
俺は卒研がさっき終わったところだから、家に寄らずにそのままバイトに向かう。
積もる話は色々あるだろうから、バイトが終わってからでもゆっくりしよう。
今は何処に居るか分からないが、気をつけて…。
 荷物をすべて持ってから送信。晶子からのメールの着信時刻からすると、今は店に着いている頃かもしれない。遅いかもしれないが、何もないよりはまし
だろう。晶子の顔を見ないことには俺も安心出来ない。
 大学を出て駅へ走り、電車に乗って最寄り駅で降り、その足で店に向かう。セーターの裏側、シャツの胸ポケットにある携帯は微動だにしない。無事に店に
到着していれば良いんだが…。落胆の余りバイトに行く気力がなくなったなんてこともありうるからな…。
 夜の帳が下りた道を走っていくと、並んだ窓から明かりが漏れる白い建物が見えて来る。今日も盛況だろうが、晶子が気になって仕方ない。俺はやけに
高鳴る胸を抑える術のないままドアを開ける。

「こんばんは。」
「おっ、祐司君。今日はギリギリだね。」
「晶子は?!」
「はい。」

 エプロンを着けて髪を後ろでまとめた、何時もの仕事スタイルの晶子がキッチンの奥からひょっこり顔を出す。その瞬間、胸の嫌な鼓動が急激な運動で悶絶
するものに変わる。深呼吸がてら深い溜息を吐いて心臓の荒れの収束を図る。

「晶子さんは何時もより少し早いくらいの時間に来たよ。ひとまず食事を食べなさい。」
「そうします…。」

 俺はカウンターに座る。カウンター越しにトレイに乗った夕飯を出したのは、潤子さんじゃなくて晶子だ。晶子は無言だが、申し訳なさそうな顔をしている。
俺は「気にしなくて良い」という意思表示で首を小さく横に振ってトレイを受け取る。

「遅くなる理由は分かってるから、ゆっくり食べてね。」
「はい。」
「ちなみに、今日の食事は晶子ちゃんが作ったのよ。」

 そうだったのか。此処での食事は今まで潤子さんが用意しておいてくれたが、こういう時には晶子が担当することにしたんだろうか。それとも、晶子が自分の
居場所を確認するために自ら申し出たか。何れにせよ、晶子の料理はすっかり身体に馴染んでいるから、弁当以外でも食べられるのは嬉しい。腹ごしらえを
してバイトに臨もう。晶子の話を聞くのはその後だ。
 バイトが終わり、2人で帰宅。明かりが灯った家には、湯船に湯を張る音が微かに聞こえるだけだ。晶子は俺を背もたれにするお気に入りのスタイルで、
自分のウエストを軽く抱く俺の左腕を弄っている。時に小さな溜息が洩れる。俺は黙って晶子専用の座椅子であり続けるだけだ。

「少しでも基準と違う学生は受け付けない…。企業側は規模を問わずにそんな態度なんですよね…。」

 今日の出来事を語り終えた晶子は呟くように言う。学生の分際で結婚とはふしだらなど倫理を持ち出すものの他、既婚の女子学生は要らないと明言された
ものまで様々だが、何れも晶子が堅持する境遇を唯一絶対の拒否の理由にしていることが分かった。話を聞くと、晶子への態度は左手薬指の指輪を見る
ことで一変するようだ。美人の学生が来たと思って鼻の下を伸ばしていたら既婚だったと分かって、大きな落胆が強い拒否感へと変貌するんだろう。それは
すなわち、女子学生の採用は社員か自分の嫁候補を探すためのものだと公言しているようなもんだ。

「…晶子は就職のために指輪を外すつもりはないんだろ?」
「はい。」
「…公務員試験に全面切り替えした方が良いな。合同説明会に行くことが必須でないなら。」

 晶子が既婚の立場を一時的にでも変えるつもりがないなら、女子学生を嫁候補と等価と位置づけているところが殆どのような企業より、基本的に試験に合格
すれば差別はないと言われる公務員に全力投球した方が良い。時間も金も無駄だし、何より晶子の心が傷つけられるのを放置できない。

「合同説明会はゼミの面々と行ってるのか?」
「いえ、志望企業や業種が色々ですから個人単位です。複数固まって移動している場合もあるかもしれませんけど。」
「それだと尚更、公務員試験の準備に切り替える方が良いな。手間と金をかけて詰られるだけなんて、何も晶子のためにならない。」
「そう…ですね。」

 今まで懸命に努力してきたのに何の成果も出せずに断念するのは悔しいだろう。だが、往復して詰られて拒否されるだけなんて、正にいじめだ。好き好んで
いじめに遭いに行く必要はない筈だ。
 給湯が完了した合図の電子音が風呂場から聞こえて来る。晶子の疲れも相当あるだろうし、風呂に入って寛ぐべきだな。

「晶子。…風呂に入ろう。」
「あ…、は、はい。」

 「風呂に入って」ではなくて「風呂に入ろう」とした意味は晶子に伝わったようだ。俺は先に立ちあがり、晶子に手を差し出す。晶子はしがみつくようにその手を
取り、俺は晶子を立ち上がらせる。そのまま手を繋いで電子音が鳴り続ける風呂場へ向かう。着替えは先に準備してあるから、取りに戻る必要はない。
 洗濯機置き場も兼ねている脱衣場は、2人入るとかなり手狭だ。ぶつからないように注意しながら服を脱いでいく。晶子も躊躇いなく脱いでいく。脱ぎ終えて
からドアを開け、先に晶子を入れる。俺はドアを閉める。湯船に湯を注ぎ続けていた蛇口は晶子が閉める。晶子が俺の背中を流し、俺が晶子の背中を流し、
それぞれ身体と髪を洗って湯船に浸かる。晶子が洗髪に時間がかかる分、俺が先に終わって湯船から晶子を眺める形になる。髪を洗い終えた晶子は再び
髪を束ねて、俺の目の前で湯船を跨いで身体を湯に漬ける。

「そっちに行って良いですか?」
「おいで。」
「はい。」

 何度目かの一連のやり取り。晶子が俺を専用座椅子にするスタイルの密着の前にかわされるこのやり取りは、些細なことだが重要なコミュニケーション
なんだと思う。晶子のウエストに左腕を回すと、晶子はその左腕に触ったり軽く持ちあげたりする。風呂に入るまでしていたことと同じだ。
 旅行から帰ってから一緒に風呂に入る機会は、実はあまりない。習慣化すると歯止めが効かなくなるような気がするし、俺と晶子では入浴時間が大きく違う
から晶子を急かせてしまうと思ってからだ。特に晶子の就職活動の情勢が悪化の一途を辿る中、風呂は1人でゆっくり入った方が良いと思ったのもある。だが、
俺に完全に身体を委ねて俺の左腕を弄っている様子からは、この時間と環境を楽しんでいると感じる。相手の状況や心境を慮(おもんばか)るのも大事だが、
積極的にスキンシップを図るのも大切なんだろうか。

「一緒にお風呂に入れて…嬉しいです。」
「状況が状況だから控えてたんだが、誘っても良かったかな。」
「辛いことや哀しいことより、誰にも構ってもらえないことの方がずっと寂しくて哀しいことなんですよ…。」

 構ったり敢えて放置しておいたりするバランス感覚はなかなか微妙な感性が求められる。個人の感覚が大きく異なるのもあるし、受け止める相手と本人の
関係によって異なるさじ加減を求められるのもある。ある人には構ったことが鬱陶しく思われても、ある人には気にかけてもらえるなどと好意的に受け止め
られることも往々にしてある。
 晶子の場合、俺が構うのは嬉しいこととしてプラス方向に働くことは分かっている。だが、今は晶子の状況が状況だから構われること、特にスキンシップを伴う
ことはいくらかでもマイナス方向に働くだろうと推測していた。だが、今の晶子の反応を見るとそれは誤りだったようだ。やっぱり加減が難しい。

「私の状況が状況ですから気遣っていてくれたんですね。それは凄く嬉しいですけど、構ってもらえることで辛さや哀しさはぐっと癒されるんです。この家に
帰れば、祐司さんの元に戻れば私の居場所はあるんだ、私は必要とされてるんだ、って分かりますから。」
「今日のバイトで俺の分の夕飯を晶子が作ったのも、そのためか。」
「はい。潤子さんに頼んで作らせてもらったんです。私が作りたいと言って。」
「美味かったぞ。晶子の料理が一番馴染んでるからな。」
「良かった…。」

 晶子は俺の左腕を抱き寄せる。俺は力を抜いて晶子のしたいように委ねる。左腕の代わりに右腕を晶子のウエストに回すが、晶子は変わらず俺の左腕を
抱きかかえていて気に留めない様子だ。

「話を替えても良いですか?」
「ああ。断るまでもないと思うが。」
「今までずっと私のことばかりでしたから気が引けて…。」

 晶子は俺の左腕を抱え込んだまま一呼吸置く。

「祐司さんの就職活動はどんな具合ですか?」
「今日、かなり進展があった。」

 俺は今日の高須科学とのメールのやり取りについて話す。高須科学から非公式企業訪問の打診があったこと自体は、晶子も居た「仕事の後の一杯」の場で
話したから知っている。だが、その後についてはあまり話していない。毎回門前払いで帰ってくる晶子の心情を考えてのことだ。俺のこととはいえ、同じ大学の
同じ学年なのにこうも就職活動で落差があると、晶子の落胆がより大きくなるんじゃないかと思ったからだ。

「−こんなところ。来週の火曜日に向こうに行く。」
「メールの内容を聞いた限りでは、祐司さんはかなり歓迎されているようですね。企業側は乗り気だと思います。」
「プレゼンの申し出はメールを送ってから出しゃばりかと思ったんだが、そうでもなかったみたいだ。」
「そういう申し出が出来る学生は、企業側は歓迎しますよ。一般の企業訪問や説明会でなくて、大学を通じた非公式な訪問でも学生側が本気で乗り込んで
くるんですから。」
「そこ一本に絞ってはいないが、妙な選り好みはしないで良ければそこに決めるつもりでいる。」
「祐司さんにお任せします。私は祐司さんの足手まといにならないように自分のことを考えますから。」

 晶子の就職活動に全く好転の兆しが見えない現状では、俺が出来るだけ早期に進路を決めること、すなわち事実上就職先を決めることが重要だ。その
方が、公務員試験に専念するように俺が促した晶子も受験先を絞り込める。地方公務員だけでもこの近隣で10を優に超える自治体がある。それぞれで試験を
実施しているから手当たり次第に受験するのは効率が悪いし、試験日程が重なったら受験そのものが出来なくなる。高須科学だけに絞ると、今後の進展次第
では俺が就職活動に行き詰る危険もある。業種をやたら絞らずに情報を集め、より良い−給料や知名度だけじゃなく長く働き続けられるところを見極める
必要がある。責任は大きいが、それは俺と晶子の関係では俺が主に担うべきものだろう。
 1つの色々な意味で大きな機会は1週間足らずで訪れる。プレゼンの準備も必要だし、服装とかのチェックも必要だ。だが、晶子が独りじゃないように俺も独り
じゃない。晶子が居れば前に進める。晶子が居るから…前に進む。
 緊張する場面が近付く場合の時の流れは早い。大学受験もそうだったと思う。

「祐司さん、どうですか?」
「何とか…。」

 俺は隣に居る晶子に向き直る。いよいよ高須科学訪問当日。俺は当日大学から行くのは服装の準備が厳しいと思って、大学は前日断りを入れて休んだ。
晶子も連動して休んでいる。俺は脱衣場近くの鏡の前でスーツとネクタイを着用して、晶子に見てもらう。

「ネクタイの結び目が変ですね。」
「どうもネクタイは上手く結べないんだよな…。」

 ネクタイを結ぶにもどれだけかかってるか分からない。これが俺に出来る最大限の状況だ。成人式に出る時もネクタイを結ぶのが結局自分では様に
ならなくて、父さんにやってもらったんだよな。

「私が結びますよ。」
「最初からそうしてもらった方が良かったかな。」
「一応自分で結ぶ練習もしておいてくださいね。」

 晶子はネクタイを解いて結びにかかる。長さを調整して極端なほど長くした方を短い方に絡めて…あっという間に結んでしまう。どうやって結んだのか確認
出来ないほど素早かった。
 俺は鏡の方を再び向く。俺が結んだものとは結び目も全体の直線具合も全然違って、ずっと様になっている。1本のネクタイが結ぶ人間によってこうも違う
とは…。しかも俺と晶子では見る角度が全然違うってのに。

「完璧だな。」
「本を読んで練習してたんですよ。ハンガーを祐司さんに見立てて。」
「大したもんだな。」

 ハンガーも見方によっては相手の胸元に見える。何時の間に練習していたのか知らないが、埒が明かない自分の就職活動もこなしつつ、俺が出来なかった
場合に備えて結べるようにしておいてくれたのかと思うと、感謝の言葉が見つからない。
 床に置いておいた鞄を持つ。中にはプレゼンのスライドを入れた自分のPC、万が一のスライドデータ破損に備えて−そうなっていたら多分PC自体が使え
ないだろうが−コピーしたUSBメモリ、高須科学の交通アクセスをプリントアウトしたものなどを修めたファイル、筆記用具、折り畳み傘が入っている。

「準備完了ですね。」
「何だか違和感がある。スーツを着るのは成人式以来だからかな。」
「着ていれば身体に馴染んできますよ。」

 晶子はスーツの襟元を整えてくれる。弁当や朝飯の下ごしらえをするため、と髪を後ろで纏めてエプロンを着けている晶子は、甲斐甲斐しさも相俟って
魅力と愛しさ数倍だ。

「さて、と。」

 俺は晶子に見送られながら数歩先の玄関に出て靴をはく。靴も普段と違ってスーツに合わせた革靴だから、違和感満載だ。晶子の言うとおり、着ている
うちに順応するのを期待するしかないか。

「ドアチェーンはかけて、名乗らない相手にはドアを開けないように。」
「はい。」
「それじゃ、行って来る。」
「行ってらっしゃい。」

 俺が立ちあがったところに、晶子が左肩に両手をかけて頬にキスをする。…狙ってたな。俺は照れ隠しに晶子の頬を人差し指で軽く突いて、小さく手を振る
晶子に見送られて家を出る。帰宅してからお返ししてやるか。
 久しぶりに填める腕時計で時間を確認。11時半を少し過ぎたところだから十分余裕はある。昼飯は早めに済ませたし、迷うことはない。今俺が出来ることを
するだけだ。
 何時もの駅に出て、何時もと向かい側のホームに立つ。この時点で違和感が数割増しになる。大学は新京市方面にあるのに対して、高須科学は小宮栄から
地下鉄を使ったところにあるから、駅から行動方向が正反対になることくらいは分かる。小宮栄に行くことはあまりない。そんな有様でいきなり乗った記憶が
薄らいでいる地下鉄に乗って、つい最近まで知らなかった企業に行くんだから、どうも落ち着かない。
 電車が来る。小宮栄は終点だから終点まで迷わず乗って行けば良い。地下鉄は時刻より乗り換える路線とホームを間違えないことが重要だ。小宮栄を網羅
する公共交通機関だから電車の本数で苦労することはないが、違うホームに行くと逆方向に行ってしまって、目的地から大きく違ってくる。地下鉄は見た目の
風景が殆ど変わらないから、ぼんやりしてると終点まで乗って「此処は何処?」と間抜けな問いかけを自分自身にする羽目になる。
 平日の昼間のせいか、電車は割と閑散としている。手近なところに座る。頭の中で今日まで準備してきたプレゼンの段取りや、高須科学に行くまでの
地下鉄の路線と駅の名前、そして構内に入ってからの挨拶のシチュエーションが取りとめもなく浮かんでは消えるを繰り返す。

「間もなく終点、小宮栄です。」

 頭の中でランダムに浮かぶこれからの予定のシミュレーションに翻弄されていたら、あっという間に小宮栄に到着だ。電車は薄曇りの空から電灯が一定の
感覚で灯る地下に潜っていく。小宮栄は地下鉄以外にJRや他の私鉄に接続する総合駅という関係か、新幹線以外の全ての路線の駅は地下にある。
 電車を降りて改札を通り、足が止まる。此処から先は経験がそれほど多くない。高校時代は時々来ていたが、大学に入ってからは来る回数が年を追うごとに
減っている。小宮栄からの距離自体は今の方が近いんだが、生活が大学中心、晶子との生活中心になるにつれて、小宮栄に出る頻度が少なくなっている。
少し上を見ると矢印付きの案内がある。地下鉄、JR、私鉄全ての路線とショッピングモールや官公庁が案内されている。俺が乗る港湾線は…真っ直ぐか。
港湾線に乗るのはこれが初めて。大学生になっても行動範囲はたかが知れてるとよく分かる。
 案内を辿るように歩いていく。流石に日本有数の大都市の総合駅だけあって、平日でも結構人は多い。スーツ姿の男性も結構いるから、スーツを着て少し
大きめの鞄を持っている俺は珍しくない。だが、着なれていない分「就職活動か」と分かる人には分かるかもしれない。
 1回左に曲がっただけの長い通路−と言っても両側にはファッション関係と飲食店の比率が高いテナントがひしめいている−を歩いていくと、「港湾線
入口」と書かれた大きな看板が見えて来る。その近くにある改札の向こうに2つの乗り場が別々の階段とエスカレーターに分かれている。
切符を買って改札を通る。此処までは順調そのものだ。乗り場は…直ぐに思いつかない場合はファイルを見よう。小宮栄港方面だから、2番乗り場か。1番
乗り場は官公庁街のある方面らしいから、全然違うところに行ってしまう。
 階段を下りてホームに出る。混雑はしていないがやはりそれなりに人が居る。電車の到着を待つ…つもりが、既に行先表示の下に「間もなく電車が来ます」と
出ている。電車を待たなくて良いのは便利だな。
ホームに滑り込んできた明るいブルーのカラーリングが施された電車に乗り込む。車内の席は殆ど埋まっているから素直に立つことにする。出入り口近くの
案内表示を見る。俺が降りる港区役所駅は…4つ目か。終点まで8駅だから中間くらいの位置にあるのか。殆ど暗闇一色の外の風景をぼんやり眺めながら、
頭の中でプレゼンの段取りを思い返す。プレゼンのスライドは大川さんの協力もあってきちんと作れたが、本格的なプレゼンは今回が初めてだ。緊張の上限
突破の可能性も含めると、段取りどおりにすんなり進められるとは思えない。出来る限り理想に近づけるためには身体に沁みつくくらい練習しておくしか
ないが、それも不十分だからこうして脳内シミュレーションを繰り返すしかない。

「間もなく港区役所、港区役所。お出口は左側です。」

 もう到着か。駅の間隔が短いんだろうか、それとも体感時間が短いだけのことか。兎も角此処で降りよう。インバータ特有のモータの回転数低下音が最低
ラインに達してドアが開き、数人の先頭になる形で降りる。さて、3番出口は、と…。向かって右側か。駅によっては出口を間違うととんでもない場所に出て
大混乱に陥る場合もあるからな。此処までの時間は…12時過ぎか。余裕だな。予定より早いのは良い。ギリギリだったり遅れたりすると些細なところでミスして、
それがどんどん拡大する場合もある。
 ホーム沿いに歩く形で進み、左に折れてひたすら進む。改札に切符を通して更に直進して、エスカレーターに乗って上に向かう。3番出口「高須科学中央
研究所」と最寄りの案内板に記載されていたから間違いない筈だ。
地上に出る。そこから東の方に、周囲が閑散としたビル群がある。あれが今日の目的地、高須科学の研究所だろうか。時間に十分余裕があるから、場所を
確認しておくか。休憩や晶子への連絡はそれからでも間に合う。
ファイルを確認して駅出口からの方向を確認。直ぐ近くに見える道路沿いに歩けば良いみたいだ。そこそこ人が降りた割に閑散としている道路を歩いて
いくと、次第に前方が開けて来る。新旧の住宅や中小の工場らしい建物がひしめく中、白壁とその高さを超える緑に囲まれた場所が鎮座している。大学にも
あるゲートが正面にあって、左側に守衛所、右側に「高須科学株式会社 中央研究所」と書かれた格調高い看板がある。間違いないな。
 不安だったがトラブルなくたどりつけたな…。予定時間まで優に40分はある。この時間帯だと今頃昼休みだろう。早く来すぎると相手方は迷惑だろう。
何処かで時間を潰そう。何処かに喫茶店でもないかな。
方向感覚を狂わさないように気をつけながら店を探す。意外と店を探すのには苦労しない。少し歩いたところに飲食店が立ち並ぶところがあった。高須
科学や他の会社、それと駅の名前にもなっている区役所に勤める人達の食事場所なんだろう。居酒屋らしい店もあるが、そこはこの時間まだシャッターが
下りている。
 手近な喫茶店を選んで入る。時間帯のせいか割と混んでいるが待つ必要はなかった。1人という関係でカウンター席に回されたのは仕方ない。1人を苦に
していたらこういう時行動出来ない。紅茶を頼んで携帯を取り出し、晶子へのメールをしたためる。
送信元:安藤祐司(Yuhji Andoh)
題名:目的地に到着した
さっき、高須科学の研究所前に到着した。予定まで時間があるから近くの喫茶店に入った。
迷ったりトラブルに遭うこともなく、到着出来てホッとしている。
まだ入構手続きをしてないから確認はしてないが、かなり大きな敷地らしい。
終わったら連絡する。しっかりやってくるよ。
 送信っと。晶子は今頃どうしてるかな…。携帯をを前に待ってるとか…、流石にそんなわけはないか。出された紅茶を飲みつつ時計を見る。まだ10分も
経ってない。こういう時は時間の進みが遅いんだよな…。
 …あ、携帯が振動する。晶子からの返信だな。俺はカップを置いて携帯を取り出して広げる。
送信元:安藤晶子(Masako Andoh)
題名:上手くいきますように…。
メールありがとうございます。目的地に無事到着出来て何よりですね。
私は家で料理と公務員試験の勉強をしています。祐司さんのコンポとCDを借りています。
今日まで頑張って来た成果を存分に発揮してきてください。
祐司さんならきっと大丈夫だと信じています。
 心配してくれてるな…。紅茶を飲みつつ時間を見ることを続ける。余裕をもって行動しよう。晶子、頑張ってくるからな。
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