雨上がりの午後

Chapter 264 侘び寂の地で2人佇む

written by Moonstone

 銀閣寺の観音殿−教科書などで見る銀閣の写真で見られる建物の傍で庭園を眺める。バスと徒歩を組み合わせた移動で30分くらい。今まで写真でしか
見たことがなかった銀閣を間近に、その前に広がる日本庭園を晶子と肩を寄せ合って眺めているなんて、感慨も混じる不思議な気分だ。
銀閣の敷地は予想を大幅に上回る広さで、観音殿にたどりつくまでにかなり歩いた。観音殿は銀閣寺と言えばこれと思うほど写真などで有名な建物だから
敷地の中央に鎮座しているかと思いきや、観光案内によると敷地の南西端らしい。そもそも庭園も向こう側の端が分からないほど広いなんて思わなかったし。
 観音殿の東側から敷地の南東側を1/3ほど占める庭園は東側で山と接している。その山の一部、この銀閣寺から見ると北にある山で、送り火の1つが
行われるそうだ。観光案内のページを行ったり来たりして初めて知ったことだ。
銀閣寺は平安神宮の時とは打って変わって人が少ない。これも予想外だ。有名な建物だから混雑は当然と思っていたから若干拍子抜けしたが、これは
地理の側面からやむを得ないのかもしれない。
 銀閣寺は最寄りのバス停から結構距離がある。歩くことに慣れている俺と晶子には全く苦にならなかったが、観光で気軽に立ち寄るには他の有名どころと
比較して不利だ。見てくれにしても、金閣寺のようなぱっと見て分かる派手さや清水寺のような雄大さなない。悪く言えば地味な銀閣はとりわけ多くの客を伴う
団体客の観光コースからは外されやすいんだろう。
 だが、人が少ないことで良い面もある。混雑で一時待機や順番待ちする必要はない。後ろの混雑を気にする必要もない。大型迷路を髣髴とさせる
銀閣寺垣の作り込みに感心して、方丈−確か清水寺でも同じ名前の建物があったような−周辺の、寺と和風が混在した建物に少々既視感を覚えて、
観音殿の傍で写真の風景を目の当たりにした感慨を味わっている。元より混雑や大人数がどちらかと言えば苦手な方の俺と晶子には丁度良い。それに、
わびさびを基調とする観音殿には賑わいはあまり似合わないような気がする。

「京都って一口に言っても広いですね。」

 晶子が言う。手は繋いだままで俺の腕にもう片方の手を回している。おかげで密着度はかなり高い。

「観光案内の地図だと1日で一回りは出来るかなと思ってたんですけど、とても1日だけじゃ回れそうにないですね。」
「だから、バスの乗り降り自由な乗車券に2日分のものもあるのかもしれないな。」
「そうかもしれません。毎回買うのも大変ですからね。」
「このペースで京都市内を一回りするのにどのくらいかかるか、概算してみるか。」

 俺は観光案内を広げる。左腕に密着されているが、晶子が腕を回しているのは上腕部だから割と自由に動かせる。観光案内の観光名所がイラスト風に
描かれた地図を開く。晶子がわざわざ身を乗り出すのはお決まりだが、まだドキッとする。

「宿がこの辺だから、此処が原点として…、平安神宮が此処で今居る銀閣寺が此処。」
「宿と銀閣寺がほぼ東西で水平に結べる位置関係ですね。」
「そう。その東西の線と、宿と平安神宮を結ぶ直線が作る角度は…およそ30度くらい。ここで平安神宮から銀閣寺までの移動でおよそ30分だから数値は
等しい。1周は360度で30度の12倍だから、一回りするためのおおよその所要時間は30分の12倍、つまり360分。」
「…6時間、ですね。凄くかかりますね。」
「移動だけでこのくらい時間がかかるんだから、相当な広さだな。」

 30分で結構移動したつもりだが、一回りすなわち1周から見ると半分どころか1/4にも満たない。1周するだけでも1日の1/4を費やす計算だが、既に1日のうち
宿に居た時間だけで8時間食ってしまっている。夕飯までに宿に戻ることを考えると、移動に6時間かかることは事実上1日で1周するのは不可能な計算だ。

「どれだけ見て回るかによって変わってくるけど、概算で6時間ってだけでも京都1周が大掛かりってことが分かるな。」
「祐司さんの計算方法だと簡単に分かりますね。」
「ぱっと思いついた方法での概算だ。」
「私は思いつきもしなかったです。バスの路線図から最寄りの停留所をたどって1つ1つ計算していくものだと。」

 晶子が予想外に感嘆するのは、京都1周にかかるおおよその時間より、俺が移動した角度を元に概算した方だ。思い付きの手法だし概算出来れば良いと
しか思ってなかったから、これほど感心されるとあんな程度で良かったのかとちょっと後悔してしまう。

「こうした計算方法をぱっと思いつけるのって、凄いですね。」
「…そうか?」
「そうですよ。普段から難しい公式や理論を理解しようと努めているから、素早い応用が出来るんですね。」

 平安神宮から銀閣寺まで移動した距離を円弧と見なして、円弧の移動に要した時間から円周を描くのに要する時間を算出した俺の方法は応用の1つでは
ある。だが、3年の後期だと電磁気学や誘電体工学で散々苦しめられた公式や理論は全く使えていない。複雑な要因を除いたモデルで考えることくらいは
役に立ってるかもしれないが。

「それほど凄いとは思えないけど、兎も角一回りするのに必要な大まかな時間はこれで分かったから、後は時間と相談して何処まで行くか考えれば良い。」
「平安神宮でも神苑をぐるっと回るのに1時間くらいかかってますよね。」
「此処を出た後くらいの食事を含めて、同じく1時間か倍の2時間くらい見ておけば十分だろう。」
「一回りするのは1日2日だと厳しいですね。」
「この地図だけ見ると簡単に回れそうなんだけどな。」

 住み始めて4年目を迎える新京市でも、行動範囲はかなり限られている。色々知っているようで実はごく一部しか知らない。掌の上の猿とはこういうことを
言うのかもしれない。

「行く場所によって、今日1日で回れる場所も限られてきそうですね。」
「移動に時間がかかるとその分回れる場所は少なくなると考えて良いだろうな。」
「えっと…。そうなると迷いますね。」
「明日以降もあるから、そう迷うこともないと思うが。」
「名前は知っているけど行ったことがない場所や、高校の修学旅行で行きたかったけど行けなかった場所がありますから、どうしても迷うんですよ。」

 晶子にとって京都は宝箱みたいなものらしい。俺は京都に行きたかったことは間違いないが、特にこの場所に行きたいというのはなかった。有名どころは
何だかんだで今日この時点までで回って来てるし、晶子に選ばせた方が知らない場所に行くという旅行の大きな目的に合致する。

「…私1人で熱心になってちゃ駄目ですね。」
「俺は京都に詳しくないし、京都と言われて思いつく場所は今居る銀閣寺も含めて回ってる。晶子が選んだ場所に行けば知らない場所に行けるわくわく感が
あるから、晶子が選んで良い。」
「はい。えっと…、此処が良いです。」

 晶子が指さした観光案内の地図の地点は、川が二手に分かれたところ。下鴨神社とある。初めて見る名前だな。

「此処だと鴨川沿いに南下すれば宿に行けますよね。見終わった後は、祐司さんと川岸をゆっくり歩いて帰りたいと思って。」
「それが…、下鴨神社を選んだ理由か?」
「ええ。…駄目ですか?」
「そういうことに幸せを感じられる晶子のそんな選択を、断る理由は何もない。」

 高級車での送迎も豪華なディナーも、煌びやかなアクセサリーも立派なバッグも求めない。金品では求められないものをここぞという時に凝縮して求める
晶子のこういう願望は、断ることを妄想することすら浮かばない。晶子の願いを叶えたところ−今回だと鴨川の川岸を手を繋いで歩く様子の方が素早く想像
出来る。
 晶子は純粋な笑顔を浮かべる。「川岸を一緒に歩いて帰れる」ことを想定して、次の−実質的には今日の最後の目的地を選ぶのは晶子らしいと言えば
らしい。観光案内を見ると相当距離がある。時間によっては途中で日が沈む場面を見ることにもなるだろう。もしかすると、夕暮れ時や夜に歩くことも踏まえて
いるのかもしれない。バイト帰りの夜は必ず手を繋いでいるからな。
 庭園を西から東に縦断して、観音殿を遠くに見ている。濯錦橋→仙袖橋の順で渡ったから近くに白鶴島が見える。此処まで来ると山脈が大きく聳えて
見える。観光案内にある銀閣寺の境内見取り図を見ると、山脈に一部一体化するように面しているようだ。
 観音殿周辺にはそこそこ人が居たが、庭園の対岸には殆ど居ない。原因は広さもさることながら、時折冷たい風が走り抜けていくことによる寒さにある
ようだ。山のふもとで風が強いことはよく見られる。山脈に密接しているからそれを実体験する場に来た格好だ。

「風、結構強いですねー。」

 そう言う晶子はあまり寒そうに見えない。ここぞとばかりに更に密着している。観音殿付近では左手を俺の腕に回していたが、今は腕を回している。右手で
俺の手を握って左腕で腕ごと抱え込んでいるようなもんだ。到達後最初に風が吹きつけた時に早速こうなったのは、もしかして期待していたんだろうか。
…ありうる。
これだけ風が強いと女性のスカートの動向が気になるところだ。俺の場合はスカートがめくれることへの期待じゃなく、隣に居る相手のスカートがめくれないか
気をもむ。今日はズボンだからその心配は無用だ。
 晶子が穿くものはその日の行動と天候によって変わる。行動での分岐だと、移動距離が長い場合や身体を使う仕事を多くする場合−たとえば買い物や
バイトではズボン、あまり移動しない場合や家のこと以外で俺と出歩く場合はスカートだ。バイトでは最近ほとんどキッチンに詰めているから移動は少ないが、
重いフライパンや鍋を操り包丁を取ったり置いたりして食材を彼方此方移動させるから、身体を頻繁に動かす。そこでのスカートはさすがに邪魔になるそうだ。
買い物に行く時も大抵ズボンだ。手ぶらに近い往路は構わないが、荷物を多く持つ復路は、手にぶら下げた荷物とスカートが絡まって歩き難いらしい。俺の
家に住みつくようになってより多くの食材を買い込む−俺がかなり勢い良く食べるし弁当の分もある−ようになってからは、スカートで買い物に行ったことは
ない。
 この旅行に出る時、晶子はスカートを穿いていた。本格的に京都回りを始めた2日目もスカートだった。その2日目からめぐみちゃんを保護した3日目はズボン
だった。この遷移は俺と2人でプライベートの時間を満喫することから、母親代わりとして子どもの世話をすることに服装を切り替えていたことを示すものだ。
深く考えると、晶子が庭園を横切って山側に行くことを躊躇うどころか喜んだのは、吹き下ろしの風を口実により密着出来ると考えてのことかと思ってしまう。
観音堂側から見た時、俺は人が少ないのを疑問に思ったが晶子はそんな素振りも見せなかった。

「祐司さん。1つお願いして良いですか?」
「何だ?」
「私の後ろからコートで包んでほしいんです。」

 コートで包む…。ああ、なるほど。言いたいことは分かった。周囲に人は居ないし−観音堂側には若干居るから俺達に遠慮しているのかもしれない−、
良いか。

「それじゃ、手を離して俺の前に。」
「はい。」

 晶子は待ってましたとばかりに俺の前に移動する。前に移動しきるまで手を離さないのは凄いというか大したものというか…。晶子が手を離したところで、
俺は先んじてファスナーを開けておいたコートを開いて、両ポケットに手を入れて晶子を包む。晶子は限界まで身体を密着させる。コートの隙間を出来るだけ
なくすつもり…と考えるべきか?

「凄く温かいです。」
「もう少し裾の長いタイプだと完璧だったかもしれないな。」
「十分ですよ。」

 俺がこの旅行に着て来たコートは、ハーフコートに分類出来る腰を覆うくらいの丈のものだ。手持ちの中には膝くらいまで覆えるロングコートもあるんだが、
移動が多いだろうしそこまで寒くないだろうと思って今のコートを選んだ。こういうことがあるのなら丈の長い方を選んだ方が良かったかもしれないが、取りに
戻るわけにもいかない。
 晶子は少し身体を横にずらして、俺の左の肩口に頭を軽く乗せる。昨夜の食後とよく似た態勢だ。晶子はそのまま首を捻って俺の方を向く。それほど
身長差がない上に密着しているから少し首を下げれば唇が触れあえる距離なのも昨日と同じだ。

「こうしていると、祐司さんが凄く大きくて温かいのがよく分かります。」
「晶子は俺のコートを羽織ったりするのが好きだよな。俺の実家に立ち寄った時もそうだったし。」
「祐司さんの大きさと私だけが着られることが実感出来ますから。」

 年末年始の旅行帰りに晶子を紹介するために実家に立ち寄った際、晶子は風呂上りに俺のコートを羽織って喜んでいた。母さんの目撃談では、風呂上りに
脱衣場に欠けてあった俺のコートを着たそうな顔で見詰めていて、着ても良いと言ったら喜んで羽織ったらしい。
それに味を占めたのか、戻ってからも機会を見つけて俺のコートを羽織る。もう少し寒い時期の外出で俺がロングコートを着る時や、風呂上りの半纏代わりに
俺が今着ているコートを着たいと頼むことがある。晶子に貸す分には何ら気に留まる部分はないから2つ返事で貸している。

「祐司さんは意外と分からないかもしれませんけど、祐司さんの服は大きいんですよ。」
「昨日、俺の背中が広いって言ってたな。確かに俺自身は分からない。」
「広くて大きくて温かくて・・・。今こうしていて祐司さんのそんなところを身体全体で感じられるんですよ。」

 俺の身長は平均的かそれよりやや低いくらい。服を買うには不自由しないサイズだがもう少し、せめて5cmくらい高かったらと思うことがある。高いところに
手が届くかどうかといった実用的なことより見栄えの問題だ。晶子が女性としては背の高い方で身長差があまりないからだ。
だが、晶子から見ると俺は十分大きいらしい。俺には丁度良い大きさのハーフコートが晶子にかかるとロングコートくらいに感じるようで、それが見た目以上の
温かさを醸し出すんだろう。自分では基準とか当たり前とか思っている、或いは当たり前すぎて当たり前とも感じないことが他人から見ると当たり前でなくて
驚きや感動を生むこともあるってことだな。

「・・・晶子は、俺がもっと背が高かったら良いのにとか思うか?」
「いえ、全然。もっと身長が高ければ良いとか思ったところでどうにもならないですから。」
「そうか。」
「祐司さんが自分の背の高さに少しコンプレックスを持ってるのは知ってます。だけど、私は身長の高さとかそんなことで祐司さんに夫になってもらおうと
決めたんじゃないんです。真面目で誠実で一生懸命で、子煩悩で面倒見が良い。一緒に生活して一緒に幸せになるために大切なことを持っているから、
夫になってもらおうと頑張ってるんです。」
「・・・。」
「私にとって祐司さんは、理想的な男性なんですよ。私が恋愛をするのはいずれ夫婦として一緒に生活して、一緒に幸せになることを考えてのことですし、
そのためには見た目の重要度は低いんです。」

 晶子が俺に熱心にアプローチして、結婚の既成事実を積み重ねている理由がまた1つ分かった。否、ずっと前から感じていたことかもしれない。
晶子の恋愛は将来を共にすることを真剣に考えたものだってことは。見た目で選ぶなら俺のランクは低い方だろう。謙遜でもなんでもなくて、見た目で女性を
ひきつける要素が乏しいという自己分析の結果だ。
 見た目は彼氏彼女の関係ならまだしも、夫婦生活や子どもを含めての家族生活では重要でない。働いて収入を得たり料理や洗濯など家のことをすると
いった家族での役割−男は働いて家事育児もしろと女性の側から一方的にまくし立てるジェンダーフリー理論はその点がおかしい−を誠実にこなして、自分
のみならず相手と子どもの生活を正常に運営出来ることが重要だ。
 離婚の敷居が心理的にも随分低くなって、気に入らないことがあれば離婚と考えられるようになった。だが、離婚も結婚もそんなファッション感覚でするもん
じゃないと思う。人間関係はそんなに簡単にスクラップ&ビルド出来るもんじゃないし、特に子どもが居れば、子どもは迷惑や被害を被るばかりだ。

「付き合う男性を見定める際に伸張や年収や職業を基準にしている女性にとって、男性はアクセサリーでしかないんです。自分をどれだけ際立たせて
見せられるか、自分の友人に自慢出来て友人付き合いの中でより上位に立てるか、そんなことしか考えてないんです。私はそういう考えで男性と付き合う
ことや、ましてや結婚することは出来ません。」
「・・・。」
「そういう女性の声は何かと目立ちますし、マスコミも喜んで取り上げますから、男性にとって心理的圧迫になることばかりだと思います。だけど、多くの女性が
そういう方向に流されてくれるから、私は凄い宝物の男性を夫に出来たんだとも思います。」

 女性の同調圧力は男性の想像以上のものらしい。同調すべき基準はかつて喧伝された高身長・高学歴・高収入の三高やその焼き直しを根底にして、
交際中なら高級車で送迎されたり自分の願う節目ごとにお姫様のようなもてなしをされることで、既婚なら夫の肩書きになる。晶子が言ったとおり、友人と
呼べるかどうかの定義は一先ず棚上げして、友人関係の中でどれだけ上位に優位に立てるかを競うことに重点を置く。
その基準を元にすると、俺は見栄えでも経済面でも見劣りする。晶子が所属するゼミや学部学科あたりで長い間俺の評判が芳しくなかったのは、自分の
考える基準を下回る男性と付き合うことで自分を安売りするなという批判であると共に、そんな低レベルの男性と付き合うことを哀れんでいたためだろう。
 晶子も最初の頃はどうにかして俺の良さを理解させようと努めていたが、やがてその方面の動きは鎮静化した。理解しようとしない相手に繰り返し理解を
求めることに辟易したのもあるだろうし、理解されることで俺への関心が高まることを避けるためでもあったんだろう。それも晶子の言ったことから推測出来る。
 女性にとって結婚することが幸せの大きな到達点なのは間違いない。そうでなかったら縁結びを謳う場所に女性が詰め掛けることはない。だが、恋愛と
結婚は別とばかりに男性遍歴を重ねることや、周囲の女性からの評判で簡単に交際中の男性を切り捨てることが男性からどう見えるか、特に通常は女性の
眼中に入らない男性からどう見えるか殆ど考えられていない。
ファッション感覚で交際相手を入れ替えてきた女性、極端な言い方をすれば、多くの男性の手垢がついた女性を男性は結婚相手にしたくはない。処女
云々もさることながら、男性遍歴が多いことは遊び癖や浮気癖があると見なすし、マスコミなどで離婚の際に家も子どもも財産も失う男性の事例が広められる
ことで、そのリスクを負うのは御免だと敬遠するからだ。
それに気づいたかどうかは知らないが、男性遍歴のついでに年齢も重ねた女性こそ魅力的だと持ち上げて、そんな女性に興味を示さない男性を貶めて煽る
向きも目立つ。だが、生活出来るだけの収入があって女性への興味をなくした男性はマスコミも操縦出来ない。自分達を貶め続けた女性やマスコミに
煽られても「知ったことか」とそっぽを向いて、自分の趣味や生活に専念するからだ。妖精にも喩えられる男性の両極端な一面を捉えない限り、その手の
男性を女性に向けることは不可能だろう。

「私は、祐司さんの魅力に気づけなかった女性に、言葉は悪いですが感謝してるんです。こんな素敵な宝物をみすみす取り逃してくれたんですから。」
「・・・その宝物は、晶子という良い香りと美味い果実の虜になってる。それを維持すれば大丈夫だ。」
「はい。じっくり堪能してくださいね。」

 ほんの少し鼻先を下に動かせば、長年の手入れで奥底まで染み込んだ芳しい香りを漂わせる髪に届く。晶子の飾り立てないが日々の地道な繰り返しが作る
美貌や女性の魅力に、俺は心を掴まれている。晶子はこうした自分の磨き方が俺の興味をひきつけることを十分理解している。
化粧−今風に言うならメイクで顔を塗り固めた女性は、男性はセックスをメインとする交際相手としてはもてはやしても結婚相手としては躊躇する。化粧が濃い
女性は売春婦という固定概念もあるが、化粧に熱を上げる女性は往々にして高価なアクセサリーで飾り立ててブランド品のバッグを多数所有する。それは
すなわち浪費癖と見なすし、そんな女性と結婚することで大きなリスクを負うことへの敬遠や拒否感があるからだ。
 女性が自分をより上位に優位に立たせる男性を従えようと−高級車での送迎や豪華なもてなしはホストのそれと変わりない−駆け引きするのと同様、より
多く気軽にセックス出来る女性を得ようと男性も駆け引きを展開する。女性誌でもてはやされるきらびやかな女性を女性誌の煽り文句に添う形で
もてはやせば、その手の女性が気の気を良くしてセックスに持ち込めると算段しているからだ。
 個性を叫ぶ一方で同調圧力が強まる女性の間で、女性誌の喧伝は広範で強力な影響力を持つ。この行動や服装で男性にもてるという煽り文句は一面
では正確だが、それは気軽にセックス出来るためだという面もあることに気づいている女性は少ないように思う。
女性の同調圧力から時に意識的に距離を置いている晶子が、俺が指輪をプレゼントするまで頻繁に男性から声をかけられたのは、その端麗な容姿から
想像出来るセックスを求めてのものもあるだろうが、周囲の女性と比較して化粧っ気やアクセサリーやバッグがあまりにも少なく、男性が本心で求める理想に
敵うことでその存在が際立って見えることが大きいだろう。同年代の女性の多くが周囲から目立とうと化粧や装飾に血道を上げるのに、それとは無縁に近い
晶子が男性から見て目立つのは皮肉な話だ。

「その代わりというのは変ですけど、もう少しこうしていて良いですか?」
「晶子が寒くないならな。」
「凄く温かいですから、可能ならこのまま行動したいくらいですよ。」

 晶子は俺のコートを両手で自分の前に寄せる。こういったことで満足や安心感を与えられるなら、可能な限り俺はそうする。金をかけたもてなしをしなくても
俺と一緒に居られることそのものが嬉しくて幸せなんだと、俺自身実感出来るからだ。
 晶子が俺を取り逃した他の女性に感謝しているように、晶子の心を掴めなかった他の男性に感謝している。そして自分の幸運を真摯に噛み締めている。
異性は星の数ほど居るというが、星でも目に見える数はごく一部。その中で自分の手が届き、自分の求める理想像と限りなく一致する星と出会える確率はごく
限られている。
晶子がそれこそ選り取り緑の男性の中から俺を選んで全力とも言える情熱を注ぐのは、安心して生活出来て子どもを生み育てられるという理想を一緒に実現
出来ると判断したからだということは分かったつもりだ。俺の結婚生活や夫婦生活の理想は・・・晶子に比べてかなり漠然としている。
俺に出来ることは何なのかと所謂自分探しに出るつもりは全くない。だが、音楽に技術面から関わる仕事がしたいと大学まで突き進んできて、4月からの
1年でそれに向けてさらに進んで就職したとしてもその先は未定の一言だ。
 晶子との結婚は着実に土台が固められている。俺は晶子を妻とすることに迷いや躊躇いはない。だが、結婚に続く共同生活をどんなものにするか詳細に
想像出来ない。一定の収入や住居、貯蓄を重視した家計運営が必要なことくらいは分かるが、理想的な家庭がどんなものかいまいち実感がわかない。
理想的な家庭の1つは、晶子が抱く夢と重ねても良さそうだ。帰る家があって、そこに俺の場合だと妻と子どもが居て、寝食や買い物、遊びを共にする。
幸せを増やして苦労を分割出来る関係。独りよりずっと心地良くて安心出来る環境。・・・良いな。そういう生活。

「祐司さんは、寒くないですか?」
「いや、全然。聞かれるまで寒いかどうかってことすら考えなかったくらいだ。」
「もし寒かったら、私を抱き締めてください。」
「それは晶子の願望じゃないのか?」
「半分は。」

 晶子は悪戯っぽく笑う。前は若干開いているし後ろから寒風が時折吹き付けているが、まったく寒いと感じない。密着する晶子から体温が確かに伝わって
きている。コートで身体を包むことが弱まった代わりに、大きな湯たんぽを抱え込んでいるようなもんだ。
春霞にはまだ早いと思うが、遠くに見える観音堂が少し霞んで見える。昼間だが周囲に人影がない場所で、写真でしか見たことがなかった建物を遠くに
見ながら、互いの身体を密着させて佇む。こんな非日常なことが出来るのも新婚旅行らしいかもしれない。
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