雨上がりの午後

Chapter 252 臨時親子の旅日記(20)−入浴時間−

written by Moonstone

「−はい、おしまい。」

 晶子の締めの言葉で「桃太郎」の朗読は終わる。めぐみちゃんを真ん中にして座り、晶子が絵本を広げてページを捲り、俺が桃太郎とおじいさんと犬とキジ、
情景描写とおばあさんとサルと鬼を晶子が担当して読み進めた。ちなみに役は晶子とじゃんけんプラスどちらか一方に読み手が偏らないように配分した
結果だ。情景描写を晶子が担当したのは正解だったが、俺の桃太郎役と晶子の鬼役はいささか不似合いだったような気がする。

「面白かったー!」

 めぐみちゃんはご満悦のようだ。授業や講義に向けて上手く読むことより、人、此処ではめぐみちゃんを楽しませるように上手く読むことが重要だったから、
めぐみちゃんが満足すれば問題はない。

「お父さんとお母さん、凄く上手いね!」
「本はよく読むけど声に出して読むことは殆どないから、ちょっと自信なかったんだけどね。」
「俺・・・お父さんにいたっては、よく読めたと思うくらいだ。お父さんが読む本は、声に出して読むもんじゃないからな。」

 晶子が読む様々な本は朗読の対象になるものが多い。片や俺が読む本は専ら大学関係の専門書だから、インピーダンス(註:交流電気回路の抵抗に相当
するもので信号の周波数によって増減する)だのフーリエ変換(註:信号をサイン波とコサイン波の和に変換すること)だの専門用語の塊だし記号も満載だから、
朗読しても知らない人には暗号か寝言にしか聞こえないだろう。
 ドアがノックされる。俺が応答するとドアが開いて、絵本を買って戻った時に出迎えてくれた仲居の女性が入ってくる。やはり俺と晶子の部屋の専属担当と
いう位置づけのようだ。

「お布団を敷きに参りました。」
「お願いします。その間、入浴してきます。」
「ごゆっくりどうぞ。」

 仲居の女性が押入れから布団を取り出している間に、俺と晶子は浴場へ行く準備をする。持つものは浴衣と替えの下着、浴場内で使う小さなタオルと風呂
上りに使うバスタオル。タオル類も持参しているが、今回は備え付けのタオルをめぐみちゃん用に使わせてもらう。

「めぐみちゃんはこれを持って行ってね。」
「うん。」
「あ、そうだ。」

 めぐみちゃんに2種類のタオルを渡した晶子は、何か思い出したか思いついたかしたようだ。布団を敷いている仲居の女性に歩み寄る。

「お仕事中すみません。幾つかお尋ねしたいことがあるのですが。」
「何でございましょう?」
「今日、この旅館には私達以外に宿泊されている方はいらっしゃいますか?」
「いえ、本日は安藤様以外にご宿泊されている方は居られません。」
「そうですか。では、どちらか片方で全員揃って入浴してもよろしいですか?」

 な、何?!う・・・、晶子のやつ、目を輝かせてやがる・・・。最初から他に客が居ないと確認出来次第実行に移す気だったんだな・・・。

「それは一向に構いません。ご自由にお使いください。」
「ありがとうございます。」

 確定した。この流れはもう止められない。晶子が女湯でめぐみちゃんを入浴させるだけで良いと思うんだが、家族全員で入浴の予行演習と思うしかないな。

「皆で一緒にお風呂に入ろうね。」
「うん!」

 独りで入浴じゃないことをめぐみちゃんは素直に喜んでいる。まだこの年齢だと羞恥心より好奇心の優先度が高いようだ。
しかし・・・、晶子と一緒に過ごす時間が長くなって一つ屋根の下で生活するようになり、夜の頻度も相当増したのに、晶子と風呂に入るのはこれが初めて
なんだよな。めぐみちゃんの面倒を見ることより、晶子と風呂に入る方に神経を使いそうな気がする。
 不思議なもんで、夜の営みで裸は見慣れているから入浴なんて何でもないことのはずなのに、妙に意識してしまう。一緒の生活でも入浴は別だったし、
風呂場の曇りガラスからおぼろげに色と形が見える程度だから、明るいところでの裸体は殆ど見る機会がない。普通の生活の中に紛れている秘密のベール
だったりする。
 明るい場所で晶子の裸体を見ること自体は初めてじゃない。俺が帰省から帰った夜と見えない壁を越えて全てを曝け出した「別れずの展望台」へ行った
時の夜の他、2、3回電灯が照らす中で晶子を抱いたことがある。その時の晶子は頬を鮮明に赤く染めて、終わった後に必ず顔を横に向けてはだけた
ブラウスを合わせた。夜の様子とはまったく違う恥じらいに興奮してそのまま電灯を消して再開、ということにもなったんだが、晶子は明るい場所で裸を見る
若しくは見られることに対して俺と認識が違うようだ。めぐみちゃんが居るから風呂場で開始とはしないが−それくらいの理性はある−、後々いろんな意味で
大変なことになりそうだ。

「祐司さん。行きましょう。」
「ああ。」

 考えてばかりでは始まらないし進まない。俺は手を差し出しているめぐみちゃんの右手を左手で軽く握る。晶子が続いてめぐみちゃんの左手を軽く握る。
外を歩いていた時に機会があればしていた、めぐみちゃんを中心にした並び方が出来上がる。
 部屋の鍵を持って出る。鍵を閉めて浴場に向かって廊下を歩き始める。ゆっくりした周期で周囲を見回して感嘆の声を漏らすめぐみちゃんの両手は、俺と
晶子の手をしっかり握っている。

「凄く広ーい。普通のお家のいくつ分あるのかなー。」
「1階だけでも2・・・否、3件分くらいはあるかもしれないわね。」
「それくらいはあるだろうな。これくらい広いと。」

 一口に住宅といっても都心から田舎まで場所も様々で大きさも様々だ。間取りで考えると、俺の家は1R−ワンルームで晶子の家は1DKで晶子の方が多いし
一見広そうに思うが、晶子の家はリビングとダイニング+キッチンが間切りされているから1DKという位置づけで、広さそのものは殆ど同じだったりする。
俺の家の物件は掘り出し物的なもので、偶々空きが生じた時に父さんと物件を探していた俺が訪ねて来たという偶然の産物だ。そう彼方此方に転がってる
もんじゃない。
 風呂とトイレを除いたおよそ12畳ほどの面積は、単身で住むには十分だが2人では少し狭いかなと思う。実家が店舗を除くと・・・4DKか。6畳2間に8畳2間に
10畳ほどのDK。これが夫婦子ども2人の「一般的」「平均的」な住宅規模と言われるあたりだろう。それを基準にしても、この宿は1階だけで優に3件分はある。
未確認だが2階より上もあるから、全床面積は相当なもんだ。旅館だからそれが普通なんだろうが、俺と晶子に臨時のめぐみちゃんを含めた3人では持て余す
広さだ。

「お父さんとお母さんが住んでる家って、どんな家?」
「聞きたいのは大きさのこと?それとも部屋の数や家具とかのこと?」
「んと・・・。どっちも。」

 めぐみちゃんの質問は、俺と晶子が暮らす家の概要を尋ねるものだったようだ。このことを聞きたいと事前に絞り込むんじゃなくて、大まかな範囲から
当たって興味がわいたものについて詳細を聞くというのがめぐみちゃんとの会話を進める上でのコツかな。

「大きさはね・・・。大体、皆が一緒に居るお部屋と同じくらいだと思うよ。」
「そこに箪笥とか布団とか、全部置いてるの?」
「そうよ。」

 一緒に住んでいる晶子も借りて住んでいるマンションの1室がある。そこから週1回着替えや本やCDなどを持ち出して、持ってきたものと入れ替えるという
生活を続けている。しかも晶子はアクセサリーやバッグを複数持って居なければ、化粧品も乳液程度しか持って居ない。だから俺の家にある晶子の荷物は、
大きめの鞄1つで納まる程度しかない。
 俺の家にはベッドと普段レポートを書いたり楽譜のメモを書いたりする机と、食事をするコタツ机、演奏用データを作成するPCとシンセサイザと愛用の
ギター2種類の他は箪笥1つで納まっている。食器は1人で暮らすには最小限で十分だろうと元から数を揃えていないから、調味料その他と併せて台所備え
付けの棚に仕舞っている。洗濯掃除は俺の家にある洗濯機や掃除機を使うし、食事や休憩をするのは揃ってコタツ机、寝るのは1つのベッドだから、新たに
ものを増やす必要はない。晶子はアクセサリーやバッグをまったく買わず、服も殆ど買わないかわりに本をそこそこ買うが、読み終えた本は古本屋に持ち込む
から置き場所には困らない。
 単身者を念頭に置いたであろうワンルームに2人で暮らすことに、多少手狭に感じることは時々あるものの不自由や不満を感じたことはない。それは、
ひとえに晶子が服飾や装飾に身なりを整える以上の興味を持たず消費もしない、驚異的な「燃費の良さ」だからなしえていることだろう。

「ガランとしてる感じがする。」
「お父さんもお母さんも、あまりものを買ったり置いたりしないからスペースに困ることはないわよ。その方が掃除もしやすいし便利なのよ。」

 晶子と生活する時間が長くなって晶子から教えられたことの1つは、掃除と整理整頓の仕方だ。俺は片付けるには場所が必要だし棚や引き出しに詰め込む
ことが片付けの第一歩と思っていたが、それだと根本的な解決にならない。片付けをしやすくするには、棚や引き出しに入れる前の段階でものを減らすことが
重要だ。収納場所を増やしても物が増えていけばやがてはいっぱいになるし、収納場所を次から次へと増やすことは出来ない。そうするとやがて物が溢れて
収納出来なくなる。更に、物が溢れると片付けや整理整頓が難しくなる。面倒なことからは遠ざかりたくなるのが人間の性というもの。片付けや整理整頓が
億劫になると放置されたものが溢れ、掃除も億劫になり収拾がつかなくなる。
 収納場所を思案する前に物を減らす、場合によっては捨てることも立派な片づけだ。「ひょっとしたら後で使うんじゃ」という考えが物を溢れさせ、不要な
ものまで溜め込んでしまう。捨てる時は捨てる。生活を営んでいく上でゴミは出るものと割り切り、不要になったものは捨てることが片付けや整理整頓の大きな
一歩になる。
 物を増やさないためには必要なもの以外極力買わないことも重要だ。欲しいものを手当たり次第に買っていたら金も尽きるし、使える物の数にも限度がある
から、その間使われないものはガラクタも同然。だが、そのガラクタ同然のものも使わない間別の世界に消えてくれるわけじゃないから、どこかに収納なり
しないといけない。発散へと向かういたちごっこを防ぐには、必要なもの以外は極力買わなければ良い。買うことで物が増えるんだから、買わなければ物は
増えない。その分金を使わなくて済む。必要なものを見定めてピンポイントで買うことは金を有効に使えることでもある。
 俺には消費癖がないから、1人で生活していく分には今までも不自由しなかった。だが、晶子と生活する時間が長くなり、同じ家で暮らすようにもなってから、
割と広いといっても12畳ほどの限られたスペースでやりくりするには、ものの買い方や収納、整理整頓や掃除に注意しないといけない。幸い、晶子も消費癖が
なくて流行や扇動に流されないタイプだから、服やバッグやアクセサリーが買い物に行くごとに増えるなんてことはないし、収納場所に頭を悩ますこともない。
もっとも消費癖があるタイプだと俺は明らかに「貧乏」で「ケチ」だから、早急に見切りをつけられるだろうが。

「お母さん、服とかピアスとか指輪とか買ったりしないの?」
「殆ど買わないわね。服の流行りものとかに興味はないし、ピアスは穴を開けてないから仮に買ってもつけようがないし、指輪はお父さんから凄く良いものを
もらったからもう必要ないし。」
「お母さん、珍しいね。」
「お母さんもそう思う。」

 片付けや整理整頓の極意を教えてくれた晶子は、確かに珍しい存在だ。物欲が少なくファッションや流行に興味を示さないなんて、「主流派」の女達から
見れば何を楽しみに生きているのかと揶揄される志向だ。もっとも、そんなことで意志がふらふら揺れ動くようだと俺との付き合いなんて続けられない。
俺には見知らぬ場所へ華麗に案内する車もなければ、素晴らしい瞬間を提供するセンスも金もない。そんな俺と付き合いを続けるには物欲は邪魔には
なっても有効には働かない。
 晶子は「主流派」からあえて距離を置くことで、皮肉にも新天地として新たに通い始めた大学で男性の注目を浴びることになった。そして・・・俺と出逢って
付き合い始め、今では仮免許夫婦になるに至った。恋愛や結婚で相手に求めるものは何なんだろう。恋や愛も突き詰めれば自分の欲望を満たすためだと
思う。だけど、欲望にも色々ある。相手におんぶに抱っこで楽をしたいとか良い暮らしをしたいとか、分かりやすいことやすぐに自分の利益に直結することが
前面に出る欲望は、意外と他人にも分かりやすいし、相手を遠ざけることにもなる。晶子が既成事実を積み重ねてまで俺と一緒に居る時間を増やし、根拠を
構築していく理由は未だによく分からない。だが、俺は晶子から将来の自分の生活の安寧を俺に依存しようという欲望を感じない。だから俺は、晶子の過ぎる
とも言える積極的な求愛を受け入れているんだと思う。
 やがて風呂場に到着。昨日は男女別に入ったが、今日は・・・一緒なんだよな。さて、どちらにすべきか?普段なら性的興味から女湯を選ぶところだが、
此処で一計を案じる。

「どっちに入れば良いの?」
「今日は皆一緒だから、めぐみちゃんが選んで良いぞ。」

 風呂場の設備で男女の違いはないだろうし、全員同じ風呂に入るんだからこの際めぐみちゃんに選ばせた方が良いだろう。

「どっちでも良い?」
「ああ。どちらを選んでも中はそれほど違わないからな。」

 めぐみちゃんは男湯と女湯を交互に見てうんと考える。めぐみちゃんの世話をしているおばあちゃんの家にも風呂はあるだろうし、銭湯に行く機会があっても
おばあちゃんと一緒なら女湯だから無難に女湯を選ぶかな。

「えっと・・・こっちが良い。」

 めぐみちゃんが選んだのは予想どおり女湯。興味で男湯を選ぶかとも思ったが今回は無難な方を選んだな。女湯に入る機会が出来たといっても、入る
面子は俺と晶子とめぐみちゃんだけだから性的興味の高揚はない。

「じゃあ、入ろうね。」
「うん。」

 再びめぐみちゃんを真ん中にして手を繋ぎ、暖簾を分けて入る。親子で銭湯に行っても夫と妻で風呂場が分かれるから、こういう機会は滅多とないもの
だろう。

「広ーい!」

 ドアを開けて入ったところで早速めぐみちゃんが歓声を上げる。整然とロッカーが並ぶ脱衣場は男湯とまったく同じ構造だ。やはりこの広さは1人では持て
余す。3人入る今回でもまだまだ余裕がある。

「転んだりして危ないから、走らないようにね。」
「うん。」

 事前に晶子がやんわり諭す。興奮のあまり走り出しそうだったし、走って転んでからでは遅い。良いタイミングだし、めぐみちゃんをよく観察していることが
分かる。

「準備は・・・向かい合わせのロッカーでするか。」
「そうですね。祐司さんが先に入ってください。浴場のドアの音がしたら私とめぐみちゃんが入りますから。」
「分かった。」

 めぐみちゃんの入浴準備は晶子がするのが適切だし、横で晶子が服を脱ぐのを見ながら脱衣するのは性的な意味で後々困る。流石に晶子のその辺は
分かっているようだ。
 場所は十分選べるから、浴場に一番近いロッカーにする。近くに大きな鏡やドライヤー、マッサージ器や体重計、剃刀やタオルなど風呂場で使う用品や
飲料の自動販売機が揃っているのも、男湯と同じだ。エステサロンがあるかもと思ったが、洋式のホテルには馴染んでも純和風のこの旅館には場違いだろう。
 ロッカーを挟んだ向こう側から晶子とめぐみちゃんの声が聞こえる中、入浴の準備をする。準備といっても服を脱いでロッカーに入れ、小さいタオルを1枚
持つだけだ。服を着るのも脱ぐのも手っ取り早く済ませられるのは、男に生まれて良かったと思える。

「お母さん、おっぱい大きいんだねー。」

 風呂へ向かおうとしたところで、めぐみちゃんの声が聞こえてくる。知っていることとは言え第三者の評価を聞くことはなかったから、唐突な声で余計に
驚いてしまう。

「めぐみちゃんはこれから大きくなるよ。」
「そっかぁ。」

 やり取りから推測するに、めぐみちゃんは晶子の胸を羨んでいるようだ。やっぱり気になるんだろうか。・・・こんなところであれこれ考えていても仕方ない。
取り決めどおり俺が先に入って合図にしよう。
 引き戸を開けて中に入る。やっぱり中は男湯と変わらない。入って右側に洗い場、左側−鴨川に面している方に湯船がある。洗い場は何処にしようか・・・。
晶子とめぐみちゃんが分かりやすい位置の方が良いだろうから、出入り口と向かい合わせになっているところにしよう。

「うわーっ!プールみたーい!」
「転んだりして危ないから、走らないようにね。」

 腰掛に座ったところで早くも晶子とめぐみちゃんの声が聞こえてくる。思わず振り向くと、髪を後ろで束ねた晶子がめぐみちゃんを連れて近づいてきている。前は一応タオルで隠しているが、お飾り程度だ。何度も見ているのにどぎまぎしてしまう。

「お父さん、見ーつけた!」
「・・・これだけ広くてもすぐ分かっちまうよな。」

 めぐみちゃんはかくれんぼをするつもりだったのかもしれないが、そうだったとしたら期待はずれになることをしたな。すぐ後ろに居るめぐみちゃんの声の
調子は弾んでいるから、発見して嬉しかったのかもしれない。

「お風呂に入る前に身体洗おうね。」
「うん。」
「隣、失礼しますね。」
「ああ。何だか他人行儀だな。」
「先に居た夫への礼儀ですよ。」

 晶子はめぐみちゃんを俺の右隣に−何故かこういう場合隅から詰めていく−めぐみちゃんを座らせながら言う。俺を先にしたのは、めぐみちゃんの準備を
させるためでもあるし、俺を立てるためでもあったんだろうか。本当に立ててくれる。それにしても・・・、至近距離で見る晶子の入浴姿は、三つ編風味に後ろで
束ねた髪といい豊満な身体の稜線といい、艶やかで綺麗だ。エステやダイエットに執心しないどころか気にかけないのに、これだけのスタイルを維持出来る
のも凄い。
 ・・・見続けていると身体を洗えないし、後々色々と支障が出るから鑑賞はこのくらいにしておこう。俺はタオルを濡らしてそこにボディソープをつけて何度か
擦る。泡が立ったところで左腕から順に洗っていく。利き手が右だからどうしてもこうなってしまう。身体の泡を流したら、今度は髪。前髪が視界を遮って
邪魔と感じたらざっくり切るという程度の大雑把な髪型だから、リンス入りのシャンプーを適量手につけて泡立てて、頭全体を暫く擦って洗い流せば完了と
相成る。この後髭を剃ることが加わることもあるが、幸い俺は髭が薄いから隔日でも十分だ。昨日剃ったから−夜に向けての身繕いという心構えもあったよう
に思う−今日はパス。

「髪の毛は洗える?」
「う・・・。ちょっと苦手・・・。」
「じゃあ、お母さんが手伝うね。」

 晶子はめぐみちゃんが髪を洗うのを手伝う。シャンプーを泡立てて頭につけるところまではめぐみちゃんが自分でして、めぐみちゃんが上手く洗えていない
場所を代わりに自分の手で擦ってやる。手つきは丁寧だから痛いと思うことはまずないだろう。晶子の身体には雫こそ散見されるが、洗った形跡はない。
めぐみちゃんの手伝いを最優先させているのは良いが、身体を冷やさないか心配だな。それにしても綺麗な身体だな・・・。

「祐司さんはもう洗い終えたんですか?」

 俺の視線に気づいたのか、晶子が顔を上げる。つい見入ってしまう。

「ああ。俺はすぐ終わるからな。」
「先に湯船に入っていてください。身体を冷やしちゃいますから。」

 俺の方が心配されてしまった。思わず苦笑いしてお言葉に甘える。湯船から近いところに居るから、晶子とめぐみちゃんのやり取りを眺めるには不自由
しない。晶子はめぐみちゃんにの頭にゆっくりを湯を流して泡を完全に洗い流す。一連の動作は丁寧で、見ていて安心出来る。

「はい、おしまい。目は痛くない?」
「うん、平気。」
「じゃあ、次はお母さんが身体洗ったりするから、めぐみちゃんはお父さんと一緒にお風呂に入ってなさいね。」
「うん。」

 めぐみちゃんが俺の元に歩いてくる。晶子は長い髪の分だけ俺より洗うのに時間がかかるから、その間は俺がめぐみちゃんの面倒を見るのは当然だ。

「このお風呂、木で出来てる。」
「普通は陶器−茶碗とかと同じ焼き物の一種だからな。此処は珍しいところなんだ。」

 ヒノキ作りの風呂というのは話に聞いたことがあったが、実際に体験するのは今回が初めてだ。めぐみちゃんも初めてだろう。

「さて、風呂に入ろうな。・・・足元に気をつけてゆっくり入って。」
「うん。」

 緊張した様子でめぐみちゃんは右足から湯船に入る。湯船は大きな風呂でよく目にする、腰掛ける部分がある作りをしている。俺だとそこに座れば胸より
上が湯面から出るが、めぐみちゃんだと肩まで浸かるくらいの深さがある。

「結構深さがあるから、試しに今めぐみちゃんが立ってるところで座ってみような。」
「うん。」

 足を滑らせる危険はひとまず遠のいたが、湯船に完全に浸かるまでは油断ならない。俺の左隣に立っためぐみちゃんは、その場で膝を曲げていく。・・・よし、
やっぱり腰掛ける部分で肩まで浸かるな。この段差がなかったら溺れていたかもしれない。

「もう大丈夫だな。足、伸ばして良いぞ。」
「うん。」

 めぐみちゃんも安心したのか、足はすぐ伸ばす。しゃがんだ時より少し身体が沈み込むが、顔が全部湯面より上に出ているから息が出来ないということは
ない。

「広いお風呂だねー。」
「お父さんは昨日初めて入ったんだけど、広くてびっくりした。」
「1人で入ってたの?」
「ああ。広々として気分は良かったけど、ちょっと勿体無いかなとも思った。」

 銭湯ほどではないにしても旅館の大浴場だから、大人数が入ることを想定している。それを晶子とめぐみちゃんを含めた3人で使っても、持て余すほどの
広さだ。

「昨日はお母さんと一緒に入らなかったの?」
「!・・・普段は別々に入るし、他にお客さんが居ると思ってたからな。」

 めぐみちゃんの鋭い質問は本当に不意に投げかけられる。ふと横を向けば気持ち良さそうに身体を洗っている晶子が見えるし、そこに昨夜の音と光景が
鮮明に蘇って来る。色々と心臓に悪いな・・・。

「他にお客さんが居なかったら、一緒に入ってたの?」
「・・・入らなかったんじゃないかな。」

 我ながら曖昧な答え方だと思う。昨日のことを個別に思い出そうとしても、夜の音と光景が言われずとも率先して出てきて遮られてしまうから、そうとしか
答えようがない。実際・・・客が俺と晶子だけだと最初から分かっていたら、一緒に入っていたんだろうか?考えた末に「新婚旅行だから」という口実を出して
一緒に入っていたかもしれない。今日の様子からすると、晶子から言い出してそのまま一緒に入っていたかもしれない。一緒に入っていたら出るまで平静や
理性を保てたか怪しいな。

「ねえ、お父さん。」
「・・・ん?何だ?」
「お風呂で声が響くのはどうしてか知ってる?」

 更なる追求が続くのかと思ったら、いきなり話の方向をまったく違う方向へ変える。めぐみちゃんの興味や関心の的が不意に移動することが、今回は難しい
立場に置かれた俺を助けた格好だな。ほっとしつつ頭を切り替える。めぐみちゃんの質問は、音響・通信関係の研究室への本配属を希望している俺の
現在の知識の質を問う試金石だ。少し混乱の余波が残る頭を整理して答える。

「声が風呂の壁や床で跳ね返るからだ。」
「お部屋にも壁や床があるのに、お風呂みたいに声が響かないのはどうして?」

 最初の回答で概要を言って、そこから思い浮かぶと予想出来る質問で詳細を言う。実験後の口答試験で体感したやり取りの仕方だ。最初から詳しい解説を
するのは持ち時間が足りなかったり、長くて自分でも要点が掴めなかったりする。相手とやり取りすることで論点をずらすことなく話が出来るし、自分自身
知識や経験を整理しながら伝える余裕も生まれる。
 順を追って説明する。風呂で響いて部屋で響かない理由は材質にあること。柔らかいものほど音を吸収しやすいこと。部屋の壁や天井を作る木は人間の
身体よりは硬いが風呂場を作る石や陶器より柔らかく、柔らかいものほど音を吸収すること。柔らかい木で囲まれている部屋の床は更に柔らかい畳だから、
より音を吸収しやすいことをまず説明する。
 次に、音の響きは反射されることで作られることを挙げて、床も硬い材質で作られている風呂場は音が吸収されにくく反射されることで、風呂場の
彼方此方を駆け回ること。反射された音が多く長く残ることが人間にとって「響きが良い」と聞こえることと順に説明する。こういう時、紙と鉛筆があればもっと
分かりやすく説明出来るんだが、この場でそれを求めるのはどだい無理な話だ。

「−こんなところ。」
「ふーん・・・。音が彼方此方飛び回ってるんだ・・・。」

 シンセサイザやギターのエフェクタに内蔵されている効果の代表的なものが、風呂場のような豊富な響きを作り出すリバーブだ。リバーブをかけるとかけない
では大きな違いがある。臨場感を形成する基本効果の1つだが、使いすぎると音の発生源が不明瞭になって、音が分散して聞き取り難くなる。狙ってのもので
ない限り、リバーブも含むエフェクトは控えめに使用するのが無難だ。音楽の最大の目的は様々な楽器が奏でる曲全体を相手に聞かせることであって、
エフェクトを聞かせることが目的じゃない。

「分かったかな?」
「うん。凄く分かりやすかった。」
「そうか。それなら良い。」

 さっきの説明で分からないとなると、もっと用語を噛み砕くとかたとえ話を加えるとか、説明の仕方そのものを変えるとか考える必要があった。相手の知識
レベルが不明な状況で相手が理解出来るように説明する機会は、大学に居るとあまりない。特にその分野のある方向性について特化する研究室だと、話を
する上で一定以上の知識レベルを前提とするから更に起こる可能性が少なくなる。だが、相手が自分のしていることを全て分かっていることは殆どない。
卒業研究を進めて発表に持ち込むには、相手に分かるように説明することが要求される。その足がかりになるのが学生実験後の口述試験だと指導教官の
1人が言っていたが、こういう事態に遭遇してなるほどと思う。

「お父さんのお話だと、お部屋は音が響きにくいんだよね?」
「ああ。」
「お家のスピーカーで聞く音楽とかは響いて聞こえるけど、どうして?」

 響き難いはずの部屋で響いて聞こえることが疑問に感じたのか。良い質問だと思いつつ、回答を整理して順に出していく。
 スピーカーで音が響く理由は大きく分けて2つ。1つは録音時に響く設備の部屋−音響スタジオが使われていることや、録音してからの編集で音が響くよう
人工的に加工することで生じるもの。もう1つはスピーカーの内部で音を響かせるような構造をしていることや、再生するコンポなどオーディオ機器の側で
音を響かせるように加工しながらスピーカーに出しているもの。これらが場合によっては複合して、本来響きにくい一般の室内でも風呂場やコンサート
ホールで聞くような残響を作り出していることを説明する。
 かつては録音設備でリバーブを含めた音の性質のかなりの部分が決まったが、リアルタイムの音声加工技術が、録音後の編集や聞き手の好みに合わせた
調節を可能にした。音を再生する電子回路が今でもマニアに重用される真空管からトランジスタを経て集積回路になり、それが猛烈な勢いで集積度と機能が
向上したことで、より複雑で微妙な調整をリアルタイムで出来るようになった。
 ある信号処理に特化したICであるDSP(註:Digital Signal Processorの略でディジタル信号処理ICの総称)は、俺が本配属を希望する久野尾研の研究
テーマの1つになっている。簡易な構成でより立体的で臨場感に富む音声再生を実現するために、DSPを設計・製作するというものがその1つだ。DSPを作る
ために必要な基礎知識は、離散フーリエ変換(註:ディジタル信号に代表される飛び飛びの値(実際の音声など連続に変化する値である「連続値」に対して
「離散値」と言う)をフーリエ変換する数学理論)をはじめとする抽象的な理論と、ディジタル信号を処理するICを構成するためのハードウェア記述言語がある。
どちらも講義や実験で何度か体験したが、前者は計算の結果である程度状況が把握出来るのに対して、後者はテキストの内容と実際の処理の繋がりが掴み
きれていない。
 0か1かのどちらかしかないとは言え、信号をリアルタイムで処理するディジタルICがプログラミング言語の感覚で生成出来ることにどうも違和感を覚えるのが
その理由だ。大量かつ高速で送られてくる信号を処理する電子回路を構築するには、トランジスタやロジックIC(註:単純な回路を集約した小規模のICで
ディジタル回路生成の基礎)だけでは追いつかないのは分かるし、ICの組み合わせや配線の試行錯誤を大幅に減らしてICの中だけで完結させる
ハードウェア記述言語の便利さも分かるが、記述の仕方によって期待通りの回路が出来なかったり、ありえない回路が出来てしまったりする理由がよく
分からない。
 湯面からやっと出ているめぐみちゃんの顔は真剣そのもので、興味津々だということが良く分かる。旺盛な好奇心は予想もしない方向に不意に対象を切り
替える不安定さを持つが、「知らないことを知ろう」という純粋な気持ちから生じる疑問や質問は時に鋭く物事の本質に切り込んでくる。ディジタル信号処理
まで話をするとのぼせてしまうのは目に見えるが、めぐみちゃんも何れどうやってコンポの中で音を加工しているのか疑問に感じてそれを調べる機会があると
良いだろうな。

「−こんなところだな。・・・分かった?」
「うん。凄く分かりやすかった。考えて作られてるんだね。」
「好きな人だと、スピーカーやそれを動かすアンプっていう機械に何十万何百万とかいう大金をつぎ込むらしい。」

 オーディオマニアと呼ばれる人達は、現在では殆ど作られていない真空管を使ったアンプや、特別なスピーカーを海外から取り寄せたりする。真空管の
存在自体はエレキギターを使う人間なら割と馴染みがある。オーバードライブやディストーションといった音を歪ませるエフェクト−両者の違いは歪ませ方の
強弱くらいで弱い方がオーバードライブ−の元になったものが、真空管アンプを増幅過多にした時のエレキギターの音が由来だからだ。
 真空管は今の電子回路で言うとトランジスタ、ICレベルになるとOPアンプ(註:「アンプ」という名称のとおり入力信号を増幅するICの総称で形状は他のICと
同様)だ。それらで構成する増幅回路は理想では無限の増幅が可能だが、実際のICでは限度がある。主に入力信号の周波数と増幅の倍率で決まるそれを
考慮しないと出力信号が歪んでしまう。音だと本来の音から離れた倍音を伴う不快とも聞こえるものになるが、それをあえて利用してエフェクトの1つと位置
づけたことで、主にロックやヘビーメタルといったギターが前面に出るジャンルで好んで使用されるようになり、真空管がトランジスタやICに主役の座を譲っても
生み出したエフェクトは継承されている。
 真空管アンプなどを求めるオーディオマニアやギタリストは、トランジスタやOPアンプで作り出されるエフェクトをはじめとする音の出力に違いを感じたり、
「生」の響きを求めているんだろう。あいにくギタリストの端くれでも何十万何百万という金には縁が薄い俺には望んでも届かない世界の話だが、音にこだわりを
持つと真空管での出力を再現したものより真空管で出来たものである真空管アンプそのものを求めるようになる気持ちは分かる。
 シンセサイザはその名のとおり音をSynthesize=合成することで、様々な音を作り出す。その指向性は自然界には存在し得ない音を目指すか、原音に限り
なく近い音を目指すかに大別出来る。前者はSE(註:ここでは「Sound Effect」=効果音の略)にもなる、「宇宙空間を浮遊するようなイメージの音」や「夜明けの
光が徐々に夜空に浸透していくイメージの音」といった、既存の楽器では表現が難しい若しくは不可能な音を作る。パッド(註:曲の背景に流れる長音(和音)の
総称でストリングスやコーラス関係の音色が多い)で偶にこの系統の音色を作るが、イメージを具体化するのはなかなか難しい。プリセット音を複数混ぜたり
エフェクトを過大にかけたり、パン(註:ここでは音の配置)を細かく振ったりして合成することが多い。
 後者はサンプリングでかなり近づけられる。サンプリングに必要な多くのメモリと高速処理が、DSPをはじめとするICの高機能化でより容易になっている。
ある音程のみサンプリングして再生では音程を上下させる処理でやりくりするんじゃなくて、必要な音階や音域の分だけサンプリングして再生させることも
可能になっている。
 技術や環境が整うと、あとはどれだけ良い原音をサンプリング出来るかでその音色やシンセサイザの出来が決まる。この原音のサンプリングの癖や善し
悪しが、「あのメーカーの音は芯が太い」「あのメーカーの音は煌びやか」といったメーカーの個性や評判に直結している事例は決して特殊じゃない。
そのサンプリング音声では満足出来ない、「何かが違う」と違和感を覚え続ける人達は、スピーカーやアンプに原因を見出してより良いものを捜し求める。
その一例が年代物の真空管アンプの入手だ。俺はギタリストの端くれ、言い換えれば曲をより良く演奏することが第一で音色の再現性の高さはその次という
立ち位置だから、音色まで深く突っ込む必要性を感じない。

「お父さんのお話はどれも凄く詳しくて分かりやすいけど、音に関係することは特に詳しくて分かりやすい。」
「そう感じたか。お父さんは趣味でギターを弾いたり曲をアレンジしたりしてるから、それに関係することを調べたり試したりしてるんだ。他より詳しかったりする
のはその蓄積だろうな。」
「ギター弾けるんだー。凄いねー。」
「お父さんは凄いよ。」

 横から聞こえた声にふと振り向いて、思わず声を上げそうになる。髪を後ろで束ねた晶子が、お飾り程度にタオルで前を隠してすぐ近くに居る。滑らかな
肌が水分を弾いて雫となって随所で滴り落ちる様は何とも色っぽい。そこに昨夜の音と光景が重なり、思わず生唾を飲み込む。

「たくさんの人の前でギターを弾いて、音楽を演奏して生活しているプロの人達からもたくさん褒められたんだよ。お母さんも音楽のことをたくさん詳しく
教えてもらってるし。」
「じゃあ、お父さんはお母さんの音楽の先生なの?」
「そうよ。」

 めぐみちゃんとやり取りしながら、晶子はめぐみちゃんを挟んで風呂に入る。湯に身体を浸していくところでタオルを取って−タオルを湯船に浸けるのは
よろしくないが−小さく畳んで脇に置く。文字どおり一糸纏わぬ全裸だ。風呂だからそれが普通なんだし、晶子の裸体は何度も見て触れて感じてもいるのに、
どうしてこんなに心臓が激しく脈打つんだ?裸体でもベッドと風呂場と場所が違うし雰囲気も違うからか?

「お父さん、また顔が赤くなってる。」
「・・・長く入ってるからだって。」
「ううん。音の話をしてくれた時より赤い。お母さんがお風呂に入って来てから赤くなってる。」
「ほら、一緒に暮らしててもお風呂は今まで別々だったし、お父さんは照れ屋さんだから。」

 対応しあぐんでいたところに、晶子がフォローを入れる。だが、はぐらかすものじゃなくて理由を説明するものになってるのはどうも・・・。そのとおりだし、贅沢
言ってられないか。色んな意味で。

「晶子。何て言うか・・・、全然抵抗ないのか?」
「少し照れくさいとは思いますけど、夫と子どもにお風呂で見られて困る身体じゃありませんよ。」

 確かに・・・明瞭な凹凸が描く稜線と適度な丸みを帯びた豊満な肉体は、貧相という表現とは無縁だ。やっぱりそれなりの自信があるから、ある意味堂々と
していられるのか。その自信が慢心や自意識過剰ではないことは間違いない。
 女性には表面上色々取り繕ったり誤魔化したり出来る手段がある。化粧がその筆頭格だ。顔に様々な−俺にしてみれば大学の講義や実験で覚えることより
はるかに困難−化粧品を順に塗っていくことで、実物とはかけ離れたものにすることも可能になる。「メイク」と言えば聞こえは良いが、していることはSF映画
あたりの奇怪な姿をしたエイリアンやモンスターを作り出すメイクと大差ない。その化粧をし続けていられるかと言えばそうでもない。化粧品のCMあたりを
眺めていれば化粧を落とすことも欠かせないことが分かる。単純に考えても、異物を常時肌に密着させて居れば肌に悪影響が出ることくらい容易に分かる。
晶子の昼間の言葉を借りれば、「化粧を取ったら見られなくなるような顔」に戻る必要があるわけだ。
 入浴では顔を含めて身体を洗うことが目的だから、化粧を落とさざるを得ない。その時に同じような化粧をして同じように変装している女性がどんな会話を
してるんだろうか。化粧をしていれば男性を誤魔化せると思っているなら男性の1人として間違っていると言いたいところだが、余計なお世話だろうし許容
出来ない男性から言われるのは我慢ならないそうだから黙っておくのが賢明だ。

「お母さん、時間かかったね。」
「髪の毛を洗うのに時間がかかるからよ。」
「うーん・・・。髪の毛長いと大変?」
「それなりにね。洗う手間や時間もそうだけど、切り揃えたり、普段の生活で邪魔にならないように注意することの方に気を配ってるよ。」

 長い髪で「大変」や「手間」と聞くとまず洗うことを想像するが、それだけじゃない。髪は一旦希望の長さに揃えたらそのまま維持されるわけじゃない。
髪の伸びは全てが一定じゃないから、ある程度経てばばらつきが顕著になる。ある間隔で切り揃えないといけない。更に、長い髪はそのままだと風などで
乱れたり、特に首を下に向ける作業−料理や掃除はその代表例−で耳に近いものから順に前に流れ落ちて邪魔になる。そういう時に取り外したり縮めたり
なんてことは出来ないから、束ねるなり纏めるなりしないといけない。
 掃除は邪魔になるだけだが、料理と長い髪は相反する。見落としがちだが髪は生え変わる。そのタイミングは不定かつ不明だから、料理の最中に落ちても
不思議じゃない。料理中に落ちることは料理に髪が混じることに直結する。俺と晶子なら誰の髪か分かるし相応の中だからついうっかりでも済むが、料理の
イメージや心理的な部分での味を落とすことはあってもプラスにすることはない。店で出す料理となれば晶子のファンであってもイメージダウンは避けられ
ないし、衛生面からは致命的なダメージになりかねない。同じく長い髪をトレードマークにしている潤子さんも、料理の時は必ず髪を束ねて料理や食材に
落ちないようにしている。少なくとも後ろ側で纏めておけば前に落ちる可能性は大きく減少する。背を向けて料理なんて曲芸そのものの芸当は無理だし要求
されないから、後ろ側に落ちる分には店の掃除でカバー出来る。

「めぐみちゃんも伸ばそうと思ってるのか?」
「うーん・・・。伸ばしたいかなとも思うけど大変そうだなって思うし、お母さんの話聞いて大変だって分かったけど、綺麗だから良いなあって思うし・・・。」
「まず肩口くらいまで伸ばしてみて、大丈夫そうなら少しずつ伸ばしていくと良いと思うよ。」
「伸ばすのは時間がかかるけど、短くするのは簡単だからな。」

 目に見えて伸びたと分かるにはおおむね一月ほどかかる。肩を超える長髪となると根気が必要だし、一気に伸びてくれるわけじゃないからその間手入れは
必要だし、纏めるなりの方策やそうすべき場面を体得せずに放置するとトラブルを招く可能性もある。晶子は十分ケアの方法を知っているし、自分でほぼ
全てが可能だから問題ないが、めぐみちゃんはそういったことを十分知っているとは言えないし、両親に今のところ指導や教授を期待するのは無理がある。
 伸ばすにしても、肩に届く程度の短さなら邪魔と感じたその場でゴムあたりで纏めるのも容易いし、この段階で面倒だと思ったり自分では手に負えないと
悟ったら切ってしまえば良い。短くする方は伸ばす方に比べてかなり融通が利くから、伸びるのを待ちながら自分に合った長さを見ていけば良い。

「お母さんが髪の毛長くしてるのは、お父さんのため?」
「そうよ。」

 めぐみちゃんの質問に、晶子は何の迷いもなく即答する。この類の質問で晶子が誤魔化したりはぐらかしたりすることは、まずない。本人が言いたくて
うずうずしていると言っても過言じゃないから、この手の質問は晶子の惚気話開始の引き金にはなっても、安全装置にはならない。

「お父さんは、お母さんに髪の毛伸ばして欲しいとか切って欲しいとか言う?」
「『今の長さくらいが良い』とは言うなぁ。『切って欲しい』は言ったことない。」

 晶子が髪を切り揃えるために定期的に通う美容院の帰りに−ほぼ土日のどちらか−、偶に晶子の髪の長さについて聞かれる、若しくは確認されることが
ある。ばっさり切るべきか若干の余裕を含む現状維持か。選択肢はこの2つだ。
 晶子の髪の長さは今の段階でバストの裏側あたりまである。髪の長さが必要な髪形−ポニーテールなど纏めるタイプと三つ編みなど細工タイプをするには
十分長さだ。今より長くするのは維持管理の手間や時間が更にかかることになる。そこまでしないと出来ないような髪型も思いつかない。高校まで良い思いを
しなかった反動もあるが、本人が明言しているように、晶子の髪は俺の希望を受けて今の長さを維持している面が大きい。俺は今の晶子の髪が色も質も
含めて気に入っている。それをある意味全否定する必要性は見当たらない。だから、俺が選ぶ選択肢は現状維持が続いている。

「お父さんは、髪の毛は長い方が好き?」
「ああ。長い方が好きだな。」
「それはどうして?」
「どうして・・・。理由か・・・。うーん・・・。」

 率直な質問だ。長い方が好きな理由をどうめぐみちゃんが納得出来るように説明するか・・・。「好きだから好き」ってのは説明にならないし・・・。

「晶子−お母さんには長い髪が一番似合ってると思うから、だな。出逢った時からずっと長いから、実際に短くした時の様子が想像し難いのもある。」
「ふーん・・・。」

 晶子が髪を短くした様子は、完全とまではいかなくても擬似的に作り出すことは出来る。髪を生え際ギリギリで束ねて正面から見れば良い。長くしているのに
見慣れているのを通り越して馴染んでいるから、興味本位で試して見て随分と違和感を覚えて以来していない。

「お父さんは、お母さんの長い髪の毛が好きなんだね。」
「ああ。好きだ。」

 めぐみちゃんの確認への回答には、晶子を視界に入れる。俺と目が合った晶子は嬉しそうに微笑んで小さく頷く。「好き」の対象が髪だけじゃないと伝わった
かな。

「お母さんは、普段どんな髪型してる?」

 めぐみちゃんは晶子の髪に結構こだわっている。年齢は違っても同じ女だし、今の自分では出来ない長い髪を維持している先輩に聞いておきたいことが
あるんだろう。

「普段は昼間外を歩いていた時のような髪型よ。下を向いたりした時に髪の毛があまり邪魔にならないように、少し纏めてゴムとリボンで見た目を整えるって
いう形。」

「長い形は維持して邪魔にならないようにしてるんだね。」
「そうね。料理を作る時は絶対束ねてるよ。髪の毛が作ってるご飯に混ざらないようにね。」

 晶子の口から料理時の留意事項が明言される。長い髪は見た目の良さや映えることの裏で維持管理に手間と時間がかかるし、普段の生活で自分や周囲の
邪魔にならないように気を遣っている。
 長い髪が何時も同じ長さで身体を動かしても連動しないのは、想像の世界の話だ。実際に生きている以上は「本体」の動作に逐一左右される。見る分だけ
なら良くても、料理に混じったりしないかという他人の不安や心配を呼び起こす時がある。そういった場合への配慮も出来ることも長い髪の維持管理に
含まれるんだと思う。

「ご飯作る時は束ねて、食べる時は解いて・・・。それを1日3回はするんだから大変なんだね。」
「それが自分で出来るかどうか、どのくらいまで自分で出来るか知っておくためにも、いきなり長く伸ばしていくより少しずつ伸ばしていって確かめていく方が
良いと思うよ。」
「うん、分かった。」

 めぐみちゃんが今後自分の髪をどうしていくか、それも自我の1つだろう。今の−「今までの」と言いたいところだが−めぐみちゃんの環境は威嚇や実力
行使を伴う強い抑圧に晒されている。そんな中で自我を発揮するのはまず間違いなく「粛清」の対象になってしまう。八方ふさがりのめぐみちゃんにとって、
唯一の抜け穴はおばあちゃんだと見て間違いない。警察からの電話でもおばあちゃんが両親も含めて引き取りに来ると言っていたし、めぐみちゃんが想像
以上にしっかりした食べ方や落ち着いた振る舞いなのは、普段の生活で体得した処世術もあるけど、おばあちゃんの躾が良いからだろう。
 その点からしても、めぐみちゃんにとって大きな存在のおばあちゃんは、明日あろうことか京都府警本部に拘留された子ども夫婦と偶然出くわした旅行者に
預けられた孫を、どんな思いで引き取りに来るんだろう・・・。そう考えると余計にやるせない。

「そろそろ上がろっか。」
「うん。」

 暫く話をした後、晶子が切り出す。長湯するとのぼせてしまうし、他に客が居ないのを良いことに全員一緒に入っておいてのぼせた、なんてことになったら、
旅館の人達に大量の失笑を買うことになる。十分浸かったし丁度良いタイミングだ。

「めぐみちゃんはお母さんと一緒に先に出ようね。」
「うん。」

 晶子はゆっくり立ち上がる。湯面から徐々に出てくる白い身体からは、肌に弾かれた湯が幾重もの雫となって流れ落ちていく。昨夜晶子が俺の上で動いた
時の記憶が重なる。・・・めぐみちゃんが居なかったら何時まで理性を保ってられるか、非常に疑問だ。

「祐司さん。お先に失礼しますね。」
「ああ。・・・少ししたら俺も出るから、脱衣所か出入り口で待っててくれ。」
「はい。」

 ちょっと夫らしいことを言ってみると、晶子はすんなり了承する。晶子はめぐみちゃんが滑ったりしないように手を取って、風呂から出す。一応前をタオルで
隠しているがお飾り程度だし、濡れているから身体にぴったり貼り付いて、隠している意味がないどころか逆効果だ。・・・めぐみちゃんが居なかったら、
この時点でもう臨界点突破だな。

「では、お先に失礼します。」
「ああ。・・・別に良いのに。」
「夫への礼儀ですよ。」

 あくまでも俺を立てる姿勢を崩さないな。結婚すると態度が豹変する人は男女問わず居るというが、晶子はより俺を立てる姿勢を強めているように思う。
めぐみちゃんの母親役として、父親を立てる姿勢を見せようと意識しているのかもしれない。晶子はかけ湯をしてからめぐみちゃんと手を繋いで出て行く。
改めて1人きりになった風呂場を見回してみると、昨日より何だかがらんとしている。1人か誰かと一緒かの感覚の違いは風呂に入る時でも顕著なようだ。
 さて・・・、風呂から上がってめぐみちゃんに本を読んであげよう。残りは「赤頭巾ちゃん」と「わらしべ長者」だったな。どれも登場人物が複数あるから、
「桃太郎」の時のような風変わりな配役で読むんだろうか。例えば「赤頭巾ちゃん」で、俺が赤頭巾ちゃんで晶子が狼とか。・・・凄いギャップだ。湯船から出て
かけ湯をしてから風呂場を後にする。脱衣場に入ると、ロッカーを隔てた向こう側から晶子とめぐみちゃんの話し声が聞こえる。浴衣を着てめぐみちゃんが
喜んでいるようだ。

「これ、『ゆかた』だよね?」
「そうよ。めぐみちゃんは着るの初めて?」
「うん。お友達がお祭りの日に着てたのは見たことあるけど、着るのは初めて。」
「ちょっと大きいから、袖とか裾とか纏めようね。」

 めぐみちゃんの分も浴衣があったから晶子が持ってきていた。幼児の宿泊のために新規に作ることは出来ないから、出来るだけ近いサイズのものを備え
つけてくれたんだろう。めぐみちゃんも同じ服が着られる方が嬉しいだろうし、旅館の配慮に感謝が尽きない。
 顔を拭いてから上から順に身体を拭い、下着と浴衣を着る。帯を締めて完了。主だった荷物をバスタオルに包んで忘れ物がないか確かめて−他に客が
居たら無事である保証はない−、向かい側へ赴く。

「お父さんだー。お父さんも浴衣着てるー。」
「お待たせ。上手い具合に浴衣着せてもらったなぁ。」
「お母さんが着せてくれたんだよ。」

 ロッカーを挟んで聞いていたやり取りの予想以上に、晶子は上手くめぐみちゃんの浴衣の袖や裾を調節している。安全ピンも持ってないだろうから裾をどう
纏めるか疑問だったが、裾を曲げて帯で纏めて縛ることで実現している。めぐみちゃんの身長と浴衣の裾の大きな差を逆手にとって、可愛らしく仕上げて
いる。飾り立てないがセンスが良い晶子ならではの技だ。
 俺は晶子と共にめぐみちゃんを真ん中にして、手を繋いで風呂場を後にする。大きな風呂に入って浴衣を着て、めぐみちゃんはご満悦の様子だ。夢から
覚めても、こういった表情が何の遠慮もなく出せるような生活に戻れることを願って止まない。
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