雨上がりの午後

Chapter 218 君が傍に居ない時間−その1−

written by Moonstone


 午後。俺は小宮栄の繁華街に居る。勿論、隣に晶子は居ない。渡辺夫妻の家から帰って、俺は晶子が残していった朝飯を食べた。自分で入れて独りで飲む紅茶が
こんなに侘しく思えたことはなかった。何時もなら美味いはずのサンドイッチも殆ど記憶に残ってない。一応感じた空腹を満たすために食ったという程度の感覚しかない。
食器を洗ってから少しギターの練習をした。試験期間中は出来なかった新しいデータ作成も手がけたが、すぐ手が止まった。心が固まってる状況じゃ、データ作成は
無理だ。そして駅に向かって電車に乗って小宮栄に降り立ち、今に至る。
 小宮栄に来て何をするか明確になるわけでもない。せいぜいギターを始めてから出入りしている楽器店に行くか、暇潰しに本屋で立ち読みするくらいだ。
晶子が傍に居るのが当たり前だっただけに、独りを持て余してしまう。一昨年に俺が帰省した時の晶子もこんな心境だったんだろうか。
週末ということもあってか、人は多い。駅周辺にはスクランブル交差点が幾つかあるんだが、往来可能になる度に待機していた人達がなだれを打って移動を開始する。
高校時代である程度慣れたつもりだが、この混雑に飲み込まれそうなところは健在だ。
 大手デパート内にある本屋に移動。目的があって訪れたわけじゃない。単に手近で知っている場所の1つだから、思いつきで流れ着いただけだ。小宮栄にある本屋は
何処も大きいから、割と飽きないのが救いか。
PC関連の専門雑誌を開く。4月から研究室生活が始まるし、その基本の1つであるPCにはそれなりに興味がある。ようやく終わったが、実験でもPCを使うことは多かった。
俺が本配属を希望している久野尾研では、研究室の研究テーマの基本である音響通信関係のセミカスタムICの設計もある。簡易な立体音響システムの構築では、
そのICを含めてスピーカやアンプの設計もするというから、かなり大掛かりだ。
 PCを買ったが、試験期間中は殆ど使うことがなかった。暇がなかったと言う方が正確だが、試験が終わってからもギターの練習とデータ作りを優先していたから、
PCを自由自在に使いこなすというところまではいっていない。OSのカスタマイズとか、突っ込んでいくと際限がない。同時に買ったオフィスソフトを使えれば、
とりあえず卒論は書ける。卒研で使う開発用ソフトの使い方はその都度覚えるつもりでいる。
 雑誌をぱらぱら読んだ後、店を移動。商店街の中にある大型書店に向かう。雑誌から専門書まで何でも揃っている。読んで選べるっていうのは、単価が高い専門書では
ありがたい。俺は専門書が一堂に会する3階で、ずらりと並ぶ本を眺めて回る。

「こんにちは。」

 目に留まった音響関係の専門書籍を眺めていると、後ろから声がかかる。別の誰かかと思いつつも一応振り向くと、そこには、晶子の混乱の原因でもある田中さんが居た。

「・・・あ、こんにちは。」
「どうして私が此処に居るのか、って聞きたいようね。」

 先読みされた。挨拶だけは先にしたが、此処で出くわしたのには驚いたし、「どうして此処に?」と思った。この人、本当に人の心が読めるとか?

「専門書は割と此処で買うのよ。新京市には大型書店があまりないし、あっても一般向けの雑誌や漫画が多くて、専門書を手に取って選んで買うってのは難しいから。」
「・・・そうですか。」
「取って食うわけじゃないから、そんなに警戒しないで。」

 薄い笑みが和らぐ。出くわして開口一番自分の思ったことを言われたことで無意識のうちに警戒してたが、そんな態度を取るなとか言われることはなさそうだ。

「今日は1人?」
「・・・ええ。」

 早速突っ込んだ問いかけをしてくる。
晶子が居るところには俺が居るし、俺が居るところには晶子が居るっていうのが、大学でよくある光景だからな。俺が晶子を文学部の研究棟入り口まで送迎するように
なってから、よりその光景を目にする機会が増えたのもある。
 今は晶子が居ない。大学なら普段学生生活を過ごしている場所が違うのもあってか−違う学部に相手が居ることも広く知られているらしい−、1人かどうかを
尋ねられることはない。だが、今日は今までとは違う事情があってそれぞれ違う場所に居る。そこを突かれると今は胸が少し痛い。

「昨日は貴方に接客してもらえなくて、残念だったわ。」
「・・・それを目的に?」
「学食ばかりじゃ飽きるのもあるし。」

 俺の問いはさらっとかわされるが、俺に接客されるのを目的に来店したことを仄めかす香りが残される。いったいどういうつもりで来店したんだ?過去2回の来店では、
どちらもその後に晶子が動揺を見せた。今回は・・・俺の家を出た。

「こう見えても、自炊は休日と朝食にはしてるわよ。幾ら学食が割安とは言え、それなりに費用がかさむから。」
「・・・。」
「信じられない?」
「・・・いえ、そんなことは・・・。」

 どうにも攻勢的になれない。不敵とも試しているとも取れる薄い笑みは、余裕の表れだろうか?潤子さんと雰囲気が何処となく似ているが、爽やかさより、
何て言うか・・・妖艶さが前面に出ているところが違う。

「貴方の奥さん、井上さん。」

 まさか、と思って周囲を見るが、晶子の姿は何処にもない。思わず溜息を吐く。マスターと潤子さんの家から出るつもりはないって言ったそうだし、元々あまり
出歩くのを好む方じゃない。期待するだけ無駄だったか・・・。

「井上さんが居る、とは言ってないけど、敏感ね。」
「まあ・・・、普段一緒に居ますからね・・・。」
「なのに、貴方との仲をひけらかすに絶好の機会である今一緒に居ないっていうのは、随分不思議ね。何かあったの?」
「・・・いえ、別に。」

 誤魔化したつもりだが、どうも誤魔化せてないような気がする。俺を見る薄い笑みを浮かべた顔が「そんな嘘で誤魔化せると思ってるの?」とじりじり問い詰めて
いるように感じる。

「あれほど貴方との仲を見せ付けていた井上さんが、みすみす貴方を手放すなんてね。」
「手放しては・・・。」
「私が来店するや否や、接客していた貴方に代わって接客に出て、以後少なくとも私が店を出るまで貴方を私に近づけなかったほどの独占ぶりが途絶えたのは、
井上さんの心境に何か変化があったと見るのが自然だと私は思うんだけど。」

 この人、探偵とか雇ってるんじゃないだろうな・・・。いきなり突っ込んだことを聞いて、矢継ぎ早に俺が隠している晶子の変化を見通しているようなことを言うし・・・。
昨日の晶子の接客がおかしかったのを皮肉っている部分もあったし、ストレートに言わないまでも気分を害してるようだな・・・。

「昨日は・・・、晶子があんな態度を取って、すみませんでした。」
「貴方のせいじゃないことくらい、承知してるつもりよ。だからと言って、井上さんに謝罪を要求するつもりもない。」
「・・・。」
「むしろ、貴方が今1人で居られる状況を作ってくれたのを、井上さんに感謝したいくらい。」
「それってどういう・・・。」

 何か分からない−分からないことばかりが続いてる−俺を、田中さんは思わせぶりな薄い笑みを浮かべて見詰める。田中さんと話をすることは今までに何度かあったが、
こうして長時間近くで見るのは初めてだな。
背は俺より頭半分ほど低い。晶子が身長が高い方だから、ある意味普通くらいと言える。明るい茶色の薄手のコート、紺のベストとタイトスカート、黒のパンプスという
出で立ちは、やり手のキャリアウーマンという印象そのものだ。

「小宮栄にはこうして本を買いに週末とかに出向くんだけど、繁華街を歩かないといけないのがネックなのよね。」
「混雑するからですか?」
「それは繁華街だから気にならない。それより、馴れ馴れしく声をかけてくる男が、ね。」

 田中さんの顔から笑みが消え、小さい溜息が漏れる。
小宮栄はアイドルやモデル、女優の原石を探す事務所のスカウトが結構うろついている。当然それを目当てに流行のファッションで身を包んで闊歩する女性も居るし、
そういった女性目当ての男性も居るが、そうでないと迷惑だろう。特に後者は。
 来店した時もそうだったが、田中さんは必要以上に徒党を組んで行動するのを好まないようだ。その志向が女性目当ての男性がうろつく界隈で発揮されると
−勿論本人には何ら非はない−、歩けばかけられたくない声をかけられることになる。今日も此処に来るまでそういう目に遭ったんだろう。辟易した様子だ。

「男性が女性に声をかけることそのものを全否定はしない。だけど、相手がきっぱり断ったら手を引くくらいのルールもない。しつこく付き纏ったと思いきや、
無理と分かると捨て台詞。どうにも、ね・・・。」

 再び田中さんは溜息を吐く。確か晶子が、田中さんが大学で女性の比率が高いことをハーレムと勘違いした男性にうんざりしたという話をしてたな。
執拗だったらしいナンパに、それを髣髴とさせる部分があったんだろう。断り続けていると「お高く留まってるんじゃないぞ」とか最後に言われたことが想像出来る。

「女性によってあからさまに態度を変えるのもね。女性にもそういう部分があるし、そういう女性も居るから、どっちもどっちとも言えるかもしれないけど、何だかね・・・。」
「・・・大学でもそういう男性が多いんですか?」
「学部時代には結構あったわ。井上さんにもちょっかい出した田畑先生もその手のタイプ。どちらも気分の良いものじゃなかったことは確か。前述のとおり異性に
声をかけることで始まる出会いを全否定するつもりはないし、好みはあるでしょうけど、女性別若しくは自分の行動に対する反応で露骨に態度を変えるのが、ね・・・。」
「不愉快ですよね。そういうの。」

 男でも女でも、自分の好みや自分の意中のタイプかどうかで態度を180度変える奴が居る。高校時代までに俺自身何度か経験があるし、店でも接客する人が
俺か晶子かで態度をころっと変える奴が居る。店では相手が客ということで目を瞑っているが、そういう接し方は不愉快だ。

「貴方は、人によって態度を変えないわね。」
「バイトで接客しているせいもあるんでしょうけど、個人の感情で態度を豹変させるのは良くないと思うので。」
「今は接客状態?」
「え・・・。」

 いきなり投げかけられた問いに言葉が詰まる。そんなこと意識してなかったし・・・。

「特には何とも・・・。」
「そう。」

 曖昧な答えを返すと、田中さんは意外とすんなり納得−と言えるのか分からないが−する。思わせぶりな薄い笑みが再び浮かんでいる。最初に自分の思ったことを
言われたのもあって、この笑みにはちょっと警戒してしまう。

「井上さんも、最初貴方に嫌われていた時に接客してもらって、邪険に扱われたりしなかったのよね。」
「何故・・・知ってるんですか?」
「途中からだけど、井上さんがゼミの学生居室で話してたのを聞かせてもらったのよ。貴方との馴れ初めをね。」

 やっぱり話してたんだな。まあ、恋愛が話題になれば大抵そういうのは対象にされるもんだから、予想は出来る。特に、実際に付き合っている相手が居ると、
好奇心が加わって対象とされる優先順位は一気に上昇する。高校時代に経験したから分かる。修学旅行では消灯時間になった瞬間に同じ班の連中が一斉に同じことを
聞いてきた。キスしたかどうかの追求をはぐらかすのが精一杯だった。
 大学は、クラブやサークルに入っていないと個人行動が基本且つそれが何ら咎められない−高校までだとそうはいかない−のもあって、俺は晶子と出逢った
きっかけとかを話していない。晶子に好意を抱いて俺と争った−と言えるのかどうか怪しいが−智一が成り行きで知っているくらいだ。

「聞いてた時は、その時の立場があるとは言っても、嫌ってる相手に普通に接することが出来るのか、って少し疑問に思った。でも、今日貴方と話してみて、一応面識が
あるとは言え私に実際普通に接してくれて、納得したわ。此処に来るまでの道で出くわした男性は、全員貴方と正反対だったから、尚更実感出来る。」
「まあ、通りで目に付く女性を狙ってる連中は同じ傾向だから、そう思えるんだと思いますよ。」
「女と見れば目をギラギラさせることもない。紳士的っていう表現は貴方に相応しいわね。」
「それは褒め過ぎですよ。」
「そうかしら?」
「そうですよ。」

 明らかな褒め過ぎを否定するが、田中さんは真顔で少し首を傾げる。おかしなこと言ったか、という感じだ。女とあれば誰彼構わず鼻の下を伸ばすのは明らかに
おかしいし、嫌悪感さえ感じることで一致した。けど、それは単なる価値観の一致だろうから、注目するほどのことじゃない。

「田中さん、俺のことを買いかぶり過ぎですよ。」
「そうは思わないわね。」
「小宮栄の繁華街で目ぼしい女性を手当たり次第にナンパする男性とは、一応違うつもりですけど、紳士的というほどじゃないですよ。」
「謙遜するのね。」
「謙遜じゃないんですけど・・・。」

 実際の紳士なる人がどういう態度をとるのか知らないし、俺自身はイメージする紳士とは程遠いように思う。颯爽と町に繰り出すわけでもないし、上手くエスコート
するわけでもないし・・・。余程田中さんの周囲に居た、或いは「居る」男性の程度が低いんだろうか。

「この4月から貴方は4年に進級して、卒業研究を始める。バイトは続けられるの?」
「あ、はい。本配属を希望している研究室は、今のバイトを続けながらでも卒研を続けられることが分かってます。他の研究室でもどうにかやっていけそうです。」
「そう。貴方が居ないとつまらないし。」
「それってどういう・・・?」

 俺の問いかけに、田中さんは無言で思わせぶりな笑みを向ける。晶子が感じ、マスターと潤子さんが指摘した「危険な意思」を感じる。まさか、な・・・。あるとしても
それは本意じゃなくて、日頃直面する晶子の惚気っぷりに−予想はつく−意地悪をしているだけだよな・・・。

「輝いている人は自分では分からなくても、他人には良く分かるものよ。そしてそれは、その人の魅力ともなる。本人が誇示しない分、その魅力はより引き立つ。」
「・・・。」
「井上さんのガードがないこの機会に、どう?」
「どうって、何を・・・。」
「他の女に乗り換える気はない?」
「そのつもりはありません。」

 晶子への意地悪やからかいにしては度が過ぎる。俺は即座に辞退する。
晶子が今はマスターと潤子さんの家に立て篭もっていて、突然の事態を受けて揺り動かされたとは言え、俺の晶子への気持ちは変わらないし、変えるつもりもない。
その証拠として指輪とペンダントをそのままにしているんだから。・・・混乱で揺るがされた気持ちが崩壊しないためにも。

「晶子は確かに今居ません。でも、居ないことを良いことに浮気するつもりはありません。」
「そうされることや、その結果切り捨てられることの辛さが分かるつもりだから?」
「!・・・そうです。」

 またも先読みされて一瞬動揺したが、どうにか平静を装う。
距離が離れていることで生じる寂しさなるものを理由に他の異性と交流を深め、ついには「こっちの方が良い」として一方的に最後通牒を押し付けられることでどれだけ
傷つくか、身を以って実感している。あんな思いは二度と御免だし、晶子が立て篭もったことの当て付けに遊びでも浮気をするつもりはない。

「だけど、今この時貴方をガードする筈の井上さんは、どうしてこの場に居ないのかしら?」
「・・・それは・・・今、ちょっと体調を崩してて・・・。」
「昨日あれだけ私を貴方から遠ざけておいて、今貴方を放り出してるってことは、別のところに居るのかもね。」
「そんなことは・・・。」

 絶対無いと言いたい。だけどそう言い切れない部分がある。
マスターと潤子さんの家に出向いた時、最初に応対に出た潤子さんは居るか居ないかの二者択一の問に明瞭に答えなかった。「居る」とも「居ない」とも言ってない。
穿った見方をすれば、マスターと潤子さんが口裏を合わせて、晶子の本当の居場所を隠しているとも考えられる。
 マスターと潤子さんが嘘を言うとは思えない。否、思いたくない。マスターの説明では、昨日寝てないから2階の部屋で寝ているという。だけど、それが本当だという
確証がない。居るか居ないかの問いに明瞭な答えが無かったのは、俺を納得させるための嘘だとも考えられる。

「大学でもお店でも貴方をガードし続けた井上さんが、ある日いきなりガードを完全撤廃する・・・。考えられる可能性は、何かあったか、何かをしたか。」
「何かを・・・したか・・・?」
「一部さっきの繰り返しになるけど、行方をくらまして別のところに居るってこと。」
「そんなことは・・・ないです。」
「貴方も、井上さんの居場所を知らないんでしょう?」
「!・・・。」
「朝起きたら居る筈の井上さんが居なかった、なんて、あまりにも不自然な話よね。」
「・・・まさか、晶子に何かしたんですか?」
「何も。」

 多少凄んだつもりだが−無意識にそうなってた−、田中さんはしれっと答える。
その気になれば、大学で学内専用検索を使って誰かの現住所や電話番号を調べて、嫌がらせをしたり出来る。だが、晶子はこの半月自宅に帰っていない。服の交換と
郵便物の確認、キャッシュカードを取るために、買い物に向かう途中で立ち寄ったくらいだ。生活と行動を同じくしていたから間違いない。
 晶子の行動に異変が生じたのは、田中さんが昨日来店してからだ。露骨と思えるほど俺を田中さんから隔離して、夜帰宅するなり激しく求めてきた。激しく喘いで
動いた。途中と終わりに俺の愛情の確認をした。だが、朝目が覚めたら晶子の姿は無かった。その間何があったかは、マスターと潤子さんから間接的に知るのみだ。

「貴方の起床と井上さんの関連を推測した経緯を説明しておくわ。」

 負方向への回転を早める思考の最中に、田中さんが割り込みをかけてくる。声量を落としたのは、周囲に漏れないようにとの配慮だろうか。専門書が集まるこの階は
元々人が少ないし、見渡しても周囲に人の姿は無い。

「大学に手作りの弁当を持ってくるくらいだから、貴方の食嗜好は十分把握している。それは以前、井上さん自身が言っていたこと。普段の居室が別だから、
ゼミの学生居室の話題は断片的にしか聞いていないけど、井上さんは貴方の全てを独占していることを最高の悦びと位置づけている。」
「・・・。」
「井上さんが一人暮らしをしていることは知ってるし、大学が終わってから夜間のバイトに揃って出向いてることも知ってる。それらを総合すれば、貴方と井上さんは
少なくとも互いの家を行き来していると考えられる。そして私がカマをかけた際に貴方が若干沈黙に至った理由を考慮すれば、貴方と井上さんは夜明けを共に迎える
関係だと推測出来る。・・・こんなところ。」
「・・・嫌がらせとかは、してないんですね?」
「ええ、勿論。そんなくだらない手段は使いたくないし、貴方が知ったら印象を最悪にするのは火を見るより明らかだし。」

 静かに断言した田中さんの顔からは、薄い笑みが消えている。本当だと思う・・・しかないか。今は考え始めると何もかもが疑わしく思えてしまう。田中さんも、
マスターと潤子さんも、そして・・・晶子も。

「あれだけ完璧にガードしておいていきなりノーガードにするのは、何らかの心境の変化があってのこと。携帯を使ったけど何時まで経っても出なかったか、
電源を切られているかで出ない。だから貴方は行方を知らない。無論、私もね。」

 とりあえず現在までの証言などを全部信用するが、こうも考えを先取りされると誰かを背後で動かしてるんじゃないかと勘ぐりたくなる。敵に回したくないっていう
表現はこういう時に使って、使う相手はまさにこういう相手だな・・・。

「貴方すら知らないとなれば、何処に居るかは分からない。誰かの証言を得られたとしても、口裏を合わせているかもしれない。」
「そんなことは・・・。」
「当人が居ない上に行方をくらましている以上、どの可能性も全否定出来ない。逆に、全て洗い出した可能性の中で整合したものが真実。理数系学科の1つに
在籍している貴方なら、この理屈は分かる筈。」
「・・・。」

 否定出来ない。マスターと潤子さんが、晶子と口裏を合わせて別の場所に行っている可能性は否定出来ない。晶子がマスターと潤子さんの家に居るという事実が
確認出来ないから、何処でどうしているのかは推測するしかない。推測すればするほど、考えたくもない可能性が色濃くなってくる。

「貴方を責めるつもりは毛頭ない。不明な点の推測に走るのは、私の性格のためだから。気分を害したなら謝るわ。」
「・・・。」
「でもね、安藤さん。」
「・・・安藤君で良いですよ。俺の方が年下なんですし。」
「貴方を君付けで呼ぶのは、私情のせいで憚られるの。差し障りが無ければこう呼ばせて。」

 差し障りは確かにないが、殆ど使われたことのない呼称だから違和感がある。
苗字+さんで呼ばれた記憶があるのは、最近だと大学の事務くらい。それも定期券発行云々で1年の時1回行ったきり。病院ではそう呼ばれるんだろうが、生憎ここ数年
病院に行ったことが無いから余計に覚えが無い。でも、止めるよう言うだけの理由は無い。

「貴方が自分の方だけを向いていることが分かっているなら、自分が貴方を独占していると分かっているなら、どうして貴方をいきなり無防備にしたりするのかしらね。」
「・・・。」
「井上さんの貴方のガードは、物凄く固かった。ゼミの人達が貴方の携帯の番号やメールアドレスを直接或いはそれとなく聞き出そうとしたけど、井上さんは絶対に
応じなかった。井上さんも、男性には自分の携帯の番号やメールアドレスを絶対に教えなかった。貴方に疑われる要因、ひいては貴方に後ろめたいと思わせる要因を
作らないため、ってのが理由。」
「・・・。」
「貴方と井上さんがバイトをしているあのお店に赴いてみたけど、回を増す−とは言ってもまだ2回だけど、その度に井上さんは私から貴方を隔離する方向に傾いていった。
と思ったら、貴方を鉄壁のガードから解き放つ。いきなりの変化にしては、ちょっと度が過ぎない?」
「・・・何が言いたいんですか?」
「井上さんが貴方をガードする必要がないと踏んだか、或いは・・・貴方のガードを止めたか。」

 後者はつまり・・・、晶子の心が俺から離れた、ってこと・・・か?考えたくない。だけど、晶子の姿を確認出来なくて声も聞けなくて、その意図も本当かどうか
確認出来ない今は、直ぐに疑問が疑惑へと変わる。置手紙には「少しの間、距離を置かせてください」とあった。だが、その「少しの間」が何時までなのか全然分からない。
本当に少しの間なのか・・・。

「この機会に、考えてみるのも良いかと思うんだけど。」
「考えるって、何をですか?」
「井上さんが本当に貴方を愛してるのか、ってこと。」

 根本的な疑問がぶつけられる。晶子は俺を愛しているのか、翻って俺は晶子を愛してるのか。当然のことだが、恋愛感情が無いのに恋愛関係は成立しない。
続いているように見えてもそれは打算か、一時の踏み台か、弱みを握られているかのどれかだ。

「貴方は良い意味で良い人。男か女か、意中の目当てがどうかで態度を変えたりしない、客観的態度を取れる。約束はしっかり守る。それは一方で自分さえ良ければ
良い、っていう考えが蔓延る中では都合良く利用される危険を孕んでいる。」
「・・・。」
「勿論、貴方に責任があるわけじゃない。相手の厚意や良心につけこんで利用する方が悪い。井上さんは貴方のそういう面を利用して、自分の理想に現実を
すり合わせてきた。だから、その過程で予期しない障害−この場合は貴方が他の女性に好意を持たれることだけど、それが生じたことで対応方法が分からず、
混乱という名目で貴方の元から逃げ出した。」

 一部マスターと潤子さんの話と一致するところがある。
猛烈なアプローチが続き、付き合い始めて1年経たないところで、誕生日プレゼントのペアリングを左手薬指に填めるよう譲らなかったこと。それを背景に周囲に
結婚を公言したこと。同居に踏み切ったこと。などなど・・・。俺と晶子の関係は晶子が主導して進行してきた面が確かにある。
 晶子は俺を愛していると信じていた。だが、田中さんが俺に好意を示す行動を数回ちらつかされただけで混乱した。
・・・え?好意?田中さんは確かにそう言った・・・よな?本当・・・なのか?

「貴方なら・・・、大学に独り篭ってないで一緒に暮らしても安心出来ると思う。」

 確認する前に、田中さんから回答が出された。この人、本当に読心術を心得ているんじゃないか?仮に付き合って軽い気持ちでも浮気をしたら直ぐに見破られて、
懺悔するところに「裏切り者」と一言断じて切り捨てるだろう。
田中さんの顔からは、何か思わせぶりな笑みは消えている。からかい半分冷やかし半分で言っているんじゃなさそうだ。とは言え、いまいち安心出来ない。
何を考えてるかこちらからは分からないのに、こちらが考えてることは次々言い当てられるからな・・・。

「貴方と井上さん、厳密には井上さんから聞く貴方や先入観なしに対面して以降の貴方を見ていて、こういう男性って居るんだな、って新鮮に感じたわ。受験勉強の
たがが外れて発情期が来たのか、多少見てくれが良ければ馴れ馴れしくしてくる男がたむろしていたことや、ゼミの娘(こ)とかが合コンの相手にしている中美林大学の、
物欲塗れで下心丸出しの様子を見聞きしたのもあるんだけど。」
「・・・。」
「それに比べて、貴方は見ていて安心出来る。こうして話をしてみて尚更良く分かった。今までは井上さんに独占されていた上にガードが固くて用意に近づけ
なかったけど、今は大丈夫ね。」
「・・・俺の気持ちは変わりませんから。」

 晶子の不在に付け込んで接近を試みようとする動きをきっぱり拒否する。晶子が居ないことを良いことに、他の女性と仲良くするなんてことは俺には出来ない。
したくない。
俺の家を飛び出した晶子の真意が分からないのは事実だ。田中さんが言うように、晶子が俺のガードを止めた、つまり俺から心が離れたせいかもしれない。
だが、これも田中さんが言ったことだが、これまで理想どおり進められた展開に予期しない障害が生じて混乱しただけかもしれない。俺は・・・後者を信じたい。
信じないと恋愛はやってられない。

「・・・そう。」

 田中さんは小さい溜息を吐く。だが、不敵な笑みは消えていない。

「ま、貴方のガードが撤廃されているのは事実だから、ゆっくり対応させてもらうわ。」
「・・・では。」

 これ以上「対応」の余地を与えるわけにはいかない。そのためには、まずこの場を離れることが先決。田中さんとの対話を打ち切って、俺は本屋を後にする。
まさか追っては来ないだろうが、出来るだけ本屋から遠ざかる。あえて遠回りして、同じ商店街の一角にある楽器店に向かう・・・。

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