雨上がりの午後

Chapter 215 大きな関門が開く時

written by Moonstone


 試験結果発表の日がついに来た。俺は丸々半月生活を共にした晶子と家を出る。結果発表の場所は別だが、曜日と発表開始時刻は同じ。だから何時ものように
2人で駅に向かう。この半月の間も、晶子はあそこに連れて行けとかあれを食べたいとかあれを買ってとか、そんなことは一言も言わなかった。朝は俺より早く起きて
朝飯を作り、一緒にレパートリーの練習をしたり、晶子が新曲を選ぶのも兼ねてCDを色々聞いたり本格的な発声を伴わない歌の練習−タイミングの取り方とか−をする
一方で、俺が曲のデータ作りやギターの練習をして、一緒に買い物に行って、一緒に昼飯を食べて、一緒にバイトへ行って、風呂に入って一緒に寝た。
晶子の生理が終わったのを確認して−終わる時期にずれがあったりする−、晶子の求めもあったが、俺も晶子を求めた結果、夜には激しく愛し合った。終わる頃には
双方息が切れ切れ、布団を被って寝るのがやっとというところまで全力で。毎日ではなかったものの、それに匹敵する回数を重ねたと思う。
 大学方面の電車は時間帯が通勤ラッシュよりずれ込んでいるから、かなり空いている。電車に並んで腰掛けて、大学最寄の駅まで10分ほどの電車の旅。緊張がどんどん
高まってくる。手応えはあったが、必ずしも結果に反映されるもんじゃない。結果を確認するまでは安心出来ない。結果によっては追試の準備をしないといけない。
電車がホームに入り込む。ドアが開いて俺と晶子は電車を降り、改札を通って何時もの道を辿って大学へ向かう。正門から入って晶子を文学部の研究棟前まで送り届け、
それから自分の結果発表の場である、電子工学科と電気工学科共通の学内掲示板がある学生控え室へ向かう。近づくにつれて更に緊張感が高まってくる。

「おっ、祐司。久しぶり。」
「智一。久しぶりだな。」

 先に来ていた智一と軽くハイタッチ。掲示板の前はかなり混雑している。食い入るように見詰める人、安堵の溜息を吐く人、苦い顔をする人、暗い表情で溜息を吐く人。
それぞれの結果と今後の状況を反映する光景が展開されている。

「智一は見たのか?」
「否、さっき来たばかりだからまだだ。」
「緊張するな、流石に・・・。進級がかかってるから。」
「必須は結構追試があるから、俺は楽観的に捉えてる。」
「また試験準備をしなきゃならないからな。一発で決めておきたい。」

 この大学に入ってからの試験勉強は、高校時代のテストと宿題の嵐など子どもの悪戯レベルと思えるくらい熾烈なものだった。講義の段階からきっちり押さえて
おかないと、テスト前の一夜漬けではまず対応出来ない。講義に出ていれば赤点を取っても追試や補習を受けて終了、なんて甘くない。試験に合格して得た所定の
単位数を満たさなければ問答無用にはい留年、もう1年やり直しと相成るんだから、受験勉強と同等と言って良い。
進級するごとにその年毎に熾烈さが増して来たが、今回の3年後期の試験の熾烈具合は最高だったと言える。半月ゆっくり過ごした後再び臨戦態勢を整えるのは
気分的にもかなり厳しい。進級がかかってくればそれこそ生きた心地もしないだろう。
 ともあれ、結果を見ないことには話が始まらない。俺は普段の通学より小さい鞄から手帳とそれに引っ掛けたボールペンを取り出し、ページを広げてペンを持ってから
結果を見終わった人達と入れ替わりに前に進み出る。手帳には今回試験を受けた全講義の名称を書いてある。必須科目は横に◎をつけてある。思わず息を呑む。
さて、結果はどうか・・・。

・・・。

 思わず深い溜息。大学入試の合格発表を思わせるような緊張からようやく完全に解放されたに伴う安堵の溜息。手帳に記した全講義の名称の横に、合格を示す
チェックマーク。・・・念願どおり全講義合格。点数までは分からない−結果では合格者の学生番号しか記載されない−が、目標どおり全講義の単位を取れたのは
大きい。これで4年に必須教科を引きずる心配はなくなった。
 選択教科も全部取れたのは大きい。所定の単位を取れば筆記試験免除・数年の実務経験で取得出来る国家資格の取得条件をほぼ満たした。これで4年に受講
するのは卒研の他数個の選択教科のみ。国家資格と教員免許(註:工学部で所定の単位を取得すれば「工業」の高校教諭免許が取得出来る)にこだわらなければ、
卒研のみで良い。何にせよ、ぐっと楽になったことには違いない。

「どうだった?祐司。」
「どうにか全部取れた。」
「全部かよ。てことは『電子回路論U』や『パワーエレクトロニクス』もか?」
「ああ。3回確認したから間違いない。」
「はぁーっ、本当にお前は凄いよ、マジで。殆どびっちり埋めたのに全部ゲットなんて、情報をかき集めてもそう簡単に出来ることじゃねぇぞ。」
「智一は?」
「必須で『電子回路論U』を落とした。選択は何とか半分くらいってところだ。『パワーエレクトロニクス』も落としちまった。進級に必要な数は満たせたけど、4年の
前期後期両方に必須を持ち込むことになっちまった。我ながら痛いぜ、これは。」
「痛いな、それは。確か智一は前期で『電気回路論V』を落としてたよな。」
「ああ。『電気回路論V』と『電子回路論U』も両方担当教官が曲者だからなぁ。」

 苦い顔をする智一の気持ちは分かる。智一が挙げた2つの教科はどちらも必須だが、合格率がかなり低い。レポートは多いし、他の教科との兼ね合いで勉強を怠ると、
試験問題がまともに解けないという悲惨な事態になる。俺はどうにか両方取ったが、4年にそれらを持ち込むのは卒業がかかってくるから、かなりきつい。
 4年は卒研のため研究室に本配属となる。学部4年をつかえさせると居室が狭くなるし、卒研の指導を主に行う院生の研究の負担が増えるだけだから、単位をどうにか
取らせて卒業させたいというのが本音だとは聞いている。聞いた話では必須教科に限って、4年に持ち込んでも補習やレポートの複数回出題を行い、試験を受けることで
「可」だが(註:10か9は「優」、8か7は「良」、6は「可」でそれ以下は「不可」と称する)単位取得を認めるという。ありがたい救済策だが、卒研と就職活動、或いは院の試験
準備と並行させてそれらをこなすのは当然かなりの労力を必要とする。研究室によっては卒研の進捗を定期的にしっかり報告しないと散々な目に遭うから−この日までに
此処まで進めろと命令されるなど−、昼に落とした教科の受講や補習、夜に卒研とほぼ1日中大学に居ないといけなくなる場合も当然ある。楽をしようとしても
それなりの罰ゲームが待っているってことだ。
 次の人の邪魔にならないよう、試験結果が張り出されている掲示板から離れて、連絡事項が張り出されている掲示板へ向かう。こちらもチェックしておかないとな。
・・・ん?俺の学生番号が書かれてあって、来室を求める内容の張り紙がある。久野尾先生の名前だ。場所は久野尾先生の居室か。

「久野尾先生から呼び出しがある。」
「やっぱり念押しに来たな。」
「念押し?」
「試験結果が分かった今、研究室が進級予定の3年にすることっていえば、優秀な学生の囲い込みに決まってるだろ。他の研究室に逃げないで絶対ウチに来いってな。」

 念押しか・・・。試験の前にも久野尾先生には講義の後に居室に招かれて、研究室の勧誘を受けた。その際院生にも学生居室のPCにアカウントを作っておこうかと
言われたが、進級を確定させてからお願いします、と言って辞退した。進級しないことにはアカウントを作ってもらっても無意味だからな。
 試験結果、少なくとも合否くらいは全研究室に行き渡っている筈。となれば、俺が4年進級を確定させたのを知って「囲い込み」に乗り出すだろう。日程では4月1日に
講義日程の発表と、4年には研究室本配属の事前説明があって、そこでの希望と成績順で本配属の研究室が決まるから、心配しなくてもウチの研究室に入れるという
事前の根回しも兼ねて、目的の学生を呼び出すんだろう。

「見てみろよ。研究室がそれぞれ囲い込みに乗り出してる。」

 智一に言われて掲示板を見て回ると、俺とは違う学生番号が1つないしは複数あって、研究室を統括する教授か助教授の居室に来るよう求める掲示がある。そういった
掲示に登場する学生番号は、一部重複もあるが、電子工学科と電気工学科合わせて10人程度。これは成績上位10人と考えるのが妥当。研究室が優秀な学生を
囲い込みに走るってのは本当なんだな。

「お前の場合は完全に久野尾研と両想いなのが分かってるから、他の研究室は手を引いたんだろうけどな。他のも大抵そうだけど。」
「入りたい研究室から誘いがあるのは嬉しいな、やっぱり。」
「こうやって試験結果終了後に研究室が囲い込みの対象にするのは、電気工学科と合わせて成績上位10人程度だから、数も丁度だ。両方で留年含めて270か280人
いるから、その中の1割にも満たない数に入ってるお前は、やっぱり凄いぜ。俺にはとても真似出来ない。」
「運が良かったんだ。」
「運だけじゃ試験結果はどうにも出来ない。お前の日々のバカがつくほどの真面目っぷりが報われた当然の結果だと俺は思うぜ。俺が研究室のボスだったら、
絶対お前を囲い込むね。」
「そんなもんかな。」
「そりゃそうさ。」

 自分でするようにしておかないと後で困るのは結局自分、という意識の下で今までレポートの嵐と試験の絶壁を越えてきたんだが、それが功を奏したのなら何よりだ。
努力が報われたのは素直に嬉しい。久野尾先生の居室への訪問は今月中何時でも良い、とある。今日来たついでに寄っておくかな。

「半月の間にPCに結構メールとか来てるはずだから、そっちもついでに見ておこうぜ。」
「ああ、そうだな。こっちでのアカウントは消されるし。」

 3年まで共用で使える学生用PCのアカウントは、進級に伴う研究室本配属が確定した時点で消去される。以後は各研究室の学生居室にあるPCに設置された同じ
アカウントから、大学や学部・学科・研究室関係のメールを読み書きするというシステムになっている。だから、俺と智一が使っているアカウントがあるPCを使うのは、
今月いっぱいとなる。
 かなり混み合う学生控え室に隣接する学生用PCの部屋に入り、俺と智一はそれぞれのアカウントがあるPCに向かう。PCはパーティションで区切られているから、
覗き見される恐れはない。まあ、学内メールは業務連絡が殆どだから、アダルトもののWebページを見ていたりしない限り、覗き見されても特に支障はないが。
ユーザーIDとパスワードを入力して、メールソフトで受信する。結構溜まってるな。半月間があったから当然かもしれないが。・・・ん?「研究室へのお誘い」とかいう件名の
メールがかなりある。試しに新着メールで一番下にあるメールを開いてみる。
・・・うわ、これは完全に研究室への勧誘メールだ。差出人は「Ken-ichi HORITA」。堀田研を統括する堀田賢一先生直々の勧誘だ。「パワーエレクトロニクスは日々
高度化する電子社会に最も相応しい研究分野」「研究テーマは人工知能ロボットから人工関節・人口筋肉研究まで多彩で豊富」などの表題での研究室らしい宣伝に
続いて、「有名企業への就職実績多数」「バイトとの両立は十分可能」と俺の現況を踏まえての甘い勧誘文句が並んでいる。「バーベキューや旅行会など行事も豊富で
学生生活最後の思い出作りにも最適」「研究室訪問は3月末まで何時でも自由。研究室に関する質問などは大歓迎。遠慮なく」でとどめ。
 他の勧誘メールも研究室の研究テーマは色々だが、有名企業への豊富な就職実績とバイトとの両立は心配無用ということに加え、3月末まで研究室訪問や質問を
大歓迎するという旨は共通している。差出人はどれも、研究室を統括する教授や助教授本人。掲示板での久野尾研からの張り出しを見て掲示は取り止めたが、メールで
まだまだ諦めてないことと来るなら大歓迎というアピールをすることに切り替えたってところか。自分ではいまいち分からないんだが、それほど凄い成績なのかな・・・。

「祐司、どうしたんだ?」
「あ、智一。」
「随分時間かかってるな。」
「いや、研究室からの勧誘メールが結構来ててさ・・・。」
「メールで勧誘攻勢かよ。ちょっと良いか?」
「ああ。」

 俺は椅子を横にずらして、智一とPCの前で並ぶ。智一はマウスを操作してメールを読む。驚愕の色が次第に濃くなっていく。

「凄いな、こりゃ・・・。殆ど全部の研究室から来てるじゃねぇかよ。しかも研究室のボス直々に是非来てくださいって内容ばかり・・・。完全に売り手市場じゃねぇか。」
「みたいだな。」
「堀田研に澤村研、杉浦研、大森研、増井研、北岡研・・・。物性系からは全部来てるな。あの関係は実験に根気が必要だから、祐司みたいな学部4年は喉から手が
出るほど欲しいから当然だが。人気の研究室からも漏れなく来てるな。しかしまあ、どれも勧誘と歓迎一色じゃねぇか。こりゃ凄いわ。」
「らしいな。他人事みたいだけど、そう思っちまう。」
「ようやく進級して、希望の研究室に入れるか戦々恐々としてる奴等からすれば、まさに天国かハーレムだな。祐司が入りたいって言えば、院生は特に泣いて喜ぶぞ。」
「そんなもんかな。どうも自分じゃあまり実感がないんだよな。」
「だから凄いんだよ。過去問とか情報交換でやり過ごしてるのが普通なのに、今回も自力で全講義単位ゲットするほど勉強熱心な学生は、本人はそれをアピールしなくても
他人から見れば確実に分かるもんさ。俺でも分かるんだからよ。」

 どうも自分では、研究室で引っ張りだこになるほど人気があるのが実感出来ない。今までの努力が報われたのは分かるしそれは勿論嬉しいが、引っ張りだこになるほどの
ものなのかまでは分からないというのが正直なところだ。

「選り取り緑だけど、当のお前は久野尾研一筋なんだろ?」
「ああ。この大学を受験したのも、久野尾研の存在を知ってのことだからな。」
「人気研究室からも殺到してる熱烈な勧誘を退けられるなんて、お前の努力の結果とは言え、マジで羨ましい。で、久野尾研には今から行くのか?」
「ああ。」
「くはぁ。マジで羨ましい。俺、久野尾研に入れるかなぁー。」

 智一は溜息混じりにぼやく。久野尾研は人気研究室の1つだから当然希望者が多い。でも研究室が受け入れられる学部4年の数には限度がある。その場合は
成績順だから、成績が悪いと希望とは全然違う研究室に飛ばされることは覚悟しないといけない。それから考えれば、俺は実に恵まれてる。智一の表現を借りれば
「売り手市場」そのものだからな。
久野尾先生の居室に行く前に、晶子にメールを送っておこう。俺の試験結果を一番気にかけてくれたのは晶子だし、晶子の支えがあったからこその結果だ。全講義の
単位を取れて進級が確定したことと併せて、晶子に知らせておかないとな。

送信元:安藤祐司(Yuhji Andoh)
題名:試験結果はパーフェクトだった
今、学生用PCがある部屋に居る。試験結果はこれより前に確認した。結論から言えば、全部の試験で単位を取れていた。だからパーフェクト。合否しか分からないけど、これで4年は卒研に専念出来る。国家資格と教員免許関連の選択科目はあるけど、数は3年の時よりずっと少ない。
俺が本配属を希望している研究室の教授の名前での、呼び出しの掲示があった。4月に入ってからの本配属前に他の研究室に逃げないように囲い込むためらしい。今から教授の居室に行く。終わったら迎えに行く前に電話するから、悪いけどそれまで待っていて欲しい。

 携帯でメールを作成して送信。此処は工学部の建物の中で電波の入り具合が良い穴場だったりする。送信が完了したのを確認して携帯を閉じて仕舞う。晶子も
試験結果を確認している筈だけど、晶子なら大丈夫だろう。

「早速、美人新妻に連絡か。」
「俺の試験結果を一番心配してくれてたから、安心して欲しいんだよ。」
「粋な気配りだねぇ。」
「それくらいはしないとな。」

 試験期間中、俺の食事の他家事全般の面倒を見てくれたのは晶子だった。食事や洗濯に時間と神経を割かれずに−「私の分もありますから」と洗濯もするようになって
譲らなかった−試験勉強に集中出来たから今回の結果がある。今回の結果は晶子が居てこそのもの。誰よりも晶子に知ってほしい。それで安心してほしい。

「じゃあ、俺は久野尾先生の居室へ行く。智一は?」
「昼飯食って帰る。追試があるやつの準備をしなきゃならないからな。」
「あ、追試ね。」
「自業自得だから、卒業への試練として受け取っておく。じゃあな。」
「ああ。」

 智一が去った後、一旦学生控え室に戻って連絡用の掲示板を見る。掲示物の中には追試の日程が結構ある。日程の他に「此処から此処まで勉強しておけ」という指示が
あったりする。試験勉強の範囲は結果が出た定期試験と同じだが、それでも合格出来ない人が多いということ。4年に進級すれば研究室のキャパシティの都合もあるから
何とか単位を取らせて卒業させるだろうが、それまでは単位が不足しようが留年しようが容赦ない。
 かなりくぐもった「Fly me to the moon」のギターソロバージョンと共に、左胸に振動を感じる。メール着信を伝える携帯の着信音。俺はセーターの襟元に手を突っ込み、
シャツの胸ポケットから携帯を取り出して広げる。新着メールが1件。件名は「おめでとうございます」。差出人は晶子。新着メールを開く。

送信元:井上晶子(Masako Inoue)
題名:おめでとうございます
メールありがとうございます。全講義の単位取得、改めておめでとうございます。流石は祐司さんですね。祐司さんの日頃の努力と真面目さが結実してのことだと思います。4年は卒業研究に専念出来ますね。傍に居させてもらえた私は、自分のことのように嬉しさを感じます。
研究室訪問の件は承知しました。先生直々に研究室に入るよう頼まれるなんて、凄いですね。これも祐司さんの日頃の努力と真面目さの賜物だと思います。私は何時もどおり戸野倉ゼミの学生居室で待っていますので、時間は気にしないでくださいね。
P.S.私も試験を受けた講義の全単位を取得出来ました。祐司さんのおかげです。

 俺の方が色々面倒かけてるのに・・・。この心遣いに支えられて今回の結果がある。メールで速報を伝えたが、晶子に直接伝えたい。携帯のキー入力が幾ら速くなっても、
面と向かって言うことの心構えとか気持ちとかいうものの大切さは変わらない。晶子もそう思ってるから、メールより「本物という実感」がより強く感じられる電話でやり取り出来る
距離に家があるのに、試験期間終了後から俺の家に住み込むまでになったんだろう。
学生控え室を後にして、電子工学科・電気工学科の研究棟にある久野尾先生の居室に向かう。試験期間中とその後の春休みには研究室のゼミはなかった。だから
研究棟に入るのは約一月ぶり。久野尾研は4階にあって最初は階段を上るのが面倒に思ったこともあるが、本配属を希望するんだから毎日でも上り下りすることを
肝に銘じておかないとな。
 4階に到着。研究棟には研究室所属の教官の居室、学生居室、一部の実験室、その他研究室管理の部屋がある。研究室によっては大規模な実験設備を擁するところが
あるし、研究室は各々が多くの研究テーマを抱えているから、実験室は複数ある。久野尾研でも統括する久野尾先生の居室、助手の野志先生の居室、院生の居室が2つ
−修士と博士で分かれる−、「学部4年」とも称する4年生の学生が使う学生居室、実験室が3つ、そしてゼミなどで使う会議室と多数の部屋がある。
 部屋の配置は居室関連が南側、それ以外が北側で廊下を挟んで向き合う形だ。これだけで研究棟4階の西半分を占める。音響関連の研究で使う実験室が3つ、研究棟と
別にある渡り廊下で繋がる実験棟の2階にある。久野尾先生の居室は久野尾研エリアの東側先端にある。
居室のドアの行先表示−研究や会議、出張で動き回るのが普通−が「在室」となっているのを確認してから、ドアをノックする。応答が返ってきたのを受けてドアを開け、
「失礼します」と挨拶。デスクでPCに向かっていた久野尾先生が俺の顔を見て、「来たか」と言わんばかりの会心の笑顔を見せる。

「おや、安藤君。よく来てくれましたね。」
「今日試験結果の発表を見た後、掲示板の呼び出しを見ましたので。」
「早速ということですね。さあ、中に入って座って。」

 デスクを離れた久野尾先生は、満面の笑顔のまま俺をソファに座るよう促す。あまりの歓迎ぶりに恐縮するが、ドアを閉めて久野尾先生の向かいに座る。

「私が呼び出した理由は多分分かっていると思いますけど、君には4月からうちの研究室に入って欲しいんですよ。」
「そのつもりで今日お邪魔しましたし、この研究室に本配属を希望する気持ちは変わっていません。」
「いやぁー。良かった。良い学生が入ってきてくれるのは大歓迎ですよ。」
「ありがとうございます。」

 やっぱり研究室本配属前の囲い込みだった。俺とて今は仮配属の久野尾研に本配属となって4年の卒研をしたいから、願ったり叶ったりだ。

「君の成績は、増井先生から聞いてますよ。本配属で研究室の定数が溢れた場合は成績順になるから、その際の決定材料として、その学年担当の先生に試験結果が
集約されて、各研究室所属の教官に配信されるんです。」
「へえ・・・。」
「今回も取得した講義の成績は最低でも8、他は9か10。これだけでも十分立派ですが、3年後期分の講義の単位を全部取得したというのもこれまた凄い。これは今年度の
3年では3人しか居ない快挙なんですよ。」
「3人、ですか。」
「もう卒研以外の卒業条件は全部満たしているけど、4年に若干数ある講義も受講するんですか?」
「はい。欲深いかもしれませんが、所定の単位取得で条件を満たせる国家資格と教員免許を取得したいので。」
「そういう欲深さは大いに結構ですよ。是非受講すると良い。君なら出来ますよ。」
「ありがとうございます。」

 講義を選べない必須科目を引き摺らなかっただけでも大きいが、卒業だけ考えれば卒研だけで良い。それだけでも気分的に随分違う。卒研を中座して講義や追試に
出向いたり、単位を取得出来るかどうかビクビクしなくて良いんだから。

「あ、そうそう。君が来たら知らせるよう、院生と今度院に進学する学部4年に頼まれてるんですよ。来てもらえますかね?」
「はい。お願いします。」

 俺が本配属を希望しに来たのを知らせるためと考えるのが自然だ。仮配属と本配属では顔ぶれが異なることは何ら珍しくないから本配属後に自己紹介の場が
あるだろうが、卒研は基本的に院生の指導を受けて行うから、事前の顔見世は大事だ。
久野尾先生の案内を受けて向かった先は会議室。院生と院進学予定の今の学部4年が全員集合してるのか?久野尾先生がドアを開けると、野志先生と、すっかり顔を
覚えた会議室のテーブルに居た院生と今の学部4年がどよめきを上げ、拍手が起こる。な、何事?!

「おー!早速今日来たー!」
「先生。安藤君の意向はいかに?」
「うちの研究室への本配属希望を明言してくれましたよ。」

 久野尾先生の回答を注視していた人々が、再び一斉に再び歓声と拍手を起こす。凄い歓迎ぶりだな・・・。嬉しい気持ちより恐縮の気持ちの方が大きい。良いのかな、
こんなに歓迎されて・・・。

「よーし!安藤君確保ー!」
「来年度の久野尾研ゼミのフラグシップ正式加入に向けて、大きく前進だねー!」

 フラグシップとは、久野尾研における学部4年が主導する週1回のゼミの中心となる人物を指す通称。例年新たに本配属される学部4年の中から、特に修士1年が
中心になって選考するのが慣例になっている。修士1年は前年度にゼミを主導してどういう学生がフラグシップに相応しいか身に染みてよく分かっているから、と
いうのが理由だそうだ。

「安心安心。今年も成績優秀者への勧誘が激しいからな。」
「見た見た。何処の研究室も進級を確定させた3年の囲い込みに走ってる。」
「自力で動く学部4年は、どの研究室でも貴重だからな。」
「院に進学して痛いほど分かるだろう?」
「野志先生の仰るとおりでーす。すみませーん。」

 会議室に笑いが起こる。ゼミにおいて院生はオブザーバーという立場だが、学部4年が詰まったりすると院生が補足などをする必要がある。自分が学部4年の時には
「分からなくても仕方ない」で済んだだろうが、代わりに説明したりする院生の立場になると「それでは困る」と分かるんだろう。「立場の違いによる認識の違い」は、
割と身近に起こりうるものだ。
 ゼミの主導は学部4年だが、仮配属中の3年にしょっちゅう質問が投げかけられる。文献の一部和訳−使用するのは英語の文献−など初歩的なものに始まり、登場する
公式はどういう流れで導き出せるかという難易度の高いものまで色々だが、当然事前に予習していないと満足に答えられない。とは言え他に講義や実験のレポートも
あるから手が回らないこともある。そんな慢性的な危機の中で事前に次回「対策」があると発覚すると、そこに一気に群がる。
俺は群がられる方だ。俺の場合は特に後期に欲張って国家資格関連の講義も全部受講したから、レポートの多さは半端じゃなかった。そんな中でもやりくりして
ゼミ「対策」をしてきたが、それを当てにされて、半ば自動的に召し上げられた。
 もっとも、研究室正式メンバー側が何もしないわけではない。指名がランダムなのは当然。文献を和訳しただけでは理解出来ない部分を尋ねてきたり−当然難易度は
高い−と色々だ。今日は学部4年が進めて終わりか、と思った矢先にいきなり質問攻めにすることも多々ある。
ゼミは、CDやシンセサイザーの音源などディジタル音声の基本を解説する文献を輪読するものだから、関連項目を含めて内容をきちんと理解出来ていればそれほど
難しいものではない。だが、意外に分からないもんだったりする。

「この際だから、もうアカウント作っておいてやれば?」
「あ、そうですね。」

 早くもアカウント作成の話が持ち上がる。4年に進級すると卒研のために研究室に本配属となるが、学生共用のPCにあるアカウントは自動消滅する。それを引き継ぐのが
本配属された各研究室で作成されるアカウントだ。本配属の研究室が決まるまで1週間ほど空白期間があるが、メールが届いたとしても大学か学部・学科全体に配信される
メールだけだから、困ることはない。

「あの・・・。」
「PCは一番良いのにするから、大丈夫。」
「いえ、そうじゃなくて、アカウントは本配属が決まった際に作成されるんですよね?」
「そうだよ。」
「本配属決定前に自分だけアカウントが作成されるのは、他の本配属学生に抜け駆けするようなもので、公正さの面から問題があるんじゃないかと。」

 自分の本配属希望が歓迎されるのは無論嬉しい。だが、「特権」に甘んじるのは良くない。本配属が正式に決まってからでもアカウント作成は遅くない。

「本配属が決まってからで十分、と。」
「はい。」
「んー、良いねぇ。そういう実直なところも。」

 野志先生が感心したようにしみじみ言う。他の研究室メンバーも同様に何度も首を縦に振っている。

「自分が勝ち取った特権に乗じず、公式なスケジュールに則って事象を進める。これも望ましい姿勢だね。来年度のフラグシップに相応しい。」
「こういう時にはここぞ、とばかりに乗るのが普通なんですけどね。」
「そうしない性格だから、ゼミであれだけしっかり勉強してたんだ。良いことだよ。」

 どうやら、スタートラインは公正に、という俺の訴えは感心を得るものだったようだ。自分では大それたことを言った自覚はないんだが、美味しい話が出されたら
乗りたくなるのが普通だろう。それからすれば、俺は普通じゃないと思うが、これで良いとも思う。

「今日は事前の顔見世だけってことになるね。」
「歓迎してもらえただけでも十分です。」

 第1希望の研究室、しかも配属希望者が例年多い研究室への事実上の本配属を確定出来た。それに、院生の人達や先生から総出で歓迎された。これ以上望むのは
悪い意味での欲が深いだけだ。会議室の大きな温かい拍手に改めて一礼。希望の研究室に配属されるための前提条件を満たしたんだと実感する。合否結果だけでは
完全に掴みきれなかった−○か無記入だけだ−からな。
 俺が今居る3年の学年名簿に記載されている人数は確かに多い。今日は自分の試験の合否を確認しに来たし、それが絶対条件として頭にあったから思いつきも
しなかったが、ずらっと並んでいるのは確かだ。智一の情報では電気工学科と合わせて270か280。その中で「囲い込」まれるのは10人程度。希少だとは思う。だが、
第1希望の研究室への本配属を事実上確定させたこと以外の感慨はない。
自分だけで得た結果じゃないことは、少なくとも今回は誰よりもよく分かっているつもりだ。自身の試験を抱えながら、ほぼ住み込みで身の回りのことをしてくれた晶子に、
「ありがとう」と言いたい。面と向かって自分の言葉で直接・・・。

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