雨上がりの午後

Chapter 198 帰還、そして2人での買い物へ

written by Moonstone


 全員揃っての朝飯が済み、全員が歯を磨いて−俺は帰省時に使うもので晶子は持参していた物を使った−俺と晶子は家を出る準備をする。
俺も、荷物は昨日のうちに殆ど纏めてあったから程なく完了。父さんと母さんが、開店前の最後の準備をしてから修之と見送りに出る。

「それじゃ、また今度。」
「4年への進級が決まってからで良いから、何時でも帰ってらっしゃいね。」
「分かった。」
「まあ、元気でやれ。」
「そうする。」

 父さんと母さんとは、去年実家を出た時とあまり変わらない言葉を交わす。今度来る時は、俺の4年進級が決まってから。内容はその時の状況を
見て決める。その時は今日のように晶子と一緒じゃないかもしれないが、自分の責任は果たさないといけない。それが、晶子の幸せを担う俺の責任だ。

「井上さん。祐司をよろしくお願いしますね。」
「良い娘さんで安心しました。是非また来てください。」
「この度は突然のご訪問にもかかわらず温かく迎えていただき、ありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします。」

 晶子は父さんと母さんに深々と一礼する。最後で失態は許されまいと思っているのか、やや緊張した面持ちの晶子に対し、父さんと母さんは
俺の時とは対称的と言って良いくらい明るい表情だ。

「修之。元気でな。」
「ああ。ありがとう、兄貴。井上さんも。」
「健康を大切にして万全の体制で臨めば、きっと良い結果を出せますよ。」
「はい。頑張ります。」

 修之の顔も明るい。今朝、孤軍奮闘のまま合格を当然視されている受験を控えての不安や悩みを話せたせいもあるだろう。修之とて、決して
学校の成績で言うところの「頭」が悪いわけじゃない。俺が極端なほど目立ち過ぎただけで、修之も十分な実力を持っている。気持ちの問題がクリア出来たなら、
きっと大丈夫だ。

「じゃあ、行こうか。」
「はい。」

 見送りと何時までも向き合っていてもきりがない。自分自身への叱咤と決断の促しも兼ねて、俺は見送りを打ち切る。晶子はもう一度、父さんと
母さんに向かって深々と一礼してから、俺と並んで歩き始める。
 今日は割と暖かい。小春日和と言うやつか。まだ学生は−俺もそうだが−冬休みだしまだ朝も早い方だから、元々閑静なこの一帯は、外の明るさの
移り変わりで家々に人が居るかどうかがようやく分かるという感がある。今は誰も居ないかのようだ。
 往路は晶子に俺が生まれ育った風景を見せるのを兼ねて、小宮栄から青梅線で柳駅まで電車で、そこから路線バスと辿ってきたが、復路は
小宮栄へ直通の高速バスを使う。去年の帰省で初めて使ったが、年末年始という時期柄もあったんだろうけど、意外に人が多かった。それまでバスや
電車を乗り継いで行っていた新幹線の駅もある小宮栄まで、乗り換えなしで一気に行けるようになったせいだろう。
 高速バスのバス停には、まだ誰も居ない。当然ながら広い通りにあるから時々車が通るが、喧騒と言うには到底及ばない。バスの発車予定時刻まで、
10分程度ある。通勤ラッシュの到来はまだだろうから、混み合ったり渋滞に巻き込まれたりといったこともないだろう。

「結局・・・、1日泊まることになっちまったな。」

 バス停に到着して完全に実家の目から離れたことで安心したのか、1泊2日とはいえ帰省した側の言う理想の言葉とは程遠いものが、小さな溜息に続いて
口を突いて出る。間近に迫った修之の受験、十分なフォローもないまま孤独な戦いを続けて合格を当然視されてもいる修之の心境、そして期待を
向け続ける父さんと母さん。晶子が手放しで歓迎されたのは勿論嬉しいが、帰省してのんびり、という雰囲気じゃなかったのは事実だ。
 そうなったのは、顔見世だけして早々に引き上げられずに家族揃っての夕食と宿泊に引っ張り込まれた俺の勢いのなさが原因だ。俺の次の関門と
言える進路、事実上就職のみだが、それが迫ってきたことで余計に父さんと母さんの期待の押し付けが強まっていたように思う。

「窮屈だっただろ?緊張してる様子だったし。」
「緊張はしていました。お父様とお母様には初めてお会いするんですから、失礼なことをしたりして祐司さんに恥をかかせるわけにはいかない、と思って・・・。」

 窮屈とは言わないものの、緊張の連続だったと打ち明ける晶子。玄関先での母さんの出迎え、そしてリビングでの父さんとの挨拶では、その横顔は
明らかに緊張している時のものだった。緊張した晶子の顔を見るのは、晶子が店でステージデビューをする直前くらいしか思いつかない。

「気を遣わせてたんだな、やっぱり。隣で見てて緊張してるってことが俺でも分かったくらいだから。」
「祐司さんのご両親が祐司さんとのお付き合いに関して干渉されるのではないか、と警戒していたわけではないんですけど、少なくとも祐司さんに
恥をかかせたり、印象を悪くするようなことはしないようにと思ってました。私の言動で祐司さんが咎められたりするようなことになったら、
本末転倒ですから・・・。」
「俺は、普段の晶子なら問題ないって楽観視してた部分があったんだけど・・・、所詮は当事者じゃないから、その場その時の緊張感とかは推測の域を
出ないんだな。今回の顔見世で、改めて分かった。」
「緊張したのは私自身の問題ですから、祐司さんには何の責任もありませんよ。」

 とは言うものの、俺が晶子を実家に連れて行かなかったら、晶子を終始緊張感に晒すことはなかったことには違いない。何れは紹介するために
連れて行くことになるからその予行演習、と割り切る考え方もあるが、そう出来るほど俺はあっさりした性格じゃない。

「今回のご両親への紹介で、祐司さんが私との結婚を宣言してくれたことが、私には何より嬉しかったんです。」

 尾を引いた緊張のせいで神妙な面持ちだった晶子が、口調と共に明るさを取り戻す。隣で見ていて俺の不安の雲も晴れていく。

「今の祐司さんと私の関係は、私の既成事実の積み重ねを祐司さんが追認してくれたことが大きな比重を占めるってことは分かってます。身勝手だと
思われても仕方ありませんが、私は今度掴んだ、今掴んでいる幸せを絶対手放したくないんです。それが実家との完全な断絶に至るとしても。」
「・・・。」
「祐司さんは私の気持ちに応えてくれている。しかも、お友達が一様に厳格だと仰っていたご両親に宣言してくれた・・・。祐司さんが何もしていなくても
自動的に不安を呼び起こしてしまう勝手な心の動きを鎮めてくれて、安心していて良いんだ、と思えるに十分なものだったんです。」
「普段、表立って言わない方だからな、俺。少なからず、否、相当照れが影響してるからだけど、不安に思うだろうな。俺自身、自分で言うのも何だけど
独占欲が強くてやきもち焼きだから、何かのきっかけで必要ないのに不安に思ったりするもんだから。」

 年ではもう一昨年になるが、昨日のこと以上に鮮明に憶えているあの一件。晶子と田畑助教授との関係を智一から聞いたことで疑惑が浮上し、
その光景を見るたびに疑惑は膨らむ一方だった。そして偶々出くわした場面と一連の流れの一部に過ぎない会話を聞いて、よく確認もしないまま
怒りを爆発させた俺は、その場で絶縁を告げてマフラーと指輪を捨てて走り去った。
 不安に思うのは、形や程度や表れ方の違いといったものはあれど、晶子も同じだと改めて分かる。晶子がそれまでの環境を一切合財捨てて今のマンションに
移り住むことでリセットして、俺との付き合いに全身全霊を傾けていることは分かっている。晶子が言ったとおり、今の幸せのためなら実家との
完全な断絶も当然のこととさえ思うまでに、晶子は自分を崖っぷちに追い詰めている。
 その気持ちを重荷に感じたことはない。それは似た者同士だからかもしれない。些細なことでも、相手が何もしていなくても不安を自己生成する
不安定な心だから、相手の気持ちが揺らいではいないと確認出来ることで、安心感を得ているんだろう。

「昨日までの旅行で、俺の高校時代のバンド仲間が言ってたことと重複するけど、浮気されるとか二股かけられるとかそういったことでもない限り、
俺の方から離れることはない。やたらとしぶといからな。」
「そのままで居てください。それで祐司さんを繋ぎ止めて居られるのなら、私は自分の言動に注意して、祐司さんに疑われないようにします。」

 晶子は俺との距離を更に詰めて、俺の肩に頭を乗せる。緊張の連続の中で得られた安心感。晶子はそれで喜び、満足してくれている。思うように
行動出来ない行動力のなさで、とんだことに巻き込んでしまったが、副産物として父さんと母さんに晶子を紹介出来て、将来の結婚への意志も宣言出来た。
俺にはそれくらいの拘束力があった方が良い。
 低いエンジン音が近づいてくる。青と白のカラーリングがなされた、路線バスより大型の、観光バス程度の大きさのバスがやって来る。
近づいてきたと思ったら減速して停車し、入り口のドアが開く。整理券を取って乗車。車内は偶然にも誰も居ない。入り口付近の2人席の窓側に腰を下ろす。
晶子がその隣に座る。
 ドアが閉まり、発車します、という運転手の低い声でのアナウンスが流れて、バスが再び動き始める。実家付近の風景が次第に後ろへ流れていく。
あとはこのまま約1時間のバスの旅。今度来るのは何時になるか分からないが、次も晶子を連れてこられるなら連れて来たい。その時は・・・
改めて紹介ってことになるのかな?やっぱり。

 ホームから改札を通って、思わず小さな溜息が漏れる。バスで小宮栄まで来て、そのまま胡桃町駅まで電車。そして下車して帰ってきた。
俺と晶子が暮らす新京市の一角、胡桃町の住宅街に。1週間そこそこ離れていただけだったのに、実家より安堵感を覚える。

「まずは、祐司さんの家ですね。」
「ああ、行こう。」

 まず、俺の家に立ち寄る。俺と晶子は荷物を置いて洗濯物を分けておく。
 続いて晶子の家に向かう。郵便物とかがないかを確認した後、食材の買出しに出かける。
 晶子の家に立ち寄って着替えとかを持って俺の家に戻り、期間限定の同居生活再開。
・・・これからの主な行動スケジュールはこんなところだ。洗濯は自分の家でするかと思っていたが、晶子は俺の家でさせてもらうと言った。
買出しから家に立ち寄った際に干す道具を着替えと共に持ち出すから、心配ないと言った。外に干すのは物騒だから室内に干してもらうことにしている。
室内用の即席物干し竿があるから、それも利用すれば十分だろう。
 胡桃町駅やその周辺も通勤・帰宅ラッシュ時の混雑は凄まじいが−小宮栄方面は兎に角半端じゃない−、今は至って平穏だ。ほぼ南中にある日差しが
仄かに暖かく感じられる青空の下、間もなく訪れる活動再開の時までつかの間の眠りについている平穏な町の風景が此処にもある。
 緩い上り坂を上り、やがて現れた路地に入って少し歩いたところに佇む、やや年季の入った3階建ての建物。俺の住むデイライト胡桃ヶ丘。
その1階101号室が俺の自宅。自分の帰る場所は実家じゃなくて、この住宅街の一角にあるちっぽけな空間だと思うようになって久しい。
俺は鞄の脇のファスナー付きのポケットから家の鍵を取り出し、鍵を外してドアを開ける。
 薄暗くて冷え切った室内。俺は先に上がって電気をつけて、暖房のスイッチを入れる。空間は狭いとは言え、この冷気だと全体が暖まるまでに
それなりの時間がかかる。この間に洗濯物を分けておいて、暖房を付けっぱなしにして出かければ、帰ってきた頃にはそれなりに暖かくなってる筈だ。

「お邪魔します。」
「どうぞ。」

 何度も出入りしている場所なのに、上がる前に一言断るのが晶子らしい。俺も晶子の家に上がる時は言っているから、同じようなものか。
晶子の助言で、スーパーのレジ袋を2つ持っていって、着終えた下着類を袋の1枚に入れるようにした。かさばらないから直ぐ取り出せる。
下着類を洗濯機の洗濯層に入れておく。全自動だから基本的に放り込むだけで良い。服は後で洗っても着るものに困らない。

「これ、郵便受けに入ってたチラシ類です。」

 洗濯物を洗濯機に入れてきた晶子が、隅に置いておいた紙類を持ってくる。晶子から受け取って眺めてみる。・・・マンション関係のチラシが多いな。
他にはピザと寿司のチラシ、テレクラとアダルトビデオのチラシ。どれも時々入るものだ。
 ピザと寿司は、晶子と付き合う前と後で幸いにして食事に困ったことがないから、取ったことはない。ピザは好物の部類に入るが、あえて注文する
機会があると言える土日の昼間も、普段の朝飯と変わりない内容で済ませられるから、食べようとは思わない。寿司もそれなりに好きだが、
俺の手が出る金額じゃない。
 テレクラとアダルトビデオ・・・。狙ってるわけじゃないだろうが、この手のチラシは時々入っている。どちらもどんなものかまったく興味がないと
言えば嘘になるが、俺には大切な女性(ひと)が居る。あらゆる面で満足してるから、必要ない。

「代わり映えしないものばかりだな、相変わらず。」
「そういうものですよ。」

 チラシ類をくちゃくちゃと適当に丸めてゴミ箱に捨てる。晶子の家があるマンションは頑強なセキュリティがあって、郵便配達や宅配業者でも
登録してないと入れない。だから普通のチラシは入ることがありえない。その意味では、晶子にとっては珍しいものかもしれない。
 洗濯物を取り出したから、次の場所、晶子の家に向かう。玄関の鍵を閉めて再び通りに出る。時々すれ違い、追い越していく車が、この町に
人が居ることを証明している。目立つ音声の発信源がその程度だから、本当に静かなもんだ。

「マンションの広告が多かったですね。」
「ああ。最近目立つよな。彼方此方に建ってるらしいから、借間住まいの人間を吸い出そうって魂胆なんだろうな。」

 胡桃町、正確には俺と晶子が住んでいる胡桃ヶ丘は最初から区画整理されて建設された住宅地だそうだ。マスターと潤子さんから聞いた話だが。
そんなこともあって、胡桃ヶ丘にはマンションが新規に建つことはない。既に家々や商店とかで埋まっているからだ。何でも、最初から一戸建て区画と
借家・借間区画、そしてマンション区画や商店区画を決めて造成が進められたらしい。
 胡桃ヶ丘は新興住宅地でありがちなパターンだが、元々山だったところを宅地にした地域だ。坂道がむやみに多いのもそのせいだろう。
その胡桃ヶ丘には幾つもの町が隣接している。それらは新京市が市町村合併で誕生する前から存在した町や村の名前−元は別の市にある名前だったそうだ−や、
合併された町村の名前を引き継いでいる。
 そういったところに、最近マンションが次々建設されているらしい。この前にも、晶子が買い物に行くスーパーへ通じる大きな道に隣接する形で、
マンションが建設された。かなりの高層マンションだということは見た感じで分かるが、それ以外のことはチラシで垣間見る程度だ。当然と言えばそうだが。
 マンション建設ラッシュに併せて、マンションのチラシが頻繁に入るようになった。入れられてもゴミになるだけだ。マンションを買えるだけの
金があったら、修之の学費を考慮したり、大学院進学を最初から度外視したりする必要はない。

「晶子は今のマンションに住んでて、便利に思うことや不便に思うことはないか?」

 ふと思った疑問を口にする。
俺はごく一般的なアパートだから、立派なセキュリティなんてありはしない。家に居る時も出る時も戸締りをしっかりすることと、家に居る時はドアチェーンを
かけておくくらいしか、防犯対策のしようがない。もっとも、俺の家に泥棒に入っても、高値で売れそうなメジャーなもの−絵画とかそういうもの−はない。
最近買ったPCが割と金になりそうだが、シンセサイザーの類は使えなければ場所を取るだけのガラクタだ。

「変な訪問販売とかの応対をしなくて良いのは助かってますね。祐司さんの家には時々来るんですよね?」
「ああ。土日寝てる時にインターホンを鳴らされると、それだけでかなり不愉快になる。訪問販売とかだと一気に不機嫌が頂点に達する。」

 望まぬ客ほど頼んでもいないのに来てくれる。この前火曜日締め切りのレポートが複数あって、それらを実験のレポートと共に一気に片付けて
ぐっすり寝ていたところに、インターホンを鳴らされた。目覚まし時計を見たら午前9時。俺が寝たのは午前4時。迷惑にも程がある。
 インターホンを1回鳴らすだけならまだましだ。可能性は低いが実家からの宅配物とかかもしれない。しかし、ノックまでされた。しかも、しつこく。
熟睡しているところをそうされたもんだから、霧がかかった頭の中で怒りの炎が一挙に高く立ち上った。
 ドアチェーンがかかっているのを確認してドアを開けたら、顔を出したのは中年の男性。「○△新聞だけど、新聞はどうしてます?」と馴れ馴れしく聞いてきた。
「読んでない」と言うと、ありがちだが、一月無料にするとか洗剤とかをプレゼントするから、と餌をちらつかせてきた。尚も「要らない」と言うと、それまで馴れ馴れしかった
口調が一変し、「新聞も読まないなんて生意気な」と捨て台詞を残してさっさと去っていった。
 あまりの掌の返しぶりに怒り心頭。翌日の午後にも別の新聞屋が勧誘に来たが、新聞屋と判った次の瞬間「用はない、帰れ!」と一喝した。
そうしたら驚いて怯えた様子で「すみませんでした」と言って逃げていった。こっちもインターホンだけでは飽き足らず、ノックをしやがった。
大して広くもないことが外観を見ただけでも−窓や玄関のドアの間隔を見れば分かる−さして広くないのに、よく響くインターホンだけでは飽き足らず、ノックまでして
呼び出す無神経ぶりには辟易している。
 宗教の勧誘や「地震で被災した○○のために募金を」とか持ちかけてくるのも、これまた時間を選ばない。全部「要らない」「こっちの方が募金してほしいくらいだ」
と言って追い返している。それでも新聞屋も含めて忘れた頃にまたやってくる。いい加減にしてほしいとつくづく思う。

「祐司さん、普段夜遅くまでレポートとかお店用のデータ作りとかギターの練習とかで忙しくて、土日の昼間くらいゆっくり寝たいところを邪魔されるんですから、
災難ですよね。」
「本当にそう思う。」
「私の家は郵便受けが入り口近くに集合してるんですけど、そこに入るには予め登録した人か、マンションの住人が確かめて管理人さんに開けてもらうよう
依頼した人でないと、入ることすら出来ませんからね。祐司さんの話を聞くと、私は恵まれてるな、と思います。」
「今は何かと物騒だからな。男の俺はまだ良いけど、晶子はそうもいかないから、今のマンションの方が安全だろうな。」
「私の家があるマンションでも、下着は外に干さないように言われてますからね。屋上から伝ってくる場合も考えられる、ってことで。非常階段に通じる扉も
普段内側からロックがかかっていて、非常時以外は開けないように言われてますから、入りようがないんですけど、それでもそういう注意がなされてるくらいですから。」
「そこまでして盗みたいものなのか、俺には理解し難いんだけどな。」

 女性に興味がないわけじゃないし、女性の身体や女性とのセックスに興味がないわけでもない。晶子と付き合うようになってから徐々に性欲を感じるようになったし、
それに至るまでにも、今のように定期的にセックスや「儀式」をするようになるまでにも、晶子を抱いた時の様子を思い浮かべて処理していた。
だけど、盗んでまでも下着を欲しいとは思わない。年末から晶子との期間限定の同居をするようになって、晶子の洗濯物も一緒に室内に並ぶようになったが
−俺の家は1階だから狙われやすいと思ってのことだ−、特に何とも思わないでいる。
 それまでにも晶子の家に入った時に、下着を含めた晶子の洗濯物が室内に干されているのを何度も見ている。だけど、それに手を伸ばしたこともなければ
しげしげと見入ったこともない。そんな俺だから、アクション映画みたいなことをしてまで下着を盗もうとする執着心が理解出来ない。女性そのものより下着の方が
想像力をかき立てるんだろうか?こういった心理については宏一が詳しいかもしれない。

「今のマンションで手狭に感じたことはないか?」
「私はないです。持ってるものが少ないこともあるんだと思いますけど。私の部屋、殺風景でしょ?」
「片付いてて良いと思うけどな。俺の家はものが多いから。」

 俺と晶子はどちらも実用主義というのか、インテリアを置いたりとかカレンダーをかけたりポスターを貼ったりとか、装飾の類がまったくと言って良いほど存在しない。
箪笥とベッドとデスクとテーブル。こういったものを除くと、俺の家だと演奏データを作るためのシンセサイザー一式とMIDIシーケンサとして使用しているPC、
そしてアコースティックとエレキの2種類のギターが一際存在感を放つと同時に場所を食っている。
晶子の家では、ミニコンポとCDを収納するラックと本棚が整然と組み込まれている。装飾らしいものといえば、カーテンくらいのものだ。その点では、
修之の部屋の方が生活感があると言える。
 置いたり飾ったりする必要を感じないのもあるかもしれない。俺の場合、店で使うMIDIのデータを作るためにシンセサイザー一式とシーケンサとなるPC、
原曲を聞き取って書き起こす楽譜を置くデスクがあれば事足りる。最近は卒研に備えてノートPCを購入したが、当然のことながらデスクに十分置ける大きさ。
それら以外に金をかけてまで置いたり飾ったりする必要性を感じない。

「晶子の家は、本とCDが多いよな。本の量は圧倒的に俺より多い。」
「祐司さんと出会ってお店で歌を披露するために練習するようになる前に買ったものが多いですよ。それまでは、無音で本を読んでいることが殆どでしたし、
CDは自分で歌える曲を探そうと買うようになったんですから。」
「それでも、俺の家よりきっちり整理されてるのは、性格の違いかな。ずぼらな俺と几帳面な晶子との。」
「目に付くほどの大きさのものが少ないだけですよ。」

 俺と晶子は顔を見合わせて微笑む。必要なもの以外は持たない、質素と言うより殺風景で生活の潤いに乏しい生活環境。それでもそれぞれ生活出来て
相手の家でも違和感なく寛げるから、俺と晶子の関係は今日まで続いているんだろう。
 見た目では不釣合いでも価値観や方向性が同じなら、関係は周囲からは意外に思えるほど続く。逆に、美男美女のカップルでも価値観とかが異なれば
呆気なく別れる。言葉を交わして相手の思うことを知るようになって、ようやく長く深く付き合えるかどうかが決まるし、分かるんだろう。

 晶子の家に立ち寄って郵便物を確認した後、揃って食材の買出しに出る。郵便物は電話料金の請求書と年賀状が数枚。前者は俺にも共通するものだ。
携帯の分だけ以前より高くなったが、それでもたいした金額じゃない。晶子とやり取りするメールの回数は月曜以外は1日1回。講義を終えた俺が
「迎えに行く」とメールを送り、晶子が今居る場所を返すという一連のもの。月曜は俺の現状報告と実験終了を伝えるメールと、晶子からの労いと現在地を伝える
メールのやり取りで数が増えるが、何十回とするものじゃない。
 俺と晶子が加入している携帯電話のプランで使える無料通話分で収まっている計算だが、それ以上使おうとは思わない。別にケチってるわけじゃなくて、
今まで公衆電話を探すか相手が自分を探して姿を現すかのどちらかしかなかった連絡手段が携帯に置き換わっただけのことだ。此処でも必要性を第一にする
俺と晶子の共通の価値観が表れているように思う。
 後者は大学の同じゼミの人からだった。晶子が見せて説明してくれた。疚しいところはないと証明するためだろう。年賀状の差出人が誰か気にならないと
言えば嘘になる。年賀状のやり取りくらいと思うだろうが、疑いってものはそういうちょっとしたものから直ぐ発生して、放っておくと勢い良く膨らむもんだ。
俺の場合は特に。
 文面には「旦那との結婚式は何時か」というものをはじめ、俺との結婚式の日取りや同居を始める時期を尋ねる、若しくは煽るものばかりだった。
晶子が俺との結婚をずっと前から公言していることは知っているが、結婚式や同居については現状をそのまま話しているようだ。ウェディングドレスに憧れがあると
前に少し言っていたから、それについて話す時は体験してから、と決めてるんだろう。

「今日は何を買うんだ?」
「数日分買いますから色々ありますけど、鶏肉が主ですね。」
「てことは・・・。」
「祐司さん期待の一品ですよ。」

 晶子が微笑んで答えたことで、期待は確信を伴う。俺の場合、「鶏肉=から揚げ」という公式が成立する。単純と言うより手前勝手な公式だが、
元々好物の揚げ物の中でも鶏肉のから揚げは別格だ。これだけでご飯のお代わりは軽い。
 実家では醤油をベースにした漬け汁に染み込ませた鶏肉を揚げて、それをそのまま食べるというスタイルだったが、大学の生協の食堂で出るものは味が殆どなくて、
醤油をかけて食べている。潤子さんは醤油と砂糖、そして林檎を摩り下ろしたものに鶏肉を漬けて揚げたものを、好みに応じて黒コショウを付けて食べるという
スタイル。単独でも十分味わい深いが、黒コショウを付けて食べると風味が効いて美味い。
 晶子が作るのは、やはり醤油と砂糖に林檎の摩り下ろしを加えた漬け汁に浸した鶏肉を揚げる。ただ、実家や潤子さんが鳥の胸肉を主に使うのに対して、
晶子はささみを使う。ささみは脂肪分が殆どなくて取れる量が少ないせいかやや高価だが、胸肉とは違う食感が楽しめる。
 晶子が用意してくれるのは、コショウと塩を混ぜたものとマヨネーズ。最初出された時は違和感を感じたが、試しにマヨネーズを付けて食べてみたら、
予想外に美味かった。晶子はそれを見越してか、マヨネーズを多めに用意してくれる。ある意味晶子の術中に嵌ったのかもしれないが、それはそれで良い。
・・・あ、この際だ。

「晶子。今日は俺も手伝うよ。」
「え?どうしてですか?」
「ほら、実家で言ってただろ?ご飯炊くのがやっとの有様だ、って。晶子みたいに刺身包丁で魚を丸ごと刺身に変えるとまではいかなくても、
朝飯に出せる程度のものは作れるようにしておきたくてさ。」

 男子厨房に立たず、とは思わないし偽りだ。もしそうなら、料理人で男性が圧倒的に多いことの説明がつかない。だけど、今の今まで晶子に料理を任せっきりだった。
この機会に少しは料理を出来るようになっておきたい。ご飯を炊くのは何とか出来るから、おかずの作り方を幾つか覚えれば、1週間程度のローテーションが
編成出来るだろう。
 今のところ風邪ひとつひいたことがない晶子だが、何時寝込んでしまうか分からない。それまで健康そのものだった人がある日突然入院する、なんて話は
珍しくも何ともない。晶子が風邪で寝込んだりしたら、俺は外で食事をするかトーストとインスタントコーヒーで凌ぐしかない。寝込んでいるところに
「食事の用意はまだか」と迫れるほど図太い神経は持ってない。

「でも祐司さん、普段忙しいんですから、お休みの時は休んでいた方が・・・。」
「休み明けに提出するレポートは少ししかないし、今後のことを考えると、出来る時に少しずつ覚えていった方が良いと思ってさ。包丁に関しては
まったくの素人だから、尚更。」
「・・・。」
「それに、忙しいのは晶子も同じだから、晶子に料理一切を任せて自分だけ暢気に、ていうのは何だかな。」

 晶子の懸念どおり、普段の俺は忙しい。レポートを提出するよう言われない日はないと断言出来るし、1日1つなら少ない。2、3あるのが当たり前だ。
俺が所定の単位取得で筆記試験免除になる資格を取れるようにするためと、興味がある講義を本来空きコマになるところに詰め込んだせいもあるから、
レポートが増えるのはある意味自業自得だ。実験のレポートがかなりのウェイトを占めるし、そこに店でのデータ作りや−新曲を入れたいという気持ちは潰えない−
ギターの練習、そしてバイトそのものを含めると、どうにかこなせているという状態だ。
 だが、大学で講義があってそのレポートもあって、バイトと歌の練習があるのは晶子も同じ。晶子は普段の食事を自分で作っているし、月曜の夜と火曜の朝は
俺の分も作ってくれる。晶子は食事作りに手抜きをしない。ご飯は何時も炊き立てだし、焼き物や揚げ物だけじゃなくて、煮炊きする料理も出てくる。
色々食べられるように、ってことで品目も多い。だから手間と時間は相当なものだ。なのに休みだからと言って俺だけ料理が出てくるのを待ってるだけというのは
気が引ける。

「だから、晶子と一緒に暮らす今の機会を生かそうと思って。」
「じゃあ・・・、ご飯を炊いたりするところから始めましょうね。」

 俺の申し出を晶子は受け入れる。積極的じゃないのは俺を気遣ってのことだと思うが、休憩は講義やレポートが普段より圧倒的に少ない分だけ十分出来る。
食事は生活をしていく上で欠かせないことの1つ。晶子に任せっきりにして、晶子が寝込んだりした時に右往左往しなくて済むようにしておきたい。

「祐司さん、レポートってどのくらいあるんですか?」
「普通の講義の分が2つ。これは休み明けから順次始まる講義毎に提出。後期試験用のレポートが2つ。これは休み明け間もなく提出ってことになってる。」
「普段の講義でレポートが出るのは、変な言い方ですけど何時もどおりですよね。」
「ああ。」
「後期試験用っていうのはどういうものですか?」
「まとめって言うか、今までの総括っていうか・・・。今までの講義で出た範囲の所定の演習問題を解いて出せ、ってものなんだ。試験用に復習させるって
意味合いもあるみたいだ。」

 後者に関しては、晶子も初めて聞く様子だから解説する。電気回路論Vと物性工学U−ちなみに電気回路論のTとUは必須、物性工学のTは選択だが
俺は全て単位を取っている−で出されたこれらのレポートは、テキストが「○○演習」と文字どおり演習問題を多く持っている。普通の講義の教科書となる
専門書にも演習問題はあることはあるが、高校のように幾つもあるもんじゃなくて、そのくせ解説は殆どなかったりする。
 そういう教科書の特質もあってか、年末最後の講義で、演習問題が章毎に幾つかピックアップされて、それらを年明けまでに解いて提出するよう言われている。
智一が言うには−4年から流れてきた情報らしい−、主にその中から後期試験の問題が出題されるらしい。
 厄介なことに、同じく智一が言うには両者共合格率が低いらしい。電気回路論Vは50%、物性工学Uは30%程度だとか。選択の物性工学Uは他の講義で
単位を取れれば落としてもまだ良いが、電気回路論Vは必須。落とすと卒業がかかった来年の後期に、文字どおり尻に火が付いた状態で単位取得を目指さないと
いけなくなる。

「祐司さんが居る学科では、そういうレポートもあるんですか。」
「先生が言うには、試験に取り組みやすくするためらしいけど、殆ど教科書1冊の中からだから、結局全部網羅出来るようにしておかなきゃならないんだよ。」
「私が居る英文学科ではそういうレポートはありませんし、先んじてゼミに配属されていることもあってか、後期試験も卒業研究の準備も兼ねて
そちらに移行するような感じなんですけど・・・。祐司さんの場合、卒業研究で配属される研究室は志望者が多いと成績順なんですよね?」
「ああ。俺が今仮配属されてて本配属を希望してる研究室は人気だから、今度の試験で入れるかどうかが決定すると見て間違いないな。
進級は当然のこととして、卒業研究もバイトと両立させられる今の研究室でしたいし。」
「参考までに聞きたいんですけど、祐司さんが取得している単位は必須と選択それぞれ、必要数に対してどの程度なんですか?」
「おおよそだけど・・・、必須はほぼ取れてる。選択は3/4くらいかな・・・。今度の試験で取れれば両方余裕で進級条件を突破出来る。選択は他の講義で
ある程度誤魔化せるからまだしも、必須を落とすと厄介だからな。特に後期の分は、卒業云々言う時点まで抱え込みたくない。」
「今まで全部の講義で単位を取得している祐司さんなら、今度も絶対大丈夫ですよ。」
「確実なものにするように、頑張る。」

 晶子の紹介のために立ち寄った実家でも宣言したとおり、間もなく受験が迫っていて合格が当然視されている修之の心理的負担が少しでも軽くなるようにと、
4年の学費は自分で払う。その前提条件となるのは、4年に進級することだ。必須も選択も単位数はほぼ進級条件に達しているが、後期試験の結果を見るまで
油断はならない。その結果を実家に伝えて、修之が4月からの大学生活を安心して送れるようにしたい。
 それに、俺が留年するようなことになったら、晶子に恥をかかせることになる。概して厳しい理系学部の1つだとは言え、それを留年の言い訳にしたくない。
事前の両親との約束どおり、4年できっちり卒業する。これは、晶子との付き合いで勉強が疎かになったと言わせないためでもある。
 話をしていたら、何時の間にかスーパーが見えるところまで来ていた。ほぼ直線だが、途中に緩い坂があるのもあって、近づかないと混み具合は分からない。
休日、しかも社会人だと年末年始の休暇の最後だから、混んでるんじゃないかな。普段でも日曜だと朝からかなり混雑するし。

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