雨上がりの午後

Chapter 143 護身のための二人の架け橋

written by Moonstone


 翌日。2コマ目が終わった後、鞄だけ3コマ目の講義がある部屋に置いて生協に向かう。
智一はこの講義を受けていない。
2コマ目の講義は、必要な単位を全て取得しておけば試験免除且つ何年かの実務経験を積めば自動的に取得出来る資格に必要な講義だから、その資格取得条件が
欲しくなければ受講しなくても良いし、そもそも2年の後期に4年進級に必要な単位を落としている奴は受けられない。ちなみに智一は前者の方だ。
 生協の食堂はどうしても混雑する。
智一はそれを避ける目的もあって2コマ目の講義を受けずに早めに昼飯を済ませてからその辺で適当に暇を潰している。
暇と言える時間があるならレポートを自分でやれ、と何度も言ったんだがこれまた一向に改まる気配がないから放っておいている。やっぱり俺って甘いんだろうな・・・。
 生協の食堂が見えてきた。ガラス越しに見える食堂はやっぱり混んでいる。
昼飯時は理系学部の学生が学部1年から博士3年まで殆ど一斉に集まるから、幾ら収容人数が多いとは言っても限界がある。
半月に1回行われる生協への要望では「食堂の拡張を」っていう意見が圧倒的に多いんだが、「予算の関係」を理由に実施されない。
無駄に広い敷地があるんだからそこにおっ建てれば有効利用出来る、というのは素人考えなんだろうか。
 ・・・ん?何だか入り口付近に人だかりが出来てるな。学生自治会の宣伝活動か?
更に近付いて行くと、その手のものではないらしいと分かる。一人の女の周りに−正確には背後−男が揃っている。
あの女・・・昨日癇に障る高飛車な態度で声をかけてきた吉弘っていう女じゃないか。まさか待ち伏せか?

「ようやくお越しのようね。」

 俺が前を通り過ぎようとすると、挨拶もなしに相変わらず高飛車な口調で話し掛けて来た。絡んで来た、と言った方が良いか。
別に俺は待っていてくれ、なんて一言も言ってない。なのに私をこんなに待たせてどういうつもりか、と言わんばかりの態度は鼻について仕方がない。

「・・・吉弘さん、だったっけ?俺は2コマ目も講義があるんだよ。」
「今日こそ来てくれるわよね?」
「今から昼飯食うから。」
「どうせ順番待ちよ。暇潰しとでも思って来てくれない?」
「断る。」
「ど、どうしてよ?!」
「話があるなら此処でしてくれ。それとも人が行き交うところじゃ出来ない話だとでも?」
「一応私としては、貴方のプライバシーを最大限考慮してあげてるつもりなんだけど。」

 とてもそうには思えない。
何のつもりだか知らないが、女王面してここまでしつこく付き纏われるのは迷惑の一言だ。この女と顔を合わせる時間すらも勿体無く思えてならない。

「取り巻きが欲しいなら他を当たれ。俺にはそんなつもりはない。」
「貴方の彼女が話に絡んでいても?」

 さっさと立ち去ろうとしたところで、女が引き止める。
女自身は腕を掴んだりしてはいない。それ以上に強力な鎖が俺の心を縛り付けた。
俺は思わず女の方を向く。女はこれなら逃げるわけにはいかないでしょう?と言うような嫌らしい笑みを浮かべている。

「流石に彼女のこととなると、無視出来ないようね。」
「・・・何をした?」
「それを話してあげるわ。来てくれるわよね?勿論。」

 癇に障る言い方に拍車がかかる。どうだ、これで逃げられまい、と勝ち誇っているのが嫌でも分かる。
だが、この女は俺に彼女が居ることを知ってる。口ぶりからするに名前とかも知ってるようだ。
何を考えてるのか知らないが、晶子を「人質」に取られた以上はとりあえず言うとおりにするしかない。

「・・・分かった。」
「じゃ、ついてきて。」

 女は勝ち誇ったかのように髪をかきあげてから、生協の食堂とは逆の方向に歩き始める。その後を女の後ろに居た男達、そして俺が続く。
何だかワルに因縁つけられてリンチされに行くみたいで嫌な気分だな・・・。それ以前に、あの女の態度が嫌でならないんだが。

 女が止まったのは−俺の前を歩く男達の動きが止まったからそう思っただけだが−、情報工学科の講義棟の裏だった。
情報工学科の講義棟には計算機関係の講義で通ったことがある。
俺が居る電子工学科には計算機工学の研究室があるし、実験にもマイコンのプログラミングがある。それにPCやマイコンではハードとソフトは切っても切れない関係だ。
 男達が両脇に退く。空いた道を女が俺に向かって進んでくる。モーゼじゃあるまいし・・・。
女はとりあえず別として、取り巻きの男達は完全に家来気分だな。まあ、そうでもなけりゃ、こんな高慢ちきな女の尻を追いかけてられないだろうけど。

「あれは何のつもり?」
「は?」
「とぼけないでくれる?先週の月曜日、あんたが何をしでかしてくれたか分かってるの?」

 思わず自分でも間抜けと思える声で問い返した俺に、女は眉を吊り上げて畳み掛けてくる。
言葉から推測するにこの女、どうやら俺に何か恨みを持っているようだが、恨まれるようなことをした覚えはない。

「何のことか全然分からないんだけど。」
「呆れた。」

 女は短く吐き捨てて溜息を吐く。本当に呆れた様子だ。でも、全然話が見えない。
この女の恨みを買うようなことをした覚えなんてないし、そもそも恨みの原因がまったく見えないからどうしようもない。

「先週の月曜日の昼休み、生協の店舗に彼女を呼び寄せたでしょ?」
「・・・俺が購読してる雑誌の引取りを頼んだだけだ。」
「彼女、問い掛けた男達に貴方との関係を説明して証拠まで見せびらかしてくれたそうじゃない。」
「だから何だって言うんだ?」
「貴方が彼女を呼び寄せてくれたお陰でね、私のファンの一部が彼女に流れちゃったのよ。」

 ・・・呆れて物が言えないとはこのことか。否、言える言えない以前に言葉が見当たらない。
女は髪をかきあげる。髪が長いとどうしても一部が前に流れるからかきあげるのが半ば癖になるそうだが、この女の場合、嫌味にしか見えない。

「テリトリーを荒らされると困るのよね。こちらとしては。」
「・・・で、俺にどうしろと?」
「彼女を私の元に連れてきて、失礼なことをしました、って頭下げさせて頂戴。」

 胸の中で黒い炎が勢いを増してくる。自分の取り巻きが減ったのを逆恨みしているとしか言い様がない。
女王だか何だか知らないが、性根は夏場に放置した生ゴミ以上に腐りきってやがる。どれだけ服やアクセサリーで飾ってもその腐臭は消せやしない。

「それで今回のことは・・・」

 こんな馬鹿女の妄言に付き合ってるほど暇じゃない。
俺は女に大股で歩み寄り、その胸座を両手で力任せに掴み上げる。女の表情が驚きか恐怖か何かで強張る。

「ふざけるのもいい加減にしろ!」
「ひっ・・・。」
「テリトリーだ、失礼だ、とか好き放題言いやがって!そんなに女王様ごっこがしたいなら、夜のネオン街でやれ!」
「おい!お前・・・」
「外野は黙ってろ!」

 取り巻きの声が聞こえたところで俺は一喝する。
近づいてきていた取り巻き連中の足がぴたりと止まったのを見て、俺は女に向き直る。

「金輪際俺に近付くなよ。」

 俺は女を突き飛ばすように放す。
背を向けたところでどさっという小さな音がするが、振り向かずに真っ直ぐ早足で生協の食堂へ向かう。
時間の無駄とはこのことだ。行列に並んでる方がどれだけましだったことか。
 智一の言っていたことの裏付けが取れた。
あの女は元々女の絶対数が少ないこの理系学部エリアで自分のルックスが良いことに、大学祭のミスコンテストで2連覇したことなんかが重なって取り巻きが
増えたせいで悦に浸っていたんだ。
そんな栄光の玉座を思わぬ形で傷つけられたもんだから八つ当たりしてきたわけだ。馬鹿馬鹿しいにも程がある。
 気分が悪い。あの女の心が放つ猛烈な腐臭が未だ鼻を突く。
だが、この気分の悪さは身体的なものじゃないから吐き気という形で出て来ない。それで余計に腹が嫌な燻り方をする。
とっとと頭を切り替えられれば良いんだが、俺にはなかなかそれが出来ないんだよな・・・。

 昼休み以降、あの高飛車女が絡んで来ることはなかった。男に胸座を掴まれるとは思わなかったんだろう。
あのまま妄言を続けていたら殴っていたかもしれない。
男だろうが女だろうが、人を殴りたくない。だが、俺は頭に血が上ると自分が見えなくなる時がある。
田畑助教授絡みのトラブルの時も、田畑助教授に嘲笑されて気が付いたら晶子と智一に両腕を掴まれていたくらいだ。
 高校までなら程度にも依るが自宅謹慎か停学くらいで済んだだろうが、世間的に「大人」とされている大学生がキャンパス内で暴力沙汰を起こしたら、
良くて停学、悪ければ退学だろう。
折角此処まで来たのに退学なんて真っ平御免だし、そもそも晶子の立場を悪くしてしまう。
性悪極まりないとはいえ相手は女。その女を殴って取り巻き連中と乱闘して退学、なんてことになったら晶子は、あんな最低男と結婚したの、とか言われるだろう。
理由がどうであれ、男と女が喧嘩になったら男が不利、という図式くらいは知っている。
 そう言えば・・・、あの女に聞かなかったな。どうして俺の名前も学科も学年も知ってるんだ、って。何か悪いことを企んでいそうな気がするんだが・・・。
考えない方が良いな。あの女のことを思い出すだけで鼻を摘みたくなるような心の腐臭が気分が悪くなる。
俺は目の前に迫ったドアを開ける。カランカラン、とカウベルが来客を告げる。

「こんばんは。」
「あら祐司君、こんばんは。」

 出迎えてくれたのは潤子さんだった。
そう言えばあの女の名前も「じゅんこ」だったな。漢字は知らないが−知りたくもないが−同じ読みなのにこうも違うものか。
名は体を顕す、というが、あまり当てになりそうにないな。カウンターの何時もの席に腰を下ろすと、思わず溜息が出る。

「何か嫌なことでもあったの?」

 潤子さんの声がかかる。疲れた様子ね、とかじゃなくて一歩踏み込んだ問いを投げかけてきた。
思わず潤子さんを見ると、潤子さんはコロッケを包んだラップを剥がしながら俺を見ている。その視線には、言いなさい、とかいう強迫の念は全然感じない。

「・・・ええ、ちょっと・・・。大したことじゃないですけど。」
「話して楽になるようだったら、遠慮なく話してね。」
「はい。」

 俺が返事をすると、潤子さんは揚げ物用の鍋が乗ったコンロに点火する。
緊急時以外は俺が自発的に話そうとしない限り問い質そうとはしない。
昼間あの女の高慢ちきな様子を目の当りにしたから、余計に対照的に映る。やっぱり名は体を顕す、とは一概には言えないようだ。
 潤子さんがコロッケを揚げつつ出してくれた水を一口飲んで客席を見る。今日もかなり混んでいる。
金曜日は社会人の多くが休みの前日ということもあって、客層は女性の割合が高い。
時間が経つにつれて混雑してくるのは最早当たり前。住宅街の真中にぽつんとある飲食店が盛況なのは、あまりないことだ。
実家が自営業だから、立地条件というのも客の出入りを左右する一因だということは何となく知っている。
 晶子が見えた。俺から見て左を向いて、テーブル席を囲む客から注文を取っている。
注文を取り終えたらしく小さく一礼して、こっちを向く。客席を過ぎたところで小走りになる。

「祐司さん。」

 俺の隣に来たところで声をかける。明るい表情が、腐臭に燻されて黒ずんだ俺の心を洗ってくれる。

「今日はちょっと早いですね。」
「早い時間の電車に乗れたんだ。」
「そうですか。あ、潤子さん。サンドイッチセット1つ、ミートスパゲッティセット2つ、ホットコーヒー2つ、ホットティー1つです。」
「はい。今、祐司君の夕食作ってるから、ミートスパゲッティをお願いね。」
「分かりました。」

 晶子は俺の後ろを通り過ぎてカウンターの端からキッチンに入る。
潤子さんがコロッケを揚げながら付け合せの野菜を刻んだりしている一方で、晶子がスパゲッティを茹でる準備をする。
この店の看板メニューの一つを任されているのは、それだけ腕を買われているということだ。
 少しして潤子さんが揚げ物の鍋からコロッケを取り出し、油を切って野菜が乗った皿に盛り付けてソースをかける。
そしてその間に用意されていた味噌汁用の器に加熱した味噌汁を入れ、冷蔵庫から付け合せの和え物が入った小さな器を取り出し、ご飯を盛り付けて
全部トレイに乗せて差し出す。

「はい、どうぞ。」
「いただきます。」

 俺は早速食べ始める。揚げたてのコロッケはホクホクして美味い。
食を進めつつキッチンを見ると、潤子さんがサンドイッチを作り、晶子がスパゲッティを茹でている。
時々かき混ぜながらスパゲッティの様子を見る晶子の表情は真剣そのものだ。
 サックスが甘く奏でる「Fly me to the moon」をBGMに食事を進め、全て食べて茶を飲み干す。満足の溜息が出る。
俺はトレイに割り箸を乗せ、カウンターに差し出す。

「ご馳走様でした。」
「はい。それじゃ準備の方をお願いね。」
「はい。」

 潤子さんがトレイを受け取ったところで、俺はカウンターからキッチンを経由して着替えに向かう。気分もすっきりした。今日もバイトに励むとするか。

 「DreamWeaver」が流れる中、店を切り盛りする俺を含めた4人がホットコーヒーを口にする。
当たり前とは言え、やっぱり今日も忙しかった。湯気と共に立ち上る芳香が疲れが染み込んだ身体に溶け込んでいく。
 今年のクリスマスコンサートのことが主な話題となる中、俺は現状を踏まえて答えたり提案したりしつつ、あのことを話すべきかどうか考える。
俺の依頼を受けて一度だけ理系学部エリアの生協の店舗に来た晶子へ取り巻きの一部が流れたことを逆恨みして晶子に謝らせろ、と迫ってきたあの女が、
このまま大人しく引き下がるとは考え難い。
今日は俺が威嚇して手を引かせたが、あの女の腐った性格を考えると、それを逆恨みのどす黒い炎に放り込んで勢いを増ささせる可能性が高い。
マスターと潤子さんの助言を仰ぐべきだろうか、やっぱり・・・。

「・・・あの・・・。マスター、潤子さん。」
「どうしたの?」
「・・・相談と言えるものかどうか分からないんですけど、聞いて欲しいことがあって・・・。」
「遠慮は要らんよ。」

 俺は一呼吸置いてから一連の事件の経緯を話し始める。
大学祭のミスコンテストを2連覇した工学部の女が絡んできたこと。
昨日は無視してやり過ごしたが、今日は晶子を「人質」にされてやむなく女について行ったこと。
その女が俺の依頼で生協の店舗に雑誌を引き取りに来た晶子に自分の取り巻きの一部を取られたことを逆恨みして、晶子を自分の前で謝らせろ、と要求してきたこと。
俺が二度と近づくな、と威嚇した後は何もなかったが、その後が気になっていること。

「なるほどね・・・。かなり厄介なタイプだな。その女子学生が祐司君の名前はおろか、学科も学年も知っていたということは、井上さんが居る学部学科や
学年も把握している可能性が高いね。」
「大学は同じ学科の同じ学年でも名前と顔が一致しないことが珍しくないから、一回だけ祐司君の学科に近い生協の店舗に顔を出しただけの晶子ちゃんに
付き合っている相手が居ることは勿論、そのお相手である祐司君の名前や所在も掴んでいたっていうことは、晶子ちゃんの詳細も掴んでいるでしょうね。」
「どうやって掴んだんでしょうか?」
「晶子ちゃんが生協の店舗に訪れた時に、その女の子の取り巻き、若しくはそうでなくても単に話を聞きつけて見に行った誰かが携帯のカメラで晶子ちゃんを
撮影して、それを元に調べたんじゃないかしら?証拠がないから断言は出来ないけど。」
「去年、井上さんが単位と引き換えに大学の先生に交際を迫られたことを訴えた際に実名入りのデマメールを流されたというから、そのメールの情報を元に
取り巻き連中に探らせることも出来るね。」

 マスターと潤子さんの推測もありうる。
それに、使い方は知っているが実行したことはないから詳細は知らないが、大学のPCには学校関係者−教職員や学生のことだ−しかアクセス出来ないページがある。
それには氏名を入力すると該当する人物の身分−教職員なら役職、学生なら所属学科や学年−とメールアドレスとかを検索して表示する機能がある。
その他にも学科単位のホームページがあるから、断片的にでも情報を掴めば割り出すことは不可能じゃないだろう。

「その女子学生が、井上さんを連れてきて謝らせろ、とまで言ったんだから、相当妬んでいるんだろう。祐司君の推測どおり、このまま大人しく引っ込む
可能性は低いね。男が自分に反抗するのは許さない、っていう思いもあるだろうし。」
「ですよね・・・。」
「そんなことがあったんですか・・・。」

 晶子の横顔は申し訳なさそうだ。自分のせいで俺をトラブルに巻き込んだ、という思いなんだろう。前の一件もあるから尚更。
だが、少なくとも今回は晶子に何の非もない。あの女がそれこそ勝手に逆恨みしているだけのことだ。

「晶子は何も気にしなくて良い。あの女の一方的な逆恨みなんだから。」
「でも・・・。」
「祐司君の言うとおり、晶子ちゃんには何の誤りもないわ。晶子ちゃんは祐司君の依頼で生協の店舗に雑誌を引き取りに行っただけなんだし、それで取り巻きの
男の子を取られた、なんて思い上がりも甚だしいわ。」
「だが、相手が相手だ。万全を期すに越したことはないね。」
「・・・ええ。」
「どういうことですか?マスター。」
「ほとぼりが冷めるまで、井上さんは少なくとも大学との往復は祐司君に同行してもらいなさい。あと、顔も名前も知らない誰かが、否、知っている人でも、
祐司君が呼んでる、とか言って来ても、井上さんは祐司君と直接連絡を取って確認するか、祐司君に出向いてもらうかのどちらかにしなさい。」
「補足すると、これから日が沈むのがもっと早くなるから、晶子ちゃんは人気のないところを一人で歩かないことね。晶子ちゃんを連れてきて謝らせろ、って
言って来たくらいだから、取り巻きの男の子を使って何をして来るか分からないわ。」
「用心に用心を重ねろ、ってことですね?」
「そういうこと。井上さんにしてみれば見る人来る人全てを疑わなきゃならないわけだから気分の良いことじゃないだろうが、我慢するしかない。」
「・・・はい。」

 了承の返答はしたものの、晶子の表情は重い。
思えば俺が雑誌を引き取りに行くのは翌日でも良かった。別に当日引取りに行かなきゃ消えてなくなる、なんてことはないんだから。
今更気付いても遅いが、軽率だったな・・・。

「祐司君と晶子ちゃんは大学でメールを呼んだり書いたり出来るのよね?」
「ええ。でもPCがある部屋に行って、IDとパスワードを入力しないといけないんです。PCは2人か3人で共有ですから。」
「となると、その場その時に確認したりすることは出来ないわね。祐司君は月曜日は実験があって終了時間なんかも不規則だから、尚のこと厳しいわね。」
「PCがある部屋に向かう途中に罠を仕掛けてくる可能性も考えられなくもない。」

 マスターの言うとおり、相手が相手、取り巻きも取り巻きだから何をして来るか分からない。こういう場合は常に最悪の状況を想定するのが最善だ。
最悪を考えることが最善なんて妙な話だし、晶子には嫌な気分を常に抱かせるものだ。しかし、今回は性悪説を取るしかない。

「そう言えば・・・、祐司君と晶子ちゃんは携帯持ってる?」
「いえ、持ってないです。」
「私もです。」

 帰省した時、親も携帯を持っていて、便利だからお前も持ったらどうだ、と親に勧められた。
弟は持っていて、俺が冬休みの宿題を見てやっている最中も傍らに携帯を置いていた。
弟が通う高校はバイトが認められているから、料金一切を自分で捻出することを条件に買ったそうだ。
 俺は親に勧められたが、普通の−携帯が普通じゃないとは思わないが−電話があるから要らない、と言って断った。携帯を持つ理由が見当たらなかったからだ。
晶子とはこの店に来れば会えるし、バイトが終わった後や月曜の夜は一緒に過ごす。
それに電車の中や講義の真っ最中に携帯を使っているのを見たのもあって、携帯にあまり良い印象を持っていないこともある。

「明日明後日は祐司君と晶子ちゃん、それぞれ用事はあるの?」
「俺は・・・レポートを書くのが主で、あとは近くのコンビニに買い物に行って、洗濯するくらいですね。」
「私は掃除洗濯と買出しが主です。レポートも少しありますけど。」
「それなら土日のどちらかに二人揃って携帯を買いに行くと良い。」

 なければ買う、か。
確かに携帯を持っていれば、わざわざPCの部屋に行く必要もない。
それにメールが来ているかどうかPCのある部屋に行って、いざ確認したら「メールはありません」じゃ時間と手間の無駄だ。
携帯ならその場その時に連絡が取れる。そう考えると便利な代物ではある。だけど・・・。

「携帯を売ってる店が何処にあるのか知らないです。」
「私も知りません。」
「料金体系やサービスは携帯の会社によって色々だから、どこがベストとは一概に言えないが、祐司君と井上さんで共通の連絡手段を持つことと、
ホームページを見たりTVやラジオを視聴したりといった、電話以外の使用を考えていないことで一致出来るのなら、ぶっちゃけ、会社は何処でも良いよ。」

 マスターの助言を受けて俺と晶子は顔を見合わせる。
今回の最重要課題はいざと言う時に即相手の声が聞けるようにすることだ。
ホームページは大学のレポートで調べものがある時−図書館では見つからないこともある−検索で使うくらいだし、俺は元々TVは殆ど見ないしラジオも家で
たまに聞く程度。
味も素っ気もないと言われればそこまでだが、俺にとってはそれが当たり前だから仕方ない。晶子はどうだろう?

「俺は携帯を持ってれば良いけど、晶子は?」
「私も別に携帯でTVを見ようとか思ってませんから、他人事みたいな言い方に聞こえるかもしれませんけど、どの会社でも良いです。」
「ということです。マスター。」
「それなら、二人で曜日と大体の時間を相談して決めてこっちに電話しなさい。大学に近い店に車で連れて行ってあげるよ。大学に近ければ消耗品の
交換とかにも便利だろうし、そういう店は学生相手も慣れてるだろうから。」
「でも、お店が・・・。」
「昼間は私一人でも大丈夫よ。二人に来てもらう夕方に近いと流石にちょっと困るけどね。」

 晶子の言葉を潤子さんがやんわりと遮る。
会社も機種も選り好みする気はさらさらないし、午前中にさっさと済ませてしまった方が良いな。

「それじゃ、晶子と相談して曜日と時間を決めて俺が電話します。」
「そうかい。じゃあ祐司君からの電話待ちということで。別に明日の午前中でも良いよ。その時にも言うけど、運転免許証と印鑑、それから使っている
金融機関の支店名と口座番号を書いたメモを用意しておいてくれ。契約の時に身分証明が必要なんだけど、そういう時は運転免許証が一番手っ取り早いし確実だ。
警察屋さんが保障しているものだからね。」
「あの・・・、もの凄く初歩的な質問かもしれないけど、良いですか?」

 一つ頭に浮かんできたことがある。
形は違えど電話を新たに持つということは、必然的にあの問題を伴ってくる。
決して惜しむつもりはないが懸念材料であることには違いない。

「何だい?」
「料金って大体どれくらいですか?」
「んー。まあ、会社によっても違うし、一つの会社でも色んな料金プランがあるから多少上下するけど、固定電話と同じくらいだね。大抵の会社はある一定の
通話時間なら月々の基本料金込みってサービスがあるし、毎日ずっと通話するようなことをしたりしなければ、月4000円くらいで収まる。」
「そうですか・・・。」
「祐司君は仕送りプラス此処でのバイト代で生活してるから、料金が気になるのは当然だろう。それなら心配ない。携帯の料金を払えるくらいのバイト代を出すから。」
「え?!」
「マスター、それって・・・。」
「そう。時給上乗せ。祐司君は4月からだから1500円、井上さんは祐司君より半月遅れだから1400円ってところでどうかな?勿論、今月分から。」
「そんな・・・。申し訳ないですよ・・・。」

 今の時給は俺が1200円で晶子が1100円。普通のバイトより格段に儲かる。
1000円単位の時給なんて塾の講師くらいだ、って聞いたこともある。
それに今回の事件は俺と晶子のこと。単純計算で週6日×4週×200円×4時間=19200円も上乗せだなんて・・・。

「何も申し訳ないなんて思う必要はないわよ。ただでさえ祐司君と晶子ちゃんにはよく働いてもらってるのに割に合わない時給だって前々から思ってたし、
上乗せしようかってマスターと相談してたんだから。」
「そういうこと。二人のどちらかに何かあって欠ける方がこっちにとっては大損害だ。それを未然に防ぐ措置を施すために必要な金は、十分店の必要経費枠内。
二人合わせて・・・月・・・40000円くらいか?今の店の売上と二人の貢献度を考えれば安いもんだ。」
「祐司君と晶子ちゃんなら月何万円にもなるような使い方はしないだろうし、この機会に新しいコミュニケーションの手段が出来るとでも思ってもらえれば良いわ。
お金のことは気にしないで、二人のことだけ考えてね。」

 マスターと潤子さんの言葉は、俺と晶子を単なる一時期のバイトの学生と軽く考えていないことを改めて裏付けるものだ。
こんな「支援」が得られるのなら携帯を買うことに迷う必要はない。
となれば、後で決めて電話するより、この場で決めておいた方がマスターと潤子さんにとって都合が良いだろう。

「マスター。前言撤回になりますけど、この場で晶子と相談して曜日と時間を決めます。良いですか?」
「ああ、それは構わんよ。」

 「足」となるマスターの了解を得て晶子に向き直る。
俺は殆ど自炊をしてないに等しいから、レポートを作る時間さえ確保出来れば何時でも良い。
一方晶子は自炊してる関係で買出しとかがあるから、晶子の都合を優先した方が良いだろう。

「晶子は何時頃が良い?俺は投げやりに聞こえるかもしれないけど何時でも良い。」
「私は・・・買い物を土曜の午前に済ませておきたいので、それ以外なら何時でも。」
「この店が開くのが午前11時だから、それまでに済ませられるものならその方が良いな。マスターと潤子さんにもあまり迷惑がかからないし。」
「となると、日曜の午前中で・・・午前9時頃でしょうか?携帯を売っているお店が何時頃から営業しているのか分かりませんから。」
「携帯の店は此処と同じでサービス業だから、定休日があれば大抵平日だし、午前9時頃から営業してる。」

 マスターの補足が入る。
俺と晶子が居ない時間帯の混み具合は知らないが、俺が来る時間帯には平日だろうが土日だろうがかなり混んでるから、潤子さん一人で切り盛りするのは大変だろう。
そうとなれば此処が開く前に連れて行ってもらってさっさと買うに限る。どうせ会社を選り好みする気はないから尚更だ。

「それじゃ・・・日曜の朝一番に連れて行ってもらうってことで良いか?」
「私は良いです。」
「ということで、日曜の朝一番にお願いします。」
「分かった。朝9時までに店の裏側に来なさい。会社の場所は大体知ってるから、機種とサービス選びを全部ひっくるめても2時間あれば事足りるだろう。」
「電話のかけ方は簡単だから、機種とサービスを選ぶことだけ考えれば良いわよ。」
「「宜しくお願いします。」」

 これで携帯を買うことは決まった。後はどんな機種を買うか、どんなサービスを選ぶか、だな。
電話機を持ち歩くようなもんだから通話が毎日1回くらいの頻度で出来て、それで料金が固定電話くらいで納まれば良いんだが。
 学科の奴は智一を含めて全員−俺が知る限りだが−携帯を持ってる。
使用禁止の筈の図書館や講義の最中でも携帯を操作している奴をちょくちょく目にする。
メールを打ったり読んだりしたり、携帯サイトにアクセスしたりしているという。
電波が届かない時の−携帯の画面を見ながらアンテナが1本とか言っているところに遭遇したことがあるからだ−メモ代わりに出来るならあった方が便利かな。

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