雨上がりの午後

Chapter 139 実験日の狂想曲(ラプソディ)

written by Moonstone


 実験開始、すなわち2コマ目開始の30分前。
俺のレポートは例によって例の如くというか、「まったく」動かない二人のが提出するレポートのクローンの基となっている。
今日は俺が早く来たのを喜んで、頼んできた時には目を潤ませてさえいた。
まあ、そんなことはどうでも良い。どのみち苦労するのは奴等だ。
今、俺の頭の中では、道が分かれる時に晶子が笑顔と共に贈ってくれた言葉がリフレインしている。

夕ご飯、期待していてくださいね。
私、待ってますから。

 今日の昼、俺が買ってる雑誌をこっちの生協の店舗まで引き取りに来てくれるんだよな・・・。時間を合わせて行ってみようかな・・・。
もし出くわしたら晶子、どんな顔するかな・・・。やっぱり驚くかな・・・。それとも喜ぶかな・・・。

「お、祐司。何だ、今日は。随分早いな。」

 どうしたんですか?この時間はまだ実験の真っ只中かもしれない、って・・・。
かもしれない、だろ?今日はこの時間に実験がひと段落ついたんだ。・・・迷惑だったか?
いいえ、此処でこうして祐司さんと会えるなんて思わなかったから・・・。

「?どうしたんだ、祐司。」

 雑誌、このまま持って行って良いですか?
ああ、勿論。俺が頼んで引取りに来てもらったんだから。

「おい、祐司。」

 実験、頑張ってくださいね。美味しい夕ご飯作って待ってますから。
ああ。出来るだけ早く終わらせる。

「こら!祐司!」

 我に帰って声の方を向くと、眉間に皺を寄せた智一が俺の横に立っていた。何時の間に居たんだ?こいつ。

「あ、何だ、智一か。おはよう。」
「おはよう、じゃねえよ。俺より朝早く来てると思ったら、ぼうっとしてやがる。寝ぼけてんのか?」
「いや、ちょっと考えごとをしてただけさ。それよりレポートは?」
「う・・・。」
「その様子だと出来なかった、否、やらなかったところがあるみたいだな。今回も。」
「うぐぐ・・・。『やらなかった』と『も』を強調するなよ・・・。」
「俺のレポートはクローン培養中だ。お前も培養に加われ。」
「りょ、了解。」

 智一は一転して恐縮した表情になって、いそいそとクローン培養に加わる。智一の場合は部分培養だが、俺からすれば大して変わりはない。
晶子とのやり取りを思い浮かべていたが、この連中を引き摺っていたら昼休みに晶子と偶然を装って会うどころか、昼休みが何時になるかも分かりゃしない。
キャンパスで晶子と会うのは夢のまた夢、か・・・。

 12時20分前、すなわち昼休み中。
実験は予想どおりと言おうか、見事に滞ってしまっている。
役立たずを極めた二人は実験開始早々姿を消してしまったし、奴らを探して引き摺り戻す暇があったら進めた方がましだ、と思って放っておいてある。
まだ使える智一も完全に俺の指示待ち状態。
今は無負荷でのトルク(註:モータが単位距離あたりに行える仕事量)を測定しているんだが、俺がその場で実験の段取りを決めて、俺がこれをするから
お前はこうしろ、と言わないといけないから、まったく気が休まる時がない。
 ・・・ん?何やら廊下が騒がしいな。何かあったんだろうか?
そんなこと考えてる場合じゃない。兎も角、この測定を終えないことには昼飯どころじゃない。この分だと1時過ぎるな。毎度のことだけど。

「それじゃ智一。徐々に回転速度を上げていくから測定値を・・・。」

 テキストから顔を上げて見ると、そこにあるべき智一の姿がない。
あ、あの野郎。これじゃ実験が進められないじゃないか。
幾ら何でもこの測定は俺一人じゃ無理だ。同時に測定する値が一人じゃ面倒見切れない数だからだ。
ったく智一の奴、何処へ行きやがったんだ?まだ測定開始間もないってのにこんなところで放り出されたんじゃ先に進めやしない。
最初からやり直し、か・・・。晶子と会うどころの話じゃないな。
兎も角この測定を終えないことにはひと段落とはいかないから、智一が帰ってくるのを待つか。
 俺は周囲を見回す。普段なら幾つかのグループは残っているんだが、今日はやけに閑散としている。どうしたんだ?今日は・・・。
ま、智一が帰って来るまで一休みするか。食事に行ってたら一発ぶっ飛ばしてやる。

 13時前、すなわち昼休み終了前。
俄かに廊下が騒がしくなってきた。昼食帰りか?
智一が帰ってこないところからするに、奴もどさくさに紛れて昼飯を食いに行ってたな?
ったく、今日ばかりはキツく釘を刺しておかないと駄目だな。あと二人は言うだけ無駄だから別として。
 実験室−幾つかに分かれている−にどやどやと人が入って来た。
あれ?随分多いな・・・。と思ったら、俺の方に来た。何だ?一体。

「なあ、安藤君。」「あの娘(こ)と結婚してるってマジ?」「指輪見せられたけど。」
「一気に喋るな。わけが分からん。」

 俺は聖徳太子じゃない。一斉にあれこれ聞かれてそれに答えられる並行処理能力は俺の頭にはない。
俺の前に出来た人だかりはどうにか鎮まったものの、どいつもこいつも何か言いたくてたまらない、といった様子だ。
・・・多分、あのことだろう。というか、それ以外思いつかない。

「祐司。」

 智一が前に進み出て来た。

「何だ?」
「昼休みに生協の店舗にこの辺じゃ見たことがない美人が居る、って話を聞いて見に行ったら、白のブラウスにブルーのベストとフレアスカート、
腰ほどまである茶色がかった長い髪の美人が雑誌か何かが入った袋を抱えてたんだ。」
「それで?」
「で、まさかと思って声をかけてみたら案の定晶子ちゃんだったんだ。何でも、お前が購読してる雑誌を代わりに引き取りに来た、って。」
「ああ。今日が発売日だし、何時生協の店舗に引き取りに行けるか分からないから代わりに引き取って貰うように頼んだんだ。組合員証を貸してな。それで?」
「彼女が生協の店舗を出たところで俺達が聞いたんだ。君って電子工学科3年の安藤祐司君の彼女か、って。」

 今度は別の奴が進み出て来る。

「そうしたら彼女、『彼女でもありますけど妻でもあります。』って言ったんだ。そして左手を見せて『これが証拠です』って。」
「これと同じ指輪だよ。」

 俺が左手を突き出すと、周囲からどよめきが起こる。
俺と晶子の絆を示す白銀色に輝く小さな、しかし左手薬指に填まることで大きな力を秘める指輪。
今まで表立って見せたことはなかったが、今朝晶子と約束したとおり、ここぞという時には見せないとな。
 ついでにこれも見せるか。俺はズボンのポケットに右手を突っ込んで定期入れを取り出し、広げて全員に見せる。
一旦収まりかけたどよめきが再び音量を増す。その中に、確かにこの娘(こ)だ、とか、間違いないこの顔だ、とかいう声が混じってくる。

「これだけ証拠見せれば満足か?」
「ゆ、祐司。お前何時晶子ちゃんと結婚したんだ?!」
「・・・この指輪をプレゼントした時だよ。」

 周囲からまたどよめきが起こる。ここまで来たらもう後には引けない。
俺と晶子の言うことに食い違いがあったら妙な誤解や憶測−俺が晶子を騙して他に女を作っているとか−を生みかねない。俺でもそれくらいは分かるつもりだ。

「し、式は何時したんだ?!」
「・・・まだしてない。指輪の交換だけ先に済ませたって格好だ。」

 狼狽した様子で尋ねてきた智一に答える。
俺の答えは晶子の言った言葉の受け売りだが、この場合最も簡潔且つ具体的で説得力があるものだろう。

「ゆ、指輪って、晶子ちゃんの誕生日にプレゼントしたペアリングだ、ってお前・・・。」
「ものはペアリングには違いない。でも、プレゼントした時にこの指に填めて填めさせた時点で、双方合意したんだ。・・・結婚するってな。結婚は男女ペアで
するものだから、ペアリングでも問題ないだろ?」
「・・・。」
「俺はプライベートに関して積極的に話すタイプじゃないから、必要以上は喋らないで居た。今回は晶子がお前達の質問に答えて、それを俺に大挙して
確認しに来たから証拠を見せて、一致して当然の回答を示した。それだけだ。」

 俺の周囲は水を打ったかのように静まり返っている。
以前智一に見せたのをきっかけに晶子との写真の披露会になり、それから派生した妙な質問−晶子のスリーサイズとかそういうことだ−は適当にはぐらかした。
答える必要はないと思ったのもあるが、そうする以外に回避する手段が思いつかなかったのもある。
 だが、晶子が予想どおりというか、生協の店舗で俺と同じ学科の連中に出くわし−大半は急速に広まった話を耳にして見に行ったようだが−、
これまた予想どおりというべき回答をしたからには、肝心の俺が矛盾する回答をするわけにはいかない。

「・・・結婚してたなんて・・・。」
「羨ましいな・・・。」
「あんな美人と学生結婚とはね・・・。」

 周囲がざわめく。
見知らぬ男が大量に押し寄せてきたと思ったら俺との関係について質問されたから、「虫除け」のために答えただけ、という思いも程度の差は違えどあったんだろう。
だが、俺が一致する回答をしたことで、まさか、という気持ちが、そうだったのか、という気持ちに変わったんだろう。
自分で既成事実を作ったことになるが、背に腹は代えられない。言う時は言わないとな。
耕次が言ったように、それが自分を崖っぷちに追い込んでまで俺と一緒に暮らすことを決めた晶子に対する俺の責任だ。

「さて・・・、実験はどのみちやり直しだから、昼飯にするかな。」

 俺は定期入れをポケットに仕舞って智一を見る。智一はびくっと身体を震わせる。そんなに怖い顔してるんだろうか?

「智一。お前、実験を途中で放り出してわざわざ生協の店舗に行ったのか?」
「あ、いや、まあ・・・そういうことになるな。」
「昼飯食ったのか?」
「い、否、まだだ。」
「それじゃ、一緒に行こう。推測では今の実験を済ませるには相当時間がかかるだろうからな。2時までは耐えられん。」

 俺が前に進み出すと、人垣が左右に分かれる。映画か何かみたいだな。
ふと後ろを見ると、智一がついて来ている。それを確認して、俺は実験室を出る。
急に空腹を感じてきた。無意識に緊張していたんだろうか?今までこの手の質問に真正面から答えたことがなかったから、当然かもしれないな。

「しかし、マジにお前と晶子ちゃんが結婚してたとはな・・・。」

 生協の食堂に向かう道中で、横に並んだ智一が話し掛けてきた。

「俺を含む学科の奴等が、生協の店舗を出て来た晶子ちゃんに尋ねた時は流石に驚いた様子だったけど。」
「見知らぬ男が大挙して自分に向かって来たら、普通びっくりするだろ。」
「そりゃそうだがさ・・・。俺達の問いに晶子ちゃん、何の躊躇いもなく答えて証拠です、って言って指輪を見せるもんだから、全員仰天したぞ。」
「で、確認のために今度は俺のところに来た、ってわけか。」
「ああ。」
「それで、晶子はどうしたんだ?」
「指輪を見せた後、『午後から講義がありますので失礼します』って言って頭下げて行っちゃったよ。」
「そうか。なら良い。」
「どういうことだ?」
「お前達が妙な質問投げかけて、晶子を引き止めてたんじゃないかと思ってな。」
「あんな強烈な回答されたら、相手のお前に確認しにいかないといけないだろ。それにあの時の晶子ちゃん、『これ以上お話するようなことがありますか?』って
雰囲気だったからな・・・。」

 どうやら晶子は伊達や酔狂に類する気持ちで答えたんじゃなさそうだ。
もっとも今朝の会話や晶子の性格から考えるに、口から出任せを言うとは思えないが。
同時に言葉は悪いが俺を試すつもりだったんだろう。
今朝の会話で約束したことを実行するかどうか、それだけ俺の気持ちが真剣なものかどうかを。
私は約束どおり答えましたから祐司さんも約束どおり答えてくださいね、と伝えたかったんだろう。
自分に詰め寄った後恐らく俺のところに向かうと予想出来ただろう、智一を含む学科の連中を介する形で。
 俺と智一は生協の食堂に入る。ピークを過ぎてることもあって全体的に閑散としている。
もっとも月曜は大抵、否、絶対こんな風景しか見られない時間にしか来られないんだが。
食事が出されるカウンターにも列は殆ど出来ていない。俺は食券を買ってからトレイを持って短い列に並ぶ。この分だと直ぐだな。
 何時もの要領でカウンター越しに料理を受け取り、茶を入れて空いている席に座る。智一がそれに少し遅れて俺の向かい側に座る。
俺は徐に食べ始める。今日は魚のフライか。デジャブを感じるのは今日に限ったことじゃない。

「昼からは逃げるなよ。」

 俺が食べながら言うと、向かいでむせる音がする。俺は構わず食べ続ける。

「い、いきなり何だよ・・・。」
「無負荷でのトルク測定は途中だったんだぞ。それを途中で放り出しやがって。お陰で最初からやり直しだ。この不始末、どうしてくれる?」
「そ、それは悪いと思ってるさ。だけど女が、しかも美人が稀少なこのエリアに見知らぬ美人が姿を現したとなれば見に行きたくなるのが、男のロマンってやつだろ?」
「男のロマン、ねえ・・・。」

 俺は智一の言葉を反芻して味噌汁を啜る。

「そのロマンとやらで実験の終了が遅れたら、話にならないだろ。お前も知ってるだろ?今日の実験はスムーズに進むのが奇跡的で、終了した時には
終電過ぎてたグループもあるって。」
「あ、ああ。」
「俺は電車通学だってことは・・・知ってるよな?」
「わ、分かってるって!」

 智一の言葉が急に狼狽の度合いを強める。飯を食いながらだから顔は見てないが、声の調子で分かる。
どうやら言いたいことの半分は伝わったらしい。もう半分は・・・言わなくて良いな。・・・少なくとも今は。

 18時過ぎ。普通の講義ならとっくに終わってて、バイトに行こうとしている時間帯だ。だが今日は、否、今日も実験は終わってない。
俺のグループが手がけている電動機の実験を含む、所謂重電関係の実験は普通にしていてもなかなかスムーズにいかない。
電動機には慣性があるから定格に乗せるのにも時間がかかるし、止めようとすると今度はそう簡単に止まらない。まあ、慣性があるのはこれに限ったことじゃないんだが。
 実験項目は多い上に測定項目も多い。更に測定してその時の電圧やらをひたすら記録してはいおしまい、というわけじゃない。
それらをグラフにして特性を明らかにして、実験指導担当の教官に説明しないといけない。これもこの実験に限ったことじゃないんだが。

「智一、グラフは出来たか?」
「えっと・・・、どれを縦軸にしてどれを横軸にすれば・・・。」
「・・・あのなぁ。テキストに書いてあるだろ、そんなことくらい。」
「それは分かるんだけどさ・・・。どうやってグラフ用紙の中に収めりゃ良いのか・・・。」

 俺は溜息を吐く。
グラフは必ずしも0を基点にすれば良いってもんじゃない。
測定値が斑なく収まるように縦軸横軸の分割を決め、出来るだけ直線になるようにする−そのために使用するのが片対数や両対数のグラフ用紙だ−のが基本だ。
分割をどうするか、どのグラフ用紙を使うかといったことを判断するのも実験の一つ、と言われたことがある。
 だが、智一は測定こそ出来るが−この計器の値を読んで記録しろ、と指示するのは専ら俺だが−肝心の纏めの段階であるグラフ製作はまるで駄目だ。
他のグループではグラフの製作や特性の把握をしている間に次の実験の段取りを固める予備実験をしたりするんだが、俺のグループではそんなことは出来ない。
他の二人は未だにまったく姿が見えないし、智一がこの調子だから結局俺があれこれ指示したり実際にグラフ製作や特性把握−これらが実験後の口頭発表に
繋がる−をしないといけない。
 俺は次の実験の準備をしていた手を止めて智一が居る机に駆け寄り、ノートに書かれた測定値をざっと見て、最適なグラフ用紙を選択する。
そして縦軸横軸の分割を決めてノートの端に適当に描いてみて、テキストと照らし合わせて測定値が実験の目的に一致しているかどうかを確認してから、
グラフを描く。
これにあまり時間はかけられない。実験そのものに要する時間が長いからだ。

「−こんなもんだろう。」
「おおっ、見事。」
「次の実験に取り掛かるぞ。」

 智一の誉め言葉を適当にあしらって、俺は実験装置一式の元に向かう。
実験はようやく3/4が終わったというところだ。割合としては少ないが、この後口頭発表があるから油断ならない。
この分だと終了は早くても21時だな。終了の目処がついた段階で晶子に電話するか。

 21時過ぎ。大学に半日居る計算になる。
こんな計算したくない。だが、状況が許さない。
実験はどうにか終わったが、口頭発表に備えてグラフを描くのは勿論、実験結果の考察やテキストにある問題を答えなきゃならない。
実験指導担当の教官に指名されるのは誰だか分からないから−分かったら迷わず占い師か何かになってる−、自分だけ分かっていても意味がない。
答えられなかったら説教が待ってる。ほぼ毎回と言って良いほど食らってるが、何度食わされても不味くてたまらない。
俺は食らう必要がないものなんだが、グループ単位で実験をしている以上はどうしようもない。
 机には俺以外の三人が脇にそれぞれのテキストを開き、グラフ用紙や測定値を記録したノートを囲んで唸っている。
智一を含むこいつらが設問に答えられるようにしないといけないから、ふらりと戻って来た二人を捕まえてやらせている。
 俺は何度も覗き込むが、まったく進んでいないようにしか見えない。
そりゃ、俺の指示を受けて機械的に動いていただけ、或いは実験そのものもろくに把握せずにふらついているだけじゃ出来なくて当然なんだが。

「この問題の答え、分かる?」
「え?確か情報だと、ここがこうなる時にはこうなって・・・。」
「あ、それって別のグループは聞かれなかったって言ってたよ?」
「これを答えられなくてやり直し食らったグループもあるぞ。」
「マジ?!」

 それは俺の台詞だ。
実験指導担当の教官は同じ質問をぶつけてこない。時と場合によってさらりと流したり突っ込んだことを聞いてきたりする。
「口頭発表の内容が同じだと次のグループに流れてしまう」というのがその理由なんだが、こういう時になるとその「対策」の素晴らしさに溜息が出る。
勿論、ありがた迷惑なんだが。

「どうする?前のグループに聞く?」
「とっくに帰っちまったよ。」

 グループの一人が発した頼りない救いを求める声に俺が答える。苛立ちが抑えられない。
19時頃に智一に夕食に誘われたが断っている。勿論晶子との約束を守るためだ。
だが、腹を空かせた腹の虫は冷静さをじわじわ蝕んでいく。ふと気付けば俺は奥歯を噛み締めている有様だ。

「一体何時まで待たせる気だ?測定値をテキストどおりピックアップしてグラフにすれば、設問の解答はある程度予測出来る。それに該当する分野の
教科書を見て書いた事前のレポートを加えれば予測はほぼ確信になる。現に俺は出来たんだからな。それが出来ないってことは、実験の流れを何も把握して
ないって証拠だ。どういう意味かは・・・分かるよな?」
「「「・・・。」」」
「図書館はカードで通れる。今から調べて来い。」
「い、今から?!」
「行け。」

 悲鳴に近いもう一人の奴が発した声に俺が鉈を振り下ろす。自分でもその勢いが荒いのが分かる。
智一と残り二人はそそくさと立ち上がり、逃げるように実験室から出て行く。
調べるのに最低1時間と見積もっても・・・終了は終電ギリギリだな。電話してくるか。
 実験室を出て廊下を進み、外に出る。
空は満天の星空・・・とは言い難い。秋は星が少ないからな。
公衆電話は生協の店舗出入り口にある。携帯持ってるのが当たり前のこのご時世、公衆電話があるだけありがたいと思った方が良いのかもしれないが。
 通りに人影はない。生協の店舗が近付いてきたところでふと振り向くと、建物の窓は幾つも白色の光を放っている。
卒業研究が主体になる4年や院生は文字どおり夜を徹して、ってこともあるらしい。
各研究室には寝泊まり出来る設備があるにはあるが−一応仮配属になってるし、他の研究室の情報も流れてくる−、少なくとも俺の居る研究室には
所属学生全員の分はない。終電に乗れなきゃ研究室で寝泊まり、か・・・。
 仕送りの額が増えるわけでもなし。ましてや大学の近くに引越しなんて出来ない。
学費に加えて月10万を捻出することがどんなに大変かは、一人暮らしをしてバイトするようになって肌身に染みて分かった。
幸か不幸か、ファッションとか車とか旅行とかスキーとかにてんで無頓着な俺の生活は楽だ。銀行の残高は1年分の学費を出せるまでに貯まってる。

 だが、それは今の仕送りとバイトがあったからこその話。
引越しをするのは大変でこれまた現金な話だが金がかかるってことは、入学前に父さんと一緒に不動産屋を回った時なんかに分かった。
父さんは契約することになった段階で、仲介料と敷金を出した。
その札束の重みはバイトとは言え自分で働くようになってそれなりに分かったつもりだ。大学の都合とは言え、引っ越したい、とは言えない。
 それに・・・何より今住んでいる町を離れたくない。
行き来する場所はたかが知れてるがそれなりに愛着が出来てるし、引っ越すということはすなわち、晶子との距離が広がることでもある。
バイトも出来なくなる。生活がギリギリになるのは言うまでもないが、晶子と離れたくない。
距離が出来ることが別れに繋がるとは思わない。思いたくない。でも、結果的にそうなったという苦い経験がある。
距離が出来れば多かれ少なかれ疑心暗鬼になる。今は大学では「すれ違い」だが、バイト先では必ず会える。それで「解消」出来ている。
 ・・・今は兎に角、「現状報告」だな。俺は歩みを再開して公衆電話へ向かう。蛍光灯に照らされたそれは、やけに寂しげだ。
俺は財布からテレホンカードを取り出し、受話器を取ってからスロットに差し込む。
テレホンカードがスルリと吸い込まれて度数表示が出たところで、自分の家の電話番号を押す。
 トゥルルルルル、というコール音が鳴り始める。1回目・・・。2回目・・・。3回目・・・。
4回目にさしかかろうとした時、ガチャッという音でコール音が途切れる。心の何処かでやけに張り詰めていた糸が緩んだような気がする。

「はい、安藤です。」
「あ、晶子?祐司だよ。」
「祐司さん。今何処ですか?」
「大学だよ。まだ実験が終わってないんだ。」
「じゃあ、祐司さんはどうして今電話出来るんですか?」
「メンバーを図書館に向かわせた。口頭発表に答えられるようにするためにな。答えられなかったら説教が待ってる。その上やり直しまで食らったら洒落にならない。」
「そうですか。大変ですね・・・。」

 少しの間沈黙が続く。

「腹・・・減っただろ?」
「いえ。それより帰って来られます?」
「情けない話だけど・・・多分、としか言えない。終電に乗れるかどうかの確証すら持てないんだ。・・・夕食は?」
「準備は出来てますよ。」

 つまりはまだ食べてない、ということ。
約束を守ってくれてるのは勿論嬉しいが、今日中に帰れるかどうかも分からない今となっては申し訳ない。

「・・・昼は大学で、だよな?」
「ええ。昼からも講義がありますから。」
「・・・晶子。今日は先に・・・」
「待ってますね。」

 次の言葉が出て来ない。
俺だって腹減ってる。現に智一達実験のメンバーに図書館に行くよう指示、否、命令した時は、今思い返せば確実に冷静さを相当量食い尽くされていた。
だが、比較的昼食を摂るのが遅かった俺より、晶子は腹を減らしている筈だ。
その晶子はあくまで俺が帰って来るのを待つと言う。失われた冷静さが温かい何かで修復されているのが分かる。

「・・・終わったら改めて電話するよ。その時終電に乗れそうだったら、胡桃町駅からの電話になるけど。」
「それはその場その時次第になって当然ですから、構いませんよ。」
「今日のメニューは?」
「何時ものとおり、帰ってからのお楽しみ、ということで。」

 俺の口から小さな溜息に続いて笑みが零れる。受話器の向こうから聞こえる「Tonights,I feel close to you」があまりにもタイミングが良い。

「・・・待っててくれよな。」
「はい。」
「それじゃ、そろそろ戻る。メンバーがギブアップしてとんぼ返りしてる可能性があるから。」
「分かりました。また後で。」
「・・・あ、ちょっと。」

 受話器を置こうとしたところで急にある不安の入道雲がむくむくと膨れ上がってきたのを感じて、晶子を呼び止める。

「何ですか?」
「鍵・・・しっかり掛けておけよ。玄関も窓も。俺ん家は1階だから。」
「鍵は掛けてありますよ。勿論ドアチェーンも。」
「心配性なんでな・・・。晶子の家みたいにガッチリしたセキュリティがないから、余計なんだけど。」
「心配してくれてるんですね。」
「そりゃ当然さ。俺の・・・。」

 続きを言って良いものかどうか躊躇する。だが、優柔不断な俺を崖っぷちに追い込むためには言うべきだろう。

「大切な・・・妻なんだから。」
「・・・はい。」
「・・・それじゃ、また電話する。」
「はい。また後で・・・。」

 俺は受話器をそっと置く。スロットからテレホンカードを吐き出した電話機が、早くしろ、と催促するように甲高い電子音を鳴らす。
俺はテレホンカードを取り出して財布にしまう。
さて、出来るだけ晶子を待たせないためにも、奴らの尻を叩いて実験を少しでも早く終わらせよう。

このホームページの著作権一切は作者、若しくは本ページの管理人に帰属します。
Copyright (C) Author,or Administrator of this page,all rights reserved.
ご意見、ご感想はこちらまでお寄せください。
Please mail to msstudio@sun-inet.or.jp.
若しくは感想用掲示板STARDANCEへお願いします。
or write in BBS STARDANCE.
Chapter 138へ戻る
-Back to Chapter 138-
Chapter 140へ進む
-Go to Chapter 140-
第3創作グループへ戻る
-Back to Novels Group 3-
PAC Entrance Hallへ戻る
-Back to PAC Entrance Hall-