雨上がりの午後

Chapter 134 親友からの忠告、愛する人の元へ

written by Moonstone


「−というわけなんだ。」

 個人面談から半月後。
秋の香りが木々にも濃厚になってきたある週の土曜日、朝のコール音で目を覚まさせられた。
昨日寝たのが午前3時。電話に出たのが午後9時。
日頃の寝不足を解消していた最中の俺は、変な電話勧誘の類だったら怒鳴りつけてやるつもりだったが、そういうわけにもいかなかった。
 電話の主は高校時代のバンドのヴォーカルであり、リーダーでもあった耕次。
耕次も親元を離れて一人暮らしをしているが、耕次が通う大学でも進路指導が本格化してきて、早くも−俺がのんびりし過ぎなのかもしれないが−
企業のパンフレットなんかを集めて情報収集しているそうだ。それでも耕次が言うには就職への道は狭き門だと言う。
 耕次の大学も決してレベルが−偏差値のレベルでの話だが−低いわけではない。
俺達がバンドを組んでいた高校は県下でも有数の進学校。
そしてバンドをやっていることや成績が悪いことを教師、特に頭の固い生活指導の教師に突かれるわけにはいかない、ということで結構真剣に
勉強にも取り組んでいた。「よく学び、よく遊べ」というやつだ。
俺はメンバーの中で最も成績優秀で−だからどうだというつもりはさらさらないが−泊り込み合宿の時は講師役をしたし、当時付き合っていた宮城の
専任の講師として頻繁にノートを貸したり放課後に直接教えたりした。周囲に注目されていたのは言うまでもない。
 耕次は、自分の進路指導が本格化してきたのを受けて、成人式会場前でのスクランブルライブの後、進路で迷っていることを口にした俺のことを思い出し、
電話してきたんだ。
ほぼ3年間、個性派揃いのメンバーを束ねてきただけのことはあるというか・・・。
進路は別になっても、自分が大変な状況でも仲間のことに気を配れるのは耕次らしい。
 俺は先の個人面談のことをひととおり話した。耕次は時折短く返事するだけで、ずっと聞いてくれた。
まだ親にも言ってない−隠している、と言うべきか−進路だが、こうして気心の知れた相手に話せるということがどれだけありがたいことか。
やはりあの時、耕次の誘いに乗って良かった、とつくづく思う。

「なるほど。お前の選択肢の中にはプロのミュージシャンも入ってるわけか。そうでなくてもレコード会社とか、何らかの形で音楽に関係する企業を
考えてる、ってわけだな?」
「ああ。」
「お前としては、どうなんだ?」
「え?」

 耕次の問いに俺は思わず聞き返す。

「肝心のお前には少なくとも、こっちのほうが良いかな、と思える進路はあるのか、ってことだ。」
「・・・実際、公務員っていう選択肢は挙げただけだ。親は身分が安定しているから、とかいう理由で頻りに進めるけど、必ずしもそうとは言えないと思うからさ。」
「公務員には公務員ならではの問題がある。国家にせよ地方にせよ、な。公務員だから生涯安心、なんていうのは過去の幻想だ。俺も公務員試験の準備を
してはいるが、結構生臭い話を聞く。安心安全を第一に考えるなら、今の政府与党の仲間入りして議員を目指した方が賢明だな。」
「そうだな・・・。」
「で、今の彼女とはどうするつもりなんだ?」
「え?」

 俺はまた思わず聞き返す。電話口から溜息が聞こえる。

「お前なぁ・・・。左手薬指に指輪填めてて、何でもない、なんて言い訳は、少なくとも俺達の中では通用しないぞ?」
「知ってたのか?」
「知ってるも何もそんな目立つところに、しかも左手を人前に見せる楽器を使ってるお前が、俺達の目を誤魔化せるとでも思ったか?」
「俺達ってことは、他の奴等も知ってるのか?」

 俺が重ねて問い返すと、電話の向こうから如何にも、呆れた、と言わんばかりの溜息が聞こえてくる。

「スクランブルライブの時に誰が居たか、思い出して言ってみろ。」
「俺、耕次、勝平、渉、宏一の5人。」
「その他には?」
「宮城とその友達・・・!」
「ようやく気付いたか。」

 溜息を挟んで、耕次の話が続く。

「スクランブルライブの後乾杯して解散したけど、その後直ぐに優子ちゃんとその友達から話を聞いた。優子ちゃんと別れた後、お前に新しい彼女が
出来た、ってな。」
「・・・。」
「で、指輪の話になって、皆口々に、祐司が左手薬指に指輪填めてたよな、って言い出して、優子ちゃんが、あれは今の彼女も填めてるペアリングだ、って
解説して、全員納得したんだ。去年の夏に関係を清算した時見せ付けられた、って言ってたぞ。そもそも服装や髪型やアクセサリーなんかにはてんで無頓着な
祐司がアクセサリーを、しかもあんなに目立って訳ありを示すところに指輪を填めるわけがない、っていう、優子ちゃんによる詳しい背後関係の解説も
あったことも付け加えておく。」
「・・・別に隠すつもりはなかったんだけどな・・・。」

 やれやれ・・・。少し考えてみれば、俺と宮城が切れたとはいえ、その他の繋がりまで揃って切れたわけじゃない。
どういう経路を辿るかは知らないが、話が「関係者」に流れるのは必然的だよな。
仮にもほぼ3年間ずっと交流を続けてきた仲間が居て、その仲間に入ったが故に宮城と付き合うようになったことを考えれば、俺の特徴や傾向なんかも
把握していて当然か。

「確かに今、俺には彼女が居る。宮城の解説どおり、俺が填めてるのはペアリングの片割れだ。左手薬指に填めたのは、彼女がプレゼントした時に
そうしてくれ、って言って聞かなかったせいなんだけど。」
「いくらお前が服装なんかには無頓着だとはいえ、左手薬指に指輪を填める意味くらいは分かってるよな?」
「ああ。」
「彼女がそこに填めてくれ、って言って聞かなかったことから察するに、彼女はお前との付き合いを大学時代の思い出にするつもりは毛頭ないんだろ?」
「ああ。」
「で、本題に戻るが、お前はどうするつもりなんだ?」
「俺も、今の彼女との付き合いを大学卒業でおしまい、なんてことはまったく考えてない。俺も彼女も将来一緒に暮らすことを真剣に考えてる。」
「そうか。彼女の方はどういう仕事に就くつもりなんだ?」
「俺と一緒に暮らすことを前提にして職を探す。だから自分の進路だけ考えてくれ、って俺に言ってる。」
「つまりはお前の将来設計に自分を当てはめる、ってことか。」
「そういうことだな。」

 少しの間、沈黙が支配する。

「そんなに思い詰めるまでお前と一緒に暮らしたい、って思ってるんだ。彼女を大切にしてやれよ。」
「何で・・・思い詰めてるって言えるんだ?」
「このご時世で、自分の職探しよりお前と一緒に暮らすことを優先させてる。そんな一歩下がった側面を持つ一方で、そこに填めることが特別な意味を持つ指に、
お前に強請ってまでペアリングを填めさせて、自分も填めたんだ。どうして彼女がそこまでお前に惚れ込んだのかは知らんが、譬え親に猛反対されようが、
お前と一緒なら地獄の底へでも行くつもりなんだろうぜ。」

 俺は返す言葉が見当たらない。
耕次の奴、俺との今日の電話だけで晶子の心情をズバリ当てやがった・・・。
流石に一癖二癖ある面子をほぼ3年間ずっと束ねてきただけのことはあるな。これは天性のものだろう。

「無責任に聞こえるだろうが、進路は最終的にはお前自身が決めるしかない。その過程ではお前の親の思惑も絡んでくるだろうし、場合によっては衝突も
覚悟しなきゃならない。親子の縁を切られることになっても、彼女と一緒に生きるだけの覚悟はお前にあるか?」

 耕次の問いに即答出来ない俺が居る。
晶子が今でも断絶状態の親と本当に断絶することになっても俺と一緒に暮らす決意を、耕次の言葉を借りれば思い詰めているのを知っている。
だが、肝心の俺はいざ選択肢を突きつけられたらこの有様だ。自分が情けなく思えてならない。

「即答出来ないってことは、心の何処かで彼女と親とを天秤に掛けてるって証拠だ。」
「・・・。」
「お前の親が脱サラして自営業をするようになったのは知ってるし、お前が親の苦労を思い、感謝の気持ちを持つのはそれなりに理解出来るつもりだ。
だが、彼女と二人三脚で生きると真剣に考えてるなら、親子の縁を自ら切ってでもそれこそ地獄の底まで行く覚悟を持たなくてどうする?結婚は自分のために
するもんだ。親のためにするもんじゃない。彼女と一緒に暮らすと真剣に思ってるなら、それくらいの覚悟を持て、祐司。これは自分を崖っぷちに
追い詰めてまでもお前と一緒に生きると決めた彼女に対するお前の責任だ。」
「耕次・・・。」

 俺は後頭部を力いっぱい殴られたような気がする。
俺と同い年の、しかも俺より就職に苦労している立場にある奴に諭されていて、何がずっと一緒に暮らそう、だ・・・。
これじゃ自分で飯事遊びの延長線上のレベルと宣言してるようなもんじゃないか・・・。限りなく自分が情けなく思える。

「・・・ま、結婚どころか彼女も居ない俺がこんなこと言うのも何だがな。」
「否、耕次の言うとおりだ・・・。それくらいの覚悟がなきゃペアリングを左手薬指に填めてる意味がない。ずっと一緒に居よう、っていう約束が落ち葉より
軽いものになっちまう。俺がしっかりしなきゃ駄目だよな・・・。」
「そうそう。お前はロックバンドでヴォーカルと同じくらい目立つ立場のギタリストなのに大人し過ぎる、って言った筈だぞ?今からそんなことじゃ、
彼女の尻に敷かれるのは目に見えてるな。」

 俺と耕次は同時に笑う。
まったく耕次には敵わないな・・・。こういう奴こそリーダーと称して他人を引っ張っていくべきだろう。
自分の我が侭に強引に引っ張っていくことをリーダーシップと勘違いしている輩が多いが、相手の心と場の空気を読んで臨機応変に対応するのが
本当のリーダーシップだろう。その意味でも耕次はあのバンドのリーダーに相応しい。

「ところで祐司。」
「何だ?」
「彼女って凄い美人なんだってな。」

 な、何をいきなり・・・。
言葉に詰まった俺に、耕次はこれまでとは一転して、冷やかし混じりの口調で畳み掛けてくる。

「優子ちゃんから聞いたぞ。茶色がかった長い髪でスタイルも良い、女優かモデルみたいな美人だってな。祐司さん、って呼ばれてるんだって?
なかなかどうしてやるじゃないか、お前。」
「いや、姿形は別として、呼び方は彼女がそうしたい、って言ったからそうなったんであってだな・・・。」
「悠長な国会答弁もどきを聞くつもりはない。お前と彼女が一緒に写ってる写真はあるか?」
「あ、ああ。」

 俺が座っている椅子とセットになっているデスクには、今年の春に晶子とピクニックに出かけた時に、二人並んで腕を組んでいる写真がこのために買った
お揃いの写真立てに収められて、静かな存在感を醸し出している。

「よし。それじゃ今日から1週間以内に、その写真を俺を含めたバンドのメンバー全員に発送しろ。このことは俺から全員に伝えておくから、忘れた、とか、
記憶にございません、とかいう国会答弁もどきは通用しないぞ。」
「何で耕次だけじゃなくて、全員に送らなきゃならないんだ?簡潔明瞭な答弁を求める。」
「優子ちゃんとその友達は知ってるのに、ほぼ3年間行動を共にして来た俺達バンドのメンバーが知らないってのは理不尽だからだ。よって、この目で
しっかり確認させてもらう。」

 要するに俺が今付き合っている女の姿形を見たいだけだろうが・・・。
耕次の口調は明るいが、そこに含まれている意思は本気だということくらいは分かる。どう足掻いても逃げられそうにない。

「言っておくが、これはバンドのリーダーである俺の命令だ。逃げられると思うなよ。」
「こういう時にリーダーの権限使うか?普通。」
「こういう時だからこそ使うんだ。良いな?忘れるなよ。」
「分かった。写真はデジカメで撮ったのを店でプリントアウトしたやつだし、源画像は彼女のPCに保存してあるから、今直ぐ、というわけにはいかないが。」
「送るならそれで良い。感想を楽しみに待ってろよ。」
「耕次、お前なぁ・・・。」
「それじゃ、メンバーに伝えるからこの辺で。」
「ああ。それじゃ。」

 俺は受話器を置いて溜息を吐き、写真立てを手に取る。
穏やかな春の日差しを受けて密着している俺と晶子は、自分で言うのも何だが本当に幸せそうだ。自然と口元が緩む。
 以前、智一にも、晶子ちゃんと写真を撮ったことはあるのか、と聞かれて、定期入れに入っている同じ写真を見せたが、俺と晶子がペアリングを
填めていることを知った時と同じくらい錯乱して、その叫びを聞きつけた同じ学科の奴等が何事かと集まって来てひと騒動になったことがある。
表現は違えど共通していた反応は、凄い美人じゃないか、ってことだ。
 晶子の方では俺の評判は芳しくないそうだが、そんなことはどうでも良い。
それに晶子の評判がどうであっても良い。
俺と晶子は愛し合ってる、という厳然たる事実があるなら、他人がどう思おうがいちいち聞く耳必要はない。
それより耕次が言ったとおり、自分を崖っぷちに追い詰めてまでも俺と一緒に居ることを決めた晶子に対する責任を果たさなきゃならない。
・・・親と衝突してでも・・・。親子の縁を切られても・・・。
 俺は写真立てを元の場所に戻し、自分の左手を見る。薬指ではペアリングの片割れが変わらぬ白銀色の輝きを放っている。
晶子にプレゼントした時は、此処に填めてくれ、と言って譲らなかったから照れくさく思いつつそのとおりにしたんだが、その中には、そうしたい、という
気持ちはあった。変わらぬ愛を示す証が欲しい、なんていう俺らしくもないセンチな思いがあった。
 このペアリングはてんでファッションに、ましてやアクセサリーに無頓着だった俺が周囲に懸命にひた隠しにして、出入りした経験がない宝石店やら
アクセサリー店を回って探した代物だ。
決して何万、何十万、という高価なものじゃない。
だが、晶子は値段や宝石の大きさで喜ぶ女じゃない。そんな女なら俺に寄って来たりはしないだろうし−宮城は例外だ−、迷わず智一を紹介してやる。
俺が自分と晶子の指にこのペアリングを填めた時、晶子は本当に喜んでくれた。
その満面の笑顔を見た瞬間、それまでの苦労が満足感と幸福感に変わった。
今でもそれは変わらない。ならばそれにもっと確固たる「背景」を持たせるには、やはり俺がしっかりしないといけない。
 俺は受話器を取って晶子の家に電話しようとしたが、電話番号を途中まで押したところで受話器を置く。
今くらいの時間だと、晶子は買い物に行っている筈だ。俺でさえ把握している相手の生活パターンを晶子が覚えていない筈はない。
バイトに行く時にでも言えば良いか。事情を話せば、晶子も嫌がることはないだろう。

 そう言えば・・・腹減ったな。
普段は昼頃まで寝ていて、朝昼兼用でコンビニの弁当を買うからな。気が向いた時は「Alegre」へ出向くが。
普段寝ている時間に起きちまったから、腹もそれなりに減るよな・・・。
 俺は椅子を降りてベッドへ向かい、枕元の目覚し時計を見る。9時半を少し過ぎたところだ。まだ昼食には早いよな・・・。
それじゃ、何時ものとおり、トーストとインスタントコーヒーで手早く昼食を済ませるか。
俺はまだ若干残る眠気を欠伸に変えつつ冷蔵庫へ向かい、食パンと苺ジャムを取り出し、食パンをオーブンに放り込んでタイマーをセットする。
その間にトースト用の皿とバターナイフを用意してテーブルに置き、ポットの電源を入れて湯を沸かす。
湯は必要分しか入れないから、トーストが出来て程なく湯も沸く。
 チン、という音がする。
俺はトースト用の皿を持ってオーブンへ向かい、仄かに狐色に焼き上がったトーストを取り出してテーブルに置き、座らずに洗い桶からコップを取り出して
インスタントコーヒーを適量入れてからポットの前に立つ。
少しして、ピーッピーッ、とホイッスルを思わせる甲高い電子音が鳴る。
コップに湯を注いでいくと、黒褐色の液体が出来上がる。
それを持ってテーブルに向かい、腰を下ろす。そしてバターナイフでコーヒーを良く掻き混ぜる。これで朝食の準備は完了だ。
 俺はトーストに苺ジャムを塗って食べつつ、時折コーヒーを啜る。
普段と同じメニューの、しかし時間的にはゆったりした、それでいて何となく寂しい朝食。
・・・普段はこんなこと感じないのにな。時間ギリギリまで寝ていて慌てて腹に詰め込んでいるから、そんなことを考える余裕がない、というのが正確か。
 あっさり朝食は済んでしまう。皿とバターナイフとコップを手早く洗って洗い桶に放り込む。
・・・何だかすっきりしない。剃るほど髭は伸びていない。髪は・・・鏡を見てみるが手櫛で整えられる程度だ。
だが、何となくすっきりしない。・・・歯を磨いて顔を洗うか。
俺は流しで歯を磨いて口を濯(ゆす)ぎ、顔を洗う。呆気なく済んでしまう。とどめに鏡を見ながら櫛で髪を梳いてみたりする。これまた呆気ない。
 普段なら、朝昼兼用の食事をとっとと済ませてレポートの仕上げやらギターの練習やら、新曲のアレンジやらデータ作りやらをするところだ。
でも、レポートは最終チェックの段階にあるからそんなに急ぐことはない。
新曲はこの前追加したばかりだし、それに伴うアレンジやらデータ作りも大きな山を越えて平坦な道に戻ったばかりだ。
普段は時間に追われる週末だが、こういう時に限って呆気ない。
 散歩にでも出るか?否、行く宛なんてろくにありゃしないし・・・。とりあえず、レポートでも仕上げるかな。
俺は椅子に腰掛けてデスクに向かい、散乱しているレポート用紙やら楽譜のルーズリーフやらの中から作成中のレポートを取り出し、脇に置いてある鞄から
テキストと図書館から引っ張り出してきた資料−問題の解答やそれに近いものと、それを引き出した書物の名称と著者と出版社、該当ページ数を記載してある−を
取り出し、これまたデスクに放り出してあった関数電卓の電源を入れてレポートに取り組む。

 ・・・よし、これで良いだろう。
体裁を整えたところで最初から目を通していき、誤字脱字や表現をチェックするが、ミスは見当たらない。
次の実験の前に提出するレポートは昨日の夜仕上げたし、この他にはレポートなんかはないから・・・これで終わりか。何だか呆気ないことが続くな。
俺は出来上がったレポートをデスクで整えて端をクリップで止め、テキストに挟んで鞄に放り込む。関数電卓の電源を切って、これまた鞄に放り込む。
 俺は椅子から立ち上がって、再びベッドに歩み寄って枕元の目覚し時計を見る。・・・12時前か。
腹が減ったとも言えるし、まだ大丈夫と言えなくもない。
それ以前にあまり食欲がない。別に具合が悪いことはないが、食べる気にならない。それだけだ。
 俺は椅子に腰掛けて背凭れに体重をかけてぼんやり前を見る。
使い古したディスプレイとPCのキーボード、散乱する楽譜のルーズリーフ。そして・・・写真立て。
俺は何気なしに写真立てを手に取って見る。そこに収められた俺と晶子の写真。本当に・・・幸せそうだな・・・。
 暫く写真を眺めた俺の心がある方向性に固まる。
写真立てを元の場所に戻し、代わりに受話器を取ってダイアルする。今度は最後まで押した。
受話器を耳に当てると、トゥルルルルル、トゥルルルルル・・・という発信音が聞こえる。
発信音が3回目を終わったところでガチャッと受話器が外れる音がする。

「はい、井上です。」
「晶子、おはよう。祐司だ。」
「祐司さん。おはようございます。どうしたんですか?祐司さん、普段はこの時間だとまだ寝てるか起きたばかりかだと思うんですが。」

 電話に出た晶子はちょっと驚いた様子だ。
無理もない。俺の週末の過ごし方は晶子も知ってるし、ましてや電話なんてかけてくるとは思わなかっただろうから。

「9時頃電話があって起こされてさ。そのまま起きてたんだ。・・・邪魔だったか?」
「いえ、どうしたのかな、って思っただけです。ところで祐司さん、食事は?」
「電話が終わった後、9時半頃に手っ取り早く朝食を済ませた。昼食はまだだよ。」
「私はこれから食事の用意をしようとしていたところだったんですよ。」
「今から・・・そっちに行って良いか?」
「ええ。それは勿論構いませんけど・・・、何かあったんですか?」
「話はそっちに行ってからする。」
「分かりました。それじゃ私はロビーで待ってますから、慌てないで来て下さいね。」
「ああ。すまないな、突然。」
「いえ。気にしないでください。」
「それじゃ、今から着替えてそっちに行くよ。」
「はい。それじゃまた後で。」

 俺は受話器を置いて立ち上がり、パジャマを脱いで椅子の背凭れにかけ、箪笥から長袖のシャツとズボンと薄手のブレザーを適当に取り出して着る。
白地に青のストライプのシャツ、明るいグレーを基調にしたチェックのズボン、クリーム色のブレザー。・・・我ながら服装のセンスのなさが良く分かる。
 兎も角、出発しよう。
俺はデスクの隅に置いてある財布と玄関の鍵を持ち、財布をポケットに入れて部屋を出て、玄関の鍵を閉めて、と。
普段は歩いて行くんだが、今日は食事の用意をしてもらうから待たせるわけにはいかないな。俺は自転車に跨って駐車場を経由して通りに出る。
 湿気の少ない爽やかな空気を切って通りを進む。
緩やかな上り坂は結構車の通りが多い。普段は朝食の材料が切れた時くらいしかこの時間には外に出ないから、通り慣れた筈の道なのに新鮮に映る。
暫く進んで行くと、白い建物が見えてくる。俺は自転車置き場に入って自転車を置き、入り口へ向かう。
 ガチガチのセキュリティ付きの自動ドアを隔てた向こうに、晶子が見える。
ロビーのソファに座っていた晶子は俺の姿が見えたのか立ち上がり、脇の管理人室に立ち寄ってからこっちに向かって走って来る。
ドアが開いたところで、俺は中に入る。

「お待たせ。」
「いえ。それじゃ、行きましょう。」
「ああ。」

 俺は晶子に先導される形で建物の中に踏み込む。途中で管理人に会釈する。
毎週1回出入りしている関係ですっかり顔を覚えられているから、その点は安心だ。
二人でエレベーターに乗り込み、再び開いたドアからエレベーターを降りて廊下を進み、晶子が開けたドアから中に入る。

「お邪魔します。」
「はい、どうぞ。」

 俺は靴を脱いで上がりこむ。
ふとキッチンを見ると、俎板が横にされている。俺が電話した時食事の準備を使用としていたところだったということが良く分かる。

「今から食事作りますから、それまでゆっくりしていてください。」
「ありがとう。」

 晶子は髪をポニーテールにして−忘れてないな−エプロンを着けて冷蔵庫を開ける。材料を取り出すんだろう。
何を作るのかという疑問はなくもないが、少なくとも洗面器が必要なものは作らないことは確実だし、そもそも今日はいきなり出向いた立場だから
あれこれ問い質す気にはなれない。
俺は洗面所で顔を洗ってうがいをしてからドアを開けてリビングに入り、ブレザーを脱いでベッドに置いてから「指定席」に腰を下ろす。
何だかそれだけでも心安らぐ。自分の家じゃないのに・・・。
 俺はデスクに視線を向ける。
俺のデスクと違って綺麗に整頓されたそこには、閉じられたノートパソコンと写真立てがある。
まずあのことを頼まないといけないな。多分首を横に振らないとは思うが。
 暫く待っているとドアがノックされる。俺は立ち上がってドアを開ける。
仄かに湯気を立てる料理が乗ったトレイを持った晶子が、ありがとう、と言って入って来る。
晶子は料理をテーブルに並べて置くと再び出て行き、今度はポットと急須を持って来る。
 晶子が茶を汲む中、俺は「指定席」に腰を下ろす。チャーハンと中華スープか。
人参の赤とピーマンの緑、玉葱の透明とも言える白、そして狐色のご飯が見た目にも食欲をそそる。

「それじゃ、食べましょうか。」
「ああ。」
「「いただきます。」」

 俺と晶子は唱和してから食べ始める。温かくてピリッとした辛味と旨みが何とも言えない。

「うん、美味いな。」
「そうですか?良かった・・・。」
「米、二人分炊いたんだろ?手間かけさせて悪かったな。」
「いえ。今日は偶々朝多く炊いたんですよ。明日のお昼に使おうと思って。それより、今日はどうしたんですか?」
「そのことなんだけど・・・。用件は2つあるんだ。」

 俺は食事の手を休めて晶子に言う。晶子も食事の手を休めて俺を見る。

「まず1つ目。今年の春、二人で出かけた時写真撮っただろ?それを4枚、プリントアウトしたいんだ。料金は勿論俺が払うから。」
「それは勿論良いですけど、何に使うんですか?」
「電話で、9時頃電話で起こされた、って言っただろ?あれは俺の高校時代のバンドのリーダーからだったんだ。それで、俺が今付き合っている相手は
凄い美人だって聞いた、って話になって、ほぼ3年間行動を共にして来たバンドのメンバーが知らないのは理不尽だから全員に送れ、って命令されたんだ。」
「へえ・・・。」
「こんな時にリーダーの権限使うか、とは言ったんだけど、こういう時だからこそ使うんだ、って切り返されてさ・・・。このことはメンバー全員に知らせるから
忘れたとか記憶にございませんとは言わせない、って念押しされたよ。」
「そういえばあの写真は、私と祐司さんが持つためにそれぞれ2枚ずつプリントアウトしただけですね。お友達には今、私と付き合ってるって話して
なかったんですか?」
「ああ。別に隠すつもりはなかったんだけど、話すタイミングがなかったっていうか・・・、単に俺が話しそびれてただけで、深い意味はない。」
「それじゃ、明日の午前中に私が行って来ますよ。プリントアウトするお店は私が買い物に行くお店の中にありますから。祐司さんが明日迎えに来てくれた
時にでも渡しますよ。」
「良いのか?」
「ええ。それくらいお安い御用ですよ。でも、一つ気になりますね。」
「何が?」
「どうして私の話になったのか、ってことが。」
「そりゃそうだよな・・・。」

 やっぱりこの話に至るまでの経緯、すなわち耕次と進路のことを話し、ずっと一緒に暮らすと決めたなら自ら親子の縁を切ってでも、それこそ地獄の底まで
行く覚悟を持て、と諭されたことを話さないといけないな・・・。

「・・・かなり長くなると思う。それが2つ目なんだけど・・・。それは俺の将来、ひいては晶子にも絡んで来る話なんだ・・・。」
「それじゃ、先に食事を済ませましょうか。バイトに行くにはまだ時間がありますし、祐司さんがレポートを書かないといけないなら、祐司さんの家に場所を
移すのも良いでしょうし。」
「レポートは昨日と今朝で仕上げた。今週は偶々他の講義のレポートはないから、時間的には余裕がある。」
「それなら此処でも良いですね。食事が終わってからゆっくり聞かせてください。」
「ああ。」

 俺と晶子は食事を再開する。
こうして晶子の家に押しかけたのは、やはり晶子に話を聞いて欲しいという気持ちがあったからだろう。
俺を受け入れてくれた晶子の気持ちに応えるためにも、話すべきことは話そう。そして一緒に考えてもらおう。
ずっと一緒に居よう、と決めた大切なパートナーなんだから・・・。

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