雨上がりの午後

Chapter 131 担当教官はかく語りき

written by Moonstone


 いよいよ個人面談当日。
俺は初日の2番目。先頭の奴が−実験で同じグループの奴だ−結構長引いている。
会場である、進路指導担当の教官の個室前で腕時計と睨めっこを続けている。
晶子には勿論、店にも個人面談があるから遅くなるかもしれない、と連絡してある。
幾らバイトだからって、無断で出勤時間を前後させるわけにはいかないからな。

「祐司。決めてきたか?」

 左腕が軽く小突かれた後、智一が小声で尋ねてくる。
廊下は静かだから大声どころか普通の声量でもかなり響きかねない。小声で丁度良いくらいだ。

「一応、3つに絞ってきた。」
「あらま、意外に呆気ないな。昨日まであれだけ迷ってたくせに。」
「絞ったって言っても方向性だけだ。具体的にこの企業、とか決めたわけじゃない。」
「そりゃそうだよな。昨日今日でいきなり決められるわけないよな。それにしても・・・えらく長引いてるな、先頭の奴。」
「説教でも受けてるんじゃないのか?実験真面目にやってない、とか。」
「ぐっ、お、俺を横目で見て言うなよな・・・。一応これでもお前には悪いことしてる、っていう自覚はあるんだからさ。」

 智一は苦笑いする。
その言葉が何処まで本物かは分からないが、多少は悪いことをしていると言う自覚はあるらしい。
 ドアが開いて先頭の奴が部屋から出て来る。その表情は冴えない。
頻りに溜息を吐いて俺と智一の前を通り過ぎて行く。
ろくに実験に手を出さないのにレポートのクローンを作ってるくせして、挨拶の一つもしない。・・・まあ、所詮その程度の奴、と思うしかないのか。

「それじゃ、行ってくる。」
「おう。しっかりな。」

 智一の見送りを受けて俺は個人面談の「会場」のドアをノックする。
はい、という応答が返って来たのを受けてドアを開ける。

「失礼します。」

 挨拶は忘れない。
ドアを閉めて、白髪が目立つスーツ姿の男性−彼が進路指導担当の教官だ−が右手で指し示す正面のソファに座る。
ドアを入ったところから見て左側に俺、右側に教官が座る格好になる。
 教官は電磁気学Tを担当した人物で、電気物性の分野では全国的に名が知れている。
そんな教官と一対一で進路について面談するという事実が直ぐ目前に迫っていることで、俺は全身が硬くなるのを感じる。

「宜しくお願いします。」
「えっと・・・、電子工学科出席番号2番の安藤祐司君だね?」
「はい。」

 俺の返答が聞こえているのかいないのか、教官はバインダーに収められた書類をパラパラと捲る。
間もなく書類を捲る手が止まり、教官は真剣な表情で書類を見て、少ししてから書類を1枚捲る。何を言われるのか不安でたまらない。

「ふむ・・・。君は・・・。」
「・・・。」
「非常に優秀だね。」
「え?」

 思わず顔を上げて聞き返した俺の目に、柔和な表情の教官が映る。
教官は俺と書類を交互に見ながら、何度も頷く。

「一般教養は勿論、専門科目も受講した教科全ての単位を取っている。しかも最低が8。殆どは9か10。これは大したものだ。同じカリキュラムの
電気工学科と合わせても優に5本の指に入る成績だよ。」
「は、はあ・・・。」
「それに、実験指導担当の教官からの報告では、非常に真摯に取り組んでいるそうだね。実験前後のレポートも文句のつけようがないとのこと。
近年これほど学業に真剣に取り組んでいる学生は珍しい、とどの担当教官も絶賛しているよ。」
「あの、レポートは・・・。」
「誰がどれだけ実験にきちんと取り組んだかくらい見分ける目は、どの教官も持っているよ。」

 教官は柔和な表情を崩さない。
どうやら日頃の努力や苦労は教官にはきちんと伝わっているらしい。俺は思わず安堵の溜息を漏らす。

「君の前の学生は、成績は良くないわ、実験は手抜きだらけだわで、こってり説教してやった。他人の作ったレポートを写して実験をした
気になっているようでは、どんな形で社会に出てもドロップアウトするのは目に見えている。君のグループでは、実験の殆どは君がやっているそうだね?」
「あ、はい。」
「怒鳴りつけてでも良いからグループのメンバーに手伝わせなさい。そうでないとメンバーのためにならないし、何より君の負担ばかり増える。
真面目な者が馬鹿を見るようなことになってはいかん。それに・・・久野尾先生からも、君が研究室の集1回のゼミに非常に真面目に取り組んでいるという
報告を受けている。」

 久野尾先生は、俺と智一が仮配属になっている音響・通信工学研究室を取り仕切る教授。
ということは、仮配属の研究室での様子までもが進路指導の教官の元に集約されているということか・・・。

「此処だけの話だが、君がこの調子で4年に進級して君が希望するなら、久野尾先生は君を優先的に研究室に入れたいそうだ。真面目な学生が欲しい、と
いうのは久野尾先生に限ったことではないがね。」

 俺は出来ることなら今の研究室に入りたい。それが今の調子を崩さずに行けば手の届くところに来ているという内輪話が嬉しくない筈はない。

「さて、本題だが・・・、君は非常に優秀だから、色々な選択肢が考えられるね。この成績なら大学院は面接だけで入れるよ。」
「え?試験があるんじゃないんですか?」
「大学院への進学は、同じカリキュラムの電気工学科と合わせて成績上位20位以内なら筆記試験は免除されるんだよ。面接はその学生の態度や進路志望を
複数の教官が問い質すような内容だから、あまり合否には影響しない。」

 何だ、そういう「抜け道」があるのか・・・。初めて知った。
てっきり入試の時みたいに希望者全員が試験を受けて、定員分だけ合格させるという方式だとばかり思ってた。

「君の成績を見ると・・・、出来れば大学院に進学して欲しいね。成績優秀。しかも真面目。こういう学生はどの研究室も欲しがるよ。」
「・・・実家の事情で、学費は4年分、仕送りは月10万と約束しているんです。大学院に進学するだけの金銭的余裕はないと思います。」
「君は親元を離れて一人暮らしをしているのかね?現金なことを尋ねるが、月10万でやっていけるかね?」
「バイトしてます。月曜休みで夜6時から10時まで。今日みたいに特別な事情がある場合は別ですけど。」
「仕送りとバイトで生活費を工面しているということかね?」
「はい。」
「試験の日はバイトを休んでいるのかね?」
「いえ。続けています。」
「そんな時間帯的にもきついバイトを続けていてこの成績かね・・・。うーん・・・。だとすれば、尚更大学院進学を勧めたいね。」

 そんなこと言われても、学費と月10万の仕送りは親がしているんだから、出来ないものは出来ないんだよな・・・。

「大学進学自体も学費が第一の問題になったんです。此処に進学するなら学費と仕送りを工面してやっても良い。ただしきっちり4年で卒業すること、
仕送りは月10万きっかり、仕送りで足りない分は自分で補填すること、っていう条件を飲んで一人暮らしをしてるんです。更に2年、ということは
想定してないんです。」
「ふむ・・・。実家とそういう約束があるわけか・・・。今は奨学金を貰うにしても保証金を払わなきゃならないからね。これでは何のための奨学金だか分からない。
優秀な学生が経済的事情で進学先を限定されるというのは、君のような優秀な学生を目の前にすると由々しき事態だと思わざるを得ないね・・・。」

 教官は難しい顔で溜息を吐く。
俺自身、大学院進学は考えていなかったが、少なくとも選択肢の一つが事実上閉ざされてしまったことには間違いない。
ちょっと勿体無い気もするが、こればかりはどうしようもない。

「大学院進学が駄目だとなると、就職だね。そっちの方はどうかね?」
「方向性を3つに絞り込んではいるんですが、まだ具体像を描けないんです。」
「3つというのは何かね?」
「1つ目は公務員です。これは親が勧めています。2つ目はレコード会社とか、音楽に関係する企業。3つ目は・・・ミュージシャンです。」

 最後の選択肢を出すのに躊躇してしまった。
そんなに恥ずかしいことなのか?人に言えないことなのか?
俺の中に悪い意味での既成概念があるのは間違いない。選択肢に含めておきながら、何を今更・・・。

「音楽に関係する企業、ねえ・・・。」

 教官はバインダーの書類を大きく二、三度捲り、そこから文面を指で追いながら書類を1枚1枚捲っていく。
過去の就職実績の中で該当するものを探しているんだろう。ここはじっと待つしかない。

「過去に・・・楽器メーカーに就職したという実績は幾つかあるね。レコード会社というのはざっと見たところ、見当たらないね。」
「そうですか・・・。」
「一つ聞くが、君が久野尾先生の研究室を希望したのはどういう理由かね?」
「自分の趣味が音楽なんです。聞くだけじゃなくて作ることも。それで、どの程度かまでは分からなかったんですけど、関係があるんじゃないかということで
配属を希望したんです。」
「なるほど・・・。趣味と実益を兼ねて、というわけか。レコード会社というのも、そういうところから出てきたわけだね?」
「はい。」
「レコード会社への就職実績はざっと見たところ見当たらないが、君の現時点での成績を見る限り、企業もそう簡単に首を横に振らないと思うね。
もし君が志望するなら、私は勿論だが、久野尾先生も君をその企業に強く推薦するだろう。これはそういう企業に限ったことではないがね。」

 一つの選択肢については、ある程度の「支援」が得られるというわけか。明るくとはいかないまでも光明が差したことには間違いないな。

「公務員の就職実績は多い。大学での成績が公務員試験の合否に直結するわけじゃないし、近年公務員志望者の伸びが顕著なことを踏まえると断言は
出来ないが、君の成績ならまず問題ないだろう。その場合、実家の方に戻るのかね?」
「選択肢の1つとはしましたけど、実家に戻るかどうかとか、国家か地方かとか、具体的に絞れてません。」
「まあ、君の現時点での成績を見る限り、筆記試験が絡むものならまず問題はないだろうね。で、ミュージシャンという選択肢に関してだが・・・。」

 とうとう来たか。何て言われるんだろうな・・・。
何のためにこの大学のこの学科に入ったんだ、って言われるのかな。

「オーディションとかコンテストとかに出たことはあるのかね?」
「・・・え、いえ。そういうのはないですけど、ジャズバーとかで演奏して生活している人達と、この夏に新京市の公会堂で共演しました。」
「ほう。随分本格的だね。」

 思いがけない質問だったから答えに一瞬戸惑ってしまった。
頭から否定されるものかと思っていたら、どうやらそうでもないらしい。

「バイトもそういう関係なのかね?」
「はい。基本的には飲食業の接客なんですけど、その合間とか、ある時間帯に客からリクエストを受けて演奏するとかしてます。」
「ふむ。こちらも趣味と実益を兼ねているというわけか。結構大変じゃないかね?」
「試験やレポートが入ってくると時間的に厳しいですし、バイトは忙しいですけど、楽しいです。」

 言ってから、しまった、と思う。「大変じゃないか」という質問に対する答えになってない。
だが、教官はどういうわけか満足げな表情を浮かべている。

「それは結構なことだ。楽しいと思えるということは、それだけ精神的に余裕があるということ。精神的な余裕がないところから新しいものや良いものは
生まれないものだからね。」

 教官はバインダーを閉じてテーブルに置く。どうやら終わりは近いらしい。

「なかなか苦学しているのに成績は非常に優秀だし、進路も自分なりに模索している姿勢は非常に良い。今日の面談で進路を決めなければいけないと
いうことはないし、選択肢の中には私にしてみれば全くの未知の分野もあるし、どの道を選ぶかは最終的には君の判断次第だが、何れの道を進むにしても、
君ならやっていけるだろう。この調子でやっていきなさい。」
「ありがとうございます。」

 俺は頭を下げる。どうやら面談は無事に終わりそうだ。

「・・・もう良いでしょうか?」
「うむ。良いよ。」

 教官の「了解」が得られたことで面談が終わったことを実感する。心の中で安堵の溜息を吐いて立ち上がる。

「・・・あ、ちょっと待ちなさい。」

 ドアへ向かおうとしたところで呼び止められる。
俺は座り直して教官と向き直る。その表情からはどういう質問が出てくるのか予想出来ない。

「・・・何でしょう?」
「今頃思い出したんだが、確か去年の冬だったかな?大学中に君の名前が出たメールが飛び回ったんだが、憶えているかね?」
「・・・はい。」

 出来ることなら思い出したくない記憶。
晶子が田畑助教授と親密になり、田畑助教授が単位とゼミへの優先加入と引き換えに交際を迫ったあの事件。
疲労が極限に蓄積したことで早退することにした俺が偶然その現場に出くわしたことで、俺は晶子との関係断絶を告げて絆の証であるペアリングと
マフラーを投げ捨てて走り去り、潤子さんの仲裁でどうにか関係復興が出来た。
 その後、晶子は俺がプレゼントしたICレコーダーに録音した会話を証拠にして大学のセクハラ対策委員会に訴え、結果委員会が厳しい−俺としては
生ぬるいと思うが−処分を下した。
その過程で大学中に晶子が超がつくほどの淫乱女で、俺が誰が父親か分からない子どもの父親にされようとしている、という内容のメールが流された。
今思い出しても苦い記憶だ。

「ここから先は君のプライベートに踏み込むことになるし、進路指導という今日の面談の趣旨からも外れるから、嫌なら答えなくても良いということを
前置きしておく。良いかね?」
「はい。」
「メールに名前が載っていた彼女とは、実際に交際していたのかね?」
「はい。」
「今でも彼女とは仲良くしているのかね?」
「はい。」

 これらの設問への回答に躊躇する理由は何処にもない。
俺が短く、はっきり答えると、教官は何度か小さく首を縦に振る。

「私のところにも問題のメールが来たんだが−まあ、あれは大学中にばら撒かれたから当たり前だが、君の名前があったからびっくりしたよ。
田畑先生の噂は私も電子工学科のセクハラ対策委員の先生から聞いたことがある。何でも、田畑先生の女子学生に対する態度は文学部の教授会でも
度々問題になってきたそうだ。今は停職明けで減給処分中だから流石に大人しくしているらしいが、油断しないように彼女に言ってあげなさい。」
「分かりました。」
「私は電磁気学Tと今の磁性体工学の講義でしか君を見たことがないし、君と面と向かって話をするのは今日が初めてだ。そんな私が今日君と一対一で
話した印象では、君は非常に真面目で誠実だと思う。実験指導担当の教官や久野尾先生からの報告はそれを裏付けていると思う。時にはそれを逆手に取られて
厳しい状況に追い込まれることもあるだろうが、自分に自信を持って行動しなさい。彼女も君の真面目さや誠実さに惹かれたのだろうと思う。
兎角上っ面だけを捉えがちな世の中だが、見る目がある人間はきちんと見ているものだ。学業とバイトの両立に加えて特定の異性と交際するのはなかなか
大変なことだとは思うが、これからも彼女と仲良くやりなさい。」
「はい。」
「本題とは関係ない話で長く引き止めて悪かったね。ご苦労さん。気を付けて帰りなさい。」
「はい。ありがとうございました。」

 俺は改めて一礼してから席を立ち、ドアを開ける前に、失礼しました、と言ってもう一度頭を下げる。
はい、という応答が返って来たのを受けてドアを開けて部屋を出る。そしてドアを静かに閉める。
 ドアを背にしたところで思わず深い溜息が出る。
何を言われるのかと思ったが、晶子との付き合いへの激励を受けた。
高校までとがらりと変わって個人主義−この単語は語弊を生みやすいからあまり使いたくないんだが−が徹底している大学という場で、教官が学生の
プライベートの心配をするというのはそうそうないことだと思う。

「祐司。かなり早かったな。」

 智一が歩み寄って来る。
時間を測ってなかったし自分のことで頭がいっぱいだったからあまり実感はないが、俺の前の奴よりは早かったかもしれない。

「何か言われたか?進路先がどうとか。」
「いや、特に注意とかは受けてない。」
「そうか。」
「それじゃ、俺はバイトがあるから先に帰る。」
「おう。じゃあな。」

 俺は智一と手を振って別れ、静かな廊下を走っていく。
幾ら事前に遅くなるかもしれない、と連絡してあるとは言え、あまり遅くなるわけにはいかない。
バイト代が生活費に直結するという極めて現実的な問題も勿論あるが、音楽と、そして大学ではもう顔を合わせる機会が殆どなくなったと言える晶子と
触れ合える大切な時間を少しでも多く持ちたいからだ。
 階段を駆け下り、喫煙室兼待合室−此処の掲示板に連絡事項や試験の結果が張り出される−の前を通り抜け、外に出る。
空は殆どの部分が夕暮れから夕闇へと変貌していて、夕闇の部分も日が昇る方向から夜の帳が下りかけている。前の奴が長かったからな・・・。
それは今何を言ってもどうになるものでもない。兎に角急ごう。俺には行くべき場所と俺を待ってくれている人が居る・・・。

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