雨上がりの午後

Chapter 124 晩夏の朝を二人行く

written by Moonstone


 夏休みもあと1週間ほどを残すのみとなった。
今日は土曜日。世間一般では休日となることが一般化してきている曜日だが、俺はそうもいかない。
店はあのコンサートの話を聞きつけた客が訪れ、俺や晶子、そしてマスターや潤子さんも色紙にサインを求められるようになった。
最初はどうしようかと思ったが、客の頼みを足蹴にするわけにはいかないということでサインに応じている。
俺のサインが価値あるものになるとはとても思えないんだが、客が喜んでくれるなら良いだろう。
 店も連日大盛況で、俺や晶子は注文取りや料理の運搬、それにステージでの演奏と息つく暇もない。
否、俺はまだ良い。
晶子は潤子さんと一緒にキッチンで料理を作ることも加わるから、俺より疲れているだろう。
 現に俺の隣を歩いている晶子の顔には明白な疲労の色が浮かんでいる。
俺は晶子の意識をはっきりさせる意味も込めて、その手を握る手に少し力を込めている。
晶子も歩いている途中で眠ってしまわないようにか、俺の手をしっかり握っている。

 明日は日曜。休みまであと一日の辛抱だ。
最近は店が忙しいこともあって、昼過ぎまで寝ていることが多い。
寝る前にギターの練習を2、3時間ほどしているせいで床に入る時間がずれ込んでいるせいもあるだろうが、9月からの講義再開に向けて生活リズムを
朝方に戻していかないといけないな。
 しかし、昼まで寝てバイトして、帰宅したらギターの練習をして寝る、という生活は単調そのものだ。
この中には洗濯やそれに関する事項も含まれるが、生活そのものを大きく変えるほどのものじゃない。
月曜は晶子の家に行って一緒に夕食を食べて一緒に寝て、一緒に朝食を食べて帰宅、という生活だが、ちょっとこれも単調ではある。
晶子と一緒に居るのがつまらないとか間が持たないとかいうことはない。ただ、折角一緒に居るんだから何か変化が欲しい、というのが正直なところだ。

「祐司さん。」

 晶子が話し掛けて来た。

「何だ?」
「祐司さんって、自動車免許持ってますよね?」
「ああ、去年取ったよ。晶子も知ってるだろ?」
「ええ。それでお願いがあるんですが・・・聞いてもらえます?」

 自動車免許の所持の確認に続いてお願い。一体何だろう?まさかとは思うが・・・、念のため言っておくか。

「借金の連帯保証人だけは勘弁してくれよ。幾ら晶子が俺の彼女でも、そればかりは引き受けるわけにはいかない。親にも散々言われてるしな。」
「そんなことじゃありませんよ。私だって頼んで良いことと悪いことの区別くらい出来ます。第一、私が借金しなきゃならないような生活してると思います?」
「そうだよな。で、お願いって何だ?」
「それは私の家でお話します。」

 何だか気になるな・・・。まあ、晶子のことだから無茶なことは言わないだろう。それに晶子の願いなら何とか叶えてやりたいし。
晶子の家で紅茶をご馳走になりながら話を聞くとするか。

 もう見飽きた感のあるガチガチのセキュリティを晶子に解除してもらって、晶子の家があるマンションに入る。
エレベーターで3階まで上って廊下を歩いて晶子が鍵を開けて中に入る。
密閉度が高い分、外より熱気と湿気が篭っていて蒸し暑い。
晶子が電灯を点けたのに続いてエアコンの電源を入れる。涼しくなるまでは我慢だな。毎度のことだけど。
 晶子は手を洗うと早速紅茶を入れる。夏でも紅茶はホットだ。
普通ならアイスティーとなるところだろうが、晶子のこだわりがあって、紅茶は年中ホットだ。
暑い中で熱い飲み物を飲むというのはミスマッチだと最初の頃は思っていたが、今はそれが当たり前だと思っている。こういうのも洗脳と言うんだろうか?
 冷房が効き始めて来た頃になって、晶子が俺の前と向かい側の自分の席にペアのティーカップを置き、交互に量が均等になるように紅茶を注ぐ。
この香りは・・・アップルティーだな。
2年近くほぼ毎日晶子の入れる紅茶を飲んでいるせいで、紅茶に関してはど素人の俺でも香りの区別が出来るようになった。これも洗脳の部類に入るんだろうか?
 俺は紅茶をご馳走になる前に洗面所で手を洗う。
そして改めて席に座ってティーカップを手に取り、晶子のそれと軽く合わせる。

「今日も一日お疲れ様でした。」
「お疲れ様。」

 労いの言葉を交わした後、入れたての紅茶を一口啜る。
バイト中は僅かな隙を狙って水を飲むのが精一杯だから、芳香と仄かな苦味を伴う紅茶が余計に美味く感じる。
さて、俺へのお願いとやらを聞くとするか。俺はティーカップを置いて晶子に尋ねる。

「で・・・、お願いって何だ?」

 紅茶を飲んでいた晶子は、ちょっと神妙な面持ちでティーカップを置いて俺を見詰める。
・・・何だか嫌な雰囲気だな。まさか、別れよう、なんて言うんじゃないだろうな。俺の心の中で、それが急速に増幅していく。

「お願いっていうのはですね・・・。」
「・・・。」
「今度の月曜日に、ドライブに連れて行って欲しい、ってことなんです。」
「ドライブ?」

 晶子の口から飛び出した思いがけない単語を俺はおうむ返しに言う。
なるほど、確かに自動車免許がないことにはドライブなんて出来っこないよな。だが、晶子は肝心要のことを忘れてやしないか?

「晶子。俺は智一と違って車なんて持ってやしないぞ。車もないのにどうやってドライブに連れて行けば良いんだよ。」
「レンタカーを借りれば良いじゃないですか。」

 確かにそうだ。だが、俺は新京市の何処にレンタカー会社があるなんて知らないぞ。

「レンタカーを借りるって言っても、何処で借りるんだよ。」
「場所はマスターから教えてもらいました。大学最寄の駅からバスで行けます。」

 そう言えば晶子、バイトの最中にマスターと何やら話してたな。
あの時は、何を話してるんだろう、とくらいにしか思わなかったが−あれこれ考えてる暇がなかったせいだ−、レンタカー会社への行き方を聞いていたのか。

「でも、何でまたドライブに連れて行って欲しい、なんて・・・。」

 俺は核心の部分を明らかにすべく尋ねる。
俺が車を持っていないことを承知の上で、レンタカー会社の場所まで教えてもらってドライブに連れて行けるように堀を埋めている。
策士の晶子らしいと言えばそうだが、そこまでして行きたい場所があるんだろうか?

「祐司さんと二人で行きたい場所があるんです。マスターに聞いたんですけど、そこはバスが通っていないらしくて・・・。祐司さんが車を持ってないことは
マスターも知ってますから、それならレンタカーを借りて行けば良いんじゃないか、って言われてレンタカー会社の場所を教えてもらったんです。」
「車ならマスターが持ってるから、潤子さんも加えて四人で行く、ってことは考えなかったのか?」
「今度行きたい場所は、祐司さんと二人きりで行きたいんです。」

 晶子は切実という表現が相応しい表情で俺に訴える。
俺と二人きりで行きたい場所・・・。一体何処にあるんだ?
そんなところ。何やらよく分からないが、折角の休みに一日晶子の家に居るのも勿体無いし−晶子の家に居るのが嫌だという意味じゃない−、
たまにはドライブというのも良いだろう。だが・・・。

「言っておくけど、俺は免許取って以来一度も車運転してないから、安全運転を絵に描いたような運転しかしないぞ。というか、出来ない。」
「私もその方が安心出来ますから、気にしないで下さい。」
「あと・・・、晶子が行きたいっていうその場所までの道案内は頼むぞ。俺は運転するのが精一杯だろうから。」
「明日地図を買ってきますから、道案内は私がきちんとします。・・・連れて行ってくれますか?」

 晶子は少し潤んだ瞳で俺を見詰める。
こういう目で見られると、断るのが悪いことに思えるんだよなぁ・・・。まあ、断るつもりはないけど。

「ああ。月曜日は晶子の行きたいところへ連れて行ってやるよ。」

 俺が言うと、晶子はそれこそ雲が晴れていくかのようにぱあっと表情を明るくする。よっぽど行きたい場所があるらしいな。
晶子のことだから、そこがどういう場所か聞いても、当日教えますから、とか何とか言ってはぐらかすだろうから、聞かないでおこう。

「お弁当作っておきますね。あと、祐司さんにもう一つお願いがあるんですけど・・・。」
「何?」
「ギターを持って来て欲しいんです。」
「ギターを?・・・電源なんてないだろうからアコースティックギターしか持っていけないけど、それでも良いか?」
「はい。そこで祐司さんにギターを弾いて欲しいんです。」

 なるほど、行きたい場所で俺の演奏を聞きたいというわけか。それくらいならお安い御用だ。
俺は首を縦に振る。晶子は心底嬉しそうな笑顔を浮かべる。
運転にはまったく自信がないが、スピードさえ出さなきゃ大丈夫だろう。免許を取って初めてのドライブが晶子と二人きりなんて、楽しみだな・・・。

 翌朝、俺は何時もより4、5時間ほど早く目を覚ました。否、正確に言えば覚まさせられた、だ。
疲れていたせいで熟睡して予定時刻に目を覚ます筈がない、と思って目覚ましを仕掛けておいた。
夏休みに入ってから午前中に目を覚ましたのは数回しかない。晶子が起こしてくれる火曜の朝だけだ。
 眠気が残ったまま手っ取り早く朝食を済ませて髭を剃り−髭は濃くないから剃る必要もないんだが、今日は事情が事情だからな−、顔を洗って歯を磨く。
夏のぬるい水では眠気を吹き飛ばせない。
初めてのドライブで居眠り運転で事故、なんてことになったら洒落にならないどころの話じゃない。
そう思った俺は、パジャマを脱いで風呂に入り、水のシャワーを浴びる。
流石に全身に浴びると、顔を洗った時にはぬるいと感じた水道水も冷たく感じる。
 眠気が完全に吹っ飛んだところで水を止め、風呂場から出て全身を拭き、そのまま箪笥のところへ向かう。
こういう時一人暮らしは気軽で良い。突然の来客があったらひと騒動になるところだが。
俺は薄いブルーの半袖開襟シャツにベージュのズボンという、普段着と変わらない服を着る。
服装には点で無頓着な俺が、デートのために着るような服を用意している筈がない。・・・あまり威張れることじゃないが。
 鏡の前でしっとりした髪を梳いて整え−くせっ毛じゃないからこうしておけば良い−、財布と定期券と運転免許証をズボンのポケットに入れて家の鍵を持つ。
晶子が言うには、レンタカーを借りるには運転免許証が必要らしい。
そりゃまあちょっと考えれば当然のことだ。無免許の人間に車を貸すわけにはいくまい。荷物と言えばこのくらいだ。
・・・おっと、肝心のあれを忘れてた。
俺はソフトケースに入ったアコギを背負う。昼食は晶子が弁当を作ってきてくれることになっているから用意する必要はない。
 俺は左腕に時計を填めて時刻を見る。8時半前か・・・。もう来る頃だな。

ピンポーン

 インターホンが鳴る。本当に時間ぴったりだな。
俺は感心半分、呆れ半分で玄関に向かい、ドアを開ける。
ドアの向こうから姿を現したのは、茶色がかった髪に白のリボンを着け、耳には今年の晶子の誕生日にプレゼントした小さなエメラルドがくっついている
イアリング、そしてピンクの長袖ブラウスに薄い茶色のフレアスカートという出で立ちの晶子だ。
その手には大きめのバスケットがある。弁当が入っているんだろう。

「おはよう。時間丁度だな。」
「おはようございます。待たせるわけにはいきませんよ。」
「それじゃ、出発するか。」
「はい。」

 俺は靴を履いて−これも普段履いているものだ−外に出て玄関の鍵を閉める。そして晶子と並んで歩き始める。
今日は陽射しこそ強いが湿気が少ないせいか清々しい。残暑が厳しい今年にしては珍しい天候だ。
何だか俺と晶子の初めてのドライブを祝福してくれているようだ。俺らしくないお姫様みたいな気分だが、実際そう感じるんだから仕方ない。
 それより、晶子が持っているバスケットが気になる。
中身は晶子のことだから心配無用だが、結構大きいし両手で持っているからそれなりに重いんだろう。ここはやはり、男の俺が持つべきじゃないだろうか?

「晶子。そのバスケット、俺が持とうか?」
「これは私が作ったお弁当が入っている、私が持ってきたものですから、私が責任を持って持ちます。そんなに重くないですから大丈夫ですよ。」
「ん・・・。でもなぁ・・・。」
「女に荷物を持たせるのは男として好ましくない、とでも?」
「そんなところ。」

 俺が言うと、晶子は立ち止まって俺を見詰める。

「祐司さんは男女同権に賛成ですか?反対ですか?」

 いきなり小難しい質問だな。そんなこと普段考えないし・・・。まあ、どちらかと言えば・・・。

「賛成、かな。」
「それなら私が持ちますね。」
「何で?」
「男女平等を言うなら女性優遇やレディファーストを言う資格はありませんよ。女性優遇やレディファーストは、強い存在である男性が自分より弱い女性に
対する博愛主義の精神で行うことですから、博愛主義のアンチテーゼの平等に賛成なら、女性優遇やレディファーストは無視してください。」

 流石は文学部というか、それとも単に俺が無知なだけか分からないが、要するに男女平等ならすることも平等に、と言いたいんだろう。
だったら・・・。
俺は晶子が持っているバスケットに左手を伸ばし、自分の方に軽く引き寄せる。俺と晶子が二人でバスケットを持った格好だ。

「これなら文句ないだろ?」
「・・・やっぱり祐司さん、良い人ですね。」

 晶子はそう言って微笑む。どうやらこういうのはOKのようだ。それに何だかこうしていると、ある情景が頭に浮かぶ。

「何だかさ、こうやって二人で一つのものを持ってると、子どもの両手を二人で繋いでるみたいだな。」
「そうですね。」

 晶子は嬉しそうに微笑む。俺は内心ほっとする。
子ども、というキーワードを持ち出したことで、必然的にそれに関わること−言うまでもなくあれだ−を連想して動揺したりするんじゃないかと思ったんだが、
晶子も満更でもないみたいだ。
実際に俺と晶子が子どもの手を繋いで歩ける日は何時になるんだろうな・・・。
 二人並んで歩いていくと駅が見えてくる。
一月以上大学へ行ってないが、この駅を訪れるのは一月ぶりじゃない。
半月ほど前、プロのミュージシャン達と大々的なコンサートを開き、その打ち上げの際に此処に立ち寄ったからだ。
 歩いていくと、あの日の夜の光景が脳裏に蘇ってくる。
笑顔で手を振っていたプロのミュージシャン達。桜井さん、青山さん、国府さん、勝田さん・・・。
あの人達は今も元気に楽器を弾いているんだろうな。
さよなら、とは言わなかった。言いたくなかった。また会う時があると思っていたから。
 駅の改札が見えてくると、俺はポケットから定期券を取り出す。晶子もスカートのポケットから定期券を取り出す。
こういう時でも使えるから定期券と言う存在はありがたい。
俺が先頭を歩く形で自動改札を通り、再び並んでホームのやや前の方に向かう。
 通勤・通学ラッシュが過ぎたこの時間、ホームは閑散としている。
俺と晶子は電車が来るのを待つ。何だか今日はこの時間が妙に長く感じる。つまりはそれだけ今日のデートが楽しみだということか。
 少しイライラし始めた時−通学の時はこんな思いはしないんだが−、電車の到着を告げる、やや間延びしたアナウンスが流れる。
少しして見慣れたカラーリングの電車が6両編成で入ってくる。通勤・通学ラッシュの時は8両編成だが、流石にこの時間帯でそれは必要ないだろう。
 電車が俺と晶子の前で甲高い金属音を立てて停止する。そして空気が抜けるような音がした後ドアが開き、降りる客を吐き出す。
学生は夏休み、しかも通勤ラッシュが過ぎているせいで降りる客は疎らだ。
客が降りたのを見計らって乗り込むと、向かい合わせの二列の客席は−このタイプはラッシュ時には使われない−大半が空いている。
俺は直ぐ近くの空いている席へ向かい、そこに晶子と共に座る。バスケットは晶子が自分の膝の上に持っていく。
 電車のドアが閉まり、軽い衝撃の後にゆっくり窓の外の風景が動き始める。
晶子が隣に居るのにそっぽを向くように外を眺めているわけにもいかない。かと言って降りるまでの約10分を潰すような話題なんて持ってない。
こういう時、TVを殆ど見ない−見る時間なんてないというべきか−上に読む雑誌といえば音楽雑誌という人間は辛い。さて、どうしたものか・・・。

「通学以外で二人一緒に電車に乗るなんて、去年遊園地へ行った時以来ですね。」
「ん?・・・ああ、そうだな。そう言えば二人で遠出することなんてなかったからな。」

 去年の夏、晶子と二人で遊園地に行った。それ以来二人で胡桃町から出たことがない。
あると言えば、半月前のサマーコンサートのために新京市公会堂まで出向いたことくらいだ。
あの時はマスターが運転する車に乗っていたから、本当に二人きりで出かけた、というのはやはり去年の遊園地でのデート以来だ。
言われてみれば昨日のことのように思い出せるが、何だか遠い昔のことのようにも思える。

「二人きりになることはあっても、二人きりで出かけるってことがなかったよな。本当に。」
「だから余計に楽しみだったんですよ。祐司さんと二人きりで過ごすことは勿論楽しいし幸せですけど、何処か別のところで二人だけの思い出を
作りたかったんです。」
「・・・気が回らなくて悪かったな。」
「いいえ。所詮これは私の我が侭なんですから、それに快く応じてくれた祐司さんにお礼を言いたいです。」
「礼を言うなら・・・今日のデートが終わってからにしてくれよ。まだ始まったばかりなんだからさ。」
「はい。」

 晶子は柔らかい笑みを浮かべる。見ているだけで心が和むその笑みを見ていると、バスケットを持っている左手に柔らかいものが触れる。
見ると、晶子が左手を俺の左手に重ねている。離しませんからね、という意思表示だろうか。
俺は自然と笑みが浮かぶのを感じる。分かってる。前に言ったじゃないか。離してくれと言っても離さない、って・・・。
 無言のまま見詰め合っていると、次の駅、即ち俺と晶子が降りる駅が近いことを知らせる車内アナウンスが流れる。
そうだ。俺と晶子の間に所謂「今時の話題」なんて必要ないんだ。二人一緒に居られればそれでも良いんだ。
今日はその上に二人だけで出かけるという楽しみが乗っかるんだ。今日はそういう日なんだ。
 電車が減速していく。やがて見慣れた風景が窓に映ってくる。俺と晶子が通学に使っているホームとその周辺の風景だ。
俺と晶子は電車が完全に止まったところで同時に立ち上がり、ドアへ向かう。勿論、バスケットは二人で持っている。
ドアが開いて、俺と晶子は電車から降りる。そしてそれぞれ定期券を取り出し、改札を通って駅を出る。

「バスの乗り場は何処だ?」
「こっちです。」

 今度は晶子が先導する形で、これまた閑散としている駅前ターミナルを歩いていく。
晶子が立ち止まったのはバス乗り場。遊園地に行った時に二人で並んだ乗り場と2つ離れている。
バス乗り場には俺と晶子の他に、スーツの上着を脱いだ中年の男性と髪が白一色の婆さん、そしてやたら鼻に染みる香水の臭いを発する、やたら派手な服を
着た小太りの中年女性3人組が居る。中年女性3人組は前後の人間のことなどお構いなしに大声で喋り、笑っている。
 少し待っているとバスがやって来た。
バスは俺と晶子が並んでいる乗り場のところで停車し、前のドアを開けて乗客を吐き出す。10人ほど客が降りると、中央部のドアが開く。
俺と晶子が歩き始めた時、前に居た中年女性3人組が何を思ったか走り出し、バスへ乗り込んでいく。
当然前に居た男性と婆さんは横に押し退けられる。
男性は顔を引き攣らせ、ブツブツ言いながら乗り込んでいく。
何考えてるんだ、あのおばさん達。席取りに急ぐような年齢じゃないだろう。

「い、痛たた・・・。」

 婆さんが尻餅をついた状態で顔を顰めて腰を擦っている。俺はバスケットを持っていた手を離して婆さんのところへ駆け寄る。

「大丈夫かい?」
「あ、いいえ。ちょっと腰を打っただけですから・・・。」

 婆さんは立ち上がろうとするが、腰を打ったときの痛みが強いらしくて起き上がれそうにない。
見かねた俺は婆さんの腕を取って肩に回し、ゆっくり立ち上がる。婆さんはそれに動きを合わせて立ち上がってくる。
顔を顰めながらも笑顔を浮かべているところからして、どうやら骨が折れたりはしていないらしい。俺は後ろを振り向いて晶子に言う。

「晶子。先にバスに乗って、運転手にちょっと発車を待ってもらうように言ってくれ。」
「あ、はい。」

 晶子が駆け足でバスに乗り込んだのを見て、俺は婆さんの腕を肩から解放して念のために腕を持つ。また倒れるといけないからだ。
俺は婆さんの服についた埃を軽く叩いて掃う。

「すみませんねぇ。」
「いえ・・・。それより、一人で立てる?」
「ええ、大丈夫ですよ。もう痛みも殆ど引きましたから。」

 俺がそっと婆さんの腕から手を離すが、婆さんは倒れずに立っている。そして俺の方を向いて頭を下げる。

「ご親切にどうも。」
「良いよ、そんなこと。さ、バスに乗ろう。」
「ええ。本当にありがとうございます。」

 婆さんは笑みを浮かべてゆっくり歩き出す。俺は婆さんの直ぐ後ろについて、不測の事態に備える。
幸い、婆さんはゆっくりとした動作ではあるが−こう言っちゃ失礼だがスロー再生を見ているみたいだ−、階段を上ってバスに乗り込む。
俺も続いてバスに乗り込む。
婆さんがドアに近い座席に腰を下ろして、再び俺に向かって頭を下げたところで、バスがゆっくり動き始める。

「祐司さん。」

 前の方から晶子が駆け寄って来る。

「お婆さんは?」
「バスに乗ったよ。このとおり。」
「ご親切にして戴いて・・・。ありがとうございます。」
「良かった・・・。大丈夫か心配だったんですよ。」
「晶子。悪いが先に適当なところに座っていてくれ。」
「はい。」

 俺は馬鹿でかい話し声が聞こえてくる後部座席へ向かう。一番後ろの席で賑やかに喋っているおばさん達の前に立つ。
おばさん達は俺に気付いたのか、喋るのを止めて怪訝そうな顔で俺を睨む。

「何なの?あんた。」
「それはこっちの台詞だよ。」

 そう言った次の瞬間、俺は向かって右から順番におばさん達の頬に拳を叩き込む。
おばさん達は俺が殴った頬を手で押さえ、目に涙を浮かべてひいひい言っている。

「お年寄りは大切にな。おばさん。」

 俺はおばさん達の脛(すね)に渾身の力を込めた蹴りを入れて悲鳴を上げさせてから、踵を返して晶子が座っている席へ向かう。
晶子は婆さんが心配だったらしく、婆さんの隣の席に座っていた。その表情を見れば何を言いたいかは分かるつもりだ。

「祐司さん・・・。」
「説教はバスを降りてから聞く。それより婆さん、腰の方は何ともない?」
「ええ。何ともありません。」
「そう。なら良いんだ。最近何かと物騒だから、周囲には気を付けてな。」

 俺は笑みを浮かべて吊革を握る。座席は二人用だし、何となく座る気がしないから立つことにする。
何事もなかったように走っていくバスの中で、おばさん達の苦悶の声が響く。どこまでも喧しい奴らだ。
 婆さんは3つ目の停留所で降りていった。その前に俺と晶子に向かって深々と頭を下げて。
まだ喧しい苦悶の声が聞こえてくるが、俺はそれを無視して晶子に言う。

「降りるときになったら言ってくれ。何処で降りるか知らないから。」
「あ、はい。5つ目の停留所ですからもうすぐです。」
「それじゃ先に金を用意しておくか。」

 俺は前方の電光掲示板の「無券」の部分を見て、その分の小銭を用意する。
230円か。割とこの辺はバスの運賃が安いな。俺の実家の方が高いだけかもしれないが。
 女性の声のアナウンスが流れた後、晶子が窓枠にある押しボタンを押す。
インターホンみたいな音がして押しボタンが赤く光る。どうやら降りる停留所が近付いてきたようだ。
・・・まだ苦しんでいるようだが、気にしない、気にしない。
 バスが歩道脇の停留所に止まったところで晶子が席を立つ。立っていた俺が先に歩いて運賃箱に運賃を入れてバスを降りる。晶子も続いて降りてくる。
あのおばさん達は降りてこない。降りようにも降りられないのかもしれないが、そんなこと俺の知ったことじゃない。・・・さて、晶子のキツい洗礼でも受けるか。
俺は人が行き交う歩道の脇で晶子と向き合う。だが、予想していた平手打ちは一向に飛んでこない。

「・・・何でぶたないんだ?」
「ぶつ理由が何処にあるんですか?」

 俺が尋ねると、逆に晶子に尋ねられる。晶子は笑みを浮かべている。

「祐司さんが直ぐにお婆さんを助けに行ったのを見て、今日のデートが益々楽しくなりました。こんな良い人とデート出来るんだ、って。」
「・・・俺は悪党だよ。腹が立ったとは言え、結局あのおばさん達と同じようなことをしたんだから。」
「ああいうのは自業自得って言うんですよ。」

 晶子はそう言って俺の手を取って歩き始める。
思わぬ晶子の行動で、俺は前につんのめって危うく転びそうになったところでどうにか堪えて体勢を立て直し、晶子の横に並ぶ。
晶子の横顔は本当に楽しそうだ。どうやら晶子も俺と同じ気持ちだったらしい。
俺は内心少しほっとして−平手打ちは結構痛いからな−晶子と一緒に見慣れない新京市の街中を歩く。

このホームページの著作権一切は作者、若しくは本ページの管理人に帰属します。
Copyright (C) Author,or Administrator of this page,all rights reserved.
ご意見、ご感想はこちらまでお寄せください。
Please mail to msstudio@sun-inet.or.jp.
若しくは感想用掲示板STARDANCEへお願いします。
or write in BBS STARDANCE.
Chapter 123へ戻る
-Back to Chapter 123-
Chapter 125へ進む
-Go to Chapter 125-
第3創作グループへ戻る
-Back to Novels Group 3-
PAC Entrance Hallへ戻る
-Back to PAC Entrance Hall-