雨上がりの午後

Chapter 102 聖夜の楽宴−4−〜平和な朝〜

written by Moonstone


「片割れの潤子もステージに上がりましたので、余計なものは引っ込みましょう。では、『Secret of my heart』をお聞きください。どうぞ!」

 マスターが言うと、店内が大歓声でいっぱいになる。その間にマスターはマイクスタンドにマイクを挿して晶子の隣、潤子さんの前に素早く持って行く。
晶子はマイクに両手を乗せる。それで二人の準備が整ったと感じた俺は、シーケンサの演奏開始のフットスイッチを押す。
俺は物陰でバッキングを担当する。目立たないが、これらも重要な役割だ。
 安っぽいドラム音に混じって俺は単音のバッキングを演奏する。
シーケンサ任せでも良いんだが、フットスイッチを押す役割があるのでついでに、といった感じだ。
メインは何と言っても晶子と潤子さんのデュオでのヴォーカルだ。潤子さんが歌声を披露するのはこの曲しかないから、常連の客には願ったり叶ったりだろうし、
初めて聞く客は興味津々だろう。
 二種類のソプラノボイスが柔らかい響きを醸し出す。
自分が前面に出るんだ、という競争じゃなくて、手を取り合って一緒に、といった感じのハーモニーが美しい。
途中から入ってきたストリングスの音色とも調和していて、切ない内容の歌詞が映える。
 曲はサビに入る。かと言って妙に声を張り上げることもなく、二人はあくまで優しく柔らかく、そして切なく歌う。
ドラムが単調で安っぽいせいか、二人の歌声が自然と前面に出る。
原曲ではバックコーラスが入るんだが、それがなくても十分歌詞が紡ぎだす雰囲気を表現している。

 最初のテーマに戻ってサビまでのフレーズを繰り返す。歌詞は変わっているが、どこか切ない内容が胸に染み渡る。
これだけ見事に歌い上げられるんだから曲も本望だろう。原曲を知っている客も、声質の異なる二人のデュオを新鮮に感じるだろう。
 曲は一番盛り上がる部分に入る。二人の声がより切なさを帯びたような気がする。
音合わせで何度も聞いたが、二つの声が衝突するんじゃなく、良い感じで協調してデュオならではのハーモニーを作り出しているところには感心させられる。
思わずギター演奏を忘れてしまいそうだ。
 それが終わると、いよいよサビの繰り返しに入る。二人の声は切なさを帯びたまま優しく柔らかい響きを存分に店内に広げる。
気持ち良い。それでいて心に染みる。この曲にヴォーカルが必要なことを実感させるには十分だ。
それだけの存在感を感じさせるものが二人の声にはあると思う。
 ラストは曲のタイトルでもある「Secret of my heart」を繰り返しつつ、フェードアウトしていく形だ。
俺はボリュームを調整してシーケンサに合わせてギターの音を絞っていく。
晶子と潤子さんはどちらが早まることも遅れをとることもなく、手足を揃えて徐々に声量を絞っていく。
 全ての音の響きが消えると、パラパラと拍手が起こり、それが急速に大きくなって店内いっぱいにこだまする。
晶子と潤子さんは一度顔を見合わせてから、揃って一礼する。拍手は益々大きくなる。
客は手が痛くないのかと思うほど手を叩いているように見える。でもその気持ちはよく分かる。
 拍手が止む気配はない。
そこにステージ脇からマスターがステージに上って、潤子さんの前のマイクを抜いて、客に向かって言う。

「女性デュオならではの歌声を披露出来たのではないかと思います。皆様、見事に歌い上げた井上さんと潤子、そしてその陰で黙々と演奏をこなしていた
安藤君に今一度大きな拍手を!」

 マスターの呼びかけに応えて、拍手がこれでもか、と言わんばかりに大きくなる。
晶子と潤子さんはもう一度客席に向かって一礼する。思わぬ紹介を受けた俺もそれに倣って一礼する。
別に紹介してもらわなくても良かったんだが、ほんの一部でも拍手が自分に向けられていると思うとやっぱり嬉しいもんだ。
ここはマスターに感謝すべきところだな。

「さあ、このコンサートもいよいよ最後の曲を迎えることになりました。今までソロにペアにと色々な形でステージに上がった私を含む四人全員が揃って
それぞれの楽器に挑む、『COME AND GO WITH ME』で締めくくりたいと思います。どうぞお楽しみください!」

 拍手の中に歓声が混じる中、マスターはマイクスタンドを一つ片付けてサックスのストラップに身体を通す。潤子さんはピアノの前に向かう。
晶子はそのまま。俺は高まる胸の鼓動を感じながら、全員の準備が整うのを待つ。
シーケンサの演奏を−殆どドラムとベースとSEだが−始めるのは俺の足だ。
 ようやく拍手と歓声が収束して客も演奏を聞く準備が整い、俺以外の三人も準備が整ったようだ。
俺は躊躇なくシーケンサの演奏開始のフットスイッチを押す。
マスターが言ったとおりこれで最後だが−実際はそうじゃないんだが−、最後だからこそ油断は尚のこと禁物。自然と気合が篭るのを感じる。
 2拍分のハイハットのフィルが入った後−これは去年なかったものだ−潤子さんのピアノの音が、清流が流れるように入ってくる。
自然な響きが心地良い。SEが混じるが、ピアノの音がそれに圧されることはない。
 続いてウィスパリングを存分に効かせた晶子のヴォーカルが入る。
俺はその邪魔にならないように注意しつつギターのフレーズを挟む。飾り程度のものだが手を抜くわけにはいかない。
ヴォーカルの終わりにピアノとSEが入ってくる。
これからだ本番だ、と告げているような、煌きを感じさせるピアノのフレーズにドラムが加わってくる。そう、これからが本番だ。
 ブロウの効いたサックスの音色が高らかに響く。それに負けじとピアノがダイナミクスを生かしたバッキングを奏でる。
その中で俺は目立たないだろうが、自分のパートをきちんと演奏する。
こういうパートって、聞いている人は聞いていたりするんだよな。だから疎かには出来ない。

 サックスと入れ替わる形でヴォーカルが入ってくる。ウィスパリングを微妙に効かせた良い声だ。それに高音部も含めたピアノのバッキングが絡む。
ダイナミクスを生かしているといってもヴォーカルの邪魔になっていないところが凄い。聞いているだけでワクワクしてくる。
音合わせの時でも、個人的に一番楽しめたのはこの曲なんだよな。自分の出番は殆どないけど。
 最初のテーマに戻ってウィスパリングが効いたヴォーカルが広がる。それに合いの手を加えるようにサックスが響く。
ここから暫くはヴォーカルがメインだ。
それにしても晶子も随分ステージ慣れしたもんだ。これだけの客を目の前にしても、練習の時以上の力を出せてるんだから。
 ウィスパリングの割合が減ったヴォーカルが良く響く。流暢な発音で歌われる歌詞とピアノの絡みが耳に心地良い。
ゆったりしたテンポだが、歌や演奏は結構忙しい。去年もラストを飾ったが、ハーモニーは去年以上のものになっていると思う。
 ヴォーカルが終わると、代わってサックスがSEを背景にしてメロウな響きを聞かせる。
リズム音がないのに客もリズムを感じているのか、手拍子は崩れることはない。
いよいよ数少ない、というか唯一の俺が前面に出るテーマが近付いてきた。これまでの演奏を台無しにしないようにと、自然と気合が入る。3、2、1・・・。今だ!
 俺はボリュームを上げてストロークで和音を掻き鳴らす。そこにサックスが絡んでくる。
サックスは出すのが難しい高音も使った、かなり難度の高いフレーズだが、マスターは難なく華麗に歌い上げてみせる。
 再び最初のテーマに戻る。ウィスパリングが効いたヴォーカルが耳に気持ち良い。
サックスが原曲と異なるフレーズを挟むが、違和感は全くない。
この辺りはジャズバーを席巻しただけの腕前が生きているという確固たる証拠だろう。演奏しつつ聞いていても安心出来る。

 最初のテーマを繰り返す。ここからは去年とかなり様相を変えている。
俺はバッキングを単音からストロークに切り替えて細かくする程度だが、ヴォーカルはアドリブで歌い、サックスがそれに絡み、ピアノが原曲では
オルガンのパートを含めた演奏をする。
ピアノのグリスは圧巻だが、決してヴォーカルやサックスを打ち消すようなものじゃない。煌き感が混ざって曲に美しさをプラスする。
 さあ、いよいよフィニッシュだ。
ヴォーカルが止んで、シーケンサが演奏するドラムの難しいフレーズ−シーケンサにとっては大したことではないだろうが−を背景に、サックスとピアノが
ジャズの匂いをたっぷり含ませた演奏をする。
ここは音合わせで最初に聞いた時、仰天したところだ。ドラム音にぴったりリズムを合わせつつ、難しいアドリブのフレーズを演奏する。
 ラストはピアノの細かいリフ(註:繰り返しフレーズのこと)を背景にサックスがこれまた細かくて高音低音を多分に使ったフレーズを響かせる。
サックスとピアノと俺のギター、そして晶子の「Thank you」という言葉がドラムのシンバルとぴったり息を揃えて音を響かせ、演奏を止める。
 決まった。俺がそう思った瞬間、客席からもの凄い拍手と歓声と指笛が押し寄せてきた。
晶子は一礼してから客に向かって手を大きく振る。マスターも口からサックスを離して手を振っている。
俺も充実感を感じながら手を上に掲げて声援に応える。潤子さんも席を立って手を振っている。
 マスターがサックスを首にぶら下げたままステージ脇に置いてあったマイクを持って、客席に向かって話し掛ける。

「多大なご声援、ありがとうございます。今日のコンサートも無事終わりを迎えることが出来ました。ここまで聞いて下さった皆様に、心から御礼申し上げます。」

 マスターの声で歓声がより大きくなる。マイクを通さないと何を言っても聞こえないくらいだ。
観客の歓喜と興奮も最高潮に達しているんだろう。その表情を見れば嫌でも分かる。
 マスターの手招きに従って、俺と晶子と潤子さんはステージ中央に一列に並び、揃って一礼する。客席から大きな歓声と共に大きな拍手が送られる。
これだけの「報酬」をもらえたら、寸分を惜しんで音合わせと練習に励んだ苦労が一気に満足感と充実感に変わるというものだ。
さて、今までマスターに驚かされっ放しだったが、今度は俺が、否、俺と晶子が驚かせる番だ。フフフ、どういう反応を示すやら。

「では、様々な曲で飾った年の暮れ迫るこの日に・・・」
「ちょっと待ったぁ!」

 締めを飾ろうとしたマスターを制する。マスターは何事か、というような顔をしている。隣の潤子さんもきょとんとしている。
俺はマスターに手を差し出す。マイクを貸してくれ、という合図だと悟ったのか、マスターは少々おずおずとマイクを差し出す。
俺はマイクを受け取って客席に向き直る。沈黙した客の視線が俺に集中しているのが分かる。緊張するが、俺が言わなきゃことは始まらない。

「突然すみません。今日この瞬間まで秘密にして来た曲を披露したいと思います。」

 客席が少しざわめくが、直ぐに静寂を取り戻す。

「お、否、私は人前で話すのが苦手で上手く言えないんですが、兎も角ヴォーカルの・・・井上さんと秘密裏に練習してきた曲を聞いてください。
曲は『fantasy』です。」

 俺はマスターにマイクを返すと、急いでギターをアコースティックギターに換える。
晶子はマイクスタンドの前に立ち、両手をマイクの上に重ねて歌う準備を整える。
マスターと潤子さんはステージ脇に下がった。
俺は晶子の隣に行って、店内が静寂に包まれたのを確認してから晶子を顔を見合わせ、身体を小さく揺らしてリズムを刻む。
そして4拍目を数えたところでギターの弦を指で弾き始める。
 それと同時に晶子が客席に向き直って歌い始める。・・・一番厄介な出だしが上手くいったことで一先ず安心だ。練習ではここで一番苦労したからな。
イントロなしの上に練習期間が短くて、更にこの1週間はマスターと潤子さんの家に泊まっていたから、聞かれないようにアコースティックギターを
ボリュームを絞ったエレキギターにしたり、晶子には無声音で歌ってもらったりと細心の注意を払っていたからな。
普通注意を払うのは演奏や歌う方なんだが・・・。
 シーケンサの音は一切ない。俺のギターだけが晶子の歌を支える。静かな店内に俺のギターの音と晶子の済んだ声が良く響く。
客席からも手拍子なんかはない。ただ俺のギターと晶子の歌声だけが店内に広がる。
 曲はサビへ入る。原曲ではシンセ音やバックコーラスなんかが入るんだが、ここではあくまで俺と晶子の力量にかかっている。
晶子は少々声のボリュームを上げたようだ。
俺はあくまで弦を爪弾いた時の音のアタック(註:音の最初の部分)と響きに任せる。その分弦を爪弾く指に神経を集中させる。
テンポは晶子のリズム感に任せる。これは歌が楽器の演奏を引っ張るようなタイプの曲だからな。

 晶子のヴォーカルが一旦終わる。俺のギター音が豊かな残響を残しては消えていく。
続く間奏では、晶子はウィスパリングを存分に聞かせてバックコーラスの部分を歌う。
アコースティックギター独特の音色と絡み合って、タイトルどおりファンタジックな雰囲気を演出する。
その最後で、俺が苦労して出来るようになったギターの胴を使った、ノックのようなリズム音を入れる。
 そして最初に戻る。ヴォーカルとギターだけのシンプルなフレーズが続く。
シンプルなものほど誤魔化しが効かないから難しいことがままある。今はヴォーカルとギターだけだから誤魔化しようがない。
その分神経が磨り減るが、やり甲斐があるのもまた事実。
変に力が入らないように注意しながら、最後へ着々と近付く晶子のヴォーカルを支える。
 晶子のヴォーカルが静かに盛り上がっていく。俺はその伸びのある声を聞きながらギターを爪弾く。
曲はクライマックスへ近付いてきている。割り込んで演奏したんだ。無様な真似は許されない。
 曲は流れを止めては再開することを繰り返して晶子のヴォーカルが消える。
残された俺はギターを一音一音ツブをはっきりさせるように心がけて徐々にテンポを落としていく。
そして晶子のハミングに合わせてストロークを聞かせる。音の響きが全て消えるまで、俺は態勢を保つ。
 一瞬の静寂の後、大きな拍手と歓声が沸き起こる。マスターと潤子さんが満面の笑顔で手を叩きながらステージに上がってくる。
俺は「飛び入り」が無事に終わったことを実感しつつ、晶子と顔を見合わせて笑みを浮かべあい、客席に向かって一礼する。拍手と歓声が最高潮に達する。

「いやあ、参りました。まさかこんな演奏を隠していたとは思いませんでした。私と潤子に気付かれないように、隠し隠し練習してきたんでしょう。
良い曲で改めて最後を締めてくれました。皆様、若き二人に大きな拍手を!」

 客席からの拍手や歓声は、マスターに言われなくてももうこれ以上ないというところまで音量が上がっている。
俺はギターのストラップから身体を抜いてギターを自分の前に立てる。よく働いてくれたもんだ。またしっかり手入れしてやらないとな・・・。

「では改めまして・・・、様々な曲で飾った年の暮れ迫るこの日に、皆様、ご唱和をお願いします。メリークリスマス!」
「「「「「メリークリスマス!!」」」」」

 マスターの呼びかけに応えての四人揃っての唱和に、客席から大きな唱和が津波となって被さってくる。
マイクがなくてもこの音量だ。客も腹の底から声を出しているんだろう。
唱和の後には大きな拍手と歓声が、これまた津波となって押し寄せてくる。お腹いっぱい声援を貰って、俺も満足だ。
 去年と同じくらい、否、去年以上に充実したコンサートになったと思う。
大勢詰め掛けた客に最高の演奏を披露出来たこと、そして最高の演奏が出来たことそのものが満足感と充実感になって俺の心を満たす。
今日まで苦労もあった。晶子との仲が崩壊の危機に瀕したこともあった。
でも、客からの大きな拍手や歓声で、それらが一気に吹き飛んだような気がする。
 良かった。今の気持ちを表現するのはこの一言で十分だろう。
鳴り止む気配を見せない拍手と収まる様子を見せない歓声が、その気持ちを祝福してくれているかのようだ。
このコンサートで演奏出来て良かった。このメンバーで演奏出来て良かった。
本当に・・・良かった。

 2日目は1日目以上の大盛況となった。
1日目の客に加え、彼らが誘ってきたらしい新顔の客が大勢詰め掛け、とうとう定員オーバーになってしまった。
やむなく1日目に来た客には出来るだけ帰ってもらうように言い、今日が初めての客を優先することになった。
開場前から寒風吹きすさぶ中行列を作って待ってるなんて想像もしなかったな・・・。
 コンサートが終わって客が全員引き上げた後は、恒例の後片付けが待っていた。飾り物を外し、テーブルと椅子を元に戻す。
コンサートで疲れた身体には堪えるが、こればっかりは避けて通れない。明日が月曜で休みなのは幸いだ。まあ、俺は補講があるから完全な休みじゃないんだが。
 片付けを終えた後は奥に入って、4人で大きなケーキを囲んで「乾杯」と相成った。
ケーキは潤子さんの手作りだということだが、とても手作りとは思えない出来栄えだった。更に美味いし。
高価なシャンパンも用意されていて、飲んで食べてしているうちにほろ酔い気分になってきた。
シャンパン如きでほろ酔いになるとは不覚。疲れていたのもあったんだろうが。
 これを予想してことだろうか、この日も泊まらせてもらうことになっていた。
ケーキを食べ尽くし、シャンパンをしこたま飲んだ後、俺、晶子の順で風呂に入って歯を磨き、ビールを飲んでいたマスターと潤子さんにお休みなさい、と
言って二階の部屋へ向かった。
あの二人はのんびり祝杯を上げるつもりなんだろう。ああいう夫婦が理想だな。
 二階に上がった俺と晶子は、それこそ倒れこむように布団に潜り込んで眠ってしまったらしい。その後の記憶が全くないからだ。
潤子さんに起こされた時、俺は晶子とくっついて寝ていたということだけははっきりしている。
晶子が部屋を移動して服を着替え、二人揃ってダイニングに下りる。
マスターが新聞を読んでいて、潤子さんは朝食をテーブルに並べていた。

「「おはようございます。」」
「おお、おはよう。ぐっすり寝られたか?」
「ええ、でも何だか頭がぼうっとしますけど・・・。」
「お酒が入ったからかもね。祐司君は補講があるんでしょ?ちゃんと食べていきなさいよ。」
「はい。」

 何だか実家に居るみたいだ。
俺と晶子が席に着くと、マスターは新聞を畳んで、潤子さんが席に着いたことで全員で唱和する。

「「「「いただきます。」」」」

 のんびりした朝食の時間が始まる。
普段ならギリギリまで布団に潜っていて、慌てて着替えてトーストとコーヒーを腹に詰め込んで駅へ、というパターンなんだが−火曜日の朝は晶子が
世話してくれるから心配要らない−、こうして大勢で食卓を囲むというのはなかなか良いもんだ。
 朝食のメニューはご飯に味噌汁、鮭の切り身を焼いたものに目玉焼き、そして味付け海苔、というものだ。
晶子も朝食で和食を出すことがあるが、やっぱり味噌汁の味が違う。
どちらが良いというものじゃないが、食べ慣れている分、晶子の方が舌に馴染んでいるかな。

「祐司君、補講は何時まであるの?」
「明日までです。」
「晶子ちゃんはないのよね?補講。」
「はい。もう講義は全部終わってます。」
「新京大学の理数系は厳しいとは聞いてるが、なかなか祐司君も大変だな。」
「まあ・・・。でも、そうだと分かってて入ったんですから仕方ないですよ。」
「学生は勉強が本業だとはいえ・・・御用納めギリギリまで補講とはな。まあ、今年もあと少しだから、身体に気をつけて頑張りなさい。」
「はい。」

 こうして声をかけてもらえるとほっとする。和やかな食卓の雰囲気のせいもあるんだろう。
今日の補講は午前中のみ。明日は2コマ目のみだ。その3つさえ乗り切れば今年の大学はおしまい、というわけだ。マスターの言葉じゃないが、頑張らないとな。

「晶子ちゃんは今日、どうするの?」
「迷惑でなければ、祐司さんが帰ってくるまで居させてくれませんか?」
「一向に構わないわよ。ねえ、あなた。」
「ああ、勿論だ。ゆっくりしていきなさい。」
「祐司君が帰ってくるんだから、昼食も4人分用意しておくわ。一緒に食べましょうね。」
「良いんですか?」
「勿論よ。言ったでしょ?此処は自分の家だと思って良い、って。」

 ちょっとしたことかもしれないが、凄く嬉しい言葉だ。普通のバイトじゃまず味わえない好待遇の連続だな。
帰ってきたら昼食が待っているんなんて、俺達を本当の子どものように扱ってくれているように思う。
 ・・・そう言えば夏に海に行った時、潤子さんが言ってたな。俺と晶子が自分の子どものように思える、って。
子どもを作らない約束があるから、余計に俺や晶子に自分の子どものイメージを重ねているのかもしれない。
 朝食を食べ終わった俺は、ご馳走様でした、といって席を立ち、洗面所で顔を洗って歯を磨いて櫛で髪を整えてから二階に上がり、コートを着てマフラーを巻き、
教科書とノートを入れた鞄を持って戻る。
壁の時計を見ると7時半過ぎ。自転車を使えば余裕で間に合う。
俺は靴を履いて行く準備を整える。そこに晶子が駆け寄って来る。何だ?

「それじゃ、行ってきます。」
「おう、行ってらっしゃい。」
「行ってらっしゃい。気をつけてね。」

 マスターと潤子さんの声が聞こえてくるが、晶子は俯いたまま何も言わない。それどころか頬を紅潮させている。・・・どうしたんだ?

「・・・行ってきます。」

 俺が改めて言うと、晶子の両手が伸びてきて俺の頬を挟んで・・・?!
一瞬の出来事だったが、晶子は確かに俺にキスをした。
俺は身体がじわじわと熱くなってくるのを感じつつ、何となく気まずいその場を取り繕うように、靴を履いた爪先で土間を何度か軽く蹴って、
ドアを開けて外へ出る。
 あれって・・・「行ってらっしゃいのキス」ってやつか?晶子には本当に時々驚かされる。
あ、でも今回のやつは晶子が思い立ったものじゃないかもしれない。マスターか潤子さん、或いは両方が唆したのかもしれない。
そう考えた方が良さそうだな。晶子、頬が赤かったし。多分、俺も赤いんだろうが。
 俺は自転車の籠に鞄を入れて自転車に跨り、ペダルを漕ぎ始める。外の空気は張り詰めているが、今はむしろ気持ち良いくらいだ。
やっぱり顔が赤くなってるんだろうな。鏡見てないから分からないけど。
 今年のコンサートも無事終わった。今日は晶子の家に泊まることになっている。一緒にケーキを買いに行く約束もしている。
昨日の夜マスターと潤子さんが二人でビールを飲んでいたように、俺と晶子の二人だけで、1日遅いクリスマスパーティーをするわけだ。
一応プレゼントも用意してある。まあ、大して高価なものじゃないが、念入りに選んだものだ。晶子ならきっと喜んでくれるだろう。
 俺は自転車で駅へ向かって走る。
身体の火照りが収まってきたのか、顔に吹き付ける風が冷たく感じる。冬らしいといえばそうなんだが、やはりちょっと辛い。
まあ、こうして朝大学へ向かうのもあと二日。明日までの辛抱だ。頑張っていこう・・・。

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