雨上がりの午後

Chapter 57 ある穏やかな春の日に−1−

written by Moonstone


 季節は流れ、肌を刺すような冷気も和らぎ、暖かい南風が草木の目覚めを即すように太陽から受け取った温もりを残して走り抜けていく。
人々は厚く重い冬の衣を脱ぎ捨て、目覚めの季節に相応しい厚みや色の衣を纏って心地良さそうに町を歩き、談笑する。
長く続いた厳しい冬も呆気なく過ぎ去り、温もり漂う季節がやってきた。

「気持ち良いですねー。」
「ああ。最高の陽気だな。」

 俺と晶子は、歩いて20分ほどのところにある公園にちょっとしたピクニックにやって来た。
無論、この公園は晶子が見つけたものだ。家からの行き先が大学かバイト先かコンビニか晶子の家くらいしかない俺には、到底見つけられやしない。
 そこは森林公園も含んだ広大な公園で、野球やサッカーが無理なく出来る程の広大なグラウンドや、子ども連れでも子どもが退屈しないように
きちんと遊具も揃っている。
おまけに芝生に包まれた、緩やかな傾斜の小高い丘や鯉や鮒が泳いでいる広い池まであったりする。至れり尽せりとはこのことか。
 縦縞シャツに黒のジャケットを羽織り、春物の紺のズボン−去年の大掃除の時に晶子が分かりやすく整理しておいてくれたから助かった−という
服装の俺と、若草色のブラウスに白のカーディガンを羽織り、淡いブルーのフレアスカートという服装の晶子は、大学とバイトの休みが重なる
今日この日にこの公園に来たわけだ。

 言い出しっぺは勿論晶子だ。
ピクニックだなんて行った覚えもない俺は、晶子から話を持ちかけられたときに思わず「ピクニックって何だ?」と口走ってしまった。
晶子は笑いながら、同時に行きたそうに弁当を持って草原とか見晴らしの良いところへ行くことですよ、と説明してくれた。
冬の寒さにほとほと参っていた俺は、最近穏やかな晴れの日が続いていることもあって、バイトの休みと大学の休みが重なる−大学の講義再開はまだだ−
今日この日にピクニックに行く約束をした。これが此処までの成り行きだ。
 今日は少し肌寒さが残ってはいるが、風も殆どない快晴だ。ジャケットも冬のようにしっかりチャックを閉めないで、袖だけ通して前は開け放っている。
晶子はいきなりブラウスにカーディガンという薄手の服装だが、寒くないんだろうか?

「晶子。寒くないか?その格好で。」
「ええ。今日はこれで涼しいくらいですよ。」

 晶子は笑顔で答える。この笑顔を見ていると、とてもやせ我慢をしているようには思えない。
俺は前を開けているとはいっても冬真っ盛りの時にきていたジャンパーだ。コートからいきなりカーディガンに「開花」した晶子が羨ましく思える。
何だか弱いところを見せてしまっているようで、俺は少々情けない気分になる。

「祐司さん。あそこへ行きましょうよ。」

 晶子がそう言って俺のジャンパーの袖をくいくいと引っ張る。
晶子が弁当の入ったバスケットを持った手で指差す方向には、芝生で包まれた小高い丘がある。
そこでは数人の子ども達がダンボールをそり代わりにして滑っている。何度も何度も駆け上がっては滑り、駆け上がっては滑る。大した運動量だ。
俺のように運動らしいことといえば、せいぜい家と駅との往復と、家からバイト先の往復、そして家から晶子の家
−月曜日のレッスンは今も続いている−の往復で自転車に乗るくらいだ。体力勝負をしたら無様な負け様を見せる羽目になるだろう。

「そうだな。あそこが一番座り心地良さそうだし。」
「ね?行きましょうよ。」
「おいおい、引っ張るなって。」

 晶子は俺の腕を取って丘へと走っていく。俺は前につんのめりながら晶子の後を追う。既に体力で晶子に負けてしまっているような気がしてならない。
・・・少し身体を鍛えたほうが良いな。バイトも体力勝負の面が大きいし。
 程なくして俺と晶子は丘の麓に到着した。近くで見ると意外に大きい。子ども達が悠々と遊べるのがよく分かる。
俺は晶子の手を取って丘を登る。ちらっと晶子の方を見ると、ちょっと驚いたような顔をするが、直ぐに心底嬉しそうな笑みに変わり、
俺の後をついてくる。
晶子の笑顔を見ていると、体の奥底から力がみなぎってくるように思う。
嘘じゃない。それだけ晶子の笑顔は俺にとって強力な、そして大切なものなんだ。改めてそう実感する。

 なだらかな斜面を登って、俺と晶子は頂上に辿り着く。
早速晶子は持って来たマットを広げる。俺は片側を持って静かに置く。丁度丘の頂上に色とりどりの雪がうっすらと降り積もった感じになる。
その上に靴を脱いだ俺と晶子が座る。
「お弁当タイム」の前に、春めいている周囲の風景を見回す。
 この町に来て二度目の、そして晶子と初めて迎える春は、春一番こそきつい一撃だったが、それ以降は殆ど荒れることなく心地良い陽気が続いている。
今日もこの陽気が日が暮れるまで続きそうだ。
ふと空を見上げてみると、澄んだ青の空が空一面を覆い尽くしている。それを見てゆっくり呼吸するだけでもリフレッシュできるような気がする。

「来て良かったですね。」
「ああ。本当にそう思う。」

 晶子も足を伸ばして空を見上げている。徐々に開き始めた花の香りが一足早く優しい微風に乗って運ばれてきたような気がする。

「お兄ちゃん達、何してんの?」

 不意に話し掛けられて俺と晶子ははっと我に帰って周囲を見回す。
何時の間にやら、ダンボールのそりを手に持った子ども達が俺と晶子を取り囲んでいる。

「空を見てたのよ。」
「空?」
「そう。雲一つない空を見て、雲があったらそれに乗って漂ってみたいなぁって思ってたのよ。」
「ふーん。お姉ちゃんって詩人みたいだなぁ。」

 子ども達は晶子の何気ない言葉に感心しているようだ。
子どもってのは「大人」が思う以上に感性に富んでいるからな。子どもこそ詩人である、っていう格言もあるかもしれない。

「お兄ちゃんって、お姉ちゃんの彼氏?」

 と思っていたら、いきなり話の矛先が色恋沙汰に変わって俺に向けられる。
最近の子どもはませてる、とは思わない。俺も小学生時分からあの子はあの子が好きなんだ、とかいう、それこそ色恋沙汰の話をしていたからな。
さて、どう答えたものか・・・。ちょっと照れくさいので、晶子の方を窺って見たりする。

「祐司さんはどうなんですか?」

 どういうかの判断は俺に委ねられた格好だ。・・・仕方ない。ここはひとつ、腹を括って言うしかないか。
しかし、子ども達相手に言うってのは、妙に緊張するなぁ・・・。目を輝かせてたりするし。
まあ、子ども達なら尚更この手の話が好きなんだろうが・・・こんなに見詰められるとちょっと照れるな・・・。

「・・・ああ、そのとおりだよ。俺は隣に居る女の人の彼氏。」
「へえー。お兄ちゃんって結構面食いなんだね。」
「こんな美人を彼女にするなんて、お兄ちゃんもなかなかやるじゃん。」

 面食いという言葉まで飛び出して、俺は子ども達から突っ込まれる。
大体こうなることは予想できたとはいえ・・・見たところ小学生で面食いはないだろ、面食いは。子ども達の遊び場の真中に入ったのが運の尽きだったな・・・。

「美人って、私のこと?」
「お姉ちゃん以外にいないじゃんか。」
「ふふっ、嬉しいなぁ。お世辞でもそう言われると。」
「お世辞なんかじゃないよ。お姉ちゃん、凄い美人じゃん。どうしてお兄ちゃんのことが好きになったの?」

 おいおい、そこまで聞くか?普通。・・・あ、別にこういう話は年齢に関係ないんだったな。
しかし、俺もそうだが、晶子もとんだハプニングに巻き込まれたもんだ。
今度は俺が晶子に答えを一存する番だ。さて、どう答えるんだろう?
晶子は下唇に人差し指を当てて少し考えると−そうされると俺に言うほどの魅力がないのか、と思ってしまう−、晶子は子ども同様に目を輝かせて口を開く。

「きっかけは私のお兄さんに似てたからなんだけどね、色々お話したり一緒に居たりするうちに、この人は私のお兄さんじゃなくって、
一人の男の人なんだ、それに何事にも真剣に取り組める人なんだ、って気付いてね、時間が流れていくうちに、それ以外の全部も好きになっちゃったの。
これで良いかしら?」

 晶子の言葉を受けて、子ども達の視線が一斉に俺に集中する。
そして、ニヤッと笑って−正月にマスターと潤子さんの家で飲み食いしていた時に、マスターが俺と晶子の「進展状況」を聞いてきたことを思い出す−
俺を彼方此方から肘で突っつく。

「お兄ちゃん、やるじゃーん。」
「こんな美人のお姉ちゃんにそこまで言わせるなんてさ。羨ましいなぁ。」
「俺もお兄ちゃんみたいに想われてみたいなぁ。」

 ・・・こいつらの言うこと、とても小学生とは思えない。贔屓目に見ても俺の小学生時代よりませてるぞ、絶対に。
俺は苦笑いしながら肘の突っつきを受けるしかない。晶子はそんな子ども達に向かって言う。

「ほらほら、お兄ちゃんを羨ましがったりしないの。僕達も好きな女の子が居るんじゃない?その子に好きだって言ってみたらどう?
もし両想いだったら、私と隣のお兄さんみたいに羨ましがられること間違いなしよ。」
「う、うーん・・・。そりゃ居るけどさぁ・・・。」
「え、何だ、お前。好きな子いたのかよ。誰だよ、それ。」
「そういうお前だって、5組の誰かさんを視線で追ってるじゃんか。」
「な、何の話だ、俺は知らないぞ。」
「なんだよ、その5組の誰かさんって。」
「俺、初めて聞いたぞ。その話。詳しく教えてくれよ。」
「実はな、こいつ・・・」
「お前、言ったら絶交だぞ!」

 今度は俺の周りで好きな子がいるかどうかとかいう話で盛り上がり始めた。
そういう話は何処か違う場所で思う存分やってくれ。兎に角五月蝿くてかなわん。
俺を包囲した状態でやられてるもんだから、前後左右から声が飛び交って、五月蝿いったらありゃしない。
そう思っていると、晶子が手を叩いて俺の上を飛び交っていた声を止めさせる。

「はいはいはい。みんなも人の前でそういう話をさせられるのって照れくさいでしょ?お兄ちゃんとお姉ちゃんも勿論照れくさかったのよ。
だから、あんまり聞かないで欲しいな。」
「・・・うん。分かった。」
「俺も。」
「僕も。」
「みんな良い子ね。そろそろお昼の時間だから、お家に戻ったらどう?」

 晶子が言うと、俺が見る限り全員が腕時計を見てはっとしたような表情を見せる。

「・・・あ、本当だ。もう昼過ぎてるじゃん。」
「そう言えば腹減ってきたよな。一旦帰ろうぜ。」
「おう。じゃあ、お兄ちゃん、お姉ちゃん、またね。」
「「またねー。」」
「ああ、またな。」
「気をつけて帰ってね。」

 子ども達は踵を返して緑の丘から俺と晶子に手を振って走り去っていく。実に執着がないというか、切り替えが早いというか・・・。
何にせよ、この難局を見事に乗り切れたのは晶子のお陰だ。全く大したもんだ。

「ありがとう、晶子。体良く退散させてくれて。」
「いいえ。祐司さんが困っていたから話を切り上げさせたんですよ。丁度お昼前ですし。」
「晶子って、かなり保母さんの素質あるんじゃないか?あれだけの数を相手に見事退散させたんだから。」
「そんなことないですよ。」

 晶子ははにかんで照れ笑いを浮かべる。初めて見るこの表情もやっぱり魅力的に映る。
それにしても・・・晶子が俺を好きになった過程がああだったとはな・・・。
俺が晶子の兄に似てるってのは確かにきっかけではあったが、それが好きになった理由じゃなかったのか・・・。
潤子さんの推測は見事に的中していたわけだ。俺を好きになった過程を晶子の口から聞いて、改めて晶子にすまないことをしたと思う。

「・・・すまなかったな、晶子。」
「え?何がですか?」
「最初のうち、俺が晶子の兄さんに似てるって言うから、てっきり俺に兄さんの面影を重ねてるのかって思ってたんだ。
だから余計に晶子を邪険に扱ったんだ。俺は晶子の兄さんじゃない、ってな・・・。」
「そう思われても仕方ないですよ。私が勝手に祐司さんに兄の面影を重ねてたんですから。・・・でも・・・。」

 晶子は俺の左手にそっと右手を重ねる。不意の柔らかくて温かい感触に、俺は胸を高鳴らせる。手を重ねたり繋いだりするのは初めてじゃないのに・・・。
それだけ初々しさが続いているということか?それとも単に俺が照れ屋なだけか?
優子、否、宮城とは余り手を繋がなかったしな・・・。手を重ねたり繋いだりすることに免疫がないのかもしれない。
 俺は晶子を見る。晶子は頬をほんのり桜色に染めて俺を見ている。
こうして見詰め合うと、俺の胸はさらに高鳴る。
微風を受けて木々が微かにざわめく。
それを合図にするかのように、晶子は俺を見詰めながら口を開く。

「今は違います。今は祐司さん、その人が好きなんです。祐司さんの・・・全てが・・・。」
「ありがとう。それで充分だよ。」

 晶子の嬉しい言葉に俺は礼と笑みを返す。気の利いた言葉を返せない俺が出来る精一杯の感謝の表現だ。
それに、智一にも以前言われたように、俺は不器用な人間だから、その場で思いついた美辞麗句を並べても晶子を喜ばせるどころか、
折角の良い雰囲気をぶち壊しにするだけだろう。
出来る範囲で出来る限りのことをする。それが俺には一番合っていると思う。
 晶子は嬉しそうな微笑を浮かべて俺の手を両手で包み込み、それを抱き締めるように自分の胸に持っていく。
手の柔らかさとはまた違う柔らかさと早めの鼓動が微かに伝わってくる。それを感じて俺の胸のドキドキ感は更に高まる。
晶子がそうしたとはいえ、晶子の胸に触るのはこれが初めてだ。俺は続ける言葉が見当たらないまま、ただ晶子のするがままに身と心を任せる。

・・・。

 さっきの子ども達より控えめながらも、俺と晶子を冷やかすような何度目かの草木のざわめきが起こった後、晶子はゆっくりと胸から俺の手を離す。
もう少しそのままで居て欲しいのに、などと不謹慎なことを思ってしまう。でも、男にとって女の胸の柔らかさは、ある意味神秘的なものだ。
 晶子と付き合い始めて3ヶ月くらい経つが、今までキスから先に進もうとは不思議と思わなかった。
関係が深まっていくにつれて、そうすることでしか関係を続けられなくなるのが怖かったという面もある。
宮城と遠距離恋愛をしていたときも、そういう関係を続けたかった面がなかったとは言い切れない。これも過去の教訓を生かしていると言えるだろうか?
 その代わりと言っちゃ何だが、キスは頬や唇にするのはもう当たり前みたいな感じで、二人の気持ちが高ぶった時は必ず舌を絡めあう濃厚なキスを交わす。
勿論、二人きりであることを確認してからすることだが。

「御免なさい。私だけ良い気分に浸ってて・・・。」
「否、良いよ。良い気分に浸ってたのは俺だって同じだから。」

 晶子は微笑みを俺に返して、バスケットを開いて弁当箱を取り出す。
おにぎりとたくあんが入った籠型のものと、おかずが入った重箱を一回り小さくしたような漆器の箱を取り出す。
ピクニックに必要不可欠(?)なお弁当タイムだ。

「はい、祐司さん。」
「ああ、ありがと。」

 俺は晶子が差し出したウェットティッシュを貰って、封を破って中身を取り出して手を拭く。
弁当を準備するところを見ていた俺だが−今日は朝早く晶子の住むマンションに出向いた−、こういうものもしっかり揃えているのは流石だ。
 晶子も俺に続いてウェットティッシュの封を破いて手を拭いて、持ってきたビニール袋にゴミを入れる。
俺も使い終わったウェットティッシュと破いた封をそのビニール袋の中に入れる。
これで食べる準備は整った。次はいよいよ晶子お手製の弁当を堪能する番だ。

「「いただきまーす。」」

 俺と晶子は偶然同時に食前の挨拶をする。それが妙におかしくて、俺と晶子は顔を見合わせて笑う。
その後、晶子が弁当箱の箱を開けて、持ってきた割り箸を手渡す。
今日の朝揚げたばかりのチキンカツをはじめとして、ミートボールや魚の照り焼き、ひじきと大豆の煮物や胡瓜とワカメの酢の物、
そして兎さん林檎など、バリエーション豊かなラインナップだ。

「美味そうだな。」
「腕によりをかけて作りましたから、遠慮なく食べてくださいね。」

 晶子の「案内」を受けて、早速俺はおにぎりを一つ掴んで口に運ぶ。
中に入っていた昆布の味を感じてそれを何度か咀嚼して飲み込んだ後、割り箸を割って、晶子がソースをかけたチキンカツを取って口に運ぶ。
サクサクした食感と溢れ出る肉汁がたまらない。俺は急いで噛んで飲み込んで晶子の方を向いて言う。

「美味い。こりゃお世辞抜きで美味いよ。」
「そうですか?良かった。」

 俺の言葉で緊張気味だった晶子の表情が一気にぱあっと明るくなって、晶子も割り箸を割って弁当を食べ始める。
晶子も俺に気兼ねなく食べれば良いのに・・・。もっとも、こういう適度に控えめなところが、晶子の魅力の一つでもあるんだよな。
その一方で思いの外積極的だったりするから−最初のキスもディープキスも晶子からだったしな−不思議なもんだ。
 俺と晶子は時折吹き抜ける微風を頬に感じながら弁当を食べていく。
俺も晶子もそれ程大食いというわけじゃないから、食べ物の奪い合いになったりすることはない。
もっともそんなことになったら洒落にならない。食べ物の恨みは恐ろしいって言うし・・・。
 それはそうとして、こうして穏やかな春の日和の中、相手と談笑しながら弁当を食べるっていうのもなかなか楽しいと思う。
最初はわざわざ弁当作って外に出なくても、と思ったりもしたが、こうして燦々と降り注ぐ春の日差しを浴びながら弁当を食べるところに
ピクニックの楽しさがあるんだろうな・・・。

「祐司さん。1年の単位取れましたか?」

 唐突且つ極めて現実的な晶子の質問に、俺は口に含んだおにぎりを丸呑みしそうになる。
胸を何度か叩いて気管に入りそうになったおにぎりを口に戻して、改めて何度か咀嚼した後飲み込んで晶子の方を向く。

「驚き・・・ました?」
「驚いたも何もいきなり何て質問するんだよ。びっくりしたじゃないか。」
「御免なさい。でも、祐司さん、バイトに大学にギターの練習があって忙しいから心配で・・・。」
「俺にしてみれば、バイトに大学に歌の練習に加えて自炊までしてる晶子の方が気がかりだよ。」
「私は全部取りましたよ、単位。」
「俺も全部取れたよ。専門教科がちょっと危なかったけどな。ノートきっちり取っといて良かったよ。」
「良かった・・・。」

 晶子は心底嬉しそうに微笑む。俺のことを気遣ってくれるのは勿論ありがたいけど、晶子ももっと自分のことを考えても良いと思うんだが。

「バイトやギターに夢中になって単位取り損ねて留年、なんてことになったら、親が黙ってないだろうからな。油断できない。」
「祐司さんのご両親って、厳しい方なんですか?」
「普通にやってる分には別になんとも言わないけどな。やるべきことをやってないと間違いなくどやされる。俺がこの町で一人暮らしするのも、
大学生活をきちんと過ごして、尚且つ生活費の一部自分で工面するって約束で許してもらえたんだからな。」
「・・・厳しいですね。私なんか、凄く恵まれると思います・・・。」
「親にあれこれ言われるのが嫌で、一人暮らしをしたいって言い出したんだのは他ならぬ俺自身だからな。親に対する意地みたいなものがあるんだよ。
言い出した以上はやってみせる、って感じでさ。」

 晶子は俺の話に聞き入っている。そんなに大層な話じゃないと思うんだが・・・。
それでも自分の話を聞いてもらえるってのはやっぱり嬉しい。
宮城と別れて暫くは、家に帰って悶々とした気分で一人、ギターの練習をしてたからな。
程なく晶子と出会って歌の指導を任された時はいい迷惑に思ったが、晶子が俺の言うことを真剣に聞いて、それに応えようと頑張り、
時に俺に質問を投げかけてくるのを見聞きして、人とコミュニケーションを取るのは悪くないと思ったもんだ。

「でも、一人暮らしをすることが決まった時、その・・・優子さんはどういう反応だったんですか?」

 優子の名を出されて俺の気分がちょっと陰る。
だけど、あれはもう終わったことだ。晶子に話しても良いだろう。否、むしろ聞いて欲しいとさえ思う。

「最初は驚かれた。次には泣かれたよ。どうして地元から通わないのかって・・・。朝早くなるけど何とか通えないこともない距離だからな。
だけどさっきも言ったように親にあれこれ言われるのが嫌だったし、一人暮らしの方が宮城を誘いやすいっていう思惑と毎日電話するってことを話したら、
どうにか納得してくれたよ。」
「親元に居たんじゃ、女の人を簡単に呼べませんものね。」
「まあ、そんなところ。」

 俺は苦笑いする。でも、実際晶子の言うとおりだったりするんだよな。
・・・そう言えば、晶子はどういう経緯で親元を離れることになったんだろう?
セキュリティがちがちのマンションに住んでるところからして、やっぱり心配なんだろうし、何より俺に付き纏うきっかけといえる、
俺がそっくりだという兄さんの元を離れたくなかったんじゃないんだろうか?

「晶子もさ、親元を離れるのに苦労したんじゃないのか?両親は勿論、俺がそっくりだっていう兄さんの元を離れるのは辛かったんじゃないか?」

 晶子は少し沈んだ表情になって視線を下の方に落す。
・・・やっぱり辛かったのかな。言わなきゃ良かったと思ってももう遅い。晶子の反応を見守るしかない。
沈黙の時間が少し流れ、晶子は再び顔を上げる。

「私は実家から遠いんで、親はすんなり納得してくれました。まあ、身の安全を第一に、てことで今住んでるマンションに住むことになったんですけどね。
兄のことは・・・確かに辛かったですけど、今の大学を受けたこと自体、兄への依存を断ちたかった面がありますから・・・。」

 成る程・・・。晶子にとっては一大決心だったんだな。そんなに妹に慕われる兄さんってのも罪な、もとい、羨ましい人だ。
俺なんか、弟が一人居るけど喧嘩してばっかりだったっけ。あいつ、口煩い親に囲まれてさぞかし息苦しい思いをしてるに違いない。

「どうしたんですか?」
「いや、晶子の話を聞いてて弟のことを思い出してさ。」
「弟さんがいらっしゃるんですか?」
「ああ。今、高校2年生。俺とよく似てがさつで荒っぽい。だからしょっちゅう喧嘩してた。」
「でも、そういうのって、いざ離れてみると懐かしいって思いません?」
「・・・そうだな。」

 俺は笑みを浮かべて空を見上げる。蒼穹には相変わらず翳り一つ見当たらない。その高くて広い青空に弟や両親の顔を思い浮かべる。
すると、騒々しくて少し煩わしかったつい1年程前までの日常が、急に懐かしく思い出される。晶子の言ったとおりだ。
 両親と弟に続いて宮城の顔が青空に浮かぶ。
晶子と初詣へ行こうとしたときに出くわして以来、宮城からの接触はない。
結局のところ、この町に来たのも、俺を晶子から奪うと宣言したのも、自分の心変わりを隠す為の方便に過ぎなかったんだろう。
そうでなきゃ、あの夜の電話口で俺の気持ちを試すために別れを仄めかしたというその後で、俺の家に電話をかけて真意を説明しただろうし、
そもそも俺の気持ちを試そうとは思わない筈だ。約3年続いた仲だ。俺の性格を知らない筈がない。

「あれから・・・優子さんから電話とかありました?」
「・・・俺の心を読めるのか?晶子は・・・。」
「表情で大体分かりますよ。あ、今優子さんのこと考えてるな、って。」
「・・・電話も何もない。初詣に行く時に出くわしたのは俺をからかいに来たか、俺に新しい彼女が出来てたら自分が前の彼女だ、って言って
揺さぶりをかけるつもりだったか・・・大方その程度のことだったんだろうと思う。」
「私がこんなこと言うのも変ですけど・・・そんなことするくらいなら、祐司さんと別れたくなった理由をきちんと話せばまだ良かったと思うんですけどね。」
「俺もそう思う。結局は晶子もあの時聞いたと思うけど、俺の代わりに選んだっていう同じバイト先の男と一緒になりたくて、
けどいきなり俺から乗り換えると失敗した時に自分の気持ちの行き場所がないから、猶予期間として俺をキープしておこうと思った。
それが本当のところじゃないかな、って思うんだ。」

 そもそも人の気持ちを確かめる為に別れ話を切り出すってのも変な話だ。今にして思えば随分こじつけっぽい。
まあ、それだけ第三者的に自分の身に降りかかったことを見れるほど心の余裕が出来たということだろう。
あの電話の後は優子に捨てられた、ってことしか頭になくて、同じ「女」の晶子に荒っぽい態度を見せたくらいだしな。

「でも・・・良かったですね。」
「何が?」
「祐司さんが自分の中で気持ちの整理が出来て。」
「・・・ん。前に晶子が言ったけど、時間がそれなりに解決してくれるもんだな。あの直後はとてもそこまで考える余裕がなかったから・・・。」
「なくても無理ないですよ。逆にそこまで考えられたら凄いっていうか、怖いです。自分っていう人間が動くのを別のところから別の自分が観察してるみたいで。」
「ははは。確かに怖いよな、それは。あはははは。」

 相変わらず雲一つない青空を見上げながら俺は笑う。心に残っていた暗雲を吹き飛ばすような、気持ち良い笑いだ。
それにつられるように晶子もくすくすと笑う。
忘れたい過去を抱え込んで苦しむより、笑い飛ばしたほうが良い。

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