雨上がりの午後

Chapter 43 聖夜明けの夫婦ごっこ

written by Moonstone


 翌朝、俺は晶子のベッドの上で目を覚ました。あれから暫くして風呂に入って寝たんだっけ・・・。
別に・・・その、疚しいことはしてない。まあ、晶子がこれなら狭くないでしょ、と言って俺の肩口を枕にして、よりリアルになった弾力と柔らかさに
身体が芯から火照った覚えはあるが。
 俺の隣には晶子がやや俺に乗りかかるように寝息を立てている。
脇の辺りにはっきりとした輪郭を備えた柔らかさがどうしても気になってしまう。
俺が少し身体を動かしても起きる気配がない。やっぱり昨日一昨日で相当疲れたんだろうな・・・。
まあ、今日は俺も大学は休みだし、店のバイトも休みの日だ。ただこの温もりに浸り続けるっていうのも悪くない。
12月に入ってから走り続けたような日々だったし、此処らで一休み、というところか。

 ・・・しかし、こうやって晶子の家で時間を過ごして、朝を迎えるのが自分の中で本当に全く違和感を感じなくなってる。
しょっちゅう出入りしてるのもあるだろうが、何より自分以外の誰かが居る、というのが大きいんだろう。
こっちに来て一人暮らしをするようになってから、電話も滅多に鳴らない−鳴るとすれば実家からか優子からか訳の分からん勧誘だ−、
尋ねてくる奴も居ない、そんな孤独感に満足していた。誰にも干渉されないことに。
 だが、一方で満足している筈の孤独感に寂しさを感じなかったわけじゃない。
進学先は違っても二人の絆は永遠だよね、とか言っていた−その絆とやらはあっさりと切れちまったが−優子との電話は欠かさなかった。
そして半月か一月に一度俺に会いに来るのが楽しみだった。
孤独を楽しむ一方で誰かと絆を保って居たい・・・。そんな矛盾する感情があったように思う。
 切れた絆はもうどうしようもない。俺にだってプライドがあるし、優子によりを戻したいなんて言うつもりはさらさらない。
その代わり、新しい絆を一つ手に入れた。
最初は少し強引に決められた演奏のペア兼歌の指導に始まり、何度か出入りするうちに紅茶を飲んだり食事をご馳走になったりするようになって、
自分の家と同じようにくつろいだり、御一泊するようになった。

そして・・・昨日の夜、晶子との初めてのキスをした・・・。

 俺は指先で自分の唇に触れる。
1回目、晶子が目を閉じてと言ってしたプレゼントを兼ねたキスもそうだが、2回目の互いを求め合うような−何か含みのある言い回しだな−
キスの方がより鮮明な感触を思い起こさせる。
 高校時代、優子とはそれこそ数え切れないくらいキスをした。
本当の意味でのファーストキスは何度目かのデートで公園の大樹の陰に隠れてした。
それ以来、デートでは勿論、学校でも人目を避けてキスをするようになった。
愛情の確認もあるが、人目を避けるというスリルと緊張感を味わうためでもあったと思う。
 あの時は付き合い始めて直ぐに噂が広まり−何せ優子が告白するとき女友達を何人か伴っていたから−、ことある毎にキスをしたかどうか
からかい半分で聞かれたものだ。
ある程度時間が過ぎると、キスは済ませたことが前提になるようになった。確かにその頃にはもうキスは何度かしてたが、まさかそんなことは言えない。
尾鰭が体中を覆った噂が飛び交うのは必至だ。

 今は・・・俺と晶子が付き合っているということは智一しか知らない。
まあ、智一のことだから面白半分に同じ学科の奴等や知り合いが居るという文学部にまで噂を広めるかもしれない。
誰かから俺と晶子が付き合ってるのかどうかを聞かれたら如何するか・・・。俺の心はもう決まっている。事実を淡々と告げるだけだ。
 左肩の辺りでもぞもぞと動く感触が伝わってくる。
晶子が寝返りをうとうとしているのかと思ったら、晶子がゆっくりと目を開ける。そして俺の顔を見る。
まだ少し寝ぼけているような様子だ。

「・・・おはようございます。起こしちゃいましたか?」
「いや、少し前に珍しく勝手に目が覚めたよ。」
「昨日目覚ましかけるの忘れちゃって・・・御免なさい。今から朝御飯作りますから。」
「謝らなくて良いって。今日は大学もバイトも休みなんだし、慌てることないだろ?」
「・・・そうですね。じゃあ、もうちょっと。」

 晶子は肘をついて起き上がろうとしていたのを、肘を崩して再び俺の左肩辺りを枕にする。今度はより俺の顔に近い位置に頭がある。
シャンプーの甘酸っぱい香りが俺を誘うように鼻いっぱいに広がる。
そしてさらに身体を俺に寄せてくる。それまで考え事をしていた意識が一瞬にしてその女独特の感触を感じる場所に集中する。
どうやら俺は寝させてもらえないらしい。こんな状況で二度寝出来るほど、俺はまだ人間が出来てないんだが・・・。
 出来るだけその感触がする方に意識を向けないようにしようとするが、左肩−否、左半身というべきか−を完璧に押さえ込まれているから、
せいぜい天井と右側の壁と左側の部屋の一部くらいしか見えない。
はて、これから如何したものか・・・。晶子が起きるまで寝たふりでもしてるか?それともこの際、晶子を抱きしめてしまうか?
 後者の考えが浮かぶと同時に急速に欲望の吐息で膨らんでくる。
右腕は完全に自由だし、左腕もそれなりに動かせる。抱き締めるのは意外に容易い状態だ。
・・・そう考えているうちにも俺の両腕が晶子の身体を抱き締めようと注意深く動く。寝ている今がチャンスだ・・・。

「あ、そうだ。買い物に行かなくちゃ。」

 突然晶子が顔を上げて上半身を起こす。かなりの距離まで晶子に接近していた両腕を慌てて元の位置に戻す。
両手を俺の脇の横につけて起きた晶子の胸元・・・否、この位置と角度からだと胸そのものがちらちらと見える。
頼むからこれ以上俺の間近で「刺激物」をちらつかせるのは止めてくれ。
晶子の顔だけを見ることでどうにか「刺激物」をやり過ごして、俺は尋ねる。

「買い物?」
「ええ、野菜とか肉とかかなり減ってるんで、そろそろ行かないとまずいかなって・・・。」
「俺がちょくちょく来るようになったからか?」
「それはあると思いますよ。1人分より2人分の方が材料をいっぱい使って当たり前ですから。」

 毎週月曜日は此処で練習を終えてから夕食を食べるのが「何時ものこと」になってしまってるし、
それ以外でも最近此処で食事をする機会が結構多くなっている。
もう一人分余分に材料を消費している俺は悪いことをしてるなと思う。

「俺が何だかんだで此処で夕食やら朝食やら食べてってるからな・・・。」
「祐司さんは気にしなくて良いですよ。それは私が望んでることでもあるんですから。」
「・・・望んでること?」
「一人のときは自分のためって意識がどうしても強くなって面倒に思いがちなんですけど、二人分になると、相手の人に美味しいものを
食べてもらいたいって思いますからね。その違いは大きいですよ。」
「そんなものか・・・。」
「ええ。だから一緒に食事してくれる祐司さんには、私が感謝したいくらいですよ。」
「感謝なんて・・・俺がしたいくらいだよ。何なら一緒に行こうか?買い物。」
「良いんですか?」
「この女性専用のマンションで男一人留守番ってのも何だし、荷物持ちくらいには使えるぞ?」

 晶子は少し考えて笑みを浮かべる。

「じゃあ、一緒に行って貰えます?」
「ああ。」
「それじゃ、早く朝御飯の支度しなきゃ。出来たら呼びますから少しの間待っててくださいね。」

 俺が一緒に行くのが余程嬉しいのか、晶子はばっと跳ね起きてベッドの下にあった半纏を羽織り、暖房のスイッチを入れてリビングを出て行く。
一緒に買い物に行くのは・・・確か初めてだよな。買い物で出くわしたことはあるけど・・・。
 元を辿れば、その買い物で出くわしたということが、晶子との出会いだったんだよな。
あの頃は同じバイトをしたり、ましてやマンションに出向いて一緒に食事したりさらには寝泊りするようになるなんて・・・思いもしなかった。
不思議な縁というか・・・。
否、縁なんてこんなものなのかもしれない。
ただ、それがさらに発展するか、袖の触れ合いで終わるのかのどちらかだけなのかもしれない。

 朝食と晶子の着替えが済んで−流石にこのときばかりは閉め出された−俺と晶子は買い物に出掛けるべくマンションの出入り口へ向かう。
俺の服装は当然昨日と変わらないが、晶子はスカートじゃなく黒のズボンだ。
バイトのときはどちらかというとズボンの方が多いが、プライベートで見ると新鮮に映る。
揃って出入り口から外に出て晶子が自転車置き場へ向かう。
俺の自転車には籠がついてないから−籠が必要なほど買出しに行ったりしない−今回は晶子の自転車で買い物へ向かう。
無論運転するのは俺だが、晶子の自転車で二人乗りできるか?やったことないから、ちと不安がある。
 晶子が自転車を押して戻って来る。
晶子のは今主流(?)の所謂ママチャリというやつだ。前面に大きめの籠があって、後ろには荷台がある。
ハンドルは俺のより幅広でちょっと乗りにくそうな印象がある。

「じゃあ、行きましょうよ。」

 今日は冷え込みが厳しいせいか、白い息が煙のように舞う。
暖房に慣れきった俺の身体にはコートとセーターを着ていても寒さが染み込んでくる。
晶子は対照的に元気だ。寒いのには慣れてるのか?

「寒いのは平気なのか?」
「これくらいの時間に買出しに出るのは毎週のことですし、普段バイトから帰ってくるときも結構寒いでしょ?
それよりちょっと寒いかな、って程度ですよ。」
「単に俺が寒がりなだけか・・・。」
「さ、行きましょうよ。開店の時間が近いですし。」
「開店時間に行くと良いことあるのか?」
「特にないですけど、習慣みたいなものです。」

 習慣で開店時間を目指すのか・・・。俺の一人のときの食生活は24時間年中無休のコンビニ任せだから、そんなこと思いもよらない。
兎に角その開店時間とやらに間に合わせるべく、俺が自転車のサドルに跨り、晶子がその後ろの荷台に座る。
ペダルを漕ぎ出してみるが、慣れてないせいかやっぱりちょっとフラフラする。
それでもマンションに面した道路に出る頃にはどうにか安定感を保てるようになった。

「道案内頼むぞ。行ったことないから。」
「それなら任せてください。じゃあまず右に進んで最初の交差点をそのまま真っ直ぐ行ってください。」

 晶子の道案内に従ってペダルを漕ぎ出す。俺が目にしたことがない景色に足を踏み入れる。
この先に何があるんだろう?と考えるとちょっとわくわくしたりする。
そもそも此処に住むようになって食料品をコンビニ以外で買うのは初めてだし、道路の先には何があるのか気になる。・・・子どもみたいだな。
 途中緩やかに続く長い上り坂があって、自動車1台が通れる程度の小道を抜けて、車が行き交う大通りに出てそれに沿って暫く進むと、
大きな、でも高さはそれ程でもない建物が見えてくる。

「正面に見えるあの建物がそうですよ。」

 此処まで道案内してくれた晶子が言う。此処まで来れば幾ら初めてでも簡単に行ける。
途中交差点と車の入り口と出口があったがその辺は珍しいことじゃないから慌てずに対処して、丁度自転車置き場の前に辿り着いた。

「他にも色々行き方はあるんですけど、この自転車置き場の前に来るのは案内したこの道なんですよ。」
「ふーん。結構出歩いてるんだな。」
「いえ、途中で道に迷って偶然辿り着いたり、この道行ってみよう、って思って走ったら此処に出た、とかそういうのの積み重ねですよ。」
「ある程度出歩かないと、近くのコンビニと書店くらいしか知らない俺みたいになるのは当たり前か。」
「これで一つ覚えられたでしょ?」
「まあ、何とかな。」

 途中見かけた駐車場とは対照的に割と閑散としている自転車置き場の一角に自転車を止めて、晶子、俺の順で自転車を降りる。
自転車置き場の横に丁度出入り口がある。
こういうまともなスーパーに出入りした記憶がない俺はちょっと躊躇ってしまうが、晶子は俺の手を取って軽く引っ張る。

「さ、行きましょうよ。」
「分かった、分かった。」

 俺は晶子に引っ張られるように店へ向かう。
時計を見ると、開店してからそれ程時間は経っていない。だが、その割には店内をうろつく人の数は多い。
開店時間を狙ってくる客は結構多いのか?その辺の理屈は俺には分からない。
 店の中はやはり横に広くて縦には低いようだ。
入り口にあった案内を見ると商品の売り場は1階に集中していて、2階は駐車場、地下は酒類の販売所と駐車場になっている。
前に晶子に連れられていったCDショップもこんな感じだったな。
そりゃ車社会といわれる昨今だが、駐車場を無闇に増やすと車社会を助長するだけのような気がするんだが。
 晶子は1つ籠を取る。冷蔵庫の中身が結構少なくなっているとか言ってたのに1つで間に合うんだろうか?
そう思った俺は念のためもう一つ籠を手にとる。晶子は売り場に向かおうとしたところで俺が籠を取ったのを見て首を傾げる。

「何でもう一つ籠持つんですか?」
「だって結構冷蔵庫の中身が減ってるって言ってたじゃないか。1つじゃ足りないかな、と思ってさ。」
「確かにそうかも・・・。じゃあ、お願いできます?」
「ああ。」
「それじゃ行きましょ。」

 俺と晶子は並んで籠を持って売り場に踏み出す。
最初に目に入るのはバケツ売りか棚に並べた果物だ。今時期は蜜柑と林檎が多く目に入る。
どういうわけか西瓜なんて季節外れのものもあったりするが。
晶子はバケツ売りの蜜柑を品定めしている。その中の一つを手にとって見るその目は真剣だ。選ぶ目はかなりシビアらしい。
・・・男を選ぶ目はシビアなのかどうかは、ちょっと分からんが。
 ようやく晶子はずらりと並ぶバケツの蜜柑の中からひと包みを選び出す。
奥の方でちょっと取り辛そうなので、俺は駆け寄って代わりに取り出してやる。

「あ、御免なさい。手をかけさせちゃって・・・。」
「二人で来たんだから、必要なら使ってやってくれれば良いからさ。」

 俺は袋の紐を中身が零れ出ない程度に軽く縛って自分の籠に入れる。早速自分の持ってきた籠が役に立った格好だ。

「次は何所行くんだ?」
「えっと・・・野菜売り場です。」

 晶子が姿勢を直して俺の横に立ってゆっくり歩いていく。
一緒に行こうと言いたいところだが、勝手を知らない俺は晶子についていくしかない。大体この店自体、やたらと広く感じる。
晶子は人参やらピーマン、シイタケ、葱といったものを品定めして自分の籠に入れていく。俺はその横で見て回るくらいしかできない。
俺から見てそれらはせいぜい炒め物に使うくらいしか想像が出来ない。それが晶子の手にかかると色々な料理に化けるから不思議なもんだ。

「次はこっちです。」

 晶子に案内された先は魚介類のコーナーだ。
切り身が並んでいる他に、少し奥の方では1匹丸ごと並べられている。大きい魚もあって結構な迫力だ。

「今日は刺身にしようと思うんですよ。それで・・・。」
「刺身かぁ・・・。此処に来てから食べた覚えがないな。コンビにでも買わないし。」
「何時もは一人分で良いから大抵切り身で済ますんですけど、今日はちょっと張り込もうかな、と思って・・・。」
「張り込むって?」
「自分で魚を捌いて刺身にするんですよ。」

 俺は耳を疑う。この前聞いたラジオ番組で女を対象にしたアンケートがあって、魚は触れないって答えが圧倒的に多かったぞ。
何でも目玉が怖いだの、ぬめっとした感触が嫌だの、それを捌いて切り身になったものを食べているくせにえらく勝手なことを言うなぁ、と思ったものだ。
だが、晶子は確かに切り身のコーナーを通り過ぎて魚そのものが並ぶスペースでうんと考え込んでいる。
一番でかいのはメジマグロと書いてある。マグロまであるのかよ・・・。
鯵も開きになったものよりかなり大きく見える。こんなところに自分が立っているのが不思議でならない。
 それにしても、晶子が魚を捌けるとはなぁ・・・。
あのマグロや近くに並んでいるハマチをバラバラにしていく様子を想像すると・・・ちょっと怖い。
やっぱり母親から教わったんだろうか?飲食店をしている俺の母親からは何一つ教えられなかったな。
・・・母さんもそう言えば切り身しか使ってなかったような覚えがある。

「おや、奥さん。どうしました?」

 店の奥にある厨房から−魚を捌く専用の場所だ−人が出てきて声をかける。
奥さんって・・・この一角には俺と晶子以外居ないぞ。
・・・てことはじゃあ・・・奥さんてのは晶子のことか?!

「あ、えっと、今日お刺身しようと思うんですけど、どの魚がお勧めですか?」

 晶子は「奥さん」と呼ばれたことには少しも動揺せず、店員に幾つか魚を勧められている。・・・ちょっとは動揺しろよ。
少しして晶子が俺を呼ぶ。何かと思って晶子の傍に行くと、店員が話し掛けてくる。

「奥さんの方はハマチと鰈(カレイ)にしようと思ってるそうだけど、ご主人の好みに合わせたいって言うから。」
「あの・・・ご主人って、俺のこと?」
「そうですよ。だって奥さんに呼ばれて来たじゃないですか。」

 ・・・俺はただ晶子に呼ばれたから来ただけなんだが・・・。
ま、まあ今は魚のことに頭を移そう。

「俺は・・・魚では特に好き嫌いないから。」
「じゃあハマチと鰈を1匹ずつでよろしいですか?奥さん。」
「ええ。お願いします。」
「はい、じゃあちょっとお待ちくださいね。」

 店員はハマチと鰈から品定めをして1匹ずつ取り出して包装する。
鰈は大きめの団扇に見える大きさで、ハマチも結構なでかさだ。
こんなの本当に晶子は捌くというのか?
 店員はレジスターに似た機械のボタンを押して、出てきたバーコードと数字が書かれたシールを包装されたハマチと鰈それぞれに貼り付ける。
そしてそれらの魚は晶子の方ではなく、俺の方に回ってきた。・・・多分重いから「ご主人」の俺が持つべきだと思ってるんだろう。

「じゃあ、ご主人に品物をお渡ししときますね。」

 冗談なのか本気なのか知らないが、この店員、俺と晶子を夫婦だと認識してる。
ありがとうございました、の声に送られて俺と晶子は魚売り場を後にする。
 そのまま牛類が並ぶ通りを歩いていくが、晶子は何所か嬉しそうにしている。
籠を前にぶら下げて歩き方も何となく弾んでいるように見える。「奥さん」って言われたことがそんなに嬉しいのか?

「・・・あのさ、晶子。」
「はい?」
「さっきさ、その、何で・・・。」
「奥さん、って呼ばれて嬉しかったです。そう見えるのかなって。」

 晶子は笑顔で俺の方を向く。心の底から嬉しそうだ。
本物の夫婦じゃないだろ、と言おうとも思うが、晶子の笑顔を見ているとそう言うのが憚られるような気がする。
かく言う俺も晶子の夫と思われて悪い気はしない。
買い物で夫婦ごっこか・・・。何だかこれも既成事実の積み重ねになりそうな気もするが、今日はこのままで行くか。

 牛肉類のコーナーは通り過ぎて豚や鶏肉のコーナーに入る。
晶子は此処で足を止めていろいろ品物を見て回る。
そう言えば晶子の作った食事で牛肉は焼肉くらいしか出てこなかったな。あまり好きじゃないのか?
 少しして晶子は豚肉の薄切りとササミと胸肉を幾つか自分の籠に入れる。結構重たくなった様子だ。
俺は晶子の籠からさっき晶子が入れた肉類を自分の籠に移す。

「祐司さん。それは別に重くないですから・・・。」
「結構たわんでたぞ、籠の取っ手が。重たそうなのは俺の方に入れていって良いから。」
「ありがとう。じゃあ、そうしますね。」

 晶子は済まなさそうな顔から一転して嬉しそうに微笑む。
俺は何処かの馬鹿なフェミニストみたいに、男は常に女を楽させるべきだ、とは思わないが、特別な相手なら話は別だ。言われなくてもそうしたくなる。
女が楽をしたいなら男にそう思わせれば良い。それだけの話だ。
 晶子は飲料関係やヨーグルトなんかが並んでいるコーナーに入って、大きめのヨーグルトを籠に入れてそのまま一直線にレジへ向かう。
もう買うものは揃ったようだ。
 レジは時間が早い割に割と混んでいて、端の方にある比較的空いているレジへ向かう。
丁度一人の清算が済んだところだ。俺と晶子はそのレジに向かい、二つの籠を置く。
 清算が始まり、新しく出された籠の中に商品が詰め込まれていく。
俺と晶子が出した籠に対して出された籠は一つ。如何収めるつもりなんだ?
俺が怪訝に思いながら見ていると、野菜やら細かい(小さい)商品を隅のほうに寄せて、大きめのスペースを開けておいてそこに蜜柑の袋を詰める。
そしてその上にハマチと鰈をでん、と置く。・・・なるほど。これなら一つで収まる。
 精算額はハマチと鰈が効いたのか、結構な金額になった。
俺も半分くらい出そうと思ったが、晶子がそれを制止する。

「私が買って料理するものだから良いですよ。」

 晶子が財布から札と小銭を出して、つり銭を受け取ってレジを通り抜ける。
俺は荷物いっぱいの籠を持ってその先にある仕分け場(?)に向かう。
どかっと籠を置くと、荷物の上に置かれた袋を晶子が取って仕分けを始める。
流石に慣れているせいか、段取りが良い。
上に鎮座しているハマチと鰈を大きめの袋に入れて、その他の商品は形が崩れにくいものから順順に袋に詰めていく。俺の出る幕は全くない。
 出来た袋は2つ。魚が入った袋をそれ以外のものが入った袋だ。
俺が両方持つ。籠を持ったくらいだから袋を持ってもおかしくない。

「重くないですか?」
「まあ、これくらいなら。それよりこれ、どうやって持って帰るんだ?」
「野菜とかが入ってる方は籠に入れてください。魚が入っている方は私が持っていきますから。」
「危なくないか?」
「しっかり片手で捕まってますから大丈夫ですよ。」

 晶子はそう言って俺の腕に自分の腕を回す。予行演習ってところか?
周囲からは絶対同居中のカップルか夫婦としか思われてないだろう。これもまた既成事実として積み上げられていくような気がしてならない。
 自転車置き場に戻ると、周囲の自転車は降りたときと大して代わりがない。
車は頻繁に出入りしているが、この近くの人でも自転車で来る人は少ないようだ。
自転車の方が手っ取り早くて便利なのに。詰める荷物の限界を除けば、の話だが。
 俺は野菜とかが入った袋を前の籠に入れる。晶子は俺の左手にぶら下がっていた袋を取る。
俺が自転車に跨ってスタンドを上げると晶子が荷台に座って俺の腰に腕を回す。多分魚が入った袋はもう一方の手に抱えられているんだろう。

「じゃあ、行くぞ。準備良いか?」
「はい。良いですよ。」

 俺は自転車のペダルを漕ぎ出す。行きより荷物が増えたせいか、ちょっとペダルが重く感じる。
まあ、殆ど平坦な道程だし、あの長い登り坂も今度は下り坂になるし、相変わらず出入りの激しい車に注意すれば大丈夫だろう。
 冬も本格的になって肌に感じる冷気も厳しさを増している。
手袋やコートを通してもその冷気は肌に伝わり、身体に染み透ってくる。だが、後ろが温かいのが有り難い。
これは一人で居た時にはなかったことだ。ここでも一人と二人の違いを感じる・・・。
 今日は夕食後に自分の家に帰るつもりだが−放り出しておくのは物騒だし、服や下着も替えたいからだ−、
何だか帰るのが惜しいというか・・・自分の家に「戻る」という感覚があまりしない。
自分の家から実家に帰るというのと同じ気分だ。
仮にこのまま晶子の家に住み続ければ・・・同居という既成事実がまだ一つ積み重なってしまうことになるな、きっと。

 俺は男だからか、此処に移り住むときにも親から火の元の確認や鍵のことくらいしか注意されなかった。
まあ、大学生だし自分のことは自分でどうにかするだろう、と踏んでいたんだろう。
実際、食事はコンビニと店での潤子さんや晶子の手作りの食事で間に合ってるし、洗濯物も一人だからそれ程出るわけじゃない。
掃除は・・・理由がない限りしない。あれだけはどうしても苦手だ。どうせ少しすればまた汚れることを考えると掃除なんてする気になれない。
 前に電話があった時は「彼女とはどうなの?」と聞かれた。
その時は優子と切れて晶子の「ストーカー攻撃」に晒されていた頃だったから、もう終わった、と語気を強くして答えた。
元々母親の方は優子を快く思ってなかった節があったし、ある意味問題解決、と思ったものだ。
 だがそれから時が流れ、今は後ろに新しい彼女を乗せて買い物帰りだったりする。それも彼女の家に一泊して。
たった2ヶ月でこうも自分の周りが変化するものなんだろうか?
そう思うと1年や2年が早く感じるのも当たり前に思える。

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