雨上がりの午後

Chapter 37 ひたひたと迫り来る決断の時

written by Moonstone


 紅茶を飲み終えて少しくつろいだ後で、俺と晶子は再びコートを羽織って外に出る。
晶子が管理人に頼んでドアを開けてもらい、俺は一足先に自転車置き場へ向かう。
一応街灯はあるが、この暗い中チェーンロックを手探りで外すのはちょっと難しい。
チェーンロックを外して自転車を正面入り口前まで押していくと、外に出た晶子が何かを期待するような顔で待っていた。
期待していることは分かってる。俺が言うより先に、晶子は自転車の荷台にそそくさと横座りする。・・・素早い。
 俺は小さい溜息を吐くと自転車に跨る。それを待っていたかのように晶子の両腕が俺の腰に回る。そして背中に何かが密着してくる。
・・・何時もと同じだ。俺は何も言わずに自転車を漕ぎ出す。
夜間だから早速灯火するが、その分ペダルが重くなるのが難点だ。俺の自転車には電動なんて洒落たものはついてない。

 晶子の家から俺の家までは、多少の起伏はあるが全体的にはやや下り坂だ。割と楽に進める。
何時もは歩く道程を自転車で走ると異様に早く感じる。あっという間に俺の家があるアパートが見えてきた。
スピードを緩めてアパートの前で自転車を止める。
晶子も心得たもので、此処で自ら自転車から降りる。
俺も続いて自転車から降りて自転車を押してドアの前まで押していく。
晶子のマンションと違って、俺のアパートには自転車専用の置き場はないから、自分の部屋の前に止めるしかない。
この辺り、生活環境の違いを感じる。
 俺は鞄の中から鍵を取り出してドアの鍵を開けて先に中に入る。
ダイニングの電灯を点けると、晶子の部屋とは全然違う雑然とした部屋が暗闇の中に浮かび上がる。
このまま部屋に入れるのは・・・ちょっと恥ずかしいな。
 だが、片付けるまで外で待っていてくれとは言い辛い。外は思いのほか寒いからだ。
止む無く先に上がるとリビングの電灯を点けて散らばっているCDやら雑誌やらを適当にまとめて、エアコンの電源を入れる。
急場だから止むを得ない、と自分を納得させる。

「お邪魔しまーす。」

 晶子は俺が言いに行くより先に上がりこんできた。緊張感は微塵もないらしい。
流石にエアコンが効いていないからコートは着たままだ。

「エアコンが効くまでちょっと時間がかかるから、適当にその辺に座ってくれ。」
「はい。あ、雑誌読んでて良いですか?」
「ああ、どうぞ。俺は・・・もうちょっと部屋片付けるから。」
「はい。」

 くそっ、こうなることが分かってればあらかじめ掃除しておいたんだが・・・。
急場しのぎでCDを棚に放り込み、雑誌を纏めて机の上に置く。これが精一杯だ。
普段しないことをいきなりしようとするから取り繕う程度のことしか出来ない。
 まさか今から掃除機をかけるわけにもいかないし、少々埃っぽいが止むを得まい。
とりあえず、エアコンで部屋の空気が暖まるまで、インスタントコーヒーで身体の中くらい暖めようかと思う。

「コーヒー入れるから。・・・インスタントだけど。」
「ありがとう。じゃあ待ってますね。」

 コートを着たまま雑誌を読んでいた晶子が答える。
俺は二人分のコーヒーカップを用意し、湯を沸かして、まずインスタントコーヒーをスプーン1杯ずつ入れる。

「晶子。砂糖とクリープはどうする?」
「砂糖は要らないので、クリープだけ入れてもらえませんか?」
「分かった。」

 俺はコーヒーを飲むときは砂糖とクリープは欠かせない。昔からそうしないと飲めない。紅茶はどういうわけかストレートで飲めるが・・・変な話だ。
俺は一つのカップにクリープを1杯入れて、もう一つのカップに砂糖1杯半とクリープ1杯を入れる。
湯も沸いてきたので、交互にカップに入れながらスプーンでゆっくりかき回す。
インスタントだから湯が沸く時間が出来る時間とほぼ等価だ。
トレイなんて洒落たものはないので、俺は両手に一つずつカップを持って、クリープだけ入れた方を晶子に差し出す。

「はい。出来たぞ。」
「ありがとう。いただきます。」

 晶子は雑誌を床に置いてコーヒーを飲む。
そろそろエアコンも効いてきたようだ。俺は机にカップを置いてコートを脱いでからコーヒーを飲む。
冷え切った身体が芯からじわりと温かくなってくる。
晶子もエアコンの効き具合を感じたのか、カップを机に置いてコートを脱ぐ。
改めて見ると、セーターの上からでも晶子の身体の線がよく分かる。特に胸の部分の隆起が・・・って、こんなこと考えてどうするつもりだ、俺は!

「祐司さんは、年末年始どうするつもりなんですか?」

 優子の身体の線をまじまじと見詰めていた俺に晶子が尋ねてくる。
いきなりだったのでちょっとびっくりしたが、どうにか平静を保って答える。

「んー、多分帰らないつもり。」
「どうしてですか?ご両親、心配してるんじゃ・・・。」
「いや、月1回程度しか電話かかってこないし、夏も帰らなかったから、向こうも帰ってこないと思ってるんじゃないか?
それに家は自営業だし、年末年始もあまり関係ないから、手伝わされる可能性が高いんだ。」
「へえ。ご実家って自営業なんですか。」
「ああ。親が二人でやってる。丁度今のバイトと同じ飲食店。まあ、あんなに洒落た店じゃなくて食堂みたいな感じだけど。」
「家は二人揃って公務員なんです。市役所に勤めてて職場結婚。ありがちでしょ?」
「公務員か・・・。親は後を継がせる気はないって言ってるし、なれるなら公務員になれってよく言ってたな。」
「結構残業とか多くて大変みたいですよ。だから私がちょくちょく夕食の仕度をするようになって、それで料理を覚えたんです。」
「ふーん。・・・で、晶子は年末年始どうするんだ?」
「帰って来い、とは言われてるんですけど、祐司さんが帰らないって言うし、あまり帰ろうとは思わないです。」
「やっぱり心配なんじゃないか?女の一人暮らしだし。」
「一緒に居てくれる人が居れば何の問題もないんですけどね。」

 晶子はそう言って俺の方をチラッと見る。・・・このままだと気がついたら一緒に住んでたってことになりかねないな・・・。
今でも俺が殆ど毎日晶子の家に行ってるし、既成事実がどんどん積み重なっているような気がする・・・。
 コーヒーを飲み終えてカップをテーブルに置くと、俺は早速ギターとアンプの用意を始める。
この家に晶子を連れてきたのは練習をするためだ、と自分に言い聞かせる。そうでないと雰囲気に浸りきってしまいそうになるからだ。
 自分の家だから勝手は知ったものだ。ものの5分も経たないうちにギターのセッティングは完了する。
晶子の家のときはベッドに腰掛けるが、今日は自分の椅子にどっかと腰を下ろす。
何となくそれだけで気分が落ち着くのはやはり自分の家だからだろうか?
晶子もコーヒーを飲み終えて、俺のコップと一緒に流しに持っていく。多分洗うつもりなんだろう。

「いいよ晶子。俺が後で洗っておくから。」
「でも・・・。」
「ここは俺の家なんだから、晶子は気を使わなくて良いんだよ。」

 やれやれ・・・晶子は本当によく気が回る奴だ。
俺なんて、晶子の家で食事や紅茶をご馳走になっても、流しに持っていくという気さえ起こらないというのに・・・。単に横柄なだけか。
 俺はギターのチューニングをして、指慣らしの為に思いついたフレーズをさらさらと引き流す。・・・今日も良い感じだ。
すると拍手が起こる。晶子が感嘆した表情で手を叩いている。

「凄い凄い。さっきのって思いついたフレーズですよね?それをその場で演奏するなんて・・・凄いです。」
「あのフレーズは本当に単なる思いつきだから、別にどうってことはないさ。指慣らし程度のものだから。」
「何だか・・・祐司さんってプロの人みたい。」
「プロの人はもっと凄いさ。俺はアレンジに楽譜を書くけど、プロはそんなもの書かない人が多いし、
ぶっつけ本番できちんとフレーズを弾きこなすくらいだからな。」
「上には上が居るってことですね・・・。」
「そりゃそうさ。それに少しでも近付きたいって思って練習してるけど、なかなかプロみたいにはいかないな。」
「私から見ると、祐司さんって十分プロとしてやっていけると思うんですけど・・・。将来はプロを目指すんですか?」

 いきなり晶子は難しい質問を向ける。
将来のことなんて小さい頃は人並みに考えてたが、今は漠然とも思いつかない。
だが如何あがこうとあと3年と少しで・・・自分の将来を決めなきゃならない。俺はどうしたいんだろう?まだ実感が湧かない。
 プロになりたい・・・。そういうことも考えたことはある。
だが、百戦錬磨の実力者が伯仲する中、果たして自分の力量で食っていけるのか、大きな不安要因がある。
無難にサラリーマンや公務員というのも一つだが・・・あまり協調性がない俺には向いていないような気がする。

「まだ・・・将来は決めてない。選択肢の一つではあるけど。」
「私もそうですけど・・・祐司さんは、やりたいことを見つけることが必要ですね。」
「・・・そうだな。」

 やりたいこと・・・そう問われると何と答えて良いか分からない。
思えば中学、高校と只漠然と言われるがままにテキストをこなし、テストを受け、こうして大学まで進学してきたように思う。
そして3年、否、2年ほど後にいきなり将来を決めろと迫られる。
理不尽といえば理不尽だが、将来を漫然としか考えていなかった俺達にも問題はある。
 本当に・・・俺は何をやりたいんだろう?
音楽?音楽は確かに好きだが、職業とするにはその実力が足りないだろうし、プロデューサー天下の音楽業界では、
俺みたいな人間は即干されてしまうだろう。
じゃあ、サラリーマンや公務員といったホワイトカラーか?・・・何となくイメージが湧かない。

「練習・・・しませんか?」

 晶子が俺の顔を覗き込んで言う。何時の間にかまた俯いて思考の渦に飲み込まれていたようだ。
あれこれ考えるのは良いことかもしれないが、それも度が過ぎると慎重すぎるとか臆病とかになる。・・・今の俺がきっとそれだ。

「あ、ああ。また考え事してた・・・。そうだな、練習始めるか。」
「何から始めます。」
「まあ、まずは『THE GATES OF LOVE』からだろう。プログラムでも最初の方だし。」
「私達の思い出の曲でもありますからね。」
「・・・始めるぞ。」

 そうだ、この曲を背景に俺は晶子から気持ちを告げられたんだ。選曲を誤ったかな・・・。
兎に角、自分が言った以上は始めなきゃ仕方ない。
俺はアレンジした4小節分のイントロを爪弾く。そして立ち上がった晶子のヴォーカルが加わる。
 俺にとっては既成事実の最後の積み上げというような歌詞だけに、ちょっと気恥ずかしい。
それにしても晶子のヴォーカルも立派になったものだ。感情を込めて−多分意識的だろうが−情感たっぷりに歌い上げる様は、歌姫と呼ぶに相応しい。
・・・大したもんだ。
 練習は丹念に進めていく。少なくともペアで演奏する曲は完璧にしておかないといけない。
定番のクリスマスソングは勿論、「THE GATES OF LOVE」や「FLY ME TO THE MOON」も念入りに練習しておく。
今日が事実上最後のつもりで臨んだせいか、俺も晶子も熱が入る。
 一息ついてふと時計を見ると、とっくに11時を過ぎていた。
本当にこういうときの時間の過ぎる速さは一瞬に等しい。
早く晶子を自宅へ送り届けて自分のソロ曲の練習をしないと・・・。

「今日はこれくらいにしておこう。もう11時過ぎたし、家に送っていくから。」
「まだ練習は途中ですよ。」
「あれだけ繰り返してもか?喉潰れるぞ。」
「祐司さんのソロ曲を聞いてませんから。私がじっくり聞いて出来具合を見ますね。」

 そう来たか・・・。だが、俺のソロ曲まで練習してチェックをしていたら確実に時間は日付を超える。
・・・そのまま此処で一泊しようなんてことは・・・考えていそうだな。今までの経験からして。
まあ、俺のソロ曲をチェックしてもらうのは悪くない。早速引いてみるか。
俺のソロ曲といえば「AZURE」。そして潤子さんとペアを組む「EL TORO」。この2曲はギターが前面に出るからミスは尚更許されない。
念のためチューニングを確認して、ギターのストラップの位置を少し直して万全の体勢にする。
観客が晶子一人とはいえ、練習とは思えない緊張感が俺の全身を駆け抜ける。
 少し間を置いてから「AZURE」のフレーズを奏で始める。
何度も弾いたこの曲・・・情感を醸し出すのに苦労した曲・・・そして晶子が初めて耳にした俺の曲・・・
弾いている間に様々な思い出が頭の中を駆け抜けていく。
もし晶子が初めて店に来たときにこの曲を演奏してなかったら、どうなっていただろう?
ただのウェイターと初めての客として、それも一応顔見知りという状況下で席に案内していただけだろうか?
人と人との出会いは偶然と偶然が重なって生じる一種の奇跡なのかもしれない・・・。
 最後のフレーズを引き終えて左手をフレットから離すと、小さな、しかし温かい拍手が飛ぶ。手を叩く晶子の表情は明るい。
それを見るだけで上手く弾けたんだな、と思う。思い込みかもしれないが・・・そう思う。

「凄く良い感じでしたよ。心にじんと来ました。」
「これはもう今更間違ってたら駄目なんだよな。でも上手いだけじゃ駄目だし・・・。難しいな、こういう曲は。」
「情感もバッチリでしたよ。聞いてて自然に身体がふわふわ揺らぐような・・・そんな感じがしました。」
「それならこれは大丈夫だな。まずは一安心だ・・・。」

 晶子から最高ともいえる反応が寄せられたことで、この「AZURE」は完璧に仕上がったと思う。
じゃあ次は「EL TORO」か・・・。これは音合わせでも潤子さんのピアノの音圧に圧倒されて歩調を合わせるのが精一杯ってところがある。
此方の方こそ晶子にしっかり聞いてもらいたい。

「次は・・・『EL TORO』だな。」
「それって・・・潤子さんとペアを組んで弾く曲ですよね。」
「今まで潤子さんのピアノに圧倒されっぱなしだったからな。この場で完璧に仕上げておきたいんだ。」
「じゃあ、私もしっかり聞いてますね。」

 チューニングはさっき確認したばかりだが、改めて確認する。・・・OKだ。
左手とフレットの位置が引きやすい位置にあるかどうか確認する。・・・これもOKだ。
あとは、俺の腕次第か・・・。潤子さんが弾くピアノに負けないように、且つ前面に出すぎて五月蝿くならないような程度で弾かなきゃならない。
・・・俺にとってはこの曲が一番難しいかもしれない。
呼吸を整えて数回ゆっくりと呼吸してからフレーズを奏で始める。
フレットの上を左手が滑る。右手が忙しなく現を爪弾く。フレットの上を指が滑るとき、キュッ、キュッ、キュッという独特のノイズが入る。
この部分でちょっとモタったか・・・?だが、今は通り過ぎた音符を逆戻りすることは出来ない。
次に来るフレーズに備え、そして流れを妨げないように弾かないと・・・。
 トリル(2つの音を早く繰り返すこと)もあり、この曲は前半が特別難しい。
後半はまだ簡単な方だが、ここで潤子さんのピアノがより迫ってくるから、音の粒をきっちり立たせないといけない。
一瞬たりとも気が抜けない。やはり、まだ練習不足か・・・?
 ・・・どうにか弾き終えた。暖房をかけてあるがそれが暑く感じる。
一旦ギターのストラップから身体を抜いて、セーターを脱ぐ。額から滲み出る汗をシャツの袖でぐいと拭う。

「あの・・・いいですか?」
「何?」
「前半の音が駆け下りて行くところが、ちょっとリズムが狂っていたような気がします。あと、後半は音が強すぎるっていうか・・・。」
「やっぱり前半のあそこが拙かったか・・・。後半の音の強さは潤子さんのピアノと掛け合うにはあれで丁度良いくらいだと思う。」
「楽器同士を合わせるのって、難しいんですね。」
「潤子さんはこの部分、すらすら弾くんだけどなぁ・・・。俺の場合、フレットを動かすスピードがまだ不安定みたいだ。」
「じゃあ、もう一度弾いてみましょうよ。」
「・・・もう一回か・・・。」

 確かにこの不完全なままで完了とするには自分自身納得がいかない。コンサートまで後数日だから完璧にしておきたい。
だが、この曲はけっこう長いから、何度か繰り返していると本当に深夜になってしまう。
そうなると・・・晶子が泊まって行って良いですか、なんて言いかねない。
前は病気だったが、今日は変な言い方だが全くの健康体だ。
来客用の布団なんてある筈もないし、ベッドで一緒に寝ることになるんだろう。
そうなったら・・・気持ちを伝えるどころか、緊張感で固まってしまうか衝動的に覆い被さってしまうか・・・自分でもどうなるか分からない。
 ・・・兎に角、今は練習に専念しよう。
そして晶子に完璧だと言わしめて、今日は遅いからとか言って自宅に送り届けよう。それが賢明だ。
 だが、世の中思うようにはいかないものだ。
晶子が中学時代の嫌な教師を髣髴とさせるほど駆け下りるフレーズの部分を指摘してくる。それが自分でも分かっているから言い返せない。
問題の前半部分に絞り込んで何度も繰り返すが、やはりモタったりつんのめったりする。・・・だんだんイライラしてくる。

「祐司さん、ちょっとストップ。」
「何だよ、いきなり。」

 上手くいかない腹いせみたいに語調が荒くなってしまう。言ってから後悔しても遅いんだが。

「ちょっと休憩しませんか?ずっとだったから疲れたでしょう。」
「ああ、まあ・・・な。」
「私がコーヒーを準備しますね。」
「悪い・・・。」

 俺はギターのストラップから身体を抜いて、ギターを壁に立てかけて深い溜息を吐く。
肝心の部分がなかなか上手くいかなくて腹立たしいし、それを晶子にぶつける自分が情けなく思う。
晶子はさっき使ったカップを洗い、布巾でさっと拭うと湯を沸かしてインスタントコーヒーを入れる。
まるで自分の家みたいに手際が良い。前に俺が寝込んだときに色々整理してたみたいだから、その時覚えたんだろうか?
 晶子からコーヒーカップを受け取る。
紅茶とはまた違う芳香が疲れた身体と心に染み透る・・・。一口啜ってもう一度溜息を吐く。

「何で上手くいかないんだろうなぁ・・・。」
「私が言うのもなんですけど・・・意識し過ぎなんじゃないですか?」
「意識って何を?」
「潤子さんがすらすらと弾きこなせるってことですよ。何だかあの部分だけ左手の動きがちょっとぎこちないってような気がするんです。」

 なるほど・・・。確かに潤子さんのピアノを意識してはいるが、それが度を越して演奏に影響が出たって訳か・・・。
そう考えると確かにいくらやっても上手くいかないということが理解できる。
しかし、こういうときにはやはり他人の存在は欠かせないと思う。
自分では妥協で済ましてしまいそうなところでもしっかりと指摘してくれるから・・・。
もっとも相手を選ばないと居ない方がましってことになるが。
 コーヒーをゆっくりと飲み終えた後、再びギターのストラップに体を通し、フレットと左手の位置を合わせる。
そして念のためチューニングを確認する。もうこれはおまじないみたいなものだ。
肩の力を抜いてフレットに軽く手を触れ、右手を弦に添える。一度深呼吸してからフレーズを弾き始める。
・・・軽い。今度はフレットの上を左手が滑らかに動く。キュッ、キュッというフレットノイズと共に動く両手にも違和感がない。
指がフレットと弦の上を軽やかに踊る。続くフレーズも妙に力んだりしない。・・・これなら完璧だ。
弾き終えてふーっと大きく溜息を吐くと、パチパチと拍手が飛ぶ。
晶子が満足げに微笑んでいる。

「今度の方がずっと良いですよ。凄く自然で全然違和感がなかったです。」
「自分の演奏に集中するのが一番みたいだな。潤子さんに負けないようにとか、考えない方が良いわけか。」
「だって、祐司さんは祐司さんですよ。自分が自分が、ってでしゃばり過ぎるのは良くないですけど、普段どおりに演奏すれば良いと思うんです。」
「・・・そうだな。」

 普段どおり。これは簡単そうで実は難しいことだ。
所謂「自分のスタイル」が出来ていないとあの人のように、とかこうやって出来たら、とか思ってそれに技量がついてこなかったりする。
そして上手く出来ない、と悩むわけだ。
 そういう意味では、俺はまだ「自分のスタイル」が自分の中で確立できていないようだ。
ペアで演奏する曲だから音の強弱やテンポに気を配るのは当然だ。でも、自分の演奏が出来なきゃ「主力」の方に振り回されてしまう。
主導権争いとは次元の違う「自己主張」が出来て初めて、アンサンブルとして成立するんだろう。

「もう一回、聞いてくれるか?」
「ええ、勿論。」

 井上の微笑みに俺は返して再びフレットと弦の上に指を置く。
そしてフレットの上を滑らせ、弦を爪弾く。・・・今回も良い感じだ。
俺が奏でるフレーズに合わせて思わず小さくハミングする。良い気分で演奏できているのが自分でも分かる。
これを本番にそのまま持ち込みたいものだ・・・。
 演奏を終えると、再び晶子の拍手が起こる。
たった一人の拍手でも、満足できる演奏が出来たから疲れを癒すと共にもっと頑張ろう、という気になる。
一人で練習していると、どうしても自己満足で終わってしまうから、他人から拍手をもらえるのは、
それなりの演奏が出来たことを示す客観的な証拠といえる。

 今日はこのくらいで良いだろう。
俺はギターのストラップから身体を抜いてギターを壁に立てかける。
時計を見ると、もう11時を過ぎている。そろそろ晶子を家に送っていかなきゃならない時間だ。
そうしないと・・・泊まりになってしまうだろう。
 思えば今まで晶子との関係は殆どなし崩し的に進んできた。
返事を返せるまで−返事を返してもだが−区切りをはっきりさせないといけない。
このままだと何時の間にか一緒に住んで・・・、なんてことになりかねない。

「今日はもう良いか・・・。晶子、帰るぞ。」
「帰るって・・・私の家ですか?」
「それ以外何所があるっていうんだよ。送ってくから。」

 俺が立ち上がってコートを羽織るが、晶子はのろのろと立ち上がってベッドに置いてあったコートを羽織る動作も随分鈍い。
やっぱり帰りたくないんだろうか・・・。
だが、ここで晶子を泊めたら、それこそもうなし崩しで「通い婚」状態になっていくだろう。それはやっぱり拙い。
何所かではっきり区切りというかけじめをつけないと・・・。まずつけなければならないけじめは、晶子への返事なんだ・・・。

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