雨上がりの午後

Chapter 34 睦みの夜は緩やかに過ぎ行く

written by Moonstone


 この日のバイトも慌しく、そして楽しく過ぎ去り、「仕事の後の一杯」の時間となった。
演奏の時には練習がてら今度のコンサートで演奏する曲も幾つかこなした。
クリスマスソングを演奏すると、客席からは手拍子が飛んだり、中には一緒に口ずさむ客まで現れて、早くもクリスマスの雰囲気で満ち溢れた日になった。
今のステージは、そんな賑やかさが嘘のようにぼんやりとしたシルエットを闇に浮かべている。
それを見ていると、色々なことがあったこの2泊3日の「合宿」が終わるということもあってか、ちょっとセンチな気分になる。
全員が座っているカウンターも、照明が控えめなのに加えてBGMがサックスの音色が艶っぽい「TWILIGHT IN UPPER WEST」だから、
それこそジャズバーののような雰囲気だ。
会話もなく、コーヒーをそれぞれのペースで黙々と口に運ぶ様子は、それぞれが「宴」の後の余韻に浸り、一日の疲れを癒しているように思う。

「祐司君と晶子ちゃんは、大学は何時まであるの?」

 ゆったりと流れていた時間に潤子さんの問いかけが浮かぶ。
突然のことでも慌てることがないのは、この雰囲気のなせる技だろうか?

「俺は休講になった分の補講があるんで、22日まであります。」
「私は先週でもうお休みに入りました。」
「じゃあ、今回泊り込んでもらって正解だったわね。深夜まで練習した後で大学の講義があったら、体がもたないだろうし。」
「初めて音合わせをしたけど、あれで十分だ。あとはそれぞれ出来る限り練習して本番に備えるようにしよう。」
「そうですね。」

 この「合宿」が事実上、最初で最後の本番前の音合わせになったわけだ。
たかが音合わせ、されど音合わせ。人数が多くなったり組み合わせが変わる今度のコンサートでは音合わせは必須だから、やっておいて良かったと思う。

「もうお客さんもクリスマス気分でしたね。」

 井上・・・まだいまいち慣れない・・・晶子が言う。

「そうね。晶子ちゃんの歌に合わせて歌ってた人も居たし。」
「日本は12月に入ったら24日まではクリスマスって言って良いようなもんだからな。」
「そう言う祐司君。君は井上さんと何処で過ごすんだ?」

 コーヒーを一口啜ったところだった俺は思わずむせ返りそうになる。
いきなり何を言い出すんだ?!もう俺と井上、否、晶子が一緒にイブの夜を過ごすものだと決め付けてるのか・・・。

「おいおい、そんなに焦らなくても。」
「あ・・・焦ってるんじゃなくて、何でいきなりそういうこと言うのかって驚いただけですよ!」

 一昨日の晩、晶子を起こすほどの物音を立てていた人に言われると、意味するところがある焦点に集中するじゃないか。
まあ、夫婦だから俺に咎められる理由はないと言われればそれまでなんだが・・・。

「この時期もうホテルとかの空きはないだろうから、どちらかの家か?」
「だから!」
「・・・私の家でちょっとしたパーティーをしようかと・・・。」

 マスターの執拗な突っつきにむきになり始めたところに、晶子が不意に口を開く。その頬はほんのりと紅い。暖房のせいじゃ・・・なさそうだ。

「私の家、紅茶がありますから、ケーキを買っておいて一緒に食べたいなって思って・・・。」
「・・・井上・・・。」

 まだ口から出る呼び方は、「井上」の方が慣れているせいかそちらが言葉の形を成す。でも、今は呼び方なんてどうでも良い。
井上が、否、晶子が俺とクリスマスイブの夜を一緒に過ごそうと考えていることの方が、余程重要かつ重大な問題だ。
・・・別に世間一般でもてはやされているような世界に事を運びたいわけじゃない。だが、植え付けられたイブのイメージが先行して、
頭の中で俺と晶子が向き合って柔らかい笑みを浮かべている場面が勢いよく膨らんでいく。
艶っぽさたっぷりのサックスがメロディを奏でるBGMがそれに拍車をかける。
 返事をするなら・・・表現は悪いがそれを利用するのも良いかもしれない。何分雰囲気が整い易い状況だ。そうなれば・・・きっと言えると思う。
俺は年末年始に帰省するつもりだし、そうなれば顔を合わせる機会も必然的に少なくなる。クリスマスが最後のチャンスと思った方が良いだろう。

「ま、さっきのは行き過ぎたとしても、折角出会って初めて迎える年の瀬の大イベントなんだから、コンサートが終わったらゆっくり過ごすと良い。」
「・・・はい。」
「付き合うかどうかは別にしても、何かとペアを組む機会が多いんだから、仲良くなるには良い機会なんじゃない?」
「そうですね。・・・安藤さんとお話する時間が欲しいですし。」

 井上は、晶子は俺を「祐司さん」と呼ぼうとして思いとどまったようだ。
晶子の中では「祐司さん」と呼びたいという欲求が相当前からあったのかもしれない。
 まだ人前で言うのは流石に顔から火が出るような思いだが、せめて二人きりのときくらいは気軽に名前で呼び合えるようになりたい。
晶子にも俺を名前で言える条件を整えてやりたい。そのためには・・・俺の返事が欠かせない。

やっぱり・・・今日の帰りに・・・何としても・・・。

 気軽に「好きだ」と言えない分、俺には相当の心の準備と万全の体制が必要だ。コーヒーを飲みながら、頭の中で色々な情景や台詞を浮かべる。
ストレートに好きだ、というのも勿論良い。今までそれが出来なくて歯がゆい思いをしてきたんだし。
だが、折角二人きりになれるんだから、さらっとそして晶子の印象に残るような言葉を伝えるには・・・どうすれば良いんだろう?

 俺と晶子はコーヒーを飲み終えると、一緒に帰途に就いた。ここまではいつもと同じだ。
いつもと違うのは、会話が極端に少ないことだ。
俺は言うタイミングを慎重に測り、晶子は期待している言葉を黙して待っている・・・。そんな様子だ。
周囲に立ち込める冬の冷気が肌に突き刺さる。
俺と晶子は・・・自然に身体を寄せ合い、晶子が俺の腕を取る。それが当たり前のように思ってしまうようになったんだな、俺は・・・。

「・・・祐司さん。」
「・・・ん?何だ?」
「空、見てくださいよ。」

 晶子が指す上空を見上げると、満天の星空が闇のキャンバスに描かれている。
俺が知っているのは3つ星が特徴的なオリオン座くらいのもんだが、色と輝きの違いまではっきり分かる星空に、俺は見入ってしまう。
凛と張り詰めた冷気には煌く星空が良く似合う。俺は思わず足を止めて空を見上げ続ける。見ているだけで心が洗われていくような気がする。
闇と小さな光が演出する夜空のステージは、あくまで自然のままを俺たちに見せている。
手を伸ばせば星屑が手に入りそうな錯覚を覚える程、星の輝きは近く見える。
あれのどれかを手に取って晶子にプレゼント出来たら、なんて柄にもないことを考えてしまう。

「綺麗だな・・・。」
「冬は夜空が一番華やかになる季節ですよ。」
「こうやって見てるだけで、心が落ちついていくみたいだ・・・。」

 ふと、左腕に何かが触れてゆっくりと密着してくるのを感じる。
ちらっと横を見ると、晶子が俺の腕に手を回して身体を寄せてきている。俺の肩に頭を委ねて・・・本当に恋人気分だ。
昔なら、何するんだ、とばかりに振り解いていただろうけど、今はそんな気分は微塵もない。
左腕全体を通して感じる晶子の温もりと、ほのかに感じる弾力・・・。空に向いていた意識が自然と晶子の方に傾く。
このままずっと・・・こうして居たいような気がする。否、こうして居たい・・・。
 俺と晶子の歩く速さは一歩一歩、足元を確認しながら進める感じだ。
普段ならじれったいほどのこの動きが今は丁度良い。このままゆったりと流れていく時間の淀みの中で歩を進めるのが惜しい気がする。
身を切り刻むような冷気が肌に心地良くすら感じる。
特に冷気に直に触れる頬が。それだけ俺の身体が火照ってるという証拠だろう。
腕を組んで、しかも夜に二人だけ出歩くなんて、以前でも記憶にない。左腕にかかる重みと伝わり温もりと弾力が何とも愛しく思う・・・。

「今日は冷えますね。」
「昼間から今までずっと暖かい場所に居たからな。」

 俺は晶子が傍に居るから暖かい、という言葉をぎりぎりのところで飲み込む。
まだこんな洒落た台詞を言うのは憚られるように俺は思う。
好きだ、と言っていた後なら・・・まだ少しは様になるだろうけど・・・。
そう思っていると、晶子が俺の左腕から離れる。どうしたのかと思っていたら、俺のコートの片側を捲くって自分の身体を捲くったコートで包み込む。
俺がコートで井上・・・晶子を後ろから抱き締めているような体勢だ。
突然のことに俺は戸惑いを隠せない。こんなこと、前だってしたことがなかったというのに。

「んー、やっぱり温かい。」
「あ、温かいって、そりゃそうすりゃ温かいだろうけど・・・。」
「祐司さんも温かいでしょ?」
「そ、そりゃ、まあ・・・。」

 曖昧な言い方で誤魔化すが、晶子とさらに密着する面積と圧力が増したことで、否が応にも晶子の温もりが伝わってくる。
胸から腹にかけて全体的に・・。間近に感じる井上の髪の匂いは少し油っぽいが−潤子さんとキッチンを担ってるから仕方ない−
それを包み込んで霧散させる甘い香りだ。思わず鼻からの呼気を多くしてしまう。

「クリスマス・・・雪降ると思います?」

 晶子が俺を見上げるように尋ねてくる。
至近距離まで迫った顔、特にピンク色の唇に目が引き寄せられる。
俺がほんの少し顔を近づければその唇に自分の唇を重ねられる・・・。そんなところに二つの魅惑の丘がある。

「天気予報だと・・・曇り時々雪、とか言ってたような・・・。」
「町が雪化粧するくらいの雪が降ると良いなぁ・・・。」
「・・・憧れるのか?ホワイトクリスマスに。」
「ええ。雪が綺麗って感じられるのは、今の自分が幸せだってことだから・・・。」

 晶子が俺の肩口に寄りかかる。もう歩くどころの話じゃない。
俺は晶子をコートの中に抱きすくめた状態で道に突っ立っている。それだけで心拍数が見る見るうちに上昇する。
芳しい髪の匂い、間近に迫った顔、全身に感じる温もり、どれもこれも、俺を誘っているようにしか思えない・・・。
こうしていると、言わなきゃ言わなきゃ、という気持ちが心の奥底から湧き上がってくる。
それが高揚してくると身体の硬直が増してくる。緊張感だけが先走ってしまう良くないパターンだ・・・。
どうしよう・・・。雰囲気は良いがそれに飲まれてしまってるような気がする・・・。俺と晶子の周囲に充満する雰囲気が言葉を出すのを善しとしないように思う。
もどかしいような心地良いような・・・不思議な気分に心が漂う。
 冷え込みは益々強くなってくるが、人二人分の温もりを包含するコートの内側は本当に暖かい。
その温もりに浸っていると、家へ帰るどころか歩くのも億劫に思う。

「そろそろ・・・歩きませんか?」
「・・・ん、ああ、そうだな・・・。」

 晶子の問いかけに俺は曖昧な返事を返す。
歩くといっても二人羽織のように密着しているから、なかなか上手く歩けない。だが、それを不自由には思わない。
晶子に至っては俺のコートの両裾を前で合わせて、吹き付ける冷気から完全に防備している。
そして俺は晶子の温もりがじんわりと身体に染みとおるのを感じながら少しずつ前に進む。
 何時もより数倍の時間を要して、俺と晶子は小さな交差点に差し掛かる。
此処からどうするか、何処へ行くか・・・それでこれからの俺達の関係が決まるような気がすると言ったら言い過ぎだろうか?
交差点の隅に立ち尽くす俺と晶子。どちらが何を言い出そうともしない。
俺は勿論だが、晶子も意識しているんだろうか?
晶子の温もりと髪の匂いが気になって、話を切り出すタイミングが掴めない。

「・・・このままって訳にはいかないよな・・・。」

 俺がポツリと漏らす。普段のように気軽に晶子の家に立ち寄って紅茶を一杯と戴いて帰るという気分にはなれない。
俺にはこの小さな住宅街の交差点が人生の一大岐路に思えてならない。
これからこのまま二人羽織みたいに晶子の家に行くか、それとも俺の家に行くか・・・。それだけでも雰囲気は違ってくる。
ムードたっぷりに行くならやっぱり晶子の家だろう。俺の小汚い家はムードなんて縁遠い世界だ。
 街灯が灯るだけの静かで小さな交差点で、俺は晶子をコートに包んだまま立ち尽くす。
時折冷気が俺の頬を掠めるが沈黙を吹き崩すには至らない。
俺は勿論・・・晶子も何かしら躊躇するところがあるんだろう。
そうでなかったら、このまま何時もの調子で無防備すぎるぐらい気軽に俺のコートを引っ張って自分の家に誘い込むところだろう。
 もしかしたら、晶子は今の程度の関係から自然に付き合いの関係に流れ込む、というのが望みなのかもしれない。
その辺、晶子は何も言わないから−迫ってきたことはあるが−何とも分からない。

「ここで突っ立っててもしょうがないから・・・行こう。」
「・・・何処へ?」

 コートの中の晶子が俺を見上げて尋ねてくる。
此処でどうしよう、なんて情けないことを言うわけにはいかない。俺は見上げる晶子を見ながら必死に頭の回転を巡らせる。
上がっていた心拍数がさらに上がる。喉が乾いた・・・。こういうとき晶子の紅茶が無性に飲みたい・・・。

「晶子の家で・・・良いか?」
「ええ・・・。」

 晶子は囁くように言って小さく頷く。場所は決まった。この後どうなるか・・・それこそ神のみぞ知るってやつだ。

 俺と晶子は、相変わらず頑強なセキュリティを抜けて晶子の部屋に入る。
コートの中にいた晶子は暖房のスイッチを入れて紅茶を沸かし始める。
晶子が抜けて随分空間が大きくなったような感じのコートを脱ぎながら、俺は手近な椅子に座る。
手際良く紅茶を沸かす井上の様子を、頬杖を突きながらのんびり眺める。
 芳醇な香りが漂い始める。この香りを嗅いでいると自然と気分が安らいでくる。
あれほど緊張したり迷ったりしていたのが大袈裟にさえ思える。
やがて蒸らして丁度良い具合になったティーポットと2人分のティーカップを晶子がトレイに乗せる。どうやらリビングで飲むつもりらしい。
俺は席を立ってリビングに通じるドアを開ける。
晶子がありがとう、と言って中へ入る。程よく効いた暖房が室内を包んでいる。
晶子はトレイをベッドの近くにあるガラスのテーブルに置くと、トレイからティーカップと小さな鍋敷きと共にティーポットを置き、
紅茶を等分すると徐にオーディオデッキの方へ向かい、CDを選び始める。
 俺は一口紅茶を口に入れて、その香りと味を堪能する。そこへ曲が控えめの音量で流れてくる。これは・・・「Secret of my heart」だ。
安っぽいリズム音が今日は妙に心地良い。流れてくる歌詞を思わず口ずさむ。
そしてその隣に晶子が座る。紅茶を一口口にしてから、俺と同じように歌詞を口ずさむ。
囁くような歌声が丁度歌手の歌声にぴったりで、俺は自分の歌うのを止めて聞き入ってしまう。
良い歌だ・・・。長閑な雰囲気に霧状に浮かぶような声がぴったりで、頬杖をつきながら呼吸をリズムに合わせて聞き浸る。
この歌声と紅茶が織り成す時間は、俺だけが知っている、そして俺だけが味わえる憩いのときなんだ・・・。
 歌いながら晶子の視線が徐々に俺の方を向いてくる。それは歌うというより俺に歌詞の内容を語りかけてくるような・・・、否、そのものだ・・・。
その目は俺を見ているし・・・。俺は飲みかけのティーカップを置いて晶子の方を注視する。
サビの部分に入るにつれて、晶子の表情が急に艶っぽさを増す。
歌詞の一言一言が俺の心にダイレクトに響いてくる。特に・・・最後の4小節は、俺に訴えかけてくるような気がする。
歌詞のとおり、もう少し待ってます、だから・・・と・・・。
 「Secret of my heart」の1番が終わると、晶子は歌うのを止めて紅茶を一口啜って小さい溜息を漏らす。そして、少し儚げな表情を俺に向ける。
俺はは紅茶を少し多めに飲む。中身が半分ほどになったティーカップを置いて、頬杖をついたまま晶子の方を向く。

「浸ってた・・・。」
「何にですか?」
「この雰囲気と晶子の歌声に・・・。良い気持ちだった・・・。」

 頭がふわふわした真綿のクッションに包まれているような感覚だ。
少し瞼が重い。バイトの疲れが噴き出てきたんだろうか?

「何かさ・・・今こうして二人で居て・・・晶子の歌声を聞きながら紅茶を飲んで・・・匂いを楽しんで・・・。それだけでも幸せだなぁって思うんだ・・・。」
「そうですか・・・。」
「ああ・・・二人でこうして居るだけで・・・安心できる・・・。そう思える関係って・・・付き合ってるっていうのかな・・・。」
「返事をすることが祐司さんにとっての大切な区切りなんでしょ?」
「ん・・・。」

 俺はその場に体を倒し、晶子に腰を向ける形で床に肘をついてその上に頭を乗せる。本格的に眠くなってきた・・・。
ここが晶子の家という感覚がない。自分の家で横になるような気がする・・・。それだけこの雰囲気に浸っているということか・・・。

「返事をするってのは約束したことだから・・・きちんとするよ・・・。今日は・・・良い気分に浸っただけだから・・・。」
「・・・はい。」
「大体・・・晶子みたいな良い女、俺が袖にしたら勿体無いお化けが出る・・・。」
「まさか・・・。」

 晶子のはにかむ声が遠く聞こえる。
視野が凪の静けさに近付く呼吸に合わせて狭くなってきた・・・。

Fade out...






 ・・・頬をしなやかな感触が走り抜けていく・・・。何だろう・・・微風かな・・・。
羽か何か柔らかいものに撫でられているような感触だ・・・。
無の中に漂う意識にその心地良い感触がゆったりとした周期で通り抜けていく・・・。一体何だろう・・・。
ぼんやりと目の前が無から有へと変化していく。
横倒しになった床と壁・・・。俺の手がある・・・。何か・・・柔らかいものの上に乗ってる・・・?!
 身体を捻ると、長い髪を後ろで束ねた晶子の顔を見上げる格好になった。・・・膝枕されてたんだ。
晶子の手が俺の左頬をゆっくりと撫でている。無の中で感じたあの心地良い感触の正体はこれだったのか・・・。

「目、覚めましたか?」

 晶子が俺の頬を撫でる手を止めて言う。俺は確かに驚きはしたが跳ね起きることもなく、ぼんやりと晶子を見詰める。
何だかこうしているのが当たり前のような感覚がする。そしてそれを不思議に思わない俺が居る。

「寝てたんだな・・・やっぱり・・・。」
「横になる前から、何だか眠そうでしたから・・・。」

 晶子が笑みを浮かべながら言う。
それを見ているだけで起きるのが億劫になって全身が重く床に張り付いたような感じになる。こうして居たいという思いしか今の俺の頭にない。

「今・・・何時?」
「もう夜中の2時ですよ。」
「?!そんなに寝てたのか?!」

 俺はその事実を知ってようやく飛び起きる。
明日は2コマ目からとはいえ専門科目の補講がある。今から帰って寝たら中途半端で起きられるかどうか分からない。
かと言って、何で起こさなかったんだと晶子を責める理由はない。
雰囲気にどっぷりと浸かって寝入ってしまったのは、他ならぬ俺自身なんだから・・・。

「今日・・・泊まっていけば良いじゃないですか。」
「泊まっていけばって・・・。」
「大丈夫でしょ?もう一緒に寝られるって分かったんですから。それに・・・。」
「それに?」
「まだ区切りをつけてないのにそう言う行動に出る人とは思えないから・・・。」

 巧みに痛いところ(?)を突いて来る。
好きだと言う俺なりの区切りをつけてない相手に襲い掛かったら、俺の信用はがた落ちになるのは明白だ。
晶子もその辺は心得ている。流石は策士だ。
だが、晶子の言うとおり、今から家に帰って寝るのは中途半端だし、結局晶子が承諾しないとセキュリティを抜けられないし、それも怪しい・・・。
此処は一つ・・・晶子の好意に甘えさせてもらうのが一番のようだ。

「それじゃ・・・一泊させてもらえるかな・・・。」
「ええ。服は・・・そのままで良いですか?」
「ああ、良いよ。学校に行く途中に家に寄って服替えるから。」
「お風呂、どうします?」
「もう良いよ。冬だし、一晩くらい入らなくても死にやしないから。」
「それじゃ、私はお風呂に入って来ますね。一応言っておきますけど・・・覗いたりしないで下さいね。」
「しないよ。」

 俺は少しむくれた調子で言う。何だか信用されてないような気がしたからだ。
もっとも・・・一つ屋根の下、女が入浴しているところに興味がないといえば嘘になる。
俺もうかうかしてると足音を忍ばせて浴室の方に足を向けかねない。
 晶子は紅茶のセットはそのままにして部屋を出て行く。
俺はすっかり冷め切った紅茶を少し口に含む。温もりは消えたが芳香はまだ消えてはいない。
静まり返った部屋の中で、俺は一人紅茶を口に運ぶ。
 少しして遠くのほうからザーという水の流れる音が微かに聞こえてくる。
それまでそんな音はしなかったから雨の音じゃないだろう。と言うことは・・・。
いかんいかん。俺は慌てて紅茶を口にして理性を保つ。
此処で剥き出しの欲望に身を任せたら、これまで気付いてきたもの全てが水泡に帰すだろう。それだけは・・・絶対嫌だ。
 中途半端な時間に目が覚めたせいかどうも頭がすっきりしない。頭の中にもやが漂っているような感じだ。
未だ消えぬ紅茶の芳香と多少濃くなったような気がする味と独特の苦味も、頭のもやを晴らすには至らない。
寝起きは元々良くない方だし、時計を見れば・・・2時過ぎだから当たり前か。
 寝起きでもやがかかっていた頭がようやくはっきりしてくる。
此処に着いたのが10時半過ぎで、晶子の歌を聴きながら良い気分に浸ってふと横になったのが多分11時前だから・・・3時間くらい寝てたのか。
転寝というレベルじゃないな・・・。あのまま朝を迎えても不思議じゃなかった。
もし俺が目を覚まさなかったら、晶子はずっと膝枕を続けてたんだろうか?足が痺れてそれどころじゃないかな?

 暫くすると水の流れる音が消える。この沈黙が扉の向こうの妄想をかき立てる。
身体を洗ってるんだろうか、湯船にゆったりと浸かっているんだろうか・・・。
駄目だ駄目だ。こんなことに持ち込むために眠りこけたんじゃないんだ。
晶子だって・・・夜中一人で帰る俺を心配して善意で泊まっていって良いと言ったんだ。
だが・・・体のむず痒さは止まらない。
晶子だって何の気もなく知らない顔ではないとはいえ男に泊まっていけば、なんて持ちかけるか?もしかしたら・・・。
違う!俺は晶子にそんなことがしたくてくつろいだり挙句の果てに横になって寝入ったりしたんじゃないんだ!
俺は・・・そういう目でしか晶子を見れないのか?
 俺が妄想と理性の狭間で喘いでいると、扉が開く音がする。
晶子が風呂から上がったようだ。俺は混乱した思考をどうにか整理して、表面上はあくまでも平静を装う。
少ししてドアが開き、ピンクのパジャマの上に半纏を羽織った晶子が入って来る。
仄かに上気した頬、しっとりと水気を帯びた茶色の髪、そして視線を集約するV字に切れ込みが入った胸元・・・。
湯上り間もない晶子は魅力というか妖艶さに溢れている。

「お待たせしました。」
「あ、ああ・・・。割と早いんだな。」
「そうですか?私、自分ではゆっくりする方だと思ってたんですけど・・・。」

 晶子は少し首を傾げると、髪を後ろにかき上げてベッドを整える。
それを見ていると身体が益々むず痒くなってくる。これじゃ本当に・・・夫婦か同棲カップルみたいだ・・・。
このままずるずるとそういう関係になりそうで怖い。

「何処行くんですか?」

 立ち上がってドアの方へ向かおうとした俺を、晶子が呼び止める。

「・・・やっぱり・・・帰るわ、俺。」
「な、何言ってるんですか?こんな夜遅くになって・・・。」
「いや、良い。男だから夜道一人出歩いてもそんなに危なくないし。」
「そういう問題じゃないですよ!」

 晶子が走り寄ってきて、俺の背中にぎゅっと抱きつく。
ノブに手をかけたところだった俺は、背中から感じる強烈な弾力に完全に動きと思考が一瞬止まる。
止め方としては確実だけど・・・晶子は自分が女だってことと二人っきりだって言う状況を理解してるんだろうか?

「・・・晶子・・・。」
「・・・はい?」
「俺が・・・普通の男だって、分かってるよな?」
「ええ。」
「だったら・・・。」
「私と一緒に居たいっていう気持ちよりも・・・、私とそういうことしたいっていう気持ちの方が強いんですか?」

 晶子の意外な問いに、俺は言葉が出ない。

「そういうことしたいっていう気持ちは否定しません。誰だってある筈ですから・・・。
でも、祐司さんは二人っきりっていう今の状況を、そういうことが出来る状況って最初に考えるんですか?」
「・・・。」
「それならそれでも・・・良い・・・。でも、私を抱くならその前に祐司さんの気持ちを聞かせて欲しい・・・。気持ちも何もなしに抱かれるのは・・・嫌。」

 晶子の切ない訴えが俺の心に張り付いていた欲望の皮膜を溶かしていく。
二人っきりで即そういうことに持っていくことを考える俺は・・・結局晶子をそういう対象としてしか見ていないんじゃないのか?
ずっと返事を待たせているのはじらしてじらして、自分から抱いてくれと迫ってくるように追い込むためだったのか?
俺は手をかけていたノブから手を離す。そして背後に抱きつく晶子に言う。

「晶子・・・ちょっと・・・手を緩めてくれないか・・・?」
「・・・はい。」

 晶子の強い抱擁が緩むと、俺は身体の向きを180度替えて、ゆっくりと、しっかりと晶子を抱き締める。
今度は俺の方から、背中と頭を大切に抱え込むように・・・。
この感触・・・。この温もり・・・。これを感じているだけで温もりを育んだ羽毛で包まれてくるように心が和んでくる・・・。
二人で一緒に居るだけで安心出来る・・・。俺が転寝をする前に感じ、そう言ったことだ。今もそう感じる・・・。
晶子と抱き合っているのに・・・こんな近くで感じ取れるシャンプーの甘酸っぱい匂いや石鹸の柔らかい匂い、そしてほんのりと立ち込める湯上りの温もり・・・。
さっきまで欲望の衝動に駆られそうになってたことが妙におかしく思える。
 晶子はゆっくりと俺の背中に手を回してくる。
耳元で軽い規則的な吐息が聞こえる。眠るような、安心して身を委ねるような吐息だ。
それが耳に入ることで心にさらに凪が広がる。晶子の歌声を聞いていたときのような、そして横になったときに感じた気分と同じだ・・・。

これが・・・幸せってことなんだろうな・・・。

 暫く愛しさこみ上げる抱擁を終えると、俺と晶子は少し距離を開ける。
口と口とがほんの少しの距離を開けて、互いの視界が相手の顔で埋め尽くされるほどの距離で・・・。
間近に見える晶子の上気した顔が愛しくて、俺はもう一度晶子を抱き締める。今度はさっきよりもっと強く、しっかりと抱え込むように・・・。
もう二度と離すものかというように・・・。
 すると、背中に回っていた晶子の手がより強く俺を抱き締めて、俺に身体を密着させてくる。
味覚以外の全ての感覚を刺激して止まない晶子に、俺の気持ちは高ぶりと穏やかさを同時に得る。

「・・・祐司さん・・・。」

 じっとその場で抱き合っていると、晶子が喘ぐような声で俺に言う。
その艶かしさを耳元で感じて脳の血液が沸騰するような感覚に襲われる。

「・・・ど、どうした・・・?」
「お休みなさい・・・。」
「?」

 首を傾げていると、部屋の電気が段階を追って消える。
見ると晶子の片手が電灯の紐を持っている。そして晶子はそのまま俺の肩口に倒れこむように、俺に寄りかかるように体重を預けてくる。
急に支えを失ったように体重を預けられた俺は、危うく後ろに倒れそうになる。
どうにか持ち堪えて晶子の様子を耳をそばだてて注意深く伺うが、軽い一定周期の吐息しか聞こえてこない。もしかして本当に寝てしまったんだろうか?
それとも俺のこれからの行動を窺うための狸寝入りなんだろうか・・・?
 だが、このまま突っ立てるわけにもいかない。部屋は暗くなったとはいえオレンジ色の豆電球が灯った室内は様子が判別できないことはない。
俺は少し躊躇したが、覚悟を決めて右腕を動かし、晶子の腰を救うように持ち上げる。
・・・軽い。思ったよりずっと軽い。羽毛布団を抱えているような軽さとスポンジのような弾力が両腕に伝わってくる。
晶子を抱え上げた俺は晶子の感触に浸りながら、足元に注意してベッドへ向かう。
整えられたベッドの布団を捲り、そこにまず晶子を静かに寝かせて、羽織っていた半纏を注意深く脱がせて床に置く。
俺はベルトを緩めると−寝苦しいからだ−その横に身体を横たえて布団を被せる。横を見るが晶子はまったく目覚める気配がない。
俺は少々冷える布団の中、じっと仰向けになって眠気が再び意識を包むのを待つ。
だが、こういうときに限って眠気は遠ざかるものだ。隣の晶子が気になって寝られない。
俺は身体を晶子の方に向けてその寝顔を観察することにする。
目を閉じて−当然だが−ゆっくりとした周期で布団を少し膨らませたりちぢませたりする様子から、狸寝入りの様相は感じられない。
 俺が熱を出して寝込んだ日の朝、目覚めたら横に晶子の寝顔があったことを思い出す。
あの時は呼吸が止まるほど驚いたが、今は心が温かいもので満たされているような気がする・・・。

・・・幸せ・・・なんだ・・・。

 そうだ。俺は今、幸せを感じてるんだ。
まだ過去への煩いを捨てきれたわけじゃない。まだ色褪せぬ過去の残像は思い出す度に俺の胸に漣を立てる。
だが、その過去の色合いも時が経つにつれて浅黒く変わり、良き思い出だけが懐かしさと共に思い出されるようになるだろう。
最後の記憶もその味の強さを徐々に弱め、やがて今感じるほろ苦さも和らいでいくんだろう。時が傷を癒すというのは本当だったんだと今、この場で思う。
 でも、時の流れだけで癒えたとは思えない。やっぱり・・・晶子がずっと居てくれたからだろう。
あれだけ邪険に扱ったのに、あれだけ傲慢に振舞ったのに、晶子は諦めずに俺を追い続けた。
そして俺と同じバイトを始め、俺のステージでのパートナーになり、そして・・・俺の心の中で揺ぎ無い存在になった。
凄いというか何と言うか・・・。俺は苦笑いを浮かべながら晶子の寝顔を眺める。
 ふと晶子の横髪に手を通してみる。しっとりとした髪はすんなりと俺の指を受け入れ、その滑らかな感触を指に伝える。
少しくすぐったく感じたのか、晶子が軽く身を捩って寝顔が少し俺の方を向く。その頬が、唇が、たまらなく愛しい・・・。
俺は晶子に手を伸ばし、そっと自分の方に抱き寄せる。
俺の左腕を枕代わりにさせて・・・右腕でそっと抱き締めるように・・・。

晶子・・・好きだ・・・。

俺は晶子を軽く抱き締めながら心の中で呟く。もしかしたら言葉に出たかもしれない。
でもそれならそれでも良い。それが俺の偽らざる気持ちなんだから・・・。

Fade out...


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