雨上がりの午後

Chapter 20 驚きと漠然たる幸せの朝

written by Moonstone


 ・・・視界が再び戻る。眠気を引き摺りがちな俺にしては珍しく気持ちの良い目覚めだ。
額に手を当ててみるが熱っぽさは感じない。内側からの火照りも消えている。どうやら熱は完全に下がったようだ。
全身を包むような倦怠感を感じない朝が何だか有り難いものに感じる。これなら大学にも行けるだろう。
同期の奴と付き合いがあまり無い俺はノートを貸してくれとは言い辛いから、あまり休みたくない。
 ・・・そう言えば、今何時だ?
昨日は井上の歌を聴いていたら眠っちまったから目覚ましをかけた覚えはないし・・・。
しかし、あれは本当に子守り歌みたいだったな・・・。

 ・・・今はまず、時刻を確認しよう。
そう思って俺は枕元にある筈の目覚しを取ろうと、体を横に捻る。そこで俺が目にしたものは・・・

・・・井上だった・・・。

 俺は片方の肘を敷布団に立てた状態で固まってしまう。
この驚きは、昨日掛け布団の上に突っ伏して寝ているのを見た時など比較にならない。
自分の知らない間に女が寝ているのを見て驚かない奴はそうそう居ないと思うが。
 茶色がかった髪が敷布団に広げて仰向けに眠っている井上は、水色と青のストライプ模様のパジャマを着ている。
規則的に上下する胸と微かに聞こえる寝息、少し俺の方に向いた寝顔のインパクトは間近で見る分、昨日よりずっと強い。
だが、全く無防備そのものの井上の寝顔を見ていると、何故か妙な衝動は沸かない。
その寝顔を暫く眺めていたいと思うのが正直な感想だ。
 昨日も突っ伏して寝ていたし、やっぱり看病は疲れるんだろう。
そんなことを思っていると、井上がゆっくりと目を開ける。

「ん・・・あ、安藤さん・・・。起きてたんですか?」
「ついさっき、な。」

 井上は驚きもせず、眠気が残っているのか少しとろんとした表情で俺を見る。
自分からベッドに潜り込んだから驚かないのは或る意味当然だが、眠そうにしているのは普段の快活な様子からはちょっと想像できない。
やっぱりそれだけ疲れてたということか?
そんな疲れることを2日も続けた井上が間近で見せる無防備な様子が、たまらなく愛しく思う。

「昨日、安藤さんが寝た後お風呂借りたんですよ・・・。先に断っておくべきだったんですけど・・・。」
「良いさ、それくらいのこと・・・。でも、何でベッドに・・・?」
「今時期湯冷めし易いですし、お風呂の後で眠くなってきて・・・。」

 俺も睡眠不足に湯冷めが重なって熱を出したと思うから、ベッドで寝たのはその意味では賢明な判断だ。だけど・・・

「俺がその・・・何かするとか、考えなかったのか・・・?」

 俺の問いに、井上は眠気の残る顔に微笑みを浮かべて答える。

「全然・・・。だって、そんなことする人じゃないって信じてますから・・・。」

 信じてる・・・。俺は信じるとかそういうものから、随分縁遠くなっていた。
あの女に突然−予兆はあったが−別れを告げられてからは、女なんか信じられるか、ってなったし、
その前からもあの女を信じるより疑う方が多かったように思う。

もしかしたら、って・・・。

 感情は知らず知らずのうちに−表情に出さなくても−表に出ているのかもしれない。
あの女、優子も俺のそんな感情を感じ取って、信じてくれないなら、となったのかもしれない。
 ・・・こんな風にあの記憶を振り返れるなんて、思ってもみなかった。
あれからまだ時間もそう経ってないし、何より事が事だったから、延々と心の奥底に傷を刻み続けるものかと思っていた。
こう思えるのは今だけかもしれない。だが、あんな記憶に振り回され続けるより、あんなこともあったな、と時に苦味を思い出すくらいの方が良いに決まってる。
 よく考えてみれば、あの記憶に振り回されるのは、捨てられてからもあの女に弄ばれてるのと同じだ。馬鹿げてるとしか言いようがない。
あんな思いをさせられてまでまだ拘っているのはもしかしたら、あの女に未練があるからなんだろうか・・・?

「どうしたんですか?」
「ん・・・信じるってことが最近なかったな、って思って。」
「信じるには、相手がそれだけのものを持ってないと駄目ですからね。」
「俺の場合は・・・信用できないって決め付けてただけさ。」

 だが、井上はどうして俺を信用できるんだろう?
いくら俺が病気で、そのままだと湯冷めするとはいえ、何時目を覚ますか分からない男が寝ているベッドで寝るか?

「俺は・・・信用できるのか?」
「出来ますし、してますよ。」
「何で・・・?」
「好きだから、じゃ答えになりませんか?」
「・・・。」
「私、好きになった人はとことん信用したいんです。そうじゃないと・・・自分が辛いから・・・。」
「・・・。」

 信じてないと辛い・・・。少し前ならきっと、その逆だ。
信じる方が辛いんだ、とむきになって言い返しただろう。信じてあんな目に遭ったんだ、と。
だが、疑って何になった?
疑われていることを感じて、あの女、優子は嫌な思いをしてたかもしれない。
 優子のことは別にしても、だ。果たして俺自身楽だっただろうか?
疑い続ければ、信じなければ楽に為れると思っていた。あんな思いをするのを未然に防げると思っていた。
井上と出会った当初の一月くらい前、否、つい一昨日まで疑い続けて、信じなくて楽だったか?
 ・・・最初のうちはそうだったかもしれない。
だが、成り行きであれ井上との交流が深まるようになってからは、疑う方が余計に疲れたように思う。
それに・・・この1週間あまり、むしろ疑う方が自分を偽っていた。
意地を張り続けることに疲れて、挙げ句の果てに寝込んでれば−それが全てじゃないにしても−世話がない。

 井上が僅かに眠気の残る目を擦って体を起こし、片方の手を俺の頭に回して引き寄せつつ、顔を近付けて来る。
・・・額と額が軽くぶつかる。昨日は眼を閉じていたが、今は視界の全てを井上の顔が占めている。
ようやく解けた緊張が再び強烈に全身を縛る。瞬きすら出来ず、思わず息も止めてしまう。

「熱、下がりましたね。」
「・・・。」
「昨日の夜、念のために熱冷まし飲んでもらったんですけど、もしかしたら必要なかったかも・・・。」

 ・・・昨日の夜・・・?
井上がマスターと潤子さんと一緒に帰って来てから、夕飯食べて−一部食べさせてもらったな、そう言えば−、
CDとそれに合わせて井上が歌うのを聞いてたら眠くなって・・・。
それ以外何もしてない筈だが?

「熱冷ましって・・・昨日の夜、何時飲んだ?」
「安藤さんが寝た後ですよ。」
「・・・寝た後って・・・。」
「言ったとおりの意味ですよ。」

 井上は悪戯っぽく微笑む。
・・・寝た後ってことは井上が飲ませたってことだよな。無意識で飲めるほど器用じゃないし・・・。!
まさか、井上の奴・・・。

「く、口移しで飲ませたんじゃないよな?!」
「え?そうして欲しかったんですか?」
「そ、そうじゃなくて・・・そうしたかどうかって聞いてるんだよ!」
「・・・さあ。」
「さ、さあ、って・・・!」
「朝御飯作りますね。」

 問い詰めようとする俺をあっさり逸らかして、井上はベッドから降りる。
俺はキッチンへ向かう井上の後ろ姿を呆然と見送るしかない・・・。

「さ、出来ましたよ。」

 テーブルの上に食器を並べ終えた井上が言う。
俺のテーブルは雑誌やCDが積み重なって物置同然になっていたんだが、井上が一時床に退けて二人分のスペースを確保した。
日頃のだらしない生活を知られたようで気恥ずかしい。
 炊きたての御飯と味噌汁、目玉焼きがそれぞれ湯気を立てている。
朝に和食なんて一人暮らしを始めて以来記憶にない。
雑誌やCDの谷間−隙間か−にトースト1枚が乗った皿とインスタントコーヒーの入ったカップを置いてさっさと済ませていた。
 今までそれで疑問を感じたことはなかった。
朝食の準備に時間をかけるくらいなら少しでも長く寝ていたいという気持ちがあったし、
手っ取り早く済ませられるから良いだろう、というある意味投遣りな気持ちがあった。
だが、今朝は温かい食事があって、それも二人分ある・・・。
これに浸ってしまうと、これからは今までの朝食が侘びしくて仕方がなくなりそうな気がする。

 ベッドから出た俺は井上と向かい合わせになって腰を下ろす。
井上が急須で湯飲みに茶を入れて差し出す。
その時少し前屈みになった拍子に、パジャマが撓んで深めのV字を描く襟元からちらっと胸元が見えた・・・。一瞬だが。

「まずお茶を飲んだ方が良いですよ。起き抜けにいきなり食べると胃に悪いですから。」
「あ、ああ・・・。そうする・・・。」

 一気に激しさを増した心臓の鼓動が聞こえやしないかと思いつつ、差し出された湯飲みの茶を啜る。
熱い茶が胃に染みる。不思議とそれで食べる準備がきちんと整ったように感じる。

「普段はパンみたいですけど、たまには良いでしょ?」
「何で分かるんだ?」
「冷蔵庫見れば分かりますよ。さ、どうぞ。」

 あの女、優子が泊って行った翌朝は近くの喫茶店へ−バイト先じゃない−食べに行ったものだ。
だから手作りの食事で迎える朝は実家に居た時以来になる・・・。
 二人の朝食が始まった。
何時もなら時計代りにテレビを点けて、下らないワイドショーの音声を聞き流しつつトーストとインスタントコーヒーを流れ作業的に流し込むんだが、
今日はテレビの音声がない代りに目の前に井上が居る。
 寝間着姿のまま二人で朝食・・・。正直、明日からのバイトが怖い。
昨日は兎も角、井上が一昨日も泊り込んだことはマスターと潤子さんは知っているだろうし、何を言われるか分かったもんじゃない。
否、そもそも寝間着姿のままで二人で朝食を食べているなんて、知らない人間に見られたらどうにも説明しようがない状況だ。

「今日、練習はどうします?」

 井上が尋ねる。そうか、今日は月曜日だから何時もなら井上の家で歌の練習をするんだった。
寝込んで曜日の感覚が多少おかしくなっているようだ。
 それは別として、身体の方は若干違和感があるが頭がぐらついたり視界が回るようなこともない。
殆ど寝てたから体が鈍っているだけだろう。大学と此処を往復すれば多分消える程度のものだ。

「何時ものようにやろう。」
「良いんですか?病み上がりなのに。」
「もう大丈夫だから。」

 そうは言ってもあれだけ派手に熱を出した身だ。井上が確認したくなるのも無理はないか・・・。

「何にしても、大学から帰ったら一度連絡する。」
「・・・安藤さんはどっちが良いですか?」
「?」
「此処で待ってようかなって。」

 此処でって・・・留守番するってことか?
俺の看病も済んだのにどうして・・・?

「・・・井上の家じゃなくって・・・?」
「此処で待ち合わせすれば、もし安藤さんがまた具合が悪くなっても大丈夫でしょ?」
「そんなに柔じゃ・・・。」

 言いかけたところでふと思う。
このまま井上が此処に居たら俺が帰った時・・・井上が出迎えてくれるのか・・・?

「お帰りなさい」って・・・

実家に居た時は鬱陶しいとすら思うほど聞いていた言葉だが、一人暮らしを始めてから聞いたことがない・・・。
 念願の一人暮らしが出来るようになったせいで今までホームシックなんか無縁だったから−親と仲が悪かったわけじゃないが−、
無人のこの家に帰って来ると「俺の場所がある」と思う事がしばしばあった。
あの女から突然別れを告げられたあの日、飲んだくれて「思い出の品」を悉く破壊してそのまま不貞寝したけど、
あんなみっともないこと家族と一緒だと迂闊に出来ないだろう。
 だから今までは一人で良かった。
そしてあの女と切れたから、この部屋にはもう俺一人以外考えられないと思っていた。
だけど昨日・・・井上がバイトに出掛けた時に感じたあの気分は・・・どうしようもなかった。

もう一人じゃ駄目なんだろうか?

「・・・井上は良いのか?」
「何がですか?」
「俺が帰って来るのは大体3時半か4時前・・・。それまで暇じゃないか?」
「CD聴いてますよ。あと、此処にある雑誌も読んで良いですか?」
「良いよ、それは。・・・それで良いなら・・・。」
「じゃあ決まりですね。留守番してます。」

 井上はやけに嬉しそうに微笑む。
もしかしたら井上も、誰も居ない家に帰ることに躊躇いみたいなものがあるのかもしれない。
・・・一人は何もないときは良いが、二人の良さに浸ってしまうと寂しく感じるのが難点だな・・・。

 朝食を済ませた後、俺と井上はそれぞれ着替える。井上はリビングで、俺は久しぶりに身体を洗うこともあって風呂場でだ。
別に風呂に入らなくても死にはしないが、熱で相当汗を掻いたのか身体が嫌にべたつくのが我慢ならない。
これより前に時間を見たら、余裕はあるにしてものんびり湯船に浸かるにはちょっと時間が少ないから身体と頭を洗ってシャワーを浴びるだけにする。
この季節になるとそろそろ湯船が必要なんだが、今日は仕方がない。
 湯船は蓋が開いた状態で湯は落とされている。井上が掃除をしたらしく随分奇麗だ。
俺が眠った後にこの湯船に井上が浸かってたのか・・・。



この事を考えるのは止めておこう。
さっき胸元が見えたことといい、今朝起きたら横で寝てたことといい、病み上がりには刺激が強すぎることが−病み上がりでなくても強いか−
続いているから、妙な気持ちになって来る・・・。

 手早くべたつく髪と体を洗ってバスタオルで拭いてから、予め用意しておいた服を着る。
井上はもう着替えを済ませていると思うが、さすがにいきなりアコディオンカーテンを開け放つのはちょっと躊躇ってしまう。

「・・・井上、そっちは良いか?」
「あ、良いですよ。着替えは済んでますから。」

 リビングと境界のないキッチンと風呂場を隔てるアコーディオンカーテンを様子を窺いつつ開ける。
キッチンの壁から顔を出すと、昨日着ていたものとは別の服に着替えた井上がこっちを向いて座っていたところを見て、二人同時に思わずあっ、と声を漏らす。

「シャツ・・・同じ色ですね。」
「・・・偶然・・・な。」

 そう、偶然だ。まさか井上が俺の持っている服を知っている筈がない。
店に来ていったこともあるがこの時期コートやセーターに隠れることが多いし、如何に井上といえど全てを覚えているとは思えない。
だが・・・結果的にブルーの長袖シャツがお揃いという現実が今、目の前に在る。  大学へ行く準備を整えた俺は、鞄を持って玄関へ向かう。
偶然井上とお揃いになったシャツの上にはこれからの季節では標準装備となるセーターとコートを重ねている。
珍しくかなり時間に余裕がある。駅まで歩いて行っても間に合うくらいだ。一人暮らしを始めてからこんな事はなかった。
 何時もなら火の元と戸締まりを確認してから−一人暮らしを始める前に親から何度も念押しされた−時間を気にしながらいそいそと靴を履く玄関先でも、
今日はのんびり腰を下ろして靴紐を確認して結び直したりする。
普段なら、解け始めて先の方が足の動きに合わせて地面とぶつかるようになって初めて気にするようなものなのに。

「何か身の回りのもので買っておくものとかあります?」

 背後から井上が声をかけて来る。その時ふと思う。
一人居るか居ないかでこうも違うんだろうか?と。
今までならそれこそ、時間に余裕があるのは目覚める時間が早かったせいだ、と断定していただろう。靴紐だってそうだ。
 だが、今の余裕、時間的なものだけじゃなくて精神的なものは、そう簡単に結論づけられないものだと今は思う。
前に潤子さんが、恋愛ごとは定理や公式で割り切れるもんじゃない、って言ったけど、精神的なことは本来そんなものなんだろう。
直ぐに結論や回答を求めるのは俺の悪い癖かもしれない。

「いや、特にない。まあパンはくらいだけど・・・それは帰りに買えば済むし。」
「そうですか。」
「あ、それから・・・ドアチェーンは忘れないようにな。今の時代、どんな奴が来るか分からないから。」

 平日は、昼間は大学で夜はバイトだから滅多に出くわさないが、土日のように昼間家に居ると、時々訳の分からない奴等の訪問を受けることがある。
 勿論その訪問はこっちから依頼したものじゃなくてまったくもって迷惑なもので、ありがちな景品と引き替えに
新聞の購読を迫って来たり−珍しい景品ならOKというわけではないが−、耳障りの良い言葉が表紙に並ぶ有り難い−らしい−本を見せてきたり、
どう見てもノーブランド品を自前で包装したようなハンカチだの何だのを見せつつ募金をお願いしてきたり・・・。

 寝てた時にインターホンを鳴らしたり、その上ノックまでする奴も多いから、悪い寝起きで腹を立てた俺は怒鳴りつけて追い返すんだが、
井上は普段セキュリティでガチガチのマンションに住んでるから馴染みがないだろうし、仮に訪問されても俺みたいな事が出来るようなタイプには思えない。
そういう招かざる客は大人しい奴を「標的」に迫って来るらしいから、井上は要注意だろう。
 一昨日だったか、マスターと潤子さんが来てくれた時に最初誰か分からなくて−当然か−ドアチェーンを掛けて応対するように言った。
夜はまだしも昼間でも用心しなきゃならないなんて、嫌な世の中だ。
まあ、俺もつい最近まで一日井上を疑って、用心してたんだから、あまり偉そうなことは言えないか。

「はい。」
「俺は駅に着いた時点で一回連絡するけど、ドアチェーンはかけたままにしておいて良い。」
「じゃあ、安藤さんは?」
「1回インターホンを鳴らすから、それで俺かどうか確認して。駅から大体10分くらいだから、それが目安になると思う。」
「私は安藤さんからの電話を待ってれば良いんですね?」
「ああ。一人で居ていきなりドアの鍵があいたらびっくりするだろ?」
「そうですね。」

 井上は嬉しそうに微笑みながら俺の横にしゃがむ。
何かと思って振り向くと、井上が両手を俺の肩に置いて寄り掛かるような感じになる。

「私のこと・・・心配してくれてるんですか?」
「・・・そりゃ、女一人で留守番なんて今は物騒だから・・・。」
「それで・・・?」
「・・・心配・・・だよ。」

 俺を見詰める瞳に圧迫感を感じる。威圧的では勿論ないが、本音を言って、と訴えられているように感じる。
・・・そう、本音だ。
否、さっきの物騒だからって言ったのも、もっと溯れば一昨日マスターと潤子さんが来た時にドアチェーンを掛けて応対するようにって言ったのも
井上が心配だったからだ。
今は・・・そうとしか思えない。

「嬉しい・・・。」
「そ、そうか・・・?」
「好きな人に自分のこと心配してもらって、嬉しくない筈ないですよ。」

 井上は俺の肩に乗せている両手の上に自分の顎を乗せる。
もう少し井上が顔を前に出すか、或いは俺がそうすれば、唇が触れ合うくらいの距離だ・・・。
 全身が一気に熱くなった俺は、慌てて視線を足元に戻す。
あのままだと本当にキスをしそうな雰囲気を感じた。
今日は朝から刺激が強いことが多すぎる。
 靴紐をこれでもかというほどしっかり結び終えると、俺は脇に置いておいた鞄を抱えて立ち上がる。
井上は俺の肩から離れて続いて立ち上がる。さすがに両手を俺の肩に置いたまだと邪魔になると思ったんだろうか。

「じゃ、じゃあ、留守番頼む・・・。」
「はい、行ってらっしゃい。」
「・・・。」
「挨拶は?」

 俺は井上に言われてようやく我に帰る。久しぶりに聞いた「行ってらっしゃい」という言葉・・・。
実家に居た時は空気のような、時には邪魔にすら思った言葉が、こんなに心に響くなんて・・・。

「あ、い、さ、つ、は?」

 井上はあの得意の笑みを浮かべながら俺の鼻の頭を軽く突つく。
俺はあの言葉を返そうとするが、なかなか言葉にならない。
あまりにももどかしい時間がゆっくりと流れ、ようやく絞り出すようにあの言葉が輪郭を帯びる。

「・・・行ってきます・・・。」
「はい。気を付けて・・・。」

 井上はにこやかに手を振る。俺もつられて手を振りながらドアを開けて外へ出る。
これじゃ夫婦か同居しているカップルじゃないか・・・。
もっとも、端から見たらそうとしか見えないだろうな。
 ドアを閉めて壁に寄せて置いてある自転車に乗って、日増しに強くなる冷気を切り分けて駅への道を走らせる。
そして駐輪場の空いている場所に自転車を置いて、ポケットから定期券を取り出して改札を潜る。
・・・普段と変わらないこの道のりが軽い。

井上に見送られて家を出ただけでこんなに違うのか・・・?
だとしたら、これから俺は一人であの家に居られるのか・・・?

でも・・・ただ一人が寂しいからってことで、このまま井上を好きになって行くのか?
それは果たして・・・本当に好きってことなのか・・・?

俺にはまだ・・・判らない・・・。


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