雨上がりの午後

Chapter 10 First Lesson, Special Concert

written by Moonstone


 翌日。今日は2コマからの講義なので朝はゆっくりした。
昨夜井上に自宅に引っ張り込まれた俺は、紅茶を飲み終えるとまっすぐ帰宅した。・・・本当だぞ。
間際に井上が「明日からお願いしますね」なんて念押ししたくらいだ。俺は「分かったよ」とぶっきらぼうに答えたが・・・。
希望に燃える初心者に取る態度じゃなかったな、と少し後悔している。
 俺も中学や高校ではやれ規則だ生活指導だ、部活じゃやれ先輩後輩だの礼儀だの、本質とかけ離れた下らない形式に拘る輩に気分を萎えさせられた記憶が多い。
だから教えるということは居丈高にして良いということじゃない、と身に染みて分かっている筈なんだが・・・。
こんなことで井上の自宅でマンツーマン指導なんて出来るのか、今から不安に思う。
 講義が3コマで終わった俺は、帰宅の途に就こうとする。
その時、後ろから呼びかけてくる声がした。

「おーい、祐司ぃ!」

 俺の方へ向かって走ってくるのは智一だ。随分慌てているが何かあったんだろうか?
あの表情を見ると・・・遊びの誘いかな?

「祐司。お前、今日はバイトないんだろ?」
「ああ。定休日だから。」
「だったら合コンに来ないか?何と聖華女子大の1年!お嬢様がわんさか居るぞ!」

 ・・・こいつ、付き合いは広くないといいながら、こういう場の手回しは上手い。
智一の家は会社の社長だし、そっちの方面は広いんだろう。
聖華女子大は同じ市内にあるお嬢様学校で有名な女子大だが、鍍金(めっき)のお嬢様が鍍金に細工を施してふらふらと寄って来てもおかしくない。
だが、男をそういう方面で揃えるなら、俺は場違いな人選だ。
 しかし、智一は井上に随分熱を上げていた筈だ。なのにどうして他所の女と合コンをする必要がある?
井上の居る文学部に手を伸ばすのが自然−変な言い方だ−だと思うんだが。

「・・・お前さ、井上を彼女にするって言ってなかったっけ?」
「晶子ちゃんか?勿論狙うさ。だが、彼女はなかなか落とすのが難しそうだから、ここはまず、お嬢様を相手にして勘を掴んでおこうと思ってな。」
「勘って、何の勘だよ・・・。」
「まあ、細かいことは気にするな。勿論来るだろ?」

 智一はそう言って俺の肩に手を置いて来る。
細かいこととは思えないんだが、智一の顔を立ててやるのも悪くはない。鍍金の罅割れを摘んでゆっくり剥がしてやるのも面白そうだ。
 OKしようとした時、昨日の井上との約束が鮮明に蘇えって来る。

・・・約束・・・。

あの時の井上の表情が続いて脳裏に浮かぶ。
俺を信頼しきったようなあの表情・・・。
人を疑うことを知らない、信じた相手にはどれほど無下にされても食い下がる、執念といっても良いあの気持ちを・・・反故にして良いのか?
 そう思うと、別の気持ちが闇の底から台頭して来る。
このまま井上の術中に嵌まって良いのか?
俺に夢中な振りをして、二股を掛けてるかもしれないのに−先約があると言った−むざむざ弄ばれようとするのか?
冷めた声で執拗に問い掛けて来る。

・・・。

「・・・悪い。俺、パスするわ。」
「お、おい。何でだよ?聖華女子大との合コンなんて絶好のシチュエーションを逃すのか?」
「女と仲良くする気はないし、先約があるからな。じゃ。」

 俺はまさかと言いたげな智一を残して帰路を急ぐ。
俺の言ったことは本心だ。先に約束したのは井上との方だから、先着優先が筋ってものだろう。
・・・やっぱり俺は、悪人にはなりきれそうもない。だから体よく騙されるんだろうが・・・。
 信じていたことを反故にされる気持ちを骨身に染みて分かっているつもりだから、俺はそんなことをしたくない。
譬えそれが嘘だとしても、約束を反故にすることはできない。
・・・それだけだ。

 いつも乗る電車に乗って帰り、いつもと同じ道のりで帰宅する。此処までは同じだ。だが、ここからが違う。
井上に今からそっちへ行くことを前もって伝えておかないと、あのセキュリティでガチガチのマンションに入れない。
当然電話になるわけだが・・・また女の家に電話するなんて何となく嫌な気分だ。つい1週間くらい前、その電話で一方的に突然絆を断たれたんだからな・・・。
 井上に昨日貰った電話番号のメモは・・・テープで戸棚に貼り付けてある。
普段滅多に自分から手に取らない受話器を手に取る。メモとボタンを交互に見ながらボタンを押して行くが・・・

駄目だ、やり直しだ。

俺は受話器を置く。別に押し間違えたわけじゃないが・・・異常に緊張してしまうんだ。
 だが、電話を掛けないことには話が進まない。女性専用のマンション前でうろうろしていたら、変質者扱いされて警察行きになりかねない。
俺はもう一度受話器を取ってボタンを押して行く・・・。

駄目だ、もう一度だ。

 何て言えば良いんだ?
今からそっちへ行くから・・・これじゃ何だか恋人同士みたいだ。
教えに行くから待っててくれ・・・これでも駄目だ。もっと良い言い方はないか?
色々考えてみるが、同じ様な台詞しか思いつかない。こんなに緊張しなきゃならない自分が情けない。

 兎も角、受話器の前でおたおたしててもしょうがない。
もう一度受話器を取って注意深くメモと見比べながらボタンを押す。10個・・・押した。
呼び出し音が聞こえる。同時に心臓がバクバク音を立てる。向こうに聞こえるんじゃないかと思うくらい、激しい震動が伝わって来る。

「はい、井上です。」

 !井上が出た!・・・って、それが当然か。井上の家に電話を掛けたんだから・・・。
何て言おう、何て言うんだったっけ?・・・あ、頭の中が真っ白だ。困った。何を言うのか全然思いつかない。

「あの・・・どちらさまですか?」

 井上が問い掛けて来る。ちょっと不安そうな声だ。
いかん、このままじゃ単なる悪戯電話になっちまう。女の一人暮らしだからこういうのは余計に警戒するだろう。
と、兎に角ここは何か言わないと・・・。

「あ、あの・・・俺、安藤・・・祐司だけど。」
「安藤さん?何だ、脅かさないで下さいよ。悪戯電話かと思っちゃった。」
「わ、悪いな・・・い、急いで帰って来たばかりなんで・・・。」
「そんなに急がなくっても良いのに。大丈夫ですか?」
「い、いや、大した事ないから・・・。」

 大嘘だ。心臓は破裂しそうな勢いで脈動している。声にまでその震動が乗っているんじゃないかと思うくらいだ。
だが、井上は疑っている様子はない。今回は井上の人の良さに感謝した方が良いな・・・。そうそう、用件を伝えないと・・。

「い、今からそっちへ行くから・・・その・・・。」
「ええ、玄関で待ってますから、落着いてから来て下さいね。」
「そ、そうする。それじゃ・・・。」
「はい、待ってますね。」

 俺は受話器をそっと置くと、大きく深呼吸して床に横になる。
胸に手を当てると心臓の動きがはっきり分かる。電話くらいでこんなに緊張してて・・・大丈夫なんだろうか?
別に何も期待しちゃいない。だけど・・・一人暮らしの女の家に向かうのは事実なんだ・・・。そう思うと、心臓の鼓動が・・・収まらない・・・。

 ・・・暫く横になっていると、どうにか心臓の震動が収まって来た。
外から差し込んで来る光はかなり弱まって来ている。この時期は日が暮れるのが早くなって来たとは言え、帰宅してからかなり時間が経っているんだろう。
 俺は起き上がると直ぐに服の埃を軽く払って、持ち物を揃える。
マンションだから隣近所の問題もあるからエレキギターと練習用の小さいアンプ、ヘッドフォン、それに課題曲「Fly me to the moon」の収録されたCD。
後は・・・俺が音を取って書いた楽譜。こんなところだろう。
 マフラーを巻いて外に出る。朝晩の冷え込みがますます厳しくなって来ている。それに風が強くなって来ている。
思わず身を縮こまらせた俺は、鍵を閉めると急ぎ足で井上のマンションへ向かう。こんな時期は出来るだけ外へ出歩きたくないもんだ。
・・・今改めて考えてみると、どうして俺がこの寒い中、井上の為に外へ出なきゃならないんだろう?と思う。
普通、教わる側が教える側の所へ通うんじゃないか?・・・あ、家庭教師は別か。
・・・こんな小さなこと、どうでも良い筈なんだが、妙に拘ってしまう。やっぱり井上のペースに乗せられたことが無意識に引っ掛かっているんだろうか?
多分そうだろう。電話番号まで教える羽目になったし・・・。
 でも、俺の家に来い、なんてあの時の俺に言えただろうか?
・・・きっと無理だ。そんなこと考えもしなかったし、例え思いついても言わなかっただろう。
部屋が散らかっているのもあるが・・・家にはまだ、あの女の記憶の残骸が漂っているように思う。
そんな空間に井上を入れたら・・・俺はどうなるか判らない。
残骸を踏み躙られるような気がして井上を激しく拒絶するか、それとは逆に、井上に残骸を消し去ってもらおうとして井上を激しく求めるか・・・。
何れにせよ、俺にとっても井上にとっても良い結果にはならないだろう。

 思い出すことすら嫌悪するような時期は過ぎた。多少なりとも傷は癒えたのかもしれない。
だが、あの記憶の良い部分だけを思い出として留めておくような整理はまだまだ先の話になりそうだ・・・。
男は女より過去の傷に拘るというが、少なくとも俺に関してはそのとおりだろう。

 そんな事を考えて歩いていたら、何時の間にか井上のマンションの前に着いた。
セキュリティのある玄関の奥にあるロビーのような、ソファが並んでいる場所が透かして見える。
そこに玄関の方を向いて・・・井上が座っている。少し俯き加減でまだ俺には気付いてないようだ。
 玄関にもう少し近付くと、井上がふと顔を上げる。憂いを帯びたようなその表情が晴れやかになって行く様子がはっきり分かる。
井上はすっと立ち上がると、こっちに向かって走り寄って来る。
正面向かって左側にある管理人室らしい窓口に何か告げて程なく、正面のドアがひとりでに開く。
管理人に告げて周囲を確認してもらったりしているんだろうか?俺が直ぐに玄関を潜ると、ドアは再び閉じる。
井上が走り寄って来る。如何にも待ち侘びたと言いたげな表情だ。待たせて悪かったと思う自分に気付く。

「・・・遅れて御免。」
「いえ、もう大丈夫なんですか?」
「それはもう、すっかり。」
「寒かったでしょ?日が暮れそうになって急に風が強くなって来ましたから・・・。」
「確かに風はきつかったな・・・。」
「さ、早く行きましょ。」

 俺が来るのを待たれているのは・・・悪い気はしない。それどころか・・・何だろう、帰宅した俺を出迎えられるような気がする。
・・・錯覚だ。これは錯覚だ。俺が勝手にそう思おうとしているだけだ。井上はとっくに予約されてるって自分で言ってたじゃないか。

・・・分かっているのに・・・。
また騙されようっていうのか?

「?どうしたんですか?」

 井上の声が少し離れたところから聞こえて来る。先に歩き始めて、俺が居ないことに気付いたんだろう。

「・・・何でもない。」

 今日の俺は・・・自分と戦い続けているような感じがする。
電話口で妙に緊張したり、此処に来たら来たで井上の幻術に惑わされそうになって・・・。
精神的に不安定っていうのは、こういう状態を言うんだろうか?

 井上に先導されて俺は再び井上の家に案内される。相変わらず整理整頓された部屋だ。昨日は効いていなかった暖房も今日は最初から行き届いている。
俺はギターやアンプを床に置くついでにコートとマフラーを脱ぐ。ギターに被せるように置こうとすると、井上が俺に手を差し出す。

「ハンガーがありますから、それに掛けておきますよ。」

 ・・・随分用意が良い。まあ、先約とやらで慣れているんだろう。
俺は無言で好意(と言えるのか?)に甘えることにする。井上は両腕にコートとマフラーを抱えて奥の部屋に消える。
手持ち無沙汰になった俺は勝手に椅子に座る。
 井上は直ぐに戻って来て、紅茶の用意を再開する。いつもながら手際が良い。
少し待った後には二つのお揃いのカップに赤茶色の香ばしい液体が注がれる。昨日は直ぐにミントと分かる香りだったが、今日のは随分控えめだ。
だが、何処かで嗅いだことがあるような、懐かしいというかそんな気がする匂いだ。

「今日のは何か分かりますか?」
「・・・いや、判らないけど・・・何か嗅いだ覚えがあるような・・・。」
「あると思いますよ。それ、ストロベリーなんですよ。」

 ・・・ストロベリーか。成る程、嗅いだ覚えがある筈だ。
それにしても昨日のミントといい今日のストロベリーといい、色々なものが紅茶になるもんだ。
香りのあるものなら大抵紅茶になるんだろうか、と思ったりする。

「じゃあ、ラベンダーとかもあるわけ?」
「ええ、ハーブティーって言って、色々種類があるんですよ。私はまだそんなに揃えてないですけど。」
「ちょっとしたコレクションになりそうだな。」
「全部揃えようとすると、紅茶のお店になっちゃいますよ。」

 井上は楽しそうに笑う。何も知らない男なら感嘆に心が蕩けてしまうそうな笑顔を見せる。
俺も失恋した直後じゃなかったり、先約があるという言葉を気にしてなければ・・・この笑顔にやられているだろう。
 ・・・先約・・・やっぱりこれを気にしてないといえば嘘になる。
「先約」があるのに他の男を家に連れ込んだりするのは俺には理解できないし、その「先約」の相手が傷付くことを考えると、俺も共犯だろう。
「先約」がなければ良いのに、と思う気持ちもあるかもしれないが、それはこの笑顔の魔術が生み出す蜃気楼だと信じたい。否、そうに決まってる。
 魔性の女、という言葉があるが、その言葉は井上の為にあるのかもしれない。
その魔術に誑かされないようにするには・・・あくまでも接点を音楽くらいに留めておくことが肝要だろう。
もうあんな痛い思いをするのは御免だし、「先約」を傷つける共犯になるにしても、きっぱり切れるようにしておけば、最悪でもドロドロした事態は防げるだろう。
 ・・・どうして男と女は恋愛から逃れることが出来ないんだろう?
恋愛なんてものがなければ、どんなに気が楽になるか。どれだけ泣かなきゃならない人間が減るか・・・。
恋愛が無くなって困るものといえば、歌詞や小説、あとクリスマスだのバレンタインだのという、商売絡みの全国的なイベントくらいだろう。

「・・・さん、安藤さん?」

 井上の呼ぶ声で俺は我に帰る。
どうもあの日以来、あれこれ考え始めると周囲から完全に意識が遮断されてしまうほど、思考の深みに嵌まってしまう癖がついたようだ。

「悪い。ぼうっとしてた。」
「具合、悪いんですか?」
「いや、全然。」
「なら良いんですけど・・・。風邪ひきそうだったら無理しないで下さいね。」
「大丈夫だよ。これ飲んだら早速始めよう。」

 そうだ。俺は井上に音楽を教えに来たんだ。それ以外のことは考えないようにしないと、また前みたいにみっともないところを晒してしまうだろう。
あれだけはどうしても避けたい。初めてでいきなり前のような失敗をやらかしたら、もう教えるどころの話じゃない。
俺自身がまっとうな演奏が出来るように誰かに教えてもらうべきだろう。

 紅茶を飲み終えて体も十分温まった。
井上もほぼ同じに紅茶を飲み終わる。わざわざ俺のペースに合わせて飲んでいた。
俺は飲み慣れないものを前にしてかちょっと戸惑ってしまって湯気が僅かに立ち上る程度まで待っていたが、その間井上も待っていたくらいだ。
別に先に飲んでも一向に構わないし、そうされると逆にこっちが余計な神経を使ってしまう。・・・大して使ってないかもしれないが。

「じゃあ、私の部屋に案内します。」

 井上は席を立って奥のドアの方へ向かう。俺も荷物を持ってそれに続く。
・・・妙に緊張するのは何故だろう?やっぱり初めて入る女の部屋だからだろうか?
俺を捨てたあの女の部屋に初めて案内された時も同じ様な気分になったことを思い出す。これは男の性なんだろうか?
 ドアを開けた先は台風一過のような俺の部屋と違い−あの日は言わば爆撃の後に竜巻が来たような惨状か−、やはり奇麗に整頓されている。
元々物が少ないのも大きな要因のようだ。
あるのは小さなテレビとオーディオが入った棚に机、その上にあるノートパソコン、部屋の中央にあるガラスのテーブルにクッションが・・・1つ。
そして箪笥とベッド。これらが8畳くらいの空間に整然と収まっている。
 意外なのはクッションが1つだということだ。
「先約」を考えると2つあるのが自然だと思うんだが、そんなことを問い質すつもりは無い。
・・・こんなことを考えていること自体、「先約」という詞書きになって仕方ないと言っているようなものだが。
 俺は持って来たギターとアンプを隅に置くと、持って来たCDと楽譜を井上に差し出す。これが井上に曲を教える為の教材だ。

「このCDに問題の『Fly me to the moon』が入ってる。これは暫く貸すから、何度も聞いて曲の感じを掴んで。」
「はい。」
「それから・・・これは楽譜。読み方も少しずつ教えて行く。自分で練習する時にも読めると便利だからな。」
「へえ・・・。これって、安藤さんが書いたんですか?」
「ああ。ギターソロ用にアレンジしたやつだ。店で演奏する時は大抵一人だから、アレンジしないとしょうがない。」
「凄ーい。こんなことができるんですねー。」

 俺は何も凄いとも思わないが−出来ないとどうしようもない−、知らない人間にはやっぱり驚異的らしい。
小学生までは男で音楽が出来ると「女の子みたい」とからかわれたりするらしいが、中学生くらいになると立場が一変する。
かく言う俺もギターを始めたのは中学からだ。

「早速かけますね。」
「ああ。2番目に入ってるから。」

 井上はCDを棚に小ぢんまりと納まったオーディオにセットに行く。俺は絨毯が敷かれた床に腰を下ろす。
井上はCDをセットすると、俺の隣に腰掛ける。反射的に俺は身体を強張らせる。

「クッション使います?」
「・・・要らない。」

 声に動揺のビブラートがかからないか不安だ。井上の奴、隙を見つけては接近を画策して来る。そういう積極性は「先約」だけに出してもらいたいものだ。
俺を誑かして「先約」と下らないドラマさながらの三角関係に持ち込んで、「私の為に争わないで」でやりたいんだろうか?
だとしたら迷惑極まりない。女王様気分の女は大嫌いだ。
 ・・・聞き慣れたあの歌声が聞こえて来た。
ちらっと井上を見ると、CD付属の歌詞を見ながら、微かにリズムを取る動きを見せている。俺は一安心して身体の警戒の硬直を少し解く。
どうやら井上は曲の方に意識を集中しているようだが、俺は隣から漂って来るあの甘酸っぱい芳香が気になって曲を聞くどころじゃないというのが正直なところだ。

やっぱり、女を意識しないなんて無理だ。
この匂いをさせる存在を意識しないなんて・・・

 柔らかいストリングスが響いて曲が終わる。
井上が顔を上げてCDを持っていたリモコンで止めて俺の方を向く。色々な驚きが入り混じっているらしい表情を見せる。
井上は表情が豊かというか・・・感情はストレートに表情に出るタイプのようだ。

「良い曲ですね・・・。こんな曲が歌えたら良いなぁって思いました。」
「店では事実上のスタンダード・ナンバーだからな。俺もマスターも潤子さんもそれぞれのアレンジ・バージョンを持ってる。」
「じゃあ、歌い方もそれぞれ変わるんですか?」
「マスターはサックスだから、あれは完全にソロ用だな。俺はCDに沿ったアレンジだけど、潤子さんはバラード調にアレンジしてる。昨日聞いただろ?」
「・・・ああ、そう言えば潤子さん、リクエストされてましたね。あれも凄く奇麗でした。」
「まあ、歌い方は変わっても歌詞は変わらないから、一度覚えればそれなりに対応できるようになると思う。
楽譜を読めると良いっていうのは、潤子さんの演奏で歌う時も楽譜を見れば打ち合わせとかがやり易いだろうと思ったからだ。」
「そうなんですか・・・。」

 井上は納得したらしく何度も頷いている。必要性があればそれなりに理解も早いだろう。
聞くだけなら知らなくても良いが、楽譜が読めないで音楽をするのは俺に言わせれば邪道だ。
共通の連絡手段を知らないでその世界のことを云々するなんて、言葉が分からない国で政治家になろうとするようなものだ。

「じゃあ、次は俺のアレンジを聴いてもらうか・・・。歌が入る時はまたアレンジし直すけど、歌う時はCDと同じ流れで良いから。」
「あ、聞かせて下さい。」
「・・・コンサートじゃないぞ。」
「分かってますよ。」

 そうは言うが、井上は目を輝かせるという表現がぴったりの表情だ。
絶対勘違いしていると思いつつ、俺はソフトケースからギターを取り出してアンプを繋ぐ。
アンプの電源プラグは井上が近くの壁のあるコンセントに差す。気が利くというか・・・行動が素早い。ストーカーさながらの行動力を誇る井上ならではと言おうか。

・・・今は演奏に集中しよう。

 俺はアンプの電源を入れてボリュームを少しずつ上げて、五月蝿くならないような音量にしてからチューニングを確認する。
井上は興味深そうに俺の手を見ている。間近で見られると妙に緊張する。
最初にステージに上がった時は観客が怪物に見えて足が竦んだことを思い出す。
今はさすがにそこまで酷くはないが、見ている相手が相手だけに、別の意味の緊張もあるから厄介だ。・・・失敗したら洒落にならないというのに・・・。
 チューニングを終えると、俺は一度浅めの深呼吸をしてから演奏を始める。
寒さで悴(かじか)んでいた指もすっかり元通りになって、ひとりでに動く。これなら大丈夫だ。とくと聴いてもらおう、俺のアレンジを・・・。

 ・・・ダウンストロークで演奏が終わり、弦から指を離すと井上が拍手する。
勉強の一環だということを忘れて「たった一人のコンサート」気分で聴いてたんじゃないか、と思うが、見るからに嬉しそうな顔で拍手されるのは悪い気分はしない。
・・・だが、これに騙されると、後で痛い目に遭わされる。本当に用心してないと気付かないうちに泥沼に嵌まり込んでしまいそうだ。

「凄ーい・・・。CDだと楽器がいっぱいあったのに、ギターだけでも十分雰囲気が出せるんですね。」
「これがアレンジっていうんだ。俺の技術はまだまだ未熟だけど。」
「そうなんですか?そうには思えませんけど・・・。」
「潤子さんのバージョン聞いただろ?あれくらい出来るようになるのが俺の目標だ。」

 潤子さんはピアノの腕は勿論、アレンジの技術やセンスも一級品だと思う。
だからこそ日曜日になると潤子さんを指名してリクエストしようと血眼になるんだが、俺もそれくらい有無を言わせぬ説得力を身につけたいと常々思う。
まったくマスターはどんな魔法をかけたんだろう?
 ・・・井上の表情が沈んでいる。視線も輝きを失って俯き加減になっている。
何か変なことを言っただろうか?思い返してみても心当たりはないんだが・・・。

「・・・潤子さんって、安藤さんから見てもやっぱり魅力的ですか?」
「?そりゃあな・・・。」
「・・・じゃあ、もっともっと頑張らないと駄目ですね。」
「??あ、ああ。」

 再び顔を上げた井上の表情は決意に満ちている。
潤子さんのレベルに達するのは相当難しいと思うが・・・やる気になったのならそれで良い。教える俺としても熱が入るというものだ。

何となく自分の解釈に違和感を感じるんだが・・・
気のせいだろう。


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