Saint Guardians

Scene 2 Act 4-2 誘拐-kidnapping- 宴の時、降りかかる突然の災禍

written by Moonstone

 店の出入り口に「臨時休業」の札が掲げられ、学生や従業員が総出で祝賀パーティーの準備に取り掛かる。会場となる食堂では並べ替えられたテーブルに
テーブルクロスが掛けられ、飾り付けも施されていく。調理場では料理の確認と同時に、材料の仕込みが始まった。
手伝おうと持ち掛けたが、主賓にそんなことはさせられないと頑として拒否されてしまい、暇を持て余すことになったドルフィンは、フィリアに殴られて
寝かされているリーナの元へ向かう。
 「リーナの部屋」と丸っこい文字で書かれたプレートの掛かったドアを軽くノックしてみる。中から誰?と訝しげな声がするが、いつものことなので
ドルフィンは気にしない。

「俺だ。ドルフィンだ。入っていいか?」
「ドルフィン?!うん、入って入って!」

 一転して嬉しさで弾んだ声が聞こえて来るが、これもいつものことだ。ドルフィンはノブを回してドアを開けて、中に入る。

「ドルフィン!お見舞いに来てくれたの?」
「お見舞いか・・・。入院した訳でもあるまいし。」

 ドルフィンは笑みを浮かべてドアを閉め、リーナのベッドの脇に椅子を持って来て腰掛ける。
リーナの部屋は「薬学の基礎知識」「調合による化学変化の解析」といった、薬剤師関係の難解な書籍が並ぶ本棚があると思えば、壁には色とりどりの服が
並び、部屋のあちこちに可愛らしいぬいぐるみが置かれていて、アンバランスな雰囲気を醸し出している。
リーナは鼻に氷嚢を当てていたが、どうやら出血は止まったらしい。ただ、フィリアの拳を浴びた顔にはあちこちに痣が浮かび、見るからに痛々しい。

「どうだ?具合は。」
「もう大丈夫。すっかり元気よ。さっきから外が騒がしいけど、何かあったの?」
「ああ、国王の飼い犬の後始末をな。」
「じゃあ、ドルフィンがあいつらを片づけてくれたのね?」
「後始末だけだ。」
「さっすがドルフィン。やっぱり頼りになるわぁ。」

 リーナはドルフィンにがばっと抱き着く。

「抱き着かれる前に今回はちょっと言っておかなきゃならんことがある。」

 ドルフィンは何時になく厳しい表情でリーナを引き離す。

「リーナ。どうしてあの時、アレンを平手打ちしたんだ?理由もなくいきなり人をひっぱたいたことは、見過ごす訳にはいかん。」
「そ、それは・・・。」
「何故だ?」

 ドルフィンの鋭い瞳に見据えられて、リーナの大きな黒い瞳に涙が浮かび始める。

「ご、御免なさい。あたしも、本当は叩くつもりじゃなかったの・・・。つい・・・。」
「訳も分からずに叩かれた方はたまったもんじゃないだろう。」
「本当に御免なさい・・・。」

 リーナの声が次第に涙声になり、その華奢な体が細かく震えている。ドルフィンが厳しい表情で詰め寄られていることが相当堪えているらしい。

「謝る相手は俺じゃない。後でいいから、アレンにきちんと謝るんだぞ。良いな?約束だぞ。」
「う、うん・・・。」
「よし。」

 ドルフィンは穏やかな表情になって、リーナを優しく抱き寄せる。リーナはドルフィンの胸に顔を埋め、広い背中に腕を回す。

「まったく・・・。人と顔を合わせる度に何かトラブルを起こすな、お前は。」
「だって、だって・・・。」

 何時の間にかリーナは泣いていた。

「あたし、ドルフィンがいてくれないと駄目。不安で寂しくて、どうしようもなくなりそうで・・・。」
「自称レディが情けないこと言ってるんじゃねえぞ。」

 ドルフィンはリーナの頭を優しく撫でる。その瞳は妹を見る兄か、娘を見る父親のそれだ。
声を出さずに細かく体を震わせて鳴咽するリーナから、結局どうしてアレンを平手打ちしたのかを聞き出すことは出来なかった…。
 祝賀パーティーの準備が全て整ったのは、日がかなり西に傾いた頃だった。
従業員だけで7名、住み込みの学生は20名以上いるため、全員の分の食事を準備するために調理場は戦場となった。従業員の雇用主であり、学生の
指導者でもあるフィーグの一人娘ということで別格扱いのリーナは勿論、単身国家特別警察の詰所に殴り込んだドルフィンと、結果的に国家特別警察の
兵力を大幅に削ぎ落としたアレン、フィリアは主賓扱いだ。
 アレンとフィリアが学生の一人に案内されて、会場である食堂に入室すると、盛大な拍手で出迎えられる。あまりの歓迎に、アレンとフィリアは戸惑いを
隠せない。きょろきょろと辺りを見回す二人を、先に来ていたドルフィンが手招きして、左側にフィリアを、右側にアレンを並べる。

「みんな、改めて紹介する。向って左側がアレン君、右側がフィリア君だ。テルサから来たこの二人がリーナと共に決死の覚悟で厳重警備の鉱山に踏み込んで、
国王の飼い犬共の野望を阻止した立役者だ。彼らの勇気と行動力に感謝しようではないか。」

 盛大な拍手と歓声が湧き起こると、アレンとフィリアは照れくさそうに頭を下げる。ドルフィンは次にリーナを手招きして自分の前に立たせる。

「リーナはこの町の住人の一人として、そしてこの店の後継者たる人間として、この町を救う原動力となった。自分の型に背負った重い責任を最後まで
投げ出さなかった責任感に感謝したい。」

 再び拍手と歓声が沸き起こり、正面を向いていたリーナは気恥ずかしいのか少し視線を横に逸らす。
一同の賞賛と感謝を纏めるように、フィーグが前に進み出て謝辞を述べる。

「アレン君にフィリア君。そしてリーナ。本当によくやってくれた。話は全てドルフィン君から聞かせてもらったよ。このパーティーで存分に戦いの緊張と
疲れを解してほしい。本当にありがとう。」

 アレンとフィリアは一礼する。

「さあ、乾杯だ。グラスを用意してくれ。」

 ドルフィンが言うと、テーブルに所狭しと置かれていたボルデー酒やカーム酒、そしてパンニョール32)の栓が一斉に開けられ、各自グラスを持って
思い思いの飲み物を注ぐ。アレンとフィリアがグラスを用意しようとすると、学生達が即座に二人にグラスを渡す。

「何になさいますか?」

 学生に尋ねられて、酒が全く飲めないアレンはパンニョールを、多少飲めるフィリアは−本来は飲んで良い年齢ではないのだが−カーム酒を選ぶと、
二人が手に持ったグラスに学生がなみなみと注ぐ。ドルフィン、リーナ、フィーグには別の学生達がグラスを渡して、ドルフィンとフィーグにはボルデー酒が、
リーナにはパンニョールを注がれる。全員に飲み物が入ったグラスが行き渡ったところで、フィーグが宣言する。

「それでは・・・勇気ある若者達の栄誉を称え、乾杯!」
「乾杯!」

 全員がグラスを視線の高さに合わせ、一気に飲み干す。割れんばかりの拍手が沸き起こり、パーティーが幕を開ける。
それぞれ皿に豊富に揃えられた料理を取って食べ、グラスに飲み物を注いで飲んで歓談する。開始早々アレンは早速、女学生10数名に囲まれる。

「ねえねえ、これ食べない?」
「あ、どうも。」
「アレン君だったっけ?歳いくつ?」
「16です。」
「じゃあ、私達より年下なんだ。彼女とかいる?」
「いえ、今は・・・。」

 フィリアがアレンを奪還するために割って入ろうにも、女学生に完全に包囲されていてその余地がない。予想はしていたものの、母性本能を擽るような
少女的な顔立ちを持ち、さらに今回の一件で行動力と強さが加わったことで、女学生におけるアレンの人気は確固たるものになったようだ。
眉間に薄く皺を寄せるフィリアに、ドルフィンが声をかける。

「アレンの奴、もてもてじゃないか。」
「ええ・・・。それは良いんですけど、何もいきなり取り囲まなくても・・・。」

 アレンのパートナーを自認するフィリアとしては、アレンが自分以外の女性と親しげに−アレンにそんな余裕はないが−話をするのは面白くない。
焼きもち焼き、と言うほど嫉妬深いわけではないが、気に障ることには違いない。

「やっぱり、自分の旦那が他の女と仲良くするのは許せんか?」
「当然ですよ。」

 フィリアは何ら戸惑うことなく断言する。

「あんたねぇ。思い込みも程々にした方が良いわよ。」

 突然、フィリアの背後から声がする。後ろを振り向くと、グラスを持ったリーナが立っていた。
若草色のワンピースに菱形のイヤリングをつけて、精一杯大人の女性を演出している。だが、その童顔と身長のせいで、どうしても背伸びしているという
印象が拭えないのは皮肉である。
 帰還直後に鼻血を出すほどリーナを殴打したフィリアは、お礼参りに来たのかと思い無意識に警戒態勢を取るが、パーティーが始まる前にドルフィンが釘を
差しているから、リーナが攻撃を仕掛けることはない。

「な、何よ。またやろうっての?」
「冗談。パーティーの席上で乱闘騒ぎ起こすほど馬鹿じゃないわよ。」

 そうは言うものの、挑発的な口調に変わりはなく、フィリアはどうしても苛立ちを感じずにはいられない。

「じゃあ、何が言いたいのよ。」
「さっき言ったでしょ?思い込むのも程々にって。」

 フィリアは表情を一気に険しくする。

「な、何ですって?!」
「あんたがあいつのことを彼氏だって思うのは勝手だけど、あいつはそうは思ってないわよ。」

 痛いところをずばり指摘されて、フィリアは反論できない。
フィリアとてそんなに鈍感ではない。アレンが鈍感なことは勿論、自分に対する感情が幼馴染の域を脱していないことは、日頃のアレンの反応から
気付いてはいる。だからこそ、他人に恋人関係を公言することで最大の不安−アレンが自分以外の女性に惹かれて、自分から離れてしまうこと−を
打ち消そうとしているのだ。

「どう誤魔化しても現実は現実。本当に彼氏にしたけりゃ、それなりの行動を取ったら?」

 リーナはグラスに残ったパンニョールを一気に飲み干す。

「もっとも・・・、結果がどうなってもあたしは責任持てないけどね。」
「・・・あんた、もしかして、あたしを応援してるの?」
「何寝ぼけてんの?あんたの応援なんかするわけないでしょ。」

 リーナは言うだけ言うと、さっさとテーブルの方へ行ってしまった。

「・・・ったく。言いたいこと言ってくれるわね。」

 フィリアは苦い顔で相変わらず女学生に取り囲まれているアレンの方を見る。アレンは女学生から質問攻めと食べ物攻勢に遭い、戸惑いながら懸命に
応対している。フィリアはアレンを奪還しようとは思うものの、鉄壁にも見える包囲網を前にどうしても二の足を踏んでしまう…。
 宴も酣(たけなわ)になった頃、ドルフィンはフィーグに呼ばれて共に事務室に居た。ドアには「立入禁止」のプレートが掛けられている。
フィーグがこの札をドアに掲げる時は、ミルマ商工連の会合や従業員、学生個人への通達など、余程の重要時だけである。

「折角の宴の最中に連れ出してすまないね。」
「いえ、私は構いません。リーナの視線が気になりましたが・・・。」
「そうか・・・。私は後でリーナに怒られそうだ。」

 フィーグは少し苦笑いしながら、机の引き出しから白い粉が入った小さな瓶と数枚の書類を取り出す。フィーグの表情が俄かに厳しくなったことで、
ドルフィンは事態の重大さを感じる。

「まずはこの件からだ。君から預かっていたこの粉の成分分析の結果なんだが・・・、とんでもない結果が出た。」
「何ですか?」
「・・・麻薬だよ。」
「麻薬?!」
「そう、同量のシェシェン33)の数千倍の強度を持っておる。マフィア供が知ったら目の色を変えるだろう。」

 フィーグは眉間に皺を寄せながら書類を捲る。

「神経系に強力に作用して伝達機能を完全に麻痺させると同時に、脳内麻薬を過大に分泌させる。痛みや恐怖は感じずに、逆に興奮を呼ぶ。それこそ
死ぬまでな。」
「・・・兵士達はこれを投与されたことで、斬られても完全に息の根を止めるまで立ち上がって来たということ・・・ですか?」
「そうだろう。とんでもなく悪趣味なものを作ったもんだ。結晶の構造からして、普通の麻薬のように植物から精製したものじゃなさそうだ。原料までは
さすがに特定できなかったが・・・。」
「一体、奴等どこでこんなものを・・・。」

 フィーグは書類を机で調える。

「一つ言えることは・・・これまでの国際薬剤師会の会報でも、こんなものの開発に成功したという論文や記事はなかったということだ。まあ、投稿されたと
しても却下されるだろうが。」
「やっぱり奴等のやってることは只事じゃなさそうだな・・・。」

 厳しい表情で考え込むドルフィンに、フィーグは少し間を置いて続ける。

「もう一つ、君に話しておきたいことがある・・・。本当は前から話そうと思っていたが・・・リーナのことについてだ。」
「リーナの?」
「いざ話そうと思うと果たして話して良いものかと・・・。君のあの子を見る目が変わりはしないかと不安になってな・・・。だが、あの娘が実の兄以上に慕って
いる君には、どうしても知っておいて欲しいんだ。」

 ドルフィンは怪訝に思う。しかし、フィーグの表情はかなり思い詰めたものとなっている。

「あの娘は・・・私の実の娘ではない。」
「?!」
「リーナは私の妹の娘、つまり姪に当る。10年前、私が養女として引き取ったんだ。」

 ドルフィンは声も出ない。この家に住み着くようになって以来ずっとフィーグとリーナは父と娘と信じて疑わなかっただけに、ドルフィンに与えた衝撃は
大きい。

「私が引き取ることになったのはあの娘の秘密と関係がある。それはあの娘が人間を激しく憎悪することとも関係がある。」
「・・・何ですか?それは・・・。」

 ドルフィンが尋ねると、フィーグは無言で羽根ペンをメモ用紙に走らせる。渡されたメモ用紙を読むうちに、ドルフィンの目は大きく見開かれ、表情が
強張る。

「そ、そんな・・・。」
「信じられんのも無理はない。妹からこのことを聞かされたとき、この私も動転したよ。」
「小父さんは・・・リーナの実の父親を知ってるんですか?」
「ああ。リーナが生まれる前に一度会ったことがある・・・。妹から話を聞かされたのもその時だ。私は反対したよ。絶対不幸になるだけだと。しかし、妹の
意思は固かった。もっともそうでなければ、リーナはこの世に生を受けていなかったんだが・・・。」

 暫くの沈黙の後、ドルフィンは尋ねる。現在の家族構成から必然的に生じる疑問を。

「では、リーナの実の両親は・・・。」
「父親はリーナが生まれる直前に連れ去られてしまった。母親、つまり私の妹は・・・殺されたんだよ。リーナの目前で。」

 ドルフィンは息を呑む。

「10年前のあの日、私が見た光景は・・・町の外に塵を捨てるかのように放り出された妹の亡骸と、その前で泣きじゃくるリーナだった・・・。あの娘から
何が起ったかを聞き出したとき、私は初めて本気で他人に殺意というものを感じたよ。だが・・・、これ以上リーナに血を見せたくないと思って、黙って
リーナを連れて帰った・・・。」

 フィーグは目を瞬かせる。

「幸いあの娘は私になついていたから、すぐに私を父と呼ぶようになったよ。だが、物心着く以前から浴びせられた偏見と暴力があの娘の心に刻み込んだ
傷は、想像以上に深く大きなものだった。あの娘が、誰も自分に味方してくれないと絶望してしまうことを恐れるあまり、私は叱れなかった。どうしても・・・。
あの娘をああしてしまったのは私の責任なんだ・・・。」
「・・・小父さんには何の責任もありません。むしろ、今日までリーナの親としての責任を全うして来たことを誇るべきです。」
「・・・親としての責任・・・か・・・。私は・・・何も出来てない・・・。」
「このことは、私の心の内に仕舞っておきます。これまで通りリーナとは父と娘、兄貴分と妹でいいじゃないですか。それで・・・。」

 ドルフィンが手にしたメモ用紙に小さな炎が灯る。メモ用紙は見る見るうちに白から茶褐色、やがて黒一色へと変わっていく。
炎が消え、縮こまった灰になったメモ用紙を、ドルフィンは握り潰してぱっと床にばら蒔く。フィーグは俯いて小さく頷く。
 リーナの他人に対する目に余るほどの粗暴ぶり。それを殆ど窘めないフィーグ。ドルフィンが心の片隅で抱いていたこの親子の謎は氷解したが、同時に
親子の苦悩に深く立入ることになった。とりわけ、例外的に自分を慕っているリーナの秘密は、リーナ自身の将来にも係わる重大事である。
それに直面した時、親子の苦悩は更に深まるだろう。自分にそれが分かち合えるのだろうか?否、分かち合わなければならない。それがこの親子と家族
同様に、否、家族の一員として過ごしてきた自分の責任だろう。
ドルフィンは、無言のまま目を伏しているフィーグを見詰めながら、家族という絆の重みを感じ取っていた…。
 ドルフィンが再びパーティー会場に戻ると、アレンとリーナの姿が無かった。フィリアが床を片足でカタカタと踏み続け、見るからに落着かない様子で
立っている。会場の女学生もフィリアほどではないが、何やら囁きあったり不安そうな表情を浮かべたりと落着かない様子である。

「どうしたんだ?」
「ドルフィンさん!大変なんです!あいつがアレンを誘拐したんです!」
「私達と話してたらいきなり彼の腕を掴んで、強引に引き摺り出したんですよ。」
「絶対ついて来るな、来たら只じゃ済まさないってお嬢様が言うので・・・。」

 フィリアや女学生の不安が一気にドルフィンに打ち明けられる。左右から浴びせられる説明と不安の告白で少々混乱しかけたが、ドルフィンは事情を
把握する。

「直ぐに戻って来るさ。」
「でも・・・!」
「少なくとも恋愛ごとじゃないから、心配は要らんよ。」

 ドルフィンの一言で、フィリアと女学生は一様に安心した様子で溜め息を吐く。考えていたことはどうやら全員同じらしい。
 当の本人達は二人だけで屋上に居た。満月に近い月光が、ミルマ市街を夜の闇の中に浮き上がらせている。
アレンに背を向けてそわそわした様子を見せるリーナの長い黒髪がその動きに合わせて揺れ、黄色がかった白色光を不規則に反射して神秘的な煌きを
見せる。黒髪はレクス王国周辺では非常に珍しく、さらにリーナは瞳の色もさらに珍しい黒である。黒い髪と瞳の組み合わせはブラック・オニクスと
譬えられる希少なもので、勿論アレンは初めて目にする。これまでは緊迫した状況の連続だっただけに気にかける余裕が無かったが、それを抜け出した
今ではその美しさに素直に見入る。
 屋上に来てから優に10ミム以上経過していたが、リーナはアレンに背を向けたまま一言も喋らないでいる。フィリアなら既に怒りの小瓶を沸騰させていても
不思議ではないが、アレンは割とおっとりしているし、リーナが背を向けていることでブラック・オニキスの煌きが堪能出来るとあって、焦らされるような
時間はさほど気にならない。
 リーナが後ろを窺うように振り向く。アレンは戦いで見せた冷血ともいえる表情や行動を連想して、思わず少し身構えてしまう。
しかし、リーナの表情に険はなく、はにかんでいるようにも、何か言いあぐんでいるように見える。無意識に出た警戒心を引っ込めて、アレンはリーナの
出方を注意深く窺う。
暫く様子を窺うように首だけ向けていたリーナが、ポニーテールに纏めた髪を靡かせながらアレンと向かい合う。2メール程の二人の距離に緊張感が走る。

「・・・あんたを叩いたのは、そのつもりがあったからじゃない。」
「?」
「だから・・・悪かったと思う。」

 アレンは断片的なリーナの告白から事情を読み取る。鉱山から戻ってきて直ぐ、いきなり平手打ちしたことを謝りたいようだ。だが、どうも謝ることに
慣れていないらしい。その表現がたどたどしいというか、何処か言い難そうなのはそのせいだろう。

「うん。もう良いよ。ちょっと痛かったけどね。」
「痛かったかどうかなんて知らないわよ。あたしはそのつもりはなかったんだから。」

 やはりリーナは謝ることに気が進まないようだ。多分ドルフィンに釘をさされてのことのだろう、とアレンは察する。

「1つ・・・聞きたいんだけど。」
「何よ。」
「どうして俺を殴ったのかってこと。」
「・・・あんたの知ったことじゃない。」
「・・・そういう言い方はないんじゃないか?」

 リーナの言い草にさすがにむっとしたアレンは、少し語気を強める。

「殴られたのは俺の方だぞ。それもいきなり。理由も分からないのに殴られたなんて納得できないんだよ。」
「なら納得しなきゃ良いじゃない。」
「人の話聞いてるのか!」
「何よ!偉そうに!」
「それはこっちの台詞だ!いきなり人を殴っておいて何だよ、その言い方!」

 いつになく語気を強めるアレンの頬から、乾いた音が人通りが途絶えた夜の街に拡散する。続いてもう一回、乾いた音が街に響く。今度はリーナの頬から。
顔が横に振られただけのアレンと違い、リーナは身体が顔の向いた方向に傾く。
 珍しく感情に任せてアレンが放った平手打ちは、かなりの威力を発揮した。如何に外見が少女的でも、決して軽いとは言えない剣を振り回せるだけの
腕力はある。リーナはどうにか持ちこたえようとしたが間に合わず、その場に座り込んでしまう。

「・・・殴られたら誰だって痛いんだ!」

 アレンは殴られた左頬に手をやりながらリーナに向って語気を荒らげる。

「お嬢様だか何だか知らないけど、やって良いことと悪いことくらいしっかり区別したらどうなんだよ!」

 反撃を予想して身構えるアレン。だが、予想に反してリーナは反撃してこない。それどころか立ち上がる気配すら見せず、下を向いたまま動かない。
その様子に少し怒りが静まったアレンは、身構えるのを止めてリーナの様子を窺う。不意にリーナは勢い良く立ち上がると、アレンの脇を走り抜けて
ドアを開けて出ていった。

「・・・泣いてた?」

 暗くてはっきりは見えなかったが、リーナの目元で月光が反射していたのが見えた。まだヒリヒリする左頬を摩りながら、アレンはリーナの頬を打った
右手の掌をじっと見詰める。乾いた音と共に感じたリーナの頬の感触が蘇って来る。頬から感じる滲むような痛みと、胸に感じる締め付けられるような
痛み。

「・・・痛い・・・。」

 アレンはぽつりと呟く。
感情が昂ぶっていたとは言え、力任せに頬を打ってしまった。しかも女の子の頬を。
男として恥ずべき行為と信じてきたことを感情に任せてやってしまったことに、アレンの心に圧し掛かる罪悪感がさらに重みを増す。
 頬を打たれたのも初めてだ。だが、頬を打ったのも初めてだ。

殴られたら誰だって痛いんだ!

押し潰されそうなアレンの心に、リーナに浴びせた自分の言葉が重厚すぎるほどの残響を生む。アレンは見詰めていた右手の掌をぐっと握り締め、
重い足取りで屋上を後にした…。
 俯き加減に右腕で目の辺りを隠したリーナは、誰も居ない廊下を激しい足音と共に走り抜け、自室に駆け込む。力任せにドアを閉めるとそのままベッドに
飛び込み、うつ伏してしまう。身体を小刻みに震わせ、左手でベッドを何度も叩くリーナの左頬には、うっすらと赤い手形が浮かんでいる。
頬を打たれたことは相当ショックだったようだ。それも頬を打ったのが、自分の意に反して謝罪という行為をしなければならない相手だったのが拍車を
かけている。
 ランプを点けていない室内は外の闇と一体化している。窓を覆うカーテンの周囲が僅かに光り、家具がぼんやりとその輪郭を浮かび上げている。
街灯などない夜の町は、家々の窓から洩れる灯り以外に闇を弱めるものはない。唯一の天然の街灯である月が出ていない夜は、神秘ではなく恐怖や不安を
イメージさせる。
 暫くベッドにうつ伏していたリーナは、ようやく顔を上げる。ぐいと右腕で両目を拭うとベッドの上に座り、アレンに打たれた左頬に手をやる。
軽い火傷をしたような痛みを感じると同時に、脳裏に頬を打たれた時に投げかけられたあの言葉が響く。

殴られたら誰だって痛いんだ!

 アレンと違い、リーナが頬を打たれるのは初めてではない。初めてリーナの頬を打った相手は、他ならぬドルフィンである。
あの時はドルフィンの迫力に押されたのと同時に、自分を初めて叱った父フィーグに対する反発という形で誤魔化した反省の気持ちを露にさせるだけの
正論があった。
 だが、今回はあの時とは違う。叩くつもりはなかったが、ドルフィンに知られたくないことを口走ろうとしたアレンの方が悪い。そう思っている今のリーナの
心に占める割合は、反省より悔しさや怒りの方が遥かに大きい。

「何よあいつ・・・!偉そうに・・・!」

 リーナはベッドに右拳の力任せの一撃を叩き込む。柔らかい布団にめり込んだ拳がわなわなと震える。力任せに何度も何度も、布団を殴りつける。
あの時頬を打たれたショックで何もやりかえせなかった自分にも、リーナは腹を立てているのだろう。
 シーツが皺くちゃになってリーナの膝元に寄せ集められた頃、ようやくリーナの八つ当たりは止んだ。右の拳が布団に深々とめり込んだまま、肩で荒い
息をしている。呼吸が落ち着きを取り戻すと、リーナは一度大きく深呼吸して視線を上げる。
窓の外は部屋と同じ闇一色の、音も飲み込まれた静寂の世界が広がっている。薬学の勉強で夜遅い為見慣れた筈の闇が、今日に限っては何故か嫌な
ものを見ているように思う。何処までも深く、何も見えない閉ざされた世界。そう、それはまるで・・・リーナの心の中を表現したような・・・。

「あたしは・・・悪くない。」

 リーナは窓を見ながら低い声で呟く。耳にするものの魂を凍らせるような、あのどす黒い憎悪の篭った声で。
 その時、窓から一瞬何かの輪郭が浮かんだかと思うと、激しい音と共にガラスが破られる。破られた窓から、黒一色の鎧に全身を包んだ騎士が数名、
一斉に雪崩れ込んできた。突然の出来事に動転し、兎に角逃げ出そうとするリーナの腕を、騎士の一人が鷲掴みにする。金属の篭手から伝わる冷たさが、
リーナに嫌でも恐怖を感じさせる。

「ドルフィン!!助けてぇーっ!!」

 有りっ丈の声で叫ぶリーナの後頭部を、騎士の一人が手にした槍の柄で殴打する。短い呻き声を上げてぐったりとなったリーナを、その腕を掴んだ騎士が
肩に担ぐ。物凄い勢いで階段を駆け上る足音が、幾つも近付いて来る。窓ガラスが破られる音とリーナの悲鳴を聞いたドルフィンとアレンが、剣を抜いて
駆けつけてきたのだ。

「撤収だ。」
「了解。」

 騎士達は速やかに窓から外へ出て行く。その動きは国家特別警察とは違い、見事なまでに整然としていて乱れがなく、そして無駄がなく素早い。

「リーナ!!」

 ドルフィンがドアを蹴破って中に入った時、既に部屋にリーナの姿はなかった。ただ、無残に破られた窓から微かに吹き込む風がカーテンを揺らし、
消えた主の姿と共にこの部屋で何かが起こったことを無言で示している。
ドルフィンは一目散に窓に駆け寄る。遠くの方に、小型のワイバーンに乗った幾つかの黒い人影が猛スピードで遠ざかっていくのが見える。
もはや何が起こったのかは明らかだ。

「・・・遅かったか・・・。」
「ドルフィン?!」
「攫われた。リーナが・・・。」

 ドルフィンは闇を見ながら憎々しげに呟くと、身を翻してアレンの横を通り抜けて部屋を出ていく。まだ事態が完全に把握できていないアレンは、慌てて
その後を追う。
 1階まで下りたところで、アレンとドルフィンはフィーグと出くわす。ドルフィンに危険だから待つように言われたフィーグは、ドルフィンに詰め寄る。

「ド、ドルフィン君!リーナに何があったんだ?!」
「・・・攫われました。」
「!な、そ、そんな・・・。」

 悪い方の予想が当たったことを知ったフィーグは、その場にがっくりと座り込んでしまう。同じ様に待機していた従業員や学生達、そしてフィリアも
衝撃の大きさは隠せない。

「一体どうしてリーナが・・・。誰が何の目的で・・・?」
「誰かは大凡察しはつきます。恐らくは・・・首都から派遣された国王配下の特殊部隊といったところでしょう。」
「特殊部隊って・・・。」
「これまでの権力を笠に着ただけの奴等と違って手際が良すぎる。それに奴等は明らかにリーナを狙ってやって来た。」
「どうして分かるんだよ?」
「いきなり3階の、それもカーテンが閉じられてランプも点いてない暗闇の中で部屋の主や所在を魔法探査を使わずに確認できる筈がない。使っていたら
俺やフィリアも感じる筈だ。奴等は最初からリーナの部屋があそこで、リーナが部屋に一人でいることを知っていた。」
「ちょ、ちょっと待ってよ。それって・・・。」
「ああ、手引した奴が居る。」

 一同に更なる衝撃が走る。特に従業員や学生を殊更大切にしてきたフィーグにとっては、身を切られるような思いすらする。疑心暗鬼でお互いを見回す
従業員や学生は、一人の学生の姿が見えないことに気付く。

「あ、あれ?ブライトの奴が居ないぞ。」
「本当だ。さっきまで居た筈なのに・・・。おい、まさか・・・。」
「・・・決まったな。」

 ドルフィンの短い言葉で、一同の周囲に重苦しい空気が立ち込める。従業員や学生皆を尊重し、大切にしてきたにも関わらずその中の一人に裏切られた
フィーグは、その深い絶望感に肩を落とす。
やり場のない怒りにドルフィンは、ぐっと唇を噛む。そんなドルフィンの表情を目にするのは、勿論アレンとフィリアは初めてだ…。

用語解説 −Explanation of terms−

32)パンニョール:果汁に炭酸を加えた飲み物でアルコール成分はない。祝杯の席でよく使われる。

33)シェシェン:成分的にはコカインと同等の麻薬。適量であれば麻酔薬、沈痛薬ともなるが、禁断症状を引き起こす恐れがある為、精製は薬剤師しか
出来ないことになっている。しかし、この世界でもマフィアの重要な資金源になっている。


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