名探偵コナン Side Story

タイムリミットは24時間

File 1:駆け引きで得る時間とチャンス

written by Moonstone

「あの時、事件に行ったりしなけりゃ・・・。]

 コナン=工藤新一は、毛利探偵事務所の応接用ソファに寝転がりながら思う。
灰原哀から「死ぬかもしれないけど」と前置きされた上で受け取った、APTX4869の解毒剤。一か八かでそれを服用したコナンは新一に戻り、復学した当日に蘭を
展望レストランに誘った。父優作が母有希子にプロポーズした席を予約し、言うことを言うつもりだった。しかし、言おうとしたところで上がった悲鳴に事件の臭いを感じ、
皮肉にも優作と同じように事件を解決したものの解毒剤の効果が切れてしまい、姿も蘭との関係も服用前に逆戻りしてしまった。事件の臭いをかぎつけるとその場に
急行する癖が、あれほど嫌に思えたことはない。
 灰原の忠告どおり解毒剤の服用で死んでも構わないという覚悟は出来ていた。限りある命となっても良かった。危険な博打であることを承知で解毒剤を服用したのは、
蘭に言うことを言う、すなわち父に倣ってプロポーズするためだった。にもかかわらず何時もの癖で最大のチャンスを逃してしまった。解毒薬を作った灰原は、推理フェチの
コナンには渡せないとにべもない。加えてコナンが服用した解毒剤はあくまで試作品であり、次の服用は命を落とす危険を更に高めると言った。
 コナンの脳裏における回想は、展望レストランの予約席で向かい合った際の蘭の表情に変わる。コナンではなく新一として久しぶりに間近で見つめる蘭は、新一から
コナンに変わったトロピカルランドでのあの事件の時より美しくなり、魅力が増したように思う。近くて遠い表面上は他人という立場に立って初めて、蘭の存在が自分にとって
かけがえのないものだと分かった。少し頬を赤らめて真っ直ぐ自分を見つめる蘭を思うと、コナンは胸に少し苦しい高鳴りを感じる。
 組織との静かな、しかし激しい戦いは今も続いている。戦いで命を落とす可能性はないとは言えない。標的は勿論関係する人物も残らず抹殺する組織と対峙し続ければ、
命が存亡の危機に陥ることはむしろ必然と受け止めている。コナンに変わったのはある意味自業自得だとコナン自身分かっている。だが、あの時にも発揮された自分の癖で
今も長く寂しい思いをさせている蘭には何の責任もない。もし、自分の身に何かあっても蘭には幸せになってほしい。だが、言うことは言っておきたい。曖昧なこと
この上ない可能性の向こうにある蘭との本当の再会より前に。

・・・。

 暫し天井を見つめたコナンは意を決して身体を起こし、ソファから飛び降りて足早に探偵事務所を出て行く。その表情には硬い決意と共に悲壮感が浮かんでいる・・・。

「駄目よ。」

 灰原の冷徹な拒否の言葉がコナンに返される。場所は阿笠博士の自宅兼研究所。その地下にある灰原の研究室に駆け込んだコナンは開口一番、灰原にAPTX4869の
解毒薬を要求したが、PCのモニタに向かっていた灰原は身体の向きを変えて即座に拒否した。

「何度言えば分かるの?あれは試作品。今度服用したら本当に死ぬ危険性があるって。」
「それは承知の上だ。」
「承知の上で服用して、本題より突発的な事態を優先させる推理フェチの貴方が次も同じ失態を犯す確率を考慮すると、却下しか選択肢はないわ。」

 灰原の言葉は痛烈な批判が込められている。
灰原もコナンが危険な賭けに身を投じてでも解毒薬を服用した理由は分かっている。折角新一に戻ったにもかかわらず目の前の蘭を放り出して事件現場に駆けつけるなど、
灰原でなくとも失笑ものだ。再びシチュエーションを整えても事件が起これば新一が脊髄反射的に事件の方に向かう可能性と、次回の服用で死に至る危険性のどちらが
高いかを考えるなど、灰原にとってはこれまた失笑ものだ。
 灰原に痛いところを突かれたコナンは口篭る。不気味なほど冷静沈着で物事を批判的に見る姿勢が強固に構築されている灰原を論破するのは至難の業だ。
しかし、解毒剤を作れるのは灰原のみだ。灰原を説得しないことにはコナンが赴いた目的、すなわち一時的でも新一に戻って蘭に言うべきことを言うことは叶わない。

「頼む!灰原!解毒剤をくれ!」
「駄目よ。」
「このとおりだ!」
「却下。」
「頼む!!」
「無駄よ。帰りなさい。」

 ついに頭を下げて懇願するコナンを、灰原はあくまで冷徹に退ける。灰原を情で動かすことは不可能に近い。コナンはどのように灰原を説得するかと懸命に思案する。
灰原は言いあぐむコナンに背を向け、キーボードに手を添え直す。もはや話をする余地はないと言わんばかりの態度をあからさまにされ、解毒薬欲しさで冷静さを
失い始めていたコナンの頭に血が上る。

「灰原!話くらい聞けよ!」
「詰めに窮して逆ギレ?それに貴方の話は散々聞いたわよ。それに対する私の返答は却下の一言。これ以外にないわ。」
「くっ・・・。」
「分かったら帰りなさい。研究の邪魔よ。」

 灰原は冷徹に話し合いの終了を告げ、再びコナンに背を向ける。このままでは埒が明かない。しかし灰原を説得する妙案は思いつかない。
情で灰原は動かないことは明らかだ。ならば・・・!

「・・・毒薬作った張本人が、飲まされた被害者を前にして取る態度かよ。]

 非難と皮肉が多分に篭ったコナンの言葉で、灰原のキーボードを叩いていた手がピタリと止まる。苦し紛れにコナンが口にした言葉は灰原にとって痛撃になり得るが、
灰原の負い目や良心を痛撃するものだから灰原との関係を険悪にしかねない。灰原は孤独を恐れないタイプだ。決裂で仲間を失うことになるとしても−灰原がコナンを
仲間と思っているかどうか疑問だが、コナンと決別することになっても灰原は躊躇しないだろう。
 これまで懇願や恫喝がまったく通用しなかった灰原の壁に突破口を見出したコナンは、試作品の解毒薬を服用することとは別の危険性を覚悟で灰原に詰め寄ることを選ぶ。
今のコナンにはそれしか思いつかない。

「組織の命令だったとか、毒を作ってるつもりはなかったとか、そんな言い訳は通用しねぇぞ?灰原。」
「・・・。」
「俺はオメーの作った薬でこうなっちまった。俺だけじゃねぇ。オメーの作った毒でどれだけの人が殺されたか、考えたことあんのか?」

 コナンに背を向け続けている灰原の身体が一度だけ小さく震える。その表情はコナンから窺い知ることは出来ない。

「毒薬の製造者として、落とし前つけたらどうなんだ?灰原。」
「・・・それもそうね。」

 灰原はキーボードから手を離し、コナンに背を向けたまま席を立つ。そしてデスクの引き出しの1つを開けて何かを取り出す。息詰まる思いで灰原の出方を窺っていた
コナンの眉間に、黒光りする物体が突きつけられる。眉間から冷やりとした金属の感触を感じたコナンの全身が瞬時に硬直する。紛れもなく拳銃だ。コナンの眉間に
拳銃を突きつける灰原は表情こそ変わっていないが、その瞳には激しい感情が燃え上がっている。

「いったい何の騒ぎかね・・・?!」

 地下室からの激しいやり取りを聞きつけてドアを開けた阿笠は、眼前のただならぬ光景に仰天する。外見は小学生の2人が、しかも双方の身辺を知らない筈がない
2人が拳銃を突きつけ突きつけられているのを目にして驚かない方がおかしい。

「こ、これ!哀君!」
「博士は黙ってて。」

 制止しようとした阿笠を、灰原はコナンを見据えたまま冷徹に止める。部外者の介入は許さないという強い気迫が、灰原の全身から立ち上っている。

「オメー・・・、どうしてこんなもん持ってやがんだ・・・?」
「何かと物騒で『自己責任』が殊更強調されるこの世の中、自衛の手段を躊躇う必要はないわ。」

 冷徹に紡がれる灰原の言葉は、瞳だけ激情が溢れる以外普段と変わりない表情と相俟って、強烈な迫力と恐怖を呼び起こす。

「貴方は本来、私の作った薬−APTX4869を飲まされた時点でこの世から消える筈だった。だけど、極めて小さい確率で肉体が幼児化したことで生き延びた。
イレギュラーの原因はまだ究明出来ていないけど、貴方の言うとおりAPTX4869の開発者として落とし前をつけるべきではあるわね。」
「あ、哀君・・・。」
「・・・で?オメーの落とし前のつけ方ってのは、イレギュラーの消去かよ・・・。」
「そうよ。安心して。貴方を殺したら同じくイレギュラーの結果生き延びた私も死ぬから。」

 銃口をコナンの眉間に突きつける灰原の言葉からは冗談の意思はまったく感じられない。
元々灰原は冗談を言うタイプではない。言葉どおりコナンを射殺した後で自分にも引き金を引くだろうし、それを躊躇うこともないだろう。
 動物実験の段階では肉体の幼児化が起こりうることは判明していたが、原因を究明する前に組織がAPTX4869の使用に踏み切って、以降原因の究明はなされていない。
APTX4869を生成した灰原は姉の明美が組織に殺害されたことに抵抗し、粛清される前に死ぬ覚悟で隠し持っていたAPTX4869を服用して幸か不幸か肉体が幼児化
したことで脱出したから、APTX4869の生成に必要なデータを所持していない。解毒剤の試作が手探り以外に方法がないことがAPTX4869の境遇、すなわち灰原を
封じればAPTX4869の生成も解毒も全て闇に消えることを如実に物語っている。

「・・・オメーによって殺されるべきだった筈の俺が生き延びてるのはおかしいから、今此処で俺を殺してやる、ってことかよ・・・。」
「9割方正解ね。さ、誰かさんに遺言があるなら言いなさい。博士を通じて伝えてもらうから。」
「・・・どのみち死ぬってんなら、死に方くらい俺が選べても良いんじゃねぇか?」

 コナンは妥協案を提示する。口元に不敵な笑みを浮かべているし口調も何時ものものだが、眉間に突きつけられる拳銃の金属特有の冷たい感触と灰原の背筋が
凍るような冷たく鋭い視線を感じて、絶叫しそうなところを懸命に抑えてポーカーフェースを装っているに過ぎない。拳銃の感触で失いかけていた冷静さを幾分でも
取り戻せたのなら、これまた皮肉な話だ。

「薬を飲むにしても拳銃で撃たれるにしても死ぬんなら、結局オメーに殺されることには変わりねぇ。だったら・・・、死に方くらい俺に選ばせろよ。」
「「・・・。」」
「それくらいの権利はよこしても良いんじゃねぇか?灰原。」
「・・・それもそうね。」

 少しの、しかし重苦しい沈黙の後、灰原はゆっくりと拳銃を引っ込める。冷や汗が堰を切ったように噴出すのを感じながら、コナンは表情を崩さずに灰原の動向に
神経を集中する。灰原は拳銃を白衣のポケットに仕舞い、小さく溜息を吐いて口先を少し吊り上げた冷たい笑みを浮かべる。

「貴方の策略に乗ってあげるわ。」
「そりゃ光栄なこった。」
「丁度試作品のデータが完成したところだったの。貴方への餞(はなむけ)とするには好都合ね。」

 皮肉たっぷりの言葉をコナンにぶつけた灰原は、改めてモニタに向かう。コナンは気づかれないように、阿笠は隠さずにそれぞれ深い安堵の溜息を吐き、灰原のモニタを
見るために近づく。モニタには複雑な分子の立体構造が描かれていて、灰原がマウスを操作すると上下左右に回転して構造を全方向から確認出来る。薬剤合成で使われる
分子構造のシミュレーションソフトだ。

「前回貴方が服用した試作品−以降Aタイプと言うけど、それで得られた持続時間等のデータを反映させたものが、このBタイプ。」

 灰原はキーボードを手早く操作する。小ウィンドウが開き、そこに幾つもの数値が表示されて猛烈な速さで回転を始める。

「BタイプはAタイプより肉体への作用時間を精密にコントロール出来るように設計したわ。」
「作用時間をコントロール出来るんなら、1回服用したら効果がずっと持続するように出来るんじゃねぇのか?」
「現時点では、作用時間を限定して薬剤の効果を詰めていくのが最も効率的。製造データの存在しない薬剤の効用を消す薬剤の生成は余計に手間がかかるのよ。」

 複雑な化学合成が実現出来るようになった反面、生成した薬剤がどのように作用するか、効果はどの程度の強さでどのくらい持続するかといったことを予測するのは
更に難しくなっている。一昔前−と言っても高々20年か30年前だが、その当時は全国に片手で数えられるほどしかなかった大型コンピュータより高速且つ小型のパソコンが
個人レベルで容易に入手出来るようになり、グラフィックカードの性能向上もあってパソコン上で動作するシミュレーションソフトの演算速度や描画能力は格段に向上した。
それを利用しなければとてもやっていられない量の演算を複数の条件下で実行することで得られる結果を元に薬剤の効能を評価するのだが、それでも副作用などを
完全に予測出来ない。対象が複数の薬剤を服用していたりアレルギーなど特別な条件が加わったりすると、大学や研究所にある大型コンピュータで動作する高性能
シミュレーションでも手に負いきれなくなる。副作用は最悪の場合死に直結するから、それを出来るだけ未然に防げるように「お薬手帳」の所持と記載が推奨されているのだ。
 APTX4869は細胞の自己死(アポトーシス)を誘導して服用者を殺害する作用を有する。その作用は副次的なものだったし、組織が未完成のまま使用に踏み切ったのは
殺害の痕跡を残さないという特徴に目をつけてのことだ。両親からAPTX4869の開発を継承した灰原でもATPX4869の作用メカニズムは完全に把握出来ていないし、
低い確率死ぬことなく肉体が幼児化することなど完全に想定外だ。原因を究明するにはAPTX4869の生成データがどうしても必要だが、それは未だ得られない。
となれば、服用者の中で生存しているコナンと自分から試料となる細胞や血液を採取して肉体への作用メカニズムを推測し、そこから効能を打ち消す策と薬剤として実現する
方法をやはり推測するしかない。灰原が試作品の解毒薬の服用に「死ぬかもしれない」と忠告するのは、薬剤が出来る背景を知っていれば当然付与すべきことである。

「Bタイプの作用時間は24時間プラスマイナス5分。」
「ほぼ1日か。」
「服用と効能が切れた際にはAタイプ服用時より激しい苦痛を伴うでしょうね。作用時間のコントロールに重点を置いた分、服用と効能が切れた際の苦痛の抑制が
おざなりになってるから。肉体が元に戻ったのを確認するより前に苦痛に耐えられなくて死ぬ可能性もある。・・・覚悟は良い?」
「・・・ああ。」
「じゃあ、1日待ちなさい。生成出来たら呼ぶから。」

 灰原はパソコンをロックして、研究室の奥にある複雑な形をしたガラス器具が組み合わせられた合成装置に向かう。ドラフト(註:化学合成実験で使用される排気装置)に
すし詰め状態のこの合成装置から薬剤が作り出される。化学合成、特に有機合成は完了まで数時間を要することが珍しくない。その間ガラス器具内部の温度や冷却水
(註:蒸気になった化学成分を冷やして液体に戻すために使われる水道水)の流れ具合を監視しなければならない。監視の専用装置は徐々に加えているが、複雑かつ
大規模な合成装置の全てを網羅するには至っていないから、灰原が付きっ切りで監視する必要がある。その間灰原はほぼ徹夜することになるが、化学合成を伴う薬剤生成に
長く携わっている灰原には苦にならない。
 灰原が薬剤合成に着手するのを見届けたコナンは、Bタイプと称された新たな解毒剤の完成まで待つ以外にないからすんなり退室する。緊迫したやり取りの連続が
ようやく終わったことで、阿笠は胸をなでおろす。

「やれやれ・・・。心臓に悪いぞい、哀君。」
「ついでに心臓の薬も合成しても良いけど?」
「否、ワシは遠慮しておくよ。」

 何が出来ても知らないと言いたげな笑みを浮かべての灰原の誘いを、阿笠は丁重に辞退する。
材料となる薬品も器具も揃っている場所に居る灰原は、ある意味刃物を持った幼児より危険だ。「後始末が大変だから作らない」と灰原は否定するが、その気になれば
毒薬のみならず毒ガスでも作れることを灰原は常々仄めかしている。灰原の機嫌を損ねれば、衣食住を提供している阿笠にも身の危険が生じないとの保障はない。

「何も分かってないんだから・・・。」
「百も承知とは言え、新一君も危険なことをするもんじゃのぉ。」

 阿笠の同調に灰原は小さい溜息を吐く。灰原の言葉の裏に隠された2つの真意を掴める者は居ないだろう。
灰原は目を保護するゴーグルを着用し、ドラフトを稼動させてから薬剤の原料の混合を始める。Bタイプと称された新たな解毒薬の完成まで、灰原の孤独な戦いは続く・・・。

 翌日。コナンは前日とは打って変わって軽やかな面持ちで阿笠宅に駆け込む。灰原から解毒剤Bタイプの生成完了の連絡が入ったからだ。一時的とは言え元の姿−
新一に戻れることで前日から浮き足立っていたコナンは、高揚する気持ちを抑えられない。
 灰原は地下の研究室ではなく、リビングに居た。ソファに深く腰を下ろし、足を組んで紅茶を口にする灰原の顔には疲労の色が浮かんでいる。自分を見つけて
目を輝かせて駆け寄るコナンを見て、灰原はいい気なもんねと一人ごちる。

「灰原。解毒剤くれよ。」
「夜を徹して生成した人物を前に、一言もなし?」
「あ、悪ぃ悪ぃ。お疲れ、灰原。てことで解毒剤くれよ。」

 解毒剤しか頭にないことが丸分かりのコナンに、灰原は再びいい気なもんねと一人ごちり、ティーカップをテーブルに置いて白衣のポケットから錠剤を取り出す。
生成されたばかりのAPTX4869解毒剤Bタイプだ。解毒薬を見たコナンが手を伸ばすと、灰原はそれをかわす。コナンの伸ばした右手が空を切り、勢いもあって前のめりに
転びそうになる。

「出し惜しみすんなよ。」
「そんな調子じゃ、私が故意に偽物を出しても何の疑いもなく服用して、最悪死ぬわね。」
「・・・嫌味かよ。」
「そう受け取ってもらえれば結構よ。」

 解毒剤を持っていることを餌に話の主導権を握った灰原は、改めてコナンに解毒薬を差し出す。座る姿勢も相俟って「恵んでやる」という上から目線の灰原をコナンは
苦々しく思うが、解毒薬を受け取るまでの辛抱と自分に言い聞かせ、灰原が指先で摘んでいる解毒薬を手に取る。

「言っとくけど・・・。」

 早速解毒薬を飲む場所を探し始めたコナンに、灰原が姿勢こそそのままで余裕の笑みを消して言う。

「作用する際と効能が切れる際の苦痛はAタイプより増している筈。事件と推理に夢中になってたら、苦痛でのた打ち回る無様な姿を不特定多数に晒す羽目になるわよ。」
「分かってるって。」
「貴方の『分かってる』は政治屋の『記憶にない』と同様到底信用ならないわ。貴方の忘れっぽさに釘を刺すついでに・・・もう1つ。」

 灰原の表情がより真剣さを強める。解毒剤を飲もうと逸っていたコナンは思わず緊張で息を飲む。

「試作品はあくまで試作品。更に大本の薬剤のデータがない基で推測に推測を重ねて設計・生成したもの。予想出来ない副作用が勃発する可能性は捨てきれない。
作用している間に心停止を起こすかもしれないし、効能が切れた後で肉体が幼児化を通り越して消滅するかもしれない。チャンスはこの1回限り、次はないと思いなさい。
・・・良いわね?」
「・・・ああ。」

 灰原の忠告がコナンの胸に重く響く。
Aタイプを服用した際も、蘭にコナンが新一であることなど真実を明かすために死を覚悟で臨んだ筈だった。元の姿に戻った機会に蘭に言うことを言う筈だった。
しかし、事件の臭いを嗅ぎつければそれを最優先する日頃の癖が、本来隠密のうちに蘭と接触するために劇の衣装で包んだ新一である姿を公の場で自ら晒させ、
ついには周到な準備をしてまで言うつもりだったことを放り出させて貴重な機会をみすみす逃させた。
予想される前回を上回る苦痛を耐えて元の姿に戻るこの機会を逸すれば、仮に生存出来たとしても以降の解毒がまったく効かなくなり、このままコナンとして一生を
過ごさなければならなくなる可能性もあるし、灰原が一度ならず二度までも同じ失態を繰り返したコナンに愛想を尽かして以降の解毒剤製作を放棄する可能性もある。
 灰原は元々組織に粛清されるより自ら死を選ぶつもりで解毒剤を服用したから特に元の姿に戻りたいと思わないし、新一と違って身寄りも護りたい人も居ないから
元の姿に戻る必要性もない。灰原が解毒薬を生成するのはコナンのためだけであって、それを継続するか放棄するかは灰原の気持ちひとつだ。
機嫌を損ねる云々ではなく、限られた時間とチャンスを確実に生かさなければならない時だ。「失敗は成功の元」というが、やり直しの出来ない、取り返しのつかない
失敗もある。灰原の言うとおり「次はない」と心しなければならない。

「奥の部屋が空いてるから飲むならそこで飲みなさい。服を取ってきてからね。」
「ああ、そうする。」

 阿笠宅の隣にある自宅で服用しても良いが、両親は海外に居を移して不在で残る新一は組織から抹殺された存在だ。必要以上に自宅で目立つ行動を取ることは、
組織に自分の生存を知らせる恐れがある。自分が生きていることを組織に知られれば自分だけでなく、阿笠や両親も、更には蘭も間違いなく消される。服用前から
限られた時間とチャンスを確実に生かせるかどうかを試されているのだ、とコナンは改めて実感する。
 コナンは急いで自宅に戻り、新一に戻った時に着用する服を数点見繕って阿笠宅にとんぼ返りする。脇目も振らずに玄関から灰原の居るリビングを駆け抜け、奥の部屋に
入ってドアを閉めて鍵をかける。愛読のファッション雑誌を広げていた灰原は、忙しないコナンを横目で一瞥すると硬く何処か悲しげな表情で小さい溜息を吐く。
部屋を完全に暗くしたコナンは服を脱ぎ、解毒薬Bタイプを服用する。
 固体が喉を通って胃に入ったのを感じた直後、コナンの心臓が破裂せんとばかりに大きく脈動し始める。続けて心臓に強い痛みが走る。鋭利な刃物で丹念に切り裂くような
痛みに、コナンは胸を抱えてうずくまる。やがてコナンの全身から白煙が立ち上り始める。心臓から全身に範囲を広げた激しい痛みに、コナンは目を見開いたまま
歯を限界まで強く噛み締め、痛みに堪える。灰原が忠告したとおりAタイプを服用した時より激しく強い痛みが休むことなくコナンを襲う。

「う、うがぁ・・・・!」

 獣の断末魔のような叫びをどうにか小さく押し殺すが、見開かれたコナンの瞳には何も映らない。視覚も聴覚も触覚も麻痺し、痛覚だけが感度を大きく増している。
コナンは叫びを懸命に堪えながら床をのた打ち回る。他人が観たら卒倒しそうな壮絶な光景だ。苦しむ声を灰原に聞かれまいとして叫びを押さえ込むコナンのプライドは、
絶え間なく襲う激痛によって徐々に切り崩されていく。全身が痛む。内側から焼かれるように熱い。

「うあああああああー!!」

 我慢の限界に達し、コナンは腹の底から絶叫し始める。リビングに居る灰原と自身の研究室に居た阿笠にも絶叫は届き、阿笠は驚いてリビングに飛び込んでくる。

「な、何事かね?!」
「生みの苦しみの真っ最中よ。」

 奥から続く人間のものとは思えない絶叫に動揺する阿笠に対し、灰原は不気味なほど冷徹に言う。阿笠宅は防音構造が施されているから爆弾でも炸裂しない限り
周囲に音が漏れることはないが、これだけの声量だと防音しきれないかもしれない。それもあるが、叫び声の主であろうコナンが解毒剤が作用し始めるより先に
死んでしまうのではないかと危惧する。
 猛獣の雄叫びのような絶叫を最後に奥の部屋からの苦悶の声は止む。静まり返ったリビングで阿笠は息を呑み、灰原は何食わぬ顔でファッション雑誌を捲る。
暗闇の中でうつ伏せになっているのは、コナンではなく新一。胸に刻まれた無数の引っかき傷が、激痛に苦しんだことを生々しく物語っている。コナン、否、新一は目を
見開いている。死んではいない。激痛の残響が若干残る中、新一は腕を手繰り寄せるように動かして視覚が戻った目に近づける。瞳に映る腕は幼児のものではなく、
青年のものだ。新一は仰向けになり、元の姿に戻ったことの安堵感に一時身を委ねる。

「は、半端じゃ・・・なかったな・・・。」

 安堵に身を浸し続けるわけにはいかない。新一は激痛に耐えた余韻で硬直して重い身体を動かして用意していた服を着る。白のシャツと紺のブレザーにズボンという
シンプルな装いで固めた新一は、これからの行動に向けた準備がどうにか整ったことに安堵して大きく深い溜息を吐く。

工藤新一で居られる24時間のカウントダウンは、既に始まっている・・・。


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